労働者にとって、「会社」という名のダンジョン内に存在する数少ない『
それが【昼休憩】である。
労働基準法では、労働時間が6時間を超える場合は少なくとも45分、8時間を超える場合は少なくとも1時間の休憩を労働時間の途中に与えなければならないと定められている。
つまり、我々が会社という鎖に繋がれている平日において、正午から午後1時までのこの『60分間』だけは、唯一許された生命維持のためのオアシスなのだ。
この時間、俺――氷室 迅は、自分のデスクで手作り(というかスーパーの半額)弁当を広げながら、片手でスマホの画面を鬼の形相でタップし続けていた。
「よし……いける。このボスの攻撃パターンなら、今日の正午更新で追加された限定ガチャの石を回収できるぞ……!」
俺にとって、昼休憩は単に栄養を摂取するだけの時間ではない。
スマホゲームのスタミナ消費、新イベントの周回、溜まっていたWEB小説の最新話チェック。
これらオタクとしての「命の営み」を凝縮した、極めて神聖なる儀式の時間である。
この1時間だけは、社長だろうが総理大臣だろうが、俺の邪魔をすることは許されない。
――はずだったのだが。
「ジリリリリリリリッ!!!!」
静寂のオアシスを引き裂くような、けたたましい黒電話(内線&外線)のコール音が、フロア中に響き渡った。
時刻は12時15分。まさに昼休憩の真っ最中だ。
「ヒッ……!」
俺の斜め前の席で、入社1年目の新人女子・佐々木(ささき)が、ビクッと肩を跳ねさせた。
彼女はコンビニで買ったサンドイッチを口に運ぼうとしていた手を止め、まるで条件反射のように慌てて受話器に飛びついた。
「は、はいッ! 株式会社ネオ・ソリューションズでございます! あ、はい、お世話になっております! ……はい、営業の鬼頭ですね。申し訳ございません、あいにく鬼頭は現在『お昼休み』をいただいておりまして……えっ? あ、はい! 申し訳ありません、至急確認してまいります!!」
佐々木はサンドイッチを放り出し、ペコペコと見えない相手に頭を下げながら、メモ帳を抱えてフロアを走り出していった。
その表情は引きつり、額には汗が浮かんでいる。完全に「仕事モード」だ。
俺はスマホの画面から目を離し、冷ややかな視線でフロアを見渡した。
本来なら電気が消され、みんな外食に行ったり机で突っ伏して寝ていたりするはずの昼休み。
しかし、入社数年目の「若手社員」たちだけは全員、手元に弁当を広げつつも、視線はデスクの電話機に釘付けになっていた。
誰もが、電話が鳴るたびにビクビクしている。
佐々木だけでなく、以前俺が助けた後輩の星野もまた、消化不良を起こしそうな青い顔でおにぎりを齧っていた。
「……おい星野」
俺が声をかけると、星野はハッとして顔を上げた。
「あ、氷室先輩……お疲れ様です……」
「お疲れじゃない。今は12時20分、神聖なる『休憩時間』だ。……なんでお前ら若手は、昼飯もろくに喉に通らないような顔をして、電話のコール音に怯えてるんだ? 何か新しい罰ゲームか?」
俺が尋ねると、星野は周囲を気にしながら小声で囁いた。
「氷室先輩、知らないんですか? 今週から、総務部の
「新ルール? なんだそれは」
「『若手社員は、昼休み中も持ち回りでデスクに残り、電話対応にあたること。昼の時間は大事な顧客からの電話も多い。それを逃すのは会社の損失だ』……って」
「はあ?」
俺は思わず間抜けな声を出した。
白鳥マネージャーといえば、社歴がやたら長く、上層部にも顔が利く
「礼儀作法」や「社格」という言葉が大好きで、若手をまるで自分の召使いか何かと勘違いしているフシがある。
「白鳥マネージャーが言うには、『電話番といっても、鳴るまでは席でご飯を食べて休んでいていいんだから、これは実質的な休憩である』って……。もし電話を取り逃がしたら、午後の全体朝礼で名指しで説教されるんです。だから私たち、1時間の休憩中もずっと緊張してて……ご飯の味が、全然しないんです」
星野がうつむきながら言うのを聞いて、俺は絶句した。
鳴るまではご飯を食べていていいから、実質的な休憩?
……バカなのか? いや、バカを通り越して、もはやブラック企業の純度100%の結晶体だ。
俺は再び、サンドイッチを放置したまま別部署まで確認に走り回っている佐々木を見た。
彼女は、大切な
このままでは、若手たちが倒れるのは時間の問題だ。
「……腹立たしいな。若手だけに犠牲を強いて、てめぇら管理職は外で悠々と高いランチを楽しんでるってわけか」
モンスター社員としての俺のポリシーは「自分に実害がない限り動かない」。
しかし……俺の斜め前で怯えながらおにぎりを咀嚼する若手たちの負のオーラが、俺の推しキャラのガチャを回す際の【
つまり、俺のエンタメライフの質を脅かす、完全なる『実害』だ。
「ジリリリリリリリッ!!!!」
再び、フロアに悪魔のコール音が鳴り響いた。
今度は星野の席に近い。
星野が「ヒッ」と息を呑み、おにぎりを置いて震える手で受話器に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
ガシッ!!
「えっ……?」
星野の手より一瞬早く、俺の手が受話器を上から強引に押さえつけた。
俺の無言の圧力に、星野が目を丸くする。
「氷室先輩!? なにを……!」
「取るな、星野。俺たちは今、神聖なる『ランチタイム・クエスト』の真っ只中だ。誰からの着信だろうと、知ったことではない」
俺がそのまま受話器を固定していると、3回、4回と鳴り響いていたコール音は、やがて虚空へと消え去った。
「あ、あああ……切れちゃいました! どうしよう、もし取引先からの重要な電話だったら……白鳥マネージャーに殺されます!!」
「騒ぐな。取引先も取引先だ。平日の12時台という人間が飯を食っている時間に平然と電話をかけてくる配慮のなさは、一度スルーされて教育されるべきだ。だいたいな――」
「ちょっと!! そこで何をやっているの!!」
俺のセリフを遮るように、フロアの入り口からヒールの音を響かせて現れたのは、高級そうなスーツに身を包んだ、キツい顔立ちの女性――総務部の白鳥マネージャーだった。
どうやら社内の見回りをしていたらしい。
彼女は吊り上がった目をさらに細め、受話器から手を離した俺と、パニックになっている星野を睨みつけた。
「今、外線の電話が鳴っていたでしょう! なんで取らないの! 若いあなたが率先して電話を取るのは、社会人としての常識、基本中の基本でしょう!」
ヒステリックな声が響き、フロアで休憩中の若手社員たちがいっせいに首をすくめた。
佐々木なんかは小刻みに震えている。
だが、歴戦のモンスター社員である俺にとって、こんなBGM程度の怒鳴り声は何のデバフにもならない。
俺はゆっくりと立ち上がり、冷めた目で白鳥を見下ろした。
「お言葉ですが、白鳥マネージャー。今は12時25分。当社の就業規則で定められた『昼休憩』の時間帯です。常識的に考えて、休憩中に仕事の電話を取る必要はないと判断しました」
「……はあ!?」
俺の反論に、白鳥マネージャーは鼻で笑い飛ばした。
「なに寝言を言っているの氷室くん? 確かに今は休憩時間だけど、別に力仕事や外回りに行けって言ってるわけじゃないのよ? 涼しい部屋の、自分のデスクで、お弁当を食べながら『ついでに』電話に出る」
「電話なんて1件たった3分程度のことじゃないの。電話が鳴っていない残りの57分間は休んでいるんだから、それは立派な『休憩でしょ! 少しくらい会社のために協力しようという気はないの!?」
典型的な『ブラック管理職の詭弁』である。
自分は休んでいるくせに、若手には「席にいるんだから電話くらい取れ」と強要する。
昭和から平成にかけて、日本の多くの企業を蝕んできた悪魔の論理だ。
俺はため息を一つ吐き、指を鳴らした。
パチン、と軽い音がフロアに響く。
「白鳥マネージャー。あなたは根本的に、『労働』と『休憩』という概念のルールを履き違えていますね。アップデートを忘れた旧世代OSですか?」
「な、なんですって!? 口の利き方に気をつけなさい!」
「気をつけなければならないのは、あなたの方です。よろしいですか、それでは私が、無知なあなたのために『法』という名の最新パッチをインストールして差し上げましょう」
俺は両腕を広げ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
さあ、詠唱の時間だ。
頭の中にある六法全書のページが、激しくめくられていく。
「
響き渡る条文の名前に、白鳥が怪訝な顔をした。
「白鳥マネージャー! 労働基準法第34条第3項には、こう明確に記されています。『使用者は、休憩時間を自由に利用させなければならない』とな! これは通称『休憩時間自由利用の原則』と呼ばれる、絶対のルールです!」
「だ、だから! 自由に弁当を食べていいと言っているじゃない! 外に出たって構わないわよ、ただ当番の人間だけが残って――」
「そこです! その『当番としてデスクに残って電話を待機する』という行為そのものが、完全にアウトなんですよ!」
俺は一歩、白鳥に詰め寄った。
圧倒的な論理の圧で、彼女の細いヒールが一歩後ずさる。
「過去の最高裁の判例や行政通達においても、休憩時間とは『労働から完全に解放されていることが保障されている時間』でなければならないとされています! 電話が鳴るか鳴らないか分からない状態でデスクに縛り付けられ、『もし鳴ったら出なければならない』というプレッシャーの下に置かれている時間は、休憩ではありません。法律用語でこれを『
「て、手待ち……時間……?」
「そうです。お客さんが来ないか待っている時間、機械のトラブルが起きないか監視している時間、そして……昼休みに電話が鳴らないか待機している時間。これらはすべて、使用者の指揮命令下に置かれた立派な『労働時間』とみなされるんですよ!!」
「な……ッ! なにをバカな……電話が鳴ってない間も働いてるっていうの!?」
「その通りです! いつでも対応できるように精神的な緊張を強いられている時点で、労働からの解放なんて全くできていないじゃないですか。見てくださいよ、星野や佐々木のこの死んだ魚のような目を! 弁当の味が砂のようだと泣いていますよ!!」
「えっ!? そ、そこまでは言ってないですけど……!」
星野が戸惑いの声を漏らすが、俺は構わず畳み掛けた。
白鳥は顔を真っ赤にして反論しようとする。
「へ、屁理屈よ! そんなのただの権利の主張じゃない! 若い頃からそうやって少しずつ周りのフォローをすることが、成長に繋がるんでしょうが!」
「出ましたね、反論できなくなった時のブラック企業の必殺奥義『成長』と『やりがい』。しかし、マネージャーがそんな精神論を掲げるというなら、私も現実的な『数字』のお話をせざるを得ませんね」
俺は白鳥の言葉を切り捨て、胸ポケットからスマホを取り出し、計算機アプリを起動した。
「いいですか。昼の1時間、電話当番として拘束されるということは、彼らは『休憩を1秒も取らずに働かされている』ことになります。我々の会社の所定労働時間は8時間です。もし昼休みも働いたとなれば、一日の労働時間は9時間になりますね」
「……それがどうしたのよ」
俺はニヤリと笑い、計算機の画面を白鳥に見せつけた。
「労働基準法における法定労働時間のMAXは『一日8時間』です。それを超えた部分はすべて『時間外労働』となり、1.25倍の『割増賃金』を支払う義務が会社に発生するんですよ。知ってましたか?」
「……っ!!? ざ、残業代!?」
「そうです。電話当番をした若手たちには、昼の1時間分の『未払い残業代』が発生していることになります。えーと、当番が1ヶ月に約20営業日。参加させられている若手社員が10名だとしましょう。時給を低めに見積もっても、1日に全員で約2万円。月に約40万円。年間に換算すると『約480万円』もの未払い残業代が、この無意味な電話当番だけで発生する計算になります」
「よ、よんひゃく、はちじゅうまん……っ」
莫大な数字の提示に、コスト意識だけは異常に高い総務の白鳥は顔面を蒼白にさせた。
「あ、さらに問題がありますよ。休憩を全く与えずに労働させるのは『労基法第34条違反』の対象です。さて白鳥マネージャー、私はこの後17時に定時で帰りますが、帰る途中で労働基準監督署にフラリと立ち寄り、この『手待ち時間の未払い残業代の一斉請求』と『休憩付与義務違反』についての熱いディスカッションをしてきてもよろしいでしょうか?」
「ヒッ……!! 労、労基……!!」
大の企業人、特に総務部にとって『労働基準監督署の立ち入り調査』は、心臓が飛び出るほどの恐怖である。
それが自分の独自の謎ルールによって引き起こされたとなれば、白鳥のキャリアは一発で終了だろう。
俺はスマホをしまい、ピシャリと最後の言葉を突きつけた。
「若手からの搾取で作る常識なんて、砂上の楼閣なんですよ。どうしても昼に電話を取らせたいなら、キッチリ交代で『別の時間に1時間、オフィスから離れて完全な休憩をとらせる制度』を構築するか、あるいは素直に『12時〜13時は昼休憩につき留守番電話になります』というアナウンスを流す設定に変えてください。管理職なら、気合いや若手への押し付けじゃなく、システムで解決してみせろってことです」
静まり返るフロア。
ぐうの音も出ないほど完璧に法律と数字で粉砕された白鳥は、わなわなと震える唇を噛み締めながら……ついに白旗を揚げた。
「っ……わ、わかったわよ! そんなにお金と法律の盾を持ち出されるなら、もういいわ!! このルールは撤廃よ! 今日から昼の時間は、全員留守番電話に切り替えます!! これで文句ないんでしょう!?」
ヒステリックにそう叫び捨てると、白鳥は逃げるようにヒールを鳴らしてフロアを去っていった。
パーフェクト・ゲーム。
完全論破である。
「……終わったな」
俺がそう呟くと、フロアのあちこちから、ふうっと安堵のため息が漏れる音が聞こえた。
先ほどまで絶望の淵にいた佐々木や若手たちが、泣きそうな顔で俺を見つめている。
「氷室先輩……! 私、電話番がなくなって、ご飯……ゆっくり食べられます! なんだか、空気が美味しくて……っ」
「おいおい、佐々木。泣きながらサンドイッチ食うと喉に詰まるぞ」
俺はあきれながらため息をついた。
星野が、キラキラと目を輝かせてこちらを見ている。
「氷室先輩! まるで……暗闇を切り裂く、一筋の光みたいでした! 手待ち時間? っていう言葉、最強の呪文ですね!!」
「勘違いするな。言っただろ、お前らの怨念めいた負のオーラが、俺のガチャ運を下げるから駆除しただけだ」
俺は自分の席に戻り、放置していた弁当を広げ直した。
「さあ、残り時間あと30分だ! どいつもこいつも、イヤホンをつけるなり、外のカフェに飛び出すなりして、死に物狂いで『己の100%の休憩』を満喫しろ! 電話なんて無視だ無視!」
「「「はいっ!!」」」
若手たちが一斉に弁当に食らいつき、あるいは机に突っ伏して爆睡し始めたのを見て、俺は満足げに頷いた。
やはり、昼休みというセーフティーゾーンは、かくも美しく、自由に満ちていなければならない。
***
17時00分。
いつものように、定時を告げる天使のファンファーレが鳴り響く。
「よし、本日の労働はこれにて全て終了だ」
俺は目にも留まらぬ速さでPCをシャットダウンし、カバンを掴んだ。
帰り際、廊下ですれ違った佐々木と星野が、「先輩、今日はお疲れ様でした! 本当にありがとうございました!」と眩しい笑顔で頭を下げてきた。
その顔にはもう、会社というシステムに精神を削られている陰りはなかった。
俺はニヤリと笑い、右手を軽く上げて応える。
「じゃあな。明日の昼飯は、奮発して外の定食屋でも行ってこい」
法律という無敵の盾を持つ俺・モンスター社員の戦いは終わらない。
だが、その盾で自分の後ろにいる後輩たちをほんの少しだけ守ってやれるのも、案外悪くないなと思う今日この頃であった。
さて、家に帰って夕方の無料ガチャを回さなきゃな!
【氷室 迅のモンスター社員・ワンポイント法律塾】
みんな、今日の労働お疲れさん!
今日は大事な『休憩』の話だ。
いいか、『デスクでお弁当を食べながら、電話が鳴ったら取ってね』『客が来たら対応してね』という指示。
これは法的には休憩じゃない。
立派な『労働時間(手待ち時間)』だ!!
労基法第34条の規定により、休憩というのは『労働から完全に解放されていること(=自由利用の原則)』が絶対に求められる。
つまり、少しでも『対応しなきゃいけないかも』と縛られている時間は、給料が発生する労働なんだよ。
もし上司が『仕事じゃない、座ってるだけだろ!』って言い訳してきたら、今日俺がやったみたいに『じゃあ今の電話番の時間も労働時間としてカウントされるので、一日9時間労働で残業代がつきますが、よろしいですか?』ってカウンターを決めてやれ。
会社は『残業代が発生する』と聞くと、面白いように青ざめるからな!
会社の言う『暗黙のルール』なんて、法律の前じゃ紙切れ同然だ。
お前らの大事な1時間の休憩、スマホをいじる権利、居眠りする自由は、法によって強固に守られている。
奪われそうになったら、毅然と突っぱねろ!
もちろん、それ以外の労働時間はきっちり真面目に働くのが、無敵のモンスター社員への第一歩だ。
それじゃあ俺は、推しの最新情報をチェックしながら、キンキンに冷えたビールをあおる作業に入る!
みんな、明日も定時で脱出できるよう、共に頑張ろうぜ!(※実践する時は自己責任でな!)