第十話 『兄』を理解しようとする『妹』
◇
8月5日__天気は快晴。
この日、司波家は船を借り切ってのクルージング計画を立てていた。見事な夏空に心地よい遊覧ができるのではないかと、深雪は胸を躍らせていた。
お昼を過ぎた頃に、穂波の運転する車に乗り込み、予約したクルーザーが停泊している港を目指す。
その道中、ふと思い立った深夜がある提案をした。津那美が宿泊している民宿を見てみたい、というものだ。深雪と達也も異を唱えなかった__深雪は津那美に会えるのではと胸をときめかせた__ため、穂波は目的の宿へ向かうべく車のルートを変更する。
その民宿は、有り体に言ってしまえば寂れた外観の平凡な宿であった。
運転席を降りた穂波は宿へと入っていき、ものの数分で戻ってくる。昨日の夜、確かに桃源津那美と名乗る客が泊まり、朝方早くに出掛けたそうですと彼女は深夜へ報告した。
その報告に相槌を打つと、深夜は興味を失くしたかのように穂波に埠頭へ車を向けるように命じるのだった。
民宿から離れる際、深雪の名残惜しそうな横顔を達也は静かに眺めていた。
◇
一方__那覇市内にある一つの建設現場前に、津那美は立っていた。その紅い眼は何かを見極めるように、現場を観察している。
知人に解決を依頼された謎の昏睡事件。犯人は特定でき、夜間に討伐を行う方針までは固めたのだが__いかんせん戦闘場所をどこにするかが定まっていなかった。人目が少なくなる夜とはいえ、いきなり道端で闘い始めるわけにもいかない。
周辺の民家や住民を巻き込む恐れもある。何より、犯人が異形の存在だと知られることだけは、絶対に避けねばならなかった。
そういう事情から、津那美は朝早くから民宿を出て市内を探索していた。目ぼしいポイントをいくつか検分しながら巡り__そして今、もっとも条件に見合うこの建設現場を前にしていた。
昼間は作業員たちがいるようだが、夜になれば撤収して静まり返ることだろう。そう判断した彼は、この場所で犯人と決着をつけることにした。
当初の目的を果たした津那美はひと息入れようと、目にとまった雰囲気の良い喫茶店へと入っていくのだった。
◇
港に着いた司波家一行は、接舷している大型クルーザーを運用するスタッフ三名の案内で乗船し、大海原へと繰り出した。
エメラルドブルーの海を快適な速度で駆けるなか、後部デッキに深夜と深雪、二人の姿がある。日差し避けの鍔広帽を飛ばされないよう片手で押さえつつ、デッキチェアにゆったりと腰掛けていた。
前日、津那美の件で口論を交わした二人だったが、心地良い海風と美しい風景のおかげか棘々しい雰囲気はなく、穏やかな笑みを浮かべている。
穂波はいつもと変わらぬ母娘の様子に、ホッと胸を撫で下ろす。
達也も周辺に異常がないかを警戒しながら、遊覧を楽しむ母と妹の姿を満足そうに見つめていた。
__不意に船のスタッフたちが慌ただしい動きを見せる。搭載したソナーに不穏な影が映ったと騒ぎ出したのだ。
やがて、物々しい警報が鳴り響き、船内は一気に緊迫した空気に包まれる。
穂波がスタッフの一人に詰め寄ると、所属不明の潜水艦に捕捉され、今まさに後方を追尾されているという報告を受けた。
唐突に発生した異常事態に、ガーディアンとしての感性が警鐘を鳴らす。かつて起きた四葉真夜拉致事件を彷彿とさせるような危険な状況に、穂波は表情を曇らせた。
最悪の事態を防ぐべく、遊覧を中止して即刻この海域を離脱すべきと彼女は提案する。スタッフたちはすぐに同意したが、主人である深夜はなにも答えない。
それどころか状況を愉しむかのように、その美しい唇を吊り上げるのだった。笑う意図がまるで理解できない穂波だが、了承は得られたと判断し、クルーザーを反転させるよう指示を飛ばす。
操舵手は港に向けて大きく舵を切り、所属不明艦を振り切るため限界まで速度を上げる。その間に穂波は深夜と深雪を船内に退避させ、いざという時の対処法を達也と検討し始めた。
クルーザーが白波を立てて海上を疾走するさなか、執拗に追尾してくる潜水艦から警告もなく魚雷が発射される。
遊覧用の船に対抗手段などなく、船内にスタッフたちの動揺と悲鳴が広がった。深夜は焦りひとつない表情を浮かべているが、深雪はその小さな身体をかすかに震わせている。
やむを得ず穂波は障壁魔法を展開しようと、手首のブレスレット型CADに指先を添えた。
だが、深夜が制止の声を上げ、彼女の行動を妨げる。そして代わりに達也へ魚雷の破壊を命じた。母の言葉に深雪は疑念を覚え、異を唱えようとするのだが__彼女が口を開くより先に、達也はすでに動き出していた。
後部デッキに飛び出した彼は、素早く片手を海中の魚雷へとかざし、CADに頼ることなく自身の異能《分解》を発動する。
次の瞬間、《分解》に曝された魚雷はその形を保てず、バラバラに解体されていく。誘爆する気配は一切なく、無価値な鉄くずと化して海底へと沈んでいった。
クルーザーに差し迫っていた脅威が一瞬で消失した不可解な光景に、深雪は言葉を失くし、あり得ない現象を引き起こした達也の背中を見つめる。彼女の青い瞳は戸惑いに大きく揺れ、その胸中には無能と信じ込んでいた兄に対する深い疑惑が渦巻き始めていた。
そんな娘の横顔を見届けた深夜は、ひとり満足気に微笑んだ。
◇
魚雷を無力化されたことに警戒したのか、所属不明の潜水艦は追尾を止め、そのまま海の底へと姿を消した。
危機的状況から解放され、船内は歓喜に包まれる。とくに魚雷に対処した達也には、スタッフたちから惜しみない称賛が送られた。しかし、当の本人は無表情のまま、笑みを零すこともない。謙遜の言葉を口にしながらも、その冷徹な視線は海面を凝視している。
気を緩めようとしない達也の背を、穂波が労いとともに優しく叩く。そこでようやく、彼は小さな笑みを浮かべた。
その後は何ごともなく、至って平穏に港へと帰投する。
思いもよらない危機の襲来で、せっかくのクルージングはご破算となってしまった。遊覧を最後まで楽しめなかった心残りを抱えながら、司波家一行を乗せた車は別荘への帰路を辿るのだった。
◇
別荘に帰り着いて間もなく、一人の男性が訪れる。軍服を身に纏った彼は風間玄信と名乗り、階級は大尉だと告げた。先の海上での一件の事情を伺いたいとの要望だった。
穂波は深夜に確認を取るため、風間をその場で待たせ、リビングへと引き返す。できる事なら断りたかった深夜だが、無闇に拒めば痛くもない腹を探られかねないと判断し、やむなく彼を招き入れることにした。
リビングに通された風間はソファーに腰掛け、当事者てある深夜、達也、深雪、穂波の四人へいくつかの質問を投げかけていく。
彼の質疑に対して、穂波が率先して応答を引き受けた。自分たちは一方的に巻き込まれた被害者であり、何ひとつ後ろめたいことはないと彼女は主張する。
やがて風間は壁際に立っている達也にも声を掛け、彼の口から直接事情を聞こうとした。しかし、達也の答えも一貫して穂波と同じであり、何ひとつ特筆すべき点はない。
だが__風間は目の前の少年に、いや、この家族全体に得も言われぬ違和感を覚えていた。
軍人たる自分から質疑を受けているにもかかわらず、達也の顔に動揺や焦りは微塵もない。
何よりテーブルを挟んで対面に座っている司波深夜。風間は彼女の顔に、どこか見覚えがあった。思い出そうと思考を巡らせるのだが、同時に鍛えた身体に嫌な悪寒が走る。
そのうち、今まで一言も話さなかった深夜が口を開いた。自分たちから話を聞く暇があるなら、領海を侵犯した潜水艦を捕縛するのが軍人の務めでは、と皮肉を口にする。彼女は妖艶に微笑んではいるが、その紅い瞳はどこまでも冷めきっていた。
深夜の眼に射抜かれた瞬間__風間の脳裏を掠めたのは、同じ紅い瞳を持つ〝上官〟にあたる女性の姿。
その名を口にしかけて、彼は即座に言葉を喉の奥へと押し戻す。自分が虎の尾を踏みかけたのだと理解した風間の背中を冷や汗が伝う。
改めて深夜の容姿をつぶさに確認する風間。上官である女性と瓜二つな姿を前に、彼は敬礼しそうになる衝動を必死に堪えた。
司波家の正体を思わぬ形で知った風間は、これ以上留まるのは自身にとっても、そしてこの家族にとってもよろしくないと判断する。焦りを悟られぬよう静かに立ち上がると、対応への感謝とともに穏やかな笑みを浮かべた。
そして小さな一礼を残し、風間は速やかにリビングを後にするのだった。
◇
玄関をくぐり外へと出た風間は、大きく息を吐き出した。まさに鬼の住処から無事生還を果たした心地だった。
そんな彼の背後から、達也が声を掛ける。母の命令で見送りに訪れたのだ。
直後、別荘の前に一台の軍用車両が停まる。運転席から部下と思われる男性が降り、風間へ向けて敬礼を捧げた。しかし、彼の隣に佇む達也の姿を捉えた瞬間、男は露骨に顔色を変えた。
達也もまたその顔を見て、わずかに目を見開く。前日、自分と深雪に絡んできた三人の軍人のひとり__ジョーと呼ばれていた男だったからだ。
部下のあからさまな緊張具合から事情を察した風間は、達也へ部下の不始末を陳謝する。そして、鋭い眼差しでジョーを睨みつけると、彼も慌てて敬礼をやり直し、大声で謝罪の言葉を口にした。
達也は若干苦笑を浮かべつつ、素直に謝罪を受け入れ、遺恨はないと告げる。
そんな彼へ、風間はジョーを含め三人の軍人を退けた青年のことを問いかけた。
達也はただの勇敢な一般人でしたと、津那美のことを隠す。しばらく見つめ合う二人だが__風間が先に視線を外し、納得の表情を浮かべる。
風間は車両へ乗り込む間際、達也へ軍に興味はないかと問いかけ、都合がつけば基地を訪ねてほしいと伝えた。脳裏を上官である彼女から叱責を受けてしまうかという不安が掠めたものの、それ以上に司波達也という少年への興味が大幅に勝る。
達也は検討しておきますと簡潔に答え、そのまま見送りの姿勢を保つ。子どもとは思えない彼の短い返答に、風間は口元を緩めた。彼は達也の冷徹な目を見て頷くと、車両に乗り込み別荘を後にするのだった。
◇
夜も更けた頃__深雪はひとり、割り当てられた部屋の窓辺に佇んでいた。
その青い瞳は外の景色を眺めているが、彼女の意識はまったく別のことに囚われている。
__昼間、船の上で兄が見せた力。
深雪にとってそれは、天地がひっくり返ったと思えるほどの衝撃だった。周囲の大半の大人たちが繰り返していた陰口とは乖離した事実に、どう判断すればいいのか判らなくなる。
アレは役立たずだ、出来損ないだ、無価値な存在だと、まるで呪いのように吐き捨て続けた親族たち。母もとくに反論はしなかったので、深雪も達也のことをずっと無能者だと認識していた。 現に四葉での魔法訓練のさい、彼は異様なほど手際が悪く、まともに完遂した試しがない。終わるたびに達也が顔を俯かせ、拳を強く握り込んでいる姿を彼女は何度も目撃していたのだ。
しかし、ふと思い返してみると、深夜は陰口に対して黙殺を貫いていただけで、肯定も否定も一切していなかったことに今さら気づく。
__母は最初から、兄が決して無能ではないことを知っていたのだ。
そう思い至ると、娘である自分にひたすら真実を伏せ続けていた深夜へ、やり場のない憤りが湧き上がってきた。
やがて、その怒りの矛先は達也にも向けられる。彼の力にまつわる事情を知らない深雪は、無知な自分を陰で馬鹿にしていたのではないかと、甚だしい勘違いを深めていく。
吹き荒れる感情の昂りに想子(サイオン)の制御が甘くなり、室内の気温が急速に低下し始めた。窓ガラスにうっすらと霜が降りていくのを見て、深雪は胸に手を当て、呼吸を整えるのだった。
◇
平静を取り戻した彼女は、そっと隣の部屋の様子を窺う。達也が先の想子(サイオン)の暴走に気づき、訪ねてくる気配はない。
静かに息を吐くと、深雪は改めて窓越しに外の景色を眺める。東京では滅多に見ることのできない、満天の星空が広がっていた。
美しい星の輝きに目を奪われた彼女は、ふと叔母のことに思考を巡らせる。四葉の現当主である真夜が、兄の事情を知らないなど決してありえない。
__なぜ自分に教えてくれなかったのか。気にかかってしまい、深雪はとっさに机へ置いた通信端末に手を伸ばしかけた。
しかし今、真夜の声を聞けば兄のことではなく、津那美と出会ったことを話してしまう__そんな予感が彼女の脳裏を掠める。そして、自分が彼に抱いた想いまでも真夜に吐露してしまう気さえしていた。
叔母はどんな反応をするだろう。絶句して通信を切るだろうか。あるいは__そこまで考えが及び、嫌な思考を打ち消すように深雪は慌てて首を振った。
敬愛する真夜に嫌われることだけは絶対に避けたい。そんな思いに駆られた彼女は連絡を諦め、明かりを消して逃げるようにベッドへ潜り込む。
頭まで毛布を被った深雪は、叔母のことも兄のことも押し込め、ただ津那美のことだけに意識を委ねることにした。結局、今日は彼の姿を見ることも、声を聞くこともなかったのだ。
たった一日会えないだけで、胸が千々に引き裂かれそうなほどの切なさと寂しさが押し寄せてくる。
深雪は毛布からひょっこりと顔を出すと、暗闇のなか、ぼんやりと見える天井を見つめた。その視界に、愛しい津那美の幻影がそっと映り込んだ。
「津那美さま。早く貴方に逢いたい⋯⋯っ!逢いたいです⋯⋯っ!」
零れるように漏れ出た深雪の呟きは、静寂の闇へと溶け、儚く消えていくのだった。
◇
__8月7日。
リビングのソファーに深夜と深雪が腰掛け、達也はいつものように壁際に佇んでいる。
穂波が紅茶を注いだティーカップをテーブルへと配膳し、今日の予定を深夜に尋ねた。首を傾げて悩む素振りを見せる彼女は、逆に穂波に何か面白い案はないかと問い返す。
すると穂波は、民俗衣装の着付け体験ができる催しがあると伝えると、深夜はそれに賛同し、深雪も反対しなかったため本日の予定が決まった。しかし、ひとつ問題があり、この催しは女性限定で達也は参加できないのだった。
自由時間でも与えようかと模索する深夜だったが、以前彼が風間大尉から基地の見学に誘われたと報告してきたことを思い出す。彼女は達也に向けて、この機会に行ってみなさいと命じるのだった。
ガーディアンとして深雪の傍を離れることに不安はあるものの、愛する母の言葉に背くつもりなどない達也は素直に了承する。だが彼の返事に被せるように、唐突に自分も同行したいと深雪が申し出た。娘の突飛な提案に、深夜は懐疑の視線を向ける。
訝しむ母に対し、深雪は自身に仕えるガーディアンの実態を把握したいという、真っ当な__それでいて咄嗟に思いついた口実を述べた。揺れ動く彼女の青い瞳をじっと見つめた深夜はフッと口元を緩め、いくつかの条件を守ることを前提に同行を許可する。
仲睦まじくとはいかないまでも__出掛ける兄妹の背中を、深夜は目を細め、小さな笑みを浮かべて見送るのだった。
◇
沖縄基地のゲート前に到着した達也と深雪。
強い日差しが照りつけるなか、深雪を日陰で待たせて、達也は守衛所にいる男性へ声を掛ける。彼が基地を訪れた理由を告げると、男はすぐに内線を繋ぎ、しばらくこの場で待つよう告げた。
やがてゲート脇の扉が開き、ひとりの若い軍人が姿を現す。軍服を着ているおかげでかろうじてそう見える優男は、真田繁留と名乗り朗らかな笑みを浮かべた。
真田の案内で基地へと足を踏み入れた司波兄妹。
深雪は軍基地が物珍しいのか、キョロキョロと周囲を眺めながら歩いている。達也はそんな彼女の様子を常に気に留めながら、真田の後ろをついていく。
異なる反応を示す兄妹を可笑しそうに見つめながら、真田が目指したのは訓練施設のひとつだった。
遠慮せずに入るよう促すと、中では十数人の男たちが激しいトレーニングに励んでいる。その一角で、目的の人物である風間が仁王立ちして、訓練の監督を務めていた。
真田が敬礼を捧げて声をかけると、風間は険しい視線を向けてくる。だが達也の姿を捉えると、目元を緩めて訪問を歓迎した。
そのまま訓練風景を眺める一同だが__深雪が退屈そうな表情を見せ始める。達也自身も、日頃受けている四葉での訓練の方が苛酷だな、という感想を抱いていた。
兄妹の心を読んだわけでもあるまいが、風間が肉体訓練を切り上げさせ、模擬試合を行なうよう指示を飛ばす。
彼は整列する部下たちを尻目に、達也へ声をかけた。風間の口から飛び出たのは、模擬試合に参加してみないかという提案だった。
達也はチラリと深雪の顔色を窺うと、静かに頷いて承諾の旨を伝える。
しかし、彼が試合をすることに深雪は一抹の不安を覚えた。相手は明らかに達也よりも体格で勝る大人たちだ。兄の本当の実力が見たいとは思いつつも__だからといって怪我を望むわけでもない彼女は、胸の前で祈るように両手を組んだ。
深雪の葛藤を余所に模擬試合の準備は速やかに進められ、達也の前にひとりの男が進み出る。
相手が力強く構えると、達也も流れるような所作で迎え撃つ体勢を整えた。風間の合図とともに始まった試合は__一瞬で終わりを迎える。
合図の声と同時に達也は最速の動作で間合いを潰し、男のがら空きの腹に重い一撃を打ち込んだ。子どもとは思えない打撃に、相手は腹を抱えて悶絶する。
火を見るより明らかな結果に、風間は勝者として達也の名を告げた。
兄の勝利に深雪は嬉しそうな顔を見せるも、すぐに取り繕い、小さな笑みを浮かべるに留める。
真田は感嘆の声を上げ、風間は流石だと言わんばかりに満足げな顔をした。
倒れた男が訓練場の隅へと運ばれると、次の相手が名乗り出る。再び始まる試合だが__今度の相手は魔法を使い、達也の動きを阻害しようと試みた。
しかし、達也は慌てることなく対抗魔法《術式解体(グラム・デモリッション)》を発動。男の魔法式を粉々に吹き飛ばすと、一瞬で距離を詰め昏倒させるのだった。
勝者の名を告げる風間に、突然深雪が食って掛かる。魔法を使うなど卑怯だと責める彼女の耳に、達也が自分を呼ぶ声が届いた。普段はお嬢様と呼ぶはずの彼の口から直に名前を呼ばれ、深雪は唖然となるのだが__それが深夜の出した条件であったことを思い出す。
彼女も呼び慣れない兄さんという呼称を口にするが、どうにも違和感が拭えなかった。
そんな深雪に向けて達也は、実戦ならば魔法を使うのは当たり前だと彼女の発言を諌める。なおも食い下がろうとする深雪に、彼は大丈夫だと穏やかに告げると、風間へ試合を続けるのか問いかけた。
あまりに一方的な展開に思い悩む風間のもとへ、部下であるジョーが敬礼を捧げつつ名乗り出て、達也との試合を申し込んだ。遺恨はないと語っていたものの、無用な問題が起こるのを懸念した風間は、達也に向けて伺いの視線を送る。
彼が頷きを返したのを確認し、風間はジョーに試合の許可を与えた。深雪も相手が以前絡んできた軍人であることを思い出し、少し心配げな表情を見せる。
風間が合図を出し試合が始まるのだが__早々にジョーの様子に異変が生じた。構える達也を前にして顔色が蒼白になり、身体が小刻みに震えているのだ。
相手の尋常でない様子に気づいた達也は構えを解き、風間に試合の中止を求めた。彼もまたジョーの異変に気づいており、即座に中止を宣言する。
額に大量の脂汗を流しながら引き下がるジョーの姿を見て、おそらく津那美に植えつけられた恐怖が拭いきれていないのだろうと、達也は推察するのだった。
◇
その後、訓練場を出た達也と深雪は、真田が仕事場にしているCADの研究開発室へと案内される。
彼の専門的な解説に深い興味を示す達也は、知的好奇心を抑えきれない様子で次々と質問を投げかけていく。その顔色はいつもの無表情からはほど遠く、叔母がよく口にしている子供らしさが如実に覗かせていた。
深雪は他の軍人たちの邪魔にならぬよう、壁際に佇み、そんな兄の横顔をじっと見つめる。達也のことを知ろうと同行した彼女だったが、先ほどの模擬試合の件も含め__一体どれが彼の本来の姿なのか、ますます判らなくなっていく。
それでも、兄の楽しそうな姿を見ていると、なぜか胸の奥が柔らかく綻ぶ心地がする深雪だった。
開発室を出る際、真田は達也にCADをひとつ善意で譲り、自由に扱っていいと告げる。
達也は感謝の言葉とともに深く一礼する。
こうして司波兄妹の沖縄基地訪問は終わりを迎え、別荘への帰路につくのだった。
◇
その頃、津那美は沖縄でも有名な水族館を訪れていた。事件の犯人が日中は動かないと判っているため、少々暇を持て余していたのだ。
ならばたまには観光でもしてみるかと街へ繰り出し、この場所に辿り着いたのだった。
巨大な水槽のなかを優雅に泳ぐ魚の群れが、津那美の紅い瞳に映り込む。家族連れや恋人たちで賑わう空間で、彼はひとり佇む。
しかし孤独など覚えるはずもなく、津那美は周囲の人々をそっと眺める。その幸せそうな笑顔を目にして美しい唇を吊り上げると、彼は静かに水族館を立ち去るのだった。
◇
__8月9日。
陽も落ち、夜の帳が下りた頃。
深雪は別荘の部屋でベッドに腰掛け、ひとり思い悩んでいた。この数日、色々な観光名所を家族で見て回り、その先々で彼女は達也の様子をひっそりと観察し続けた。
一見するとガーディアンの務めをただ黙々と果たしているようだが__見方を変えれば、それは妹の身を気遣うひとりの兄の姿にも見えてくる。
何よりいまの深雪には、もはや達也が無能の役立たずだとはどうしても思えなくなっていた。
海上で魚雷相手に行使した魔法の腕前。軍基地の訓練場で披露した体術の切れ。そのどれもが、四葉の親族たちが深雪に吹き込んできた評価を根底から裏切るものだったのだ。
(一体あの人のどこが無能なんですか?実際の戦闘になったら、おそらく⋯⋯私に勝ち目はありません。それに知識面でも多分⋯⋯っ)
彼女は、ここ最近の達也が真田から譲り受けたCADを前に試行錯誤している姿を、こっそり覗き見てしまったことを思い出す。
(魔工師でもないのに、CADを解析し調整する技術を持っているなんて⋯⋯っ!?私には到底できません。本当に何なんですか、あの人は⋯⋯っ!?)
周囲の評価と本人の実力がまるで噛み合わない現実に、深雪は頭を抱えたくなる。そして、やはり叔母に直接聞いてみようかと、彼女は卓上の通信端末へと視線を向けた。
だが、そうすれば津那美のことを話さずにはいられない。ジレンマに襲われた深雪は大きく溜め息をつくと、ベッドから立ち上がり窓際へと近寄るのだった。
窓ガラス越しに見上げた空には、数日前と変わらない満天の星々が浮かんでいる。美しい星の煌めきに、思い悩む深雪の心もわずかに解きほぐされていく。
やがて彼女は、星々よりも大きな天体に目を奪われた。ぽつんと夜空に浮かぶそれは、妖しい光を湛えた玲瓏な月。
その神秘的な輝きを目にして、深雪は津那美の姿を思い返す。数日前に彼がこの別荘をあとにして以来、一度たりとも再会は叶っていない。
(津那美さま。いま、どちらにいらっしゃるのですか?深雪は⋯⋯深雪はもう、どうすればいいのかまるで判りません⋯⋯っ)
彼女は祈るように、胸の前で両手をぎゅっと組んだ。すると淡い月光が、海辺の方角を照らすかのように窓越しに差し込んでくる。
深雪は青い目を凝らしてみるが、夜の闇に呑まれて詳しい位置までは確認できない。だが何故か、無性にその場に行ってみたいという抑えきれない衝動が湧き起こった。今あの場所に行けば必ず津那美に会える__まったく根拠のない、けれど確信に満ちた予感が彼女の心に宿る。
ゆえに深雪は理性ではなく、恋焦がれる男性に逢いたいという切実なる想いに従うことにした。
◇
部屋の扉を開け廊下に出ると、まるで計ったかのように隣室の扉も開いた。達也が姿を見せ、いつもの無感情の視線で何かあったのかと問おうとしている。
だが今の深雪は、その眼差しの中に妹を気遣う優しい兄の想いを見出し、旅行前とは異なる自身の変化に小さく苦笑を漏らした。
「っ⋯⋯少し散歩をしてきます。つっ、付いてきたいなら、勝手にしてください」
「⋯⋯承知しました、お嬢様」
彼女の言葉に達也は頭を下げると、階下へ向かうその背中に静かにつき従う。
さすがに母に黙って出掛けるわけにはいかないため、深雪はリビングに顔を出した。室内では、深夜と穂波がソファーに腰掛け、明日以降の予定を話し合っているところだった。
ひょっこり顔を覗かせた深雪の存在に気づいた穂波が、優しく声をかける。
「__っ!あら、深雪さん⋯⋯達也くんも。どうしたの?喉が渇いたのなら、アイスティーでも淹れましょうか」
「いえ、あの⋯⋯お母様、少し外を散歩してきてもよろしいですか?__あっ、もちろんひとりではなく、あの人も一緒ですので⋯⋯っ」
まだそれほど夜も更けていないとはいえ、この時間の外出は許してもらえないのではという不安から、深雪は少し声を曇らせる。
深夜はしばらく娘を見つめたあと、手に持っていたティーカップから紅茶を一口含むと、おもむろに口を開いた。
「達也も連れて行くというなら構わないわ。好きになさい」
「あっ、ありがとうございます!」
深雪は母へ向けて深々と一礼すると、どこか晴れやかな足取りでリビングをあとにする。達也も無言で一礼を捧げると、妹に続いて玄関へと向かうのだった。
◇
深雪は逸る気持ちを抑えつつ、緩やかなペースで遊歩道を歩く。本当は今すぐにでも駆け出したかったが、そのような真似をすれば背後につき従う達也は確実に怪しむだろう。
焦りを悟られまいと、彼女は意識して足取りを緩めていた。
深雪は後方をチラリと振り返る。そこには一定の距離を保ちつつ、規則正しい歩幅で追従する兄の姿があった。だが彼女の視線に気づいたのか、達也は一瞬足を止め、さらに間隔を空けてから再び歩みを進める。
その愚直なまでの振る舞いが、津那美に逢いたい気持ちで満たされていた深雪の心に、奇妙なさざ波を走らせた。
(何なのですか⋯⋯?少し様子を確認しただけです。もっと毅然としてくれれば、私だって⋯⋯っ。__私だって、何でしょう?)
兄への感情をうまく整理しきれない彼女は、首を小さく傾げた。そしてふと、以前津那美に言われた言葉を思い出す。
(そういえば津那美さまは、私が本心を伝えていないとおっしゃってました。あれはどういう意味だったのでしょう?__まさかっ!?思ったことはすべて口にしろとでも⋯⋯っ!?いえいえ、いくらなんでもそれは恥ずかしすぎますっ!)
飛躍しすぎた思考に、深雪の白い頬にうっすらと赤みが差す。そんな彼女の脳裏に、数日前に訪問した軍の訓練場での一幕がよぎった。
(⋯⋯ですがこの人は、お母様の命令だったとはいえ、訓練場で私の名を呼び、未熟さを叱ってくれました。__なら、私だって⋯⋯っ)
深雪は決意を固めて足を止めると、達也も即座にその場に静止した。何故止まったのかという懐疑的な兄の視線が背中に浴びせられる。
そのせいか自身の顔が余計に熱を帯びていくのを感じながら、彼女は思い切って口を開く。
「あっ、あの⋯⋯そんな後ろではなく⋯⋯っ、とっ、隣を歩いてはどうですか⋯⋯っ?」
自分から提案しておきながら、あまりの気恥ずかしさに最後は消え入るような声になってしまう。達也も妹の突飛な発言に、一瞬意外そうな顔を見せた。しかし、深雪の意志を汲み取ったのか、口元に小さな笑みを浮かべると丁寧に一礼する。
「かしこまりました、お嬢様」
礼とともに彼は静かに距離を詰め、妹の隣に並ぶ。真横に並んだ達也へ、深雪はさらに言葉を重ねた。
「あと⋯⋯お嬢様呼びも敬語もやめてください。__今は⋯⋯私たち二人だけで、お母様の目はないのですから⋯⋯っ。まあ、無理にとは言いませんけど⋯⋯っ」
「⋯⋯解った、深雪。これでいいか?」
「ええ。それでいいです、にっ、兄さん⋯⋯っ」
相変わらず慣れない呼称に、彼女は言い淀んでしまう。だが、達也は気にした風もなく、目線で行こうと促し__兄妹はゆっくりと歩みを再開させるだった。
◇
二人並んで遊歩道を歩き始めた司波兄妹。
弾むような会話もない無言のままの二人だったが、居た堪れないような重苦しさは微塵もなかった。
そんな中、深雪は達也への呼称のことで頭を悩ませていた。
(兄さん⋯⋯兄さん。やはりしっくりきません。何か別の呼び方を考えましょう。何がいいでしょうか?)
彼女は足を止めることなく、脳内で吟味を重ねていく。
(__お兄ちゃん⋯⋯っ。却下です!絶対に違います!何が違うのかは自分でも判りませんが、違和感しかありません!)
残念ながら検討は初手から躓いてしまい、深雪は内心で自分自身に激しいツッコミを入れた。しかし彼女は諦めることなく、次なる候補を浮かべていく。
(次です、次!__兄上⋯⋯。悪くはありませんが、やはり違います。他には__兄君さま。時代錯誤ですね、次。__兄様⋯⋯。中々良いと思います。あまり違和感もありません。ですが、もう一押し欲しいです。何か⋯⋯っ)
そうしているうちに、深雪の視界へ人気がない夜の海水浴場が映り込んできた。彼女は一旦長考を切り上げ、少々足早に歩みを進める。達也もまた、遅れることなくその隣を追従するのだった。
遊歩道を外れ、浜辺へと降り立った深雪は目的の人物を探すべく、周囲に視線を巡らせる。そんな妹の様子を、達也は声を掛けることなく静かに見守っていた。
やがて、彼女の青い瞳はある一角に引き寄せられ、大きく見開かれる。
どこか恐ろしさすら孕んだ薄闇のなか、深雪が恋焦がれる男性__桃源津那美は悠然と佇んでいた。彼女は歓喜に胸を震わせ、彼の名を呼ぼうとする。だが、彼が放つあまりにも幻想的な異彩に、深雪の身体は呼吸すら忘れたかのように固まってしまった。
海風に靡くその長い白髪は月明かりを浴びて蒼銀色に煌めき、水平線の彼方まで見通すような真紅の瞳は、昼間とは違う妖しい輝きを宿している。
まさにこの世の者とは思えない、幽玄の存在。
月下美人ならぬ『月下貴神』。
深雪は声を発することもできず、その神懸かった美しさにただ魅入ることしかできなかった。
昏い海を眺めていた津那美はふと気配を察したのか、呆然と立ち尽くしている深雪へと視線を向ける。彼女の姿を捉えた瞬間、わずかに驚いた表情を見せたものの、すぐにその美しい唇で柔らかな微笑みを象ってみせた。
彼の笑みを目にした途端、深雪の身体を縛っていた緊張は優しく解けていき__まるで至高の王の元へ誘われるかのように、彼女はゆっくりと足を踏み出していくのだった。
まだまだ終わらない司波家窮命編。おそらくあと二話ぐらいかなと思います。早く入学編に入りたい。頑張って書いていきます。次話、楽しみにお待ちください。