倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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第一話 妃花ちゃんは今日も夫婦面をやめられない

 

 金田君は、昔から謝るのが下手だった。

 

 いや、違う。

 

 謝るのは上手い。

 

 むしろ上手すぎる。

 

 声は静かだし、目は逸らさないし、言い訳もしない。相手が怒っている時に逆撫ですることを言わないし、相手が落ち着くまでちゃんと待つ。

 

 だからこそ、腹が立つ。

 

 謝って終わらせようとしているのが、丸わかりだから。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、朝、言ったわよね?」

 

「言った」

 

「今日は一緒に帰るって」

 

「うん」

 

「なのに、なんで昇降口にいたの?」

 

「靴を出してた」

 

「ワタシを置いていく気だったってこと?」

 

「妃花の靴も出そうと思って」

 

「……は?」

 

 放課後の教室。

 

 夕方の光が窓から斜めに差し込んで、黒板の端に白く残ったチョークの粉を照らしていた。

 

 机の上には、ワタシの鞄。

 

 その横には、金田君の鞄。

 

 そしてワタシの右手は、金田君の胸ぐらを掴んでいる。

 

 普通の女子なら、ここで絵面が成立する。

 

 幼馴染の女の子が、男の子に怒っている。

 

 ちょっとした痴話喧嘩。

 

 甘酸っぱい放課後。

 

 けれど、ワタシの場合は少し違う。

 

 なにしろ、握力測定で両手とも八十キロを叩き出した女である。

 

 保健体育の先生が測定器を三度見した女である。

 

 旧校舎の壁に蹴り一発でヒビを入れて、翌日からそこだけ妙に新しい補修材で埋められた女である。

 

 つまり、胸ぐらを掴むという行為に、やや殺傷力がある。

 

 金田君はそれを知っている。

 

 知っているのに、平然としていた。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「襟、苦しくない?」

 

「それはこっちの台詞でしょ!」

 

 ムカつく。

 

 ムカつくムカつくムカつく。

 

 ワタシが怒っているのに、こいつはワタシの手首を見ている。

 

 ワタシの指が白くなっていないか。

 

 爪が食い込んでいないか。

 

 ワタシ自身が、怒りに任せて怪我をしていないか。

 

 そういうところだ。

 

 そういうところが、本当に腹立たしい。

 

「靴を出すなら、先に言いなさいよ」

 

「ごめん」

 

「謝るな!」

 

「……うん」

 

「今のは謝るところじゃなくて、説明するところ!」

 

「靴箱が混むから。妃花、家庭科室の当番で荷物が増えるだろ。両手が塞がると思って、先に出しておこうとした」

 

「……」

 

 完璧に善意だった。

 

 そこが一番腹立つ。

 

 悪意があるなら殴れる。

 

 いや、殴らないけれど。

 

 殴らない。たぶん。いや、場合による。

 

 でも、金田君はいつもそうだ。

 

 ワタシが怒る理由を作っておいて、いざ蓋を開けてみれば、ちゃんとワタシのことを考えている。

 

 考えているくせに、言わない。

 

 言わないから、ワタシが勝手に不安になる。

 

 勝手に不安になったワタシが怒る。

 

 怒ったワタシを見て、金田君が謝る。

 

 謝られたワタシがさらに怒る。

 

 熟年夫婦か。

 

 いや、熟年夫婦だ。

 

 五歳の時からの婚約者だもの。

 

 法的には違う?

 

 うるさい。

 

 契約に法律を持ち込むな。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、前から言ってるわよね」

 

「うん」

 

「ワタシへの興味のなさが露骨すぎるって」

 

「興味はある」

 

「じゃあ、今日の髪型は?」

 

「朱色のインテークツインテール。青い紐リボン。眼鏡は学校用」

 

「……」

 

「昨日より左の結び目が少し高い」

 

「細かい!」

 

「違った?」

 

「合ってるから腹立つのよ!」

 

 ワタシは勢いよく机を叩いた。

 

 ばき、と音がした。

 

 教室が静まり返った。

 

 机の角に、ひびが入っていた。

 

 ……またやった。

 

 金田君は、机のひびを見た。

 

 ワタシの顔を見た。

 

 それから、自分の鞄から何かを取り出した。

 

 木工用ボンドだった。

 

「なんで持ってるのよ」

 

「妃花が今日、怒るかもしれないと思って」

 

「準備するな!」

 

「雑巾もある」

 

「夫婦喧嘩の防災バッグを作るな!」

 

 金田君は真面目な顔で、ひびの入った机の角に布を当てた。

 

 ワタシはその横顔を見て、胸の奥がむずむずした。

 

 昔からそうだ。

 

 ワタシが壊す。

 

 金田君が直す。

 

 ワタシが怒る。

 

 金田君が待つ。

 

 ワタシが本家に帰る。

 

 金田君が迎えに来る。

 

 中学生になっても、それは変わらない。

 

 変わらないことに安心している自分がいて、変わらないことに苛立っている自分もいる。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「愛って何だと思う?」

 

 金田君の手が止まった。

 

 返事はすぐにはなかった。

 

 廊下の向こうから、吹奏楽部の音が聞こえる。チューニングの外れた音が、少しだけ夕方に滲んでいた。

 

 普通なら、ここで「好き」とか言うのだろう。

 

 大事だよ、とか。

 

 妃花しか見てない、とか。

 

 そういう安い言葉。

 

 安くてもいい。

 

 たまには払え。

 

 ワタシだって、そんなことを言われたら、少しくらいは機嫌を直してあげる度量がある。

 

 愛人くらいなら、ちゃんと説明と管理をするなら検討してあげるくらいの度量がある。

 

 ……いや、やっぱり無理かもしれない。

 

 相手による。

 

 相手によらない。

 

 駄目だ。

 

 考えただけで机をもう一つ壊しそう。

 

「朝、起きて」

 

 金田君が言った。

 

「相手が今日、困らないように考えること」

 

「……は?」

 

「雨が降りそうなら傘を持つ。寒そうならカイロを入れる。苦手な人に会う日なら、帰りに甘いものを買う。怒りそうな日なら、木工用ボンドを持つ」

 

「最後おかしいわよ」

 

「必要だった」

 

「必要にさせたのはワタシだけど!」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 自分で認めてしまった。

 

 今日のこれは、ワタシが悪い。

 

 いや、全部ではない。

 

 全部ではないけれど、だいぶ悪い。

 

 金田君は何も言わない。

 

 責めない。

 

 だから余計に、ワタシは自分で言うしかなくなる。

 

「……今のは、ワタシが悪かったわ」

 

「うん」

 

「うん、じゃない」

 

「半分くらい」

 

「半分?」

 

「俺も、靴を出しに行く前に言えばよかった」

 

「……そうね」

 

「妃花が置いていかれたと思うって、わかってたのに」

 

「っ」

 

 そういうところだ。

 

 そういうところが、ダメなのだ。

 

 ワタシが一番言われたくないことを、金田君は時々、何の飾りもなく言う。

 

 置いていかれたと思った。

 

 その通りだ。

 

 五歳の時から、ワタシはずっとそうだった。

 

 この人はいつか、自分の足で遠くへ行ってしまうんじゃないか。

 

 ワタシの癇癪も、暴力も、名家の面倒くささも、全部置いて。

 

 もっと普通で、もっと可愛くて、もっと壊さない女の子のところへ行ってしまうんじゃないか。

 

 そう思うたび、ワタシは先に怒る。

 

 先に突き放す。

 

 先に「実家に帰らせてもらうわ」と言う。

 

 そして金田君は、いつも迎えに来る。

 

 軒下で土下座したことすらある。

 

 あれは本当に腹立たしかった。

 

 腹立たしくて、泣きそうだった。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシが悪い時まで謝るの、やめて」

 

「うん」

 

「謝って終わらせよう感が出てる」

 

「……うん」

 

「ワタシだって、言いたいこと山ほどあるのに。あなただけ、さも我慢してますみたいな顔するの、気に入らない」

 

「してる」

 

「何を」

 

「我慢」

 

 ワタシは眉を上げた。

 

「へえ」

 

「妃花のこと、すぐ心配しすぎないようにしてる」

 

「……」

 

「すぐ手を出さないようにしてる」

 

「手?」

 

「荷物持つとか、頭撫でるとか、保健室連れてくとか」

 

「妹扱い娘扱い!」

 

「だから我慢してる」

 

「……」

 

「でも、今日は失敗した。靴を出しに行った」

 

 金田君は、机のひびにボンドを薄く塗りながら言った。

 

「俺は、妃花を守ってるつもりで、妃花の機嫌を勝手に決めてる時がある」

 

 ワタシは黙った。

 

「それは悪かった」

 

「……」

 

「ごめん。これは謝るところだと思う」

 

 ワタシは唇を噛んだ。

 

 謝るな、と言いたかった。

 

 でも、今回は言えなかった。

 

 ちゃんと謝っていたから。

 

 終わらせるためじゃない。

 

 続けるために。

 

 ワタシと喧嘩を続けるために、金田君は謝っていた。

 

「……よろしい」

 

「許された?」

 

「半分ね」

 

「半分」

 

「残り半分は、帰宅後の反省会で判断します」

 

「議題は?」

 

「夫婦間の報連相について」

 

「中学生だけど」

 

「黙りなさい」

 

 ワタシは鞄を持とうとした。

 

 金田君が先に手を伸ばす。

 

 ワタシはその手を睨んだ。

 

 金田君は止まった。

 

「……持っていい?」

 

「聞くようになったのは評価するわ」

 

「じゃあ」

 

「ダメ」

 

「ダメなんだ」

 

「ワタシが持つ」

 

 ワタシは自分の鞄と、ついでに金田君の鞄も掴んだ。

 

「妃花、俺の鞄も?」

 

「夫婦は支え合いでしょ」

 

「重いよ」

 

「ワタシを誰だと思ってるの」

 

「英雄」

 

「奥さん!」

 

「……奥さん」

 

「よろしい」

 

 そう言った瞬間、廊下から誰かが「奥さん?」と小声で呟いた。

 

 ワタシは扉の方を見た。

 

 一年生が三人、固まっていた。

 

 その目は、猛獣を見る目だった。

 

 失礼な。

 

 ワタシは猛獣ではない。

 

 触れるもの皆壊すだけの淑女だ。

 

 金田君が教室の後ろのロッカーに向かう。

 

「何してるの?」

 

「家庭科室に行く前に、先生に机のこと言ってくる」

 

「……ワタシが言うわ」

 

「一緒に行く」

 

「ワタシが壊したのよ」

 

「俺もいた」

 

「関係ないでしょ」

 

「関係ある」

 

 金田君は、いつもこういう時だけ頑固になる。

 

 普段はワタシが怒鳴っても、受け流すくせに。

 

 ワタシが自分を悪者にしようとすると、絶対に引かない。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、そういうところ嫌いよ」

 

「うん」

 

「大嫌い」

 

「うん」

 

「……だから、置いていかないで」

 

 言った瞬間、自分で顔が熱くなった。

 

 まずい。

 

 これは、だいぶまずい。

 

 ワタシは慌てて眼鏡を押し上げた。

 

 青い紐リボンの先が、頬に触れる。

 

 金田君は、何も言わなかった。

 

 ただ、ワタシの横に並んだ。

 

 半歩前でも、半歩後ろでもない。

 

 ちゃんと隣。

 

「置いていかない」

 

「……当然よ」

 

「靴を出す時も、言う」

 

「当然」

 

「待つ時は、見えるところにいる」

 

「当然」

 

「ココアも買ってある」

 

「……は?」

 

 金田君は鞄から、スーパーの袋を出した。

 

 中には、ワタシの好きなココアが入っていた。

 

 少し甘すぎるやつ。

 

 それから、猫柄の小さな膝掛け。

 

 白い猫が丸くなっている柄。

 

 先週、雑貨屋でワタシが五秒だけ見たやつ。

 

 可愛いなんて言っていない。

 

 絶対に言っていない。

 

 ただ見ただけ。

 

 五秒だけ。

 

「家庭科室、冷えるから」

 

「……」

 

「昨日から機嫌悪かったから、今日いると思って」

 

「予測するな」

 

「うん」

 

「夫婦喧嘩に備えて甘味と防寒具を用意するな」

 

「必要だった」

 

「必要にさせたのはワタシだけど!」

 

 ワタシは袋を奪い取った。

 

 今度は、金田君の指に触れないようにしなかった。

 

 ほんの少し、触れた。

 

 金田君は何も言わない。

 

 そこも腹立つ。

 

「ココアは謝罪じゃないから」

 

「うん」

 

「共有財産だから」

 

「中学生だけど」

 

「黙りなさい」

 

 ワタシは袋を胸に抱えた。

 

 猫の膝掛けが、袋の中でふわりと膨らんでいる。

 

 こんなの、怒れなくなる。

 

 怒っているのに、怒りきれなくなる。

 

 ズルい。

 

 本当にズルい。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「手」

 

「手?」

 

「ワタシの手、赤いでしょ」

 

「うん」

 

「保健室に連れていくとか、子供扱いするんじゃなくて」

 

「うん」

 

「黙って取ればいいのよ」

 

 金田君は少しだけ目を瞬かせた。

 

 それから、ワタシの右手を取った。

 

 強く握らない。

 

 逃げようと思えば逃げられる。

 

 でも、逃げなければ、そのままでいられる。

 

「これでいい?」

 

「及第点ね」

 

「そっか」

 

「勘違いしないで。許したわけじゃないから」

 

「うん」

 

「反省会はするから」

 

「うん」

 

「ココアは牛乳多め」

 

「マシュマロも買ってある」

 

「……」

 

 ワタシは横を向いた。

 

 廊下の窓に映った自分の顔が、少しだけ赤い。

 

 最悪だ。

 

 金田君のせいだ。

 

 全部、金田君のせい。

 

 ワタシが壊すのも。

 

 怒るのも。

 

 本家に帰るのも。

 

 それでも結局、こいつの隣に戻ってきてしまうのも。

 

「ねえ、金田君」

 

「うん」

 

「ワタシに飽きてるなら、ハッキリ言いなさいよ」

 

「飽きてない」

 

「即答?」

 

「うん」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

「ワタシ、面倒くさいわよ」

 

「知ってる」

 

「壊すわよ」

 

「知ってる」

 

「すぐ怒るわよ」

 

「知ってる」

 

「本家に帰るわよ」

 

「迎えに行く」

 

「……」

 

「何回でも」

 

 ワタシは、金田君の手を少しだけ握り返した。

 

 ほんの少しだけ。

 

 測定不能にならないくらい。

 

「バカ」

 

「うん」

 

「そこは否定しなさいよ」

 

「妃花もバカだろ」

 

「一緒にするな」

 

「一緒がいいんだろ」

 

 気づいた時には、ワタシの拳が金田君の顔の横を通過していた。

 

 ばごん、とロッカーが鳴った。

 

 廊下の一年生が悲鳴を上げた。

 

 金田君は、まばたき一つしなかった。

 

 ワタシの拳は、ロッカーの扉を少しへこませていた。

 

 ……またやった。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「手、痛くない?」

 

「痛くないわよ!」

 

「そっか」

 

「……先生に言いに行くわよ」

 

「うん」

 

「一緒に」

 

「うん」

 

「あと、帰ったらココア」

 

「牛乳多め」

 

「マシュマロ」

 

「二個?」

 

「三個」

 

「甘すぎない?」

 

「夫婦喧嘩の後は甘いものが必要なの」

 

「覚えた」

 

「最初から覚えてなさい」

 

 ワタシたちは、並んで廊下を歩いた。

 

 ワタシの片手にはココアと猫の膝掛け。

 

 もう片方の手は、金田君に握られている。

 

 昇降口にはまだ行かない。

 

 まずは先生に謝る。

 

 机とロッカーの件を報告する。

 

 それから家庭科室に行く。

 

 金田君は、きっと見えるところで待つ。

 

 ワタシが「待ってなさい」と言う前に、ちゃんと待つ。

 

 そういうところが、嫌いだ。

 

 大嫌いだ。

 

 だから、五歳の時に交わしたあの契約は、もうしばらく解消しないでおいてあげる。

 

 高校卒業後の籍だとか、本家だとか、イギリスの屋敷だとか、セバスチャンだとか。

 

 面倒なことは、山ほどあるけれど。

 

 今はとりあえず。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日の反省会、長くなるから」

 

「わかった」

 

「逃げたら、本家に帰るわ」

 

「迎えに行く」

 

「軒下土下座は二度と禁止」

 

「わかった」

 

「でも、迎えには来なさい」

 

「うん」

 

「よろしい」

 

 夕方の校舎に、吹奏楽部の音が響いていた。

 

 少し外れた、でも一生懸命な音。

 

 ワタシは金田君の手を握ったまま、前を向く。

 

 これが愛だというなら。

 

 まあ。

 

 腹立たしいけれど。

 

 悪くはない。

 

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