第十二話 もう一つの運命の日
◇
8月12日__早朝。
まだ早朝ということもあり、浜辺に人の気配はない。そんななか、津那美はひとり陽光を浴びて煌めく海を静かに眺めていた。
涼やかな波風が彼の白髪とロングコートの裾をそっと靡かせる。真紅の瞳は水平線の彼方まで見通すような鋭い眼光を放っていた。
その時__ぽつりぽつりと雨が降り注ぎ始める。頭上を見上げれば、うっすらと差し掛かる雲があるだけで、爽快な晴れ間が覗いていた。
「狐の嫁入りか⋯⋯。吉凶、どちらの到来を告げるのだろうな」
そう呟く津那美の耳に、微かな遠雷の音が届く。
「来るか⋯⋯」
彼は視線をゆっくりと水平線へと戻し、目を細めた。
肉眼では捉えられない遥か遠方に位置する艦隊を、津那美の人ならざる視界は明確に捉えている。フッと笑みを浮かべた彼は踵を返し、浜辺から立ち去るのだった。
◇
司波家別荘__昼頃。
あれから三日経つというのに、深雪の興奮は未だに冷めやらない。部屋のベッドに横たわり、恋焦がれる津那美のことを考えていた。
(はぁ~、凄い体験をしてしまいました。瞬間移動⋯⋯いえ、空間転移ですね。あのような奇跡をこの身で味わえるなんて⋯⋯。)
その事を深夜や穂波に伝えたとき、二人とも目を見張り、驚愕の表情を浮かべていた。
(魔法師には許されていない、まさに神の御業⋯⋯!ああ、津那美さまを一体どれほどの高みに君臨されているのでしょう⋯⋯っ)
深雪は興奮のあまり、足を思いきりバタつかせたい衝動を覚える。しかし、淑女としての教育が必死にそれを堪えさせた。ふと彼女の脳裏に、敬愛する叔母のことがよぎる。
(そういえば叔母様が、津那美さまは飛行術式も使えるとおっしゃってましたね。大漢から救われた際、お姫さま抱っこされて、一緒に満天の星空の下を翔けたと⋯⋯。う〜っ、羨ましいです。私も抱きかかえていただいて、ロマンチックに空を飛んでみたいです)
内心で叔母への小さな嫉妬を燃やしながら、自身も津那美とのランデブーを妄想しようとする深雪の耳に、屋外から響くけたたましいサイレンの音が届いた。
◇
隣の部屋では達也が椅子に座って、CADの状態を細かくチェックしている。
__数日前に知り合った軍人の真田繁留から譲り受けた銃型CADを、自分の知識を元に一心不乱に調整し続けたのだ。
その作業を終え、CADの最終確認を行なう彼の表情には、珍しく満足げな色が浮かんでいた。
そんな達也の耳にも、屋外から異常を告げるサイレンの音が届く。彼は即座に意識を切り替えると、窓の外へと冷徹な視線を向けた。そして慌てることなく席を立ち、ハンガーからジャケットを取って完成した銃型CADを手にすると素早く部屋を出る。
異常事態の発生にちょうど深雪も部屋を出たところであり、二人は廊下で鉢合わせた。
「みゆ⋯⋯っ、お嬢様、何か起きたようです。下に降りて確認しましょう」
「そっ、そうですね⋯⋯。そうしましょう」
一瞬、妹の名を呼びそうになるのをすぐに改め、普段の呼称に戻す達也。
そんな兄に対して嫌悪の視線を向けるでもなく、深雪は一階へ降りるため歩を進める。達也は遅れることなく、静かにその後ろに付き従う。
リビングに顔を出した二人が目にしたのは、険しい表情でテレビモニターの報道を観ている深夜と穂波の姿だった。
深雪と達也も二人に倣い、モニターへと視線を向ける。
そこには、『大亜連合、突然の宣戦布告。沖縄へ侵攻開始』の文字とともに速報記事を焦燥交じりに読み上げるニュースキャスターと軍の広報担当が現状を解説する様子が映し出されていた。
報道を聞いた穂波は慌てて深夜へ声をかけようとして、深雪と達也の存在に気づく。
「っ!?深雪さんと達也くん、ちょうどいいところに⋯⋯。いえ、今はそんな事より奥さま、ここにいては危険ですっ!すぐに避難しましょう」
「⋯⋯そうね。そうするしかないわね⋯⋯」
モニターから視線を外すことなく、深夜は落ち着いた声で答える。主人の了承を得た穂波は、深雪と達也に向けて避難の用意を促した。
「深雪さん、達也くん。二人とも急いで準備してね」
そう告げた彼女が、リビングを出ていこうとしたその時__達也の個人端末に着信が入る。相手は、沖縄基地訪問の際に番号を交換した風間大尉だった。
『司波達也くんか⋯⋯』
「風間大尉ですか。この状況下で自分などに連絡を取っている暇はないと思いますが⋯⋯」
『ああ、こちらは酷い有様だ⋯⋯。情報が錯綜して、現場が混乱している。__っと、すまない。君には関係ないことだったな。さて、時間も押しているため、用件だけ伝えさせてもらう。よければだが__』
そのまま達也はしばらく彼と通話したあと、一旦保留にして風間を待たせ、深夜へ会話の内容を報告する。
「奥さま。風間大尉から、よければ軍のシェルターに避難しないかとのお誘いですが、いかがいたしますか?」
「⋯⋯妙ね。知り合って間もないわたくしたちに何故そのような融通を利かせるのかしら⋯⋯?」
彼女は相手の思惑を測ろうと熟考し、やがて結論を述べようとしたその矢先__今度は深夜の個人端末が鳴り響いた。傍らにいた穂波が取り急ぎ画面を確認し、思わぬ相手の名に息を呑む。
「っ!?奥さま、ご当主さまからです」
「なんですって⋯⋯穂波、端末を」
差し出された主人の手に、彼女は素早く端末を渡す。
深夜は優雅な手つきで通話ボタンを押し、耳に当てると静かに応答を始めた。
「真夜。貴女⋯⋯随分と耳が早いわね。四葉本家にいるならいざ知らず。おそらく未だ京都にいるのでしょう。どうやって情報を仕入れているのかしら?」
『フフ、姉さんったら。私を侮りすぎよ。これでも四葉の当主であり、何より私は日本最強の魔法師よ。その立場ゆえに多様な伝手があるのよ⋯⋯。知りたい?』
「謹んで遠慮しておくわ。そんな貴女の姉を務めてきた経験上、余分なことを見聞きして良い目を見た試しがないもの⋯⋯」
『あら残念。姉さんになら、こっそり教えてあげてもよかったのに⋯⋯』
端末越しに軽口を叩き合う二人だったが、やがて真夜の声音が真剣みを帯びる。
『さて、無駄話はこれぐらいにして、そろそろ本題に入りましょうか。そちらの状況はおおよそ理解しているわ。⋯⋯戦端が開かれるのも時間の問題。避難するのなら急いだほうがいいわよ、姉さん』
「忠告痛み入るわ、真夜。でもひとつ言わせてもらうと、これから避難しようとしていたところで、貴女から連絡が入ったの。空気が読めてないわね⋯⋯真夜」
『あらあら、それはタイミングが悪かったわね。ごめんなさい、姉さん』
「気にしなくていいわ。わたくしたちを心配してのことでしょうし⋯⋯。話はそれで終わりかしら、真夜」
『ええ、無事に避難するというのならそれでいいわ。__ああ、いけない。それとは別にもうひとつ確認すべきことを思い出したわ⋯⋯。もしかして風間と名乗る軍人から連絡がきていない?』
真夜が口にした名を聞いて、深夜は一瞬達也に視線を向けた。
「あら、奇遇ね。ちょうど今、達也にその風間さんから連絡が入っているのよ。しかも⋯⋯軍のシェルターに避難しないかという奇妙なお誘い付きでね。不思議でならなかったけれど、合点がいったわ。もしかしなくても彼は貴女の知り合いね、真夜」
『⋯⋯詳しくは話せないけれど、その通りよ。それでどうするの、姉さん?』
「実際、思惑が読めないから断ろうかと思ったのだけれど、貴女が絡んでいるなら問題ないわね。彼の誘いを受けて、軍のシェルターに避難するわ」
深夜がそう告げた途端、端末越しに真夜の深い溜め息が漏れ聞こえた。
『ほっとしたわ。姉さんたちを保護するなら、より強固で安全な軍のシェルターがいいと思っていたの。達也や深雪のためにも尚のことね。普段は冷たく接していても、やはり二人が大切なのね、姉さん』
「そういう訳ではないわ⋯⋯。単にその方が都合がいい。それだけよ」
『相変わらず、素直に自分の心を表せないのね。でも、いつまでもこのままでいい訳がない⋯⋯。それも判っているわよね、姉さん⋯⋯』
彼女からの問いかけに、深夜はただ無言で返す。だが双子の姉妹だからこそ姉の胸の内が判るのか、真夜は優しく言葉を重ねた。
『電話口のせいか、ズケズケとものを言ってしまったわね。ごめんなさい、姉さん⋯⋯。よければ、深雪と代わってもらえる?気の利かない姉さんの代わりに、私が言葉をかけるわ』
「⋯⋯分かったわ。__深雪さん、真夜が話したいことがあるそうよ」
そう言って深夜は、深雪へと端末を差し出す。彼女は静々と母の手から端末を受け取ると、そっと耳に当てて呼びかけた。
「深雪です。⋯⋯叔母様ですか?」
『一週間ぶりね、深雪。声が聴けてとても嬉しいわ。大変なことが起きてしまったけれど⋯⋯大丈夫?こんな事になるなら、貴女の誘いを断らずに私も一緒に付いていくべきだったわね。本当にごめんなさい』
「叔母様、どうかお気になさらずに⋯⋯。叔母様には津那美さまを探すという崇高な目的があるのですから。それを優先なさるのは当然のことです」
『深雪⋯⋯。ありがとう、貴女は本当に優しい子ね。それにしても、〝津那美さま〟なんて⋯⋯。随分、奇妙な呼び方をするのね。一体どうしたの?』
「あっ!?いえ、あの、それは⋯⋯っ」
母からは津那美と出会ったことを隠すように言われている深雪。同時に彼からは真夜宛ての伝言を託された身でもある。板挟みに遭い、口にすべき事柄に迷いが生じてしまう。
だが、真夜は別段気にした風もなく時間が差し迫っていることもあり、話を先に進める。
『まぁいいわ。深雪⋯⋯怖いでしょうけど、姉さんや達也の言うことをよく聞いて、落ち着いて行動するのよ。いいわね。__達也に代わってもらえる?』
「はい、叔母様。お心遣い、ありがとうございます⋯⋯。兄さん⋯⋯に代わりますね」
深雪が口にした呼称に、端末越しの真夜は一瞬、緊張を走らせた。しかし異を挟むことなく、そのまま達也に代わるのを待つ。
妹から端末を受け取った達也は素早く耳に当て、叔母へと呼びかけるのだが__それを遮るように、相手が一気呵成にまくし立ててきた。
「叔母上、代わりま⋯⋯」
『ちょっと達也!いつから?いつからなの?深雪に〝兄さん〟なんて呼ばれるようになって⋯⋯。いつから、そう呼ばれるようになったの?早く教えなさい!』
興奮し早口で責め立ててくる真夜に、達也は溜め息を漏らしつつ普段よりもさらに冷静な声で応答していく。
「⋯⋯叔母上、落ち着いてください。今はそんな些末なことに拘っている場合では⋯⋯」
『些末⋯⋯些末ですって!不仲だった貴方たちの状況が変わろうとしていることが、些末だというの!さすがに聞き捨てならないわよ、達也』
「言葉が過ぎました。どうかご容赦ください、叔母上。ですが、こちらはいつ戦端が開かれてもおかしくないのが現状です。それをご理解ください」
達也は叔母を宥めようと必死に言葉を紡ぐ。しかし、真夜の興奮はなかなか収まらない。
『そんな事は判っているわよ⋯⋯。でもね、貴方たちが生まれてから今日に至るまで、私はずっと見守り続けてきたわ。その間、この目に映っていたのは仲睦まじい兄妹の姿ではなかった。その要因がなんであるかを知っている私としては、とても心苦しかったし⋯⋯どうにかしたくて歯がゆい思いを抱えたのも一度や二度ではないわ。そんな状況に改善の兆しが見え始めたのよ。喜んで当然じゃない!』
「叔母上⋯⋯。俺たちのために常に心を砕き、いついかなる時も厳しくも優しく見守ってくださったこと、感謝に絶えません。本当にありがとうございます。しかし、今は感傷に浸っている時ではありません。呼称の件に関しても、事が落ち着きましたら必ずお話いたします。ですから、どうか落ち着いてください」
達也の懸命さに彼女も落ち着きを取り戻したようで、謝罪の言葉が返ってくる。
『ごめんなさい、達也。あまりの嬉しさに、少し取り乱してしまったわ。貴方の言う通り、詳しい話は後日にしましょう。約束よ、達也』
「はい、お約束いたします、叔母上」
安堵の吐息をつきながら、達也の明晰な頭脳は真夜への説明手段の検討を始めていた。
(俺と深雪の不仲の改善は、津那美さんとの接触があったからだが__現状、それを伏せたままで叔母上に説明することは到底不可能だ。何より彼から託された伝言のこともある。ならば後日、伝言を託された深雪の口からある程度説明させて、俺が要所を補足していく。これが一番収まりがいいはずだ)
彼は一瞬で事態解決の手順を構築してみせるが、そんな達也の様子を深夜と深雪はどこか複雑な目で見つめる。
(真夜と一体どんな話をしているのかしらね。__それにしても、真夜と話している時の貴方はただの少年のような顔をするのね。わたくしの魔法によって、深雪への愛情だけを残して過分な情動は消去されたはず。なのに貴方は、真夜に対して敬愛の精神を抱いている。それは真夜と接する内に育まれていった、貴方自身の心の成長の証⋯⋯。)
本来ならば誇らしい息子の成長の喜びを、深夜は決して表面には出さない__いや、出そうとはしない。もはや自分にそんな資格はないのだと、彼女は微かに自嘲を浮かべ、達也からそっと視線を逸らす。
その一方で、深雪もまた思考を巡らせていた。
(叔母様とどんな話をなされているのでしょう。__でも、叔母様と話している時のあの人は、あんなにも穏やかで人間味の溢れる顔をしていたのですね。私は、今までそんな些細なことにすら気づかなかった。いえ、気づこうとしなかった⋯⋯。ただ周囲の人々の言葉を鵜呑みにして、それを一方的に信じてあの人を嫌悪していた。なんて愚かだったのでしょう。しっかりあの人と向き合えば、その目には私への慈しみの色が確かに浮かんでいたというのに⋯⋯)
自身の浅慮を反省しながら、深雪は叔母と通話している兄を見つめ続けるのだった。
達也の耳に、先ほどとは打って変わった冷静な真夜の声が届く。
『__話を戻すわね、達也。これから軍のシェルターに避難してもらうけれど、確実に安全とは言えない。最悪の場合、穂波さんだけでなく、貴方にも力を振るってもらう必要があるわ。本当なら子どもの貴方に頼むことではないのだけれど⋯⋯』
「お気になさらないでください、叔母上。俺はそのために存在しているのです。すべて承知のうえです」
『達也⋯⋯』
万が一の際は戦闘を行うことになるというのに、達也の声には悲壮感のひとつも滲み出ない。それがとても哀しいことに感じられ、逆に真夜の声音に悲哀が宿るのだが、彼女はそれを振り払うように会話を続けた。
『どうにかして私もそちらに行きたいのだけれど⋯⋯戦時特例によって、西日本の交通手段は航空機を含み軒並み規制を受けているわ。だから、私の到着はあまり期待しないでちょうだい』
「委細承知いたしました。最悪の場合は俺と穂波さんで、奥さまとお嬢様を守りますのでご安心ください。__叔母上もあまりご無理はなさらないように。貴女は四葉に⋯⋯いえ、この日本にとってなくてはならない存在なのですから」
そう告げる達也の顔には、真夜のことを案じる優しげな甥の表情と、四葉のガーディアンとしてあらゆる外敵を排除する冷酷無慈悲な表情が同居していた。
『フフ、そんな御大層な女性じゃないわよ、私は⋯⋯。でもありがとう、達也。貴方もやっぱり優しい子ね。いま一度言うけれど、仮に戦闘になっても相手を必ず倒す必要はないわ。いざとなれば逃げることも検討しなさい。大切なのは、貴方たち全員の無事なのだから⋯⋯いいわね』
「はい、叔母上」
『姉さんに代わってもらえる?』
「分かりました。__奥さま、叔母上がまだ話があるとのことです」
達也は深夜の傍に近寄ると、静かに端末を差し出す。彼女は端末を受け取ると、耳に当てた。
「真夜、まだ何かあるの?」
『いいえ、話はもうないわ。ただ切る前に一言言いたくてね⋯⋯。どうか無事に帰ってくることを祈るわ、姉さん』
「⋯⋯ありがとう、真夜」
短い感謝の言葉を告げると深夜は通話を切り、こちらを見つめる達也へと声をかける。
「達也⋯⋯。大尉さんに誘いを受けると申し伝えなさい」
「かしこまりました、奥さま」
彼は一礼すると、保留状態だった自身の端末を繋げ、風間に「お願いします」という言葉とともに了承の返答をした。
その後__軍からの迎えが来るまでの時間、深夜を除く三人で最低限の避難の準備を進める。
やがて、別荘前に風間の部下が運転する車両が停止した。司波家一行は纏めた荷物と一緒に素早く乗り込むと、国防軍沖縄基地を目指すのだった。
◇
沖縄基地へと到着した司波家一行は軍人の案内の下、シェルター内の一室へと通される。
穂波が室内を改めるため、先行して入室するのだが__そこには一組の別の家族がいた。身なりの良い格好から、おそらく富裕層の家庭で軍に資金援助でもしており、その伝手を利用して軍のシェルターへの避難を融通してもらったのだろう。そう判断し実害は無いとみなした彼女は、後続していた深夜たちに入室を促した。
室内は広々としていて、いくつか円形のソファーが設置されている。そのひとつに深夜と深雪が腰を下ろし、達也と穂波は立ったまま周囲を警戒した。一見安全そうに見えるが、ガーディアンとして厳しい訓練を受けてきた二人__特に達也には油断も慢心も無く、冷徹な視線を室内各所に向けている。
一方で警護対象の二人__深夜は落ち着いた様子を見せ、その見事な美脚を組んでソファーに腰掛けている。しかし深雪は落ち着かない様子で、周囲に忙しなく視線を向け、太ももの上に置いた両手を微かに震わせていた。
そんな妹に、達也は一瞬声をかけようかと考えたが、母も見ている手前どう話しかければいいか判らず、結局口を閉ざしてしまう。
特に会話もないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
__不意に、遠方から銃声が響いてきた。
室内にいた別の家族が小さな悲鳴を上げ、達也と穂波の顔に鋭い緊張が走る。
「達也くん⋯⋯今のはっ!?」
「ええ、まだ距離はありますが、おそらくライフルの音ですね」
穂波は達也の傍に寄り、耳打ちするように尋ねた。彼は何かを見通すような視線を部屋の出入り口に向けたまま冷静な声で返答する。
すると、同室にいた家族の亭主と思われる男が傲慢な態度で話しかけてきた。この男はあろう事か、達也たちに様子を見てこいと命じたのだ。
あまりの常識外れな態度に穂波は激昂しかけるも、達也が前に出て彼女を制する。そして、子どもとは思えない倫理的で理詰めの反論を展開し、男を引き下がらせた。
自分を睨みつけながら家族の元へ戻る男のことを、至極当然に意識から切り捨てた達也は、より警戒心を高めて周囲を探り始めるのだが__そんな彼に深夜が静かに声をかける。
「達也⋯⋯少し外の様子を見てきなさい」
「っ!奥さま、そのお言葉は容認できません。万が一の際、穂波さんひとりでは守りきれない可能性があります」
母の言葉に達也は即座に異を唱えた。その内容は穂波を軽んじるようにも聞こえたが、当の本人は彼との戦闘力差を理解しているのか、不快に思うことなく平然としている。
深夜は冷めた目で達也を見つめながら会話を続けた。
「そうね⋯⋯。でもそれ以上に戦闘になった際、この部屋に籠もることの方が問題よ。部屋の出入り口は一つしかない。それを敵に押さえられてしまえば、わたくしたちは逃げることさえ困難になるわ。ガーディアンとして、その程度のことは理解できるでしょう?」
「それは⋯⋯」
彼女の指摘は実に理にかなっており、達也は異論を挟むことができなかった。そんな彼を見かねた穂波が、フォローするように優しく声をかける。
「達也くん、安心して。いざという時は私が命を賭して、奥さまと深雪さんを守るからっ!」
「かしこまりました⋯⋯。穂波さん、あとはよろしくお願いします」
達也は部屋の扉へと歩を進め始めるが、兄が傍を離れることに不安を感じた深雪が、咄嗟にその背に声をかけた。
「あっ、あの⋯⋯」
彼はピタリと足を止めると即座に振り返り、不安げな表情を浮かべる妹へと近寄る。
深雪の前に立った達也はその場に膝を着き、微かに震えている彼女の手を優しく握りしめた。
「大丈夫だ、深雪。少し傍を離れるが安心してくれ。何があっても、お前のことは俺が守る。守ってみせるから」
「はい、兄さん⋯⋯」
ガーディアンとしてではなく、ひとりの兄として接する達也の様子を、深夜はわずかに眉根をひそめて眺めていたが、あえて咎めはしない。むしろ彼女は内心で、明らかに変化し始めた兄妹の関係に狂喜すら覚えていた。
(ああ、ようやくね。ようやく、ここまで来られたわ。もうすぐ、わたくしの願いが叶う⋯⋯)
兄の手をそっと握り返す深雪の横顔も見つめていた深夜は、二人に気づかれないよう静かに溜め息を漏らす。
握っていた妹の手を離した達也は、すっと立ち上がると、今度は振り返ることなく部屋を出て行った。
__それからしばらくして、再度部屋の扉が開く。
兄が戻ってきたのかと顔を綻ばせる深雪だったが、入室してきたのは三人の軍人だった。彼らの顔に見覚えがあった深雪は記憶を掘り起こしていくが、結局思い出せずに終わってしまう。
そうしているうちに、軍人のひとりが前に出て、「敵が侵入した。ここから避難してほしい」と訴えてきた。その言葉に同室にいた別の家族は慌てふためき、深雪と穂波も顔色を変える。ただひとり、深夜だけは冷めた目で軍人たちの様子を見つめていた。
避難誘導するという彼らの指示に従い部屋を出ていこうとする別の家族とは違い、深夜は腰掛けたまま「息子が席を外しているので帰りを待ちます」と断り、この場に残ることを決める。軍人たちは一瞬険しい顔をするも、即座に表情を改め、執拗に避難すべきだと告げてきた。
だが、彼女は頑として首を縦に振らず、彼らの忠告に否を突きつける。
深夜の態度に不審を覚えた穂波は、静かに彼女の傍に寄り耳打ちした。
「奥さま。達也くんなら、のちほど合流できるのでは⋯⋯」
「あれは建前よ。この者たちにはどこか違和感を覚えるわ。愚直に従うのは危険だとわたくしの直感が告げているの。わたくしの感覚を信じられるかしら⋯⋯穂波」
「もちろんでございます、奥さま」
軍人たちには見咎められないよう、穂波は手首に嵌めているCADを起動させ、魔法の発動準備に入った。
頑なに動こうとしない深夜相手に、次第に焦りを覚える軍人たち。彼らは互いに顔を見合わせ、頷きを交わした__その矢先、部屋の扉が開き、わずかに負傷した別の軍人男性が入ってきた。
入室してきた彼は何かを告げようとしたが、それを制するように三人の軍人は男に向けて肩に担いでいたライフルを構え__躊躇うことなく発砲した。
男は三人の軍人の姿を見るや、咄嗟に身を翻し壁を盾にして隠れる。これが功を奏したのか、彼は銃弾の雨から間一髪逃れることができた。
そしてこの間、銃声が響くやいなや穂波は即座に障壁魔法を発動し、深夜と深雪を守護する体勢を整えた。しかし状況が不透明ゆえに、彼女は攻撃魔法の使用は控える。
やがて、四人の軍人たちの間を怒号が飛び交う。どうやら先行した三人の軍人は、国防軍での扱いに不満を募らせ、大亜連合へと寝返ったようだ。銃撃を浴びせられ身を隠す男は、懸命に反逆者たちへの説得を試みる。
だが彼らは一切聞く耳を持たず、不平不満を吐き捨てながら銃を斉射していく。
男は説得を諦め、やむを得ず反撃に出るのだが民間人に当たる可能性を考え銃ではなく魔法を行使しようとした。
その動きを見越していた反逆者のひとりは、嵌めていた指輪をかざし、想子(サイオン)を流し込んだ。
障壁魔法を展開していた穂波は、反逆者の嵌めている指輪__正確にはそれに付随している鉱石を目撃して息を呑む。
(っ!?まさかあれは⋯⋯アンティナイト!?なぜ彼らがあのような物を⋯⋯っ。いえ、そんな事よりこのままでは、奥さま⋯⋯深夜様が⋯⋯)
彼女は、主人である深夜へ向けて精一杯に叫んだ。
「お逃げください、深夜様っ!《キャスト・ジャミング》です⋯⋯」
穂波の警告は一歩遅く、想子(サイオン)ノイズが溢れ出し、周囲の空間を満たしていく。
《キャスト・ジャミング》の影響下で、最も深刻な被害を受けたのは深夜だった。精神魔法を得手としている彼女にとって、想子ノイズは猛毒に等しい。
深夜は頭を抱えたままソファーから転げ落ち、苦悶の表情を浮かべ床にうずくまってしまう。
「お母様⋯⋯っ!?」
「み、深夜様っ!」
深雪は小さく悲鳴を上げて口元を両手で押さえ、穂波は慌てて主人の下へ駆け寄ろうとするが、彼女もジャミングの効果で身体に不調を覚え、膝を突いてしまう。その結果、展開していた障壁魔法は消失してしまった。
唯一、領域への干渉能力が極めて高い深雪だけが軽微な被害で済んでいた。
《キャスト・ジャミング》の発動で勝ちを確信した反逆者たちは、苦悶の顔を晒す元同僚の男へとライフルを構える。それは深雪に対して無防備な背中を見せることと同義だった。
母と穂波を救うため、隙を見せた反逆者たち__とりわけアンティナイトの指輪を持つ軍人への反撃を、深雪は決意する。自身の固有魔法《コキュートス》を発動させ、対象となった軍人の精神活動を完全に停止させた。
精神を凍結させられた軍人は、まるで糸を断ち切られた人形のように膝から崩れ落ち、床へと倒れ伏す。
突然の仲間の異変に、残った二人の反逆者は男へとどめを刺す手を止め、慌てて振り返った。彼らが目にしたのは、怯えた目をしながらも必死にこちらを睨みつける、ひとりの少女の姿だった。
彼女が何をしたかは理解できないが、明確な敵と認識した反逆者たちはライフルの引き金に指をかけ、容赦なく発砲する。
反撃に出た深雪だったが、彼女はひとつ思い違いをしていた。これは訓練ではなく実戦であること。そして、敵は単独ではなく複数であるということ。ゆえに__敵を一人でも仕損じれば、即座に自身が危険に晒されるという事実を失念していたのだ。
極限まで集中力を高めていたせいか、深雪の目には銃口から放たれる弾丸が遅滞しているように見えた。しかし、確実に迫りくるその弾丸は、一発一発が自身の命を奪うには充分過ぎる威力を備えていた。
命の危機を前にして、彼女の脳裏に達也の声がよぎる。
『深雪、お前のことは俺が守る』
その言葉を信じて、深雪の口から今までとは違う、それでいて最も馴染む兄への呼称が叫ばれた。
「お兄様ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
同時に彼女は、心の中で愛しい男性の名も呼ぶ。
(救けてください、津那美さま⋯⋯)
深雪は目を閉じて、少しでも我が身を庇おうと縮こまり、頭を抱えて衝撃に備えた。
__しかし、いくら待っても身体に衝撃はおろか、痛みのひとつも走らない。不審に思った彼女の鼻腔を、甘い白檀の香りがくすぐった。
その芳香に覚えがあった深雪は、咄嗟に目を開く。彼女の視界いっぱいに、黒色のロングコートの背中と結われた白髪が映り込んだ。
「津那美⋯⋯さま」
深雪は震える声で、そっと呼びかける。
彼は首だけを動かし、静かに振り返った。
「お兄様、か。達也くんに相応しい素敵な呼び方だ。少なくとも私はそう判断する、深雪さん」
津那美は口元に優しい微笑みを浮かべる。
あまりにも唐突に、しかしヒロインの危機に颯爽と現れるヒーローのごとく、桃源津那美は深雪の前に佇んでいた。
次でプロローグは終わると思います⋯⋯多分。
いや、絶対に終わらせます。早く入学編に行きたいですから。では、次話の投稿、楽しみにお待ちください。