第六話 歪な『家族』
◇
__パチンッ__
戦場には不釣り合いな、軽快な音が響いた。
その直後、迫りくる大亜連合の兵士たちは、一人残らず火の粉を撒き散らして灰と化した。
(これほどの規模の事象を、一瞬で。これが叔母上が『私の神』と讃え、崇拝し、心酔する男性の戦闘技法か)
司波達也は、隣を悠然と歩く美丈夫、桃源津那美を驚愕の眼差しで見つめていた。その間にも、自身で調整を施した銃型試作CADから放つ分解魔法で、襲い来る敵兵を分子レベルで分解、霧散させていく。
そのまま、二人は海岸線に乗り上げた揚陸艇から蜂の子のように溢れ出してくる敵兵たちを押し返すべく、前進を続ける。
だが、国防軍から借り受けた戦闘スーツを身に着けている達也と違い、津那美の服装は着の身着のまま。白のワイシャツに黒のスラックス、そして黒のコートという普段着だ。周囲には、大亜連合兵士からの激しい銃撃や魔法攻撃が飛び交っている中、彼は平然と歩き続け、その顔には焦りも恐怖の色も窺えない。
再び、パチンッとフィンガースナップの音が鳴る。敵兵士たちが、先ほどと全く同じ末路を辿った。
達也は自身の特異な眼《精霊の眼:エレメンタル・サイト》で解析を試みようと、その一部始終を凝視していた。だが、彼の眼には何も映らない。起動式も魔法式も、それを構築するためのサイオンの動兆すら見えず、情報構造体への干渉痕跡さえ、その視界の中には微塵も存在しなかった。
(⋯⋯あり得ない。アレは魔法ではないのか?あの人は、一体何をしているんだ?)
現代魔法の定義を、完全に逸脱している現象を前に、達也の脳裏には大量の疑問符が湧き出していた。
◇
戦闘の最中だというのに、未知への好奇心を抑えられず、ほんのわずか意識を割いてしまった達也。
だが、戦場のプロはその隙を見逃さなかった。自己加速術式によって一気に肉薄する敵兵の姿が、達也の視界に飛び込んでくる。
銃撃や魔法攻撃では埒が明かないと悟ったからか、その手には大型のコンバットナイフが握られていた。
迫りくる敵兵に達也は、即座に迎撃のため銃型CADを向けようとするが__ガキンッ__と硬質な音を響かせて、加速していた兵士はあらぬ方向へと弾き飛ばされた。
達也は一瞬、何が起こったのか判断できなかった。だが、よくよく肉眼で目を凝らせば、敵兵が衝突したとおぼしき空間がユラユラと不規則に揺らめいている。まるで、そこに不可視の障壁が展開されているかのようだ。
念のため、《エレメンタル・サイト》で確認してみるが、やはり情報構造体の改変痕跡は映らない。
(何だ、この空間の歪みは⋯⋯?いつから張られていた?少なくとも、つい先ほどまでは無かったはずだ。発動の兆候も、サイオンの余波すらなかった。⋯⋯こんな芸当ができるのは__)
内心の動揺を抑え込み、達也は隣を歩く彼へと視線を向けた。
津那美は、その顔に優しい微笑みを浮かべて、達也を見ていた。その眼差しは、子どもを見守るかのような慈愛に満ちている。
そして無言のまま、達也への攻撃頻度を減らすためか、彼よりも数歩先を歩くように前へ出た。
達也の目に、彼の大きな背中が映り込む。
(⋯⋯まさか、俺を庇おうとしているのか?俺を守ろうとしているのか?深雪のガーディアンとして生きてきた、この俺を?)
津那美の行動の意図を察した達也の胸中に、不可思議な熱が宿る。
(フッ、まるで子ども扱いだな。いや、実際にこの人からすれば、俺など子どもに過ぎないのか。精神も肉体も、まだ未成熟な庇護されるべき対象というわけか。__何だ?妙に精神がざわつくような、くすぐったいような不思議な感覚だ。⋯⋯ああ、そうか。これが叔母上がよく口にする『子どもらしくしなさい』という言葉の答えなのか。他人に庇われ、守られることで、俺は__安堵しているのか。あるいは、感動か。そんな感情はもう俺の中には残っていないと思ったんだがな)
自身の精神の機微に思い至った達也は、自嘲気味に息を吐き、改めて前を歩く津那美の背中を見つめた。
(まるで、父の背中だな。⋯⋯何を馬鹿なことを考えているんだ、俺は。親父__あの男にさえ何も感じない俺が、まだ会って数日しか経っていないこの人の背に〝父親〟を感じるなど、どうかしている)
達也は一度軽く頭を振って、戦場に不必要な思考を強制的に追い払う。
(この人には悪いが、守られるのは性に合わない。何より、この愚者どもは俺の大切な〝母さん〟と〝深雪〟の命を脅かした。その報いは、必ず受けてもらう)
自身の精神に残された絶対の感情__家族愛__それを脅かそうとした敵への苛烈な殺意が、達也の瞳を凍らせる。
彼は、その手にある銃型CADを強く握りなおすと、前方を歩く津那美に追従するよう、その脚を速めるのだった。
◇
__同時刻__
国防軍沖縄基地__その発令所のモニターの一つを、司波深雪は食い入るように見つめていた。その小さな両手は、胸の前で祈るように組まれている。
そんな彼女の背後では、母親である司波深夜が椅子に腰かけ、冷めた視線で同じくモニターを見つめていた。深夜の専属ガーディアンである桜井穂波は、仕えるべき主とその娘のただならぬ様子を、背に冷や汗をかきながら黙って見ていた。
発令所内には、複数の大型モニターが並び、各地の凄惨な戦況を事細かに映し出している。だが、まだ幼く、まして軍人でもない深雪には、複雑な戦況の優劣などまるで判るはずもない。
ゆえに彼女は、ただ一つの映像だけを凝視していた。
深雪の清廉な青い瞳には、ようやく〝大切な家族〟だと自覚できた尊敬すべき兄と__そして、自身の窮地を凛々しい騎士のように救ってくれた優しき『私の王さま』。
その二人が戦場を闊歩し、敵の軍勢を圧倒していく姿が映り込んでいる。
映像越しに見る二人は、特に怪我を負っている様子もない。深雪は胸を撫で下ろし、ホッと安堵の溜め息を吐いた。
__やがて、発令所に大きなどよめきが走る。
戦況が国防軍優勢に傾き始めた、と色めきたつオペレーターたちの報告が、深雪の耳にも心地よく届いたのだった。
(さすがです。お兄様、津那美さま。お二人の手にかかれば、有象無象がどれほど束になろうと相手にはなりませんね。⋯⋯お二人とも、どうか無事に戻られますよう、深雪は祈っております)
深雪は映像に映る二人の活躍を見ながら、幼くも美しい顔を綻ばせ、胸中で二人の無事を真摯に祈り続ける。
そんな娘の横顔を母親である深夜は、冷徹な目で__しかし、その口元を微かに吊り上げて見つめていた。
「⋯⋯変わったわね、深雪さん。つい先日まで、アレのことは毛嫌いしていたと思うのだけど⋯⋯。違ったかしら?」
深夜は腕組みをし、脚を組み替えながら、まるで挑発するように深雪に声を掛けた。
母親からの呼び掛けに、深雪はモニターから視線を外し、スッと音を立てずに振り返る。そんな彼女の青い瞳には、深夜の言葉への苛立ちが見え隠れしていた。
「その通りです、お母様。私は、先日までの自分の無知を恥じ入るばかりです。⋯⋯私は、自分のことばかりでお兄様のことは何ひとつ理解できておりませんでした。ですが、これからは違います。お兄様のことは、尊敬すべき大切な家族として精一杯支えていこうと心に決めました。何か問題がありますか、お母様?」
「問題、ね。四葉の次期当主候補として、相応しい身の置き方かどうかは甚だ疑問が尽きないけれど⋯⋯。まあ、いいわ。貴女の好きになさいな、深雪さん」
深雪の堂々と胸を張った宣言に対して、深夜はどこまでも冷淡な口調で、突き放すように許しを与えるのだった。
「ありがとうございます、お母様。尽きましては、一つお母様にお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「あら、何かしら。わたくしが、アレに__達也に何をしたのかを知りたいのかしら?それとも⋯⋯」
「__そうですね。それも、お聞きしたいことではありますが⋯⋯。今、私がお聞きしたいのはもっと大切な、私たち『家族』のことです」
「⋯⋯家族。__いいわ。言ってごらんなさい」
深夜からの促しの言葉に、深雪は一旦その目を閉じた。そして、大きく深呼吸をしてから、再び目を開ける。その青い瞳には、決して引き下がらないという強い決意が宿っていた。
「では、お聞きします。⋯⋯お母様は、一体いつまでお兄様__いえ、私たちから目を逸らすおつもりですか?」
実の娘が放った言葉に、深夜はその紅い瞳を大きく見開いた。
瞬きの静寂__だが次の瞬間、彼女の身体から身も凍るような圧が漏れ出す。隣に立つ穂波は息を呑み、その顔を大量の脂汗が伝う。
深雪は今、紛れもなく母親の逆鱗に触れたのだった。
◇
母と娘__二人の間に満ちる張り詰めた空気に耐えられなくなった穂波は、何とか場を収めようと渇いた喉を鳴らし、宥めやすいと判断した深雪に声を掛けた。
「あっ、あのね、深雪さん。そういう話をこの場でするのは、ちょっと⋯⋯」
「穂波、口を閉じていなさい」
「っ!?はっ、はい、奥さま。失礼いたしました」
深夜からの有無を言わせぬ一喝に、穂波は即座に謝罪の言葉を口にし、そのまま直立不動の姿勢を維持する。
深雪は、母から向けられる威圧に怯み、膝が折れそうになっていた。
__怖かった。ただ、圧倒的に怖かった。深雪にとって、すべてが初めての経験だった。母の意に沿わぬ言動を取ったことも、その結果として激怒させたことも。
自身でも自覚はあったのだろう。隠していた心の弱さを娘から指摘され、逆上し憤慨した母の顔も初めて見る。最悪なことにその怒りを伴う顔が、自分に厳しくも優しく接してくれる大好きな叔母の相貌と完全に重なってしまう。
(ああ、そうよね。お母様と叔母様は双子だもの。そっくりで当たり前なのよ)
その事実が、まるで敬愛する叔母をも敵に回したような錯覚を生み、深雪の心はなおさら挫けそうになる。
だが、この状況に陥ったことで、彼女はようやく悟った。自分たち家族の有り様が、いかに歪であったのかを。家族喧嘩はおろか、これまで一度だって感情をぶつけあった事すらなかった、その哀しさを。
それが理解できた時、深雪の覚悟は決まった。グッと奥歯を食いしばり、意地でもその場に立ち続ける。
母と向き合いたい。その胸に抱えた苦しみを理解したい__その強い想いが、崩れ落ちそうになる深雪の小さな身体を、美しく細い脚を、必死に繋ぎ止めていた。
深夜の凍えた紅い瞳を、深雪は怯えながらも決して逸らすことなく見つめ返す。
やがて、母から放たれていた圧が唐突に霧散する。深夜は一つ深い溜め息を吐くと、今までと変わらない冷淡な目で深雪を見つめなおした。
「⋯⋯本当に変わりすぎよ、深雪さん。いったい、誰の影響かしら」
「それは、もちろん叔母様と津那美さまです」
「フッ、判りきった答えだったわね。⋯⋯でも、これでわたくしの施した教育はすべて徒労と化したわけね。残念だわ」
そう語る母の表情は、言葉どおり残念がっているようにも、しかしどこか重荷を下ろして清々しているようにも、深雪の目には映るのだった。
「いいえ、お母様。私は、お母様が教えてくださったことを、何ひとつ無駄にする気はありません。⋯⋯ですが、私は四葉の魔法師である前に、一人の人間__いえ、ただの女の子として、この世界を生きていきたいのです」
深夜の紅い瞳を真っ直ぐに見つめて、そう告げる深雪の青い瞳は澄み切った蒼穹のような輝きを宿している。
それは瞳の色こそ違えど、自身の妹__真夜と同じ、気高き意志の光だった。
娘の明確な決意を汲み取った深夜は小さく肩をすくめて、呆れ果てたような笑みを口元に浮かべる。だが、そこに嘲笑のニュアンスは微塵も含まれていなかった。
「なんて、身勝手な娘なのかしら。わたくしの今までの苦労を不意にした挙句、叶うかも判らない自らの願望をまざまざと口にするなんて⋯⋯。深雪さん、今の貴女はただの子どもね」
「あれ?お母様、お気づきではなかったのですか。私は、まだ十二歳の『子ども』ですよ」
「わたくしは貴女の母親よ。娘の年齢くらい知っています。__ああ、もう。ねえ、深雪さん。ああ言えばこう言うみたいな会話を、わたくしにさせないでちょうだい。わたくし、非効率な会話は嫌いなのよ。あと、子どもの部分を強調するのもやめなさい。昔の真夜を見ているみたいで、頭が痛くなってくるわ」
「まあ、お母様。叔母様に似ていると、褒めてくださるのですね。ありがとうございます」
「っ⋯⋯褒めてないわ。これは、嫌味よ」
お互いに遠慮なしで、軽口を叩きあう母と娘。
基地の外では熾烈な戦闘が行われているというのに、あまりにも場違いな口喧嘩を始めた親子。
そんな二人へ向けて、周囲の士官やオペレーターたちが__他所でやってくれ、と言わんばかりの視線を投げかけてくる。そんな彼らの無言の抗議を前に、穂波は引き攣った苦笑いを浮かべ、一人黙々と頭を下げ続けるのだった。
◇
周囲からの痛い視線に晒された母と娘は気恥ずかしさを覚え、居た堪れなくなっていた。
そして、お互いに頬を染めて視線をプイッと反対側へ逸らしてしまう。しかし、そのタイミングがまるで示し合わせたように重なっており、そのシンクロが可笑しくて穂波は堪えきれず、思いきり吹き出してしまった。
(ブフッ。こっ、行動パターンが同じ。やっぱり母娘ね)
「あら、何が可笑しいのかしら?穂波」
「っ!?いいえ、奥さま。何でもありません」
深夜のかすかな怒気が込められた問いかけに、彼女は何とか笑い声を押さえ、慌てて表情を取り繕う。
しばらく無言で穂波を睨みつけていた深夜だったが、吐息を一つ吐くと改めて深雪へと視線を巡らせる。
それは深雪も同様だったらしく、紅と青の美しい瞳が再び交差する。無言のまま、見つめあう二人。胃を圧迫するような沈黙の圧に晒され、穂波が腹をさすりながらまた冷や汗を流し始めた頃、先に口を開いたのは深雪だった。
「話が大きく逸れてしまいましたが⋯⋯。お母様、私の問いにお答えいただけないのですか」
娘の真摯な瞳を前にして、深夜もまた覚悟を決める。
「いいわ。それほど聞きたいというなら、教えてあげましょう。でもね、深雪さん。覚悟しておきなさい。真実というのは、えてして残酷で悲惨なものよ。優しい貴女に耐えられるかしら」
「⋯⋯それほどのことなのですか?」
「フフ、それほどのことよ」
そう告げる母の目は昏く淀み、聞かされる内容の重さを物語っているようだった。
「でも、安心しなさい。それをここで語る気はないから」
「それはどういう意味でしょうか、お母様。⋯⋯それとも、話すという言葉はやはり嘘なのですか?」
覚悟をしていたのに肩透かしを受けた深雪は、思わず母に食ってかかる。
そんな娘の姿を見た深夜は、その細くしなやかな指先を顎に当て、からかうように告げた。
「いいえ、話してあげるのは本当よ。__でも、思い出しなさいな、深雪さん。これは、『家族』の話。そう言ったのは貴女よ。だったら、達也も一緒でなくては、意味がないのではないかしら?」
母の言葉にハッとした深雪は、尊敬する兄の姿を映すモニターへと視線を向けた。
「そうですね。私としたことが、失念しておりました。お兄様をないがしろにして話を進めようとは、妹として恥ずべき行いです」
深雪はグッと奥歯を噛み締め、自身の浅はかさを悔いる。そして、改めて深夜へと視線を向けた。
「では、お母様。お話は、この旅行を終えたのち、お兄様を交えての三人でゆっくりと__ということでよろしいですか?」
「ええ、それでいいわよ。フフフ、愉しみね。龍郎さんを除くとはいえ司波家にとって、『初めての家族会議』ということになるのかしら」
「っ!?そうですね。私も愉しみにしております」
夫である男性を平然と除外して、どこか蠱惑的に振る舞う母を前に、深雪は一瞬だけ脳裏をかすめた父の顔を、首を振って記憶の彼方へと追い払う。
やがて、深夜がもう何も喋らないことを悟った深雪は、静かに母から視線を外し、おとなしく達也と津那美が映るモニターへと向き直るのだった。
◇
娘が完全に視線を外したことを察した深夜は、その顔に作り笑いではない、明確な笑みを浮かべた。仕えるべき主人の今まで見たこともない顔を見てしまった穂波は、思わず息を呑んでしまう。
(っ!?おっ、奥さまが笑われた⋯⋯?えっ!?嘘でしょ。私、初めて見るんですけど!)
「⋯⋯穂波。貴女はなにも見ていない。そうでしょう?」
彼女の思考を読んだのか、深夜は深雪には聞こえないよう声を抑え、静かに脅しつける。
「はっ、はい、奥さま。私はなにも見ておりません」
主人の見てはいけない秘密を垣間見てしまった穂波は大慌てで首を縦に振り、急いで視線を深夜の顔から逸らすのだった。
穂波に自身の擬笑ではない笑みを見られたことを若干気にしつつ、深夜も改めてモニターへと視線を向ける。しかし、彼女の視界が捉えているのは達也の姿ではなく、その隣に立つ、神がかった美貌を持つ青年だった。
(__桃源津那美。かつて大漢に拐われた幼き真夜を救い、その後行方をくらました男性。そして今また、わたくしたちの前に姿を現し、今度は達也と深雪の心を救いあげた。どういう因果かしらね、これは。⋯⋯でも、これであの子たちをわたくしから解放してあげられるのなら、感謝の言葉の一つも贈らなくてはね。__ありがとう、謎めいた麗しき人。⋯⋯それにしても)
深夜は口元を片手で覆い、含み笑いを漏らす。
(真夜ったら、いい気味ではないかしら。あの時、深雪の誘いに乗って、一緒に来ていれば愛しの『神さま』と再会できたでしょうに。本当に残念ね、真夜。__ああ、この件を真夜に報告するのが待ち遠しくてたまらないわ)
実の妹への仄暗い愉悦を内に抱えながら、深夜は脳裏でこの沖縄へ旅立つ前__空港の待合い室で起きた出来事を思い返すのだった。
◇
__2092年8月4日__
夏真っ盛りともなれば、空港の待合ロビーはこれから旅行に向かう友人、カップル、家族といった人波で溢れかえっていた。そんな喧騒を他所に、富裕層向けに設けられたVIP専用の待合ロビーを利用している一組の家族があった。
__司波家。
家長である司波深夜を筆頭に、息子の達也、娘の深雪の三人家族。本来なら深夜の夫であり、子どもたちの父でもある司波龍郎も同行すべき旅であったが、彼は仕事を理由にこの場に来ていない。
もっとも、政略結婚によって結ばれた龍郎と深夜の夫婦間に最初から愛情と呼べるものはなく、何より結婚前から交際している恋人__現愛人の元に入り浸っている男には、愛してもいない家族と旅行に出掛ける理由など皆無だった。
だが、そんな不義理な男の不在など些事に思えるほど、この三人家族の関係性は異様であり、異常であった。
深夜は豪勢なソファーに深く腰かけ、空港のスタッフが用意してくれた紅茶をひとり優雅に嗜んでいる。娘の深雪はテーブルを挟んだ対面のソファーに座ってはいるものの、深夜と言葉を交わすことはなく、ロビー付属の小型端末を用いて黙々と小説を読み耽っていた。
そして息子の達也は、そんな二人から明確に距離を置き、ひとり巨大展望ガラスの前に佇み、滑走路を離発着する航空機の群れをただ眺めている。
そんな凍えきった場の空気に一石投じようと、皮肉の言葉を携えて、ベージュのレディーススーツを纏った美女が颯爽と姿を現した。
「あらあら、これから楽しい旅行に出掛けるにしては、随分と冷めた空気を醸しだす家族がいたものね」
妖艶な笑みを浮かべ、軽快な足取りで現れた四葉真夜に、真っ先に反応したのは読書に耽っていた深雪だった。
「っ!?おっ、叔母様!?本家にいらっしゃるはずでは⋯⋯。どうして、こちらに?」
深雪は端末をテーブルに置き、急いで立ち上がると早足で真夜の元へ駆け寄った。
喜色満面で近寄ってくる彼女を優しく受け止めた真夜は、その美しく長い黒髪を丁寧に撫でる。
「どうしてって⋯⋯お見送りよ、お見送り。__ほら、達也も目を丸くしてないで、こちらに来なさい。久しぶりなのだから、よく顔を見せてちょうだい」
そのまま、今度は達也へと視線を向けて、優しく手招きをした。だが、撫でられている深雪は少し目尻を吊り上げ、まるで私と叔母様の間に入らないでと言わんばかりに兄を睨みつける。そんな彼女の様子を見た真夜は、溜め息を吐きたくなるのだった。
__実は、達也は一見外の景色を眺めているようで、深雪のガーディアンとして厳重に周囲の警戒をしていた。しかし真夜は、そんな彼の研ぎ澄まされた知覚をいとも容易くすり抜けて、この場に姿を現したのだった。
(さすが、叔母上だ。俺の警戒など、叔母上からすれば隙間だらけの城塞と同然か⋯⋯)
達也は改めて、叔母の卓越した技量に深い尊敬と驚嘆の念を抱いた。だが、真夜が自分を手招きしていることに思い至り、静かな足取りでその傍らへと近寄っていく。
真夜は、傍に寄った彼の頭も深雪同様に優しく撫でる。
敬愛する叔母に等しく頭を撫でられている兄妹。妹は心地よさように目を細めて喜び、兄は表情は変わらないものの、その胸中にどこか穏やかな安息を享受しているようだった。
◇
真夜は、可愛い甥と姪の頭を撫でることができて、ご満悦の様子であった。
「二人とも、背が伸びたのではなくて。⋯⋯えっと、いつぶりになるのかしら?こうして、直接顔を合わせるのは?」
彼女は、兄妹の頭を撫でていた手を離すと、腕組みをして二人の顔を改めて見つめた。
「そうですね。祖父上の葬儀以来ですから⋯⋯丁度半年ほどになると思います、叔母上」
達也は、生真面目な顔で真夜の質問に答える。
「ああ、そうね。お父様の葬儀以来よね。⋯⋯二人とも、悲しかったでしょう。お父様は、貴方たちのこと、とても可愛がっていたから⋯⋯」
真夜はその紅い瞳に純然たる慈愛を込めて、今度は兄妹の頬を愛おしそうに撫でた。
__今から約半年前、四葉家当主四葉元造は天寿を迎え、この世を去った。喪主は双子の姉の深夜が務めた。葬儀は四葉家のみでしめやかに執り行われ、元造の遺体が納められた棺を前に、達也はただ無言で佇み、深雪はその目から大粒の涙を零し続けていた。
「二人とも、心の整理はついたかしら?無理はしていないでしょうね」
真夜は二人の頬を撫でながら、その目を見つめて問いかける。
「俺は大丈夫です、叔母上」
「私も大丈夫です、叔母様。お祖父様が亡くなったのは、とても悲しいですけれど⋯⋯一緒に過ごした思い出が、たくさんこの胸にありますから」
叔母の問いかけに、達也は無表情のまま実直に答え、深雪は目を閉じ、自身の胸に手を当てて慈しむように答えた。
二人の目や声の震え、身体の微細な動きから嘘ではないことを悟った真夜は、頬を撫でていた手を離す。
「うん。二人とも、大丈夫そうね。本当に貴方たちはいい子ね。私もお父様と同様に貴方たちのことが可愛くて、とても愛おしいわ」
「叔母上⋯⋯過分なお言葉、感謝いたします」
「叔母様に、そこまで想われて⋯⋯深雪はとても嬉しいです。深雪も、叔母様のことが大好きです」
真夜の告白に、達也は目礼を以て返し、深雪もとびきりの笑顔を向けた。__ただ、彼女の内心には、ガーディアンである兄と同格に扱われることへの、割り切れない昏い思いが滲んでいた。
そして真夜は、自身がこの場に姿を見せてから一言も言葉を発しない双子の姉へと、滑らかに視線を巡らせた。
「__それで、姉さんはなぜそのような冷めた目で、私を見ているのかしら?」
__深夜は当初、唐突に姿を見せた真夜に驚き、その目を見開いていたが、すぐに冷静さを取り戻した。そして座ったままの姿勢で、妹に可愛がられる子どもたちの様子を冷淡な目でつぶさに観察していたのだ。
その表情に動揺の色は微塵も窺えないが、妹と同じその紅い瞳の奥には、ほんの微かに隠しきれない悔恨の念が浮かんでいた。
姉の紅い瞳にわずかに浮かんだ感情の色を、真夜はその並外れた観察眼で明確に察していたが、あえて追求はしない。今この場で暴くのは、姉の誇りを汚す行為だと判っていたからだ。
問われた深夜は、冷めかけた紅茶を一口、上品に口に含んでから双子の妹へと言葉を返す。
「あら、ごめんなさい。でも、特に他意はないのよ、真夜。ただ⋯⋯四葉の新しいご当主さまが大切な仕事を放り出してまで、何故このような場所にいらしたのかと疑問に思いまして⋯⋯フフフッ」
彼女は含み笑いとともに、どこか嫌味を乗せた他人行儀な口調で真夜に応じるのだった。
普段の優雅な母からは想像もつかない言動に、深雪は言葉を失い、あたふたと視線を母と叔母の間で往復させる。そして達也は、スッと静かな足取りで叔母の傍から離れ、珍しく感情を露わにした〝愛する〟母を無表情のまま見つめた。
深夜の嫌味を別段気にした風もなく、真夜は小さく肩をすくめ、改めて事情を告げる。
「先ほども言ったでしょう。ただのお見送りよ。私の大切な家族、双子の姉と甥と姪。その三人が沖縄旅行に出掛けるというのだから、私が見送りに訪れることになにか不都合があるのかしら?__あと、姉さん。心配されずとも、当主の仕事はすべて片付けてきましたから、ご安心を。あの程度の些事に無駄に時間を取られるほど、私は無能でなくてよ!」
彼女は、その鮮烈な紅い瞳をまるで炎のように煌めかせ、傲岸不遜に言い切った。その堂々たる様を見て、深雪はキラキラと青い瞳を輝かせ、達也も「さすがだ」と言わんばかりに微かに口元を綻ばせる。
深夜は有り余る才能を持った妹相手に、分が悪い嫌味を吐いたと若干後悔し、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。
「四葉は、とんでもなく破天荒な当主を持ってしまったわね。これでは、葉山さんがこれから先、どれほど苦労を重ねることになるやら⋯⋯」
そして、長年四葉に仕えている筆頭老執事へ向けて、彼女は内心で同情の念を禁じ得なかった。
そんな中、真夜の言葉を聞いた深雪は、両手をポンと胸の前で打ち鳴らし、叔母に問いかける。
「仕事を終えられたということは、叔母様、この後はお暇なのですか?__でしたら、私たちと一緒に沖縄へ行かれませんか?」
深雪の突飛な発言に、深夜は大きく目を見開き、達也は無表情ながらも、わずかに期待を込めた目で敬愛する叔母を見つめた。
しかし、誘われた当の本人は、その顔に心底申し訳なさそうな表情を浮かべて深雪に答える。
「せっかく、可愛いらしい姪から誘われたのに⋯⋯ごめんなさいね、深雪。私はこの後、別の用事があるのよ。私の『夢』を叶えるための大切な用がね」
「っ!?⋯⋯そうですか。それはとても残念です。__あっ!?もしかして、また『神さま』の手がかり探しですか?」
「ええ、そうよ。また京都方面を回ってみようと思っているわ。今の所、一番多く手がかりが発見できているから。今回は、有名どころではなくて、あまり人目につかないような神社仏閣を探してみようと思うわ」
真夜は、崇拝する神である津那美の姿を思い浮かべ、愛おしそうに語った。そんな叔母へ向けて、深雪は言葉を掛ける。
「有力な手がかりが見つかりますよう、深雪は願っております。__いっそ、訪れた先で探し人御本人と再会できたら、いいのですが」
「⋯⋯そうね。私もそれをいつも願っているわ。もちろん、再会できた時は、深雪や達也に紹介するわ。とても紳士で素敵な方よ。きっと、貴方たちも心を許せるわ」
「それは楽しみです。期待してお待ちしてますね、叔母様」
「ええ、楽しみにしてなさい。⋯⋯でも、津那美さんは私の『神さま』ですからね。深雪、貴女は好きになっては駄目よ。いいわね?」
「心得ております、叔母様」
真夜の切実にして本心からの忠告に、深雪は朗らかな笑顔で答えるのだった。
すると、待合ロビーに空港スタッフからの搭乗開始のアナウンスが流れる。それを聞いた深夜は、ティーカップをテーブルに戻すと、ロビーの出入り口へとひとり歩き出した。
「時間のようだから、もう行くわ。真夜、貴女は四葉の当主なのだから、あまり勝手や無茶な行動はしないように気をつけなさい。貴女の姉として、忠告しておくわ。いいわね?」
真夜からの返答を待つことなく、深夜はひとり待合ロビーを後にする。それを見た深雪は、慌てて母のあとを追いかけようとしたが、ロビーを出る直前で思い出したように真夜へ向けて頭を下げた。
「では、行ってまいります、叔母様。お土産、楽しみにしておいてくたざいね」
「ええ、楽しみにしてるわ、深雪。貴女もちゃんと旅行を楽しむのよ」
「はい、叔母様」
深雪はそのまま振り返ることなく、深夜のあとを追いかける。
そして、間を置かずに達也もロビーの出入り口へ進み、真夜へ向けて深々と頭を下げた。
「行ってまいります、叔母上。〝母さん〟も言ってましたが、あまり無茶をされませんように」
「はいはい、分かっているわ。達也、せっかくの旅行なのだから、貴方もちゃんと楽しむのよ。いいわね?__それと、本当はまだ〝子ども〟の貴方に頼むことではないのだけれど、姉さんと深雪のこと、守ってあげてね」
「はい、承知しております。そのために俺は存在しているのですから」
叔母の言葉に、達也は深く頷くと自身もロビーを後にした。
バラバラな歩調のまま、家族三人揃ってロビーを出なかったその状況に、真夜は大きく溜め息を漏らした。
(姉さんたちの現状、どうにかしたいのだけど、ままならないものね。なにか劇的な状況変化を期待するしかないのかしら?__津那美さん。貴方なら私を救ったように、あの三人も救えますか?救ってくれますか)
真夜は、ひとり静まり返った待合ロビーで、己の『神』に切なる祈りを捧げるのだった。
◇
こうして、司波家は歪な家族関係のまま、沖縄へと旅立った。
しかし、母である深夜を始め、達也も深雪も、まだ知る由もなかった。
遥か南の地で、自分たちの関係が大きく変化することを。
そして、それをもたらす一人の青年と邂逅することを。
この時の彼、彼女らは、まだ露とも知らずにいたのだった。
次話で終わらせられるよう、頑張ります。
では、次の投稿をお待ちください。