巨大な烏の爪から解放され、二人の不死が転がり落ちたのは、陽光の届かぬ断崖の地であった。
「火継ぎの祭祀場」――かつて神々を祀ったとされるその遺跡は、今や崩壊した石柱と、枯れ果てた雑草が這う、うらぶれた墓所の如き静寂に包まれている。
中央のわずかな窪みには、今にも消え入りそうな、しかし確かな熱を持った「篝火」が据えられていた。
赤黒い灰のなか、数本の剣が溶け合い、燠火となって燻っている。
名も無き不死がその火に手をかざすと、不死院で消費したエストの熱が、じわりと瓶の内に満ちてゆくのが分かった。
「……ほう、また新しい死に損ないか」
篝火から数歩離れた石段の端、膝を抱えて座り込んでいた鎖帷子の男が、低く乾いた笑い声を漏らした。
その身体からは、戦う意志も、生への執着も、とうに削げ落ちている。
俗に言う「心が折れた戦士」であった。
男は、鉄の兜の奥から泥塗れの主人公と、いまだ重い足取りの上級騎士を、薄気味悪い目で見つめた。
「しかも片方は、アストラの御大層な上級騎士様だ。そんな立派な鎧を着て、わざわざこのゴミ溜めまで何をしに来た? 使命かね? それとも、救世の預言かい?」
オスカーは男の嘲笑を遮るように、一歩前に出た。
彼の声は鉄格子の向こうから響くように硬質で、しかし微かにかすれていた。
「……二つの鐘は、どこにある」
男は一瞬、意外そうに兜を揺らしたが、すぐにまた肩を揺らして笑った。
「鐘だって? ああ、あの忌々しい巡礼の伝承か。律儀なことだ。……鐘なら二つある。一つは遥か上、不死街の戴く教会の塔に。もう一つは遥か下、地を這う病みの街の、さらに底に。……もっとも、挑んだ奴らはみんな、鐘の音を聴く前に生ゴミになったがね」
オスカーはそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに頷いた。
彼の視線は、既に祭祀場の上層へと続く、崩れかけた崖沿いの階段に向けられていた。
男の言う「上」――まずはそこへ向かう。
それが、彼らの進むべき最初の道だった。
祭祀場を離れ、狭い岩肌の通路を登るにつれ、湿った風は徐々に乾き、代わりに不快な「錆と腐肉の匂い」が鼻腔を突くようになった。
辿り着いた「城下不死街」は、かつて人間の繁栄を誇ったであろう美しき石造りの街並みが、今や完全に亡者たちの巣窟と化した無惨な廃墟であった。
「……来るぞ」
オスカーの短い警告と同時に、物陰から数体の亡者兵士が躍り出た。
彼らの皮膚は完全に干からびて肉に張り付き、目は濁った衣服の切れ端のように虚ろだったが、手にする槍や直剣の鋭さは失われていなかった。
本能だけでソウルを求め、生者の気配に飢えた獣。
オスカーの戦いは、教科書の如く正統で、そして頑強であった。
突進してくる亡者の槍を、左手の「紋章の盾」で完璧にいなし、弾かれた隙を見逃さず「アストラの直剣」を突き立てる。
神聖な魔力を帯びた刃が亡者の胸を貫くと、青白い火花が散り、哀れな肉体は一瞬にして力を失って崩れ落ちた。
騎士としての矜持が、その無駄のない太刀筋に宿っている。
対する名も無き不死の戦いは、泥臭く、しかし戦慄すべきほど実戦的であった。
亡者が大剣を振り下ろす瞬間、自らの盾の縁を払い上げるようにして刃を弾く。
金属同士が激しく衝突する甲高い音が響き、体勢を崩した亡者の懐へと深く踏み込み、その腹へと容赦なく剣を突き刺した。
さらに、背後から忍び寄る別の亡者に対し、あえて背を向けたまま相手の攻撃を誘い、紙一重でかわしながらその背後に回り込んで、剥き出しの髄へと刃を叩き込む。
二人の間に、作戦の打ち合わせなどはなかった。
だが、不死院という死地を共に踏み越えた経験が、言葉以上の連帯を生んでいた。
オスカーが盾で防壁となり、名も無き不死がその影から致命の牙を剥く。
凄惨な鉄の音が不死街の狭い路地に木霊し、やがて、あたりには再び静寂と、宙を漂う白いソウルの残滓だけが残された。
不死街の中層、頑強な鉄格子で囲まれた狭い部屋の片隅に、新たな篝火を見つけた。
二人はそこに腰を下ろし、束の間の休息を取る。
外は夜なのか昼なのかも定かではない、薄暮のような鈍い光が世界を支配していた。
オスカーは、自らの愛剣を布で拭いながら、揺らめく火を見つめていた。
彼の横顔には、不死院の時のような焦燥はなかったが、どこか深い憂いが影を落としている。
「……私の一族の郷、アストラは、もう長くはない」
オスカーは、誰に語るともなく、静かに口を開いた。
「火の陰りは、世界中の国々を均等に蝕んでゆく。豊かだった大地は枯れ、高潔だった騎士たちは次々と呪われ、正気を失っていった。……私の父も、兄も、最後は己の名前すら忘れ、ただソウルを求めて彷徨う肉塊となった」
剣を拭う彼の手が、微かに強まる。
「伝承は、残された最後の希望なのだ。誰かが火を継がねば、世界は完全に暗黒に包まれ、すべてが静止してしまう。私は……亡者としてただ朽ちるだけの運命を拒み、アストラの騎士として、世界の火を繋ぎ止める楔になりたかった」
オスカーは顔を上げ、対面に座る名も無き不死を見つめた。
その時、主人公は先ほどの戦闘で手に入れた亡者たちのソウルを、自らの掌の上に浮かべていた。
淡く発光するソウルの塊を、不死は貪るようにして己の胸へと吸い込んでゆく。
ソウルが肉体に溶けるたび、不死の肌が一瞬だけ、どす黒い影のように昏く明滅する。
それは、ソウルを「力」として純粋に消費する、亡者特有の飢餓の仕草であった。
オスカーはその様子を、鉄の兜の奥から、微かな危惧の念を孕んだ目で見つめていた。
「……ソウルは世界の理そのものだ。だが、友よ。それをあまりに多く貪り、己の内に溜め込みすぎるな。強大なソウルは、時に人の意志を歪め、昏い深淵の底へと引きずり下ろす泥ともなる。貴公の高潔な魂が、その渇きに呑まれぬことを願う」
名も無き不死は何も答えず、ただ空になった掌を握り締め、篝火の闇を見つめ返した。
休息を終えた二人は、不死街の最上層に位置する「城下不死教会」へと足を踏み入れた。
広大な礼拝堂の空気は冷え切り、巨大な大剣を携えた重厚な黒騎士の残影が回廊を徘徊している。
それらすべての障害を、二人は肉を削り、骨を軋ませながら突破していった。
オスカーの盾は既に無数の傷で覆われ、不死の衣服は敵の返り血で黒く染まっていた。
教会の最上階、リフトを越えた先にある長い梯子を登り、二人はついに、遮るもののない広大な教会の屋上へと躍り出た。
突き抜けた空は、重苦しい灰色の雲に覆われている。
その時、教会の尖塔の影から、凄まじい咆哮と共に「それ」が姿を現した。
大きな石の翼と、蛇の如き尾、そして手には身の丈を超える巨大な斧槍を携えた異形の怪物――「鐘守のガーゴイル」である。
ガーゴイルは巨体を躍らせ、屋上の石畳を砕きながら猛然と襲いかかってきた。
オスカーが即座に前線へ飛び出し、紋章の盾を構える。
激しい金属音が響き、ガーゴイルの放った斧槍の重撃を、オスカーは膝を折りながらも耐え切った。
「今だ!」
オスカーの叫びと同時に、不死が怪物の死角へと滑り込む。
手にした剣を両手で強く握り締め、ガーゴイルの背後、不気味にうねる蛇の尾の根元へと一撃を叩き込んだ。
凄まじい手応えと共に尾が切断され、怪物が苦悶の声を上げる。
しかし、戦いはそれで終わりではなかった。
尖塔の奥から、さらにもう一体のガーゴイルが、口から激しい劫火を吹き散らしながら舞い降りてきたのだ。
一面が炎の海と化す。
熱風が二人の肌を焼き、上級騎士の鎧がまたたく間に熱を帯びてゆく。
「ひるむな! 火に惑わされるな!」
オスカーが炎の渦中から飛び出し、二体目のガーゴイルの顔面に向けて決死の突きを放つ。刃が怪物の石の目を貫き、動きを止める。
その隙を逃さず、主人公は一体目のガーゴイルの脳頂へと、渾身の跳躍から剣を叩き落とした。
轟音と共に、一体目のガーゴイルが崩壊し、ただの瓦礫へと帰ってゆく。
残された二体目も、二人の容赦のない波状攻撃の前に、やがて力尽きて屋上の縁から真っ逆さまに落ちていった。
激しい息遣いだけが、屋上に残された。
オスカーは剣を杖代わりにし、肩を大きく上下させていた。
彼の鎧の隙間からは、熱せられた鉄の匂いと、微かな煙が立ち上っている。
二人は、屋上のさらに奥にある、細い尖塔の階段を登った。
狭い最上層の空間には、古びた、しかし巨大な青銅の鐘が、静かに吊るされていた。
オスカーが、その太い引き縄を両手で掴む。彼の背中は、まるで聖職者が儀式を行うかのように、厳かで、どこか狂信的な空気を纏っていた。
「……一つ目の鐘だ」
オスカーが力を込めて縄を引く。
ゴーン――……
重厚で、あまりにも巨大な音が、城下不死街の全域へ、そして遥か遠くの「火継ぎの祭祀場」へと響き渡っていった。
それは、世界の終わりに抗う不死たちの、反逆の狼煙のようでもあった。
オスカーは鐘の余韻を聴きながら、鉄の兜を外し、天を見上げた。
その顔には、使命を一歩進めることができたという、深い法悦の笑みが浮かんでいた。
「聞こえるか、友よ。私たちは成し遂げたのだ。伝承は正しかった。次は、地下の病みの街……もう一つの鐘だ」
しかし、その傍らで鐘を見上げる名も無き不死の耳には、その音が全く違うものに聞こえていた。
それは、世界の延命を祝う歓喜の音などではなく、神々が仕掛けた古い檻の格子が、一段と強く閉まるような、冷酷な金属の軋み。
鳴り響く青銅の音の裏で、名も無き不死の胸の奥にある「ソウルの渇き」が、より深く、昏く、疼き始めていた。