第九話 少女の『初恋』
◇
深雪は、顔を真っ赤に染めながらトボトボと遊歩道を歩いていた。その隣を悠然と歩く津那美。そして、少し距離を置き、達也が続いている。
彼女はチラチラと津那美の横顔を見上げながら、内心で激しく身悶えしていた。
(ああ、私はなんという無様を晒してしまったのでしょう。しかも!よりにもよって、あの叔母様が崇拝する『神さま』を前にして⋯⋯!__ああ、穴があったら入りたいです)
もはや取り消すことのできない自身の不作法を悔いながら、深雪は先ほどの一部始終を思い返していた。
◇
なんとも可愛らしい絶叫が、青空に響き渡ったあと__。
絶叫を上げた深雪は即座に我に返り、津那美に向けて深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。大変な不調法をお見せしてしまいました」
謝罪をする彼女を前に、津那美はただ無言で穏やかな笑みを浮かべている。その顔を見ていると、この後どうすればよいのか、深雪にはまるで判断がつかなくなる。
彼女の困惑を見かねて、達也はそっと助け舟を差し出した。
「お嬢様。桃源殿が名乗られたのです。お嬢様も自己紹介をなさるのがよろしいかと?」
「 えっ!?あっ、そう、ですね⋯⋯っ。名乗りが遅れ、大変失礼いたしました。私は司波深雪と申します。お見知りおきを⋯⋯いえ、どうぞよろしくお願いいたします、つな⋯⋯桃源さま」
「⋯⋯司波達也です。よろしくお願いいたします」
羞恥と照れで頬を染めながらも、再びお辞儀をして丁寧に名乗る深雪と、やはり一拍遅れて簡潔な自己紹介で済ます達也だった。
二人の自己紹介を受けて、津那美は笑みを崩すことなく、一瞬だけ眉をひそめた。
(二人とも司波の名字を名乗ったな。兄妹、か。⋯⋯しかし、少年の方は彼女のことをお嬢様と呼んだ。何か事情があるのか?)
にこやかに微笑みかける深雪と、無表情ながら、その目だけは鋭く何かを観察している達也。そんな二人の様子から、他人が深入りすることではないと察した津那美は、問い詰めるような真似はやめることにした。
「丁寧な名乗り、感謝する。それと先ほども言ったが、礼は不要だ。その感謝の言葉だけで、充分事足りている」
そう告げる彼に対して、深雪は必死に食い下がる。お礼をさせてほしいと頭を下げ続け、達也も無言でただ同じく頭を下げた。
子どもたちの真摯な瞳と態度に、もはや無下に断わり続けるのも心苦しくなった津那美は小さく苦笑を漏らし、やむを得ず受け入れるのだった。
「私たちが滞在している別荘が、この近くにあります。よろしければ、ご招待させてください。お母様にも、ぜひ桃源さまのことをご紹介したいですし」
朗らかな笑顔で語る深雪に、津那美は了承の意を込めて頷き、三人は連れ立って司波家別荘への道を歩き出す。
そうして歩くうちに、先ほどの__深雪が内心で悶える状況へと至ったわけである。
深雪は、津那美に話しかけようとしては言葉が出ず口ごもり、ただ彼の横顔を静かに見つめるという流れを延々と繰り返していた。
そんな彼女の熱い視線に気づいたのか、津那美はその綺麗な顔を前方に向けたまま、目線だけをチラリと深雪に向けてくる。彼の鮮烈な紅き瞳に見つめられ、深雪は自身の顔が熱く火照りだすのを自覚した。
「そっ、それにしても、夏の沖縄はさすがに日差しが強いですね。__とはいえ、都会の蒸し暑さに比べれば、幾分は過ごしやすいですが⋯⋯」
深雪は赤くなった顔を隠すように、白の鍔広帽の庇(ひさし)を深く引き下げる。それから、隣を歩く彼のロングコート姿の風体に視線を移し、さらに言葉を重ねた。
「つな⋯⋯桃源さまは、そのような格好で暑くはないのですか?」
「暑くはない。それと、私を呼ぶときは津那美で構わないし、〝様〟も不要だ。そんな大層な身分ではないからな」
「はっ、はいっ!えっと、その⋯⋯つな、津那美⋯⋯さん?」
「ハハハ、何故、疑問形かは解らないが⋯⋯その呼び方でいい」
津那美は、小さく笑い声を上げると、深雪に優しく微笑んだ。その笑みを見た彼女の心臓はドクンと大きく高鳴り、深雪は自身の心臓を宥めるように衣服の上から押さえつけるのだった。
(その笑顔、女性にとっては毒ですよ、津那美さん。__津那美さん。津那美さんですか。叔母様と同じ呼び方ができるなんて。⋯⋯でも、できる事なら『津那美さま』とお呼びしたかったですね。あの軍人たちを退かせたお姿は、とても凛々しかったですから)
胸を押さえながら、そっと覗き見るように隣を仰ぎ見る。吹きわたる海風に白髪をなびかせ、ロングコートの裾をはためかせ悠然と歩く彼の姿は、まさに孤高の王者のごとく輝かしいものだった。
そんな二人の様子を、少し離れた後方から眺めていた達也は、《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》を使用して、津那美を観察する。彼が発した「暑くはない」という言葉が、何らかの魔法を使用しているためではないかと推測したからだ。
__だが、その特異な眼が彼の姿を捉えた瞬間、達也は驚愕に目を見張り、息を呑んでしまう。
(そんな馬鹿な⋯⋯。これはどういう事だっ!?)
《エレメンタル・サイト》は情報体次元(イデア)に直接干渉して個別情報体(エイドス)の観測を可能とする反則級の能力である。物質の構造情報や状態、果ては魔法発動の際に構築される起動式や魔法式の完全解析までも網羅する。
なぜ、達也にそのような異質な眼が備わったのか。四葉に属する魔法研究者たちは、彼が有する異能《分解》と《再成》を効率よく運用するためではないかと結論付けたが、それが正解かは不明のままである。
何にせよ、《エレメンタル・サイト》は稀有にして、非常に有用な能力であることに変わりはなく、達也にとっての〝切り札〟の一つと成り得ていた。
__尤も、桃源津那美がその身に宿す全知の力【界の記憶】。その超規格外の能力に比べれば、《精霊の眼(エレメンタル・サイト)》がもたらす情報など微々たるものにすぎない。切り札は切り札足り得ない。その事実に司波達也が気付くことは、未来永劫ありはしない__。
そんな、達也の切り札たる眼が捉えた桃源津那美の姿は、『零無(ゼロ)』だった。情報体次元(イデア)には、彼の情報は何ひとつ存在していなかった。
達也は視界を切り替え、肉眼で彼の姿を確認してみる。今も悠々と深雪の隣を歩いていた。再び視界を切り替えて津那美を見てみる。__何もない。空白があるだけだ。深雪の情報体は観測できるので、眼に異常が起きているわけではない。
その異常な事実を認識したとき、大半の感情を喪失しているはずの達也の精神が、驚愕と戦慄に支配された。
(信じられん。情報体が存在しない〝存在〟がいるなど⋯⋯。いや、だからこそなのか。これが、あの叔母上が⋯⋯日本最強の魔法師である四葉真夜が崇拝する絶対の『神』桃源津那美の正体か!?)
後方を歩く達也の微細な変化に気づいたのか、津那美は歩みを止めることなく、首だけで振り返り声を掛ける。
「どうかしたか、少年。いや、達也くんだったか。もしや、日差しにやられて体調を崩したのか?」
話しかけられた達也はなんでもない風を装い、自身も歩みを止めることなく、静かに応じた。
「いえ、なんでもありません。お気遣い、ありがとうございます」
無難に返した達也だったが、その内心は圧倒的な驚きとわずかな恐怖に満ちていた。
(万が一、この人と闘うことになっても、情報体が存在しない以上、俺の特異能力《分解》は一切通用しない、か。__いや、そもそも俺はなぜ闘うことを想定しているんだ?あの叔母上が絶対の信を置いている人だ。話を聞いた限りでも、むやみに子どもに暴力や危害を加える印象は受けなかった。叔母上が崇拝する『神』なんだ。俺も信じてみて⋯⋯いいのかもしれない)
大切な『母』と『妹』を守るために、他人に安易に気を許してこなかったが、敬愛する叔母の言葉だからこそ信じてみようという気持ちになる達也だった。
◇
しばし無言のまま歩みを進めていたが、津那美が不意に達也へ声を掛けた。
「それにしても、達也くんはあまり感情が顔に表れないようだな。深雪さんは逆に、感情は出ているが本心は話していないという印象を時折受ける。おそらく、二人ともそういう教育を受けて育ったのだろうが__子どものうちはもっと感情や本心をさらけ出したほうがいい。感情を抑え込んだり、本心を隠すという思慮深さは大人になってからでいいはずだ」
前方を向いたまま語る彼を見つめ、達也と深雪は同じことを考えていた。
(まるで、叔母上と話しているようだ)
(叔母様とお話しているみたいです)
二人の内心など知ることもなく、津那美はその紅き瞳を空へ向けながら、昔語りを始める。
「君たちを見ていると、『三十年前』に救った少女のことを思い出す。あの娘も怖い目に遭ったというのに、無理をして笑う、どこか子どもらしくないところがあった。その時にいくつか大切なことを教えたのだが、今も忘れずに覚えてくれているだろうか?」
彼が言い放った三十年前という言葉に、話を聞いていた二人の脳裏に敬愛する叔母・四葉真夜の顔が思い浮かぶ。達也の瞳には確信めいた光が宿り、深雪は逸る心を抑え込むように、慎重に言葉を選び津那美へ問いかけた。
「その救い出した女の子とはその後、どうなったのですか?」
「救い出したあと、私はある理由から最後まで付き添えなかった。ゆえに、そこから先は人伝に聞いた話だが、救出部隊に保護され無事に家族の元へ帰れたようだ。その後は今日に至るまでの三十年間、再会はしていないな」
「それは⋯⋯その女の子は、とても寂しかったのではないでしょうか?津那美さんはどうなのですか?会いたいとは⋯⋯お思いにならなかったのですか?」
「どうだろうな⋯⋯。離れた二人が劇的な再会を果たして、喜びを分かち合う。そんなヒーローじみた真似は、私には似合わない。ただあの娘が健やかに育ち、素敵な女性に成長してくれたのなら、それだけで充分に私は報われている」
陽がわずかに傾き始め、蒼穹が茜色に染まりつつあるなか語る津那美の横顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、それでいて限りなく美しい。
深雪はそんな彼を見つめながら、切なさに胸が締め付けられていた。
(叔母様。私も理解できました。なぜ叔母様がこの方に惹かれているのか。その理由がいま、はっきりと解りました。津那美さんは、これほどまでに美しく世界に存在しているのに、どこか儚くて今にも消えてしまいそうです。だからこそ、誰かが繋ぎ止めてあげなくてはならないのですね。この世界に居ていいのだと、この世界に居てほしいと、そう伝える誰かが必要なのですね)
目尻にわずかに浮かんだ涙を隠すように、再び鍔広帽の庇を引き下げて、彼女は自身の心に芽生えたある感情を自覚する。
(叔母様。空港で誓ったこと、申し訳ありませんが、反故にさせていただきます。私、司波深雪にとってもこの方、桃源津那美さまはたった今特別な存在になりました。叔母様と私は、今日から恋敵です)
己の心内で敬愛する叔母に向けて謝罪と宣戦布告を済ませた深雪は、隣を歩く津那美との距離を、ほんのわずかに縮めるのだった。
◇
二人の後方を歩く達也は、妹の行動の変化__情緒の変化までは気づいていない__を観察しながら、脳裏で思考を巡らせていた。
(先ほどの会話から判断して、もはや間違いはない。この男、桃源津那美が叔母上が探している人物その人だと断定していいだろう。しかし__だからこそ、見過ごせない不明瞭な点が浮かび上がってしまった。この人は三十年もの間、どうやって四葉の捜索網を回避した?そして、なぜ今になって姿を現したのか。それも肝心の叔母上の前ではなく、俺たちの傍に⋯⋯っ。なにか思惑があるのか?⋯⋯まさか俺たちの正体に気づいて⋯⋯っ!?いや、焦りすぎだ。思考を一旦リセットしろ。__ひとつひとつ冷静に物事を考えろ)
静かに息を吐き、思いがけず強く握り込んでいた拳を、そっと開く。前方を歩く未だ謎に満ちた青年の背を見つめながら、達也はさらなる思考に没入していく。
(とりあえずは、彼の現状を知る。それが最優先だ。その過程で、協力者の有無を確認する。そう、必ず協力者がいるはずだ。単独で四葉の捜索網から逃れたとは思えない。何かしら手を貸した者がいるはず⋯⋯軍関係者、あるいは国防軍そのもの。または有力な魔法師の家系。いや、その可能性を踏まえるなら最悪の場合、四葉を除く十師族も想定しなくてはならない。フッ、本当に最悪の想定だな。__ああ、クソっ。自分でも理解しているが、懸念ばかりが先行しすぎているな。この男が叔母上の『神』であるという事実以外、確定していることはないんだ。考えすぎても意味はない。素直に教えてくれるとも思えんが、今できることは率直に聞くことだけだな)
達也は声に動揺が漏れないよう、冷静な声音で津那美に問い掛けた。
「桃源殿は先ほど少女を救出したと話されてましたが、もしや軍人ですか?」
「ん?いや、私は⋯⋯と、その質問に答える前に達也くんも堅苦しい呼び方はやめてもらって構わないぞ」
「⋯⋯承知しました。では、津那美さんと呼ばせていただきます。それで、津那美さん。俺の質問の答えですが__っ」
「ああ、そうだったな。とりあえず私は軍人ではない。東京で小さな事務所を開いている、しがない私立探偵だ」
「「私立探偵!?」」
奇しくも達也と深雪、二人の声が重なってしまう。そのまま互いに見つめあうも、気まずさからか、あるいは気恥ずかしさゆえか深雪は眉をひそめ、プイと先に目を逸らす。
そんな妹の反応を、達也はいつも通り無表情で受け流し、同時に彼の脳内では思考が高速で回っていた。
(私立探偵だと。意味が解らない。ただの探偵が四葉の捜索網から逃れられるわけが⋯⋯なんの冗談だ、それは。いや、あの顔を見るかぎり冗談ではないのか。だとしても、探偵と答えたその意図が解らない。何だ?その答えになんの狙いがあるんだ?⋯⋯待て。また思考が乱れている。一旦、冷静になれ。__よし。とりあえず意味や意図の解明はあとからでもいい。今は確定できそうな情報から精査していくのがベストだ。⋯⋯東京で事務所を開いていると言っていたな。事実か否か、まずはそれを確認する)
達也は別荘の端末を使用して、探偵事務所の事実確認をしようと決意するのだった。
兄が情報精査の思索に耽る一方__深雪は私立探偵という言葉にいたく感銘を受けたらしい。歩みを止め、その青い瞳をキラキラと輝かせ、グイッと津那美に詰め寄った。
「津那美さんは、探偵をなさっているのですね。うわぁ、素敵です。カッコいいです。そして⋯⋯すごく感激ですっ!__物語のなかでしかお目にかかれなかった存在と、こうして直接お会いできるなんて⋯⋯深雪は幸せ者です。⋯⋯あの、今までにどのような謎を紐解き、難事件を解決されたのかお聞きしてもよろしいですか?はっ!?もしや、津那美さんが沖縄にいらっしゃるのは、なにか事件を解決するためなのですか?」
えらく興奮ぎみに、彼へと矢継ぎ早に問いかける深雪。だがその問いには創作物の設定が多分に含まれており、壮大な勘違いを膨らませているようだった。
津那美は、彼女の細い両肩に優しく手を置くと、諭すように静かに語りかける。
「確かに私は依頼を受けて沖縄にいるのだが、それを君に話すことはできない。それから__君の夢を壊すようで申し訳ないが、常に謎や難事件に遭遇する探偵というのはあくまで創作上の設定だ。実際の探偵の仕事というのは退屈で地味なものばかりだぞ」
「えっと⋯⋯そう⋯⋯なのですか?」
「ああ。身元調査に素行調査、行方不明のペット探し。華々しさとはほど遠い仕事ばかりだ」
「そう⋯⋯なのですね。やはり、ああいった胸躍る話は創作にすぎないのですね。残念です」
深雪はすっかり肩を落とし、落胆の表情を浮かべた。津那美はそんな彼女の肩を優しく叩き、励ましの言葉を重ねる。
「私個人の意見だが、そもそも華々しい職業などというものは存在しないと考えている。一見どれほど眩く輝いて見えたとしても、その裏では人知れず努力や苦悩を重ねているのが常というものだ。それに、本当に大切なのは自分が就いた職業に誇りを持てているかだと、私は思う」
「⋯⋯誇り、ですか?」
「そうだ。意義、あるいはやり甲斐と言い換えてもいいだろう。どんな地味な仕事でも、そこに自分なりの意義ややり甲斐を見いだせたのなら不思議と胸を張り、その仕事が光輝いたものに見えることだろう」
「津那美さんもそうなのですか?先ほどお話されていた探偵の地味なお仕事とやらに、誇りややり甲斐を抱いていらっしゃると?」
「ああ。世のため人のためなどと大袈裟なことを言うつもりはない。だが、私が依頼を解決することでわずかでも人の苦悩が減り、笑顔が戻るというのなら⋯⋯存分にやり甲斐のある仕事だ」
深雪の青い瞳を真っ直ぐに見つめ、津那美は優しく微笑み頷いてみせた。やがて彼は深雪の両肩から手を離すと、そのまま先だって歩き始める。置いて行かれまいと彼女は早足で続き、距離を詰めた。
再度自身の隣に立って歩く深雪へと、津那美は前方を向いたままで静かに問いかける。
「君はどうだ?将来の夢や就いてみたい職業の展望など考えているのか?」
「えっと、それは⋯⋯っ!?」
問われた彼女の脳裏に一瞬、四葉家のことがよぎり思わず口ごもってしまう。そのせいもあってか、深雪には将来の夢や展望が何ひとつ思い浮かばない。だからこそ彼女は、その素直な胸の内をそのまま吐露することにした。
「⋯⋯分かりません。私にはまだ将来の夢や展望はあまり思い浮かばなくて⋯⋯っ!でも!__一つだけ、思いつくことはあります!」
津那美は無言のまま、先を促すように深雪を見つめる。不意に見つめられた彼女はその白い頬を染め、吐息とともにぽつりと言葉を零した。
「大好きな人の⋯⋯お嫁さん」
告げると同時に深雪は、頬どころか顔全体を真っ赤に染めてしまう。そして、その顔を見られまいと鍔広帽の庇を小さな両手でグイッと引き下げるのだが、その青い瞳だけはチラチラと津那美の顔を仰ぎ見るように頻繁に向けられる。
十二歳の少女の決死のアピールに対して、隣を歩く彼は優しく笑い言葉を返した。
「そうか。それは女性にとっての最良の夢だな。深雪さんが素敵な花嫁になれるよう、私も祈ることにしよう」
深雪の決死のアピールは華麗にスルーされ、あろうことか叶うようにと励ましの言葉まで掛けられる結果に終わってしまう。
__桃源津那美。神懸かりし美貌と紳士的で優しい佇まいを持つ男。女性たちを狂わせ魅了する彼だが、女心の機微を容易には汲み取ってくれない、そんな朴念仁とも評する頑なさを備えてもいた。それでいて一方的に女性を虜にしていくのだから、まさに『罪作り』あるいは『罪深い』魔性の男であった。
自身の決死のアピールを至極あっさりと受け流され、深雪は不満げに頬をわずかに膨らませる。その目尻には羞恥から涙が浮かび、隣を歩く彼を責めるように見つめた。
だが、そんな彼女の表情を見た津那美は、単に照れているだけだと判断して、少女の愛らしさに口元を小さく綻ばせるのだった。
◇
愉しげな二人の会話にもはや混じることなく、ただ粛々と後方で歩き続ける達也。今、彼の脳内では津那美の言葉の意図を解明しようと、膨大な演算が繰り返されていた。
そんな脳内労働をしながらでも、達也の冷徹な目は真摯に深雪を見つめ、その隣を歩く津那美を細かく観察している。青年と嬉しそうに会話する妹の表情を見ていると、自身でも整理のつかない複雑な胸中に陥っていくのを自覚していた。
(俺の前では決して見せない顔だな。__深雪。お前が俺の前で見せる顔には、いつだって苛立ちや嫌悪が多分に含まれている。お前にそんな顔しかさせられない俺は、自分への不甲斐なさが募る一方だ。だからか、お前の幸せそうな顔が見れるのは俺としても本当に嬉しい⋯⋯。しかし、それを引き出したのは俺ではなく、彼だというその事実がどこか心に軋みを⋯⋯っ。ああ、そうか。俺は羨んでいるのか)
達也は妹の幸せな笑顔に和みを感じると同時に、自身ではできないことをやり遂げた津那美へとかすかな羨望の色が滲む目を向けた。
やがて、彼の視界にある建物の外観が映り込み、それを伝えるべく深雪にいつも通りの呼び方で声を掛けようとする。
先ほどから物静かに後方を歩いている達也を気遣い、津那美もまた声を掛けようと口を開く。
深雪は気持ちを新たに、再度アピールしようと隣を歩く彼に声を掛けようとする。
「お嬢様⋯⋯っ」
「達也くんは⋯⋯っ」
「あの、津那美さん⋯⋯っ」
奇しくも、三者三様に声が重なってしまった。
一瞬、困惑の空気が流れるも真っ先に反応したのは深雪だ。彼女はグッと歯噛みし、誰の目にも判るほどの苛立ちを込めた声を、達也に投げかけた。
「っ!?何なんですか、いきなり!以前から何度も、何度も言っているじゃないですか!用もないのに私に話しかけないでくださいって!」
津那美に話しかけようとしたところを邪魔され、激昂に駆られた深雪は、華奢な肩を荒い息で揺らしながら実の兄を怒鳴りつける。達也は姿勢を正し深々と腰を折ると、謝罪と報告の言葉を述べた。
「失礼いたしました⋯⋯。お嬢様、別荘が見えてまいりました」
「__えっ!?」
一切の感情を排し、ただ淡々と事実だけを話す達也と兄の言葉を受けて周囲を軽く見渡す深雪。彼女の視界には司波家が滞在している豪華な別荘の外観が映り込んだ。
深雪は気まずそうに眉をひそめると、荒くなっていた息を整えてひとり別荘の玄関へと足を進める。
そして、改めて津那美へと振り返ったその顔には、先ほどまでの苛立ちは微塵も残っていなかった。
「津那美さん!司波家の別荘に着きましたよ。早くこちらにいらして下さい」
朗らかな笑みを浮かべて、手招きをして呼びかける深雪。そんな彼女を見つめながら、達也は津那美の隣へと歩み寄ると無言のまま一礼し、視線で先へ進むよう促した。
二人の異質な様子を見て、津那美は溜め息を漏らしそうになる。
(なんという歪な兄妹だ⋯⋯。いや、これは兄妹というよりは、むしろ主人と従者だな)
踏み込むべきか思案しながら、彼は穏やかな表情のまま深雪の手招きに応じて別荘へと歩み出す。
その後方を達也はいつにも増した神妙な顔つきで、静かについて行くのだった。
◇
深雪は、傍らに立った津那美に可憐な笑顔を見せるも、その後方にいる達也には一瞬冷めた目を向ける。だが、すぐに視線を外し、先導するように別荘の玄関へと歩を進めた。
「さあ、津那美さん。ここが司波家別荘です。ご遠慮なさらずに、どうぞ中へ__」
そう告げた矢先、ガチャリという重厚な音を響かせ、玄関扉が開かれた。
内からは、スーツ姿の女性・桜井穂波が姿を現す。
「おかえりなさい。深雪さん、達也くん。__それで、見知らぬ貴方はどちら様でしょうか?」
深雪と達也へ労いの言葉と優しい笑みを向けた彼女だったが、部外者である津那美に対しては鋭い眼差しを向ける。穂波はかすかな緊張とともに、扉の影に隠した自身の片手に意識を集中させた。その手首に巻かれたブレスレット型CADはすでに起動状態にあり、魔法発動の準備は完璧に整えられている。
彼女が発する警戒心を、厳しい戦闘訓練を受けた達也と夥しい実戦を踏み越えてきた津那美だけは明確に感じ取っていた。
穂波が隠している片手に冷徹な目をそっと向ける達也。津那美はというと、至って平然としており、穏やかな笑みを浮かべたまま悠然と佇む。
ただひとり、何も気づかない深雪はまるで『王』を讃えるような口調で同行者たる青年の自己紹介を始めた。
「穂波さん、ご紹介しますね。こちらにいらっしゃる方は、桃源津那美さま。〝私たち〟を悪漢の手から救ってくれた勇敢にして偉大な御仁です!」
彼女は誇らしげに、そして高らかにその名前を告げる。
事態に対処できるように、場を俯瞰していた達也は妹の紹介にかすかな違和感を覚えた。だが即座に正体に思い至り、彼はその口元をわずかに吊り上げる。
(深雪はおそらく無意識なのだろうが、〝私〟ではなく〝私たち〟と言い表わした。嫌っているはずの俺のことまで、その認識に含めた。__俺をわずかでも肯定してくれていると信じていいのか、深雪)
妹の本心を微細ではあるが垣間見た気がする達也は、普段とは打って変わった表情を晒してしまう。それは紛れもなくひとりの人間、ひとりの兄としての顔だった。
深雪や穂波に見られてしまう事はなかったが、タイミング良く__達也にとっては運悪く、津那美が視線を向けており、バッチリと目撃されてしまう。
達也は気恥ずかしさから、すぐさま無表情へと戻してしまうが、紅き眼をした青年は良いものをみたと言わんばかりに優しく微笑むのだった。
津那美が、達也の人間らしい一面を見て安息を覚えた一方で、穂波の精神は驚愕と動揺に支配されていた。
桃源津那美__その名前は四葉家にとっては重大かつ重要な意味を持つ。それは司波深夜のガーディアンである桜井穂波にとっても例外ではない。
彼女は、対象の名前と大まかな身体的特徴は聞かされていた。
(っ!?⋯⋯えっ!?桃源津那美?えっ?本物?なにかの冗談では⋯⋯。__でも、透き通るような白髪、焔のように鮮烈な紅い瞳。美の化身ともいうべき圧倒的な美しさ。ご当主さまから聞いた通りの容姿⋯⋯)
穂波は確信を求めて、深雪と達也に目線を送る。深雪は、膨らみ始めたばかりの胸を自慢げに張っているだけで、言ってはなんだがあまり頼りにはなりそうにない。
しかし、達也は彼女の目線に小さくではあるが、明確な頷きで返した。
それを見た瞬間、穂波の背をドッと冷や汗が伝う。
(ほっ、本物⋯⋯!どっ、どうしよう!私は、なんて無礼を⋯⋯っ。こんなことがご当主さまにバレたら⋯⋯)
司波深夜を主と定める専属ガーディアンの彼女だが、四葉に属する調整体魔法師であることもまた事実。ゆえに、現当主である四葉真夜の意に背くことは決して許されない。
真夜への恐怖から、穂波の顔色は真っ青に変化し、歯の根が噛み合わずガチガチと震えだす。彼女はこの事態にどう対処していいか判らず、軽いパニック症状を引き起こしていた。
すると、艶があるがどこか寒々しい声とともに新たな人影が玄関口に姿を見せる。
「あらあら、困ったものね。わたくしの従者が無礼を働いたこと、主人として深くお詫び申しあげます。そして⋯⋯子どもたちを救ってくださったことに、心より感謝を述べさせていただきます。__『桃源津那美』さん」
口元に妖しい笑みを浮かべながら、優雅な足取りで現れたのは司波家家長にして、達也と深雪の実母・司波深夜だった。
深夜の顔を見た瞬間、津那美は子どもたちの誘いを受けたことを、若干悔いる。
(なんてことだ。あの女性は四葉真夜の親族か。__ということは、この子たちもそうか。⋯⋯なるほど、深雪さんには確かにあの頃の四葉真夜の面影があるな)
深雪の顔をチラリと一瞬だけ確認して、納得の表情を見せる津那美。そんな彼の心を呼んだわけではあるまいが、深夜はフッと小さく微笑むと口調を普段通りに改め話しかけてくる。
「自己紹介が遅れたわね。わたくしは司波深夜よ。どうぞお見知りおきを、『桃源津那美』さん。__立ち話もなんですから、よろしければ中へどうぞ。深雪さんもそのつもりで連れてきたのでしょうし⋯⋯穂波、いつまで呆けているの。お茶の用意をなさい」
「はっ、はい!奥さま」
深夜の叱りと命令を受けて我に返った穂波は、慌てて別荘内へと姿を消した。その顔にはどこか安堵の色が見え隠れした。
台所へと向かった彼女の背を見届けた深夜は、その氷のような冷たさを宿した紅い瞳を、再び津那美に向ける。彼は特に動きを見せることなく、ただ神妙な顔つきで深雪の隣に佇んでいた。
「あら?いかがなされたの?どうぞ、お入りになってくださいな。それとも⋯⋯なにか臆することでもあるのかしら?ねえ、『桃源津那美』さん」
彼女は、しきりに彼の名を連呼し誇張する。その意図を、津那美ははっきりと理解していた。
(これは誘いだ。自分は貴方のことを知っているという誘い。__さて、どうする?所用があるので失礼すると断わって立ち去るのは容易い。だが、それは私へのさらなる疑惑を与えることになる。しかも、先ほどこの子たちとの会話で、私は迂闊な発言を漏らしている。おそらく、深雪さんや達也くんはそのことを母親に伝えるだろう。自分で蒔いた種とはいえ、とんだしくじりだ。⋯⋯もはや是非もなし、か)
しばし逡巡した彼は、深夜とは対照的なその焔のように鮮烈な紅き瞳で以て、本人を見つめる。そして、紳士の鑑のごとき見事なレヴェランスを披露する。
「貴女のような麗しき貴婦人の誘いを断るなど、まさに男の名折れ。その招待歓んでお受けしよう」
「っ!?」
「あらあら、お上手ね」
津那美が見せた優雅な振る舞いに、深雪は息を呑み、深夜はさも愉快そうに美しい唇を吊り上げた。
「お誘いを受けていただき光栄だわ。では、お先に失礼するわね。__深雪さん、彼の案内をなさい」
「はい、お母様」
娘に案内を任せた深夜は、ひとり優雅な足取りで別荘内へと戻っていった。玄関先に残された三人。真っ先に動いたのは深雪だ。
「さあ、津那美さん。リビングにご案内しますから、ついてきてください」
「ああ、よろしく頼む」
彼女は津那美の傍に寄ると、可憐な笑みを浮かべ先導するように歩き出す。
先ほどの深夜とのやり取りですでに気疲れを感じていた彼にとって、深雪の笑顔は多少の癒しになった。しかし、この先に待ち受けるであろう出来事を思うと、盛大に溜め息を漏らしたくなる津那美だった。
そうして彼は深雪の案内に従って、司波家別荘へと足を踏み入れる。
最後に、二人のあとに続いて歩いていた達也は、静かに玄関扉を閉めたのだった。
次回は深夜との応酬になります。津那美がどう答えるのか楽しみにお待ちください。
原作と変わりない黒羽家のパーティーなどは、多少独自のアクセントを加えつつ、状況説明の描写だけにして巻いていこうと思います。それで多少はテンポよくいけるのではと考えてます。