第十話 『神』との対話と母の『思惑』
◇
リビングへと通された津那美は、すでに二人掛けのソファーに座っている深夜の姿を捉えた。彼女の言葉に従い、テーブルを挟んだ対面のソファーへと、彼はロングコートを脱いで腰掛ける。
「お母様、私も同席して構いませんか?」
案内を終えた深雪は、にこやかな笑顔で母に問い掛けた。やたら上機嫌な娘を少々訝しむも、とくに問題はないため快諾する深夜。次の瞬間、彼女は我が目を疑った。
「では⋯⋯津那美さん。お隣、失礼しますね」
ことわりの言葉を添えて、なんと深雪は堂々と津那美の隣に腰掛けたのだ。
(深雪⋯⋯貴女はなにをっ!?なんのつもりなの!?)
深夜は、娘の真意がまるで読めず困惑の表情を浮かべてしまう。
深雪の行動は、ただ単純に恋する男性の隣に座りたいという乙女心からくるものだ。しかし、そんな娘の心情など露とも知らない母にとっては、正常性を疑いたくなる行いだった。
動揺は一瞬__深夜は即座に表情を取り繕うと、貴婦人の顔へと戻り柔らかな笑みを浮かべ、津那美へと話しかけた。
「あらあら、まだ出会って間もないでしょうに⋯⋯桃源さんは女性の心を掴むのがお上手なのね」
彼へからかいの言葉を投げつつ、事が済んだあとで娘を問い詰めようと心に誓う母の姿がそこにあった。
◇
三人のやり取りを見ながら、達也は迷っていた。割り当てられた部屋に戻り、端末で調べたいことが多々あったが、この場で津那美が話すだろう内容にも興味があったからだ。
しばし熟考したのち、深雪のガーディアンであるという理由を建前にこの場に残ることを決める。
そして、ソファー越しに妹の背後に立とうとする彼へ向けて、津那美が声を掛けた。
「達也くんは座らないのか?」
その言葉に達也は惑い、素早く深夜へと視線を向ける。彼女は気負う様子もなく、ごく自然に当たり前の言葉を告げた。
「そうね。達也、貴方も座りなさい。貴方ひとりだけ立ったままなんて、桃源さんも心苦しいでしょう」
「しかし、お__っ」
「座りなさい」
「⋯⋯はい」
反論を口にしかけた達也の言葉を、有無を言わせぬ迫力で遮る深夜。母の目線から拒否することはできないと悟った彼は、おとなしく空いている一人掛けのソファーに腰を落ち着けた。
やがて、リビングの扉が開き、紅茶の用意を整えた穂波が姿を見せる。彼女は人数分の紅茶をテーブルに置くと、一礼して立ち去った。
深夜が優雅な手つきでカップを手に取り、紅茶を口に含むと、続いて津那美と深雪が同じように紅茶を飲む。
ただひとり、達也だけは飲もうとしなかったが、母も妹もそれを咎めようとはしなかった。
カップをテーブルに戻すと深夜は姿勢を正し、津那美へ話しかけた。
「いま一度名乗らせてもらうわ。この子たちの母の司波深夜よ。子どもたちの危機を救ってくれたこと、改めてお礼を申しあげるわ。桃源津那美さん」
「私も改めて名乗ろう、桃源津那美だ。それと御母堂、礼はもう不要だ。子どもたちからも受け取っている。そう何度も礼をされたのでは、気持ちが落ち着かない」
「あら、御母堂だなんて随分と古めかしい呼び方をご存じなのね。わたくしのことは深夜と呼んでくれて構わないわ。そして、もう礼は要らないというのならここまでにしておきましょう。__それで、実際になにがあったのかしら?説明していただけるわよね?」
彼女は状況説明を願い出る。それを受け、津那美が口を開こうとした矢先、深雪が横から口を挟む。
「お話を遮り申し訳ございません。ですが、お母様。説明ならば、当事者である私の口からさせていただけませんか?」
「⋯⋯いいわ。深雪さん、聞かせてちょうだい」
普段の娘からは考えられない積極性に首をかしげつつ、深夜は話の内容に耳を傾けるのだった。
◇
深雪の口から語られた事実に確かな頷きを返す深夜は、そのまま津那美に問い掛けた。
「そう、そんなことが。__それにしても、正規の軍人を退けるなど、桃源さんは腕に覚えがあるようですね。もしや⋯⋯軍人なのかしら?」
「質問に答える前にひとつ、私のことは津那美と呼んでくれて構わない。子どもたちもそう呼んでいるからな。そして、ここにくる前にも答えたが、私は軍人ではない。東京で事務所を開いている私立探偵だ」
「そう⋯⋯探偵なのね」
(嘘かどうか、あとで穂波に調べさせましょうか)
「お若いのに、個人の事務所を持つなんて、津那美さんは探偵として優秀ですのね」
「大したことはない。歳も若作りなだけで、それ相応には重ねているしな。⋯⋯むしろ貴女のほうこそ、二人の子がいるとは考えられない若さを維持していると思うが」
「あらあら、本当にお上手だこと。でも、わたくしは人妻ですから。残念ながらお誘いには応えられないわ」
「そんなつもりは毛頭ない」
互いに取り留めのない会話の応酬が続くなか、津那美の隣にいる深雪は、母の容姿を褒めた彼をかすかな嫉妬を込めた目で見つめる。達也は、無表情のままその冷徹な目で状況を観察していた。
やがて、深夜が先手を取って探りの手を伸ばし始める。
「ところで、津那美さん。貴方⋯⋯わたくしと何処かで会った記憶はないかしら?」
「フフフ、先ほど人妻だから誘いには応じないと答えながら、今度は貴女が意味深な発言をする。おかしなものだな。まあ、いい。__ふむ、深夜さんのような目を惹く貴婦人と出会っていたら、記憶に残らないはずがない。ゆえに、私たちは初対面ということだ」
「⋯⋯そうね。わたくしも貴方のような美しい人と出会った記憶がないのだから、一度もお目にかかったことはないということよね。フフフ、残念だわ」
(といっても、真夜の部屋で貴方の絵はなんども目にしているのだけれど)
互いに笑みを浮かべながら軽妙なやり取りを交わす。そんな二人を眺めながら、深雪は多少の居心地の悪さを感じていた。津那美ともっと話がしたくてこの場に残ったのだが、母との会話を邪魔する気にもなれない。結果、ソワソワと落ち着かない様子を垣間見せる彼女だった。
対して、達也はただ物静かに母と青年__おもに津那美のほうを観察し、話の矛盾を聞き逃すまいと意識を研ぎ澄ましている。
そして、深夜は埒が明かないと悟ったのか、確信を突く言葉を投げかけた。
「津那美さん。貴方⋯⋯四葉真夜という名前に聞き覚えはないかしら?」
(っ!?お母様!?それは急すぎでは⋯⋯)
(母さん。叔母上の名を出すのは早計では⋯⋯)
母が不意に口にした叔母の名前に、深雪と達也は内心で焦りを覚える。
__この時の深夜は、自身でも気づかぬうちに高揚感に酔いしれていた。桃源津那美という四葉の至高の恩人にして、双子の妹が崇拝する『神』。そんな存在を前にして、不思議と気持ちが昂り、抑えられなくなったのだ。
だが、津那美はいずれその質問がくるだろうことは予測できていたので、淀みなく冷静に答えていく。
「四葉真夜か⋯⋯。聞き覚えはないが、その名は知っている。確か三十年ほど前に今は亡き大漢という国に拐われた少女の名前だな」
「あら?どこでお知りになったのかしら」
「私は探偵だ。職業柄、情報収集に手は抜けない。いつどんな情報が依頼の助けになるか判らないからな」
「そう。仕事熱心ですのね。お若いのに立派だわ」
(やはり、そう簡単にはいかないわね)
踏み込んだ発言にも焦りひとつ見せない彼を見て、深夜は心中で舌を巻くのだった。
しかし、深雪と達也だけは津那美の話が嘘だと見抜く。別荘に着くまでの道のりで『三十年前にひとりの少女を救った』という話を聞いていたからだ。
(津那美さん、嘘をつきました。いえ、嘘というより真相を話していないという印象でしょうか。⋯⋯でも、なぜ隠す必要があるのでしょう。__駄目です。解りません。なぜですか、津那美さん?)
(母さんの質問に対して、当たり障りのない会話で濁したか。だが、なぜだ?なぜ、隠す。__いや、違う。隠しごとをしたことに疑惑を持つな。隠さなければならない〝理由〟がある。それにこそ、疑念を抱くべきだ。⋯⋯だが、それが解らない。いったい三十年前になにがあったんだ)
二人とも津那美の真意を測ろうと思考を走らせるが、皆目見当もつかず、揃って彼へとチラリと視線を向けてしまう。
そんな子どもたちの目の動きを、深夜は視界の端で捉え、口元に小さな笑みを浮かべた。
(先ほどの彼の回答⋯⋯虚偽だとは理解していたけれど、二人の目を見てそれが確信に変わったわ。やはり、目の前の彼が桃源津那美、その人で間違いないようね。でも、しらを切ろうとしているのなぜかしら?__真夜に会いたくない?もしくは会えない理由がある?あるいは⋯⋯。駄目ね。どれも想像の域を出ないわ。とにかく、何かがあるのは間違いないわ。桃源津那美と四葉真夜。この二人だけが知る何かがあるのよ)
津那美の正体の確信は得たが、それでもやはり彼の真意だけは読み解けない深夜は、この後どう切り込んでいくか思案に耽っていく。
すると当の本人、津那美の口から小さな笑い声が漏れ出す。三人の訝しむ視線が集まるなか、彼は笑いを堪えながら語りだした。
「クククッ__これは、失敬。笑うつもりはなかったのだが⋯⋯。先ほどから質問ばかりなもので、それほどまでに私は謎めいているかと可笑しくなってしまってな。つい、笑いが漏れてしまった」
「いいえ、こちらも至らなかったわね。もしかして気分を害してしまったかしら。だとするなら謝罪するわ。__でもね、津那美さん。どうか理解してちょうだい。貴方のその容姿というか、美しさは明らかに並じゃないのよ。それを前にした女性は、貴方のことを知りたいという欲求に胸を疼かせることでしょう。わたくしも、先ほどは応じないと強気に断ったけれど、実際は年甲斐もなく胸が疼いているのよ。⋯⋯いっそ触って確かめてみてはどうかしら?フフフ」
「⋯⋯くだらない挑発はやめてもらおうか。ましてや、子どもたちの前だ。母親としての威厳を損なう行為は、慎んだほうがいい」
紅い瞳をわずかに潤ませ、艶やかに微笑みながらその豊満な胸を強調するように腕組みをする深夜。そんな彼女を呆れ交じりに見つめ、厳しく嗜める津那美だった。
だが、子どもたちは深夜の思わぬ行動と言葉に我を失いそうになる。深雪は、普段の優雅な母とは別人のような姿を見せられ、言葉を失う。やがて、自身が恋する男性に色目を使ったことへの苛立ちが胸に募り、その青い瞳に氷のごとき冷たさが宿った。それに伴って、彼女の身体からはうっすらと冷気が漏れ出し、室内の温度が若干下がり始める。
達也は達也で言語化できない感情が胸の内から湧き起こり、両拳を強く握り締めながら、じっと何かに耐えるように俯いていた。
隣に座る深雪から浴びせられる冷気を受けながら、子どもたちの様子がおかしいことを察した津那美。彼はこの状況をどうするつもりだと目線で深夜に訴えてみる。
むろん彼女も二人の異変には気づいていたが、その美しい顔にはまるでこの状況を愉しむような、酷薄な笑みが貼り付いていた。
(兄妹間だけでなく、母親まで歪か。なんという親子だ。⋯⋯このような親族を持ってしまった四葉真夜は、さぞ難儀しているのだろうな)
異質ともいえる家族の光景を前にして、津那美は溜め息を漏らしそうになる。その心のうちには、気苦労を抱えた四葉真夜への深い同情が溢れていた。
そのまま彼は、ごく短時間の思索に没入する。
(さて、この後はどうするも何も、私は早々にこの場を去るのが子どもたちのためにもなるだろう。お礼をする名目で招待した恩人が、あろうことか自分たちの母親を惑わし狂わせた。子どもたちの側からすれば恩義など忘れて怒り心頭になってもおかしくはない。そして、この歪な家族の今後だが⋯⋯。__ん、いま幻聴が聴こえたような気がしたが⋯⋯っ)
思考を巡らせるさなか、『お願いします、津那美さん』とかつて救った少女の声が、どこからともなく聞こえた気がした津那美だった。
◇
(私は鬼を討つ守護者であって、腕のいいカウンセラーではないのだが⋯⋯。しかし、四葉真夜は救っておきながら、その親族を救わないのは人情に欠ける行為か。__毒を喰らわば皿までも。四葉に干渉したのが運の尽きか。いいだろう、四葉真夜。これは私から三十年越しのアフターサービスだ)
この歪な家族関係の修復を決意した津那美。彼はひとまず、様子の変わった子どもたちの改善を最優先に行動した。左手を持ち上げ、そのしなやかな指先を打ち鳴らす。
__パチンッ__
小さくも軽快な音が、リビングに響き渡る。不意打ちの音で集中力が削がれたのか、深雪の身体から漏れ出ていた冷気が霧散する。達也も同じく、強く握り込んでいた拳からそっと力を抜いた。
津那美は、少し呆然としている深雪の背中を優しくさする。その温かい感触にハッと隣を見た彼女の視界には、穏やかに微笑む愛しい青年の顔が映り込む。
「二人とも、平気か?」
「つ、津那美さん!申し訳ございません。私⋯⋯無意識で魔法を漏らして__っ!?」
「⋯⋯申し訳ありません」
深雪は自身の未熟を恥じて俯いてしまう。達也も、容易に精神を乱した自身の鍛錬不足を悔み、顔を顰めた。
「気にしなくていい。それに言ったはずだ。感情を表に出すことは子どもとして当たり前のことだと。ただ、今回は私たち大人が至らないばかりに、よろしくない発露だったな。すまなかった」
津那美は二人に向けて、頭を下げた。
「いえ、そんな⋯⋯っ!?津那美さんが頭を下げるようなことはありません。私が未熟なだけですから⋯⋯」
「君は優しい娘だな」
「__あっ!?」
悪いのは自分だと言い、彼を責めない深雪の小さな頭をそっと撫でる津那美。その心地よい感触に彼女は頬を赤らめるのだった。
すっかり落ち着きを取り戻した二人の様子に安堵を覚えた津那美は、脇に置いてあったコートを手に取り、スッと音もなくソファーから立ち上がる。
先ほどから口を挟むことなく状況を眺めていた深夜が、首を傾げて問い掛けた。
「あら?もしかしてお帰りになるのかしら?」
「ああ、お暇させてもらう。貴女の不用意な発言と私の存在が子どもたちに要らぬ動揺を与えてしまった。子どもを傷つけるような所業は、私の望むところではないからな」
「「っ!?」」
津那美の自分たちを気遣う言葉に、深雪は息を呑み、達也はわずかに目を見開く。そして彼に問いを投げかけた深夜は、どこか小馬鹿にしたような小さな笑みを浮かべた。
「フフフ、お優しいのね」
「そう思うのなら、貴女も母親としての態度を改めたらどうだ。二人ともいずれ貴女の元を離れ、己の道を歩み始める。その時になって、もっと愛情を注いであげたかったと後悔しても、あとの祭りだ。深夜さん、貴女はそんな後悔を心に抱えたまま余生を過ごしたいのか?」
津那美の問いかけに、彼女はその美しい唇をフッと歪めただけだった。
(まったく、どこまでも歪だな。真意がどこにあるのか、読みづらくて困る。よほど長い期間、腹芸をこなしてきたのだろう。__だが、その瞳の奥に幽かにではあるが、子どもたちへの愛情が見える。彼女はそれを必死に押し隠しているだけだ。深夜さん、一体なにが貴女をそこまで頑なにさせている?)
思考を巡らせるが、もはやこの場では答えが出ないと判断した津那美は、あっさりと推察を切り上げてリビングの扉へと歩を進める。
そんな彼の背に、深夜は思い出したように声を掛けた。
「そうそう、津那美さん。最後にひとついいかしら?__貴方は魔法師なの?」
「⋯⋯いや、私は魔法師ではない。CADも持ち合わせていないからな。魔法など使えはしない」
「そうなの。お答えいただき感謝するわ」
(魔法など使えない、ね。その言い方、魔法ではない力なら使えるとも受け取れるわね。フフフ、本当に不思議な男性だこと)
「ごきげんよう、津那美さん。また何処かでお会いできることを楽しみにしているわ」
そう告げた彼女へ、津那美はなにも答えることなく立ち去ろうとする。
すると深雪が慌てて立ち上がり、去ろうとする彼へと話しかけた。
「あの、津那美さん。__またっ!またお会いできますか?」
母親と同じことを聞いてきた彼女に、津那美はやはり振り返ることなく、しかし優しい口調で答える。
「そうだな。縁(えにし)交わるときが訪れたなら、また会えるだろう」
そのまま出ていこうとする津那美の背に向けて、達也も立ち上がり小さく頭を下げた。その顔には、ほんのわずかではあるが、明確な感謝の念が浮かび上がっていた。
扉を開けた先には、オロオロと右往左往していた穂波が控えており、リビングから出てきた彼の顔を確認して、一瞬だけ慌てた表情を見せる。だが、そこは長年ガーディアンを務めてきた彼女。即座に表情を取り繕うと、客人を見送るための柔らかな笑みを浮かべ、深々と一礼してみせた。
津那美は、穂波へ向けて微笑みとともに会釈を返すと、悠然とした足取りで司波家別荘を後にしたのだった。
彼が立ち去ったリビングでは、深雪がぽつりと残された言葉をなぞるように自身の願いを吐露する。
「縁が交わるときを、深雪は心待ちにしております。津那美さま」
彼女はその青い瞳を閉じて、祈るように両手を組んだ。
__深雪の祈りが届いたのかは判らないが、津那美と司波兄妹の再会は存外早く訪れることになるのだが、この時の彼女にはそれを知る術がなかった。
◇
深雪の言葉から、ひとりの母として娘が胸の内に抱えた想いを察した深夜は、内心で深い溜め息を漏らした。
(深雪、貴女は正気なのかしら。貴女が相手にしようとしているのは、日本最強の魔法師であり、敬愛する叔母なのよ。それを理解しながら、恋心を抱くなんて⋯⋯本当に正気を疑うわ。__まあ、わたくしも娘のことを言えた義理ではないけれど。年甲斐もなく、はしゃいでしまった自覚があるわ⋯⋯。桃源津那美。まさか真夜の崇拝する『神』と、このようなところで会えるなんて⋯⋯)
高揚感を宥めるように、吐息をつくと深夜はソファーから立ち上がる。そして、優雅な歩みで窓際へと近寄った。
その紅い瞳は、窓越しに再びロングコートを羽織り遠ざかっていく青年の姿を克明に捉える。
「穂波、来なさい」
「はっ、はい!奥さま。何のご用向きでしょうか?」
唐突に呼ばれた穂波は、素早く主人の傍に寄ると頭を下げた。深夜は、従者に視線を向けることなく、ただひたすらに外を見つめたまま、一つの命を下す。
「穂波。彼を尾行して、その滞在先を突き止めなさい」
「はい!かしこまり⋯⋯えっ!?」
「おっ、お母様!?」
「っ!?」
穂波は、主人の命令を受領しようとして、その内容に戸惑いの声を漏らす。深雪は、母の言葉が信じられないといった困惑顔を浮かべ、達也は顔を強張らせた。
動こうとしない従者に、深夜は催促の言葉を放つ。
「どうしたの?さっさと行きなさい。見失うわよ」
「ですが、奥さま。この後は黒羽さま主催のパーティーへのご出席が⋯⋯っ!?」
「そのような些事は二の次よ。それよりも、四葉家としては桃源津那美の件を最優先に行動すべきでしょう」
「そっ、それはそうなのですが⋯⋯私は顔を見られております。尾行となれば、いっそ黒羽さまの力をお借りしてはいかがですか?」
「それは駄目よ!」
穂波はなんとか再考を促そうと深夜に苦言を呈するが、彼女は有無を言わさず切って捨てた。そして、さらに言葉を重ねる。
「貢さんの手を借りれば、真夜の耳に報告が届いてしまうでしょう。彼は他の分家当主と違い、絶対の忠誠を真夜に誓っているわ。だから、貢さんを、いえ黒羽をこの件に関わらせるわけにはいかないのよ」
「しかし⋯⋯っ!?私は奥さまの⋯⋯深夜さまのガーディアンです。安易にお側を離れるわけには⋯⋯」
「心配いらないわ。その間の警護は達也に兼任させます。__できるわね?達也⋯⋯」
「承知いたしました、奥さま」
愛する〝母〟への献身として、達也に残された唯一の感情__家族愛__が彼の精神を極端に変容させる。無表情はそのままに、冷徹な眼光はさらに鋭く研ぎ澄まされ、ガーディアンとしての任務を遂行する完璧な自動人形と化す。
達也の急激な変貌に嫌悪感を抱く深雪。
(また、その顔です。私が嫌いな⋯⋯っ!何なのですか。その感情が一切ない人形のような顔は!__ガーディアンだからという理由だけでは、説明がつきません。現に穂波さんは、感情表現ができているではありませんか⋯⋯っ。せめてこの人も、もう少し兄らしい顔ができたなら私も⋯⋯っ)
兄への複雑な想い胸のうちに抱えたまま、苛立ちを募らせていく彼女だった。
そして、穂波もまた達也のガーディアンとしての顔に戦慄を覚える。自身よりも年若い少年が、戦闘魔法師として高い実力を備えていることがありありと窺えたからだ。
それでも、彼女の表情から主人の傍を離れる躊躇いが消えることはない。
業を煮やしたのか、外を見ていた深夜の目線がようやく穂波へと向けられる。
「穂波⋯⋯わたくしは行けと命じたのよ。もしかして、言葉が理解できないのかしら?」
彼女の紅い瞳には底冷えするほどの冷酷さが宿り、逆らうことの愚かしさを雄弁に物語っていた。
「もっ、申し訳ございません!直ちに__っ」
穂波は、主人の気迫に気圧され、慌てて別荘を飛び出していく。窓越しに、彼女の後ろ姿を確認した深夜は踵を返し、再びソファーに腰掛けた。そんな母に、深雪は恐る恐るといった体で声を掛ける。
「あの方を尾行するなんて⋯⋯っ!お母様は、なにを考えていらっしゃるのですか?__いえ、それ以前にまずは桃源津那美さまを見つけたと、叔母さまにご報告すべきではないのですか。叔母さまが、どれほど津那美さまとの再会を願っていたのか⋯⋯それはお母様が一番ご存じではないのですか!」
娘の切実な訴えにも、深夜は眉一つ動かすことはなかった。その紅い瞳は確かに深雪を捉え、彼女の言葉にも耳を傾けているはずなのに、どこか上の空の印象を受けるのだった。
「お母様、聞いていらっしゃるのですか?」
「んっ。ええ、聞いているわよ、深雪さん」
「では、しかとお答えください。なぜ、穂波さんに尾行を命じたのかを」
娘の問いかけに、深夜は事もなげに答えた。
「答えは単純よ。彼が桃源津那美本人だとは確証が持てないからよ」
母の言葉に、深雪は一瞬唖然となるも、即座に食って掛かる。
「なにをおっしゃるのですか。あの方は⋯⋯津那美さまは間違いなく叔母さまの探し人、桃源津那美さま御本人です。叔母さまのお描きになった肖像画と寸分の狂いもないお姿だったではありませんか」
「そうね。確かに名前も同じ、容姿も酷似していたわ。でも⋯⋯ただそれだけのことよ。それだけで、彼が四葉家の恩人で、真夜の探し人だと断定することはできないわ」
「っ!?」
彼女は息を呑み、反論を述べようとするも、深夜はそれを遮り、嘲笑とともに言葉を放った。
「フフフ、恋は盲目とは正にこのことね。⋯⋯娘の恋愛事情に口を挟む気はないのだけれど。深雪さん、貴女の桃源津那美への判断には希望的観測、あるいは願望が多分に含まれているわ。司波家家長として、そんなあやふやなものを理由に四葉家当主へ報告を行うわけにはいかないのよ。理解できて?」
「なっ!?」
自身が胸に抱いている想いを見抜かれ、深雪はたじろぎ口を噤んでしまう。
母と妹の口論を壁際に立ち、ただジッと眺めていた達也は脳裏でどうすべきかを考えていた。深雪の擁護をしようかとも思ったが、自分が要らぬ口出しをすれば、二人の気分を害してしまうと容易に判断がつく。
ゆえに彼は口を閉ざし、ガーディアンとしての任務を遂行することだけに意識を割いた。だが、同時に達也は深夜の言動に対する分析も並行して行う。
(母さんの言葉は、至極当然のものだ。先の一連の会話だけで桃源津那美本人だと断定することはできない。だが⋯⋯どこか違和感がある。母さんには何か自分だけの思惑が⋯⋯叔母上にも明かせない自分だけの事情があるように思えてならない。それが、一体何なのかが解らないが。__そして、口には出せないが、俺も深雪の意見には同意だ。あの人は間違いなく桃源津那美本人だ。俺のこの眼が捉えた光景が何よりの証拠だ。情報体次元(イデア)に一切情報がない存在など、複数もいてたまるか。だが、二人は俺のような特異な眼を持っていない。俺が、あの異様な光景を証言したところで、あまり意味はないだろうな)
明確な答えが導き出せない思考に没頭しながらも、彼は二人の様子をつぶさに観察しつつ、ガーディアンの任務を続行するのだった。
口ごもり、もはや何を話せばいいのか判らなくなった深雪を前にして、深夜は吐息とともに静かに告げる。
「話は終わりよ、深雪さん。貴女は着替えて、パーティーに参加する準備を始めなさい。穂波が戻り次第、すぐに向かうのですから」
母の言葉に何ひとつ返せない彼女は唇を噛み、逃げるようにリビングを後にした。達也は、そんな妹を少し悲しげ目で見送る。
そんな彼へ向けて、深夜は感情が乗らない冷めた口調で話しかけた。
「達也。警護はもういいわ。貴方も着替えて準備なさい」
達也は母の指示に口答えすることなく、ただ一礼で返し、静かな足取りでリビングを出ていく。
ひとつの静寂が訪れた部屋で、残された深夜は腕組みをして天井を見上げた。
「ようやく⋯⋯ようやく機会が巡ってきたのよ。逃してたまるものですか⋯⋯っ!」
その美しい唇から、ぽつりと零れた言葉は本人の耳以外に届くことはなく、静まり返ったリビングの空間に溶けて消えるのだった。
◇
それから、小一時間ほどで穂波が別荘に戻ってきた。
彼女はリビングに入ると、そこは異様な雰囲気に包まれている。パーティードレスを身に纏った深雪は物静かにソファーに腰掛け、タキシードを着た達也は壁際に立ち、不動の姿勢でその冷徹な目に母と妹の姿を収めていた。
ただひとり普段着のままの深夜は、テーブルを挟み娘の対面にあるソファーに座っているが、両者の間には会話など一切なく、ピリピリとした空気が流れている。
穂波は雰囲気に呑まれ、リビングに入室したことを後悔した。今すぐにでも踵を返して出ていきたいが、そうはさせまいと彼女の主人たる深夜が声を掛ける。
「戻ったのね、穂波。時間も押しているわ。報告は簡潔になさい。__それで、桃源津那美はどこのホテルに滞在しているのかしら?」
「はっ、はい、奥さま!桃源さまはその⋯⋯っ」
「どうしたの?はっきり申しなさい」
「はい!えっと⋯⋯桃源さまはホテルではなくその⋯⋯民宿に入っていかれました」
「__えっ!?」
彼女の報告に、深夜は思わず呆然とした声を漏らしてしまう。同じく、深雪と達也も声こそ出さなかったものの驚愕にその目を見開いていた。
深夜はハッと我に返ると、改めて念を押すように穂波に尋ねる。
「穂波、もう一度言ってちょうだい。彼はどこに入っていったと⋯⋯」
「ですから、桃源さまはホテルではなく民宿に泊まっているようです」
「民宿⋯⋯。ホテルではなく民宿。__プッ!?フフフッ⋯⋯アッハハハハハハハッ!」
報告の意味を理解した深夜は、小さく吹き出すと唐突に大声を出して笑い始めた。
普段の母からは想像もつかないその姿に、深雪、達也、穂波は思わず唖然とした表情を晒してしまう。
「フフフフフフフフフッ!民宿⋯⋯民宿ね。四葉の恩人が⋯⋯真夜が崇拝する至高の『神』が民宿に寝泊まりしているなんてっ!?愉快で堪らないわ。__桃源津那美。なんて男かしら。わたくしの想像の斜め上を行くなんて⋯⋯。ええ、本当に面白いわね」
笑いすぎて目尻に浮かんだ雫をそっと拭いながら、深夜は冷徹な母とはほど遠い、少女のような純粋な笑みを浮かべてみせる。
母らしくない、だがずっと見ていたいと願いたくなるその顔を、思わず凝視してしまう兄妹と従者。
見られていることを察した深夜は、微かに頬を染め息を整えてゆっくりと語りだす。
「見苦しいものを見せてしまったわね。⋯⋯穂波、報告ご苦労さま。ゆっくり休んでちょうだい。__あら?そろそろ時間ね。深雪さん、達也。二人とも会場になるホテルへ向かいなさい。主催者である貢さんを待たせるわけにはいかないでしょう」
「__はっ、はい。お母様」
彼女の言葉や仕草からは普段の冷徹さが若干薄れ、まるで普通の母親のような雰囲気が滲み出ている。
そのギャップに呑まれていた深雪は、先ほどの母との会話の怒りも忘れ、普通に受け答えをしてしまう。そして、ドレスを乱さぬよう立ち上がると、ふと生じた疑問を深夜に問いかけた。
「お母様はご一緒されないのですか?」
「ええ、わたくしは行かないわ。貢さんには、体調を崩してしまったので参加を見送らせてもらうと伝えてちょうだい。お願いできるかしら、深雪さん」
「⋯⋯かしこまりました。では、行ってまいります」
深雪は母に一礼すると、優雅な歩みでリビングを立ち去る。そこから、一拍遅れて達也も深夜に一礼すると、無言のまま部屋を後にする。
そんな兄妹の背を、深夜は普段からは想像もつかない穏やかな笑みと、慈愛を込めた紅い瞳で見送っていた。
玄関先まで付き添い、見送りをする穂波は優しく声を掛ける。
「気をつけて行ってらっしゃい。深雪さん、達也くん」
彼女の言葉を受け、深雪は笑顔で返事を返し、達也はただ頷くだけで応えた。
そして、二人はパーティー会場へと向かうのだった。
◇
会場へと時間内に無事辿り着いた二人は、主催者である黒羽貢への挨拶を済ませる。
彼は深雪のことは笑顔で迎えるも、達也の顔を見た途端かすかに眉をひそめた。しかし、それも一瞬であり、その後は終始穏やかな笑みを浮かべ続ける。
深雪が母の不参加を伝えると、貢は心底残念そうな顔を見せ、深夜の体調回復を祈る言葉を彼女に託した。
そうしているうちに、貢の子である双子の黒羽姉弟・亜矢子と文弥が姿を見せる。
司波兄妹に純粋な憧れを抱く二人との再会に、深雪と達也は表面上は笑顔で応えるのだが__その脳裏には桃源津那美のこと、そして先ほど垣間見た母の姿がよぎっていた。
二つの気がかりに苛まれ、亜矢子と文弥との応答もどこか上の空になってしまう。
せっかくの旧交を温める会話が噛み合わないことに、黒羽姉弟は不満げに頬を膨らませる。そして、そんな司波兄妹のただならぬ様子を訝しみ、貢は探るような視線を二人へと向けるのだった。
◇
パーティーを終え、別荘へと戻ってきた二人。
穂波の出迎えに疲れた顔を見せた深雪は、言葉少なにさっさと割り当てられた自分の部屋へと戻っていく。そして着替えを済ませると、そのままベッドに横たわり、吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった。
達也も部屋に戻り、慣れた手つきで着替えを終える。だが、彼はベッドに横になることなく椅子に腰掛け、部屋に備え付けられた端末を前にして、その眼に鋭い光を宿した。
達也は、『桃源津那美・探偵事務所・東京』といくつかの単語を端末に入力し、検索結果を待つ。
しかし、画面に表示されたのは『該当なし』という無情な文字だった。彼はその後も検索ワードを変え、様々な角度から照合を試みるも、何ひとつ望む情報は得られない。
達也は腕組みをして、静かに思考を巡らせる。彼の明晰な頭脳は、津那美の残していった言葉の一つひとつを細かく分析し、精査を重ね続けていた。
そうして果てのない思考の海に没頭していた達也が眠りについたのは、東の空が白み始める、夜明けも間近な時間だった。
如何でしたか?次話を楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。