第三話 彼の人から渡されたもの
◇
(この世の者とは思えないぐらい⋯⋯綺麗な、人)
脳裏へ強烈に焼きついた残像と共に、真夜の体はまるで落雷に撃たれたかのように、激しく震えた。
胸は高鳴り、心の臓は早鐘の如く、狂おしい鼓動を刻み始める。
__緊張か、興奮か、あるいはその両方か__
釘付けになったその双眸で、彼の容姿を熱烈になぞっていく。
雪のように真っ白な髪。自分と同じ鮮やかな紅い瞳。神が自らの手で創造したと思わせるほど完成された美貌と黄金比そのものの美躯。
まさに美の化身とも謂うべき存在が悠然と立ち、自分だけを真摯に見つめている。その事実が、真夜の心に圧倒的な歓喜をもたらしていた。
一方、津那美は真夜を一瞥すると、眉間に皺をよせた。
無理矢理着せられたであろう手術着は乱され、暴威のままに蹂躙されそうになった彼女の尊厳をこれ以上傷つけぬよう、彼女の〝顔〟だけに視線を向け固定する。そして、真夜を怯えさせないよう正面を避け、あえて側面に回り込む足取りで静かに近づいていく。
彼女は一瞬、小さく息を呑むが、それが恐怖によるものでない事は表情を見れば明白だった。
真夜の瞳は微かに潤み、呼吸は多少荒く、白い頬は朱に染まっている。何かしらの過度な緊張、または興奮状態にあると察した津那美だったが、あえて追求する事はしなかった。
彼の思考は今、真夜を縛りつける拘束具を、一刻も早く破壊することだけに向けられていた。
津那美は目元に優しい光を宿しながらも、あえて事務的に少し硬い口調で彼女に語りかける。
「さて。まずはその忌々しい拘束具を外そう。少しの間、動かないでもらえるか」
真夜の返答を待つことなく、津那美は彼女に向けて右手をかざす。
そのまま、空間に存在する不可視の何かを軽々と潰すように、その五指を握る。
津那美がした事は、ただそれだけだった。
だというのに、訪れた変化は実に劇的で、そして衝撃的だった。
__バキンッ、バキンッ、バキンッ、バキンッ__
小気味良い破砕音が連鎖して響き、真夜の手足を固定していた強固な拘束具が、跡形もなく一斉に弾け飛んだ。
真夜は、目の前で起きた未知の超常現象に仰天しながらも、即座に我を取り戻した。
自由になった脚は弾かれたように閉じられ、上体を素早く起こすと、両手で乱れた手術着の裾をこれでもかと強く押さえこんだ。
(見られてないわよね⋯⋯!?)
津那美に醜態を晒してしまったのでは、と底冷えするような不安に襲われた真夜は、恐る恐る彼に向けて視線を走らせた。
__ただし、それは本人の健気な自認であり、傍目には鋭い眼光で、相手を不敵に睨め上げる強気な視線になってしまっていたが__
しかし、そんな真夜の目が捉えたのは、彼の端正な顔ではなく、漆黒のコートを纏った広い背中とそれを縦に割る結われた白髪の束であった。
津那美は、拘束具を破壊し終えたその刹那、彼女の誇りを守るべく、その場でクルリと背を向けていたのだ。
(紳士的な方。あのケダモノたちとは大違いね。⋯⋯いえ、アレらと同列に比較するなんて、この方への侮辱だわ)
真夜は、津那美のスマートな配慮に心からの敬意を抱きながら、手術着全体の乱れを整えていく。しかし、その過程で、彼女は裾の部分がわずかに湿っていること。
そして、寝台の上にに小さな水溜まりが出来ていることに気がついた。不審に思った真夜は、水溜まりに指先で触れ、その匂いを嗅いでみる。
__微かに漂うアンモニア臭__
真夜の顔色が瞬く間に蒼白に変わり、体がプルプルと小刻みに震えだす。
(⋯⋯うっ、嘘でしょ!?この歳でお漏らしだなんて。恥ずっ、恥ずかしすぎるわ。⋯⋯どうしましょう!?どうやって隠せばいいの!?)
彼女はあまりの衝撃に口元を片手で押さえ、絶望的な目で必死に周囲を見回した。しかし、室内は閑散としており、手ぬぐいの一枚すら見当たらない。
真夜が混乱の極致で身悶えしている、まさにその時だった。
「もう、振り返ってもいいかな?」
津那美の確認を促す静かな声が、耳に届く。
「__っ!待って下さい。もう、あと少しだけ⋯⋯」
悲鳴を上げそうになったのを辛うじて堪え、この未曾有の危機を解決すべく、真夜の明晰な頭脳が高速で思考の歯車を回し始めた。
そして、天才的閃きを以て、事態解決のために動き出す。
まず彼女は寝台に残る痕跡を、自分の体で隠せるようにミリ単位で位置取りを合わせ、手術着の裾が翻るという醜態を晒さぬよう寝台には浅く腰かけ、両手を重ね優しく裾を押さえる。
最後に顔面のあらゆる筋肉を総動員して、極上のアルカイックスマイルを象った。
この間、実に10秒。見事な早業だった。
「(⋯⋯うん、これで問題はないはず!)お待たせしました。振り返っていただいても大丈夫ですよ」
動揺など微塵も感じさせない、鈴を転がすような愛らしい声で、真夜は津那美へと促しの言葉をかけた。
◇
真夜の言葉を受け、振り返った津那美は彼女の頭頂からつま先までを鋭い眼差しで素早く精査し、致命的な外傷の有無を確認する。
「⋯⋯フム、怪我はその手首、足首の擦過傷くらいか。他に自覚できる痛みはあるか?」
「いいえ、特にありません。この傷も少しヒリヒリするぐらいです。お気遣いくださり、ありがとうございます」
真夜は、手首に残る痛々しい赤い痣をさすりながら、笑顔を浮かべて津那美に礼を述べた。しかし、そんな彼女の笑顔を見て、津那美は眉を顰める。
「何故、笑っている?」
「⋯⋯えっ!?何のことですか?」
問われた真夜は、意味が解らないとばかりに小さく首を傾げた。津那美は、静かに吐息を一つ吐き、彼女の虚勢をほどくように優しく語りかける。
「君は聡い娘⋯⋯いや、聡すぎる娘のようだな。不快かもしれないが、自分の置かれていた状況を思い返してほしい。君は先ほど、見ず知らずの男に凌辱されそうになり、あわや鬼に喰い殺される所だった。普通の娘なら、今も恐怖に震え、泣き叫んでいるはずだ」
彼の痛烈な指摘に、真夜は何か言い返そうと口を開くも言葉は紡げず、ただ沈黙するしかなかった。そんな彼女の頑なな表情を前に、津那美はさらに言葉を重ねる。
「ああ、勘違いしないでくれ。君が普通じゃないと責めている訳ではない。おそらく、そういう教育を過度に施され育てられたのだろう。⋯⋯だが、それではあまりに子どもらしくない。大人と違い、子どもとは溢れ出る感情を爆発させながら生きていくものだ。君もこんな時ぐらいは、ありのままの感情を表に出していいはずだ」
津那美は、自分の言葉を聞き、揺れ動く真夜の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「__怖かったと泣き叫んでいい。理不尽な運命に怒りをぶつけたっていい。そんな当たり前の感情の発露を奪う権利など、この世界の誰にも無いのだから。そして、覚えておくといい。人が、子どもでいられる時間というのは、案外短いものだという事を」
乾いた大地が雨で潤うような、そんな慈しみの思いを込め、津那美は真夜を諭していくのだった。
◇
『子どもらしくない』
そんな風に叱られたのは、生まれて初めて。少し、ううん。かなり新鮮かも。
だって、私の周りにいる大人たちは、私に子どもらしさなんて求めてないもの。みんな口を揃えてこう言うわ。
__いつまでも、子どもじゃないんですから、立派な大人になって下さい__
口を開けば、そればかり。もう、うんざりするわ。
でも、それも仕方ないのかも。だって、私は四葉の娘だもの。果たすべき義務やら責務やらがあるのだもの。
それを投げだすなんて⋯⋯ああ、そっか。今、分かったかも。
私は、籠の鳥なんだわ。四葉という籠に囲まれた小鳥。外敵から守られ、極上の餌を与えられ、何不自由なく生きているけれど、その翼が持つ本当の意味を忘れた憐れな生き物。
⋯⋯嫌だな、籠の鳥なんて。
だって、だって私は飛びたいもの。翼を広げて、籠の外に広がる大空をどこまでも飛んでいきたい。そして、自分の眼で世界を見て、自分の手で色々なものに触れてみたい。
っ!?そっか、そういうことなのね。それが、『子どもらしい』ということなのね。
ただがむしゃらに、無邪気に、自分の翼で、自分の脚で世界を翔けていく。時には躓いて、泥だらけになって泣くこともあるけれど。また立ち上がって前に進んでいく。それが、子どもなのね。
フフフッ、不思議ね。分かった途端にすごく胸がドキドキしてきた。何だか意味もなく、叫びだしたい気分。
そっか、感情を表に出すって、こういう感覚のことなのね。
な〜んだ。私も、まだまだ、ちゃんと『子ども』じゃない。
◇
先ほどまで思い悩み、揺れ動いていた真夜の紅い瞳が、今は迷いなく真っ直ぐに津那美を見つめ返した。
「いい大人が、『子ども』相手に小難しい話をしないでください。そういうお話は、大人同士の場でお願いしますね」
そう告げる彼女の表情は、今までの精巧な人形じみた微笑とはまるで違い、どこか悪戯っぽさの宿る等身大の子どもの笑顔だった。
それを見た津那美の顔が、嬉しそうに綻ぶ。
「ああ、それでいい。君ぐらいの年頃の娘は、そうして小生意気な口を叩いて、多少大人を苛つかせるくらいが丁度いいのだ」
津那美は真夜の健やかな変化を歓び、彼女もまた自分の変わりようを誇らしく肯定した。
「はい。自分でもびっくりしています。何だか、ずっと背負わされていた肩の荷が下りた感じ。あるいは、私を雁字搦めに縛りつけていた鎖が綺麗に解けた感じです。身体がすご〜く軽い。不思議な気分。でも、でも、決して悪くない気分ですよ」
真夜は、清々しい笑みを浮かべてそう述べた。その口調からは令嬢としての冷たい硬さが抜け落ち、年相応の幼さを感じさせるものに変化していた。
彼女は自らの心の解放がよほど嬉しいのか、キラキラと目を輝かせ、もはや遠慮もなしに、子どもらしく津那美へ質問を重ねていく。
「あの〜、それでですね。すごく今さらな質問なんですけれど⋯⋯貴方は、一体どちら様ですか?⋯⋯もしかして、もしかして、私の家⋯⋯お父様が裏で用意していた秘密部隊の方とかですか?」
真夜は、自らの言葉でますます気分が高揚したのか、より一層瞳を輝かせて津那美を見つめた。
彼女の無邪気な問いかけに、津那美の目元がわずかに細まり、一瞬冷徹な光が宿る。だが、その研ぎ澄まされた硝子のような光はすぐさま消え去り、彼は苦笑いを浮かべた。
「これは失念していた。問われるまで名乗らないとは、不調法だったな。⋯⋯改めて、私は桃源津那美という。しがない探⋯⋯、いや、そうだな。ここは、こう言っておこうか。通りすがりのただのお節介者だ、と」
「__はい!?」
津那美の薄く、美しい唇からこぼれた拍子抜けするような返答に、真夜も思わず間の抜けた声を上げてしまうのだった。
◇
津那美の奇天烈な自己紹介に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった真夜は、その気恥ずかしさを誤魔化すように小さく咳払いをした。そして、生意気な子供らしく、愉しげに彼の素性に踏み込んでいく。
「えっと、まずは⋯⋯桃源さん。ううん、つっ、津那美さん、とお呼びしてもいいですか?」
「ああ、構わない」
「それでは、津那美さん。私もそれほど世間に詳しい訳ではありませんけど⋯⋯。あれほどの超常的な力を振るったのです。普通そこは『正義の味方』とか『スーパーヒーロー』とか名乗って、格好をつけるんじゃありません?」
「私は、そちら方面の世情には疎い。こういう時は、そう名乗るのが常なのか?」
津那美からの存外真面目な問いかけに、真夜は指先を小さな顎に当てて、首を傾げながら微かな記憶を懸命に手繰り寄せた。
「えっと、別に常ってわけじゃないと思いますけど⋯⋯。ごめんなさい。実際、私も男の子が好む娯楽作品のことは、あまりよく解らなくて⋯⋯。この知識も、婚約者の弘一さんから聞かされたことの受け売りなんです」
津那美は腕を組み、彼女の拙い語りに対して、真摯に耳を傾けている。そんな彼の誠実な姿勢に、真夜はにわか知識を得意気に披露したことを恥じ、頬を真っ赤に染めた。
津那美は、赤面している真夜を微笑ましく眺めつつ、やがて視線をわずかに外すと、自身の思考を静かに語りだす。
「しかし、『正義の味方』、か。何故だろうな。人は容易に、その言葉を使いたがる。だが、善悪の彼岸など非道く曖昧で移ろいやすいものだ。それは為す側、受け取る側、信じる側の都合で書き換わり、瞬く間に元の形を失っていく」
己の1000年を超える歩み。その中で目にしてきた数多の愚かな戦争の記憶。血塗られた遠い過去をなぞるように語る津那美の表情には、一瞬だけ深い苦渋の影が垣間見えた。
津那美の憂いを帯びた顔を見た真夜は、自身の幼稚な発言が彼の古傷に触れてしまったのだと思い至り、胸を刺すような罪悪感に苛まれる。目尻に涙が浮かびそうになるが、それをグッと堪えた。
彼が今とても大切で、崇高な『真実』の話をしてくれていることを悟ったからだ。涙など流している暇はない。真夜は言葉の一言一句、聞き逃すまいと耳を澄ますのだった。
「本来、善と悪は等価値だ。表裏一体と言い換えてもいい。しかし、人は善という言葉だけに溺れ、その響きに酔いしれ、やがて本質的な意義を見失う。そして、どれほど横暴の限りを尽くしても、正しいことをしていると言い張るようになる。⋯⋯実に愚かだ。自らの正当性を証明するものなど、世界のどこにも無いというのに」
津那美は、自身の話を聞き逃すまいと真摯に聞いている真夜に、ゆっくり歩み寄った。そして、彼女の小さな頭へと、そっと優しく手を置く。
「いいか?容易く答えを出そうとしてはいけない。安易に力を求めてはいけない。周囲の言葉に迎合して、自らの道を踏み誤ってはならない。常に迷い、考え続けるんだ。善悪とは何か?力とは何か?⋯⋯まだ幼い君には、ひどく難しいことかもしれない。だが、どうか忘れないでくれ。君がその人生に『真価』を見いだせるよう、私は祈っている」
諭すように語り終えた津那美は慈しむ手つきで、真夜の柔らかな髪を梳くように撫でるのだった。
真夜は、彼の手のひらから伝わる温もりに心地良さを覚えながら、目を閉じ、津那美の語った言葉を一つずつ深く心に刻みつけていく。
それは、まるで親から子へ。師から弟子へ。あるいは、友から友へ。
かけがえのない大切な何かを受け渡していく。尊い儀式のようであった。
次話で真夜救出編は終わりです。その後、司波家救済編。つまりは追憶編を執筆して、入学編に突入しようと思います。