妃花の父は、穏やかな人である。
イギリスの伯爵家の二男。
元教師。
柔らかな金髪に、澄んだ青い目。
日本語は丁寧で、紅茶を淹れる所作など、見ているだけでこちらの背筋が伸びる。
そして、母と恋愛結婚するために、旧華族の本家を相手に結果を出し、認めさせ、最終的に事実上の婿入りまでした男。
つまり。
上品で、優しくて、芯が強くて、かなり面倒くさい人である。
「金田君」
「はい」
「今日は、君に少し試練を受けてもらいたい」
ワタシは、その瞬間に立ち上がった。
「お父様」
「何かな、妃花」
「何をする気ですか」
「そんな怖い顔をしなくてもいい」
「怖い顔にもなります。試練とは何ですか。決闘ですか。フェンシングですか。乗馬ですか。まさか銃ですか」
「銃は出さないよ」
「出す候補にはあったような言い方をしないでください!」
場所は、ワタシの家の客間。
本家ではない。
普段暮らしている方の家だ。
とはいえ、一般家庭よりはだいぶ広い。
玄関は広いし、庭もあるし、廊下は長いし、父の趣味で置かれた英国風の家具がいちいち高そうだ。
その客間に、ワタシと金田君と父と母がいる。
母は、父の隣で優雅に紅茶を飲んでいた。
止める気配はない。
むしろ、楽しそう。
なぜ?
「お母様」
「なあに、妃花」
「止めてください」
「どうして?」
「お父様が金田君に無茶ぶりをしようとしています」
「まあ」
母は口元に手を当てて笑った。
「お父様は、昨日からとても楽しみにしていたのよ」
「楽しみに?」
「ええ。金田君が来るからって、倉庫を開けたり閉めたり、庭を見に行ったり、古い道具を磨いたり」
「お父様?」
ワタシは父を見た。
父は、すっと視線を逸らした。
「庭に出ようか」
「逸らしましたね」
「庭に出よう」
「今、明確に逸らしましたね?」
「金田君、行こうか」
「はい」
「金田君も素直に頷かないで!」
金田君は、いつも通り落ち着いた顔で立ち上がった。
ただ、少し緊張している。
ワタシにはわかる。
背筋は伸びているけれど、指先がいつもより少し固い。
それだけで、ワタシの警戒度は上がった。
金田君を緊張させるとは、いくらお父様でも許されない。
いや、父親なので仕方ない部分はある。
でも許されない。
「妃花」
金田君が小さく言った。
「大丈夫」
「大丈夫ではないわ。あなた、緊張しているでしょう」
「少し」
「ほら」
「でも、大丈夫」
「その大丈夫が一番信用ならないのよ」
「妃花がいるから」
「っ」
やめなさい。
親の前でそういうことを言うな。
父が微笑んでいる。
母も微笑んでいる。
何この空間。
包囲網?
「……監督します」
ワタシは言った。
「金田君の試練なら、ワタシが横で監督します」
「妃花、手は出さないようにね」
父が言う。
「必要に応じます」
「出す気だね」
「金田君の安全が最優先です」
「それは頼もしい」
「頼もしいで済ませるな!」
*
庭には、すでに色々と用意されていた。
薪割り台。
薪。
斧。
手袋。
古い革のトランク。
庭のテーブルには銀のポットと茶器。
その横に、なぜか工具箱と木材。
ワタシは、しばらく無言でそれらを見た。
試練?
試練とは?
これでは、休日のお父様わくわく体験コーナーでは?
「お父様」
「何かな」
「これは?」
「第一の試練は薪割りだ」
「現代日本の中学生に要求する技能ではありません」
「でも、イギリスの屋敷には暖炉がある」
「使用人がいます」
「もちろんいる」
「ではなぜ金田君が薪を割る必要が?」
父は、きらきらした顔で言った。
「楽しいから」
「今、言いましたね?」
「いや、家族を守る者として」
「今、楽しいからと言いました」
「聞き間違いではないかな」
「お母様」
「聞こえたわ」
「お母様!」
母はにこにこしている。
止めない。
むしろ共犯。
まさか。
この二人。
金田君と遊びたかっただけでは?
いや、まだ決めつけるには早い。
父は父なりに、金田君を試そうとしているのかもしれない。
娘を任せる相手として、体力や判断力を見たいのかもしれない。
そう。
そうに違いない。
だからワタシが守らなければならない。
「金田君」
「うん」
「斧を持つ時は腕だけで持たないこと。手首を捻らないこと。刃が食い込んだら無理に抜かないこと。足元を見ること。お父様に煽られても乗らないこと」
「煽らないよ」
「その笑顔がすでに煽りです」
「妃花、父親に厳しいね」
「金田君絡みなので」
父はなぜか嬉しそうにした。
なぜ嬉しい。
「金田君、まずは構えからだ」
「はい」
父が金田君に手袋を渡す。
金田君は素直にそれをはめた。
父は隣に立ち、斧の持ち方を教え始める。
「肩に力を入れすぎない。斧は振るというより、重さを落とす。薪の中心ではなく、割れ目を見る」
「はい」
「足はもう少し開いて。そう。いいね」
「ありがとうございます」
……。
お父様。
楽しそう。
とても楽しそう。
いつもの穏やかな父ではある。
でも目が違う。
これは教師の顔だ。
いや、教師というより。
息子に庭仕事を教えるのを夢見ていた父親の顔だ。
金田君は息子ではない。
ワタシの旦那である。
いや、中学生。
でも契約上は。
「では、一度やってみよう」
「はい」
金田君が斧を構える。
少し固い。
当然だ。
斧なんて普通の中学生は持たない。
ワタシは一歩近づいた。
父がちらっと見た。
「妃花、見守り」
「見守っています」
「手を出さない」
「必要に応じます」
「それは手を出す返事だね」
金田君が息を吸う。
斧を上げる。
振り下ろす。
かん、と音がした。
刃は薪に入った。
だが、割れない。
斧が薪に食い込んだまま止まった。
「あ、惜しい」
父が言った。
惜しい?
惜しいではない。
刃が食い込んでいる。
金田君がそれを抜こうとして、少し力を入れた。
「待ちなさい」
ワタシは即座に前に出た。
「妃花」
父が言う。
「これは金田君の試練で」
「これは金田君の手首保護案件です」
「でも」
「でもではありません」
ワタシは金田君の横に立った。
「金田君、手を離して」
「大丈夫」
「大丈夫ではないわ。手首を痛める可能性があります」
「ゆっくりやる」
「離しなさい」
「妃花」
「離しなさい」
「はい」
金田君は手を離した。
よろしい。
ワタシは片手で斧の柄を持ち、もう片方で薪を押さえる。
軽い。
斧ごと薪を少し持ち上げ、薪割り台に軽く落とした。
ぱかん。
薪が綺麗に割れた。
庭が静まり返った。
父が割れた薪を見た。
母が口元を押さえて笑っている。
金田君が言った。
「妃花、すごい」
「当然よ」
「今の、どうやったの?」
「持ち上げて落としただけよ」
「薪ごと?」
「薪ごと」
「すごい」
「当然よ」
父が、少し困った顔をした。
「妃花」
「はい」
「これは金田君の試練で」
「完了しました」
「金田君が完了していない」
「金田君の安全を守りました」
「それはそう」
「では問題ありません」
「……そうかな」
母が微笑んだ。
「あなた、予想通りね」
「予想通り?」
ワタシは母を見る。
母は紅茶を飲むような優雅さで言った。
「妃花が金田君を守りに入るところまで、あなたは見たかったのでしょう?」
「お父様?」
父は目を逸らした。
「半分くらい」
「半分!?」
「いや、金田君に薪割りを教えたかったのも本当だよ」
「教えたかった?」
「うん」
「試練ではなく?」
「試練でもある」
「遊びたいだけでは?」
「……少し」
「お父様!」
金田君が、割れた薪を見ながら言った。
「俺、もう一回やってみたい」
「金田君!?」
ワタシは振り返った。
金田君は真面目な顔だった。
「次は捻らない。力を抜く。お父さんの言った通りにやってみる」
「……」
お父さん。
今、金田君はワタシの父を「お父さん」と呼んだ。
自然に。
普通に。
いや、礼儀としては問題ない。
むしろ良い。
でも、なんか。
なんか。
「金田君」
「うん」
「楽しいの?」
「うん」
「……」
父が横で嬉しそうにしている。
母も楽しそうにしている。
金田君も、少し楽しそう。
ワタシは。
ワタシは何?
金田君を守るつもりで来たのに。
なんか、父と金田君が仲良く薪割りをしている。
何これ。
ワタシの旦那なのに。
「一回だけよ」
ワタシは言った。
「ワタシが横で見ます。変な力が入ったら止めます。お父様は妙なテンションで煽らないこと」
「わかった」
父がにこにこ答えた。
全然わかっていなさそう。
金田君がもう一度斧を持つ。
今度は、少し力が抜けている。
父は、今度は静かに助言した。
「そう。落とす感じで」
金田君が斧を落とす。
ぱき、と薪に亀裂が入った。
完全には割れない。
でも、かなり良いところまで入った。
「おお」
父が嬉しそうに声を上げた。
「良くなったね」
「ありがとうございます」
金田君も、少し笑った。
その笑い方。
ワタシの前の顔とも、山岸君たちといる時の顔とも少し違う。
大人に褒められて、素直に嬉しい顔。
……。
ムカつく。
いや、ムカつくのは変だ。
お父様が金田君を褒めた。
金田君が嬉しそう。
良いこと。
良いことのはず。
でも。
ワタシの旦那なのに。
*
第二の試練は、古い革のトランクだった。
「次はこれだ」
父が、庭の端に置かれた大きなトランクを指差した。
「紳士たるもの、必要な時に荷物を持てることも大切だ」
「お父様」
「何かな」
「それも現代では相手の意思確認が必要です」
「もちろん。無理に持ってはいけない」
「ではなぜこの重そうなトランクを用意したのですか」
「これは昔、私がイギリスで使っていたものだ」
「思い出話に入りましたね」
「この革の感じ、良いだろう?」
「お父様」
「金田君、見てみるかい?」
「はい」
「お父様!」
父は完全にトランクを見せたかっただけだった。
金田君はしゃがんで、真面目にトランクを見る。
「かっこいいです」
「そうだろう?」
父の顔がぱっと明るくなった。
なんなの。
可愛いか。
いや、父を可愛いと思いたくない。
でも今のは完全に、コレクションを褒められて喜ぶ人だった。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
金田君が金具を見ている。
父が横から説明する。
「これは古いタイプの留め具でね。少し癖がある」
「ここを押してから?」
「そうそう」
「開いた」
「上手いね」
楽しそう。
二人とも楽しそう。
なんなの。
ワタシの金田君なのに。
いや、お父様のトランクだから、お父様が説明するのは当然。
金田君が聞くのも当然。
当然だが、なんか気に入らない。
「金田君」
「うん」
「楽しい?」
「うん」
「……そう」
「妃花も見る?」
「見るわ」
ワタシは金田君の隣にしゃがんだ。
トランクの中には、古い旅のタグや、革の仕切り、小さな布袋などが入っていた。
確かに、少しかっこいい。
言わないけれど。
「これを玄関まで運んでみよう」
父が言う。
「やはり試練に戻るのですね」
「一応ね」
「一応」
「金田君、無理なら無理と言うことも大切だ」
「はい」
金田君が持ち手を握り、持ち上げようとした。
重そう。
かなり重そう。
「持てます。でも長くは無理です」
「良い判断だ」
父が嬉しそうに頷く。
金田君はワタシを見た。
「妃花」
「何」
「一緒に持ってくれる?」
その瞬間、ワタシの中の怒りが三割くらい鎮火した。
よろしい。
非常によろしい。
自分だけで背負おうとしない。
ワタシに頼る。
契約五番の精神に適合。
「もちろんよ」
ワタシは反対側の持ち手を握った。
軽い。
だが、普通に持つと金田君ごと持ち上げる可能性がある。
なので力を合わせる。
高さを合わせる。
歩幅を合わせる。
「行くわよ」
「うん」
「段差」
「見てる」
「右に寄って」
「うん」
「手首は?」
「痛くない」
「よろしい」
父が後ろから、にこにこ見ている。
母もにこにこ見ている。
何?
何なの?
なぜそんな顔?
「妃花」
母が言った。
「とても良い連携ね」
「当然です」
「嬉しそう」
「嬉しくは」
「嬉しそう」
「……少しです」
玄関までトランクを運ぶと、父が拍手した。
「素晴らしい」
「拍手が軽いです」
「いや、本当に良かった。金田君、一人で無理をしない判断ができるのは大事だ」
「ありがとうございます」
「それに妃花も、ちゃんと金田君の力に合わせていたね」
「当然です。金田君が浮いたら困ります」
「浮くんだ」
「力加減を誤れば」
父は少し笑った。
「頼もしいね」
「そういう問題ではありません」
金田君が言った。
「妃花が合わせてくれたので、持ちやすかったです」
「金田君」
「うん」
「親の前で褒めなくていい」
「だめ?」
「だめではないけど、処理が面倒」
「処理」
「ワタシの心の」
「そっか」
「納得しない」
父と母が、また笑っている。
この二人。
完全に楽しんでいる。
父は金田君と遊べて嬉しい。
母はそれを見て楽しい。
ワタシは金田君を守るつもりだったのに、いつの間にか家族交流に巻き込まれている。
これは。
これは、かなり危険な流れである。
*
第三の試練は、紅茶だった。
庭のテーブルに移動すると、父はいそいそと銀のポットを手に取った。
いそいそ。
そう、いそいそ。
試練を与える威厳ある父ではない。
紅茶セットを金田君に見せたくて仕方がない父である。
「金田君、紅茶を淹れたことは?」
「ほとんどないです。ココアの方が多いです」
「妃花がココア派だからね」
「はい」
「では、今日は基本からやってみよう」
「はい」
「お父様」
「何かな」
「目が輝いています」
「紅茶は楽しいからね」
「試練はどこに?」
「紅茶の中に」
「詩的に誤魔化さないでください」
父は茶葉の缶を開けた。
「まず、ポットを温める」
「はい」
「茶葉の量は、人数分とポットのために少し」
「ポットのため?」
「そういう言い方をすることがある」
「へえ」
金田君が真面目に聞いている。
父が嬉しそう。
非常に嬉しそう。
母が小声で言った。
「妃花、お父様、本当に楽しそうね」
「お母様が止めないからです」
「だって、あんなに楽しそうなお父様、なかなか見られないもの」
「金田君はワタシの契約相手です」
「ええ」
「お父様の遊び相手ではありません」
「でも、金田君も楽しそうよ」
「……」
ワタシは金田君を見た。
楽しそうだった。
かなり。
金田君は、知らないことを教わるのが好きだ。
工具の本を読むのも好きだし、手芸を教えた時も不器用ながら真面目に覚えた。
今も紅茶の淹れ方を父から教わって、少し目が明るい。
腹立つ。
可愛い。
いや、違う。
腹立つ。
「妃花」
金田君が言った。
「なに」
「妃花の好みも、あとで教えて」
「知っているでしょう」
「ココアは知ってる。紅茶はまだ少し」
「……」
よろしい。
ワタシに聞いた。
最終的にワタシの好みへ戻ってきた。
大変よろしい。
「紅茶は、甘いお菓子がある時は砂糖なし。ミルクは少し。蒸らしは短すぎると嫌」
「うん」
「ココアほど牛乳を入れないこと」
「うん」
「香りが飛ぶから」
「覚えた」
「よろしい」
父が、横でとても満足そうにしている。
「金田君は本当に覚えが良いね」
「ありがとうございます」
「妃花の好みを聞く姿勢も良い」
「当然です」
「っ」
やめなさい。
お父様の前で当然ですとか言うな。
母が口元を押さえている。
笑っている。
この家の大人たち、強すぎる。
金田君が紅茶を淹れる。
手つきは丁寧だ。
ただ、少し蒸らしが短い。
でも初回としては悪くない。
父が香りを見て、嬉しそうに頷く。
「少し軽いけれど、初めてなら十分だ」
「ありがとうございます」
「では、妃花に出すなら?」
金田君はカップにミルクを少しだけ入れた。
砂糖は入れない。
そしてワタシに差し出す。
「妃花」
「いただくわ」
飲む。
少し軽い。
だが、ミルクの量は完璧。
砂糖なしも合っている。
「……及第点」
「よかった」
「次は蒸らし時間を十秒長く」
「うん」
「ミルクは合格」
「覚えた」
「忘れたら?」
「もう一回聞く」
「よろしい」
父がしみじみ言った。
「いいね」
「何がですか」
「金田君が妃花の好みを覚えていくところ」
「お父様」
「昔、私も君のお母様の紅茶の好みを覚えるのに苦労した」
父が母を見る。
母は微笑む。
「あなた、最初はミルクを入れすぎたものね」
「懐かしいね」
「でも覚えてくれたわ」
「当然だよ」
何を見せられているの?
ワタシの両親のロマンス回想?
金田君の前で?
金田君が真面目に聞いている。
やめなさい。
参考にしようとするな。
いや、参考にしてもいいけれど。
ワタシの好みはちゃんと覚えなさい。
「金田君」
父が言った。
「相手の好みを覚えるのは、ただ記憶することではないんだ」
「はい」
「今日は甘いものがあるから砂糖を抜く。疲れていそうなら少し甘めにする。寒そうなら温かいものを早めに出す」
「はい」
「つまり、見ることだ」
金田君が、少しだけ頷いた。
「いつも、やってます」
父が金田君を見る。
ワタシも見る。
「妃花のココアも、そうなので」
「……」
「怒ってる時は少し甘め。疲れてる時は熱すぎないように。寒い時は牛乳多め」
「金田君」
「うん」
「親の前」
「うん」
「そういう生活密着型の刺し方はやめなさい」
「刺した?」
「刺したわ」
母が、うふふと笑った。
父は満足そうだった。
「妃花」
「何ですか」
「良い人を選んだね」
「っ」
「お父様!」
「五歳の時からだけれど」
「お父様!!」
*
第四の試練。
いや、もはや試練と言うのも馬鹿らしい。
第四の遊びは、工作だった。
父は工具箱と木材を持ってきた。
「最後に、簡単な椅子を組み立てよう」
「お父様」
「これは試練ではない」
「では何ですか」
「工作だ」
「開き直り!」
「金田君、こういうものは好きかな」
「好きです」
「だと思った」
「金田君も乗らない!」
金田君は、少しだけ楽しそうだった。
かなり楽しそうではなく、少しだけ。
でもワタシにはわかる。
これは好きなものを前にした金田君だ。
工具。
組み立て。
木材。
父の趣味が完全に金田君へ刺さっている。
父はそれを見抜いている。
この人、金田君と遊ぶために、金田君の好きそうなものまで用意してきた。
策士。
上品な策士。
「妃花もやる?」
金田君が聞いた。
「当然やるわ」
「うん」
「お父様と二人で楽しそうにしないで」
「……」
金田君が少し目を開いた。
父も母もこちらを見る。
しまった。
今、かなり本音が出た。
「違うわ」
「妃花」
「違う」
「何が?」
「今のは、契約上の監督義務に基づく発言よ」
「そう?」
「そうよ」
母が柔らかく言った。
「妃花、寂しかったの?」
「違います」
「金田君を取られたみたいで」
「違います!」
「あなたの金田君なのに?」
「っ」
ワタシは母を見た。
母は微笑んでいる。
この人。
時々、本当に容赦がない。
父が少し申し訳なさそうにした。
「妃花、すまない。君を仲間外れにしたつもりはないんだ」
「仲間外れではありません」
「うん」
「ワタシは、金田君がお父様と楽しそうにしているのを見て、少し気に入らなかっただけです」
「それを寂しいと言うんじゃないかな」
「違います」
「妃花」
金田君が言った。
「うん?」
「俺は妃花と一緒がいい」
全員が静かになった。
ワタシも止まった。
金田君は、何か変なことを言ったつもりがない顔で続ける。
「お父さんと薪割りするのも、紅茶を教わるのも楽しい」
「……ええ」
「でも、妃花が横にいる方がいい」
「……」
「危ない時、止めてくれるし」
「……」
「妃花が見ててくれると、安心する」
「金田君」
「うん」
「今、親の前」
「うん」
「殺す気?」
「ごめん」
「謝るな!」
父が、わざとらしく咳払いした。
「金田君」
「はい」
「君は時々、とても真っ直ぐに強いことを言うね」
「すみません」
「褒めているよ」
母が微笑む。
「妃花、よかったわね」
「お母様!」
「顔が真っ赤よ」
「室温です!」
「庭よ」
「日差しです!」
「夕方よ」
「もう!」
ワタシは木材を持った。
危ない。
折るところだった。
「作ります」
ワタシは言った。
「椅子を作ります。早く」
「うん」
金田君が説明書を開く。
父が部品を並べる。
母は紅茶を注いで見守る。
ワタシはネジを分類する。
いつの間にか、完全に家族の休日になっていた。
金田君が板を持ち、ワタシが支える。
父が横から言う。
「そこの向きは逆かな」
「この穴がこっちなので、たぶん合ってます」
金田君が言う。
父が覗き込む。
「ああ、本当だ。金田君の方が正しい」
「ありがとうございます」
「金田君」
ワタシは低い声で言った。
「お父様と息を合わせすぎでは?」
「板の向きの話」
「そういう問題ではないわ」
「妃花、こっち持って」
「持つわ」
持つ。
持つけれど。
なんか悔しい。
「妃花、力少しだけ」
「こう?」
「うん。上手い」
「褒めるほどではないわ」
「でも上手い」
「……よろしい」
父が、それを見てにこにこしている。
「お父様、何ですか」
「いや、君たちはちゃんと一緒に作るんだね」
「……」
「壊すこともあるだろうけれど、こうして作ることもできる」
急に父親の顔をするな。
さっきまで全力で遊んでいたでしょうが。
そういう重いことを急に言われると、怒れなくなる。
金田君が、ネジを締めながら言った。
「妃花は、作るのも上手いです」
「金田君」
「料理も手芸も掃除も」
「今は言わなくていい」
「あと、壊さないようにするのも上手くなってる」
「っ」
ワタシは持っていたネジを落としかけた。
金田君が受け止めた。
父と母の前でそれを言うな。
いや、嬉しい。
かなり嬉しい。
でも言うな。
処理が追いつかない。
父は、静かに言った。
「そうか」
「はい」
「金田君がそう言うなら、そうなんだろうね」
やめて。
お父様まで優しい声を出さないで。
ワタシは怒る場所を失った。
屈辱。
いや、これは屈辱ではない。
でも、かなり困る。
*
椅子は完成した。
小さな木製の椅子。
庭で使うにはちょうどいい。
少し脚ががたついたが、金田君が調整した。
父が座ってみる。
「うん。良いね」
「壊れませんか」
ワタシが聞く。
「妃花が座っても大丈夫だと思うよ」
「ワタシ基準?」
「強度試験としては最上級だ」
「失礼です」
「褒めているよ」
「半分くらいですね」
金田君が言った。
「次に来た時も使えますか?」
父の顔が、ぱっと明るくなった。
「もちろん」
「金田君」
ワタシは言った。
「もう次の話をしているの?」
「うん」
「お父様も乗らない」
「次は棚でも作ろうか」
「お父様!」
母が笑う。
「楽しみね」
「お母様まで!」
この家、全員金田君に甘い。
いや、ワタシもか。
違う。
ワタシは契約に基づいて適切に甘いだけ。
両親は完全に遊びたがっている。
父など、金田君に小さな軍手まで渡している。
「次回用に」
「ありがとうございます」
「受け取らないで!」
「使うから」
「使うの!?」
「棚、作るなら」
「もう作る気なの!?」
父が満足そうに頷いている。
母が嬉しそうに見守っている。
金田君が楽しそうに軍手を見ている。
ワタシは。
ワタシは何?
保護者?
監督?
正妻?
中学生。
いや、それは今どうでもいい。
「お父様、お母様」
「うん」
「はい」
「金田君を構うのは許可します」
「許可制なんだね」
「許可制です」
「ありがとう、妃花」
「ただし」
ワタシは金田君の袖を掴んだ。
「ワタシ同席です」
「もちろん」
「事前申請制です」
「申請書を書くのかな」
「書いてください」
「本当に?」
「本当に」
父が少し考えてから言った。
「件名は『金田君との棚作りについて』でいいかな」
「本気で書くつもりですね?」
「もちろん」
「お母様、止めてください」
「楽しそうだからいいのではなくて?」
「お母様!!」
金田君が小さく笑った。
ワタシはそれを見た。
「金田君」
「うん」
「何を笑っているの」
「妃花の家、楽しい」
「っ」
やめなさい。
それは良すぎる。
ワタシの家を楽しいと思ってくれるのは、かなり良い。
だが、それを今言うな。
父母が嬉しそうにしている。
ほら。
お父様など、もう完全に金田君を次回も招く気だ。
母も焼き菓子の相談を始めそうな顔をしている。
「……金田君」
「うん」
「楽しかった?」
「うん」
「お父様と遊ぶのが?」
「妃花と、お父さんと、お母さんと」
「……」
「みんなで」
ワタシは黙った。
それなら。
まあ。
許す。
「ワタシを差し置いて楽しそうにしないで」
「うん」
「でも、楽しいのは許すわ」
「うん」
「お父様と仲良くするのも許す」
「うん」
「お母様に可愛がられるのも、まあ、許す」
「うん」
「でも」
「うん」
「ワタシの旦那だということは忘れないで」
場が静かになった。
金田君が目を少し開いた。
父が咳払いした。
母が、ぱあっと顔を明るくした。
「妃花」
「何ですか」
「もう一回言って」
「言いません」
「とても良かったわ」
「言いません!」
金田君が小さく言った。
「中学生だけど」
「今それを言わない!」
父が笑った。
母も笑った。
ワタシは全然笑えない。
いや、少し笑いそう。
でも笑わない。
これは大事な主張である。
*
帰り際。
父は金田君に紅茶の茶葉を渡した。
「練習用に。今日のものより扱いやすい」
「ありがとうございます」
「次に来た時、妃花の好みに合わせて淹れてみよう」
「はい」
「お父様、次回の予定を当然のように入れないでください」
「申請書を書くよ」
「そこは素直!」
母はワタシに、小さな缶を渡した。
「妃花にはこれ」
「何ですか?」
「ココアよ。マシュマロも入れておいたわ」
「お母様」
「紅茶ばかりでは不公平でしょう?」
「完璧です」
「でしょう?」
金田君が少し笑った。
父も笑う。
母も笑う。
玄関の空気が、あたたかい。
あたたかすぎる。
金田君が、ワタシの家に自然にいる。
父に茶葉をもらい、母に笑われ、ワタシに袖を掴まれている。
それが、なんだか。
腹立つくらい。
嬉しい。
「金田君」
「うん」
「帰るわよ」
「うん」
「お父様、お母様。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「また来てね、金田君」
「はい」
「お母様、ワタシもいます」
「もちろん、妃花も」
「ついでみたいに言わないでください」
父が言った。
「金田君」
「はい」
「次は棚作りだ」
「はい」
「お父様」
「申請書を書く」
「よろしい」
よろしいのか?
まあ、よろしい。
玄関を出て、門まで歩く。
金田君は、父からもらった茶葉と軍手を持っている。
ワタシは母からもらったココアとマシュマロを持っている。
なんだこの夫婦の贈答品みたいな分担は。
いや、中学生。
でも契約上は。
門を出たところで、ワタシは手を出した。
金田君は何も聞かずに握った。
よろしい。
「金田君」
「うん」
「今日の契約更新よ」
「うん」
「一、お父様の試練は遊びの可能性が高い」
「うん」
「二、遊びであっても危険物の使用はワタシの監督下」
「うん」
「三、お父様と金田君が遊ぶ場合、ワタシの同席必須」
「うん」
「四、お母様の観戦力は高いので警戒」
「うん」
「五、金田君はワタシの両親と仲良くしてよい」
「うん」
「ただし」
「うん」
「ワタシを差し置いて楽しそうにしすぎないこと」
「難しい」
「難しい?」
「妃花も一緒に楽しめばいい」
「……」
「それなら差し置かない」
ワタシは金田君の手を握り直した。
力は入れすぎない。
今日は薪を割ったが、金田君の手は割らない。
「及第点」
「よかった」
「かなり良い答えよ」
「うん」
「次の棚作りも、ワタシが同席します」
「うん」
「ワタシも作ります」
「うん」
「お父様に金田君を独占させません」
「うん」
「お母様にもです」
「うん」
「あなたはワタシの契約相手です」
「うん」
「お父様の工作友達ではありません」
「それは少しなりたい」
「金田君?」
「でも妃花と一緒に」
「……よろしい」
夕方の道を歩く。
金田君の手が温かい。
父は金田君と遊びたかった。
母はそれを眺めて楽しみたかった。
金田君は普通に楽しんだ。
ワタシは、最初は守らなければと思った。
父が無茶ぶりをする。
母も止めない。
だからワタシが金田君を守るのだと。
でも、途中で気づいてしまった。
あの二人、金田君と遊びたいだけだ。
金田君のことが好きすぎる。
今か今かと、一緒に遊べるタイミングを狙っていたのだ。
そして、それに気づいたワタシは。
少しムカついて。
少し寂しくて。
かなり嬉しかった。
「金田君」
「うん」
「今日、楽しかったのは許します」
「うん」
「でも、帰りはワタシとです」
「うん」
「ココアもワタシに淹れます」
「うん」
「紅茶を覚えても、ワタシのココアを疎かにしないこと」
「牛乳多め」
「よろしい」
「マシュマロ三個」
「非常によろしい」
「紅茶はミルク少し。お菓子がある時は砂糖なし」
「……」
「蒸らしは今日より十秒長く」
「……よろしい」
危ない。
また刺された。
父から試練を受けたはずなのに、結局一番刺してくるのは金田君である。
「金田君」
「うん」
「今日は、父と母に付き合ってくれてありがとう」
「楽しかった」
「それは聞いたわ」
「妃花の家、好き」
「っ」
「お父さんもお母さんも、優しい」
「……」
「妃花が大事にされてるの、わかった」
ワタシは、少し立ち止まった。
金田君も止まる。
「……そう?」
「うん」
「お父様は面倒くさいわ」
「うん」
「お母様は容赦がないわ」
「うん」
「でも」
「うん」
「大事には、されているわね」
「うん」
金田君は、静かに言った。
「俺も大事にされて、嬉しかった」
「……」
「妃花の大事な人たちに」
ワタシは金田君の手を少し強く握った。
強く。
でも痛くないくらい。
「金田君」
「うん」
「今のは、かなり有効」
「うん」
「処理に時間がかかります」
「ココアまで?」
「ココアまで」
「わかった」
ワタシたちはまた歩き出した。
今日の試練は、試練ではなかった。
父の遊び。
母の観戦。
金田君の家族交流。
ワタシの嫉妬。
そして、少しだけ未来の予行演習。
次回は棚を作るらしい。
お父様はきっと本当に申請書を書く。
お母様はきっと焼き菓子を用意する。
金田君はきっと楽しみにする。
ワタシは、たぶん文句を言う。
でも。
次は最初から混ざる。
ワタシの旦那なのだから。
夫婦なので。