「――なぜこの国の労働者は、自らの正当な権利を行使するにあたって、いちいち罪悪感に苛まれなければならないのだろうか」
会社の給湯室で、安物のティーバッグから出た薄い紅茶を紙コップに注ぎながら、俺――
現代日本。とりわけ、俺が所属しているような中途半端な規模のIT系企業において、「有給休暇」という言葉の扱いは奇妙なほど歪んでいる。
法律上、それは『労働者の心身の疲労を回復させ、労働力の維持培養を図る』ための明確な権利として保証されているはずだ。与えられた期間の中で、給与を減らされることなく自由に休むことができる魔法のチケット。
それなのに、なぜか社内にはびこる『謎の暗黙ルール』が、そのチケットの使用を全力で阻んでくる。
「皆が忙しく働いているのに、自分だけ休むなんて申し訳ない」
「熱で寝込んでいるわけでもないのに、遊びの予定で有休を使うのは非常識だ」
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
会社に人生を丸ごと捧げるつもりか? 俺たちの時間は有限で、会社の歯車としてすり減らすために命のカウントダウンを消費しているわけじゃないというのに。
俺はかつて、その「常識」という名の見えない鎖に縛られ、自分の心を壊しかけた人間の一人だ。
だからこそ、完全に【モンスター社員】として覚醒した今の俺は、誰よりもこの権利を行使することに執念を燃やしていた。
会社の空気を読まない。上司の顔色をうかがわない。圧倒的な法律の知識と、鉄の意志をもって己の平穏を守り抜く。
「さて、時刻は…16時40分か。撤退戦の準備を始めるとしよう」
俺は時計の針を確認し、デスクへと戻った。
脳内タイマーは、定時の17時ジャストに向けてすでに帰宅のカウントダウンを開始している。
タスクは完璧にこなし、明日への引き継ぎメモもデスクトップのど真ん中に配置済みだ。
あとは定時のチャイムが鳴り響くと同時に、椅子からロケットのように飛び立ち、今夜放送の深夜アニメのために最高の晩酌の準備をするだけである。
すべては順調。俺の輝かしい定時退社は今日も完璧に守られるはずだった。
しかし――。
「あの……氷室先輩。今、お時間少しだけよろしいでしょうか……」
背後からかけられた弱々しい声。俺の「
振り向くと、そこには入社2年目の後輩・
いつもは小動物のようにちょこまかとよく動く明るい彼女が、今はまるで雨に打たれたチワワのように震え、肩を落としている。
その両手には、無惨にもくしゃくしゃに丸められた後、不自然に広げられた一枚の紙が握りしめられていた。
用紙の右上に印字された文字は『有給休暇申請書』。
「どうした、星野。俺はあと20分でこの収容所から脱獄する計画の最終フェーズに入っている。簡潔に説明してくれ」
「す、すみません……。あの、先ほど、
俺はピタッと、マウスを握る手を止めた。
鬼頭課長。第一営業部のトップであり、頭頂部から寂しくなり始めた髪型を気にする昭和気質の男だ。
口癖は「俺たちの若い頃は熱が39度あっても出社した」「気合が足りない」「会社への恩返し」という、典型的な根性論至上主義者である。
「突き返されただと? またあのハゲ……じゃなくて鬼頭課長か。休む理由を聞いてもいいか?」
「はい……」
星野は周囲の目を気にするように、さらに声を潜めた。
「実は来月の第2金曜日に、私が学生時代からずっと追っかけている、2.5次元舞台俳優のライブツアーの最終日があるんです。東京の、大きなアリーナでのファイナル公演で。どうしても行きたくて、3ヶ月前から有休を申請しようと準備して、引き継ぎ資料も作って……。それで今日、提出したんですけど……」
ポツリ、ポツリと語る星野の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「課長に言われました。『休む理由は何だ?』って。私が『私用です』って答えたら、『私用の中身を具体的に言え。冠婚葬祭か? 病気か?』って執拗に詰め寄られて……。耐えきれなくて、正直にライブに行きたいからって答えてしまったんです。そしたら……」
言わなくてもわかる。そのあとのセリフは、ブラック企業の管理職が吐くセリフの『頻出テンプレ集』に必ず載っているものだからだ。
俺はため息を一つ吐き、指を折りながら代弁した。
「『遊びのために有休をとるなんて社会人の自覚が足りない!』『みんなが必死に働いている時期に、アイドルのライブだと? フザけるな!』『旅行や遊びで休むのは常識外れだ!』……このどれか、あるいは全部を複合した大合唱だったんだろ?」
「――っ! なんで分かったんですか!?」
「ただの三流悪役の定型文だからだよ。自分の価値観でしか部下をジャッジできない無能な管理職の常套手段だ」
星野は悔しそうに、くしゃくしゃになった申請書を胸に抱いた。
「私……確かに、遊びのために休むのはダメなのかもしれないって、課長に怒鳴られながら思っちゃって……。でも、その推しは今年で引退を発表していて、その日が本当に……最後のステージなんです。これを逃したら、私、もう二度と……」
ボロボロと、ついに星野の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
俺はその涙を見た瞬間、己の内に眠っていた何かがパキンと音を立てて弾けるのを感じた。
俺のモンスター社員としてのポリシーは「自分の平穏を他人に邪魔させないこと」であり、基本的には他人のトラブルには首を突っ込まないお一人様至上主義だ。
だがしかし。
「引退公演……最後のアリーナ・ファイナル……」
俺は立ち上がり、メガネのブリッジを中指でクイッと押し上げた。
「遊びで休むのはダメだと? 違うな。労働者にとって『推しの命日に立ち会うこと』は遊びではない。血を吐くような毎日の労働を乗り越えるための『生命維持装置の補給』だろうが。――それを常識とやらで叩き潰すとは、許せん。万死に値する!」
「ひ、氷室先輩……? なんだか、ものすごいオーラが……」
「行くぞ、星野。そのシワシワの申請書を貸せ。アイロンがけして出し直す手間も惜しい。このまま奴の机に叩きつけてやる」
俺は星野の申請書をひったくると、ズンズンとフロアの奥、パーテーションで区切られた課長の専用席――通称「ボス部屋」へと歩を進めた。星野が慌てて小走りで後を追ってくる。
フロアにいた同僚たちが、「またあのモンスター(氷室)が何か動いたぞ」と、興味本位と怯えの混ざった視線を送ってきたが、知ったことではない。
「……ん? なんだ氷室。お前はもうすぐ帰る時間だろうが」
パソコンでソリティアらしき画面を開いていた鬼頭課長が、不機嫌そうに顔を上げた。
俺がズカズカと接近していくと、あからさまに嫌な顔をする。社内で法律やルールの網の目をくぐり抜けて徹底的に定時退社を貫く俺は、彼にとって目の上のたんこぶなのだ。
「ええ、もうすぐ定時ですからね。1秒たりとも残業する気はありませんので手短に済ませます。鬼頭課長、これの承認をお願いします」
俺は手にした紙――星野の有休申請書を、バシンッ! と大きな音を立てて鬼頭課長のデスクの中央に叩きつけた。
その横暴な振る舞いに、鬼頭の顔が一気に朱に染まる。
「貴様……! さっき星野から没収して突き返したはずの申請書じゃないか。なぜ他部署の人間のお前がしゃしゃり出てくる!」
「しゃしゃり出るも何も、明らかな『違法行為』が行われている現場を見過ごすわけにはいきませんからね。会社のコンプライアンス的に」
「い、違法だと? 馬鹿なことを言うな!」
鬼頭は立ち上がり、机をドンと叩いて身を乗り出してきた。
「俺は間違ったことは一言も言っていない! 有給休暇というのはな、本当に体がキツい時や、やむえない事情がある時のために『会社が恩情で休ませてやる』ものなんだ。それを、こんな忙しい時期に『男のライブに行きたいですぅ』だと? 遊びのために休ませてくれなどと、社会を舐めているにも程がある! そんなふざけた理由を会社が認めるはずがないだろうが!」
俺の背中に隠れるように立っていた星野が、ビクッと体を震わせた。
鬼頭の声は大きく、周囲のフロア全体に響き渡っている。まるで「遊びで休むようなふざけた社員は公開処刑してやる」とでも言わんばかりの威圧だ。
だが、その程度のブラフで怯むなら、俺はとっくの昔にモンスター社員を引退している。
俺はふうっと大きく息を吸い込み、冷ややかな視線で鬼頭を見据えた。
さあ、
「……鬼頭課長。どうやらあなたは、資本主義社会の根本ルールをアップデートし忘れた生きた化石のようですね」
「なんだと!?」
俺は左手を胸の前に掲げ、まるで魔法陣でも展開するように指先を天に向けた。
脳内にインプットされた分厚い『六法全書』のページが、凄まじいスピードでめくられていくのがわかる。
「
声高らかに放たれた条文の名前に、鬼頭の動きがピタリと止まる。
「課長、よく聞いてください。労働基準法において、有給休暇を取得する『理由』は原則として完全なる自由です! 行政解釈の通達(昭和48年3月2日 基発第110号)においても、『有給休暇の利用目的は労働者の自由であり、使用者はその取得理由によって休暇を与えない、あるいは不利益な取り扱いをしてはならない』と明確に定められています!」
「なっ……! 行政、解釈……?」
法律の専門用語と具体的な番号を突きつけられ、鬼頭がたじろぐ。
俺はさらに一歩、逃げ場を奪うように踏み込んだ。
「つまり! 星野が休む理由が旅行だろうが、新作ゲームの発売日だろうが、一日中寝ていようが、推しのアイドルのライブに行こうが! 『会社側が休む理由に口を挟む権利』など最初から1ミリも存在しないんですよ」
「ましてや『遊びだからダメだ』と理由を審査して申請を突き返す行為は、れっきとした労働基準法違反、およびパワハラに該当する極めて悪質な行為です。これ、労働基準監督署に録音データを持っていかれたら、一発で指導が入る案件ですが、よろしいですね?」
「くっ……!! そ、そんな屁理屈が通るか! そもそも、休むのなら事前に正当な理由を言うのが礼儀――」
「礼儀の話などしていません! 法律の話をしているんです! 申請書に書く理由は『私用のため』、このたった5文字で完璧に要件を満たす。これに文句をつけること自体が、『法という常識』からの逸脱なんですよ!」
俺の猛烈な舌鋒に晒され、鬼頭課長はギリギリと歯ぎしりをした。
しかし、彼とて一応は管理職の端くれだ。会社側にとって都合の良い『あの伝家の宝刀』を持ち出してきた。
「だ、だがな! 氷室! 会社には『
「今、うちの部署は新規プロジェクトで手一杯なんだ。星野が丸一日休んだら、確実に業務が滞る。だから俺には時季変更権を発動する権利があるんだ!」
ドヤ顔で言い放つ鬼頭課長。
しかし、俺はその言葉を待っていたと言わんばかりに、口角を歪めて嗤った。
「時季変更権……ふっ、やっぱりそれを言ってきましたか。素人の生半可な
「なんだと! 事実だろうが!」
俺は冷徹な眼差しで、鬼頭の眼球の奥を射抜くように見つめ返した。
「いいですか? 労働基準法が定める『時季変更権』を行使できる条件は、『事業の正常な運営を妨げる場合』にのみ限定されています。そして過去の判例から見ても、この条件が認められるのは極めて厳しい」
「具体的には、『代わりの要員を手配しようと会社側が最大限の努力を尽くしたにもかかわらず、どうしても代替の人間が確保できず、その人がいないとシステムが崩壊してしまうような致命的なケース』に限られます」
俺はそこで言葉を区切り、わざと大げさに肩をすくめてみせた。
「さて、星野が申請しているのは『来月の第2金曜日』ですね。まだ1ヶ月以上も先の話です。たった入社2年目の一若手社員が1日抜けた程度で、この部署の業務は完全に回らなくなるんですか?」
「あなたは、この1ヶ月間で『他の社員に星野のタスクを振り分ける』という代替措置を取ろうと努力すらしていないんじゃないですか?」
「うっ……! そ、それは……」
「もし星野が休んだだけでプロジェクトが崩壊すると言うなら、それは星野の責任じゃない。誰かが倒れた時のリカバリー体制すら構築できていない、管理職である『あなた自身のマネジメント能力が根本的に欠如している』という証拠です!」
「つまり、無能なだけだ! それを部下のせいにするんですか?」
「っ……!! き、きさまぁ……ッ!」
マネジメント能力の欠如、という急所を刃で深くえぐられ、鬼頭はワナワナと体を震わせた。
もはや反論する材料は彼の手元に何一つ残されていない。完全なるチェックメイトだ。
「もちろん、本当に困るなら俺が当日のサポートに入ってやってもいいですよ。別部署ですけど、まあ彼女の雑務くらい半日で片付きます」
「……で、どうしますか課長。このまま時季変更権を強行し、労働基準監督署からの熱烈なラブコールを受け取りますか? それとも、ただハンコを押して、円満に終わらせますか?」
俺が申請書の上に万年筆を転がしてやると、鬼頭は真っ赤な顔をして荒々しくペンを掴んだ。
「ぐっ……おのれ、氷室……!! ああ、わかった! 勝手に休め! どうなっても知らんからな!!」
乱暴に書かれたサインと、半ばヤケクソ気味に叩きつけられた『承認』のハンコ。
それは、ブラック企業にすり込まれた呪いが、法律という光によって完全に浄化された瞬間だった。
「ご賢察、痛み入ります。いやぁ、話がわかる上司で星野も鼻が高いでしょうね。……行くぞ、星野」
俺は申請書を丁寧に回収すると、茫然と立ち尽くす星野の肩を叩いてその場を後にした。
***
「……氷室先輩……」
廊下に出た途端、星野は俺に向けて深く深く、直角になるくらいのお辞儀をした。
「本当に、何から何まで……ありがとうございました! 私、課長の剣幕に押し負けて、もう諦めるしかないのかって本気で思ってました……。先輩のおかげで、推しの最後を見届けることができます……っ!」
「勘違いするな。俺はアニメを見るが2.5次元は門外漢だし、俺のためにならないことには動かない主義だ」
俺はそっぽを向きながら、冷たく言い放つ。
「ただ、俺の目の前で『有休が取れない』という前例を作られると、いずれ俺自身の有休消化にまで火の粉が降りかかりかねない。そのための予防線を張って、害虫を駆除しただけだ」
憎まれ口を叩く俺の言葉に、星野はなぜかフフッと柔らかく笑った。
「はい。先輩のそういう素直じゃないところ、嫌いじゃないです。……来月、全力でペンライト振ってきますね! お土産、期待していてください!」
その笑顔にはもう、数十分前までの陰りは微塵もなかった。
自分が本当に守りたかったもの――好きなもののために胸を張るオタクの、美しい笑顔がそこにあった。
ジリリリリリィィィッ!!!
その時、オフィスの天井から甲高い電子音が鳴り響いた。
17時00分。終業の合図。――俺の耳には、これが戦いの終わりを告げるファンファーレに聞こえる。
「よし、ミッション・コンプリートだ」
俺は踵を返し、エレベーターへ向かって歩き出した。
「あ、氷室先輩! もう帰っちゃうんですか? お礼にコーヒーくらい……」
「バカ言え、今日は秋アニメの第1話一挙放送が始まる超重要な日だぞ。スーパーに寄って半額の惣菜とビールを買い込んで、完璧な布陣を敷くまでにあと40分しかないんだ」
「残業なんて1秒でもしている暇はない。じゃあな、お前も早く帰れ!」
「ふふっ。はい、お疲れ様でした!」
背中に星野の明るい声を聞きながら、俺は足早に会社を飛び出した。
外の空気はひんやりとしているが、勝利の後の気分は格別だ。
理不尽なルールで縛り付けてこようとする『会社』という巨大な魔物は、相変わらず手強い。
しかし、俺には法律という武器がある。知は力だ。
この
俺はカバンを肩に担ぎ直し、夜のネオンが灯り始めた街へと駆け出していった。
すべては、自分だけの
【氷室 迅のモンスター社員・ワンポイント法律塾】
みんな、お疲れ様!
有給休暇で休むとき、申請書にバカ正直に「旅行に行きます」「ライブに行きます」なんて細かく書く必要は、一切ないからな!
法律上(労働基準法第39条)、有給の理由は原則自由だ。
会社が「理由によっては認めない」とジャッジすること自体が違法なんだぜ。だから、理由欄には「私用のため」の5文字を書けばそれで十分。
もし上司に「遊びならダメだ! 時季変更権だ!」って凄まれたら、「じゃあ私が休む代わりに業務を回す『代替要員』の確保はしてくれたんですか?」って聞き返してみな。ほとんどの無能な上司は、これだけで黙るから。
自分の時間を何に使うかは、誰にも文句を言われる筋合いはない。
推しを拝むためだろうが、一日中寝転がってゲームをするためだろうが、堂々と休め!
ただし……普段の仕事は手を抜かずにしっかり終わらせておくこと。
自分の背中(責任)は自分で守れるやつこそが、本物のモンスターだからな。
じゃ、俺はこれからキンキンに冷えたビールを開けて、今期の覇権アニメを探す旅に出る!
明日も無理せず、定時で逃げ切ろうぜ! (※実践する時は自己責任でな!)