最高傑作、野球をする。   作:苦茶。

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初投稿です

野球経験無いから緊張する……
一応調べはしてますが……あっているのか……


最高傑作と白球

 

 

5月。東京、国分寺にある青道高校の野球部グラウンドは、刺すような日差しと、それ以上に生々しい熱気に包まれていた。

 

金属バットが硬式球を捉える甲高い破壊音。

 

黒土を容赦なく削り取るスパイクの摩擦音。

 

正式な練習が始まってまだ数分だというのに、バックネット裏からグラウンド全域に向けて飛び交う指示の声は、怒号に近い

 

そのどれもが、普通の高校生が送る退屈な日常からは完全に逸脱した、ある種の戦場のような空気を形成している。

 

その熱源から少し離れた一塁側ベンチの裏、コンクリートの冷たい壁に背を預け、オレは自分の右手のひらを見つめていた。

 

手の中にある、1個の硬式球。

 

牛革の独特なザラつき、指に引っかかる108本の赤い縫い目の感触。

 

それは、いつぞや自身で見て、持った硬式球と物理的な寸法も、重量も、全く同じ145グラムだった。

 

(はぁ……。静かに暮らすための『防空壕』としてここを選んだんだが、想像以上に騒がしい場所だな)

 

心の中でそう呟きながら、オレは視線をグラウンドへと戻した。

 

 

ホワイトルームが詳しい理由は不明だが解体され、オレが「外の世界」へと連れ出されたのは、ほんの数ヶ月前のことだ。

 

あの施設でオレのお守りをしていた執事の松尾が、自らの社会的破滅――いや、おそらくはそれ以上のリスクを冒してまで、オレに「普通の高校生としての自由」という選択肢を提示してくれた。

 

彼が命がけで手配してくれた、精巧な戸籍と経歴のカモフラージュ。それを無駄にしないため、オレが「普通の高校生」として機能する場所を探した結果が、この青道高校の野球部だった。

 

外部の人間、特にあの『あの男』――オレの父親の追手から最も効率的に身を隠すためには、2つの条件が必要だった。

 

1つは、高度にシステム化され、実力さえ示せば個人の過去やプライベートに深く立ち入らない閉鎖的な環境であること。

 

もう1つは、自分の存在が社会的に「野球という記号」の中に埋没することだ。

 

世間一般の人間にしてみれば、全国から怪物が集まる名門野球部に身を投じる行為は、自ら過酷な競争に飛び込む自殺行為に映るかもしれない。だが、オレの思考ロジックはその逆だった。

 

名門ゆえに、この場所は完全な「実力至上主義のシステム」によって統治されている。

 

結果さえ出せば、個人のプライベートや過去の奇妙な経歴、戸籍の不自然な空白に深く立ち入られることはない。

 

周囲の人間は「野球で勝つこと」という単一の目的だけに脳の全リソースを割いているからだ。提出した入部届の書類にも、オレは名前の欄をあえて不鮮明な筆跡で処理しておいた。

 

「おい、一般組。サボってんじゃねぇぞ。次、ピッチングのテストだからな」

 

通りすがり、2年生の先輩らしき男がオレを睨みつけていった。

 

オレは「すみません」と、感情の籠らない声で頭を下げ、列の後ろへと移動する。

 

周囲を見渡せば、全国のシニアやボーイズで名を馳せた、いわゆる「スカウト組」の特待生たちが、自信に満ちあふれた表情で身体を動かしている。

 

彼らにとって、一般入試という狭き門を潜り抜けてやってきたオレたち一般組は、グラウンドの隅を走るだけの数合わせ、引き立て役に過ぎない。

 

 

 

だが、それでいい。

 

最初から過度な期待を背負う必要はないのだ。システムの一部として、目立たず、しかし確実に排除されない位置をキープする。

 

それがオレの基本戦略だった。

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

「次、一般入試組。――綾小路君」

 

プラスチック製の拡声器を通した、高島副部長の鋭く通る声がグラウンドに響いた。

 

オレは小さく息を整え、列から1歩前に出た。

 

「おいおい、あいつが一般組のピッチャーか?」

 

「ひょろっとしてるな。筋肉のつき方も、なんか普通っていうか、鍛えてるように見えねぇぞ」

 

「さっき、一般組の降谷って奴が、凄まじい音立てて投げてたからな。同じ一般組だからか余計に貧弱に見えるぜ」

 

バックネット裏に群がる、上級生や同級生たちの容赦のない品評が耳に届く。

 

彼らの視線には、期待など微塵もない。ただの「無謀な一般組」を観察する、冷ややかな好奇心だ。

 

マウンドの手前、3塁側のベンチ前から歩みを進めると、すれ違いざまに1人の少年と視線が交差した。

 

長い手足、どこか現実離れした、周囲を拒絶するような佇まい。

 

さっきのテストで「降谷」と呼ばれていた、北海道から来たというやつだ。

 

彼の鋭く、しかしどこか満たされないような瞳は、先ほど凄まじい剛速球をキャッチャーのミットに叩き込んだ自負と、剥き出しの熱量に満ちあふれていた。彼の通り過ぎた後には、まだ空気が微かに熱を帯びているかのような錯覚さえ覚える。

 

(なるほど。彼の数値をこの部活における『エースの基準』にするのは危険だな。あまりに目立ちすぎる。オレの目的は、この部内で『切るに切れない便利な駒』としての地位を確立することだ。過剰な能力の露呈は、かえって父親への足取りを掴ませるノイズになりかねない。だが、使い物にならないと判断されてシステムから切り捨てられるわけにもいかない)

 

オレはゆっくりとマウンドに上がり、足元のロージンバッグに触れた。

 

指先に絡みつく白い粉。それを軽く叩き落としながら、マウンドの感触を確かめる。

 

プレートに右足をかける。

 

その瞬間、オレの脳内のライブラリから、かつてホワイトルームの映像教材で徹底的にアナライズした、ある伝説的な右腕のフォームが呼び出された。

 

かつて日本プロ野球界で圧倒的な勝率を誇り、マウンド上で猛々しく吠えた、あのエースのフォーム。

 

その本質は、気迫とは裏腹に、極めて冷徹なまでの「骨格の縦回転」にある。

 

 

長身から繰り出される角度。

 

左足を高く、美しく引き上げ、そこからヒップファーストで体重移動を行う際の、軸足の粘り。

 

そして何より、リリース直前に胸を大きく張り、右腕を上から下へと「縦に振り下ろす」完璧な軌道。

 

このフォームは、位置エネルギーを運動エネルギーへと変換する効率が極めて高い。

 

無駄な横振りが一切ないため、肩や肘への負担をコントロールしやすく、かつボールに強烈なバックスピンを与えることができる。

 

オレはマウンドの上で、その骨格連動を、自分の肉体を使って1ミリの狂いもなくトレースし始めた。

 

大袈裟な咆哮や気迫といった精神的な要素は削ぎ落とし、ただその「機能美」だけを抜き出す。

 

「おい、新入生。どこでもいいから気持ちよく投げてこい」

 

ホームベースの後ろ。

 

低くドッシリと中腰でミットを構える2年生の正捕手――御幸一也が、特徴的なスポーツ眼鏡の奥の目を細めて声をかけてきた。

 

その声には、一般組をリラックスさせるような軽快さがあるが、その実、彼の捕手としての観察眼はオレの立ち姿、重心の位置を鋭く見極めていた。

 

(まずは様子見だ。一般入試組の平均をわずかに上回るレベルからスタートする。球速は135km/h前後。コントロールの正確性だけを担保に、段階的に出力を上げて周囲の反応を測定する)

 

セットポジションに入った。

 

脳内シミュレーション通りに、左足をゆったりと、しかし力強く引き上げる。体幹の軸はビシッと垂直を保ったままだ。

 

そこから、右足の親指の付け根でプレートを強く押し込み、体重を前方へとスライドさせる。

 

テイクバックは小さく、しかし腕のしなりを最大限に活かすため、トップの位置で右肘を高く掲げた。

 

胸が大きく開き、次の瞬間、まるで天から地へと引き裂くような縦回転の軌道で、右腕が振り下ろされた。

 

 

――ビュウッ!

 

 

風を切り裂く音が響く。放たれた1球目は、御幸の構えたミットのやや真ん中寄り、しかし低めの絶妙なコースへと一直線に向かった。

 

 

――パンッ。

 

 

乾いた捕球音が響く。球速は正確に135km/h。

 

御幸はミットを戻しながら、少しだけ小首を傾げた。眼鏡の奥の目が、値踏みするようにこちらを見ている。

 

「ほう……綺麗なフォームだな。コントロールもいい。次、もうちょっと上げてみろ」

 

「わかりました」

 

オレは短く答え、2球目の準備に入る。

 

1球目でマウンドの傾斜と土の硬さ、風速のデータを完全に掌握した。誤差の修正は不要。

 

次は出力を「5%」引き上げる。球速のターゲットは138km/h。

 

再び、ダイナミックな縦回転フォームを再現する。

 

左足を引き上げ、前方へ踏み出す。1球目よりも、軸足の蹴り出しをわずかに強く、コンマ数秒早く解放した。

 

しなる右腕がトップから鋭く振り下ろされ、指先がボールの縫い目を強く掻き切る。

 

 

――ビュウウッッ!

 

 

風切り音の音圧が明らかに変わった。

 

白球は先ほどよりも低い軌道を保ったまま、御幸のミットの、今度は外角低めの隅へと吸い込まれていく。

 

 

――バシィィンッ!

 

 

 バックネット裏の上級生たちの間で、わずかにざわめきが起きた。

 

「おい、今の見たか? キレが上がってねぇか?」

 

「コースもエグいところ突いてるぞ」

 

御幸はボールを右手に握り直すと、不敵な笑みをその口元に浮かべた。

 

彼はオレが意図的に出力をコントロールしていることに、薄々気づき始めている。捕手としての勘というやつだろう。

 

「おもしろいじゃねぇか、綾小路。ラスト、お前の本当の全力を見せてみろ」

 

「……」

 

全力、か。

それはこの場所では見せられない。だが、合格点としての「上限」を提示する必要はある。

 

さっきの降谷が放ったボールは、おそらく140km/h前半。ならば、オレが一般組としての『掘り出し物』として認知され、かつ化け物扱いされないギリギリのライン。

 

 

――140km/hジャスト。

 

 

3球目。オレはセットポジションから、あの縦回転フォームの出力をさらに解放した。

 

左足を高く掲げた際、体幹に溜まる位置エネルギーが最大値に達する。

 

そこから、グラウンドの黒土を爆発させるような勢いでヒップファーストの体重移動。

 

限界までしなった右腕が、完璧な縦の放物線を描いてトップから振り下ろされた。

 

リリースの瞬間、人差し指と中指の腹に、145グラムの球体の全重量が凝縮される。

 

バックスピンの回転数は、これまでの2球を遥かに凌駕していた。

 

 

――ビュウウウッッッ!!!

 

 

空気を爆発させたような轟音が響いた。

 

放たれた白球は、ベースの手前で失速するどころか、むしろ加速するような錯覚を打者に与える「垂れないストレート」となり、御幸の構えたインコース高めの、最も捕球しづらい厳格な座標へと突き刺さる。

 

 

――バチィィィンッッッ!!!

 

 

室内練習場でもないのに、グラウンド全体に重々しい衝撃音が木霊した。

 

一瞬前までのざわめきが、嘘のように引き潮となって消えていく。バックネット裏の部員たちだけでなく、高島副部長、そして腕を組んで静観していた片岡監督の目元が、明らかに険しくなった。

 

「なっ――」

 

御幸のミットは、構えた位置から1ミリも動いていなかった。動かす必要がなかったのだ。

 

ボールが、ミットの芯へ自ら飛び込んできたかのような、完璧すぎるコントロール。

 

 

球速は、計ったように正確な140km/hジャスト。

 

「……ふん」

 

御幸はゆっくりと立ち上がり、ミットからボールを取り出した。

 

その顔には、先ほどまでの余裕の笑みはない。

 

代わりに、捕手としての獰猛な好奇心と、得体の知れないピッチャーを目の当たりにした警戒感が、その表情に入り混じっていた。

 

「おい、綾小路……」

 

「3球、終わりです」

 

オレは御幸が言葉を紡ぎ出す前に、マウンドのプレートから足を外し、短い言葉だけを残して歩き出した。

 

これ以上マウンドに留まれば、余計な質問を浴びることになる。システムに必要なデータは提示した。

 

あとは向こうがどう処理するかだ。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

マウンドを降り、1塁側のベンチ裏へと戻るオレの前に、不意に小さな影が滑り込んできた。

 

長めのピンク色の髪。

 

前髪で目が完全に隠れている小柄な少年だ。

 

手元には、高校生では珍しい木製のバットを大切そうに抱えている。

 

「あの……」

 

消え入りそうな、しかしどこか芯のある声で、彼はオレの正面に立った。前髪の隙間から、こちらの様子を窺うような視線を感じる。

 

「なんだ」

 

「あ、ごめんね、急に引き止めちゃって。……君の今のピッチング、すごく綺麗だったから、つい」

 

少年は恥ずかしそうに人差し指で頬を掻いた。

 

周囲の特待生たちがオレを品評する中、この少年だけは敵意でも好奇心でもなく、純粋な技術への感嘆を向けている。

 

その視線のあり方は、あのホワイトルームでデータを計測していた研究員たちのそれとは全く異なっていた。

 

「ただ真ん中付近に投げただけだ。誰でもできる」

 

「そんなことないよ。フォームの軸が全然ブレてなかった。まるで、最初からそこにボールが届くって分かっているみたいに……。あ、ボクは小湊春市。よろしくね、綾小路くん」

 

小湊春市。それがこの少年の名前らしい。彼はそう言って、小さく手を差し出してきた。

 

 

握手を求める文化。

 

 

ホワイトルームでは握手などという非効率な身体接触は存在しなかった。

 

拒絶する理由もないため、オレはその小さな手を握り返す。

 

見た目の華奢さに反して、手のひらにはバットを熱心に振り込んだ形跡である、固いマメがいくつも作られていた。

 

「綾小路だ。よろしく」

 

「うん。実はボク、君と同じ青心寮の5号室なんだ。部屋に荷物があったから、同じ一般組のピッチャーの子かなって思ってて。同室にこんな凄い子がいて、ちょっと安心しちゃった」

 

なるほど、ルームメイトか。

 

 

この名門の寮生活において、同室の人間がどのような性格であるかは、オレの『防空壕』の快適性を大きく左右する。

 

過度にプライベートに干渉してくるタイプや、沢村のように四六時中騒ぎ立てる人間だと厄介だったが、この小湊という少年は、比較的静かで観察眼に優れているタイプらしい。

 

こちらから仕掛けない限り、余計なトラブルの種を部屋に持ち込むことはなさそうだ。

 

「オレはただ、1軍に選ばれるための最低限の仕事をしただけだ。部屋では静かに過ごしたい」

 

「ふふ、仕事って面白い話し方をするんだね。でも、ボクも素振り以外は静かにしてる方だから、きっと気が合うと思うよ」

 

 小湊は前髪の奥で優しく微笑むと、「じゃあ、また部屋でね」と言って、自分のテストの順番を待つために列へと戻っていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

オレが再び歩き出そうとすると、今度は背後から大声を張り上げながら猛烈な勢いで近づいてくる足音がした。

 

振り返るより早く、その声が鼓膜に突き刺さる。

 

「おい、お前!」

 

そこにいたのは、茶髪の少年――確か……沢村…だったか?

 

「なんだ」

 

「なんだ、じゃない! お前、あの御幸……先輩のミットに、ビシバシ投げ込んでただろ! 変化球は!? 変化球は何が投げられるんだ!?」

 

「いや、何も投げられない。ストレートだけだ」

 

「嘘をつけ! あんなにコントロールが良いのに、変化球がないわけないだろ!」

 

沢村は顔を信じられないほど近づけてくる。彼の目には、純粋な嫉妬と、それ以上の圧倒的な好奇心がギラギラと輝いていた。

 

この男には、他者との距離感という概念が存在しないらしい。

 

「本当にストレートだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 

「ぬぐぐ……怪しい! 実に怪しいぞ、綾小路! この沢村栄純、お前の正体を暴いてみせるからな!」

 

勝手に1人で盛り上がり、勝手に納得して去っていく沢村の背中を見送りながら、オレは小さく息を吐いた。

 

やはり、この男は計算の外にいる。

 

感情の起伏が激しすぎて、行動の予測パターンが多層化しすぎるのだ。

 

だが、グラウンドの向こう側では、もう1人の怪物がこちらをじっと見つめていた。

 

さっきの「降谷」だ。

 

彼は手にしたグローブをきつく握り締め、オレが投げ終えたマウンドを、まるで自分の領土を侵された野生動物のような目で睨みつけている。彼の持つ剛速球は、純粋な才能の塊だ。だが、オレが提示した「段階的な出力調整」と「狂いのないコントロール」は、彼にとっては理解不能な不気味さとして映ったのだろう。

 

(降谷に、沢村……。そして完璧なマシーンとしてのピッチングを要求されるオレか。……どうやら、この青道高校での生活は、思っていたよりも面倒なことになりそうだ)

 

夕暮れ時のグラウンドに、長い影が伸びてしていく。

 

オレはグローブを片付け、寮へと向かう道を歩き始めた。背後からは、まだ居残りでバットを振り続ける上級生たちの、鋭い掛け声が響いていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

その夜、青心寮の自室に戻ったオレは、パイプ椅子に腰掛け、静かにノートを開いた。

 

部屋にはまだ同室の小湊の姿はない。

 

居残りで素振りをしているのだろう。名門の部員たちの努力の基準は、一般の高校生のそれを遥かに凌駕している。

 

(今日の収穫と課題を整理しておくか)

 

オレはペンを走らせた。

 

高島副部長のスカウト基準、片岡監督の選手起用傾向、指示の出し方。今日1日で得られた限られた情報から、彼らの思考パターンを脳内で整理していく。

 

片岡監督は、ただ才能があるだけの選手を好まない。

 

精神的なタフさ、そしてチームのためにどれだけ身体を張れるかを重視する傾向がある。

 

つまり、オレが「完璧なマシーン」として振る舞いすぎると、かえって「感情のない不気味な選手」として敬遠されるリスクがある。

 

 

 

一方で、御幸一也は違う。

 

彼は純粋な合理主義者だ。

 

勝つために使える駒であれば、それがどれだけ得体の知れない人間であろうと、喜んでマウンドへ送り出すだろう。

 

(御幸一也を味方につける。それが、この部活で最も効率的にポジションを確保する近道か)

 

そこまで考えた時、部屋のドアが静かに開いた。

 

肩で息をしながら、汗だくになった小湊が戻ってきた。彼の右手には、あの木製のバットが握られている。

 

「あ……ごめんね、綾小路くん。起こしちゃった?」

 

「いや、起きていた。ずいぶん遅くまでやっていたんだな」

 

「うん。少しでもバットを振っておかないと、置いていかれそうで……。綾小路くんの、今日のピッチング、凄かったね」

 

小湊は照れくさそうに笑いながら、タオルで汗を拭った。

 

彼の前髪の隙間から覗く瞳には、この名門で生き残ろうとする強い意志が宿っている。

 

「ただ、真ん中に投げただけだ。誰でもできる」

 

「そんなことないよ。あの御幸先輩が、1歩も動かずに捕るなんて……僕には、君がすごく遠い場所にいるように見えたよ」

 

小湊の言葉に、オレは明確な返答を返さなかった。

 

 

 

 

遠い場所。

 

確かに、オレが育った環境は、彼らのいる世界からは気が遠くなるほど遠い、光の届かない冷徹な実験室だった。

 

そこでは、努力の成果はすべて数値で管理され、基準に達しない者は容赦なく廃棄された。彼らの言う「努力」や「憧れ」という美しい言葉は、あの場所では何の意味も持たなかった。

 

「お先にお風呂、入ってくるね」

 

「ああ、ゆっくり休め」

 

小湊が部屋を出ていくと、再び部屋に静寂が戻った。

 

窓の外を見上げれば、東京の夜空には数えるほどしか星が見えない。

 

オレはベッドに横たわり、目を閉じた。

 

明日からもまた、この新しい環境でのノイズに満ちた日常が続く。だが、オレの心は驚くほど冷静だった。

 

どんな環境であろうと、課されたルールの中で最適な解答を導き出す。

 

それだけが、オレがホワイトルームで叩き込まれた、唯一の生存戦略なのだから。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

翌朝。午前4時45分。

 

オレはアラームが鳴る15分前に、完全に意識を覚醒させた。

 

隣のベッドでは、小湊がまだ規則正しい寝息を立てている。

 

オレは音を立てないように静かにベッドから抜け出し、洗面所で顔を洗った。

 

鏡に映る自分の顔は、相変わらず感情の起伏が見当たらない、無機質な仮面のようだった。

 

制服に着替え、宿舎の廊下に出ると、まだ誰も起きていない静寂が広がっている。

 

この時間が一番落ち着く。周囲の思惑や、野球というスポーツが持つ特有や熱量から解放され、純粋に思考を巡らせることができるからだ。

 

食堂へと向かう途中で、グラウンドの方から微かに音が聞こえてきた。

 

ザッ、ザッ、という、土を鳴らす規則正しい足音。

 

不思議に思い、オレは少しだけ足を伸ばしてグラウンドを覗き見た。

 

まだ夜明け前の薄暗いマウンドの周りを、1人で走り込んでいる人影があった。

 

長身でしなやかな四肢を持つ少年――降谷だ。

 

彼は昨日のテストで誰よりも目立つボールを投げたにもかかわらず、もうこうして1人で身体を追い込んでいる。

 

その表情は見えなかったが、背中から漂う張り詰めた空気は、彼が何かに激しく飢えていることを物語っていた。

 

(彼を突き動かすものは何だ? 名誉か、それとも純粋な勝利への執着か)

 

ホワイトルームでは、被験者を突き動かすのは「恐怖」と「排除への忌避感」だけだった。失敗すれば、そこには居場所がなくなる。だからこそ、オレたちは限界を超えて戦い続けた。

 

だが、この外の世界の人間たちは、自ら進んで過酷な環境に身を置き、自ら進んで肉体を痛めつける。

 

そこにあるモチベーションの源泉を、オレはまだ完全に理解しきれていない。

 

「……何を見てるんだ?」

 

突然、真横から声をかけられ、オレは僅かに視線を動かした。

 

いつの間にか、ジャージ姿の御幸がオレの隣に立っていた。

 

彼は首にタオルをかけ、スポーツドリンクのペットボトルを手にしている。

 

彼もまた、朝の自主練を終えたところなのだろう。

 

「いえ、熱心な奴がいるなと思って見ていただけです」

 

「降谷か。あいつは昨日、俺にボールを受けてもらえなかったのが相当悔しかったみたいだからな」

 

御幸はペットボトルのキャップを開け、1口飲んだ。

 

「お前はどうなんだ、綾小路。昨日のピッチング、1球ごとにきれいに球速上げてただろ。135、138、で、最後が140ジャスト。お前、狙ってあの数字出したな?」

 

「……ただの偶然ですよ、先輩。肩が温まっただけです」

 

「ハハッ、コンマ数秒のリリースを正確にコントロールしといて偶然かよ。まぁいいさ」

 

御幸はオレの肩をポンと叩き、食堂の方へと歩き出した。

 

「お前が何を隠してようが関係ねぇ。マウンドの上で嘘はつけねぇからな。今日の放課後、室内練習場に来いよ。面白いもん見せてやる」

 

彼の背中を見送りながら、オレは自分の右手をポケットに突っ込んだ。

 

 

 

御幸一也

 

この男の観察眼は、オレの想定よりも少しだけ厄介かもしれない。

 

だが、それすらも織り込み済みだ。

 

彼が俺をどう評価し、どう利用しようとするか。

 

そのすべての選択肢に対して、オレはすでに何通りもの解答を用意している。

 

東の空から、ゆっくりと朝日が昇り始め、青道の広大なグラウンドを黄金色に染め上げていった。

 

 

新しい1日が、また始まる。オレは静かに息を吸い込み、食堂への道を進んだ。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

朝の光が完全にグラウンドを照らす頃、青道高校の巨大な食堂は、部員たちの熱気と熱い湯気で満たされていた。

 

 

 

 

新入生たちにとっての、実質的な最初の『試練』

 

それがこの朝食だ。

 

視界に入るのは、文字通り山盛りにされた、どんぶり3杯の白米。

 

「うぐぐ……この沢村栄純、たかが米ごときに……名門の白米ごときに負けてたまるかアァァ!」

 

隣のテーブルで、沢村が米相手に本気で悔しがりながら、大粒の涙を流してどんぶりを口に運んでいる。

 

やはり、この男の行動原理はオレのデータにはない未知のノイズばかりだ。悪意がない分、余計に計算を狂わせる。

 

予測不可能性という意味では、ホワイトルームのどの被験者よりも厄介な存在かもしれない。

 

その視線に気づいたのか、沢村がバッと顔を上げた。口の周りに米粒をいくつもつけたまま、オレを指差す。

 

「あ、お前は昨日の……! 綾小路! お前なんでそんな平気な顔して食ってんだよ! 3杯目だぞそれ!」

 

「別に、噛んで飲み込んでいるだけだ」

 

「それがキツいんだよ! お前、ピッチングだけじゃなくて胃袋も怪物なのか!?」

 

「静かにしろ、沢村。声が大きい」

 

周囲の視線がオレに集まるのを感じ、オレは小さく溜息をついた。

 

目立たないように、一般入試組の平均的な完食スピードに合わせて食べるべきだったか。

 

少し周囲への配慮が足りなかったかもしれない。

 

人間の消化器官が一度に吸収できる栄養素の限界値、およびそれを日中の運動エネルギーへと変換する効率を計算すれば、この量を機械的に胃に流し込むことなど、オレにとっては何の苦痛でもないのだが、普通の一年生にとっては地獄そのものらしい。

 

ふと視線をずらすと、少し離れた席で、あの「降谷」もどんぶりを前にして完全に固まっていた。スプーンを持ったまま白目を剥きそうになっている。

 

彼のマウンドでの圧倒的なオーラは、この食堂では微塵も感じられない。

 

「……お前、面白い食い方するな」

 

背後から不意にかけられた低めの声に、オレは箸を止めた。

 

振り返ると、トレイを持った御幸が立っていた。相変わらず、眼鏡の奥の目がこちらの内面を探るように細められている。

 

「味を楽しんでねぇっていうか、ただエネルギーを補給してるみたいだ。昨日のお前のピッチングを見てなきゃ、ただの不気味な奴で終わるところだけどな」

 

「……気のせいですよ、先輩。朝はあまり食欲が湧かないだけです」

 

「ハハッ、そうかい。じゃあ、放課後の約束、忘れるなよ」

 

御幸はそれだけ言うと、自分の席へと去っていった。

 

一息ついて、オレは最後の米粒を口に運ぶ。

 

周囲の喧騒、沢村の叫び声、先輩たちの鋭い視線。そのすべてが混ざり合い

 

この青道高校という空間が本格的に駆動し始めているのを、オレは確かに感じていた

 




ここまで読んでいただきありがとうございます!!

初投稿ってことで気合が入ってしまった……次もこんなに書ける自信無い!!

キャラの口調は出来る限り違和感ないようにしてますが……何かあれば遠慮なく教えてください
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