第八話 兄妹は『神さま』と遭遇する
◇
__病院を出て、数時間後。
津那美は、海沿いの遊歩道を訪れていた。
家族や友人と連れ立って歩く者、あるいは睦まじく寄り添うカップルが、そこかしこに見受けられる。砂浜では、水着姿で真夏の海を満喫する人々の歓声が響き、誰もが輝きに溢れた弾ける笑顔を浮かべていた。波飛沫(なみしぶき)を浴びて笑いあうその表情は、爽快さと幸福感に満ち満ちている。
まさに穏やかで、どこまでも平和な光景がそこには広がっていた。
だが、彼らは知らない。この平穏に満ちた時間のすぐ裏側で起きている、不気味な怪事件のことを。
情報統制されていることも理由の一つではあるが、それは根本的な問題ではない。
もっとも本質的なものは、平和を享受する人々にとって、それを脅かす事変など彼岸の彼方の産物だという無意識にある。彼らは考えもしなければ、おそらく想像したことすらないのだろう。〝幸福と不幸〟、〝平和と争乱〟は表裏一体であり、あまりにも容易く裏返るものであるということを。
そんな取り留めのない思考を巡らせながら、津那美は悠然と遊歩道を歩いていく。相変わらず好奇と奇異の目線が突き刺さるが、彼は一向に気にも留めない。
その美しく輝く紅き瞳を、道沿いに広がる碧く透き通る海へと投げかけ、この数時間の自身の行動を振り返っていた。
__津那美はこの短い時間の間に数カ所の被害現場を巡り、その場に残された残留思念を読み取ることで、犯人のより繊細な思考や行動範囲を解析していたのだ。
その結果、犯人が数日中にも再び犯行を再開することが判明している。
津那美は、早急なる討伐を決断したのだが__。
(さすがに、日中に戦闘を行うのは目立ちすぎるな。せめて、陽が落ちてからでなければ人目についてしまう。⋯⋯それに、今はまだ〝鬼〟と呼ばれる異形の怪物が存在していることは、人々から隠し続けねばならない。この世に『地獄』を顕現させないためにもな)
彼は一旦その脚を止め、眼前に広がる雄大な碧い海を眺めた。心地よい海風が、結われた長い白髪を靡かせ、黒のコートの裾を大きくはためかせる。
燦々と照りつける陽光を浴びて、その白髪がキラキラと眩く煌めいた。
その立ち姿は、まるで完成された一枚の絵画のようであった。道行く人々__特に女性陣は、誰もがうっとりと頬を染め、深い溜め息を漏らしていく。
だが、濃厚な視線を浴びる当の本人は、通り過ぎる海風のごとく無数の視線を意識の外へと受け流し、ただ静かに海を見つめながら、さらなる思考の海へと没頭していくのだった。
(それにしても、この事件は奇妙な点が多すぎる。被害現場を巡って解ったことだが、犯人の男は無自覚な魔法師の適性があっただけで、魔法師としては覚醒していなかった。⋯⋯つまり、その適性が半端な鬼化を遂げたことで無理矢理引き摺り出されたということだ。一体どういう現象だ、これは。__〝30年前〟にあの少女を救いだしたときも、大漢の魔法師がひとり鬼と化していたが、魔法を使ってくる素振りはなかった。今回と何が違う?理性を保持していることか。⋯⋯判らんな。少なくとも、この事件の要因は犯人が突発的に起こしたことだとは思えん。何か別の起点、引き金となった因子があったはずだ)
津那美は、この事件の背後には何か不穏な気配と思惑が蠢いているように思えてならなかった。
(幸いにも、現場の残留思念から犯人の住居が割り出せた。一人住まいだったようだからな。事件解決後、彼の力を借りて住居の〝調査〟と〝洗浄〟をしてもらえば、何か有力な情報が出てくるかもしれん。解決を依頼された身で面映ゆいが、私とて公的な権威までは持ち合わせていないからな。ここは、彼を頼らせてもらおうか)
犯人を討伐しだい、その住居の後始末を元老院の知人に頼もうと、津那美は心の内で決める。
(__もしかすれば、今後も魔法師が鬼化するという似たような事件が起きるかもしれん。標的が魔法を使用してくるかは判らんが、その際の呼称があったほうが、伝達が素早く進むな。なんと名付けるか?鬼になった魔法師。魔法を使用する鬼⋯⋯〈魔法童子(まほうどうじ)〉。この名称がいいかもしれんな。彼に渡す報告書に追加で記載しておくとするか)
ある程度の方針を脳裏でまとめると、津那美は止めていた歩みを再び進める。
(さて、陽が落ちるまで幾分、時間があるな。どこか店にでも入って、時間を潰すとするか)
歩きながら適当な飲食店を探す彼の視界に、不意に、奇妙な一団が飛び込んできた。
◇
体格の良い三人組の男たちが、幼い男女の二人連れを囲んでいる。まだ子どもと呼べる年齢の二人に、何かしらの文句をつけて、執拗に絡んでいるようだった。
津那美から見て、男たちの背中しか見えないが、上は無地のタンクトップ、下は軍用パンツを穿いていることから、軍人であることが判る。しかも、言葉の訛り具合から、どうやら日本人ではないことも窺えた。
(⋯⋯確か、大戦終結のおり、撤退に失敗してそのまま取り残された海外兵士たちの話が、いつだったか話題に挙がったな。身分の保障と引き換えに国防軍への入隊を義務付けられたそうだが⋯⋯)
探偵業を営む都合で様々な情報に触れてきた津那美は、自身の知識から、絡んでいる軍人たちの事情を引っ張りだす。
(ただし、身元が保障されたとて日本人扱いされるわけでもなく、軍内部での扱いは悲惨なものだという噂が立ったな。__現在は改善されたようだが、それでも揶揄を込めて彼らの末裔を一部の人間は〈レフトブラッド〉と蔑称しているらしいが⋯⋯。なるほど、これは鬱憤晴らしというわけか。溜まりに溜まった不平不満を純日本人にぶつけたいわけだ。⋯⋯しかしだ、その相手がいたいけな子どもというのは、あまりに大人げないし、同時に見苦しくはないか)
彼らの行動の意図を察した瞬間、津那美はその愚かさに、内心で深く呆れ果てていた。
周囲には騒ぎを聞きつけた者たちがチラホラと集まりつつあったが、皆一様に遠巻きに眺めるだけで、関わろうとはしない。
それを見て、津那美はますます溜め息を漏らしたくなった。
(やれやれ、子どもが困っているというのに、相手が軍人だからか?それとも別の理由かは知らないが、助け舟の一つも出せないとは⋯⋯実に嘆かわしいな。まっとうな大人の自覚があるなら行動すべきだろう。『義を見てせざるは勇無きなり』。__そうでしょう、母さん)
亡き母の教えを胸に、子どもたちを救うべく軍人たちに近付いていく津那美。
その時、絡まれていた少女が軍人たちに向かって、怒りを露わに侮蔑の言葉を投げかけたようだった。それが気に障ったのか、軍人の一人が、咄嗟に彼女へ向けて乱暴に手を伸ばす。
身に迫った危険に息を呑む少女。津那美は彼女に迫る危機を払わんと、一気に間合いを詰めようとした。
だが、そんな彼より一歩早く抜きん出て、即座に動き出した人影があった。
少女と連れ立っていた少年が、未成熟な子どもにあるまじき効率性を重視した見事な体捌きを見せ、彼女の前に一瞬で回り込んだのだ。そして、少女を自身の背で庇いつつ、伸ばされた軍人の手を、やはり子どもとは思えない力強さで押さえこむ。
少年の動きは、その年齢から鑑みても明らかに異常であり、規則正しく動く精密機械のように正確だった。端から見ていた津那美は彼の境遇に、深い疑念とかすかな興味を抱く。
(あの少年、およそ年齢にそぐわない無謀な技術を修めているな。しかもあのブレのない動きから察すると、常々、学んだことを試す過酷な実践の場まで設けられているようだ。⋯⋯無茶な真似を、というべきか。そのいまだ未成熟な身体では負担も大きければ、おそらく重度の怪我を負ったこともあるだろう。まだ子どもだというのに、一体君は、何に急き立てられている?)
だが、興味を覚えたのも束の間。軍人たちの身体の隙間から覗く少年の眼を捉えた瞬間、津那美の胸の内を深い哀しみと憤りが渦巻いた。
(少年。少女を守らんと動いたその気概は評価に値する。だがな、その眼はいただけない。⋯⋯今、君がしているその眼は〝命を奪った経験がある者〟の眼だ。〝命の尊さを真の意味で理解していない者〟の眼だ。__ましてや、その眼に宿る空虚な光は、子どもが持つべきものでは決してない。誰だ?一体誰が、君にそうなれと命じた?)
津那美は、理解していた。彼がその瞳に宿す昏い光は、決して望んで得たものではないということを。周囲にいた歪んだ思想を持つ大人たちが、無理矢理に植えつけたものだということを。
子どもの可能性を踏み躙り、捻れさせた下賤な者たちへの、怒りの焔(ほのお)が彼の胸で静かに揺らめいていた。
しかし、今は軍人としての本分をはき違えた愚者どもから、子どもたちを救うほうが先だと判断した津那美は、音もなく足早に距離を詰めていく。
その間にも、軍人たちは生意気な小僧を痛めつけようと、関節を鳴らし、拳を強く握り始めた。
少年は静かに息を吐き、掴んでいた軍人の手を離すと、いきり立つ彼ら相手に冷静な口調で話しかける。だが、もはや会話が成立するような雰囲気ではなくなっていた。まるで仕方ないと言わんばかりに、少年は頭を軽く振ると、戦うための構えを取ったのだった。
一対三という状況に__。
数的有利にある軍人たちは終始、余裕の表情を浮かべており、構えた少年を小馬鹿にするような態度を見せていた。
さすがに、三人で子どもを囲むという恥を晒す気はないらしく、少年に腕を掴まれた男が一歩前に進み出る。仲間内から「ジョー」と呼ばれた男は、鼻息を荒くして小気味よく首を鳴らした。圧倒的な身長差も相まって、ジョーは自身の前に立つ少年を見下すように、思いきり睨みつける。
それとは逆に、数的不利にある少年は、慌てることなく落ちついた様子を崩さなかった。その顔には、焦りも怯えも何ひとつ窺えない。むしろ、鋭く研ぎ澄まされたその瞳には、相手のすべてを観察し見通すような不気味さが宿っていた。
彼の明晰な頭脳はいま、いかに虚をつけば、相手を効率よく無力化できるかの演算を最速で実行しており、その解を弾き出そうとしていた。
唯一、まともな反応をしているのは、少年の背に庇われている少女だった。その青い瞳には怯えの色が宿り、周囲の人々に助けを求めようと視線を送るも、誰一人として名乗り出てはくれない。薄情な彼らに内心で憤りをぶつけながら、彼女は状況の悪化をもたらしたであろう少年の背中を目尻を吊り上げて睨みつける。現状、それだけが少女にできる精一杯の抵抗だった。
だが、そんな彼女の鼻腔を、潮の匂いに紛れてくすぐる香りがあった。
それは敬愛する叔母の身体から香り立つものと同種のものであり、少女は香りの元を探そうと、視線を周囲へ忙しなく巡らせるのだった。
一触即発の空気が漂うなか、小さな獲物をいたぶろうと粋がる軍人たちの背に向けて、不意に、艶のある低い声が放たれた。
「見下げ果てたものだ。国土と民を守る国防軍の軍人が、その力を守るべき民に向けようというのだから⋯⋯まったくもって恥を知れ。__このたわけ者どもが」
そう告げた声には隠しきれない侮蔑が宿っており、不意打ちを受けた軍人たちは慌てて背後を振り返る。
彼らの背後には、この世の者とは思えない神懸かりの美貌をもつ青年__津那美が悠然と立っていた。
唐突な救援者の乱入に、少年は構えを解き、少女は安堵の息を漏らす。しかし、軍人たちの身体越しに津那美の顔を見た二人は、あまりの驚きに、その目を大きく見開くのだった。
◇
少女こと司波深雪は、驚きを露わに口元を小さな両手で覆った。その美しい青き瞳は、ただ一途に真っ直ぐ、津那美の顔を見つめている。
(なんて綺麗な人でしょうか。あんな綺麗な男の人、私、初めて見ます。そして⋯⋯何故でしょう?あの人の周りだけ、まるで空気が違うような。__そう、とても凛としていて清廉といいますか。身体が知らず知らずに震えてくるような⋯⋯)
彼の圧倒的な美しさに中(あ)てられ、深雪はどこか恐れ慄いていた。だが、それは決して恐怖によるものではない。
その証拠に、彼女の白い頬はほんのりと朱に染まり、胸の鼓動はトクトクトクと早鐘を刻み始めている。同時に、深雪は津那美の顔に、言葉にできない強い既視感を抱いていた。
(不思議です。あの男の人とは、今日が初対面のはずです。なのに、私はあの顔をどこかで見た覚えがあります。それこそ、何度も、何度も⋯⋯っ!?)
彼女は懸命に記憶を手繰り寄せようとする。だが、激しい胸の高鳴りが邪魔をして、どうしても上手くいかない。
__司波深雪。同世代の男子はおろか、世の並み居る男性相手でも微塵も揺れなかったその心が、津那美を前にした瞬間に、狂おしいほどににときめいていた。
一方、少年こと司波達也も、珍しく驚きという情動に突き動かされていた。
彼はとある事情から、大半の感情を喪失している。その結果、彼の唯一の行動原理であり、絶対不可侵な感情である『家族愛』以外では、過剰な情動に支配されることはない。ゆえに達也は、自身が〝驚き〟という感情を抱いていることに、他ならぬ自分自身で困惑していた。
(落ち着け、司波達也。精神を乱すな。物事を冷静に観察しろ)
彼は内心の動揺を素早く鎮め、その表情をいつもの冷徹な無表情へと戻していく。
幸いにも深雪は達也の背後にいたため、彼が一瞬見せた驚きの顔を見ることはなかったが__。
あるいは、それを見ておくべきだったのかもしれない。
常日頃から何を考えているか判らない、自身のガーディアンである兄にもそのような人間らしい一面があるのだと理解できれば、二人の冷え切った関係性は多少なりとも改善されたかもしれないからだ。深雪が達也に対して苦手意識をもつ大きな理由の一つこそ、その無表情にして無感情の目なのだから。
冷静さを取り戻した達也は、改めて救援者である津那美の容姿をつぶさに観察していく。
(とりあえず、俺が戦うという問題は解決できたとみていいだろう。⋯⋯代わりに新たな問題が浮上したが。__俺たちを救けに入ったあの男⋯⋯間違いない。叔母上が描いた肖像画の人物と同じだ。何故、ここにいる?⋯⋯いや、待て。まだ決めつけるのは早計だ。容姿が酷似しているだけで、同一人物と決まったわけではない。あの叔母上が三十年にわたって探し続けた男性だ。ただの〝似ている男〟でしたと、糠喜びさせるわけにはいかない。叔母上のためにも、しかと見極めねば)
敬愛する叔母のためにも中途半端な真似はできないと強く決意し、達也はさらにその目を鋭く細めた。
そして、津那美から嘲りの言葉を受けた軍人たちは、激しい動揺の渦中にいた。仮にも軍人、戦闘のプロたる自分たちの背後を、一切の気配すら悟らせることなく制した津那美に対して、焦りの色を隠しきれずにいたのだ。
「なっ、何だ、テメェは?関係ねぇ奴は、すっこんでろ!」
「綺麗な顔した兄さんよォ、痛い目に遭いたくなきゃ、さっさと消えな!」
軍人の二人が動揺を隠しつつ、脅しの言葉を並べ立てる。津那美は、彼らの内心の怯えを見透かすように、フッと冷ややかな嘲笑を浮かべてみせた。
「お決まりの脅し文句だ。聞いていて、笑いがこみ上げてくる。そういう君たちのほうこそ、さっさと立ち去ってはどうだ?仮にも国防を担う軍人が、何の罪もない子ども相手に暴行を加えようとしたなど、広報の人間が知れば、いい笑いものだぞ。ついでに、上官からのお小言もあるか。どちらにせよ、君たちのためにはならないだろうな」
彼の告げた正論に、文句を並べていた二人の軍人は口を噤んでしまう。だが、ジョーはそんな同僚二人を無視してひとり、津那美の前に進み出た。
「なんだ、テメェ!告げ口しようってのか?はっ!器の小せえ野郎だな、おい!」
「告げ口などという姑息な真似はせんさ。それと、そのセリフはそっくりそのまま君に返そう。__子ども相手に粋がる矮小な軍人どの」
津那美の発した軽い挑発に、ジョーは額に青筋を浮かべた。その身を小刻みに震わせ、両拳を力任せに握り込む。
「ヒーロー気取りかよ。調子に乗ってんじゃねえぞ!この野郎!!」
唾を撒き散らすような勢いで吼えると、ジョーは拳を大きく振り上げ、津那美へと殴りかかった。
「あっ!?危なっ⋯⋯逃げてくだ__っ!」
殴りかからんとする軍人を目の当たりにして、津那美を気遣うあまり、深雪は悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。だが、達也はそれを片手で厳格に制し、行く手を遮った。その間も、彼の鋭い眼光が津那美から逸らされることはない。
当の津那美は何ひとつ慌てることなく、先の病院で見せたのと同様、三人の軍人へ向けてその神ごとき威圧を静かに注ぎ込んだ。__ただし、相手が戦闘訓練を積んだ軍人であることを加味して、ほんの少しばかり、その鋭さを増して。
その結果、圧をまともに浴びた三人は、まるで石化したかのようにその場で完全に硬直してしまった。津那美にとっては呼吸をするのと大差ない、ほんの戯れに過ぎない気迫。しかし、軍人とはいえ凡庸な彼ら三人にとってのソレは、まさに『死』そのものに触れる体感であった。
極限の恐怖に晒された三人の脳は、あり得ないはずの光景を、それぞれの視界に強烈に描き出していた。
それは、眼前の優男がいつの間にか一振りの太刀を握り、一瞬のうちに自分たちの肉体をバラバラに切り刻む光景。両腕を切り飛ばされ、両足を断ち切られ、胴体を寸断され、最後に首を刎ねられる__肉へと深く食い込む冷たい鋼の感触や、吹き出す鮮血の生暖かさすら、錯覚のなかでリアルに味わわされていた。
三者三様にその身体を無様に大きく震わせ、顔からは大量の脂汗が滝のように流れ出ている。
殴りかかるのを突然止め、おもむろに激しく怯えだした軍人たち。その異常極まる光景を前に、傍観していた達也と深雪は、怪訝そうに眉をひそめるしかなかった。
達也は終始、津那美から目を逸らすことなく、その行動すべてを観察していた。だが、この時の彼は肉眼のみで相手を見ており、自身の特異な眼を使用してはいなかった。ゆえに達也は、この一瞬を《精霊の眼:エレメンタル・サイト》を通して観察しなかったことを、深く悔いる。
軍人たちが唐突に怯え始めたことには、必ず理由があるはずだ__そう推測した達也は、その要因がかの青年にあると睨んでいた。
常々、叔母である真夜が語っていた『真なる神の御業』とやらを彼が使用したのではないかと仮説を立てたが、それらしい形跡は何もなかった。CADを操作した様子もなく、魔法が発動した兆候すら皆無。
ただ、津那美がしたことといえば、その焔のように鮮烈な紅き瞳で軍人たちを睥睨したこと、ただそれだけだ。
(叔母上の説明だと、件(くだん)の『神の御業』とやらは、CADを必要としない⋯⋯らしいが。CADを介さない魔法⋯⋯BS魔法の類ということか?__いや。しかし⋯⋯それにしては気配が、魔法という認識からはあまりにかけ離れ過ぎている。くそっ、《エレメンタル・サイト》を最初から使わなかったことが悔やまれるな)
脳内でひたすらに思考を巡らせる達也と、なにが起きたのかまるで把握できずに立ち尽くす深雪。そんな二人を他所に、津那美は怯えた軍人たちへと静かに歩み寄る。
殴りかかろうとしたジョーを筆頭に、彼らは無防備に近付いてくる津那美を前にして、完全に腰が引けていた。その鍛え上げた身体を精一杯にのけ反らせ、まるで絶対的な勝者たる『王』に道を譲るかのように、顔を俯けたまま左右へと分かれていく。
開かれた道を悠然と歩む津那美は、通り抜けるその瞬間__ガタガタと震えるジョーの肩に、そっと優しく手を置き、ただ一言、死神のごとき静けさで命じた。
「失せろ」
その言葉が鼓膜に響いた途端、彼ら三人は脱兎の如く、我先にと一目散に駆け出した。もはや強者の誇りも軍人としての矜持もそこにはない。__ただ、一刻も早くこの場から、この人の形をした怪物から離れたい。その強迫観念に支配された三人は一度も振り返ることなく、津那美が歩いてきた方向へと、ひたすらに逃げ去っていくのだった。
◇
遠ざかっていく軍人たちの背を、目を白黒させながら呆然と見送る深雪と、険しい目つきで見送る達也。絡まれた側の二人としては、相手が何もせずに立ち去ってくれるのならばそれに越したことはない。そのため、わざわざ引き留めるような真似は一切しなかった。
__ただ、達也だけはその冷徹な瞳の奥に、「何をされたのか彼らに問い質したい」という知識欲の光を若干見え隠れさせていた。だが、それも軍人たちの姿が完全に見えなくなると、無意味な思考として容赦なく意識の底へ切り捨てるのだった。
津那美は、覚えておく価値もない愚かな軍人たちのことなど、とうに意識の外へと消し去り、穏やかな足取りで二人の子どもへと歩み寄る。
二人の傍らに立った津那美は、その紅き瞳に慈愛を込めて、優しい口調で語りかけた。
「大丈夫か?君たち。とんだ災難だったな」
その艶のある甘く低い声に、深雪は耳が溶けてしまうような錯覚を味わい、返事が一瞬遅れてしまう。
「__っ!?あっ、えっと。あっ、危ないところを助けていただき、まことにありがとうございます!」
「⋯⋯ありがとうございます」
自身が纏っている白のワンピースと同色の鍔広帽子を取り、深々とお辞儀をする深雪。一拍おいて、険しい目つきのまま、淡々と礼を述べる達也。そのあまりの素っ気ない態度に、深雪はキッと兄を睨みつけたが、達也は気にした素振りすらみせない。その冷徹な目は変わらずに美しき青年__津那美を完膚なきまでに観察し続けていた。
「怪我が無いなら、何よりだ。__それと、少年。彼女を守ろうと軍人に挑んでいったその気概。一人の男として、私は素晴らしいと評価するが⋯⋯君はまだ子どもだ。ああいう時は、彼女を連れて人だかりのほうに逃げることを薦める。逃げることは、決して恥ではないと覚えておくんだ」
諭すように、達也に優しく語りかける津那美。達也の脳裏では、そんな彼の姿が自身のことをよく叱る叔母の姿と重なり、内心で戸惑いを覚えてしまう。しかし同時に、この青年こそが叔母が探し求めている男性ではないかという確信が強まった。彼の情報を少しでも収集するべく、達也の異常な演算力を持つ頭脳は高速で回り始める。
深雪もまた同様に、青年の言葉や立ち振る舞いに叔母の影を見出し、やはり激しい既視感に囚われていた。その意味を捉えんと、懸命に過去の記憶の糸を手繰り寄せようとする。
二人の子どもが揃って難しい顔をし始めたため、津那美は少し説教臭かったかと苦笑を浮かべた。
(やれやれ、歳を重ねると余計な説教をしてしまいがちになるな。特に、彼らのような未来ある若者を見ると尚更だ)
己の内で深い溜め息を漏らすと、津那美は二人の悩みを解消するように、労りの言葉を投げかけた。
「それにだ、少年。君が無茶をして傷つき、血を流すことを、隣の彼女は望んでいないのではないか?」
「__えっ!?私ですか?わっ、私は、この人のことを心配なんて⋯⋯」
記憶を掘り起こすことに集中していた深雪は、突然の会話に上手く返事ができなかった。しかも、その内容が兄である達也を気遣うという、今の彼女には容易く認められない事情だったため、綺麗な顔をしかめて口ごもってしまう。だが、その白い頬がわずかに朱に染まっており、決して嫌悪していないことも雄弁に物語っていた。
妹が少なからず自分を思ってくれている__その事実に、達也も無表情ながら、口元を微かに綻ばせる。
そして改めて居住まいを正すと、津那美に対してまるで精密機械のような正確さでお辞儀をし、深々と礼を述べた。
「ご忠告、肝に銘じます。ありがとうございました」
危うい心と技術を持つ少年に、確かな忠告ができたと悟った津那美は、この場を立ち去ろうとする。
「では、私はこれで失礼する。二人とも、せっかく沖縄にいるんだ。綺麗な海で遊んだり、珍しい観光名所を訪れたりと__子どもらしく、心から楽しみなさい」
慈しむような微笑みを残し、津那美は二人とすれ違うように歩きだす。
深雪は、去りゆく彼の背中を、切ない眼差しで見つめた。
『引き留めたい。行かないでほしい。もっと一緒にいたい⋯⋯』
だが、そのための言葉も理由も見つけられず、きゅっと唇を噛むことしかできない。
しかし、そんな妹の躊躇いを察したのか、達也が口を開き、津那美の背に向けて言葉を放った。
「お待ちください。助けられた身として、せめてお名前を伺えませんか?」
普段、自分からは何ひとつ主張しない兄が、明確な意思を持って自発的に行動を起こした。その事実に深雪は少なからず驚きを露わにする。
だが同時に、この綺麗な青年ともっと一緒に過ごせるチャンスかもしれないと、彼女の乙女心が期待に胸を膨らませた。
深雪は、まだ膨らみ始めたばかりの小さな胸の前で、ポンと両手を打ち鳴らす。
「そうです。助けていただきながらお名前を伺わないなんて、とんだ無礼でした。よろしければ、ぜひお名前をお聞かせください」
愛らしい微笑みを浮かべ、縋るような瞳で青年を見つめる深雪。
津那美は足を止めると、そんな子どもたちの様子をつぶさに観察し、やがて小さく溜め息をついて名乗りを上げた。
「名乗るほどのこともしていないが⋯⋯まあ、いい。私は桃源津那美という。なにか礼をしようというなら、不要だと言っておく」
青年の美しい唇から告げられた名に、達也の目はスッと細まった。その口元には、何かを確信したかのような、わずかな笑みが浮かび上がる。
一方、深雪は囁くように、静かにその名をなぞった。
「桃源⋯⋯津那美⋯⋯」
可憐な唇から、吐息とともに零れ落ちた名前。その響きと青年の容姿が、今はっきりと深雪の脳裏で結びつく。
__それは彼女が敬愛する叔母の私室に飾られている、一枚の肖像画の男性の姿と完全に一致していた。
「えっ!?⋯⋯えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
深雪の可愛らしい絶叫が、沖縄の澄み切った蒼穹にどこまでも吸い込まれていった。
この調子だと司波家編が終わるには、あと2話ぐらい必要かもです。頑張ります。続きをお待ちください。