2・3年生の合同控えチームを相手にした新入生対抗戦。その五回裏からマウンドに上がったオレ――綾小路清隆は、青道高校の絶対的な司令塔である御幸一也を、自ら課した制限の枠内で仕留めてみせた。
一塁ベンチに戻ると、そこには異様な静寂が待ち受けていた。
先発として150km/h近い豪速球を連発しながらも、中盤に上級生にアジャストされ、大量失点を喫して降板した降谷暁。彼はベンチの最前列に座り、自身の膝の上に置いたグラブを、指が白くなるほどの力で握りしめていた。その体からは、未だに制御しきれない熱気が陽炎のように立ち上っている。
(降谷からすれば球速こそが絶対的な己の武器でありであり、打者をねじ伏せるための唯一の力。しかし、オレの投じた140km/hの球は、彼のそれよりも遅いにもかかわらず、上級生のバットに芯を捉えさせなかった。彼にとって、その『効率』は理解しがたいバグのようなものだろう)
降谷はオレがベンチの屋根の下に入ると、ゆっくりと顔を上げた。前髪の隙間から覗く三白眼が、強烈な敵意と困惑を孕んでオレを射抜く。
「……どうやって、抑えた」
低く、地を這うような声だった。
「ただのストレートだ。お前のような破壊力はない。上級生が勝手にタイミングを外してくれただけだ」
「違う」
降谷は立ち上がり、オレとの距離を詰めた。その長身から見下ろす視線には、マウンドを追われた者の執念が宿っている。
「僕の球のほうが速い。僕のほうが、強い球を投げられる。なのに……あの眼鏡の先輩は、君の球を打てなかった。納得がいかない。君は、何かを隠している」
「隠してなどいない。オレにあるのは、クリス先輩から与えられたメニューを正確にこなすための、最低限の肉体と、それを管理する計画性だけだ。お前のように、毎球全力で腕を振るような非効率的な真似はオレにはできない」
オレの冷徹な解答は、降谷の心に火をつけるどころか、彼の中に冷たい楔を打ち込む結果となった。
彼はそれ以上言葉を紡ぐことなく、ただオレの顔を凝視し、再びベンチの奥へと沈んでいった。
そして、ベンチの指揮官――片岡監督は、腕を組んだまま腕の筋肉を微動だにさせず、グラサンの奥からオレを見ていた。
「綾小路」
「何でしょう、監督」
「六回も引き続きマウンドへ上がれ。相手は上位打線に回る。結城、伊佐敷、増子。お前のその『最適化』が、我がチームの絶対的な主力にどこまで通用するか、この眼で確かめさせてもらう」
「了解しました。与えられたイニングを、予定通り消化します」
片岡監督の言葉は、オレというシステムへの、より過酷な負荷テストの宣言だった。青道の誇る「クリーンナップ」
高校野球界の最高峰に位置する打線が、変化球を持たない140km/hのストレートを前に、どう動くか。
オレは脳内のスケジュール帳に、次なる打者たちのデータを展開し始めた。
◆◆◆
「おいおいおい! 何だよ今のピッチングはよぉ!」
六回表の攻撃中、一塁側ベンチの裏通路。自販機の陰から飛び出してきたのは、五号室の隣人であり、青道一の爆音男、沢村栄純だった。彼は試合に出場していないにもかかわらず、ユニフォームを泥だらけにし、首からタオルを下げてオレの胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで迫ってきた。
「沢村。大声を出すな。ベンチにまで響く」
「うるせぇ! 響かせてやってんだよ! お前、なんで御幸……先輩を三振……じゃねぇ、内野ゴロに打ち取れるんだよ! 」
沢村の叫びには、純粋な悔しさと、それ以上の「取り残される恐怖」が混ざり合っていた。
彼は現在、クリス先輩の下で「投手としての基本」を叩き込まれる基礎訓練の最中だ。
マウンドに上がることすら許されず、タイヤを引いて走り回る日々。そんな中で、同じ一般組のオレがマウンドに上がり、チームの主力である御幸先輩を抑え込んだ。その現実が、彼の泥臭いプライドを激しく逆撫でしている。
「言ったはずだ、沢村。オレとお前では、ここにいる目的が違う。お前はクリス先輩のメニューをこなし、その先にあるエースの座を目指せばいい。オレは、首脳陣から与えられたタスクを処理しているだけだ」
「タスクだぁ!? 処理ぃ!? お前、またそんな機械みたいなこと言いやがって! 野球はな、気持ちなんだよ! 魂と魂のぶつかり合いなんだよ! お前みたいに冷めきった計算でボールを投げて、それで勝って何が楽しいんだ!」
沢村の言葉は、ホワイトルームでオレが受けてきたあらゆる教育の対極に位置するものだった。
精神論、感情論、魂の暴走。それらはすべて、数値を狂わせ、再現性を低下させる「ノイズ」に過ぎない。
しかし、この沢村栄純という男を見ていると、そのノイズ自体が、周囲の人間を巻き込んでシステムを駆動させる強力なバグを発生させているように思えてくる。
「楽しいか、楽しくないかという基準でオレは動いていない。オレにとって重要なのは、この青道高校野球部という組織において、自分の存在価値を最も効率的に証明し、平穏なポジションを確保することだ。……お前がクリス先輩を信頼し、その指導に従っているなら、いずれマウンドに上がる機会は来る。今はそのノイズをオレにぶつけるのをやめろ」
「な……ッ! ク、クリス先輩のことをお前が語るな! あの人はな……あの人は、もの凄く厳しいけど、オレの可能性を……!」
沢村は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
彼はクリス先輩の過去を、そして彼が負っている肩の負傷の重さを、誰よりも理解し始めていた。
だからこそ、クリス先輩の指示に従い、地味なトレーニングに耐えているのだ。
「……とにかく、オレはお前に負けねぇ! 降谷にも、お前にも、絶対にだ!」
沢村は吐き捨てるように言うと、再びタイヤのロープを掴んでグラウンドの裏手へと走っていった。
その背中を見送りながら、オレは自身の感情のパラメータをチェックする。――変化なし。常に一定の、冷徹な静寂。
しかし、次なるイニングの幕が上がる。六回裏。二・三年生の上位打線が、オレの待つマウンドへと牙を剥いて進み出てくる。
◆◆◆
六回裏。マウンドの上に立つオレの視線の先、バッターボックスに現れたのは、三番・伊佐敷純先輩だった。
ヒゲを蓄え、まるで野獣のような風貌をした2・3年生の核弾頭。彼は打席に入るなり、バットを凄まじい風切り音を立ててビュンビュンと振り回し、マウンドのオレを睨みつけてきた。
「おい、1年坊主。御幸を抑えて調子に乗ってんじゃねぇぞ、ゴラァ!」
打席からのプレッシャーが、空気を物理的に押し出してくるように感じられる。
伊佐敷先輩のプレースタイルは「悪球打ち」。ストライクゾーンから外れたボールであっても、その強靭な腕力と闘争心で強引に外野へ運ぶ、計算不可能なスラッガーだ。
(伊佐敷純……規格外のリーチ、悪球への対応力、高めの釣り球に対する異常な反応。通常の打者であれば、ボールゾーンへの逃げる球でカウントを稼げるが、この男にそのロジックは通用しない。ならば、選択すべきは――)
オレはキャッチャーのサインを見る。1年生の控え捕手は、怯えたように外角の極端なボールゾーンを要求してきた。
オレはそのサインを首を振って拒否し、ミットを「ど真ん中」に修正させた。
(球速は140km/h。コース:インロー、打者の膝元へ完璧に制御されたストレート)
腕を振る。放たれた白球は、伊佐敷先輩の懐へと一直線に向かった。
「シャァァァオラァァァ!!」
伊佐敷先輩が叫び声と共にバットを始動させる。
そのスイング速度は、先ほどの二年生たちの比ではない。完全にボールの軌道を捉えていた。
しかし。
ズバァァァン!!
「ストライク!!」
バットが空を切る。伊佐敷先輩の体が、その豪快なスイングの反動で大きく一回転しかけた。
「な…にぃ!?」
(伊佐敷先輩は悪球を打つために、常にバットのヘッドを遅らせて出す癖がある。ボールの軌道を極限まで見極めるための技術だ。しかし、オレの球は140km/hという『遅さ』でありながら、空気抵抗による減速がほぼゼロに近い。打者の脳内では、140km/hの球は手元で僅かに失速すると思っている。その僅か数ミリ秒の『到達時間のズレ』が、彼の完璧なミートポイントを狂わせた)
「おのれぇ……ナメた真似しやがって!!」
二球目。伊佐敷先輩は打席の最も後ろに立ち、オレの球の「ノビ」を警戒する構えをとった。
オレは次なる一手として、全く同じコース、同じ球速、同じ回転数の球を投じた。寸分の狂いもない再現性。
パキィィィン!!
強引に合わされた打球は、サードの頭上を越えるかと思われたが、ドライブがかかったように急激に失速し、サードライナーとなった。
「アウト!!」
「クソがぁぁぁ!! なんだあの球は! 捉えたと思ったのに、全然飛ばねぇ!!」
伊佐敷先輩はバットを地面に叩きつけんばかりの勢いでベンチへと引き上げていった。
彼の感覚の中では、完璧に芯で捉えたはずだったのだろう。しかし、オレのストレートのノビがバットの肉厚な部分から数ミリだけ外させていたのだ。
そして、四番。
主将であり、青道高校の絶対的な大黒柱――結城哲也先輩が、静かに打席へと歩を進めてきた。
グラウンド全体の空気が、一瞬で凝固する。
結城先輩はバットを構えると、その鋭い眼光を真っ直ぐにオレへと向けてきた。昨日の室内練習場での三球勝負。
あの時はストレートだけで三振に仕留めたが、あの時のデータはすでに結城先輩の脳内で完全に処理され、対策が練られているはずだ。
(一切の迷いのないスイング、完璧な予測力、そして何より『気配』に惑わされない冷徹な集中力。オレの心理的な揺さぶりや、コースの細かな出し入れといったハッキングが最も通用しにくい、このチームで最大の障壁)
バックネット裏のクリス先輩が、バインダーを握る手に力を込める。ベンチの片岡監督も、微動だにせずマウンドを凝視している。
(ここでの最善策は何か。140km/hのストレートのみという制限の中で、この化け物を抑えるための方法は――)
オレはセットポジションに入り、深く息を吸い込んだ。
◆◆◆
結城先輩との対峙。それは、オレが青道高校に入学してから迎えた、最大の「出力テスト」だった。
初球。オレはアウトコースの極限、ストライクゾーンの白線の上に、140km/hのストレートを投げ込んだ。
ピクリ、ともバットが動かない。
「ボール!!」
わずかに外れた。審判の手は上がらない。
しかし、結城先輩の目は、そのボールの軌道を寸分の狂いもなく追っていた。彼の脳内には、すでにオレの球の「ホップ成分」と「到達速度」が完全にインプットされている。
(二球目。彼は必ず仕留めにくる。コースは、打者として最も腕が伸びる、真ん中やや外寄りの高め。そこへ、あえて誘い球を投じる)
オレは腕を振った。放たれた白球は、結城先輩の狙い通りのコースへと向かう。
「ふんっ!!」
凄まじいスイング。バットが空気を切り裂く音が、マウンドにまで聞こえるようだった。
ガキィィィィン!!!
強烈な金属音が響き渡り、打球は一直線にレフト方向へと飛んだ。一年生のレフトが必死に背走するが、その打球はライナー性のまま、レフトフェンスの直撃を鳴らした。
「ファウル!!」
わずかに切れていた。しかし、打球の速度、飛距離ともに、これまでの打者とは次元が違っていた。
結城先輩は表情を一つ変えず、再びバットを構え直す。
その姿は、まるで次の1球で確実にオレを仕留めると宣言しているかのようだった。
(完璧にアジャストされている。140km/hのストレートという単一の記号では、結城哲也という人間を完全に制圧することは不可能。ならば、オレに残された唯一の手段は、彼の『予測の先』へ数値をズラすことだけだ)
三球目。カウントはワンボール、ワンストライク。
オレは捕手のサインに頷き、セットポジションに入る。
(140km/hから、あえて『132km/h』へ。回転数を維持したまま、リリースの瞬間に指先の圧力を僅かに抜き、意図的な『チェンジアップ気味のストレート』を出力する。球種はストレートのままだ。しかし、速度のパラメータを意図的に下げる)
シュッ、と腕がしなる。フォームは140km/hのそれと全く同じ。完璧な擬態。
結城先輩のバットが、オレの「140km/hのストレート」のタイミングで始動した。
「……!」
結城先輩の目が、一瞬だけ見開かれた。
バットがボールの手前で空を切る。彼の驚異的な動体視線と身体能力が、空振りを防ぐために無理やりスイングを途中で止めさせようとしたが、その強靭な肉体をもってしても、数センチのタイミングのズレは修正しきれなかった。
バシィィィン!!
「ストライク!!」
結城先輩の体が、僅かに前のめりになる。彼はオレを見つめ、バットのグリップを握り直した。
「……ストレートの軌道のまま、速度だけを落としたか……前回と同じ原理か…」
結城先輩の言葉は、オレの意図を正確に見抜いていた。
彼はオレが「ストレートしか投げない」という前提を疑うのではなく、そのストレートの「幅」の異常性に気づいたのだ。
四球目。追い込んだオレは、再び脳内の計算式をアップデートする。
結城先輩は今の一球で、オレが前回と同じで「遅い球」を混ぜてくることを警戒している。ならば、次の一球は――。
(球速は多少遅めの138km/hで良い。その代わり本日最大の回転数。コース:インハイ、打者の胸元へ突き刺さるようなクロスファイア)
オレは全ての力を指先に集中させ、リリースした。
白球が、結城先輩の懐へと襲いかかる。
「シィィィッ!!」
結城先輩のスイングが、オレの138km/hを完璧に迎え撃つ。そのスピードは、先ほどの遅い球への対応を完全にリセットしていた。
しかし、オレの放った球は、彼のバットの遥か上を通過した。
バシィィィン!!
「ストライク!! バッターアウト!!」
結城先輩のバットが、ボールの下を完全に通過していた。
オレが投じたのは、ただのインハイのストレートではない。
本日最も回転数を高め、重力による落下を極限まで抑えた「真のホップするストレート」。結城先輩の脳が「インハイのストレートならこの軌道だ」と予測した位置よりも、ボール1個分だけ「上」を通過させたのだ。
二者連続の三振。
グラウンドは、再び深い静寂に包まれた。二・三年生のベンチからは、誰も声を出すことができない。名門・青道の絶対的な主将が、変化球を持たない一年生の一般組に、完璧に力(と計算)でねじ伏せられたのだ。
結城先輩はゆっくりとバットを下げ、オレをじっと見つめた後、小さく頷いた。
「見事だ、綾小路。お前のその『一球への執着』、確かに受け取った」
彼はそう言い残し、ベンチへと引き上げていった。オレはグローブをはめ直し、次なる打者――五番の増子透先輩へと視線を向けた。
◆◆◆
「ぬうううう……!!」
五番・増子透先輩が、地鳴りのような唸り声を上げながら打席に入ってきた。
五号室の同室の先輩であり、夜にはプリンを巡って絶望し、倉持先輩と共にオレに格ゲーの洗礼を浴びせてくる巨漢。
しかし、ひとたびユニフォームを着て打席に立てば、彼は高校野球界屈指の長距離砲としての威圧感を放つ。
「綾小路……! 部屋ではおとなしいのに……マウンドでは、生意気、だな……! ぬう、打つ!!」
増子先輩のバットが、オレの頭上で大きく揺れる。
彼の狙いは明確だ。
結城先輩、伊佐敷先輩がタイミングを外されたのを見て、彼は「ストレートの軌道」そのものを、その圧倒的なパワーで力任せに粉砕しにきている。
(圧倒的な質量とスイングパワー。芯を外してもスタンドへ運ぶ怪力。しかし、低めのボールに対する見極めと、動体視力の限界値には、結城先輩ほどの緻密さはない。ならば、彼に対するアプローチは極めてシンプルだ)
オレはセットポジションに入り、腕を振った。
初球。出力140km/hのストレートを、増子先輩の膝元、低めのボールゾーンへ。
「フンバァァァッ!!」
増子先輩が凄まじい咆哮と共にバットを振り下ろす。そのパワーは、マウンドの砂を振動させるほどだった。
しかし、ボールは増子先輩のバットの下をすり抜け、キャッチャーミットへと収まる。
「ストライク!!」
(増子先輩は低めの球に対して、どうしても腰が落ちる癖がある。格ゲーの時の彼の操作の癖と同じだ。彼は連続コンボを狙う際、必ず特定のフレームでガードが甘くなる。野球におけるスイングの軌道もそれと全く同じだ。一度そのスイングの軌道を解析してしまえば、どこにボールを通せば当たらないかは、簡単な算数の問題に過ぎない)
二球目。オレはさらに低め、今度はストライクゾーンから完全に外れるワンバウンドに近いコースへ、同じ140km/hのストレートを投じた。
「ぬううっ!!」
増子先輩のバットが、再び空を切る。激しいスイングの勢いで、彼の巨体がグラウンドの土の上にドサリと膝をついた。
「ストライクツーーー!」
「増子先輩、落ち着いてください! 完全にボールを呼び込まれてますよ!」
一塁ベンチから、御幸先輩の声が響く。
彼はオレが増子先輩の「弱点」を、技術的なデータだけでなく、日常の行動パターン(格ゲーのフレーム単位の癖)からすらもハッキングしていることに気づいているのかもしれない。
三球目。
オレはグローブの中でボールを握り直し、最後の数値を確定させた。
増子先輩は、二球続けて低めに振らされたことで、頭の中が「低めのボール」で一杯になっている。
そこへ、あえて真逆のコース――アウトハイのストライクゾーンへ、本日最も急速の立ち上がりが鋭いストレートを投げ込む。
シュッ。
オレの手から放たれた白球は、夕日に照らされながら、増子先輩の目の前を通過した。
「あ……」
増子先輩のバットは、ピクリとも動かなかった。彼の巨体は打席に立ち尽くしたまま、ただボールがミットに収まる音を聞いていた。
バシィィィン!!
「ストライク!! バッターアウト!! 」
六回裏、2・3年生の上位打線を三者凡退、それも三者連続三振という完璧なリザルトで、オレのタスクは完了した。
グラウンドには、もはや言葉を失った部員たちの沈黙だけが残されていた。一般組の変化球を持たない1年生が、青道高校の誇るクリーンナップを完全に沈黙させた。その事実は、この名門野球部のシステムにおける既存の評価基準を、根底から揺るがすに十分なバグだった。
◆◆◆
夜の食堂。
昼間の対抗戦の熱狂が嘘のように、寮の食堂は重苦しい、しかしどこか張り詰めた空気に包まれていた。
1年生たちは、オレを見る目が完全に変わっていた。
これまでは「運良く140km/hを出した一般組」だったのが、今や「クリーンナップを三者連続三振に仕留めた不気味な一般組」としての視線。
オレにとっては、目立つことは生存戦略においてマイナスだが、首脳陣に自分の『価値』を認めさせるためには、この程度のリザルトは必要経費だった。
「……ぬうううう」
オレの対面に座った増子先輩は、茶碗三杯の飯のノルマを前に、いつになくおとなしかった。大好物のプリンも、今日はまだ手をつけていない。
「増子先輩。今日の最後の1球、コースを外してすみませんでした」
オレが淡々と声をかけると、増子先輩はゆっくりと顔を上げた。
その目は、悔しさよりも、同室の後輩に対する複雑な感情で揺れていた。
「綾小路……。お前、強い……。ぬう、俺、もっと練習、する……。プリン、食う!!」
増子先輩は突然、プリンをスプーンで豪快にすくい、口に放り込んだ。どうやら彼なりの方法で、今日の敗戦をエネルギーへと変換したらしい。その単純だが強靭な精神構造は、ある種羨ましくもある。
「あはは、増子先輩、完全に清隆くんに刺激されてるね」
隣に座った小湊が、苦笑いしながらオレのトレイに目を向けた。
彼の「清隆くん」という呼び声は、今日の試合を経ても変わらず、穏やかな信頼を保っていた。
「清隆くん、今日のピッチング、本当に凄かったよ。ボク、ベンチで見てて鳥肌が立った。……でも、清隆くんは全然嬉しそうじゃないんだね」
「嬉しそうにする理由がない。オレは与えられたイニングを、自分の持っているパラメータの範囲内で消化しただけだ。それ以上の意味はない、小湊」
「そっか……。君は本当に、ボクたちの知らない場所から来たみたいだね」
春市の言葉は、核心を突きかけていた。
オレがホワイトルームという、感情を排除した極限の効率化空間で育ったこと。そこでの生存競争に比べれば、この野球部での戦いは、ルールが明確な分だけ遥かにイージーだ。
「よぉよぉ、盛り上がってるところ悪いねぇ、一年坊主ども」
トレイを持った御幸先輩が、案の定、意地の悪い笑みを浮かべてオレの隣の席に滑り込んできた。
「御幸先輩。用件なら手短に。オレはこれから、5号室での格ゲーのフレーム分析のスケジュールがあります」
「はは、倉持とまたやる気かよ。……いやさ、監督がお前のこと、正式に『一軍の合宿』に帯同させるって決めたぜ」
御幸先輩の言葉に、小湊が息を呑んだ。一軍合宿。それは、甲子園予選を前にした、青道高校野球部の最も過酷な地獄の期間だ。
「お前のその『140km/hのストレートのみ』っていう歪なスタイル、監督は面白いと思ってるみたいだわ。だけどさ、合宿になれば、他校の偵察部隊もお前のデータを集めに来る。全国の化け物打者たちが、お前のその『最適化』を壊しにくるぜ? ……楽しみだなぁ、綾小路」
御幸先輩はそう言うと、オレの肩をポンと叩き、満足そうに自分の席へと戻っていった。
窓の外では、夜のグラウンドで、沢村や降谷がまだ居残り練習の声を上げている。
一軍合宿。そこは、さらに巨大なシステムと、全国という名の狂熱が渦巻く戦場だ。
オレは、手元に残された140km/hの絶対防衛ラインを維持しながら、その過酷なプログラムをどうハッキングしていくか。脳内の計算式を、さらに深く、冷徹にアップデートし始めていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!!
誰をいつ出すかが難しい……違和感ないようにしたい……