オグリキャップは稀代のアイドルウマ娘だ。
この言葉に異論があるウマ娘ファンはいないだろう。むしろ、これまでレースに興味がなかった者にもその名を轟かせ観客の動員数をハネ上げたのがオグリだ。URAの歴史はオグリ以前と以後に分かれるとする関係者もいる。
そして、つい昨年トゥインクル・シリーズ最終レースとなる有マ記念で伝説を残したオグリが誕生日記念イベントを開催するとなれば、数百万人を超えるファンクラブ会員が会場であるトレセン学園や各地のライブビューイング会場に詰めかけるのは必然だった。ネット配信も抽選に漏れたファンクラブ会員や一般の視聴者で賑わっていた。
学園の一番大きなライブステージでは進行役のタマモクロスとシンボリルドルフが、注意事項や案内を観客に説明していた。ルドルフが善意で差し挟むダジャレにタマモクロスがツッコむことで意図せずして漫才のようになる二人のやり取りは好評で、笑いが収まるまで次の言葉を待つ場面が何度かあるほどだった。
その盛り上がりに一番驚いているのは他ならないオグリ自身だった。
「これは……すごくたくさんの人が来てくれているんだな。ライブビューイングもやるとトレーナーに言われた時は大げさだと思っていたが。力を貸してくれたイナリやオペラオーにも改めてお礼をしたいな」
目を丸くするオグリは、それだけたくさんの夢を背負って期待に応えた結果だとトレーナーに言われ、嬉しそうに微笑んだ。
「改めてありがとうトレーナー、この場を用意してくれて」
そしてオグリは袖からステージに出た。爆発が起きたかのような歓声にウマ娘たちは耳を塞いだ。
「おうオグリ、見ての通り会場は温めといたで。焼きたてのたこ焼きくらいアチアチや」
会場から再び笑いが起こり、ルドルフはタマモに羨望の眼差しを向けた。
「ありがとうタマ、ルドルフ。私一人だと上手く話せるか分からないから、二人がいてくれてとても助かる」
「構わないさ。私もこの大役を任せてもらったことを友として、そして君のファンの一人として光栄に思うよ」
ルドルフに向けて歓声が起こり、ルドルフは軽く手を挙げて応えた。
「せやなあ。ルドルフは今の前説で一生分の笑い取ったやろ」
「一生分? おいおいそれはないだろうタマモクロス」
「お? なんや文句でもあるんか?」
タマモが腕まくりをして詰め寄り、一触即発の雰囲気にオグリと観客は固唾を飲んだ。
「何度生まれ変わっても足りないよ」
皇帝渾身の自虐ネタであった。一瞬遅れてドカンと会場が湧き、大きな笑いと拍手がステージを包んだ。
「ほら、そろそろ主役に譲らんと」
感動で身を震わせているルドルフを引きずってタマモクロスは司会台の前についた。袖からエアグルーヴがそっと差し出した踏み台に複雑そうな表情を浮かべて乗った。
「えー、本来ルドルフの担当箇所やけど使いモンにならなそうやからウチが進行しますわ。本日はオグリキャップの誕生日パーティにお集まりいただきおおきにです。ほなオグリんから挨拶~」
照明が切り替わりオグリを照らし出す。勝負服の星が眩しく煌めく。
「今日は集まってくれてありがとう。オグリキャップだ。よろしく頼む」
せーの、と最前列の数人のファンの合図で会場全員が声を合わせて、「お誕生日おめでとう!」と空気を震わせた。
「おお……」
びりびりと内臓に響く祝福を、オグリは体全体で受けた。
「すごい一体感やなあ」
タマモクロスが吐いた感嘆のため息は土砂降りのような拍手にかき消された。
「ああ。合図を出していたのはカサマツの人々だな。羨ましい……という感情すら湧かないよ。あまりに前人未到の境地で競う気持ちにもならない。唯一抜きんでて並ぶ者なし……それを体現する一つの形だ」
音の衝撃で正気を取り戻したルドルフがしみじみ言った。
「アンタもオグリに惚れとるクチか。そんなんじゃドリームトロフィー勝てへんで~」
「ふふ、ありがとう。だがそれとこれとは話が別だよ」
一瞬、タマモクロスとルドルフは鋭い視線を交わし合った。そして二人とも笑みを浮かべ正面を向き直った。
ちょうど、ファンの拍手が鳴りやみオグリが話し始めようとしていた。
「ありがとう。皆の言う通り、今日は私の誕生日なんだ。今までも誕生日は皆にたくさん祝ってもらった。でも、私が今こうしてここで生きているのは皆のおかげだ。トゥインクルシリーズを走り終えて改めてそう思った。育ててくれた母や故郷の人たち。中央に呼んでくれたルドルフや何度も競い合ったライバルたち、私を支えて強くしてくれたトレーナー。そして私を応援して力をくれたファンの皆。他にも私に関わった全ての人たち。だから今日は私から皆に感謝を伝える、そんな日にしたいと思っている」
オグリが話し終わって深く頭を下げると、観客席からオグリコールが起こった。シンクロするように全国のライブビューイング会場やPCやスマホのモニタ前で誰もがオグリの名前を呼んだ。届くはずのないその無数の声を、しかしオグリは確かに受け取った。そして声の主たちも確かに自分の声が届いたと感じた。
観客が落ち着くとイベントは事前に練られたプログラム通りに進んだ。レース映像をトレーナーと振り返り、ファンとの交流、そしてライブ。イベントの間、オグリは本会場だけで数万人いるファンと配信カメラに可能な限りファンサービスを届けた。
「なんや慣れた感じ出とるなあ。初めて会った時は田舎の灰被りやったのに」
「確かに。豪胆無比の強心臓は元々の素質だが、パフォーマンスの質も飛躍的に上昇しているように見受けられる。このプログラム組みも見事なものだ」
オグリがセットリスト通りに歌い終わって水分補給をしていると、進行の二人が声をかけた。
「ああ……ファル子とタルマエに協力してもらったんだ。二人とも私をアイドルの先輩と言ってはくれるが、学ぶことばかりだ」
オグリはケータリングのハスカップロールケーキを一本食べた。
その後は目玉イベントのファン投票ライブだった。予めセットリストに入っていた曲以外の、中央のウイニングライブに使用される全ての曲から事前のファン投票で選ばれた曲でライブを行う。
大きなスクリーンに結果発表の映像が流れる。焦らして煽る間、タマモクロスとルドルフが話し始めた。
「何が1位で選ばれるんやろな。まーウチの本命予想は『NEXT FRONTIER』やけど。やっぱラスト有マの印象強いやろ」
「私は『Make debut!』が見たいな」
「逆に? あー確かに中央デビューちゃうから歌ってへんのか。渋いなあ」
「私も何の曲が選ばれたのかは知らないんだ」オグリが言った。「トレーナーが準備してくれたから。授業で全部の曲を練習しているから何が来ても大丈夫ではあるが──」
ドラムロールが終わり投票結果が発表され、オグリは口を開いたまま固まった。
選ばれたのは『winning the soul』。数十票の僅差で『NEXT FRONTIER』が二着。
『winning the soul』はクラシック三冠のいずれかを戴いた者だけがセンターを務める、全てのウマ娘の憧れである特別な曲だ。当然、クラシックに出てもいないオグリにライブでの歌唱経験はない。
歓声とどよめき半分ずつといった割合の声が観客席から上がった。
「ででーん! ちゅうことで1位は『winning the soul』や!」
タマモクロスが言って、観客はどこか緊張感を漂わせながらも拍手を送った。
「そー来たか。おもろいやん」
タマモクロスは犬歯を見せて笑った。
「やはり、と言うべきかな。こうなると思っていた」
ルドルフは腕を組んで頷いた。
「ちょいちょい! 後出しやないか。さっきは──」
「私は“見たい”としか言わなかったはずだよ」
「ずっこいわー」
そう言いつつ、ルドルフが嘘をついていないことはタマモクロスも理解していた。オグリのダービー騒動は今でも語り草だ。ファンがこの曲を見たいと望むのも自然なことだろう。
「しっかしこれはチョイ荒れるかもなあ」
タマモクロスが誰に言うでもなく言った。
「過去のレースに“もしも”はなく、未来のレースに“絶対”はない。分かっていてもそれを望まずにいられないのは人の性か、業か。どう思うオグリキャップ? 何を見せてくれる?」
届くはずのない呟きと共に、ルドルフは静かにオグリを見つめた。
「ええと、これは……そうか」
オグリは何を言うべきか戸惑っていた。
「オグリさん」
その肩に手を置いたのはオグリの同期でクラスメイトのヤエノムテキだった。
「ヤエノ」
「まず祝辞を。お誕生日おめでとうございます。そして貴方との出会いに感謝を」
ヤエノが差し出した右手をオグリは固く握り返した。
「ああ、ありがとう。皆も」
オグリはヤエノの後ろにいる他のウマ娘たちにも声をかけた。スーパークリークやサクラチヨノオーやメジロアルダンをはじめとして、オグリの同期たちが何人も集まっていた。口々に投げかけられる祝福にオグリは頭を下げて応えた。
「我々は事前に連絡を受けていましたので、今日のために準備していました。良いステージにしましょう」
ヤエノが言った。
「あ、ああ……でも、良いんだろうか。私がこの曲を歌って。学園のレッスンでは歌っていたが、ライブでヤエノたちと一緒にというのは……」
ウイニングライブのセンターに立つというのはウマ娘にとって特別な機会だ。しかもクラシック三冠レースは一生に一度しか走れない。出走すらしていないオグリがセンターで歌うことは、実際にレースを制したヤエノたちどころか、出走したウマ娘全員への侮辱と取られてもおかしくない。今のオグリはそれが分からない田舎の灰被りウマ娘ではなかった。
「当の我々が良いと言っているのです。他に誰の許しが必要でしょうか」
ヤエノの言葉に他の同期たちも頷く。
その中の一人、目つきの悪い鹿毛ウマ娘が口を開いた。
「勘違いすんじゃねぇぞ。これは降伏宣言じゃねえ。誕生日くらい良い夢見せてやるってだけだ」
「お前は三冠どれも勝ってねーだろ」
「テメェもだろうが!」
小柄でボーイッシュな栗毛ウマ娘が入れた茶々に鹿毛ウマ娘は元気に嚙みついた。
「あわわ、止めた方が良いでしょうか……?」
「二人とも仲良くじゃれてるだけだから大丈夫ですよ~」
オロオロするチヨノオーにクリークが微笑んだ。
「オグリさん」アルダンが一歩前に出た。「私たちのクラシックに敬意を払っていただいていることは嬉しく思います。ですが遠慮は無用。私たちがこれを望んだのですから」
アルダンの話では、この投票前にオグリのトレーナーからオグリの同期たちに『winning the soul』を選択肢に入れて良いか打診があった。その結果、一人として拒む者はいなかった。それどころか、全員がこの曲に投票したというのだ。
「確かにオグリさんはクラシック三冠に出ていませんし、もし出ていたら勝っていただろうという声が耳に入って悔しい思いをしたこともあります。逆にオグリさんさえいなければもっと勝てただろうとと同情されたことも」
ヤエノが言って、観客席に気まずい空気が漂った。
ですが、とヤエノは続ける。
「今にして思えばやはり私は──私たちは、貴方と一緒にもっと走りたかった。皐月賞も、ダービーも、菊花賞も、いやメイクデビューから! そして全て私が勝つ!」
「ダービーは譲りません!」「あらあら。私も負けませんよ~」
そうだそうだ、いや自分が勝つ、と他の同期たちから声が上がる。
「だからこれは私たちの宣言なのです。私たちは貴方と同じ時を走ったことを不運だなどと思っていません。貴方は競い合ったライバルで、肩を並べ走った仲間だ。だからこの歌を共に歌いたい。貴方を同期として誇りたい。オグリさん、貴方の気持ちは如何ですか」
ヤエノの射貫くような目をオグリは真正面から受け止めた。
「私は……私も、ヤエノたちと同期で良かったと、心から皆を、皆と走ったことを誇りに思っている。そして、そうだな。もしルドルフが言っていた生まれ変わりというものがあるのなら、今度はヤエノたちとクラシックを走って……三冠とも私が取る」
オグリは自信に満ちた挑発的な笑みを浮かべた。「言ったなこの!」同期たちから嬉しそうなブーイングが上がり、オグリはもみくちゃにされた。
「さあさあ、オグリちゃんは皆の宝物ですから、私たちが独占しちゃいけませんよ」
クリークが促し、それぞれポジションについた。
ファンの間に漂っていた緊張感は消え、全員がこの時間を全身に刻み付けようとしていた。
オグリはズレた髪飾りを付け直し、ゆっくりと深呼吸をした。
そして一度だけ舞台袖を振り返った。刹那、ルドルフと視線が交錯する。
「夢を見せるよ」
本当にオグリがそう言ったかはルドルフには分からなかった。何も言っていなかった気もする。ただ、ルドルフはそう伝えられたと感じた。それが全てだった。
人に夢を見せる力があるか、とかつてその背に問うたことをルドルフは思い出した。
何のことはない。自分はとっくに夢を見ていたのだ。オグリキャップという特大の夢を。
「ふ……はっはっはっはっはっ!」
大口を開けて愉快そうに笑うルドルフをタマモクロスは怪訝に見つめた。
◇
レースと同じく一瞬のような永遠のような煌めく数分が過ぎて、オグリはマイクスタンドを掲げながら自分の心臓の音を聞いていた。感覚が研ぎ澄まされ周囲がスローモーションに見える。耳鳴りがして周りの音がよく聞こえない。ゆっくりとマイクスタンドを降ろす。
まさしく夢の時間だった。ただしこの夢は覚めずに広がっていく。宇宙のように際限なく。
不思議な感覚だった。この場にいる全員と同じ想いが胸の中にある。そのことがテレパシーで繋がっているように、あるいはそれ以上に分かった。
抱く言葉はただひとつだった。