15000文字超え。ご容赦ください。
でも、読み応えはあると思います。
第十一話 依頼完遂と蠢く陰謀の『影』
◇
近寄ってくる深雪とその背後にいる達也へ、津那美は優しく声をかける。
「やあ、深雪さん、達也くん。この言葉が適切かは判らないが、久しぶりだな」
「はっ、はい、津那美さま⋯⋯っ。いえっ、間違えました⋯⋯っ!?津那美さん、お久しぶりです。フフッ、どうやら私たちの縁はたった数日で交わったようですよ」
「⋯⋯ご無沙汰してます」
以前彼が別れ際に残した言葉を坂手取り、深雪は笑みを浮かべ、達也は無難な挨拶と会釈で返す。
そんな兄妹の様子に津那美は、小さく苦笑を漏らした。
「縁の交わりなど、所詮そのようなものだ。三十年経っても再会が叶わないときもあれば__たった数日で叶うときもある。まさに神の気まぐれで結ばれていくものだからな」
彼の語りに、深雪と達也は黙って耳を傾ける。そんな二人へさらに津那美は言葉を重ねた。
「今さら隠す気もないが⋯⋯君たち二人は、私が一体誰なのか__その正体に気がついているのだろう?」
その問いかけに、兄妹は神妙な顔をして頷く。津那美は溜め息をつくと、天上に輝く星々を眺めた。
「そうか⋯⋯。ならば聞きたいことがあるのではないか」
「そうですね。ひとつうかが⋯⋯っ」
「津那美さん!叔母様にお会いになる意志はありますか?」
達也が問おうとした声を遮り、深雪が率直に一番の疑問を投げかける。津那美は夜空から視線を落とし、不安げな彼女の顔を見つめた。
「そうだな⋯⋯。その質問に答える前に、ひとつ聞かせてくれ。彼女は__四葉真夜は息災にしているか?」
「はい⋯⋯っ!それはもう息災__いえ、元気すぎて困ってしまうほどです。女性への褒め言葉として、どうかと思いますけれど⋯⋯。とてもパワフルで溌溂(はつらつ)としていて、自由で。何より当主という形に縛られず、自分の信念を真っ直ぐに貫く。私の叔母様は__四葉真夜はとびきり素敵な女性です!」
深雪は、自身に向けられた彼の紅い瞳から目を逸らすことなく、胸を張り満面の笑顔で答えを返す。
津那美は目を細め、彼女の返答に満足げに頷いた。
「そうか⋯⋯。深雪さんの語る際の目の輝きや言葉の端々から、四葉真夜が尊敬に値する大人に成長したのだと充分に伝わってきた。__達也くん、君はどうだ。君の目から見て、四葉真夜はどんな女性だ?」
「俺ですか⋯⋯」
「ああ、君から見て、だ」
彼の言葉に達也は熟考し、やがて話す内容がまとまったのか口を開く。
「そう⋯⋯ですね。俺から見て叔母上は厳しくも優しい、もうひとりの母と呼んで差し支えない女性です。俺が曲がりなりにもあの家で__四葉家で平穏に過ごせるのは、叔母上の庇護があるからです。そういう意味では、俺は叔母上に決して頭が上がりません」
「そうですよね。兄さん⋯⋯は、日頃から目をかけていただいて、お世話になっているのですから感謝してもしきれませんよね」
「そうだな。その通りだ、深雪。だが言われずとも、そんなことは俺が一番理解している。__それと、言っておくが、叔母上への感謝の念を忘れたことなど、俺は一度たりとてないつもりだぞ」
「そうですか。なら、いいのですが⋯⋯っ」
敬愛する叔母の話題ゆえか、軽口を叩き合う達也と深雪。そんな二人の間には、つい数日前までは想像できなかった兄妹らしい雰囲気が感じられた。
◇
二人の軽妙なやり取りに、津那美は笑いを漏らす。
「クククッ、そうか。そうか⋯⋯。もう充分だ。よく判った。今のやり取りで君たちが、いかに彼女に憧れ、好意を向けているかが深く理解できた。そして、そんな四葉真夜に俄然、興味が湧いた。__深雪さん。先ほどの質問に答えよう」
「えっ!?あっ、はい!聞かせてください」
声をかけられた深雪は、静かに耳を傾ける。
「本音を言えば、私はもう彼女に会う気はなかった。三十年という時間は人にとっては長すぎる部類に入るからだが__君たちの話を聞くうちに気が変わった。高みに至った彼女の『真価』を己の目で確かめよう」
「では⋯⋯っ」
津那美の発言の意図を察した彼女は、喜びで顔を綻ばせた。
「四葉真夜に会おう__」
「あ⋯⋯っ、ありがとうございます!では、すぐに叔母様に連絡を⋯⋯っ」
「__だが、今すぐにというわけではない」
嬉しさのあまり、食い気味に話を被せてしまった深雪。しかし、津那美は苛立ちを覚えることなく、彼女を制するように言葉を紡いだ。
最後まで聞いた深雪は唖然とし、声を震わせた。
「それはどういう意味ですか?つい今しがた、お会いになるとおっしゃったではありませんか⋯⋯っ」
彼女は激しく戸惑い、達也もまた津那美へ訝しげな眼差しを向けるのだった。
二人に同時に見つめられた津那美は、改めて口を開く。
「詳しくは説明できないが、ある事情から今すぐに四葉真夜と会うことはできない。期待を持たせたなら謝ろう。__その代わりといってはなんだが、彼女への言付けを君たちに託していいだろうか?」
彼からの頼みに達也は明確に首を縦に振り、深雪は姿勢を正した。
「叔母様に会っていただけないことも、事情があるというのなら納得はします。とても残念ですが⋯⋯っ。__それで、私たちは叔母様になんとお伝えすればよろしいのですか、津那美さん」
「そうだな。では、こう伝えてくれ。『私と君は、必ずまた出逢う。その日を楽しみにしている』と」
「そのお言葉、司波深雪が確かにお預かりいたしました。責任を持って叔母様にお伝えいたしますので、どうかご安心ください」
「ああ、よろしく頼む。深雪さん、達也くん」
「「はいっ」」
兄妹の返答に、津那美は穏やかな微笑みを浮かべたのだった。
だが、返事をしたはずの深雪の脳内に、ある疑念が巻き起こる。
(あれ?もしかして私⋯⋯恋敵である叔母様の有利になる働きをしようとしてませんか?)
そのまま彼女の思考は、耳年増な妄想を生み出していく。
(仮にこの伝言を叔母様に伝え、そのままお二人が再会するようなことになれば⋯⋯きっと叔母様は津那美さまを責めて、攻めて、攻め落とそうとするはず!そして⋯⋯既成事実を作って、そのまま結婚なんてことに⋯⋯っ!?__駄目、駄目です!そんなこと絶対に認められません!津那美さまのお嫁さんは私です。私が、この方と一緒に幸せな家庭を築くのです!)
四葉の令嬢として相応しい顔を取り繕いながら、深雪の頭脳は乙女心全開のお花畑な想像に取り憑かれていた。
緊張気味に見える__実際にはピンク色の妄想に囚われているだけの彼女を見て、堅苦しい話をしてしまったなと自省した津那美は、場の雰囲気を変えようとする。
「深雪さん、あまり思い詰めないでくれ。伝言の件も急ぐ必要はない。君がなにかの用事で四葉真夜に会えた時に、さらっと伝えてくれればいいんだ」
「えっ!?あっ、えっと⋯⋯そんな顔をしてましたか?」
「ああ。思い悩む顔つきだったが。大丈夫か、深雪さん?」
「大丈夫です⋯⋯。お気遣いありがとうございます、津那美さん」
恥ずかしい妄想に耽っていたなどと言えるわけもなく、深雪は白い頬を染めながらも平気なふりをしてみせる。そんな妹の横顔を、達也はなにも言わずにただじっと見つめていた。
兄の無遠慮な視線に居心地の悪さを感じた深雪は、少々強引に話題を振る。
「ところで、津那美さんはどうしてこのような場所にいらしたのですか?」
「それはお互い様だな。私は夜の散歩といったところだ。君たちもそうだろう?」
「はい。寝付けなかったもので気分転換を兼ねて、兄さん⋯⋯と一緒に散歩の途中です」
彼女はチラリと達也に目線を送った。意図を察した彼は迷うことなく話に便乗する。
「深雪の言うとおり、気分転換を兼ねた散歩です。治安はそこまで悪くないと知ってはいますが⋯⋯津那美さんもご存じの通り、以前不埒な軍人たちに絡まれたので、心配になり同行することにしました」
「そうか。妹を大切に思う、立派な兄の志(こころざし)だな」
「⋯⋯大したことではありません。俺は当然のことをしているだけです」
淀みなくスラスラと受け答えする達也と、そんな彼の言葉に微妙に照れている深雪。
二人の醸し出す空気が、数日前とは別物だと悟った津那美は変化の理由を問いかける。
「これは驚いた。君たちふたりの間に流れる空気が、まるで別物に感じられる。よければ、この数日で何が起きたかを聞かせてくれるか?__だが、その前に⋯⋯」
津那美は足元の砂浜に視線を下ろし、紅い瞳をすっと細めた。次の瞬間、突如砂が盛り上がり始め、そのまま円柱を形成していく。
やがて、浜辺には人ひとりが座れる程度の砂製の丸椅子が横並びに三つ出来上がっていた。
不思議な現象を前に、深雪は目を丸くし、達也は微か
に目を見開く。兄妹の反応に対して、笑みを零した津那美は端にある丸椅子に腰掛けた。
「腰を据えて、話を聞きたいからな。即席で創らせてもらった。__不安がらなくていい。決して崩れたりしない」
脚を組み平然と座る彼を見て、深雪もすぐ隣にある丸椅子へと静かに腰を下ろす。胸に抱いていた不安とは裏腹に、砂で創作された椅子は崩れることなく、彼女の重みをしっかり受け止めた。
達也はというと、この現象が起きてすぐに《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》を発動、状況の解析に努めていた。だがその眼は、何ひとつとして彼が求める答えを導き出せない。
(クソッ、やはり駄目か。相変わらず津那美さんの個別情報体(エイドス)は情報体次元(イデア)には存在しない。この椅子にしてもそうだ。事象改変の痕跡がまるで見当たらない⋯⋯。最初からこの形でこの場に存在したと言わんばかりだ)
彼は丸椅子に近寄り、そっと表面を指先でなぞった。砂のざらついた感触が明確に伝わってくるが、触れたはずの指先には砂の一粒も付着していない。
(素材も⋯⋯砂以外の特殊な物質が混じっている情報はない。これは、ただの砂で創られた椅子だ。なのに、なぜ崩れない?この強度は一体なんなんだ?)
達也は考察を深めていこうとするのだが__ただ椅子をじっと見つめて座ろうとしない彼へ、深雪が懐疑的な視線を向けてきた。
その隣では津那美が愉快そうな笑みを浮かべている。
場の空気を悪くしたと察した達也は、《エレメンタル・サイト》での解析を切り上げ、通常の視界へと戻した。そして、「すみません」と短く告げ、おとなしく丸椅子へ腰を下ろす。
深雪よりも体重がある彼が座っても、砂製の椅子はびくともせず、安定した強度を保ち続ける。
(悔しいが解析は諦めよう。桃源津那美の存在とその力は、俺の手に負える⋯⋯いや、理解できる範疇ではない。現状、それだけが唯一判った事実だ)
達也は内心深い溜め息をつくと、諦観の眼差しで夜空を見上げるのだった。
二人が座ったことを見届けた津那美は、改めて声をかける。
「では、聞かせてくれるか。この数日で君たちが体験したことを⋯⋯」
彼の問いに、兄妹は顔を見合わせた。やがて、達也の小さな頷きを確認した深雪は、津那美と別れてから今日に至るまでにあった出来事を静かに語り出した。
◇
話を聞き終えた津那美は腕組みをして、思案顔を浮かべる。
「所属不明の潜水艦、か。確かに穏やかではないな⋯⋯。まあ、それはさておき__その際に見た達也くんの活躍が衝撃的で、それ以来彼のことが気になりだしたという認識でいいのか、深雪さん?」
「えっと⋯⋯まあ、有り体に言えばそう⋯⋯です」
彼の言い方に反論を唱えたかった深雪だが、事実は変わらないことを察して躊躇いがちに頷く。
その間、達也は一切口を挟むことなく、妹の話に耳を傾けていた。
「深雪さんのような年頃の娘にとっては、兄のことが気になるというのは些か恥ずかしさを覚える話だったか⋯⋯。すまない、気遣いが足りなかったな」
「いえ、お気になさらないでください。兄さん⋯⋯のことを気にしているのは事実ですから⋯⋯っ」
「そうか。だが、その上で言わせてもらうなら、君は潜水艦の事件以前から達也くんのことを気にかけていたと、私は推察するが⋯⋯。的外れな意見か?」
「っ!?なっ、何をおっしゃるのですか、津那美さん。私が兄さん⋯⋯を気にし始めたのは、つい最近です。それ以前は言葉や行動に日々苛立ちや嫌悪感を覚えるばかりで⋯⋯っ!」
津那美の発言に、深雪は慌てて弁明に走ろうとする。だが、その柔らかい唇にそっと津那美のしなやかな指先が押し当てられ、言葉を遮られてしまう。
「深雪さんは少々勘違いをしているようだ。相手を気にかけるというのは、必ずしも善意の感情である必要はない」
「善意でなくてもよい⋯⋯ですか?」
「そうだ。君たち人間が悪、あるいは負と呼ぶ感情を向けることもまた、相手を気にかけるという行為に該当すると私は考えている」
深雪は彼の言葉の意味が理解できず小さく首を傾げた。達也も興味が湧いたのか、妹へ向けていた視線を津那美へと移す。
「そもそもの話だが、善と悪、正と負というように印象を二つに隔てることが間違いなのだ。__相手に愛情を注ぐ。相手に憎しみを抱く。どちらも相手を認識し想っている行為としては同じ意味合いと受け取れる。だが、深雪さんはおそらく憎しみを抱くという行為に対しては良い印象を持っていない。違うか?」
「いいえ、その通りです。ですが⋯⋯世間的に見ても憎しみを抱くというのは、あまりよろしくない印象ではありませんか?」
「そうだな。単語の印象から、一般的に憎悪は忌避したくなるものだ。__では、相手に興味を抱かないということで使用される単語、無関心。憎悪と無関心。この二つを比較して、深雪さんはどちらにより悪しき印象を見出だせる?」
「それは⋯⋯っ」
問われた深雪は、思い悩む表情を浮かべた。そんな彼女を見つめながら、津那美は先に自身の考えを告げる。
「私は、無関心に悪い印象を受ける。例えは悪いが、深雪さんは道を歩く際、足元の小さな蟻を気に留めながら歩くか?__違うはずだ。蟻のことなど気にすることなく君は歩いている。無関心とは正にそれだ。人は興味のないものに対して、意識を割こうとはしない。存在そのものを無視してしまう」
「っ!?」
彼が何を伝えたいのか察した深雪は息を呑んだ。津那美は優しい笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねる。
「気づいたようだな。深雪さんが達也くんのことを何とも思っていないのなら⋯⋯彼が何をしようとも気にならないはずだ。興味そのものがないのだから。だが君は、達也くんの言動に対して苛立ちや嫌悪感を覚えている。言ってしまえば、それは好意の裏返しだ。その部分を改めてくれれば、好感が持てるということの表れなのだ」
深雪は口元を両手で押さえ、言葉を失う。達也もまた、彼の話に驚きを隠せず目を見開いていた。
そうして津那美は、今度は達也へとその紅き瞳を向ける。
「そして、達也くん。君も君で問題がある。__達也くんがどれほど深雪さんを思っているかはその目と行動を見れば、ある程度察することができる。だが君は、それを言葉にしない。彼女への想いを口にしない。ゆえに深雪さんは、達也くんのことが理解できず不安を感じていたのだ」
津那美の語る内容に異を唱えず、達也は聞きの姿勢に徹していた。しかし、感情の読めないその冷徹な目に、ほんのわずか動揺の色が窺える。
隣に座る深雪もチラチラと兄の顔色を窺っていた。
津那美はなおも話し続ける。
「達也くん⋯⋯君はもしかしてだが、想いは伝えずともよいと思っているのか?伝えずとも、深雪さんは理解してくれていると思い込んでいないか?だとするなら、それは傲慢な考えだと断言しておこう」
彼の言葉に、達也は何も答えられない。真っ直ぐに津那美と向き合っていた顔は伏せられ、下唇を強く噛み締めていた。
「深雪さん、達也くん、二人ともしかと憶えておくんだ。想いは言葉にしなければ、相手に伝わらないということを⋯⋯。確かに口にするのは無粋だと判断される想いもある。しかしそれはごく一部の想いだけで、やはり想いというのは言葉にするべきものだ」
滔々と語る津那美に対して、兄妹は口出しすることなく、ただ粛々と耳を傾ける。
「想いを告げて、相手を傷付けることもあるだろう。逆に想いを受け止めて傷付くことも⋯⋯。だがそれを恐れていては、何も変えられないし、変わらない」
彼は静かに丸椅子から立ち上がると、座る深雪と達也の前に歩み寄った。そして、優しい眼差しで二人を見つめる。
「まだ子どもの君たちには難しい話だったかもしれない。だから今はまだ完全に理解できなくともいい。しかし、忘れることだけはしないでくれ。__深雪さん、達也くん。伝えるべき言葉を、伝えなくてはならない想いを胸に抱えたまま、悔いを残してしまう⋯⋯。君たちの人生がそんな哀しいものにならぬよう、私は切に願っている」
語り終えた津那美は、兄妹に向けて優しく微笑んだ。淡い月光に照らされたその笑みは、あまりに美しく、妖しく、そして神々しかった。
先ほど彼と再会したとき同様、場の空気が神秘に彩られ、支配されていく。
深雪は感極まったのか、胸の前で両手を組み、ただ茫然と見蕩れていた。
達也は畏れ多い存在を前にしたかのように、そっと目を伏せる。
やがて津那美が静かに息を吐くと、異彩を放つ雰囲気が瞬く間に霧散していった。彼は苦笑を漏らし、改めて目前にいる兄妹に声をかける。
「さて⋯⋯長々と説教じみた話をしてしまったが、重く受け止めすぎないでくれ。__そうだな、大人からのはた迷惑な忠告とでも思えばいいだろう」
「っ!?はた迷惑などと思いませんっ!津那美さんのお話を聞いて、私は⋯⋯深雪は己の浅はかさを思い知りました」
「⋯⋯俺もです。自分の不甲斐なさを思い知りました」
声をかけられた深雪は座ったままで深々と頭を下げ、達也も一拍遅れで一礼をした。
「そう畏まらなくていい。私は人生の指標のひとつを示しただけだ。必ずしも、それに従う必要もなければ、縛られる必要もない。ただ、忘れずに憶えていてくれればそれでいい」
津那美は二人に向けて穏やかに告げると、すっと両手を差し出した。
深雪は首を傾げるが、達也は意図を察したようで差し出された片手を力強く掴む。兄の行動を見て彼女も理解できたようで、津那美の空いている手を恐る恐る掴んだ。
次の瞬間、津那美は両手を引き寄せ、その勢いに乗って深雪と達也は丸椅子から立ち上がる。握っていた彼の手を達也は躊躇なく離したが、深雪は名残惜しそうにゆっくりと解いていく。
そうして深雪は座ったことで少々乱れた衣服を整え、それから再び一礼した。
「津那美さん。貴重なお話をしてくださり、ありがとうございます」
「⋯⋯ありがとうございます」
妹に倣ったのか、達也も礼の言葉を述べる。しかし、その顔には冴えない沈んだ色が見え隠れしていた。
自分の話のせいかと気に病んだ津那美が、彼に声をかけようとした__その瞬間。
__ドクンッ__
自らの体内に宿している【鬼切丸】が微弱な鬼気(きき)の発露を感知し、確かな鼓動を打ち鳴らすのだった。
(動き出したか。場所は⋯⋯そう遠くないな)
津那美は一旦目を閉じて、鬼気(きき)を感知した方向へと感覚を集中させ、おおよその距離を測る。そして目を開けた彼は、改めて達也に話しかけた。
「達也くん、あまり思い詰めないことだ。君が容易に感情表現できない事情があることは、家族の異様さで察しがつく。それが何かは私には判らないが⋯⋯ただ君が深雪さんを大切に思っていること、これは確かな事実だろう。ならばあとは、その想いを達也くんなりの言葉で彼女に伝えればいい」
津那美は言葉を区切り、深雪へと視線を向ける。
「深雪さんもそれを待ってくれている。そうだろう?」
「⋯⋯知りませんっ!」
問われた彼女は、照れ隠しかプイッと顔を背けてしまう。しかし心なしか、その頬には鮮やかな赤みが宿っていた。
それを見た達也の表情は、決意を宿した人間味のあるものへと変わっていく。
「君たちはまだ若い。絆を取り戻すには遅すぎるということは決してないはずだ。自分の想いを、深雪さんの想いを信じることだ。できるな、達也くん?」
「はい。深雪に不安を抱かせる自分を必ず排除してみせます」
「何とも物騒な返事だが⋯⋯まあ、いいだろう」
達也の変則的な答えに苦笑を浮かべた津那美は、時間を気にしてある提案をする。
「__さて、気分転換の散歩にしても充分な時間が経過した。子どもはそろそろベッドに入って眠る時間だ」
「津那美さん。私はそこまで幼子ではありませんよ」
「判っているさ。だが、私から見ればまだまだ子どもだ。別荘に戻って、もう休むといい」
「む、むー⋯⋯っ!」
子ども扱いされた深雪は不満げに口を尖らせ、小さく抗議の声を漏らす。それは子どものわがままでもあるが、恋焦がれる男性の傍を離れるのが寂しいという切ない乙女心の表れでもあった。
そんな彼女の気持ちにまるで気づいていない津那美は、夜更かしがしたい年頃かと見当違いの推察をして、微笑ましげに見つめる。
「そんな愛らしい声を上げても、結論は変わらない。おとなしく別荘に戻り、体を休める。君がすべきことはそれだけだ、深雪さん。達也くんも、そう思うだろう?」
「そう⋯⋯ですね。__深雪、今日はもう遅い。〝母さん〟や穂波さんも心配する。津那美さんの言う通り、散歩はここまでにして別荘に戻ろう」
「分かりました、兄さん⋯⋯。ですが__っ」
津那美の提案に兄も同意してしまったため、深雪はやむを得ず首を縦に振った。しかしそこは恋する乙女、司波深雪。好きな男性と少しでも長く時間を共にするため食い下がり、可愛らしくお願いをする。
「私のことを別荘まで送り届けてくれますよね、津那美さん?」
「無論だ。君たち二人を最速で送り届けよう」
そう告げて不敵に笑った津那美は、深雪と達也、二人の肩に手を置き、【空間転移】を発動した。
「えっ!?」
「なっ!?」
驚愕に漏れ出た兄妹声を一瞬だけ響かせ__三人の姿は影も形も残さずにその場から消失する。
その後__彼らが消え去り、波の音だけが聴こえる静寂を取り戻した浜辺。津那美の力の影響から外れたのか、残っていた三つの砂製の椅子は脆くも崩れ去り、何の変哲もないただの砂粒へと還っていった。
◇
一瞬、景色が激しく歪んだ__そう認識したのも束の間、気づけば周りの光景がガラリと変わっていた。
先ほどまで漂っていた潮の匂いは消え去り、周囲を確認してみれば、この数日で見慣れてしまった司波家別荘の前に深雪と達也、そして送ってきた津那美の三人は佇んでいた。
「⋯⋯えっ!?ここは⋯⋯別荘の前!?」
「一瞬で移動した⋯⋯。そんな馬鹿な⋯⋯っ!?」
いかに魔法師といえども、あまりに常識離れした現象を体験した深雪は、ぺたんと尻もちをついてしまう。
達也は感情を失っているなど嘘であるかのように、驚愕の色で顔を染めている。
(これが瞬間移動⋯⋯いや【空間転移】、か。想子(サイオン)の活性化も、事象の改変も何も解析できない。なんて力だ⋯⋯。魔法師の限界値を遥かに超えている)
彼の明晰な頭脳は必死に考察を巡らせるが、現実離れした現状を前に頭の動きが鈍っていくのを感じていた。
そんな中、送り届けた津那美は静かに二人から距離を置くと、穏やかな声で話しかける。
「では、二人ともおやすみ。よい夢を」
そう告げると彼は再び【空間転移】を発動し、深雪と達也の目の前から姿を消した。
眼前で人ひとりがあっさりと消え去る。その現実を前に、深雪はぽつりと言葉を漏らす。
「神の御業⋯⋯っ!!」
それから__穂波が気配に気づき、玄関先に姿を見せるまで、司波兄妹はただ茫然と津那美が消え去った場所を見つめ続けるのだった。
◇
津那美が【空間転移】した先__そこは夜の住宅街。すっかり人通りの絶えた路地裏だった。
彼は素早く周囲を検分し、昏睡事件の犯人を探す。
__やがて津那美の立ち位置から数メートル先、塀の陰に身を隠しながら歩く挙動不審な人影を見つけた。警戒心が高いのか、しきりに周囲を気にしている様子が窺える。
津那美は口元にフッと冷淡な笑みを浮かべると、気配を発することなく背後へと迫り、躊躇うことなく声をかけた。
「いい月夜だな。こんな夜は人を⋯⋯女を襲いたくなるか?」
「ヒイィィィィィィっ!?」
誰もいないと思っていた背後から唐突に降って湧いた声に、不審者は身体を震わせ悲鳴を上げる。飛び退くほど驚いたため、塀の陰に寄せていた身体が飛び出してしまい、その姿が露わになった。
正体は若い男。黒の半袖シャツに黒のパンツと、全身黒ずくめではあるが、一見すればどこにでもいる普通の男だった。
彼は驚きで乱れた呼吸を整えながら振り返り、声をかけた津那美へと怒鳴り散らす。
「おっ、驚かすんじゃねぇ!テメェ、誰だよ⋯⋯っていうか、後ろには誰もいなかったはずだ。どっから現れやがった、テメェ!⋯⋯そういや、さっき女がどうとか言ったな。テメェ、もしかしてサツか?おっ、オレに何の用だ!?」
激しい動揺から男の言動は支離滅裂に陥り、一方的に捲し立ててくる。
そんな彼の様子に、津那美は若干呆れた表情を見せた。
「動揺しすぎだ。自分が犯人だと自白したも同然だぞ⋯⋯」
津那美は吐息をひとつ漏らすと、緩めた表情を引き締める。
「君がただの人間だったなら、警察に引き渡して終わっただろう⋯⋯。しかし残念ながら、君は人ではない。欲に溺れ、人の道を踏み外した異形。__よって、守護者である私が今宵、その命を摘み取ろう」
「⋯⋯命を摘み取るって⋯⋯えっ!?」
殺害宣告を受けて唖然となる男へ向けて、津那美は左手をかざし【物質転送】を発動。男の姿は路地裏から一瞬で掻き消えた。
間髪入れず、津那美もまた【空間転移】を発動。男を追尾するため、即座にその場から姿を消すのだった。
◇
紅い瞳の青年を前にしていたはずが__次の瞬間、男の目に映ったのは那覇市内と思われる美しい夜景。
「あっ!?どこだよ、ここは?那覇市⋯⋯か!?」
周囲を見渡した男の視界に、積み上がった鉄骨や資材の山が映り込む。その様子からどうやら建設途上のビル__その屋上だと見当をつけた。
「なんでこんな所に⋯⋯。さっきまでオレ、住宅街にいたはずじゃ⋯⋯っ」
「周辺の住民に迷惑をかけるわけにはいかないのでな。場所を移させてもらった」
疑問符を浮かべる男の背後から、自分以外の声が再び響く。慌てて振り返った男の視線の先には、紅き瞳を湛えた青年・津那美が悠然と佇んでいた。
「っ!?テメェはさっきの⋯⋯どういうつもりだ!つーか、どうやってオレをここに連れてきたッ!?」
「言っただろう、住民に迷惑をかけるわけにはいかないと⋯⋯。あと、どうやったかなど君が知る必要はない。教えられることがあるとすれば、ここが君の死に場所だということだけだ。清廉さの欠片もない無骨な場所だがな⋯⋯」
一切の淀みなくただ淡々と死を語る津那美に、男は恐怖を覚え始める。膝がガクガクと震えだし、彼の足は少しでも津那美から距離を置こうと後退していく。
「なんなんだよ、さっきから⋯⋯っ!?物騒なこと言いやがって。おっ、オレが何したってんだっ!」
「何をした、か。それは君がいちばん判っているのではないか。複数の女性を昏睡させ、その精神をいま現在も魔法で弄んでいる君自身がな」
隠された罪を暴くために放たれた津那美の言葉が、鋭い刃となって脆弱な男の精神を刺し貫いていく。
すると男は後ずさるのをやめて、その場に膝をついた。罪に苛まれだしたのか、頭を抱え、小さく呻き声を上げる。
そんな男の無様な姿を前にして、津那美の紅い瞳に微かな赫怒の色が宿った。
「下らん猿芝居はやめろ。いい加減に本性を顕せ」
告げられた瞬間、男の呻き声がピタリと止み、幽鬼の如くゆらりと立ち上がる。
やがてギリッと歯噛みしたかと思えば、その口から勢いよく怒号が飛び出す。
「ほんとになんなんだよ、テメェは!オレの邪魔すんなよ。オレは⋯⋯オレを馬鹿にした女どもに復讐してんだ。これは正当な権利なんだよ。〝あの人〟もそう言ってくれたんだ。そのための〝力〟もくれた。⋯⋯そうさ、オレは絶対に間違っちゃいねえぇぇぇ!!」
目を血走らせ、天に向かって吠えた男の肉体は急激な変化を始めた。
まず上半身の筋肉が大きく膨れ上がり、着ていたシャツが耐えきれずに千々に裂けていく。続けて下半身の筋肉も膨れるが上半身ほど増大はしなかった。そして、肝心の頭部に関しては何の変化も起こらない。
それでも、変化した男の体格は元の二回りほどに達していた。
津那美は、男が変貌していくさまを静かに観察している。
(鬼化するにしては奇妙な変化だ。鬼気(きき)は微弱、角の顕現もない。__やはり、負の感情を糧にして鬼になったわけではないようだな)
彼は考察を巡らせながら攻撃を加えることはせず、ただじっと変化の状況を眺め続けた。
やがて肉体の変化が終わったのか、男の口から深い呼気が放たれ、天を見上げていた顔がゆっくりと下ろされる。瞳孔が開ききり、獣と化したその眼が獲物である津那美の姿を捉えた。
「おっ、オレのじゃマずるやツ、みんナころズ。ミンな、イなくナればいイ」
声帯が歪んでいるのか、口から漏れ出た言葉は酷く不鮮明で聞き取りづらい。
そうして男は膝を曲げ、前傾姿勢を取ると津那美へ向けて容赦なく踏み出した。並外れた脚力を備えているようで、男の足元のコンクリートが罅割れるのを津那美の紅い眼は目撃する。
「じネ、ジねっ、じねエぇぇェ゙ぇ!!」
直線的に突進し、男は豪腕を振るい殴りかかった。
迫りくる拳に対して、津那美は平然としたまま立ち位置をわずかにずらし、難なく躱す。眼前を豪腕が高速で通り過ぎ、風圧が彼の白髪を大きく揺らすが__津那美の顔に恐怖の色は微塵もなかった。
一度躱された程度で男の動きは止まらず、雄叫びを上げながら執拗に拳を振るう。
「ウガァァァァァゥッ!!」
圧倒的膂力で繰り出される連続攻撃は、暴風の如き風圧を巻き起こし、凄まじい猛威を感じさせた。
しかし最強の守護者たる津那美にとっては、ただのそよ風でしかない。彼は拳の軌道を完全に見切り、舞うような美しい動作で全て躱していく。
その最中、津那美は男の観察を続行する。
(これが〈魔法童子〉か。その割には魔法を使う素振りがない⋯⋯。何故だ?獣性の発露に伴い、理性を失ったからか⋯⋯?何が要因なのか。現状では判別できんな。まあ、それ以前にこの〈魔法童子〉には大きな欠点がある。それは__)
彼は考察を一旦中断し、男の一撃を躱しざま、その鼻っ柱に強烈な回し蹴りを叩き込む。
__ゴキンッ。
「ギゃあッ!?」
鼻骨が砕ける鈍い音が響き、悲鳴を上げた男は建築資材の山へと弾き飛ばされた。
(鬼としてあまりに弱すぎる点だ。獣性が引き出されてはいるが⋯⋯動きに人間味が残り過ぎている。爪や牙による攻撃が一切ない。なのに肉体的には鬼と同列⋯⋯。何だ、このアンバランスは⋯⋯)
「グるるるルルるっ!」
資材を軽々と跳ね除けながら起き上がる男を眺め、津那美は吐息をひとつ漏らす。
「その頑強さは及第点だ⋯⋯。だが、それ以外は鬼としてはあまりに半端⋯⋯。言うなれば、〝鬼もどき〟だな」
彼が浮かべた酷薄な笑みを目にし、鼻から血を流す男の顔が激怒に染まる。
「オで⋯⋯おデをバかにスるな!」
怒りに駆られた男は咄嗟に資材のひとつを手に取り、投げつけようとするが__記載された文字を読み取って、ニヤリと口を吊り上げた。
〈ポルトランドセメント〉。そう記載された袋を次々と破いた男は、躊躇うことなく中身すべてを周囲にぶち撒ける。大量のセメント粉末が白煙となって立ち込め、辺り一帯を覆い隠す。男の姿もその煙に呑まれ、視認できなくなった。
(ほう、理性は乏しいのに、道具を利用しようとする知性はあるのか。__まあ、高位の鬼ならそのような知性も持つが⋯⋯角もないアレが高位とは、到底思えん。となれば鬼もどきの特性か?)
視界を奪われたというのに、津那美に焦りはなく、冷静に思考を巡らせる。
にわかに白煙の中から伸びてきた二本の異形の腕が、津那美の胴体を抱え込むように力強く拘束した。
やがて夜風の影響で煙が晴れていくと、ニヤけ顔をした男が現れ、その手に掴んだ獲物を天高く掲げる。
「ひヒひっ。つかマエた、ツかまえタ!オまえ、モうオワり。ニギリつぶしテやる。ひャハハはハッ!」
男は足を踏み鳴らし、高らかに嗤い声を上げた。そうして苦痛に歪む獲物の顔を覗き込もうとするのだが、その獣の眼が捉えたのは、まったく別のものだった。
「私を捕まえた程度で勝利を確信か⋯⋯。この痴れ者が」
はしゃぐ男を前に、津那美の紅い瞳は冷たく研ぎ澄まされ、発した声には若干苛立ちが混じっている。拘束されたままの彼は小さく溜め息を漏らすと、わずかに動く右手指先を打ち鳴らした。
__パチンッ__
軽快な音が響いた直後、津那美を捕らえていた男の両腕が一瞬で燃え尽き、灰と化した。
「⋯⋯アっ!?」
呆けた声を漏らし、獣の眼が根元から焼失した自分の両腕の痕跡を見やる。
一拍遅れで激痛が生じたのか、絶叫を上げようとした__その瞬間。
__ドスッ__
男の口が下から上へと、鋭い刃によって貫かれた。
自由を取り戻し、地に足を着けた津那美の右手にはいつの間にか【鬼切丸】が握られており、繰り出された神速の刺突が男の顎下から頭頂へ向けて貫通していたのだ。
「あっ⋯⋯アが⋯⋯ッ」
口の隙間から男の声が微かに漏れ、目元からは赤黒い液体がじわりと滲み出て頬を伝っていく。やがて眼球がぐるりと裏返り、男は物言わぬ存在と化した。
それを確認した津那美は、静かに【鬼切丸】を男の顎下から引き抜くと、刀身に付着した血のりを一閃して払い落とすのだった。
◇
刃が引き抜かれた男の身体は、膝から崩れ落ちるようにバランスを失い、ドスンという重い音を響かせ屋上の地面に倒れた。傷口から溢れた血が冷たいコンクリートの地面を汚していく。
津那美は【鬼切丸】の顕在化を解き、自身の体内へ戻すと、男の遺体へと歩み寄る。そして片膝をつき、遺体に触れようと手を伸ばした。
(塵に還らない、か。やはり鬼とは違うようだ⋯⋯。さて君の身に何が起こったのか、読み取らせてもらおう)
残留思念から情報解析を試みようとした__その刹那。
「っ!?」
津那美の研ぎ澄まされた感覚が微弱な殺気を捉え、彼は即座にその場から飛び退いた。
直後、不可視の鋭い何かが、先ほどまで津那美のいた場所を交差するように駆け抜けていく。
目に見えない奇襲を難なく躱し、遺体から少し離れた場所に着地した津那美。そんな彼に向けて、頭上からパチ、パチ、パチと乾いた拍手が降り注いだ。
「ほう?よく躱せたものだ。貴様、なかなかに強いな」
声の主を確かめるように津那美が上空へ視線を向けると、そこには白の中華風衣装を身に纏ったひとりの男性が浮遊していた。
男はゆっくりと下降し、遺体の傍に降り立つ。
津那美は目元を鋭く細めると、冷静な声で問いかけた。
「答えは判りきっているが、一応聞いておこう。何者だ?」
「ハハハハハっ、判っているのなら聞くな。それに聞かれたところで正直に答えるほど、ワタシは愚かではない。⋯⋯だが、まあ、目的は教えてもよい。__コレの回収だ」
そう告げた男は、つま先でコンコンと遺体を蹴りつけた。
「失敗作とはいえ、貴重な実験体だ。〝御方(おんかた)〟のため、役立って貰わねば困る。というわけで、コレはいただいていくぞ。邪魔するつもりなら⋯⋯こうなる!」
男は無造作に腕を横薙ぎに振るう。再び不可視の何かが走り、コンクリート製の堅い屋上の地面に巨大な斬撃の跡が刻み込まれた。
津那美は無言でその痕跡を眺める。
「では、さらばだ。〝御方(おんかた)〟の悲願が成就する、その時にまた会おう。尤も、その時が人の世の終わりとなるがな。フハハハハハハ!」
嗤う男を中心に〝風〟が渦巻き、その勢いを増していく。異なる気流が猛烈な摩擦を生み出し、悲鳴のような甲高い擦過音を周囲に響かせた。
しばらくして風が収まると、その場にもはや男の姿はなく、傍にあった鬼もどきの遺体も消え失せている。唯一、その場に残されたのは遺体から溢れ出た血痕だけだった。
津那美は吐息をひとつ漏らすと、男が刻んだ大きな斬撃痕を改めて検分する。
(〝風使い〟か。なかなかの腕だな。だが、この程度の力量なら私の敵ではない)
そう結論付けると、彼は屋上のふちへと歩み出し、那覇市内の夜景を静かに眺めた。
(謎の風使い、実験体、御方(おんかた)。新たな謎は浮上したが⋯⋯昏睡事件の犯人である鬼もどきは討った。被害にあった女性たちも、じきに目を覚ますだろう。私の沖縄での仕事はこれで終わりだ)
思考を巡らせる彼は、ふと深雪の語った話を思い出す。
(所属不明の潜水艦。深雪さんはそう言っていたな⋯⋯。まだ何かが起こるということか。とはいえ、おそらくそれは人間同士の愚かな勢力争いだろう。守護者である私には何の関係もないことだが__)
津那美の脳裏に深雪、達也、深夜の顔がよぎっていく。
(彼女たちがそれに巻き込まれるのを黙って見過ごすのは、義に劣る行為か。『義を見てせざるは勇無きなり』__母さん、貴女の言葉は私にとっての救いでもありますが、同時に呪いでもあります)
内心で亡き母への恨み言を零しつつ、彼は今しばらくの沖縄滞在を決めるのだった。
◇
__後日。
那覇市内にある総合病院のひとつ。その病室に入院している昏睡事件の被害者。十五人の女性が一斉に目を覚ます。
病院長である金城がほっと安堵の息をつくのも束の間、彼女たちが意識を取り戻したことで、警察からの事情聴取が行われることになる。だが、彼女たちの誰ひとりとして事件当日の記憶を残している者はいなかった。
しつこく粘ろうと刑事たちに対し、金城は津那美から告げられた言葉を胸に、医者としての矜持を持って立ちふさがる。患者の健康を第一に考え、毅然とした態度で事情聴取を切り上げさせた。
翌日__軽い問診を受けて問題なしと判断された女性たちは、金城に感謝の言葉を述べながら晴れやかな顔で退院していくのだった。
被害者たちが目を覚ましたことを契機に、昏睡事件は完全に鳴りを潜める。その後、新たな被害が一切発生しないことから、合同捜査本部は事件が終息したものと判断。犯人未特定のまま、捜査本部は解散することとなった。
新たな謎、新たな敵が浮上しましたが、プロローグではこれらの存在はここまでです。
あとは沖縄海戦だけですね。とは言っても窮命編1で戦闘描写を入れましたから、軍の裏切り者から深雪を救出するところを書いて、達也がマテバぶっ放すところを書いて、津那美が深夜とお話するところを書くだけです。
プロローグの終わりが見えてきました。次話を楽しみにお待ちくださると嬉しいです。