陰の実力者になりたくて! 七陰編SS   作:〇彪

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イプシロンとオリアナ王国と刑務所にいる姉

 <現代>

 

 イプシロンは今や有名なピアニストになった。

 

 オリアナ王国では有名で、既に顔パスで王宮に入れた。

 

 そもそもこの前のディアボロス教団との抗争で、既にシャドウガーデン、イプシロンの手の内となっていた。

 

 オリアナ王国に出店したミツゴシの自室でイプシロンはコーヒーを飲みながら思う。

 

「(我々もやっとここまで来たわね。)」

 

 シャドウ様に忠誠を誓い、裏の世界ではシャドウガーデンの第5席となっていた。

 700名を超える大規模な組織の、たった7名しかいない幹部だ。

 

「長かった。」

 

 まだまだ、終わりではない。シャドウ様が見ている先を、私も見据えなければならない。

 私の様な、理不尽な思いをする被害者を1人でも少ない社会を実現するために。

 シャドウ様、アルファ様の築いてきたシャドウガーデンの繁栄のために。

 

 

「イプシロン様、新しいコーヒーをお持ち致しました。」

 

「ありがとう。」

 

 秘書を務める構成員がコーヒーを入れてくれる。

 

 イプシロンが座っているイスは豪華なもので、クッションが心地よい。

 イータの試作品であるというこのイスは、レバーを操作すると横になれるし、背筋を真っすぐにすることも出来る。

 

 ふぅ。とイプシロンは息を付き、机の上に置かれている手紙を見た。

 

「(どうしようかしら。)」

 

 手紙は姉からだった。

 返事は既に、1年間返せていない。

 

 <6年前>

 

 何不自由なく、それでも大きな責任のあるイプシロンの、過去は悲惨なものだった。

 エルフの小さな国の王女として生まれ、姉と2人で育った。

 姉は優しかった。イプシロンに似た、青い髪型をしていた。

 先祖代々幼児体系なのだが、姉はイプシロンや母と比べ、背が高かったからか、イプシロンと比べてモテていた。

 

「ヨージュはピアノが上手いわね」

 

「お姉さん、ありがとう。」

 

「貴方は立派なピアニストになるの?」

 

「そうね。そういう道も良いかもね!褒め上手なお姉さんは将来、素敵なお嫁さんになるわね!」

 

 うふふ、気が早いわよ。と笑いあった。

 

 幼少期、王女として育った2人は特に苦労せずに育ったと言っても良い。

 小さな国、それでも王族として周囲に敬われる。

 小さな森の中の小さな国。国民の数も100名に満たない。

 それでも、民に愛され、民を愛し育った。そんな国がイプシロンは大好きだった。

 

 あの日が来るまでは。

 

 ◆

 

 それはイプシロンが11歳になった時だった。

 

 国が、盗賊団に襲われたのだ。

 

 就寝した後の事だった。

 

 彼女は炎の熱さで目を覚ます。

 

「これは…?」

 

 えっ?えっ?と頭の中ではハテナばかりが浮かぶ。

 王宮と言えど、木造で作られたイプシロンの家は、燃やされていた。

 

 ベッドから上半身を起こし、周囲を見る。周囲が燃えていた。

 火の使い方、火をこんなに見たことなどない。イプシロンの頭の中は真っ白になっていた。

 燃えている火は、バチバチと火花が弾けていた。

 

 そこにヨーネが部屋に入って来る。

 

「ヨージュ!!!」

 

「おねえ…さん…!」

 

「襲撃された!逃げましょう!」

 

「お…ねえさん…お父様…お母さまは?」

 

「…良いから!早く!!」

 

「えっ!」

 

 急いでイプシロンを立たせる姉。イプシロンは手を引かれるがまま、姉について行った。

 

 

 森の中に入り、どれだけ走っただろう。

 追手は来ていない。2人とも寝間着で、裸足だった。

 

「はあっ、はあ。はぁ」

 

 必死に自身の出せる最高の速度で走る。

 

 すぐに息切れし、足が吊りそうになる。だが、それでも走る事は辞められなかった。

 

 見つかったら、殺される。それが分かっていたからだ。

 

「お姉さん!!…姉さん」

 

「しっ!話さないで!」

 

 2人は黙って暗闇の中を走った。

 

 森はイプシロンに何も言ってくれなかった。

 

 ◆

 

 2人は夜通し走った。

 足はボロボロで血が出ており、何度も転んだからか膝はもすりむいていた。

 

 何度も転ぶイプシロンを姉が立たせ、今度は姉が転び、イプシロンが立たせた。

 そうやって姉妹でなんとか近くのエルフの村へやってくることが出来た。

 

 日の光が2人を染める。

 

「姉さん。」

 

「ヨージュ…」

 

 2人は手を繋いだまま村の入り口で立ち尽くす。

 

 姉は泣いていた。だが、涙は既に切れていた。涙の後だけが、残っていた。

 

「お姉さん、お父様は…」

 

「…もう、この世にいないわ。」

 

「お母さまは…?」

 

「…」

 

 聞かなくても良かった。それでもイプシロンは聞かなければならなかった。

 2人の国は、その日の内に盗賊団に全滅させられたのだった。

 

 ◆

 

 村での生活は上手くいっていた。

 盗賊団にバレない様に、茶色の髪に染めて、前髪を伸ばし、目が見えない様にしていた。

 エルフのおばさん。彼女にお世話になっていた。

 

「いつも悪いわね、ヨージちゃん」

 

「いえ!こちらこそ、いつもありがとうございます。」

 

 木の実を取ってきたり、家事を手伝う事でおばさんの家に厄介になっていた。

 

 名前も変えた。ヨージと、姉はヨーンとなっていた。

 

 だが、村での生活が慣れた頃だった。

 

 村に盗賊団がやってきた。

 国が滅ぼされた時と同じ、火花が散る炎によって。

 その時の絵をイプシロンはよく覚えていた。彼らは魔道具の様なものを使い、火を出していたのだ。

 服装からどこの国かは分からなかった。だが、服装こそ様々なものの、野蛮な男たちがやったことなのは、一目瞭然だった。

 

「おい!まだ見つからねえのか!!」

 

「いません!」

 

「おーい!!ヨーネ!!王女様!!ぼやぼやしてたら、森が燃えるぞ!」

 

 そんな声が聞こえた。

 

 イプシロンと姉は、村に盗賊団が来ることをいち早く察し、逃げていた。

 

 エルフのおばさんもろとも、見捨てのだった。

 

 ◆

 

「お姉さま!!これが王族のする事ですか!?」

 

「…」

 

「他の…同胞を、見捨てる真似をするなんて…!!」

 

「…」

 

「信じられない!!こんなのお姉さまじゃない!」

 

「…仕方なかったのよ…」

 

 姉がボソッと口にする。

 

 エルフのおばさんの家では、2人は同じ部屋で寝泊まりしていた。

 盗賊団の来る夜、姉はイプシロンをどうしてもとこっそり散歩に誘い、逃げ出したのだった。

 

 イプシロンの耳に、遠くからエルフの悲鳴が聞こえて来た。

 エルフの悲鳴を背に、2人は逃げた。

 

 また、足がすりむき、何度も転んだ。

 

 <2年前>

 

 あれはまだ、イプシロンがオリアナ王国でシロンとして活動し始めた時だった。

 

 一枚の手紙が、みすぼらしい手紙がイプシロンの元へ届いたのだ。

 

 シロンへ。と他の手紙ならば、シロン様。だ。

 

 米粒でのり付けられた、雑紙。それを見た時にイプシロンは嫌な予感を覚えた。

 

 シロンとして活動し、新聞に小さい記事が載った。その1か月後の出来事だった。

 

[newpage]

 

 <5年前>

 

 エルフの村から逃げた後だった。

 

 1年間をかけ、2人はオリアナ王国の近くにいた。

 さすが、みすぼらしい服装で、都市内には入れない。

 王国の近くの廃れた小屋を拠点に、2人は生活していた。

 

「お姉さま!木の実を取ってきました。」

 

「ヨージュ、いつもありがとうね。」

 

 辛い思いをさせて、ごめんね。姉はいつも、そんな事を口にしていた。

 イプシロンは、姉に付いて行くしかなかった。

 この世に残った唯一の家族に、頼れる姉に。

 姉は、イプシロンの前では強くあった。

 小屋を見つけたのも姉であり、オリアナ王国へ向かおうと提案したのも姉だった。

 

 一度来たことがあった。盗賊団はエルフを狙っていた。

 だから、ヒューマンの統治するこの国は安全だと思っての事だった。

 

「小屋、綺麗になりましたね。」

 

「ええ。頑張ったわ」

 

 すくない布で、やっと掃除を完了させる。

 布団などない。雨露を凌げるくらいのものだ。

 エルフなら、森の中で最低限生活出来る。

 それでもここに森はない。草原と、河、そして小屋だけだった。

 

 それでもイプシロンは満足だった。

 

 ◆

 

 姉は考えていた。このままで良いのかと。

 妹にこんなつらい思いをさせたままで、良いのかと。

 

 妹は11才、姉は15歳になる。

 エルフはヒューマンと比べ、美しいと聞いていた。ヒューマンを見たのは、以前オリアナ王国に来た時と、

 盗賊団を見た時くらいだったが、自分の顔立ちは確かに整っていると感じた。

 

 床で寝ているイプシロンを見て思った。

 

「(良い貴族に取り入って、保護して貰えたら…)」

 

 ◆

 

 しばらくして、2人は拠点を移動した。

 オリアナ王国の領地の内、一つの小さな貴族の雑用を行った。

 彼らは騎士爵という貴族の末席にいる、国民に毛が生えたような存在だった。

 

 だが、優しかった。

 

 15歳の跡取りと、貴族の両親。

 彼らの日々出るゴミを処理する事で銅貨を貰い、麦を買い、食べていた。

 領内に小屋もあり、久々に布団の上で眠る事が出来た。

 

 イプシロンがいるから、姉はなんとか正気を保つことが出来ていた。

 イプシロンがいなければ、どこかで野垂れ死んでいたと思った。

 

 妹の存在に助けられ、妹も姉によって生かされていた。

 

 ◆

 

「ヨージュ。大丈夫?」

 

「お…姉様…」

 

 イプシロンの様子がおかしい。

 胸が苦しそうだ。

 数日前から胸に手を当てて苦しんでいた。

 それを姉は良く見ていた。

 

「…どうしたっていうの…」

 

「分かりません…ごめんなさい…。お姉さま」

 

 今日も寝ててよいわ。と口にし、家を出る。

 服、と呼べるものではない。布を纏い、貴族の家へ行く。

 貴族の家まで10分とかからない。

 貴族の家をノックする。

 

「ごめんください!ヨーンです。ゴミの回収に参りました。」

 

 はーい。と奥から声が聞こえる。

 やがて、扉が開かれる。

 

「いつもありがとう。はい、これ、お願いね。」

 

 中型の樽にはいっている生ゴミや、紙のゴミ類。

 

「かしこまりました。奥様」

 

「はい、後これ今日の報酬ね」

 

 姉の手に銀貨が渡される。

 

「お、奥様!これ!」

 

 いつもの銅貨ではない。姉は動揺した。

 

「良いのよ。いつもありがとうね。」

 

 扉が閉められる。

 扉が閉められたが、ヨーンは見逃さなかった。

 扉の奥に、いくつかの金貨があったことを。

 今日は領民の税が払われる日だった。

 

 ◆

 

 イプシロンの治療をしなければならない。

 それにはお金がいる。

 きっと、銀貨ではなく金貨が必要だ。

 イプシロンは治療をしなければ、近いうちに死んでしまうだろう。

 

 当然の論理だった。

 そして、たまたま近くに金貨があった。

 

 その夜、姉は貴族の家に忍び込む。

 

「…(大丈夫…気付かれていない)」

 

 鍵のない入口を姉は知っていた。浴室だ。

 浴室の場所は分かっていた。高いところにあるが、姉の身長ならば問題ない。

 入口は狭いが、姉の体格なら、なんの問題もない。

 問題なく入り込んだ。

 

 浴室にうっすらと張られている水に滑る事もなく、姉は部屋を出る。

 

 暖炉に燃えていた炭の匂いがする。

 

 どこかで誰かのいびきも聞こえていた。

 

 大丈夫だ。姉は確信する。

 息を潜め、潜入する。

 目指すはリビングだ。

 金貨は、金庫に入れられるかもしれない。だが、それは違う。

 この数カ月の間に姉は知っていた。明日は王宮から税の徴収で使いが来る日だ。分かりやすい場所に金貨はあるはずだ。

 この家の金庫は壊れている。跡取りの長男が、姉に聞かせてくれたものだ。

 

 そろそろと浴室から、リビングへ移動する。

 そんなに広い家ではない。

 キッチンで水が張っているのだろうか。水が滴っている音がやけに大きく聞こえる。

 

 ピチャン…ピチャン…

 

 やがて、リビングにあるテーブルまで来た。

 今日は月が出ていて、明るい夜だった。

 

 テーブルの上に、麻袋があった。

 これは、税の徴収の時に、王宮の使いに渡していたものだった。

 

 姉は麻袋を掴んだ。

 

 その瞬間だった。

 

 ガッ!!!

 頭を鈍器で叩かれた。

 

「みんな!!起きろ!!盗賊だ!!!騎士を呼べ!!!」

 

 良く知っている。同い年の跡取りの声だった。

 

 ◆

 

 姉様はしばらく帰って来なかった。

 

 イプシロンは家でぐったりしていた。

 空腹を紛らわせるために石を口にする。

 

 そうして、騎士が1人来て、姉が盗みを働き、未遂のまま騎士に連行されたと耳にした。

 

 イプシロンの姿を見た騎士は、始め連行しようとしたが、「こいつはもうすぐ死ぬ」と判断し連行しなかった。

 隊長の様な騎士と、3人の騎士がイプシロンの小屋に来ていた。

 騎士爵の貴族も3人の後ろからイプシロンを一瞥し、それで良いと結論を出した。

 

 イプシロンに声をかけるものはいなかった。

 騎士達の話の中で、姉が騎士爵家に強盗に入り、捕まったと聞いた。

 死刑にはしない、しばらく刑務所だ。

 と、刑務所に行ったことを知った。

 

 騎士爵家の優しい母が思い浮かんだ。

 跡取り息子と談笑する姉の顔が浮かんだ。

 

「姉…様…」

 

 イプシロンは1人になってしまった。

 

 

 ◆

 

 

 騎士に話を聞いた夜の出来事だった。

 

 村が、また盗賊団に襲われた。

 炎に火花が散っていた。同じ盗賊団だった。

 

 イプシロンに逃れる気力はもうない。

 胸が痛む。下を見ると、胸から首にかけ、黒いブロで覆われていた。

 もう既に、人ではないのかもしれない。腕もほとんどが黒いブヨで覆われていた。

 

 私は死にぞこないだ…

 

「あ…あ…」

 

 頭が動かない。何も考えられない。涙も出ない。空腹は痛いほど感じるが、動く事も出来ない。

 

 お母さま、お父さま、ごめんなさい。

 

 エルフのおばさん。見捨ててしまって、ごめんなさい。

 

 お姉さま…私を、救おうと、罪を犯してしまったの…それなのに…。私は…。

 

 

 <現代>

 

「イプシロン様?」

 

「…」

 

「イプシロン様…?」

 

 秘書に声をかけられ、正気に戻る。

 

「あぁ、ごめんなさい、考え事をしていたの。」

 

 さようですか。と言い、秘書は続ける。

 

「あの…急かす様で申し訳ないのですが、辺境伯様から、オリアナの刑務所の演奏の件で日程の返答をと…使いの方が…」

 

 手紙の内容だった。

 

 オリアナはシャドウガーデンがディアボロス教団のラウンズを討伐してから状況が変わった。

 争っていた派閥が全て王女派に寝返った。

 そうして、各貴族がこぞって民衆の支持を集め始めたのだった。

 そんな貴族から、オリアナで人気のあるイプシロンに依頼が入るのは当然だった。

 

 辺境伯はイプシロンの超太客だった。

 状況が変わる前から、イプシロンの演奏を好み、しばしば領地で演奏の依頼をしていた。

 それが、今回は刑務所での演奏会。

 どういう風の吹き回しかは分からない。

 民衆の支持があがるとは到底思えない。だが、シャドウガーデンの意向を受けたローズの指示もあり、

 刑務所はより娯楽を増やす傾向だと聞いた。シャドウの意向に沿ったものだ。

 直接シャドウが指示した訳ではない。

 彼の優しさを知るアルファが、オリアナの刑務所の過酷さを知り、言及したものだと報告書で聞いていた。

 

「それと…差し出がましいのですが、あの手紙は読まれたのですか?…」

 

 秘書が恐る恐る聞いてくるのは、長らく放置されていた手紙のことだった。

 

 イプシロンはしばらく逡巡した結果

 

「まだ…読んでないわ…」

 

「し、失礼いたしました…!」

 

 秘書が頭を下げて部屋から出ていく。

 

 姉からの手紙だった。

 1枚の紙で作られた、銅貨1枚で届けられる。

 大体到着するのに1カ月はかかるが、雑紙1枚を折りたたみ、丁寧に折りたたまれた手紙だったが、糊付け部分は米を潰したものだった。

 封筒はない。工夫をして読まれない様にしているのだと見える。

 

 手紙は、オリアナの刑務所からだった。

 

 <4年前>

 

 イプシロンは陰の実力者と会った。

 

 燃え盛る炎が、小屋を侵食する。

 領民の叫び声、盗賊団の叫び声が聞こえる。

 

 炎は火花を散らしていた。

 

 また、いつもと同じように皆が死んでいく。

 

 騎士団らしき人の声。領民を守ろうと果敢に攻める声。それでも騎士がやられて行く。

 イプシロンにはそれが分かった。

 

 もう…終わりだ…

 

 ぼんやりとする頭の中で、それだけを考えた。

 

 やがて開けられる小屋の扉

 

「おい!こっちにいたぞ!!」

 

「…」

 

「こいつだ!間違いない!ヨージュ王女だ!!…でも…こんなのが欲しいのか?もう死にぞこないだぞ!?」

 

「うるせえ!黙って確保しろ!!!」

 

 盗賊が2人小屋へ入って来る。

 

 その時だった。

 

 

「お兄さんたち。その子は僕が貰う」

 

 場違いな子供の声だった。

 

 そこにいたのは、全身を黒い服で包まれた、少年だった。

 イプシロンよりも小さいだろう。

 だが、見てわかる圧倒的な強者。

 というより、美しい紫色の魔力は、強者という概念すら超越して見えた。

 

 なんと神々しいお姿…彼は……??

 

「なんだお前!!」

 

 切りかかる盗賊。だが、次の瞬間盗賊の頭がはじけ飛ぶ。

 

「我が名はシャドウ。陰に潜み、陰を狩るもの。」

 

「シャ!シャドウだと!?お、おい!お前!!」

 

「わー、モブらしい反応ありがとう。だが…さようなら。」

 

 もう1人の盗賊が屠られる。

 

「おや?こいつ変なもの持ってるな。」

 

 イプシロンは見た。屠られた盗賊の持っていた魔法具を。

 アレは、火を起こすものだ。

 手のひらサイズの四角で出来た銀色の板に、ボタンが付いているものだ。

 

「あ…あ…」

 

「ん?喋れるの?まぁ良いや。こんなもの…ホイっと」

 

 バキィっと音がした。魔法具は粉々に砕け散っていた。

 

「ダメ押しだ」

 

 少年は両手を開いたかと思うと、どこまでも黒い円形の魔法を出す。

 ずっと見てると吸い込まれそうになるその魔法は、魔法具にあたると、魔法具を砂より細かい粒子に変えていった。

 

「ふぅ。」

 

 少年は息を吐き、ツカツカとイプシロンの元へ歩いてきた。

 

 ぼんやりとした頭の中で、その瞬間だけははっきりと覚えている。

 彼はイプシロンを安心させるよう、微笑んでいた。

 

「もう大丈夫」

 

 紫色の魔力に当てられ、数秒後にイプシロンの悪い部分が消えていた。

 ブヨブヨした肉片が、元の肉体に戻っている。

 そして、力が、漲って来る。

 紫色の魔力とイプシロンの魔力が混ざり、大きくなっていると感じた。

 

 イプシロンは少年の顔を見る。

 

 うわぁ……カッッコいぃぃ…

 

 一目惚れだった。

 

「あ…。あの…。ありがとう…ございます。」

 

「いーよ。別に。あ、ちょっと待っててくれる?」

 

 そういうと彼は右手を上に向ける。周囲の炎をまたたくまに鎮火する。

 

「シャドウ!!こっちは終わったわよ。」

 

「アルファ。早かったね。」

 

「騎士も皆、やられていたわ…。その子は?」

 

「探していた悪魔付きだ。既に治療はした。僕は周辺を見て来よう。君はこの子を頼む」

 

「流石ね。分かったわ」

 

 シャドウがイプシロンの元を離れていく。

 掴もうとしたシャドウの袖を、寸さで掴めなかった。

 金貨だ金貨だとボソッと聞こえたのは気のせいだろう。

 

「貴方、私が見える?」

 

 エルフの金髪の少女だった。

 

「あ…はい。あの…あなたは…?」

 

「私はアルファよ。あなたは我々、シャドウガーデンが保護するわ。」

 

 頭が追いつかない。が、聞かなければならない事がある。

 

「あの…あの方の名前は…?」

 

「彼は、シャドウ。私たちの主よ」

 

「…シャドウ…様。」

 

 これが、イプシロンとシャドウの出会いだった。

 

[newpage]

 

 <2年前 姉からの手紙>

 

 拝啓 ヨージュへ

 

 お元気ですか?というのも変な話かしら。

 貴方の記事をみてから、いてもたってもいられなくなって手紙を出しました。

 シロン…あなたはヨージュよね?

 

 私は刑務所で元気。とは変な話ですが、刑とは言ってもそんなに大変なものではなく、頑張って生きてます。

 

 あなたが元気でやっていると知って、嬉しかったわ。

 お返事貰えると嬉しいです。 ヨーネ

 

 ◆

 

 拝啓 ヨージュへ

 

 お元気ですか?というのも変な話かしら。

 返信を貰えなくて寂しいです。

 ヨージュじゃないなら、違うと返事をして貰えると、嬉しいです。

 でも、シロンは人気だから返事をする時間はないかしら。

 読んでもらえないと悲しい。でも、返事をくれなくても、読んでもらえたら嬉しいわ。

 

 貴方は元気でやっていますか?

 私は、こっちに来てからもう2年が経ちました。

 私たちが離れ離れになってから、同じく2年が経ちますね。

 

 両親のいる国が滅んでから5年。

 当時11歳だったあなたも16歳。まもなく17歳になりますね。

 私は20歳になりました。結婚しても良い年ね。

 看守に人気の男の子がいるの。可愛いのよ。

 あなたは好きな子とかいるの?

 

 日々、羊や牛の世話をしています。

 個体事に性格が違くて、楽しいわ。

 

 お返事待ってます。 ヨーネ

 

 ◆

 

 拝啓 ヨージュへ

 

 お元気ですか?こっちはすっかり寒くなりました。

 1週間に一度のお風呂の時間がいつも待ち遠しいのだけれど、

 寒いから複雑な気持ちになる。そんな日ね。

 貴方は寒くないかしら?

 

 私の作ったミルクや、羊の毛皮の服が売られているみたいです。

 ミルクや毛皮の服を見たら買ってみて下さい。

 もしかしたら、私の作ったものかもしれません。

 元気でやっていますか?お返事待っています。 ヨーネ

 

 ◆

 

 拝啓 ヨージュへ

 

 お元気ですか。

 あなたの事、最近よく聞く様になりました。

 とは言っても支給される新聞を回し読みで見るくらいのものですが。

 大丈夫。私の妹だって、言ってないわ。

 囚人の妹だって知られたら、活動し辛いものね。

 

 やっと、お風呂の待ち遠しい季節になりましたね。

 元気でやってますか?お返事まっています。 ヨーネ

 

 ◆

 

 <約1年前 イプシロンからの手紙>

 

 拝啓 姉様へ

 

 お久しぶりです。

 こちらは元気でやっています。

 あなたも元気に過ごして頂けると嬉しいです。

 

 正直、どの様な顔で接すれば良いのか分からなくて。

 お返事出せなくてごめんなさい。 ヨージュ

 

 ◆

 

 <約1年前 姉からの手紙>

 

 拝啓 ヨージュへ

 

 お返事ありがとう。

 まさか貰えるなんて思わなくって、嬉しいわ。

 オリアナ王国での演奏会、おめでとう。新聞で知りました。

 姉として鼻が高いわ。

 あなたは子供のころからピアノが好きだったものね。

 夢が叶ったのを嬉しく思います。

 あなたには、まだまだよ、姉様。と言われるのだとは思うけれど、

 それでも嬉しいの。

 

 暑くなってきましたね。この時期のお風呂は最高ね。

 最近お風呂だけでなく、羊や牛のお世話をしながら河で水浴びをしています。

 水浴びは良いわ。あなたもやってみてね。 ヨーネ

 

 ◆

 

 拝啓 ヨージュ様

 

 お元気ですか?

 しばらく返事を貰えなかったから、変な事言ったのか心配だったの。

 気を悪くしたのならごめんなさい。

 

 ところで、演奏家として名乗る時はシロンと言っているそうだけれど、

 名前の由来はなんなのかしら?気になるわ。

 

 お返事まってます。 ヨーネ

 

 ◆

 

 <約1年前 イプシロンからの手紙>

 

 拝啓 姉様

 

 お返事遅くなって申し訳ありません。

 私は元気にしています。

 

 しばらく返事が出来なかったのは…

 私はあなたに見捨てられたと思っていたからです。

 

 すみません。正直に言います。

 手紙が来る度、苦痛でした。

 刑務所にいるのなら、貴方は悪いことをしたんだと、反省すべきだと思います。

 

 私は元気でやっています。

 姉様もお元気で、返事は不要です ヨージュ

 

 ◆

 

 イプシロンは悩みに悩んだ結果、姉に手紙を出した。

 

 イプシロンは、モヤモヤを抱えたままだった。

 既に彼女は、彼女の地位は、元の王女の地位と比べても高いものになっていた。

 シャドウ様の活動の足を引っ張る訳にはいかない。

 

 それに、姉に見捨てられたのも事実だ。

 

 返事は不要だと伝えたにも関わらず、返事は来たが、ゴミ箱に捨てた。

 

 ◆

 

 それから手紙は来なくなった。

 

 捨てられたつもりだった。

 イプシロンにとっては忘れたい過去。

 イプシロンは既にシャドウガーデンの幹部として、思い重責を担っている。

 

 今と当時を比べたくない。

 過去に、縛られたくない。

 

 ◆

 

 新しい楽曲製作が出来ず、外の喫茶店から帰って来た時だった。

 

 机の上に、捨てたはずの手紙が置いてった。

 

 イプシロンは不思議に思うと共に、やっぱり嫌な気持ちになった。

 秘書を呼び出す。

 

「あなた、ゴミ箱から手紙を取ったでしょう?」

 

「…」

 

「…もう。なんでこんなことするの…?」

 

「…申し訳ございません。」

 

「理由を聞いているのよ!!」

 

 罪もない秘書に声を荒げる。

 

「イプシロン様が…この雑紙を読んでいる時の表情が…気になってしまいました。」

 

 ハッとした。

 どこか嫌な顔をしながらも、姉からの手紙を読んでいた自分を、秘書に見られていたのだ。

 

 秘書は続けて言う。

 

「同じ方からの手紙ですよね…」

 

「…」

 

「イプシロン様。年の功。ではないですが、私にも嫌な過去の一つや二つあります。」

 

「…。」

 

「きっと、目を背けてはいけない。そんなモノだと、私には思えました。」

 

 ほぼ毎月届く、その紙は、恒例行事となっていた。

 なぜ毎月1度しか届かないのか。

 それは、刑務所の囚人が1月1枚の銅貨しかもらえず、手紙を運ぶのに銅貨1枚必要だからだ。

 

 毎月届いては渡し、イプシロンに嫌な顔をされるものの、

 隙をみて雑紙を読んでいるイプシロンを見て、嫌な顔をされるとは分かっているが、渡していたのだ。

 渡さないという選択肢もあった。

 だが、彼女はそれが出来なかった。

 

「…分かってるわよ」

 

 シャドウガーデンに入る時は過去を捨ててから入る。

 もともと悪魔付きは治療されなければ死ぬのだ。

 既に死んだと言い聞かせ、今の活動に専念する。

 だからこそ、皆は同じ共通点をもっている。秘書もそんな構成員だった。

 

 イプシロンは七陰として、皆の模範とならなければならない。

 ルールを作る側の人間が、ルールを破ってはダメなのだ。

 

 イプシロンは16歳と、皆より若い。というより七陰は皆若い。

 若い時から悪魔付きになった優秀な人材ともいえる。だが、その分未熟な所はあった。

 いや、この場合は未熟だと思われる存在のまま、姉におせっかいを焼かれている。

 と言っても良いかもしれない。

 だが、幼少期に慕ってきた姉。

 一緒に生き延びてきた姉を、どんな理由があれど、妹を見捨てた姉を。

 イプシロンは許すことは出来なかったのだ。

 

 許せない姉に送った返事を。

 またその返事をゴミ箱から拾ってきた秘書に、ありがとうというでもなく。

 

 イプシロンは姉から来たおそらく最後の手紙を、保留にした。

 

 

 ◆

 

 

 <現代>

 

「シロン様、刑務所での演奏をお願いできないでしょうか?」

 

 辺境伯にそんな事を言われたのは、手紙を読めないまま1年間経過した時だった。

 イプシロンは17歳になっていた。

 

「辺境伯様…?なぜ刑務所で?」

 

 目の前にいる辺境伯は良い貴族だった。

 ローズとも親しく、元々ローズ派の大貴族だった。

 駆け出しのころからイプシロンを見つけ、大きくしてくれた恩もある。

 無下にする事はできなかった。

 

「私は辺境伯ですから、広い領地を持っておりまして、オリアナ刑務所もその一つなのです。」

 

「はぁ」

 

「オリアナ刑務所は、長い刑期の囚人ばかりなのですが、いやぁ最近悪い事する者はことごとく抗争で亡くなりますので…ははは」

 

「はぁ」

 

 こほん。と辺境伯が咳払いをする。

 

「…最近ルールが明確化され始めて、ちゃんと裁かれるようになってきましたが、まだまだです。シロン様はご存じでしょうか。以前は騎士団が絶対的な法を司っていたと」

 

 まぁ、どこもそうだろう。裁判所という概念を作ったのも最近だ。

 もとは小さい争いがあったとしても、騎士が悪と言えば悪だし、正といえば正だった。

 当然、貴族と農民の争い事ならば、貴族が悪いとしても農民を悪として裁いていた。

 

 それが現状だった。

 

「つまり、罪のない人が、刑務所で囚人として刑を全うしている可能性が、高いんです。」

 

「…なるほど。」

 

 イプシロンがコーヒーを飲む。

 

「もちろん、全員だと言いません。ですが、変革前の刑は騎士が勝手に決めてました。刑期も適当、罰も適当。罪も適当。今更調べようがありません。騎士は半分が例の抗争で亡くなりましたから…。」

 

 最近あった、黒き薔薇の事だ。

 

「で、そんな囚人達に、娯楽をと、そういうお考えなんですか?」

 

「はい。オリアナの刑務所は、刑期の長い囚人ばかりです。脱獄しようとするとすぐに殺されます。皆、真面目に刑を全うしている。」

 

「…はぁ」

 

「彼らの多くは、月に1枚の銅貨を、自分のためでなく寄付に使います。オリアナの孤児院に向けて。我々も資金が潤沢にあるわけではない。大人たちが、子供のためにお金を使ってる。正直、彼等には助けられています。」

 

「…はぁ」

 

「彼らは良く、刑を全うします。この前視察に行きましたら、皆、挨拶はしてくれませんけど、家畜は元気で、丁寧にお世話をしていると思いました。羊や牛も楽しそうで。シロン様は見た事ありますか!?羊が笑うんですよ!あんなに懐く羊は見たことありません!」

 

「…分かりました。その依頼、受けさせていただきます。」

 

「囚人の作った米を食べたことありますか!?美味しいんですよ!我が領は稲作もさかん…は?今、なんと??」

 

「依頼を受けると、言いました。」

 

 ありがとうございます!と辺境伯が頭を下げる。

 ここまでする必要はない。彼はイプシロンに多大な恩恵を与えている。

 ここにベータがいたらジト目でイプシロンを見るだろう。

 

「では、日付の打ち合わせを、お願いしたいのですが…。」

 

「打ち合わせは秘書とお願いいたします。秘書も当日、司会として同行しますので。」

 

[newpage]

 

 刑務所は石造りだった。

 オリアナの王都から馬車で3日間と、離れていた。

 広い敷地を5メートルはあるだろう石垣が囲んでおり、数名の警備員が周回していた。

 

 馬車で揺られながらの道中、秘書とはほとんど会話らしい会話をしなかった。

 

 いつもと違うイプシロンに、秘書だけは気付いていた。

 

 道中泊まった街でホテルで、イプシロンは持って来た手紙を、意を決して読んだ。

 

 

 ◆

 

 <1年前の姉からの手紙>

 

 拝啓 ヨージュ様

 

 お返事ありがとう。

 ごめんなさい。あなたの気持ちに気付かなくて。

 あなたの言う通りよ。

 手紙はこれで最後にします。

 

 お元気で。あなたをいつまでも、愛しています。 ヨーネ

 

 ◆

 

 

 秘書にはしばらく1人にして。と言い、部屋で1人、俯いていた。

 

 

 ◆

 

 

 辺境伯に連れられ、刑務所の中に入る。

 

 辺境伯はイプシロンと護衛を連れ、会場に向かう。

 

「今年から1年に一度はこういった娯楽を開催する予定なんですね。」

 

 辺境伯がイプシロンに声をかけながら歩く。

 

「今日は記念すべき第一弾。ということで、皆を集めさせていますが、シロン様が来るとは言っておりません。」

 

 辺境伯は上機嫌だった。

 

「今オリアナで一番有名な音楽家が来るとなると、皆も喜ぶに違いありません。」

 

 辺境伯の説明に、イプシロンは刑務所の中を見ながら歩き、聞いていた。

 

 本当に質素な場所だ。だが、清掃が行き届いている。

 

 石造りだからか、頑丈なつくりをしている通路。刑務所だから当然と言えば当然だが。

 水場に乾かしてある雑巾がボロボロで、同じ雑巾を繰り返し使っているという事が分かる。

 

 遠くでは羊のなき声が聞こえて来た。

 毛がふさふさだった。そろそろ刈られるのだろうか。イプシロンの方を見て鳴いているのは気のせいだろうか。

 確かに、鳴き声が良く響く。

 牛も見た。毛玉のない、毛艶をしているように見えた。

 家畜は満足そうに生きていた。

 

 いつもは刑のために動いているであろう囚人がおらず、酷く静かな風景だった。

 

 不気味だと、イプシロンは思った。

 

「こちらです。ピアノは設置してあります。」

 

 ここは普段は食堂なのだろうか。テーブルやイスは取り払われ、人が立って密集していた。

 1,000人以上はいるだろう。

 日のさす小窓が少なく、音を響かせるためだろうか、扉は閉まっており、薄暗い。

 簡易的に作られた高いステージの真ん中にピアノがあった。

 ピアノを弾く場所だけ、くっきり見える様に調整された様だった。

 

 異様な光景だ。とイプシロンは思った。

 1,000人の老若男女が、ステージを見て、黙って立っていた。

 

 イプシロン達が、彼らの見ている方向の逆側の扉から入っても、誰も振り向かない。

 

 ステージに近寄りながら、イプシロンは囚人を眺める。

 

 ヒューマンにエルフ、獣人もいる。

 

 囚人

 

 それがどれだけ重い存在なのか、イプシロンは分からなかった。

 

 辺境伯と護衛と、秘書がステージの端による。

 イプシロンは皆に隠されていた。

 

 やがて、秘書が真ん中に立つ。

 

「皆さま、お集まりいただき、ありがとうございます。我々は辺境伯様より依頼を受け、ピアノの演奏会を行うものです。短い時間ですが、どうぞよろしくお願い致します。」

 

 若い女性の声が通る。秘書はイプシロンのマネージャーを兼任している。

 こういった司会業も慣れていた。

 

 通常であれば拍手が起こるのだが、拍手は起こらない。

 異様さが際立っている。と秘書も思った。

 

「今年から、1年に1度の娯楽を行うと、聞いております。我々も少しではありますが、皆様の日常を彩る手助けが出来れば。と思っております。」

 

 秘書は考えて来た話題を切り上げる。長く話していたら逆効果だ。

 

 秘書は思った。どの演奏会の中でも異様で、不気味だと。

 

 刑に服してなければ、談笑する機会も多いのだろう。見たところ様々な人種、複数の年齢の男女がいる。

 罪を犯したという理由で、笑う事も許されないのか。

 彼らは娯楽という存在そのものを禁止されている。

 そう思えた。

 それはつまり、模範囚が多いとも言えるし、それだけこの刑務所が凄惨な仕打ちをしている。とも言い換えることができる。

 

「では、登場して頂きましょう。ピアニストの、シロン様です。」

 

 秘書が深く頭を下げ、イプシロンと入れ替わる形でイプシロンがステージの中央に立ち、深く礼をする。

 

 拍手は起こらない。

 秘書の時と同じだ。

 

 ステージと言ってはいいか分からない広間の、壁には看守がおり、囚人を囲んでいた。

 看守も囚人同様、寡黙だった。

 

 囚人は皆同じ白い服を着ていた。

 皆、虚な目でイプシロンを見ていた。

 

 辺境伯のいる、今イプシロンが来た側に礼をする。

 

 辺境伯の満足そうな顔が目に入った。

 

 そして、恐らく刑務所の責任者のいるであろう、反対側の壁にも礼をする。

 

 一層豪華な服を着て、剣を帯刀する、厳かな青年だった。

 彼が小さく返礼するのが見えた。

 

 何も考えるな。

 

 ピアノ台の前に行き、椅子に座った。

 

 手紙のことを、考えるな。

 

 弾くのは、月光。我らを象徴する。誇り高い楽曲。

 

 楽譜はなくても問題ない。

 

 姉様のことは、考えるな。

 

 どこかに姉様がいるなど、考えてはならない。

 

 

 グランドピアノの演奏を開始した時だった。

 

 囚人の1人が、後ろの方だった。

 

 顔を俯いた。

 

 小刻みに震えている。

 

 背の高いエルフの女性だった。

 

 皆と同じ、白い服を着ていた。

 

 髪は、美しく青い髪だった。

 

 男性程ではない、短く切られていた。

 

 声が出そうなのを我慢しているのだろう。

 

 嗚咽は聞こえない。

 

 目立たないようにしている彼女は看守にもバレていない。

 

 ピアノの演奏を開始する。

 

 既に、イントロを引き始めた。

 

 

 

「…シロンさま…?」

 

 

 辺境伯が口にする。

 

 

 どうしてもイントロから次が続かない。

 

 

 

 指が…イプシロンの指が…どうしても動かなかったのだ。

 

 どうしても。

 

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