次話から、入学編となります。
第十五話 罪なる氷は絆の焔に融けて
◇
風間に案内され、ロッカールームへ通された達也と津那美のふたり。
そんな二人に戦闘用の装備が手渡されるのだが__達也が一礼して受け取ったのに対し、津那美は必要ないと首を横に振り、丁重に断った。
戦場を侮っているのかと訝しむ風間だったが、津那美の顔色は至って冷静そのものであり、無用な追及は控えることにする。
「さて私⋯⋯いや、本官は部隊指揮を務めなければならぬため、ここで失礼させてもらう。君たちには準備ができ次第、無理のない範囲での戦闘を期待する。無論⋯⋯やはり避難を優先すると判断したならば、そのまま避難してくれて結構だ。一切咎めはしないと約束しよう。以上だ」
二人へ向けて敬礼を捧げると、風間は振り返ることなく、その場を後にした。
彼が立ち去る姿を黙って見届けた津那美は、達也へ顔を向ける。
「さて⋯⋯達也くんが着替えている間、私は外で待つとしよう。他人(ひと)に着替えを覗かれる趣味はないだろうからな」
津那美は優しい声と笑みを残し、静かにロッカールームを出て行った。
達也もあえて引き留めはせず、だがあまり待たせるのも失礼と判断し、手早く着替え始める。
しばらくして__戦闘スーツへ着替え終えた達也が部屋を出ると、腕組みをしながら壁に寄りかかって待機する津那美の姿を捉えた。
そんな彼は達也の戦闘スーツ姿を視認した途端、愉快そうに笑う。
「お待たせしました」
「いや、それほど待ってはいない。それよりも達也くん⋯⋯。なかなか様になっているじゃないか」
「⋯⋯行きましょう」
「素っ気が無さすぎるな」
達也は津那美の軽口には一切付き合わず、基地の出口を目指して長い通路を歩き出す。津那美は小さく肩を竦め、彼の隣に並んで歩いた。
しばし無言のまま通路を歩く二人だったが、やがて津那美が達也に話しかける。
「達也くん。これから私たちは戦場に出向くわけだが⋯⋯その前に君にひとつ聞いておきたい。君は人を殺した経験があるな。おそらくは、今よりも幼い時分にだ⋯⋯」
その問いかけに達也は無言を貫く。しかし、聞かれた瞬間、彼の瞳に仄暗い影が宿ったように見えた。
「すまない⋯⋯答えづらいことを聞いたな。だが、その上で確認させてもらおう。達也くんは殺人に対して、忌避感や罪悪感を抱いているか?」
「⋯⋯いいえ。そのような感情は一切必要ないと、訓練で厳しく教わりました」
「⋯⋯やはりか。嘆かわしいことだ。三十年経とうとも魔法師の家系は、子ども相手に歪んだ教育を施し続けているらしい。__ならば達也くん、今、この戦場からで構わない、心に忌避感と罪悪感を抱け」
達也は、言葉の意味をまるで解しない幼児のような表情で津那美を見上げ、純粋に聞き返す。
「それはどういう意味でしょうか?」
「人を殺すというのなら、怯えと畏れの感情を忘れるなと教えているのだが⋯⋯意味が伝わらなかったか?」
「いえ、言葉の意味自体は分かります。理解できないのは、それを俺に告げたことです。先ほどもお話しましたが、戦闘においてそういう感情を不要だと俺は教わりましたし⋯⋯何より俺自身、その教えに納得しています。余計な躊躇を戦闘に持ち込めば、自身の身も、守るべき者の身も危険に晒します⋯⋯」
達也の脳裏に、生涯をかけて守り通すと決めた母と妹の顔がよぎる。津那美を見上げていた視線を改めて前方に戻した達也の表情は、子どもとは思えない酷薄なものだった。
津那美もまた前方を見据えつつ、チラリと横目だけで彼の顔を確認する。
「戦う者として、君の発言は至極尤もだ。戦場において、相手を殺すことの忌避感や罪悪感__言ってしまえば、迷いや弱さは足を引っ張る最大級の障害になるだろう⋯⋯。しかし__」
津那美は語りながらも歩みは止めず、達也も口を挟むことなく、彼の話に耳を傾けた。
「その感情こそが人を人たらしめるものだと、私は思う。ただ合理だけを突き詰める者はもはや機械と変わらず⋯⋯。そして、逆にそれを完全に失した者は、もはやただの獣(けだもの)だろう。なあ、達也くん。君はそうなりたいのか?人であることを捨て去りたいのか⋯⋯?」
問いかけに達也は何も答えられない。しかし、その瞳の奥には微かな揺らぎが見て取れる。
無論、達也とてそんな存在になることなど、微塵も望んでいない。だが四葉一族の大半が望むのは__真夜、深雪、深夜、穂波と他一部を除き__ただ命令に忠実な機械のごとき自分だと理解していた。そして、未だ自分がそうなっていないのは、すべて叔母である真夜の寵愛のおかげだということも。
四葉現当主・四葉真夜の力を表すなら__規格外、あるいは破天荒、その一言に尽きる。
『日本最強の魔法師』__その肩書に嘘偽りは無く、むしろまだまだ過小評価だと口にする者が無数にいるほどだ。
実際問題、真夜の『真価』がどれほどなのか__それを知り得るのは本人だけであり、魔法研究者たちの間では「戦略級魔法師すら凌駕しているのではないか」という通説が流行りつつあった。
そんな彼女の庇護下にある達也に危害、もしくはそれに類する行為を働くことは、すなわち真夜に対し弓引くことと同義である。余程の馬鹿でもない限り、それが如何に無謀で愚かな行為か、即座に理解して弁えなくてはならないのだ。
そのような事情から、四葉内部において達也に直接害意を示そうとする者は表面上は誰ひとりとしていない。しかし、この仮初めの平穏も真夜が存命のうちだけということは、誰に言われずとも達也が最も理解していた。
だからこそ彼は、現状を打破しようと様々な模索を繰り返しているのだが__未だ子どもであるという現実に足を引っ張られるのが実状だった。
◇
時間にしておよそ数秒__。
思考に没入していた達也は、津那美の話を聞き損ねていることに気がつき、隣を歩く彼の顔をそっと見上げる。
すると、津那美と視線が交錯した。彼はとても穏やかな顔で達也のことを見つめていた。
「どうやら、私の話を受けて思考に没頭していたようだな⋯⋯。いい傾向だ。それはつまり、達也くん自身も殺人という行為に対して、思うところがあるということだからな⋯⋯」
「俺は⋯⋯」
達也は何か言葉を発しようとしたが、津那美の声が優しく遮る。
「君は先ほどこう言ったな。自分が戦場に行くのはエゴのためだと⋯⋯家族を脅かした者たちが許せないからだと。それ自体は間違った感情ではない。誰しも大切な人を傷つけられれば怒りを覚え、許せないものだ。しかし、君は理解しているか?そう思うのは何も君だけではない。達也くんが守りたいと願う深雪さんや深夜さんもその感情を持つし⋯⋯何より君がこれから殺そうとしている大亜連合の兵士たちもまた、その感情を抱えているという事を⋯⋯」
「っ!?」
彼の指摘に、達也は息を呑む。
「『大切な人を守りたい⋯⋯』。その感情は誰しもが持つものだ。守られる側の深雪さんや深夜さんとて例外ではない。彼女たちも、君の事を守りたいのだ⋯⋯。いいか達也くん、よく覚えておけ。想いは一方通行ではいけない。それは、ただ軋轢(あつれき)や蟠り(わだかまり)を生むだけだ。想いとは重なり、紡ぎ合うことで形を成す尊いものだということを⋯⋯しかと覚えておくのだ」
津那美の言葉には、確かな熱が込められている。それは人としての大切な何かを伝える教えのように、達也には感じられた。
「そして⋯⋯だからこそ迷いと弱さを人は抱えていかなければならない。想いの尊さを見失わないためにもな。迷いと弱さを完全に払拭してしまえば、人は力を持つ意味と、それを振るう意義を見失う」
「力の意味と⋯⋯意義⋯⋯」
「何のための力か?どう振るうべきなのか?それを見失った力はもはやただの暴力であり、無慈悲なまでの殺戮しか生み出さないだろう。そして、仮にそのような殺戮を行った君を見たら、彼女たちはどう思うのだろうな?」
達也の脳裏に、悲哀の涙を流す妹と母の顔がよぎる。
「達也くん。大切な人を守るのなら、身体だけではなく心までも守ってみせろ。それこそが、真の強さだ。それを得るための鍵が⋯⋯」
「迷いと弱さ⋯⋯」
「そうだ」
達也の返答に、津那美は強く頷くのだった。
「君は⋯⋯魔法師とは力を持つ者だ。だから常に迷い考え続けるのだ。力の意味と意義を⋯⋯。そして、答えを出したとしても、その答えを決して定義化するな。その答えにすら、さらなる迷いを抱け。とても難儀なことだが、それを生涯貫いていくのだ。私はそうして生きている」
「だから⋯⋯津那美さんはそこまで強くなれたのですか?」
達也の問いかけに、津那美はただ優しく微笑んだ。
そうして言葉を交わしながら歩くうちに、前方に通路の出口が見えてくる。
「さて、話は終わりだな。達也くん、覚悟はいいか?いざ、戦場(いくさば)に赴くときだ」
「⋯⋯はい」
津那美はその紅い瞳を鋭く細め、達也も冷徹な視線に力を込めた。しかし、そこには以前までの機械じみた冷たさはなく、ひとりの人間として思い悩む感情の色が見え隠れしていた。
こうして真に最強たる青年と、彼から薫陶を授けられた少年は、大亜連合の兵士たちが犇めく戦場へと馳せ参じるのだった。
◇
大亜連合軍の侵攻作戦は、その奇襲性と彼らに懐柔された〈レフトブラッド〉の裏切りという離反行為によって、当初は圧倒的に大亜連合側が優勢であった。
しかし、とある二人の介入によって、その情勢は一気に覆ることになる。
突如、国防軍の戦線に加わった二つの影__。
片や、軍の戦闘スーツを身に着けた少年。その手に銃型CADを握り、臆すること無く戦場を闊歩していく。
片や、黒のスラックスに白のワイシャツ。ジャケットは羽織らず、直接黒のロングコートを纏った青年。一見すると一般人のようだが、醸し出す雰囲気は明らかに異質であり、悠然と戦場の只中を歩む。
少年は冷徹な目で大亜連合の兵士を睨み据え、CADを構える。そして、躊躇うことなくトリガーを引く。すると、兵士のひとりが瞬く間に跡形もなく霧散した。そのまま、彼は一切容赦なくCADのトリガーを引き続け、兵士たちに滅却の洗礼を浴びせていく。
青年の方も無慈悲の一言に尽きた。その手に武器らしきものは何も無く、完全な無手の状態。しかし、彼がその指先をパチンと打ち鳴らすたび、複数の兵士が紅蓮の業火に包まれ、一瞬で灰と化す。彼は冷ややかな笑みを零しながら、次々と兵士たちを焼却していく。
大亜連合の兵士たちは、あまりにも怖ろしい二種の死に様を前に呆然と立ち竦む。やがて我を取り戻した彼らは、銃撃に魔法といったありとあらゆる手段を用いて反撃に出る。
だが、その全ては無為に終わった。青年と少年の周囲には不可視のシールドのようなものが展開されており、いかなる攻撃もそれを貫通するには至らない。
こちらの攻撃は一切通じず、相手の攻撃を受ければ悲鳴を上げる暇もなく死に絶える。
現実とは思えない無惨な光景を目にしてしまえば、如何に精神と肉体を鍛えた屈強な兵士といえども、恐怖が勝るというもの。
絶望を滲ませ、死に怯えた大亜連合兵士たちは一人、また一人と逃げ出し、あるいは投降する者が続出した。
それでもなお続く二人の死神の歩みを止める術を、大亜連合側は持ち合わせておらず、次第に戦況は国防軍優勢へと傾いていく。
やがて立ちはだかる者が誰もいなくなった戦場に、悠然と佇む青年と少年。
こうして大亜連合による沖縄侵攻は、たった二人の存在によって呆気ない終局を迎えるのだった。
◇
津那美と達也は肩を並べ、静寂に包まれた戦場をただ眺めていた。
そんな二人の元へ、部隊指揮を努めていた風間と副官の真田が合流を果たす。
「無事だったか⋯⋯」
怪我ひとつない二人の様子に、風間は感嘆の吐息を漏らし、現状を話し始めた。
「大亜連合の侵攻部隊は、ほぼ潰滅した。残存部隊も戦況不利をさとり、撤退を開始したそうだ⋯⋯。当初は我々の圧倒的不利だったにもかかわらず、戦況を覆し、早期終結へと至ったのは紛れもなく両名のおかげだ。心より感謝する」
風間の惜しみない称賛に、津那美は顔色ひとつ変えず、達也も何かに気を取られているのか返事をしなかった。達也の態度を不審に感じた風間は、彼の視線の先を目で追う。
達也は、投降し捕虜となった大亜連合兵士の一団を、無機質な眼差しで見つめていた。
そして、彼は突如その一団に対し銃型CADを構える。
「っ!?何をするつもりだ、達也くん!相手はすでに投降した兵士。いかに敵兵といえども、無抵抗の者を一方的に攻撃することは許可されていないっ!」
「待て。黙って見ていろ」
達也の突発的な凶行に、焦りと義憤を覚えた風間が諌めるために踏み出そうとした。しかし、そんな彼を津那美が片手で制する。
険しい目で睨みつける風間だったが、有無を言わせぬ彼の紅い瞳に呑まれ、思わず怯んでしまう。
津那美と風間が黙して見守るなか、達也はトリガーに指をかけて__そのまま静止した。
まさにこの瞬間、達也の胸の内では、二つの感情が激しくせめぎ合っていた。大亜連合兵士たちを許してはならないという抑えがたい怒りと、津那美の薫陶を受けてそっと芽生え始めた『真の強さ』への憧憬。
葛藤の果てに__達也の脳裏を深雪と深夜の顔が鮮明によぎり、まるで支えを失ったかのように構えていたCADが静かに下ろされた。
(守るのなら身体だけでなく、心も守れ⋯⋯か。そうだな、俺が守りたいのは深雪と母さんの平穏な幸せだ。悲しませ、不幸にするなど本末転倒じゃないか⋯⋯)
達也は深く息を吐き出すと、怒りを振り払うように捕虜の一団に背を向けた。
それを見て風間は安堵の吐息を漏らし、達也の確かな変化を感じ取った津那美は満足げに微笑んだ。
津那美の笑みに気がついた達也は、自身も釣られるようにして、口元を微かに綻ばせるのだった。
◇
国防軍沖縄基地・発令所__。
戦闘が終局し、静まり返った戦場とは対照的に、所内は勝利の歓喜に沸き立っていた。
士官やオペレーターが互いの労苦をねぎらうなか、モニターを通じて状況を見守っていた深雪も、無事に戦いが終わりを迎えたことにホッと胸を撫で下ろす。それは腰掛けている深夜と、その傍らに控えた穂波も同様だった。
しかし、明確に安堵の息を漏らした穂波とは異なり、深夜は相変わらず冷めた表情のまま、口元に小さな笑みを零すだけに留めている。
(終わった⋯⋯。終わったのですよね。__っ!?そうです、津那美さまとお兄様をお出迎えしなくては⋯⋯っ!)
今の自分にできることを思い立った深雪は、急ぎ足で基地の出口に向かおうとした__その矢先。
物々しい警報が、発令所内に響き渡った。
勝利に浮かれていた士官やオペレーターたちは、しばし呆然とするものの、即座に己の職務を思い出し、それぞれ状況の把握に努め始める。
深雪も足を止め、改めてモニターに視線を向けた。
やがて、オペレーターのひとりが叫ぶように報告を述べる。
「観測班より入電!沖合三十キロの地点に⋯⋯大亜連合の艦隊を確認したとのことっ!」
望遠で捉えた艦隊の画像がモニターに映し出され、海路を悠々と突き進むその威容が、紛れもない現実であることを雄弁に物語っていた。
緊急対応に追われ、次第に周囲が騒然となり始めるなか__驚愕の眼差しでモニターを凝視していた深雪の心を、大きな不安が覆っていく
(大丈夫ですよね⋯⋯。お兄様⋯⋯。津那美さま⋯⋯)
深雪は静かに二人の無事を祈る。そして現状に強い危機感を覚えた穂波は、主人である深夜の耳元に口を寄せ、意見を具申した。
「奥さま。艦隊が迫っているとなると、ここも危険です。避難したほうがよろしいのでは?」
「いいえ、その必要はないわ。むしろその逆よ、穂波。わたくしはここにいるわ⋯⋯いえ、違うわね。ここにいたいのよ⋯⋯アハハッ」
深夜は否の返事を突きつけるとともに、どこか愉しげに口元を歪ませる。
「穂波、モニターから目を離さないようになさい。おそらく今日、わたくしたちは凄まじい光景を目に焼き付けることになるわ」
椅子から身を乗り出しそうな勢いの主人に僅かばかりの恐怖を感じながら、穂波は言われた通りモニターに視線を向けた。
(ええ、そうよ。逃げる必要など、どこにもないわ。だって、彼が⋯⋯桃源津那美がいるのよ。真夜の話が確かなら、彼にとって大亜連合の艦隊ごとき、取るに足らぬ羽虫に過ぎないはず⋯⋯)
深夜の胸の内は、もはや期待に膨らむ一方だった。
(真夜からその話を聞かされたときは、絶対に眉唾だと思ったわ。でも、その災厄は確かに顕現し、ひとつの国を滅びへと導いた⋯⋯。未だ世界中の魔法研究者が何ひとつ解明できず頭を抱え続ける未知の現象【真紅の秘蹟:スカーレット・アルカナム】__。桃源津那美、どうかわたくしにも見せてちょうだい。地に堕ちた真紅の太陽の輝きを⋯⋯。神の裁きを彷彿とさせる至高の一撃を、どうかわたくしにも⋯⋯)
まるで恋に溺れた少女のように胸を高鳴らせ、深夜は艦隊が映るモニターに釘付けになっていた。
__結末を先に述べるなら、大亜連合の艦隊は〝巨大な光球〟に呑み込まれ跡形もなく消滅する。しかしそれは、深夜が期待していた光景とは些か違っていた。何故ならそれは桃源津那美が起こしたものではなく、息子の達也が放った分解魔法の行使によるものだったからだ。
事が終わり、〝ひとり〟帰還した達也から詳しい事実報告を受ける深夜。彼女は失意に肩を落とすが、それと同時に内心は息子の確かな成長ぶりに、大きな喜びを見出していたのだった。
◇
自身の通信機が鳴り響いた瞬間、風間は嫌な予感を覚え__それは、見事に的中する。
「そうか⋯⋯。了解した⋯⋯。そちらはそのまま、状況分析に努めてくれ⋯⋯」
通信を終えた風間へ、副官の真田をはじめ、達也、そして津那美の視線が集中した。どこか緊張感の漂うなか、風間は状況を説明し始める。
「⋯⋯沖合に大亜連合の艦隊を確認した。こちらへ向けて急速に接近中とのことだ」
達也と真田は険しい表情を浮かべ、津那美はやれやれと言わんばかりに小さく溜め息を漏らす。
「さらなる危機の到来か⋯⋯。軍はどう対処するつもりだ?」
津那美は今後の動向を尋ねる。脅威が差し迫る状況下でも、彼の精神はまったく穏やかで焦りひとつない。
そんな津那美を前に、風間は自身の考えを述べた。
「敵がどれほど強大だとしても、守るべき国と民のために退くことはできない⋯⋯それだけだ」
「私は対処法を聞いたのであって、貴方の気概と覚悟を問うてはいない⋯⋯。まあ軍人として、立派だと褒めてはおこうか」
「くっ⋯⋯!?」
津那美の痛烈な皮肉に、風間は下唇を噛みしめ俯いた。真田も乾いた笑いを浮かべ、困惑気味に頬を掻く。
二人の様子を観察しながら、津那美は思考を巡らせていく。
(やはり艦隊が相手では、国防軍でも即応の対処は不可能か⋯⋯。となれば、私が相手取るしかないな。できれば目立つ真似は避けたいのだが⋯⋯それも今更か)
先の戦闘__協力者の立ち位置でありながら、途方も無い戦果を上げたことを自覚している津那美は、そっと自嘲の笑みを零した。
(最悪、元老院を頼れば、各所で軋轢を生むだろうが私の情報は隠匿できる⋯⋯。達也くんや深雪さんたちの命に比べれば、安い代償だな)
自身が矢面に立ち、艦隊の相手をすることに決めた津那美は、その旨を風間に伝えようとするが__それより先んじて達也が小さく片手を上げた。
「発言よろしいでしょうか⋯⋯。俺にひとつ策があります。上手くいけば艦隊を一挙に壊滅させられるかもしれません」
「それは本当か、達也くん?」
「はい⋯⋯。ただし、あくまで上手くいけばですが⋯⋯。それと実行するために必要な装備があります」
発言の真偽を確かめるためか、風間の鋭い視線が達也を射抜く。しかし、達也は萎縮することなく平然とした態度を取り、ある要求をする。
「超長距離狙撃用のライフルを用意してくれませんか?」
達也が口にした銃器名を耳にした風間と真田は、激しく困惑した。それは武器を用意することができないからではなく、艦隊を相手取るにはあまりにお粗末だったからだ。
だが、同時に風間は奇妙な期待感を抱いてしまう。眼前の少年は、つい先ほどその幼さとは対照的に恐ろしい戦果を上げた。次は一体なにを見せてくれるのかという、軍人としては少々あるまじき欲求が胸の内にあることを自覚する。
「分かった、すぐに準備しよう⋯⋯。真田っ!」
風間は口の端を吊り上げると、副官の名を呼んだ。呼ばれた真田は、敬礼を捧げると即座に踵を返し、その場を離れていく。
「要求を聞き入れてくださり感謝します、風間大尉」
「礼は不要だ。君の要望はできる限り叶える⋯⋯そう言ったのは私だからな」
達也からの感謝に対し、風間は小さく頭を振って答えた。
その一方で、自身の発言を遮られた津那美が改めて口を開く。
「それで、達也くんは一体なにをしようとしているのか⋯⋯そろそろ教えてもらえるだろうか?」
「はい、津那美さん。⋯⋯ですが、その前に場所を移動しましょう。解説は歩きながらで⋯⋯」
そう告げた達也は、先導するようにひとり歩き出す。津那美と風間も口を挟むことなく、おとなしく彼の背に続き、その口から語られる説明に耳を傾けるのだった。
◇
見晴らしの良い高台に移動した達也たちの元へ、大きなケースを手にした真田が再度合流を果たす。
ケースを手渡された達也は、その場に片膝を着き、中身を検めた。綺麗に収まっていたライフルを取り出した彼は、手早く動作チェックを始める。
その見事な手際に舌を巻きながら、真田は性能を解説していくが__射程距離に一抹の不安を感じると告げ、若干顔を曇らせた。
それを聞き届けた達也は、僅かに眉をしかめる。しかし、彼の手は一切休むことなく動き続け、その上で口を開いた。
「解説ありがとうございます。射程の問題も理解しましたが⋯⋯躊躇する理由にはなりません。届くかどうか実践するまでです」
やがて、すべてのチェックを終えた達也は素早く立ち上がり、次の準備に移る。
弾倉から弾丸を一つ取り出し、魔法発動の標的とするべく自身の想子(サイオン)で表面をコーティングしていく。弾丸を込め直しライフルを構えた達也は、スコープ越しに目標である艦隊をおぼろげに捉えた。
津那美たちが見守るなか、達也は鋭い声音で告げる。
「撃ちます!」
トリガーが引かれ、銃口から弾丸が亜音速で発射されたが__。
真田の懸念通り射程が短いのか、途中で失速し、そのまま海面へと着弾した。達也の《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》が、コーティングした想子(サイオン)を目印として海底へ没していく弾丸を知覚する。
「失敗です⋯⋯。距離が足りず、艦隊にまで届きませんでした。残念ですがこちらの射程距離まで、艦隊が接近するのを待つしかないようです」
「それは危険すぎる!君の狙撃が成功する前に、相手の艦砲射撃がここら一帯を薙ぎ払うぞ!」
風間の焦燥混じりの怒声が、周囲に響く。
「ええ、ですから風間大尉たちは一刻も早くここから避難してください。あとは俺ひとりで片をつけます」
「なっ!?馬鹿なことを言うな!我々も__っ」
「ああ、そうだな。さすがにそれは許容できない。なにせ私は深雪さんに、達也くんを無事に帰すと約束しているのだからな」
風間の言葉を遮り、これまで口を閉じていた津那美が達也の独断を諌めた。
そのまま彼は一度、彼方を見通すように海を見つめると、改めて達也に視線を戻す。
「話を聞いていた限りだと、要は狙撃が艦隊に届けばいいのだろう。ならば、私が手を貸そう。達也くん、もう一度狙撃の用意をしたまえ」
「津那美さん⋯⋯一体なにをするつもりですか?」
「言葉通り、手を貸すだけさ」
多くは語らず、ただ優しく微笑む津那美。そんな彼を前にして、達也はしばし逡巡するものの、やがて根負けしたように首を縦に振った。
「お願いします、津那美さん」
「ああ。君の力になろう、達也くん」
軍人たる自分たちを差し置き、勝手に話を進める二人に風間は異を唱えようとしたが、津那美の紅い瞳が威圧を伴って見据えてくる。またもやその瞳に呑まれ気圧された風間は、口を閉ざすしかなかった。
その間にも、達也は再度コーティングした弾丸をライフルに込め、艦隊へ向けて構え直す。
津那美はそんな彼の隣へと歩を進め、肩を並べ悠然と佇んだ。
「撃ちます!」
「君が導く力の意味と意義、見せてもらおうか」
再び射撃を告げる達也の力強い声に、津那美の穏やかな声が寄り添う。
そしてトリガーが引かれた。
二度目の狙撃が放たれ、亜音速で弾丸が空中を疾駆していくが、やはり距離が足りず失速してしまう。
それを見越していた津那美は左手を前方に翳し、【物質転送】を発動した。
失速し始めた弾丸はその姿を掻き消し、次の瞬間__。
タァンッ__と小さな音を響かせ、艦隊の一隻、その甲板に着弾する。
弾丸の行方を《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》で追尾していた達也は、驚愕に目を見開いた。彼の目には、弾丸が途中で消失し、別の座標に突如現出したようにしか見えなかったからだ。
原因を追及しようとする達也の耳朶を、津那美の声が打つ。
「届いたぞ、達也くん」
その声を聞くやいなや、達也は好奇心を押し殺し、即座にライフルを手放す。
そして、左手を添えた右手を前に突き出し、標的である弾丸に向けて、《分解》を発動した。
《分解》に晒された弾丸は、その形状を失い、銃弾ひとつ分の質量を伴った純粋なエネルギー体へと変換される。
例え銃弾ひとつ分といえど、内包されたエネルギーは膨大であり、絶えず収縮と膨張を繰り返した末に、ついにその均衡が崩壊した。
甲板の一部分で眩い発光現象が起きた瞬間__。
沖合に巨大な滅びの光球が出現する。
__のちに《質量爆散(マテリアル・バースト)》と呼称される最強の分解魔法が轟いた瞬間だった。
光球は大亜連合の艦隊をいとも容易く呑み込み、一片の破片すら残さず消滅させていく。
海上に現出した巨大な光を目にして、風間と真田は咄嗟に言葉を失った。あの光の内では何が起きているのか、それを想像した風間の身体に小さな震えが走る。
そのまま事を為した達也の顔をチラリと確認したが、彼は無表情のまま、平然と滅びの光を眺めていた。
少年とは思えぬ達観ぶりに、風間は僅かに畏怖を覚えるのだった。
一方、津那美は微かな憐れみを抱きながら、艦隊が消えゆく様を見届けている。
しばらくして、内包したエネルギーを完全に放出し終えた光球は輪郭を失い、霞のように消えていった。
だが、それと同時に新たな問題が浮上する。
威力が過剰すぎたのか、衝撃の余波によって巨大な津波が生じたのだ。迫りくる別の脅威を前に、風間は近辺にいる部下たちに即時避難の指示を送ろうとする。
しかし、津那美の涼やかな声が遮った。
「慌てる必要はない。私が対処する」
そう告げた彼は、再び左手を前方に翳す。
直後、巻き起こった現象を捉えた達也たちは、今日一番の驚愕に目を見開くことになる。
ピタリ__と、まるで時間そのものが静止したように、迫りくる大津波は完全にその動きを止めてしまったのだった。
津那美は翳した左手を、今度は強く握り込む仕草を取る。すると巨大な津波がパァンッ、パァンッと弾け飛び、夥しい水滴と化して海上に激しく降り注いだ。
達也たちは、奇跡と呼ぶことすら烏滸がましい理不尽な光景を、ただ呆然と眺め続ける。
そして風間は、もはや誰の目にも明らかなほど、その身体を震わせた。
「何なのだ、これは!?我々は一体何を目にしている⋯⋯?貴方は一体⋯⋯何者なのだ!?」
問いかけに対し、津那美は不敵な笑みをもって返す。
「私が何者かなど、どうでもよいことだ。それよりも脅威が去ったいま、貴方がた軍人にはすべきことが山積みなのではないか?」
「どういう意味だ⋯⋯?」
答えをもらえず、逆に問い返された風間は不満げな目で津那美を見つめる。
「逃げ遅れた者や負傷した民が苦難に喘いでいる⋯⋯。そんな彼らを、警察や消防と協力して救助することも、国防軍の仕事ではないのか?」
基地で交わした問答と同じで、またもや正論を説かれた風間はギリッと歯噛みし、拳を強く握り込んだ。
「っ!?⋯⋯その通りだな」
溜め息を吐き、拳から力を抜いた風間は、津那美と達也へ向けて敬礼を捧げる。
「戦闘への助力、心より感謝する。君たちはこのまま基地へ戻ってくれて結構だ。__真田、いつまで呆けているっ!我々は救助活動に向かうぞ!」
放心している副官へ激昂を飛ばした風間は、振り返ることなくその場を立ち去った。
我を取り戻した真田も二人へ敬礼を捧げると、上官のあとに続いた。
立ち去る風間たちの背中を見届けながら、達也は津那美に話しかける。
「少々意地が悪いのではないですか、津那美さん?」
「私は当然のことを指摘したまでだ。それに⋯⋯軍に余計な興味を抱かれるのは差し障るからな⋯⋯」
「もはや手遅れだと思いますが⋯⋯。間違いなく国防軍は今後貴方をマークしていくはずです」
「構わんさ。どうせ何も掴めはしない」
自信ありげに答える津那美を、達也は納得した目で見つめた。
(四葉が三十年懸けて調査しても、何ひとつ情報が出てこなかった人だ⋯⋯。それを踏まえると、確かに国防軍でもお手上げかもしれないな。本当にこの人は何者なんだろうか?)
未だ多くの謎を秘めた桃源津那美という存在に対し、達也は益々好奇心を募らせていくのだった。
「さあ、大切な家族の元へ帰ろうか。達也くん」
思考に没入しようとした達也の耳に、優しき声が届く。見上げれば、穏やかな表情をした津那美と目線が交錯した。
(ああ、そうだな。今は深雪と母さんの元へ帰ろう⋯⋯。さぞ心配しているだろうから⋯⋯)
思考を切り上げた達也は、笑みを浮かべ静かに頷く。
そして二人は基地へと、肩を並べて歩き出す。
歩みながら、津那美は先の分解魔法《質量爆散(マテリアル・バースト)》の所見を述べてきた。
「達也くん。先ほどの力⋯⋯いや、魔法か。大したものではあるが、同時にとても危ういものだ。その自覚はあるか?」
達也は無言のまま、彼の話に耳を傾ける。
「強い力はより大勢を守れるが⋯⋯余分な諍いや災いも呼び込んでしまう。扱う際には、より注意が必要だ。常に周囲に気を配ることを覚えておくのだ」
「ご忠告、胸に留め置きます」
「まあ、君は聡い子だから大丈夫だとは思うがな。しかし、君はまだ幼い。何もかもひとりで抱え込まず、いざとなれば信頼できる誰かに相談することを忘れるな。そうだな⋯⋯君たちの話を聞いた限りだと、四葉真夜は力になってくれるのではないか?」
「そうですね。確かに叔母上は大層頼りにできる方です」
そう答える達也の脳裏には、自信満々に胸を張る真夜の姿が思い浮かび、彼は口元を綻ばせた。
「彼女の⋯⋯四葉真夜の話をする際の達也くんは、とてもいい顔をするな。彼女への信頼や好意が満ち溢れた顔だ⋯⋯。これは益々、四葉真夜との再会が待ち遠しくなる」
津那美も穏やかな笑みを浮かべ、空を見上げた。
「何はともあれ⋯⋯達也くん。家族を想い、戦った君はとても立派だ。胸を張って、深雪さんたちに無事な姿を見せてあげるといい」
視線を下ろした津那美は、達也の頭に手を置き、クシャクシャと少々乱暴に撫で回す。
あまりの子ども扱いに、一瞬だけ困惑を顔に出した達也だったが、真夜以外の大人に褒められ慣れていない彼は、気不味さを感じながらも身を委ねていた。
「さて、私はここでお暇させてもらう。達也くん⋯⋯健やかに大きくなれ。深雪さんには、縁(えにし)あればまた会おうと伝えておいてくれ。では、さようなら⋯⋯」
別れの声とともに、撫でていた手のひらの感触が、まるで幻だったように消失してしまう。
達也は慌てて隣を見上げたが、もはやそこに桃源津那美の姿は影も形も残ってはいなかった。さらに周囲の気配を探るも、やはり自分以外の気配はない。
達也は吐息をひとつ零すと、そっと空を見上げた。陽が落ちようとしているのか、いつの間にか空は美しい茜色に染まり始めている。
そんな空模様を眺めながら、達也の胸の内には津那美への確かな感謝の念が湧き上がっていた。
(ありがとうございました、津那美さん。貴方に教えられたこと⋯⋯何ひとつ忘れはしません)
彼への深い感謝を胸に抱き、達也はひとり、基地に戻るために歩き出したのだった。
◇
国防軍沖縄基地へと戻り着いた達也を、深雪は満面の笑顔で出迎えた。
しかし、自分にとって何より大切な想い人である津那美の姿がどこにも見当たらないことに、彼女は首を傾げる。
「お兄様、お帰りなさいませ。よくぞ、ご無事で⋯⋯。ところで、津那美さまのお姿が見当たりませんが⋯⋯どちらにいらっしゃるのですか?」
「ただいま、深雪。津那美さんだが⋯⋯あの人は行ってしまわれたよ。『縁(えにし)あればまた会おう』と深雪への伝言を預かっている。だから、きっとまたどこかで会えるさ。気を落とすな、深雪⋯⋯」
深雪から視線を外し、夕焼けに染まる空を見上げながら、達也は名残惜しそうに告げた。
それを聞いた深雪は目を見開き、顔を伏せる。
しばし空を見上げていた達也だったが、妹が何の応答もしないことに不穏な気配を感じ、視線を戻した。
すると、深雪の肩がプルプルと小さく震えていることに気づく。
「⋯⋯行ってしまわれた?えっ、どういうことですか⋯⋯。まさか、お兄様は引き止めなかったのですか?もしや⋯⋯引き止めようとすらしなかったのですか?何故⋯⋯何故、そのような無体な真似をっ!?」
彼女はうわ言のように、小声でぶつぶつと呟いている。深雪の異変を訝しみ、達也は伏せた顔を覗き込むように少し身を屈めた。
やがて深雪はゆっくりと顔を上げ、その美しい唇から氷点下__いや、絶対零度もかくやと思わせる冷たい声を漏らす。
「フフフフフッ。ねぇ、お兄様⋯⋯私とお話をいたしましょう?とても大切なお話を⋯⋯。まさか⋯⋯嫌とは申しませんよね⋯⋯?」
「深雪⋯⋯。一体どうしたんだ!?」
彼女の青い瞳からは光が消え去り、その顔を何とも可憐で恐ろしいアルカイックスマイルが支配していた。
深雪の憤怒を前に、達也の背中を大量の冷や汗が伝う。戦闘において焦りも怯えも抱かなかった彼はいま、明確な恐怖を感じていた。
達也は知る由もなかったし、同時に推し量れなかったのだ。
深雪が津那美に抱く恋心の激しさを、重さを、その深さを、何ひとつ__。
その後、穂波が止めに入るまで、延々と妹からの責め苦を浴びせられることとなった達也。
先ほどまでの深い感謝は何処へやら__達也が心中で、津那美への恨み言を漏らしたのは言うまでもない。
◇
__数時間後、司波家別荘。
達也が戦闘に参加したことの正当性を認める書類の作成を終えてから、深夜たちは別荘へと帰り着いた。
避難のためにまとめた荷物の整理は後日に回し、誰もが就寝するなか__明かりを落とし、薄闇の広がるリビングのソファーに深夜はひとり腰掛けていた。
彼女の顔には歓喜と憂いが混在しており、窓から差し込む玲瓏な月明かりと相まって、妖しげな雰囲気を醸し出している。
深夜はソファーから優雅に立ち上がると、窓際に歩み寄った。
(激動の一日とは、まさにこのことかしら⋯⋯。あまりに出来事が重なりすぎて、真夜にどう報告すればいいのか迷ってしまうわ。でも⋯⋯)
窓越しにそっと、夜空に浮かぶ美しい月を仰ぎ見る。
(わたくしの思惑は⋯⋯長年の願いは、今日成就した⋯⋯。それは紛れもない事実⋯⋯)
小さな吐息が、深夜の口から静かに零れた。
(もう間もなく、あの子たちとはお別れかしら。自ら願い、待ち望んでいたこととはいえ、やはり淋しいものね⋯⋯)
脳裏を達也と深雪の顔がよぎる。家族としての団欒は微塵もなかったが、それでも共に過ごせた〝愛おしい〟日々の思い出が胸を掠めていく。
(達也⋯⋯深雪⋯⋯。どうか愚かな母を許して⋯⋯いいえ、許さなくてもいい。でも、どうか貴方たちは幸せに生きてちょうだい。それだけが、わたくしの真実の願いなのだから⋯⋯)
深夜の白い頬を、澄んだ涙の滴(しずく)が一筋伝い落ちた。
その刹那、分厚い雲が月を覆ったため、明かりが遮られ、室内が闇に呑まれてゆく。しかし、彼女は闇に対して微塵の恐怖を抱かず、むしろ身を委ねるように吐息を零そうとしたのだが__。
「不可解なものだな、人の心とは⋯⋯。我が子を想い、涙するというのに、袂を分かとうとしている⋯⋯。まったくもって心とは難儀なものだ」
一人きりのリビングに、不意に穏やかな男性の声が響いた。
深夜は慌てて、声が聞こえた方向に視線を向ける。
すると闇が満ちた空間に、煌々と真紅の瞳が輝いていた。
やがて雲が流れ、再び月明かりが差し込むと、彼__桃源津那美の姿が浮かび上がる。
「っ!?⋯⋯貴方でしたか、桃源津那美さん。どうやってこちらに?と、言いますか、これは不法侵入ではなくて?」
「それについては謝罪しよう。だが⋯⋯深夜さん。いま一度、貴女と話がしたくてな、お邪魔させてもらった⋯⋯」
津那美はゆっくりとした足取りで深夜に近づき、その隣に立つ。
そうして二人はしばし肩を並べ、窓越しに夜空を眺めた。
「それで⋯⋯津那美さん。お話とは何かしら?」
「貴女の心の奥底に沈んでいる愛と⋯⋯そして、哀しみの話だ」
「っ⋯⋯!?」
告げられた瞬間、深夜は肩を震わせ、僅かに息を呑んだ。
「深夜さん⋯⋯貴女が子どもたちに冷淡に接するのはすべて演技であり、心の底では限りない愛情を抱いていることは、すでに判っている。それを踏まえた上で、貴女にまずはひとつ言っておきたい」
「⋯⋯ええ、伺いますわ」
彼女は余裕の笑みを崩さず、豊満な胸を支えるように腕を組む。しかし、その指先は小さく震えており、呼吸も微かに荒くなっている。
明らかに落ち着きを失いかけている深夜を、横目で確認した津那美は、内心で溜め息を漏らす。これから彼女の心を掻き乱し、責め立てていくのかと思うと気分が滅入る。
それでもこれが今、自分にできることと理解しているか彼は、最後まで責務を全うすることに決めた。
「では、遠慮なく⋯⋯。貴女はとんだ大馬鹿者だ」
「なっ!?」
津那美の口から飛び出た辛辣な言葉に、深夜は思わず絶句してしまう。だが彼は情けをかけず、なおも責め続けた。
「子どもたちを想うがゆえに、袂を分かつだと?馬鹿を言うな⋯⋯。貴女が気にかけているのは子どもたちの事ではなく、貴女自身の心に生じた傷だ。その傷をこれ以上深めたくないがゆえに、ただ逃げ出したいだけだろう⋯⋯」
言葉が鋭利な刃となって、彼女の胸を深く刺し貫いていく。
津那美にとっても、このような会話は決して本意ではない。だが、この歪な家族を救うためにも、ここで躊躇してはならないと彼は痛烈に悟っていた。
自覚はしていた己の弱さを指摘され、深夜は顔を伏せる。やがて、自身の内に溜まった澱(おり)を吐き出すように口を開いた
「貴方に⋯⋯何が分かるというのかしら?守るためとはいえ、達也の心を作り変えて⋯⋯それをより強固にするため、深雪の肉体にも手を加えてしまったのよ⋯⋯。しかも、本人に知らせることなく⋯⋯。アハハハッ。ねえ、津那美さん。その罪深さ⋯⋯本当に理解できて⋯⋯?」
顔を伏せたまま、目線だけを向けてくる深夜。その瞳には涙が滲み、喉から嗚咽が漏れ出す。一度箍(たが)が外れてしまえば、後はもう堰を切ったように溢れ出すだけだった。
「ああ、なんて悍ましいのかしら。わたくしの両手はもはや、罪に穢れきっている。こんな罪過に塗れた手で、どうやってあの子たちを抱き締めろというの⋯⋯っ!?」
涙に濡れる顔を、深夜は両手で覆う。薄闇の広がるリビングに、ひとりの女性の痛切な啜り泣きが響いた。
涙に暮れる彼女を見つめながら、津那美は思考を巡らせる。司波深夜がこれまでどう生きてきたのか、残念ながら彼は知り得ない。
だか少なくとも今、自身の前で泣く彼女は、犯した罪の重さに怯える憐れな女性であり__同時に、子どもたちのことを一心に想う優しき母親であることは確かだった。
「当事者ではない私には、貴女の罪の重さを推し量ることは到底できない。浅薄な慰めの言葉をかけたところで、救いにもならない⋯⋯。よって、ただあるがままの言葉で伝えよう。それが、迷い続けた深夜さんの道標(みちしるべ)になることを願ってな」
深夜は顔を覆ったまま、無言を貫く。しかし、津那美の話に耳を澄ませているのは明らかだった。
「犯した罪が消えることはない。過去をやり直す機会が訪れることは、決してない。だが⋯⋯未来を選択する可能性は、誰しも訪れる。それは確かだ」
「未来を選択する⋯⋯?罪を犯したわたくしにそんなものあるわけが⋯⋯っ!?」
「いいや、ある!深夜さん⋯⋯貴女にも、しかと未来の可能性は存在している」
否定を口にしようとした深夜を、津那美は力強い声で遮る。
そして、包み込むような優しい口調で続きを話す。
「貴女は悔恨に呑まれ、後ろばかりを振り返りすぎだ。そのような事では遅々として前には進めない⋯⋯。何より、振り返った先に達也くんと深雪さんはいない。あの二人は貴女の隣にいて⋯⋯そして今はもう貴女の前を歩き始めている」
「えっ!?」
顔から両手を離し、深夜は津那美の横顔を見つめた。
「深夜さん。その瞳に子どもたちは、しかと映っているか?悔恨に目を曇らせ、二人が身に纏う輝きを、その確かな成長を何ひとつ見ていないのではないか?」
「わたくしは⋯⋯」
「今を生きる者には、必ず未来がある。それは達也くんにも、深雪さんにも、もちろん深夜さんにもあるのだ。そして、望む未来があるというなら、その手を伸ばし掴み取る⋯⋯。それが生きる者の定めだ」
そこまで語り、津那美もまた彼女を見つめ返し、互いの視線が交錯する。
「問おう。貴女が真に望む未来とは何だ、深夜さん?」
「わっ、わたくしが望むのは⋯⋯望むことは、子どもたちと一緒に⋯⋯いたい。赦されるなら、これから先も達也と深雪と一緒に過ごしていきたい。ただ一緒に⋯⋯笑顔で⋯⋯っ」
絶えず抑えつけていた望みを吐露した深夜の瞳には、いつしか弛まぬ意志の光が戻り始めていた。
それを見届けた津那美は、目元を細め、ただ優しく微笑んだ。
「ならば、後は貴女次第だ。私は望む未来が訪れることを、ただ祈るとしよう」
「⋯⋯ありがとう⋯⋯津那美さん」
目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら、深夜は小さく感謝の言葉を述べた。
「礼は不要だ。貴女の本心を引き出すためとはいえ、不躾な言葉を放ってしまったからな」
「⋯⋯ええ、それは本当に傷つきましたわ。だってわたくし、こんなに泣いたのは久方ぶりですもの。夫が愛人と逢瀬を重ねていると知ったときも、微塵も涙は浮かばなかったというのに⋯⋯。そんなわたくしに涙を流させるなんて⋯⋯酷い男(ひと)⋯⋯フフフッ」
彼女は小さく首を傾げ、上目使いで津那美を見上げる。それは明らかに、相手をからかって困惑させようという手管の表れだった。
深夜の意図など容易く看破した津那美は、溜め息をひとつ__。
「調子が戻って何よりだ⋯⋯。貴女を泣かせた償いはいずれ__。いや、今のうちに清算しておくとしよう。次、いつ会えるかなど判りはしないのだからな⋯⋯」
そう告げた彼は、深夜との距離を一息で縮め__。
左手を彼女の細い腰に回し、強引に抱き寄せた。
両者の身体は滑らかに密着し、衣服越しに互いの温もりが嫌というほど伝わる。
身体が密着しているのだから、当然のこと顔の距離も極限まで迫った。__吐息が交わり、もはや口づけが叶いそうな距離感である。
「っ!?とっ、突然、なにを⋯⋯」
間近に迫った津那美の圧倒的な美貌に、胸が高鳴り、ドギマギしてしまう深夜。鼻腔を甘い白檀の香りが掠め、頬が熱く火照っていく。
(ええっ!?彼は一体、何をしようというの⋯⋯?たっ、確か⋯⋯清算するとか口にしていたような⋯⋯。まっ、まさか⋯⋯身体でお支払いする的なことをしようというの?)
津那美の胸元に両手を当て、必死に距離を置こうとするが、腰に回された彼の左手のせいでびくともしない。
「少し、お待ちになって⋯⋯。上では子どもたちが休んでいるし⋯⋯それに、ここにはソファーしかなくて⋯⋯。あっ、あと、わたくしは人妻なのよ⋯⋯。不倫になってしまうわ」
流石は深雪の母というべきか__。
娘に負けず劣らず、逞しい妄想が脳内に芽生え始めていた。ピンク色の少々淫らな妄想が脳裏を駆け巡るなか、津那美の顔がさらに差し迫る。
(あぁ、どうしましょう⋯⋯。わたくし、このまま頂かれてしまうのかしら)
困惑とともに、深夜の胸の内には微かな期待感も生じていた。
そして、いよいよ唇が触れようとした刹那__深夜は潔く目を閉じる。
__だが、いつまで経っても唇が塞がれることはなく、それとは逆に自身の額へ何かがそっと触れた感触があった。
不審に思った深夜は薄っすらと目を開くが、視界が覆われており何も映らない。やがて彼女は、視界を覆っているのが津那美の右手であることを察した。
「津那美さん⋯⋯。貴方、一体なにをなさろうというの?」
「少し黙っていてくれ。気が散る⋯⋯」
津那美がそう告げた瞬間__。
深夜の体内を、温かな熱が怒涛の勢いで駆け巡った。
「あぁぁっ!?」
不意の感覚に、彼女の口から艶めかしい呻き声が漏れ出る。しかしそれは決して不快ではなく、むしろ体内を熱が巡るたび、己の内にあった強固な縛めが解けてゆく絶妙な心地よさがあった。
(なんて心地よいのでしょう⋯⋯。まるで、穏やかな風が吹く草原で清々しい日差しを浴びているような⋯⋯)
最初の違和感は何処へやら__。深夜はすっかり熱の虜になり、完全に身を委ねきっていた。
しばらくして津那美が緩やかに手を離すと、彼女の体内を巡っていた熱も自然と消え去ってしまう。
謎の波動の影響か、深夜の身体は酷く消耗しており、腰に彼の左手が回っていなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうなほどだった。
経過観察をする医師のような目で彼女の状態を確認した津那美は、深夜の身体をそっと横抱き__いわゆるお姫さま抱っこの体勢でソファーへと運ぶ。
ソファーに下ろされた彼女は、ぐったりと脱力し、耐えることなく背もたれに身を預ける。
「わたくしに⋯⋯何をしたの⋯⋯?」
「⋯⋯貴女にとって、もはや無用の長物たるものを取り除いただけだ。それが何かは、いずれ判る」
問いかけに対し、津那美は不敵な笑みを返す。
「肉体の倦怠感も、しばし休めば治るだろう。それと__」
彼はロングコートのポケットに手を差し入れ、取り出したものをテーブルの上に転がした。それは、ほのかに青白い輝きを放つ勾玉の形状をした数個の石だ。
「これは私からの餞別だ。御守り代わりとして、家族全員で持つといい。では、私はこれで失礼する。さようなら⋯⋯」
最後に津那美は優しく微笑むと、リビングの扉に向けて静かに歩を進めていく。
すると勢いよくリビングの扉が開かれ、焦りの形相を浮かべた穂波が姿を現した。どうやら微かな物音に気がつき、急ぎ駆けつけたようだ。
「深夜様っ!ご無事ですか?」
声を張り上げ、室内に駆け込んだ彼女の視界がまず捉えたのは、悠然とこちらに向けて歩む津那美の姿__そして、その背後でソファーに脱力して座る深夜の姿だった。
「っ!?桃源さま?どうやってこちらに⋯⋯。いえ、今はそんな事よりも⋯⋯深夜様に何をしたのですか?」
「ふむ、そうだな。ついでに君の治療もしておこうか」
警戒を露わにする穂波に対し、津那美はまったく気負うことなく一気に距離を詰める。そして、虚を突かれ焦る彼女の額に、自身の右手を容赦なく押し当てた。
次の瞬間__深夜と同じく穂波の身体にも温かな熱が怒涛の如く駆け巡る。やはり艶めかしい呻き声が、彼女の口から零れ落ちた。
「穂波に⋯⋯何をしているの⋯⋯?」
「案ずるな。肉体そのものに害は無い。それは貴女が身を以て証明しているだろう」
深夜の疑問に、津那美は冷静に穂波の状態を観察しながら答える。
やがて熱が引いたのか、その場に崩れ落ちそうになった穂波を優しく支えた。そのまま扉に寄りかからせ、床に座らせる。
「これでいい。穂波さんだったな⋯⋯君の身に何が起きたか、それはのちほど医師に診てもらうといいだろう。まあ、悪い結果にはならないと断言しておく」
脱力し、浅い呼吸を繰り返す穂波へ向けて、津那美はまたも不敵に微笑んだ。
「では、改めてこれで失礼する。二人とも、さようなら⋯⋯」
そう告げた彼は今度こそ振り返ることなく、リビングを後にした。
その時、ようやく異変に気づいたのだろう。階上から駆け下りてくる足音が響く。
一階へ達也と深雪が姿を見せた時には、津那美の気配は玄関扉の向こう側へと完全に消え去ってしまった。
◇
「「っ!?穂波さんっ!」」
リビングの扉に脱力して寄り掛かる穂波の様子に、達也と深雪は息を呑んだ。
深雪が慌てて駆け寄ろうとした__その矢先。
リビングの奥から、ほんのり顔を赤らめた深夜が姿を現す。
危うくぶつかりそうになった深雪は、咄嗟に体勢を整えた。
「おっ、お母様⋯⋯!?慌ててどうされたのですか?」
「深雪⋯⋯。彼は?彼は何処へ行ったの⋯⋯?」
余裕がないのか、深夜の口調からはいつも娘を呼ぶ際の敬称が抜け落ちている。
「落ち着いてください、お母様。⋯⋯彼とは一体どなたですか?」
「桃源津那美よ⋯⋯!今しがたまで、ここにいたのよ!」
「えっ⋯⋯!?」
唖然とする深雪をその場に残し、深夜は玄関扉を開け放つと、ひとり夜の屋外へ飛び出していく。
「津那美さまが⋯⋯いらしていたっ!?」
母を引き留めることも忘れ、深雪は驚愕に目を見開いていた。
一方、達也は穂波の傍らに片膝をつき、彼女の容態をつぶさに確認している。
「深雪。穂波さんは問題ない⋯⋯酷く疲弊しているだけだ。__津那美さんが⋯⋯あの人が何をしに来たのか確かめるためにも、俺たちも行ってみよう」
達也は静かに立ち上がると、妹の肩にそっと手を置き、促すように呟いた。深雪は小さく頷き、母の後を追って二人で屋外へ駆け出す。
__別荘の外では、忙しなく視線を周囲に巡らせ、津那美を探し求める深夜の姿があった。
深雪と達也も釣られて視線を走らせるが、肝心の津那美の姿は影も形も見当たらない。
やがて気配の探知を終えた達也が、その首を左右に振りながら、ポツリと漏らす。
「周囲に人の気配はありません。おそらくは⋯⋯空間転移をしたのでしょう。だとするなら、もはや追跡は不可能です⋯⋯」
「そう⋯⋯。空間転移⋯⋯つくづく凄まじい能力ね⋯⋯」
深夜は下唇を噛み、悔しげに目を伏せる。
逆に深雪は、そっと空を見上げた。その青い瞳に、美しくも玲瓏な月が映り込む。彼女にはそれが、どこまでも孤独な道を歩む津那美の姿と重なるように見えた。
知らず知らずのうちに、深雪の白い頬を一粒の涙が伝い落ちていった。
◇
東京、司波家邸宅__。
数日後__沖縄旅行を終え、東京にある邸宅へと帰り着いた深夜たち。
しかし気が休まることなどなく、むしろこれからが本番であるかのような緊張感が深夜と深雪の間に漂っていた。
大切な話を子どもたちとするからと、穂波を部屋に下がらせた深夜は、リビングに深雪と達也を呼び出す。
テーブルを挟み、ソファーに腰掛け対面する深夜と深雪。
達也はいつもの習慣通り、妹の背後で待機しようとしたが__深雪はそれを見咎め、自身の隣に座るよう促した。
僅かに困惑するも、深夜が何も口出ししないことから、達也はおとなしく深雪の隣に腰を落ち着ける。
そのまま、誰も口を開かない無言の時がしばし流れた。
やがて、深夜は溜め息を一つ漏らす。
「さて、深雪さん⋯⋯いえ、深雪。覚悟はできているかしら。お望み通り、これまで貴女から遠ざけた真実を語ってあげましょう。聞き終えたあとで、泣き言を漏らしたとしても知らないわよ⋯⋯」
母からの軽い挑発に憤るでもなく、深雪は毅然な態度を示した。
そんな娘を前に、深夜は小さく唇を吊り上げ__そして、その口から真実が語られだす。
達也が、その身に宿した異能のこと。
その異能の強大さを恐れた四葉分家当主たちとの確執と達也の抹消議案。
そして、それを棄却させるために行われた達也の精神改変施術。
話が進むなか、達也は無表情を保ったままだったが、深雪はいつしか顔を伏せていた。
そして、すべての事実を語り終えた深夜は、どこか投げやりな表情を浮かべる。
「これが、貴女が知らなかった真実よ⋯⋯。どうだったかしら、深雪?悍ましい⋯⋯と思った?わたくしのことを見下げ果て、憎らしくなったかしら⋯⋯?」
自らを罰するように、自虐の言葉を吐く深夜。
そんな母を目にして、微かに顔色を曇らせる達也と相変わらず俯いたままの深雪だったが__不意に彼女は、すっと音もなく立ち上がった。
そのまま、テーブルを回り込み、深夜の傍らへと静かに歩み寄っていく。
平手打ちでもされるのかと判断した深夜は、そっと目を閉じる。対して深雪は手を振り上げるでもなく、唐突に母の胸元へと飛び込み__号泣しだした。
突拍子もない娘の行動に、深夜は戸惑いの表情を浮かべる。そんな母に向けて、深雪は強く訴えた。
「お母様は大馬鹿です⋯⋯!なぜ、ひとりで抱え込んだのですか⋯⋯っ!確かに私はまだ子どもで⋯⋯何の力になれないかもしれませんっ!でも⋯⋯それでも、お母様の傍にはいられます。支えることぐらいはできますっ!なぜ、それすら許してくださらなかったのですか⋯⋯!お母様の⋯⋯ばかぁぁぁぁぁっ!!」
深雪は母の胸に思いきり顔を埋め、溢れ出る感情のまま泣き叫んだ。彼女の痛烈な言葉を受けて、気づけば深夜の瞳からも涙が零れ始めていた。
恐る恐る娘の背に腕を回した深夜は、包み込むように優しく抱き締める。胸元に感じる深雪の熱い涙とその温もりに、彼女もまた嗚咽を漏らしていく。
「ごめんなさい⋯⋯。今まで寂しい思いをさせて、本当にごめんなさい、深雪⋯⋯。信じてはもらえないかも
しれないけれど⋯⋯心から貴女を愛しているわ⋯⋯」
「お母様ぁぁぁぁぁっ!」
すれ違い続けた母と娘の蟠りは、この瞬間すべて解けていった。
まさに尊いと言える光景を、達也は満足げに眺める。そして、彼の胸の内にも、長年隠し続けた真実を打ち明ける決意が芽生えていた。
「奥さま⋯⋯いえ、〝母さん〟。俺からもひとつ、打ち明けたいことがあります⋯⋯」
二度と聞くことは叶わないと思った呼称を耳にして、深夜は思わず目を丸くする。深雪もまた、兄が何を語るのか気になり、耳を澄ます。
「母さんは思い違いをしています⋯⋯。精神改変の結果、俺の内には深雪に対する情動しか残っていないと考えているようですが⋯⋯それは間違いです。俺の内には母さん⋯⋯貴女への深い感謝と愛情が、はっきりと残っています⋯⋯」
「 っ!?」
「それは本当ですか⋯⋯お兄様っ!」
達也が告げた驚愕の事実に、深夜は言葉を失くし、深雪はそんな母の胸元から顔を上げ、詰め寄る勢いで問い返した。
「最愛の家族を相手に、悪質な嘘などつくものか。まして、母さんを罪悪感から救おうとする話に嘘を織り交ぜるなど__人でなし、そのものじゃないか⋯⋯。さすがの俺もそこまで落ちぶれるつもりは⋯⋯まさかとは思うが、深雪は俺のことをそんな目で見ていたのか?」
「⋯⋯いえいえっ、お兄様を心から尊敬している私が、なぜそのような下賤な目でお兄様を見なくてはならないのですか⋯⋯!ええ、絶対にありえません⋯⋯絶対の絶対です。深雪のこと⋯⋯信じてくださいますよね、お兄様⋯⋯」
兄の懸念を晴らそうと焦る深雪は、普段と隠しているお茶目な一面を晒してしまう。そんな妹の側面に達也は呆れつつ、鋭い眼差しで射抜く。
「深雪⋯⋯あとでゆっくり話そうか。二人だけでな⋯⋯」
「そんなお兄様⋯⋯っ!?。まさか深雪のことを、お疑いなのですか⋯⋯?」
これまでの疎遠な関係が嘘に思える軽妙な兄妹のやり取りをよそに、深夜は声を震わせながら問いかけた。
「本当なの⋯⋯達也⋯⋯。未だにわたくしのことを母と認めて⋯⋯そう呼んでくれるの?」
「当然です。貴女はこの世界でただひとり⋯⋯俺の大切な母親です。それと⋯⋯今日までこの事実を隠し続けたこと、真に申し訳ありませんでした」
真摯に母と向き合う達也は、ソファーに腰掛けたまま深々と頭を下げる。
しかし、息子の丁寧な謝罪は、母としての喜びと救済に包まれた深夜の耳には、もはや届いていなかった。
「まさか⋯⋯こんな奇跡があるなんて⋯⋯っ!あぁ、確かにわたくしは大馬鹿者ね。望むものは、すぐ傍にあったのに⋯⋯手を伸ばせば掴める距離にあったのに⋯⋯それに、今まで気づかなかったなんて⋯⋯っ」
深夜の瞳には新たな涙が浮かび、頬を伝い落ちていく。
「⋯⋯達也も⋯⋯ごめんなさいね。貴方の情動を消してしまったこともだけれど、貴方を粗末に扱っていたこと⋯⋯どうか赦してちょうだい⋯⋯」
「母さんを恨んだことなど、一度もありません。すべては俺のためを思い、してくれたことですから⋯⋯。だから母さんも、これ以上自分を責めないでください」
「ありがとう⋯⋯達也⋯⋯」
温かな絆を取り戻して笑みを交わす母と兄の姿を、深雪は涙を拭いながら嬉しそうに見つめていた。
これまで家族三人の間に漂っていた、どこか緊張感のある棘々しい雰囲気は綺麗に払拭され、今や鮮やかな彩りの添えられた穏やかなものへと取って代わる。
__もしこの場に真夜がいたら、あまりの変わりように仰天したことだろう。
そんななか、深夜は隣に座る深雪のことを真っ直ぐに見つめ、語りかけた。
「深雪⋯⋯。貴女にひとつ伝えておくことがあるわ。その身体にまつわる大切なことよ⋯⋯」
「私の⋯⋯身体⋯⋯」
母の気難しい表情を目にした深雪は緊張に身体を強張らせ、達也も大切な妹に関わることとして思考を研ぎ澄ませる。
「深雪、心して聞きなさい。貴女は〈調整体〉なのよ⋯⋯」
「⋯⋯えっ!?」
「そんな馬鹿な!?」
深夜が告げた事実に対して、深雪は唖然とし、達也は驚愕のあまりソファーから勢いよく立ち上がってしまう。
「達也、落ち着きなさい⋯⋯。というより、貴方が驚いてどうするのかしら」
「っ!?失礼しました、奥さま」
「奥さま⋯⋯?達也⋯⋯そこは〝母さん〟、でしょう!」
すっかり染み付いた呼称をうっかり使ってしまう息子に、深夜は不機嫌な顔色となる。
「すみません、母さん⋯⋯。徐々に改めていきますので、ご容赦ください」
「まあ、いいでしょう。とりあえず座りなさい、達也」
「はい⋯⋯。それで母さん、確認したいことがあるのですが⋯⋯」
再びソファーに腰を落ち着けた達也は、母に疑問を投げかけた。
「深雪が調整体というのは事実ですか?」
「なぜ、そんなことを聞くのかしら?わたくしの言葉が信じられないの」
「そういうことを言いたいのではありません!俺の《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》で見た深雪の情報体には調整体固有の遺伝子疾患や欠損は存在していません。これで、なぜ深雪が調整体だと断言するのですか?」
「ああ、だから達也は驚いたのね。その理由は__」
深夜は未だ唖然としている深雪を見つめ、さらなる真実を告げる。
「深雪⋯⋯。貴女は調整体の極みともいうべき存在⋯⋯〈完全調整体〉だからよ」
「「完全⋯⋯調整体⋯⋯」」
深雪と達也は重なるように、その単語を呟いた。
「そう完全調整体⋯⋯。だから深雪には調整体にありがちな遺伝子の欠陥は何ひとつ見受けられない。__だから深雪、そんなに呆然とする必要はないわ。さしずめ寿命のことを心配したのでしょうけど、貴女の寿命は普通の人間と大差ない⋯⋯むしろ、より長い寿命を獲得している可能性すらあるわね」
「⋯⋯ということは、早逝するような事態に私は陥らないと⋯⋯?」
「ええ、問題ないはずよ。どう安心したかしら?」
調整体としての懸念は何ひとつ存在しないという事実に、達也は安堵の吐息を零し__そして、肝心の深雪は歓喜の笑みを浮かべていた。
「でしたら、何の問題もありません。むしろ⋯⋯幸いなことです」
衝撃の真実を告げられ落ち込むかと思いきや、逆に深雪は喜びに大きく打ち震える。
不審に思った深夜は、その理由を尋ねた。
「深雪、何が幸いなのかしら?」
「だって寿命が長いということは、津那美さまとより永く一緒に過ごせるということですよね⋯⋯。愛を育み、夫婦円満で幸せな家庭を築く⋯⋯。これを成し遂げるための最高の要素ではありませんか!」
「「っ!?」」
あまりの破天荒な発想に、達也と深夜は言葉を失う。
(恋は女を変えるというけれど、これはさすがに変わりすぎね⋯⋯)
(深雪⋯⋯。お前はそれほどまでに津那美さんのことを⋯⋯これはどう対処すれば⋯⋯)
深雪の劇的な変容ぶりに、二人はそれぞれ思考を巡らせる。
そして深夜は、娘に覚悟があるかを問い詰めた。
「津那美さんに恋心を抱くのはいいけれど、理解しているの、深雪⋯⋯?貴女の恋敵は⋯⋯真夜なのよ⋯⋯」
「そんなことは百も承知です!ですが、たとえ叔母様が相手だとしても、私は一歩も引く気はありません!津那美さまの御心を射止めるのは、私です!!」
グッと両手を握り締め、高らかに宣言する深雪。
その表情はまさに恋する乙女そのもの。キラキラと眩いばかりに輝いている。
(諫めることは無理ね。どうしたものかしら⋯⋯?)
(だが津那美さんが相手だというなら、俺も安心できるか⋯⋯?んっ⋯⋯妙に心がざわつくな、なぜだ⋯⋯?)
実際、思うところはあるもののそれを口に出すことはなく、達也と深夜は視線を交わしあい、大きく息を吐き出すのだった。
そして丁度、津那美と叔母の名が会話に上がったことから、達也はひとつの疑問を投げかける。
「そういえば母さん、叔母上には津那美さんのことを、どう報告するのですか?」
「そうね⋯⋯どう報告したものかしら。達也、何か案はある⋯⋯?」
「そうですね⋯⋯。ここまできたら、もはやあるがままを素直に報告するしかないのでは?」
「やはり、それしかないわよね。でも、確実に真夜は憤慨するでしょうね⋯⋯」
先行きの不安を感じ、深夜は知らず溜め息を漏らす。
そんな母に向けて、深雪はさらなる追い打ちをかけた。
「ですが、悪いのは叔母様に報告を怠ったお母様ですよ。私はちゃんと叔母様にすぐ報告すべきと、促しましたよ!」
「責めないでちょうだい。あの時は、わたくしにも色々と考えがあったのよ。それに__」
「母さん、今は言い合いをしている場合ではありません。__深雪も落ち着け⋯⋯」
不毛な口論を始めようとした二人を宥める達也。彼は内心、これが自分の今後の立ち位置になりそうな予感をひしひしと感じていた。
こうして家族三人による『四葉真夜対策会議』が催されるなか__リビングの扉のすぐ外では、動向を気にした穂波がこっそり聞き耳を立てていた。
そして、三人が完全に和解したことを察した彼女の目には、感激の涙が浮かびあがる。不和を長年見てきた穂波にとっては、まさに感動もひとしおの出来事だった。
しかし、このときの穂波は知る由もない。後日、報告のために四葉の屋敷へと同行した自分までもが、真夜の激烈な癇癪に巻き込まれることになるとは、まだ想像だにしていなかった。
◇
後日、四葉本家__。
穂波が運転する車に乗り、四葉の屋敷に到着した深夜たち。
その後、応接室に通され、満面の笑顔で迎える真夜と対面した一同は、沖縄で起きた出来事の概要を報告していく。
やがて、真夜が探し求める〝桃源津那美〟と遭遇した下りに差し掛かったとき__周囲の空気が一変した。
真夜の全身から、無尽蔵を彷彿とさせる想子(サイオン)の光が奔流となって溢れ出す。空気が痛々しいほどに震え、ガラス窓がキシキシと悲鳴を上げて軋み始める。
彼女は笑みを浮かべたままであったが、その真紅の瞳の奥には明確な怒りが渦巻いていた。
同席していた深夜たちを含め__屋敷にいた家人全員、文字通り生きた心地がしなかった。
そんな絶体絶命の緊張感のなか、深雪は『津那美からの伝言』という最高の切り札を披露する。
己が崇拝する愛しき神からの言葉を伝え聞いた真夜は、平静を取り戻すどころか__いっそうの狂喜に身を浸した。
ともあれ、真夜の憤怒が収まったのは紛れもない事実。全員が深雪の見事なファインプレーに、心中で最大級の賛辞を送ったのは言うまでもない。
だが、それとこれとは別問題という冷徹な判断の下、報告を怠った罰として深夜たち三人と穂波は、もれなく真夜からの苛烈な拳骨を頭に落とされることとなった。
◇
__『魔法科高校の劣等生』。
今、この世界の歴史は決定的な変化の時を迎えた。
本来なら歩むべき正統な歴史があったというのに、異端たる存在の介入によって、世界は正史の道筋を外れた未知なるルートを進んでいく。
もはや、この巨大な潮流を止めることは神ですら不可能であり__。
『外史』という名の未来がどこへ到達するのか、それを知る者は未だ誰ひとりとして存在しえなかった。
__そして、三年の月日が流れる。
深雪と達也は晴れて、国立魔法大学付属第一高校__通称、〝第一高校〟への進学が決まった。
いかがでしたでしょうか。ここまでお読みいただけて、本当に感謝です。入学編も楽しみに読んでいただけらよう、頑張って書いていきます。
ついでにこの外史世界の変更点を書き記しておきます。
・四葉真夜 精神、肉体ともに健康体そのもの。最強魔法師街道を驀進中。津那美と鬼を除き、ほぼ敵無し。
・司波深夜 桜井穂波 生存。津那美に対して感謝とともに複雑な感情を抱く。
・司波達也 深雪 健全な兄妹仲に収まっている。深雪は津那美への恋を成就させるため、多少?苛烈な性格に変容。達也はそんな深雪を抑えるため、気苦労の絶えない日々を送る。
・四葉の異名〈アンタッチャブル〉の変更。大漢を壊滅に追い込んでいないため、異名が新たなものに差し替わります。
プロローグ終了時点では、この辺りです。
では、次話の投稿を楽しみにお待ちください。