小学校高学年のワタシは、今より少しだけ小さかった。
背も。
手も。
声も。
我慢の器も。
今なら、まだわかる。
ムカつく。
腹立つ。
嫉妬。
不安。
嬉しい。
好き。
大好き。
そういうものが、全部ぐちゃぐちゃになって、喉の奥で熱くなる時がある。
今なら、まあ、多少は分類できる。
多少は。
かなり怪しいけれど。
でも、小学生のワタシには無理だった。
怒っていると思った。
でも嬉しかった。
嬉しいと思ったら、怖かった。
怖いと思ったら、手に力が入った。
手に力が入ると、物が壊れた。
だからワタシは、よく怒っていた。
怒っている方が、まだわかりやすかったから。
金田君は、その頃からよくわからない男の子だった。
今もよくわからない時はある。
あるけれど、昔はもっとわからなかった。
何を考えているのか、顔に出ない。
怒っているのか、困っているのか、嬉しいのか、楽しいのか。
見ているのか。
見ていないのか。
そばにいるのか。
少し離れているのか。
意味がわからない。
でも、ワタシが転びそうになると手が出る。
給食の牛乳が減らない日は、パンを半分くれる。
ワタシが机を叩きそうになると、先に筆箱をどかす。
ワタシが「もう知らない」と言うと、本当に近づいてこない。
でも、少し後ろにはいる。
何なの。
いなくなるなら、いなくなればいい。
いるなら、ちゃんといればいい。
どっちなの。
はっきりしなさいよ。
言いなさいよ。
でも、言われたらたぶん困る。
だから、やっぱり言わなくていい。
でも言いなさい。
つまり。
小学生のワタシは、かなり面倒くさかった。
今?
今はもっと高度に面倒くさいだけよ。
*
その日の放課後、ワタシは機嫌が悪かった。
理由はあった。
でも、その時のワタシには、それが理由だとわからなかった。
金田君が、クラスの女の子に折り紙を教えていた。
ただそれだけ。
その子は鶴の首がうまく折れなくて、金田君に聞いた。
金田君は横から少し手を出して、
「ここ、反対」
「え、こう?」
「うん。そこ」
と、短く言った。
それだけ。
悪くない。
別に何も悪くない。
金田君は手先がそこそこ器用だったし、聞かれたから答えただけ。
わかっている。
わかっているけれど。
その女の子が笑った。
「金田くんって、やさしいね」
ぱき、と音がした。
ワタシの鉛筆が折れた音だった。
隣の席の子がびくっとした。
ワタシも少しびくっとした。
鉛筆は悪くない。
申し訳ない。
でも、今のは鉛筆にも覚悟してほしかった。
無理?
そうね。
鉛筆は悪くないわね。
金田君は、何も言わなかった。
嬉しそうにも、照れたようにも、困ったようにも見えなかった。
ただ、折り目を押さえていた。
そこも腹立つ。
何か言いなさいよ。
「そんなことない」とか。
「妃花の方が知ってる」とか。
いや、最後のは言わなくていい。
言ったら困る。
でも言いなさい。
ワタシの方を見なさい。
見る必要はない。
でも見なさい。
意味がわからない。
ワタシが。
放課後。
教室に残っていた子が少なくなった頃、金田君がワタシの机の前に来た。
「妃花」
「何」
「これ」
机の上に、小さな箱が置かれた。
白い包み紙。
青い紐。
ワタシのリボンと同じ青。
その時点で、胸の奥が変な音を立てた。
「何これ」
「開けて」
「説明しなさいよ」
「見た方が早い」
「そういうところよ」
ワタシは箱を睨んだ。
金田君は立っている。
いつもの顔。
なんでもない顔。
腹立つ。
ワタシは箱を開けた。
中には、青い紐飾りが入っていた。
学校につけているリボンより、少しだけ細い。
でも、色は似ている。
ただ、少し深い青だった。
朱色の髪に合うような色。
派手すぎない。
でも、ちゃんと目立つ。
ワタシがつけたら、たぶん似合う。
……たぶんではない。
似合う。
その下に、小さな紙。
金田君の字。
『リボンが切れた時の予備』
ワタシは動けなくなった。
予備。
リボンの予備。
切れた時の。
何それ。
どうして。
「この前、端、ほつれてた」
金田君が言った。
「切れたら困ると思って」
それだけだった。
それだけ言って、金田君は黙った。
説明終わり、みたいな顔をしていた。
終わっていない。
全然終わっていない。
いつ見たの。
どうして覚えていたの。
なんで黙って用意したの。
なんで今渡すの。
なんでさっき、他の女の子に折り紙を教えていたの。
ワタシのリボンは見ていたの。
見ていたなら言いなさいよ。
言わないなら見ないでよ。
でも見なさいよ。
箱を持つ指に力が入った。
胸の中が、いっぱいになった。
嬉しい。
すごく嬉しい。
でも、腹立つ。
今すぐ金田君に箱を押し返したい。
でも、絶対に返したくない。
壊したくない。
でも手に力が入る。
箱が、みし、と鳴った。
金田君が、すっと手を出した。
箱とワタシの指の間に、自分の手を入れる。
無理に奪わない。
ただ、挟む。
「壊れる」
その一言で、もう駄目だった。
「……は?」
金田君が、少し目を開いた。
「は??」
「妃花?」
「は???」
何。
何なの。
何でそんなことを言うの。
何でそんなことをするの。
箱が壊れるのはわかっている。
わかっているのに、止められないのが怖いのよ。
それを、そんなふうに手で止めるな。
嬉しいでしょうが。
腹立つでしょうが。
「あなた、何なのよ!」
声が大きくなった。
教室の端にいた子がこちらを見る。
金田君は、手を少しだけ引っ込めた。
「嫌だった?」
「そういうことじゃないわよ!」
「ごめん」
「謝るな!」
「うん」
「何で謝るの!」
「怒ってるから」
「怒ってるわよ!」
「うん」
「でも、そういうことじゃないの!」
「……うん」
うんじゃない。
わかっていない。
たぶん、わかっていない。
でも、ワタシもわかっていない。
わかっていないのに、金田君が静かにしているのが腹立つ。
ワタシだけが、わからないみたいで。
ワタシだけが、ぐちゃぐちゃみたいで。
嫌だった。
「もういい」
「妃花」
「もう帰る」
「家?」
「本家」
金田君が止まった。
「本家?」
「そうよ」
「なんで」
「帰るからよ!」
箱を置こうとした。
でも置けなかった。
置いていけなかった。
腹立つ。
何で持って帰るの。
ワタシ。
何で。
ランドセルを背負う。
箱を抱える。
扉の前で振り返る。
金田君は立っていた。
追ってこない。
何で追ってこないの。
追ってこないでとは、まだ言っていないのに。
いや、追ってきたら怒る。
でも追ってきなさいよ。
「婚約は破棄よ」
言ってしまった。
教室がしんとなった。
金田君は、少しだけ目を開いた。
五歳の時の契約。
折り紙の裏に、赤いクレヨンで書いたやつ。
金田君は、ほかの女の子と結婚しない。
ワタシも、ほかの男の子と結婚しない。
ココアは牛乳多め。
猫の絆創膏。
置いていかない。
戻ってくる。
あれを、破棄すると言った。
小学生の言う婚約破棄。
でも、ワタシたちには本気だった。
「……そっか」
金田君は言った。
そっか。
そっか?
そっかじゃない。
止めなさい。
怒りなさい。
何で、と聞きなさい。
でも、今聞かれたら答えられない。
だからワタシは、さらにおかしなことを言った。
「追いかけてこないで」
「うん」
「でも」
「うん」
「あとで来なさい」
言った瞬間、自分でも変だと思った。
追いかけてくるな。
でも、来い。
何それ。
何なの、ワタシ。
金田君は、少しだけ頷いた。
「わかった」
「……っ」
わかったじゃない。
もう嫌。
ワタシは教室を出た。
青い紐飾りの箱を抱えたまま。
*
本家は、いつ来ても大きい。
門も、石畳も、庭も、廊下も、座敷も。
全部が大きい。
全部が静か。
ここに来ると、ワタシは声を小さくしなければいけない気がする。
手にも、もっと気をつけなければいけない気がする。
壊したら、高い。
たぶん、とても高い。
祖母は座敷にいた。
背筋の伸びた人。
静かで、怖い人。
でも、ワタシが本当に壊れそうな時だけは、少しだけ声がやわらかくなる人。
「おかえりなさい、妃花」
「ただいま戻りました、お祖母様」
「金田さんと喧嘩を?」
「喧嘩ではありません」
「そう」
「婚約を破棄しに来ました」
祖母は、お茶を置いた。
ゆっくり。
音を立てずに。
「理由は?」
「……」
言えなかった。
リボンの予備をもらったから。
嬉しかったから。
怖くなったから。
金田君が何を考えているかわからないから。
でも、たぶんワタシのことを見ていて。
それが嬉しくて。
腹が立って。
どうしたらいいかわからなくなったから。
言えるわけがない。
「金田君が」
「はい」
「変なことをしました」
「いつものことでは?」
「お祖母様」
「失礼」
祖母は少しだけ笑った。
「嫌でしたか」
「……嫌では」
箱を抱える手に力が入った。
慌てて抜く。
「嫌では、ありません」
「嬉しかった?」
「……」
「怒っている?」
「……はい」
「どちらですか」
「わかりません」
そこだけは、言えた。
祖母は、しばらくワタシを見ていた。
「では、今日は休みなさい」
「婚約破棄は」
「明日でもできます」
「でも」
「疲れている時に契約を破るものではありません」
「……はい」
「その箱は?」
ワタシは、ぎくりとした。
「……関係ありません」
「そう」
祖母はそれ以上聞かなかった。
それが少し助かった。
部屋に通されて、ワタシは箱を机に置いた。
開ける。
青い紐飾り。
きれい。
腹立つ。
似合うと思って選んだのだろうか。
それとも、ただ予備として便利だから選んだのだろうか。
わからない。
金田君は、いつもわからない。
「……ばか」
小さく言った。
でも、箱は閉じなかった。
*
次の日。
御曹司が来た。
御曹司、と呼んでいるけれど、別に王子様ではない。
ただ、家が大きい。
お金もある。
本家と付き合いのある家の子で、何度か集まりで会ったことがある。
ワタシより少し年上。
いつもきちんとした服を着ている。
背筋を伸ばして、大人みたいに話す。
大人からは「しっかりしたお子さん」と言われる。
本人も、そう言われることに慣れている顔をしていた。
でも、ワタシを見る時だけ、少し違った。
まっすぐ見る。
じっと見る。
きれいなものを見つけたような目。
欲しいものを見つけたような目。
その目は、嫌いではなかった。
嫌いではないけれど、苦手だった。
その子は、前からワタシに話しかけてきた。
「妃花さんは、すごいですね」
「妃花さんなら、もっと大きな場に立てます」
「僕なら、あなたの力になれると思います」
いつも、そういうことを言う。
丁寧。
まっすぐ。
でも、どこか高いところから手を差し出してくるみたいだった。
金田君は、そういうことを言わない。
ワタシが木の根につまずきそうになると、黙って手を出す。
ワタシが怒ると、少し離れる。
ワタシが壊しそうになると、物をどかす。
どちらが正しいのかは、わからない。
ただ、御曹司の言葉はきれいで、金田君の手は近かった。
その日、御曹司は大人たちと一緒に来た。
表向きは挨拶。
お見合い前の面談。
そんな言葉を、大人たちが使っていた。
ワタシは座敷に座らされた。
青い紐飾りをつけていた。
つけてしまった。
本家用の髪飾りもあったのに。
あの箱の中のものを、つけてしまった。
意味がわからない。
自分が。
「妃花さん」
御曹司はにこやかに言った。
「お会いできて嬉しいです」
「ご機嫌よう」
「急な訪問になってしまって、申し訳ありません」
申し訳ないと言いながら、声は少し弾んでいた。
嬉しそうだった。
勝てると思っているような顔だった。
でも、その顔の奥に、少しだけ固さもあった。
ワタシは、それが何なのかわからなかった。
「妃花さんのお話は、よく伺っています」
「そうですか」
「強くて、優秀で、綺麗で」
「……」
「僕は、あなたのような人に、もっと相応しい場所があると思います」
相応しい場所。
その言葉は、前にも聞いたことがある。
この子はいつも、そういう言い方をする。
悪気はないのかもしれない。
でも、息が少し詰まる。
「僕なら、あなたをちゃんと支えられます」
「……」
「あなたの家のことも、力になれると思います」
大人たちが、少しだけ動いた。
表向きの家業。
一部の赤字。
子供のワタシにも、何となくわかるくらいには、その話題は重かった。
御曹司は、そこを見ていた。
大人の言葉を使って。
大人の席で。
自分が勝てる場所を選んで。
「金田君、でしたか」
ワタシの指が止まった。
「幼馴染だと聞いています」
「ええ」
「子供の約束は、大切だと思います」
御曹司は言った。
「でも、約束だけでは守れないものもあります」
ワタシは何も言わなかった。
「彼は、普通の子でしょう」
普通。
その言葉は、座敷の中でやけに響いた。
「妃花さんは、普通ではありません」
「……」
「だから、普通の子では難しいと思います」
御曹司は、ワタシを見ていた。
きれいなものを見る目。
欲しいものを見る目。
そして、少しだけ焦った目。
「彼では、あなたを扱えない」
膝の上の手に、力が入りそうになった。
扱う。
扱う?
ワタシを?
何それ。
御曹司は、きっと悪い意味で言ったのではない。
でも、その言葉は嫌だった。
すごく嫌だった。
金田君は、ワタシを扱うなんて言わない。
怒った時も。
壊した時も。
怖がった時も。
ただ、横にいる。
でも。
その金田君は、今ここにいない。
来るのだろうか。
昨日、来なさいと言った。
でも、来ないかもしれない。
そっか、で終わったのかもしれない。
婚約破棄と言ったのはワタシだ。
嫌と言ったのもワタシだ。
もし来なかったら。
胸の中が、冷たくなりかけた時だった。
廊下の向こうが少し騒がしくなった。
使用人の足音。
低い声。
祖母が、少しだけ目を上げる。
「……金田様が、お見えです」
心臓が跳ねた。
来た。
来た。
来た。
馬鹿。
遅い。
早い。
来なくていい。
来なさいよ。
来た。
御曹司の顔が固くなった。
祖母が言う。
「通しなさい」
襖が開いた。
金田君が入ってきた。
制服ではなく、よそ行きの服。
髪も少し整えている。
顔はいつも通り。
でも、少し白い。
緊張しているのかもしれない。
金田君は座敷の入口で正座し、頭を下げた。
「お邪魔します」
祖母が静かに言った。
「金田さん。今日は何をしに?」
金田君は顔を上げた。
ほんの少し、ワタシを見た。
すぐに祖母を見る。
「妃花を迎えに来ました」
座敷の空気が止まった。
ワタシは顔を動かさなかった。
動かさなかったつもりだった。
心臓はうるさい。
でも、顔は動かさない。
「妃花」
金田君が言った。
「戻ってきてくれ」
それだけだった。
説明もない。
長い言葉もない。
ただ、戻ってきてくれ。
腹立つ。
何なの。
それで足りると思っているの。
それしか言えないの。
それを言われて嬉しいワタシは何なの。
「嫌」
口から出た。
思ったより冷たい声だった。
「戻らないわ」
金田君は、少しだけ目を伏せた。
でも、帰らなかった。
「お願い」
「嫌」
「戻ってきて」
「嫌よ」
「妃花」
「嫌!」
声が大きくなった。
座敷が静まり返った。
ワタシは自分の声に驚いた。
御曹司の口元が、少しだけ上がった。
勝ったような顔。
でも、その顔はすぐに少し歪んだ。
嬉しそうなのに、どこか苦しそうだった。
「金田君」
御曹司が言った。
「さすがに見苦しいぞ」
金田君は、御曹司を見なかった。
ワタシだけを見ている。
「ここまで拒まれたなら、潔さを見せたまえ」
御曹司の声が、大きくなる。
大人たちに聞かせるように。
「君はもう、妃花さんに選ばれていない。子供の約束にすがるのはやめるべきだ」
ワタシは何か言おうとした。
でも、その前に。
金田君が動いた。
座敷の入口から、少しだけ前に出る。
膝をつく。
両手を畳につく。
頭を下げる。
土下座だった。
衆目の中で。
本家の座敷で。
祖母の前で。
親族たちの前で。
御曹司の前で。
金田君は、ただ、ひざまずいた。
かっこよくなかった。
きれいでもなかった。
小学生がすることではなかった。
でも。
「妃花」
金田君は、頭を下げたまま言った。
「戻ってきてくれ」
その瞬間、ワタシの中で何かが切れた。
ぷつん、と。
怒りなのか。
我慢なのか。
怖さなのか。
嬉しさなのか。
わからない。
全部かもしれない。
金田君が、ワタシの前で、そんな姿をしている。
ワタシに戻ってきてほしいと言っている。
土下座している。
は?
は??
は???
何してるの。
馬鹿なの。
何でそこまでするの。
何でそんなことをされて、ワタシは嬉しいの。
何でこんなに腹が立つの。
何で泣きそうなの。
何で。
「誰か」
御曹司の声が響いた。
「この者をつまみ出せ!」
その瞬間、ワタシは立ち上がっていた。
座布団が後ろへずれる。
畳がきしむ。
御曹司がこちらを見る。
ワタシは金田君のところへ歩いた。
ずかずかと。
「金田君」
自分でも驚くくらい、低い声だった。
「頭を上げなさい」
金田君は動かない。
「頭を上げなさい」
「妃花」
「上げなさい」
金田君は顔を上げた。
いつもの顔。
でも、少し白い。
目だけがまっすぐだった。
その顔を見た瞬間。
ぱん。
音がした。
ワタシの手が、金田君の頬を打っていた。
座敷が凍った。
金田君の顔が横を向く。
頬が赤く腫れる。
口の端が少し切れた。
血が滲む。
金田君以外の全員が驚いた。
祖母も。
親族も。
御曹司も。
使用人も。
そして、ワタシも。
ワタシも驚いた。
何をしているの。
何をしているの、ワタシ。
金田君は、ゆっくりこちらを向いた。
痛かったはずだ。
怖かったはずだ。
でも、泣かなかった。
怒らなかった。
謝りもしなかった。
腫れた頬のまま、口の端を切ったまま、ワタシを見た。
「妃花」
「……」
「戻ってきてくれ」
また。
また、それだけ。
ワタシの中で、今度は別のものが壊れた。
怒りなのか。
好きなのか。
怖さなのか。
わからない。
でも、これだけはわかった。
この男は馬鹿だ。
大馬鹿だ。
そして、ワタシはこの馬鹿のところに戻る。
「……ほとほと」
声が震えた。
「ほとほと、愛想が尽き果てました」
金田君が、少しだけ目を伏せた。
違う。
違うから。
最後まで聞きなさい。
「結構です」
御曹司が息を呑む。
「お見合いは中止」
座敷の空気が変わる。
「ワタシも、あなたのところに戻ります」
金田君の目が、ほんの少し開いた。
「これでいいのかしら?」
誰も何も言わなかった。
金田君は、腫れた頬で、口の端を切ったまま、短く言った。
「……ありがとう」
「〜っ!」
何それ。
何その一言。
怒れない。
いや、怒る。
怒っている。
でも、今の「ありがとう」はずるい。
何に対して?
戻ると言ったこと?
叩いたのに、まだ迎えに来たこと?
それとも、ワタシが金田君を選んだこと?
わからない。
でも腹立つ。
顔が熱い。
泣きそう。
絶対に泣かない。
「立ちなさい」
「うん」
金田君が立とうとして、少しふらついた。
ワタシは反射的に手を伸ばした。
支える。
「大丈夫?」
「うん」
「頬」
「痛い」
「でしょうね!」
「でも大丈夫」
「大丈夫ではないわよ!」
「妃花の手は?」
「あなたが聞くことじゃない!」
「赤い?」
「赤いわよ!」
「痛い?」
「痛いに決まってるでしょう!」
「そっか」
「そっかじゃない!」
懐紙を出す。
手が震える。
金田君の口元の血を拭こうとして、力がわからなくなる。
「動かないで」
「うん」
「痛かったら言いなさい」
「うん」
「さっきのは」
「うん」
「ワタシが悪いわ」
「うん」
「でもあなたも悪い」
「うん」
「土下座するから」
「うん」
「そんなことするから」
「うん」
「何でそこまでするのよ」
金田君は少し黙った。
「戻ってきてほしかった」
「それは聞いたわ!」
「うん」
「それ以外!」
「……わからない」
「は?」
「でも、戻ってきてほしかった」
言葉が足りない。
全然足りない。
でも、その足りない言葉だけで、もう十分だった。
十分すぎて、腹が立った。
やめてほしい。
でも、やめないでほしい。
「次に土下座したら、もう一回叩くわよ」
「うん」
「うんじゃない!」
祖母が、静かに言った。
「本日の面談は、ここまでといたしましょう」
大人たちが動き出した。
御曹司の家の人たちが頭を下げる。
御曹司は、立ち尽くしていた。
頬を叩かれたわけでもないのに、真っ白な顔をしていた。
彼は最後に、金田君を見た。
それから、ワタシを見た。
悔しそうだった。
でも、怒っているだけではなかった。
何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。
ただ、頭を下げた。
ワタシも、軽く頭を下げた。
それで終わりだった。
*
御曹司たちが帰った後。
ワタシと金田君は、縁側に座らされた。
祖母によって。
逃げ場なし。
使用人が手当ての道具を持ってきた。
なぜか猫柄の絆創膏もあった。
金田君のポケットから出てきた。
「金田君」
「うん」
「あなた、本家に婚約者を迎えに来る時も猫の絆創膏を持っていたの」
「妃花が手、赤くするかもと思って」
「っ」
やめて。
今やめて。
もう十分に心臓を殴られている。
「あなたの手当てが先よ」
「俺は平気」
「頬が腫れてる」
「うん」
「口が切れてる」
「うん」
「うんじゃない」
濡らした手ぬぐいで、金田君の口元を拭く。
そっと。
力を入れないように。
「痛い?」
「少し」
「……」
「妃花?」
「次からは、痛いことをされたらちゃんと言いなさい」
「うん」
「ワタシがやった時も」
「うん」
「ワタシが悪い時は、ワタシが悪いって言うの」
「うん」
「でも、ワタシだけ悪いみたいにしない」
「うん」
「あなたも悪い」
「うん」
「土下座したから」
「うん」
「ワタシをあんな気持ちにしたから」
「うん」
祖母は静かに聞いていた。
ワタシは手ぬぐいを握った。
絞りすぎないように。
「金田君」
「うん」
「どうして、土下座なんてしたの」
「戻ってきてほしかった」
「それは聞いた」
「うん」
「それだけ?」
金田君は、少し考えた。
「妃花、怖かったと思った」
「……」
「怒ってるのと、嬉しいのと」
「……」
「わからなくなってた」
「……」
「俺が、急に渡したから」
胸が痛くなった。
やめて。
そこを言うな。
ワタシが一番わからなくて、一番言えなかったところ。
怒っていた。
嬉しかった。
好きが大きすぎて怖かった。
その嬉しさが怖かった。
自分が壊れそうだった。
だから本家に逃げた。
婚約破棄なんて言った。
「だから、迎えに来た」
「……土下座で?」
「戻ってきてほしかった」
「説明になっていないわ」
「うん」
「あなた、ほんとうに馬鹿ね」
「うん」
「そこでうんって言うな」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
祖母が静かに言った。
「妃花」
「はい」
「叩いたことは、あなたが悪い」
「……はい」
「金田さん」
「はい」
「土下座で相手に選択を迫ることも、良いことではありません」
「……はい」
「ですが」
祖母は少しだけ目を細めた。
「大切なのは、その後です」
ワタシも金田君も黙っていた。
「壊したものを、そのままにしないこと」
その言葉の意味は、その時はまだ全部わからなかった。
ただ、胸に残った。
金田君も、たぶん覚えていた。
祖母は金田君を見た。
「金田さん」
「はい」
「妃花は難しいでしょう」
「はい」
「金田君!?」
「でも」
金田君は、腫れた頬のまま言った。
「嫌じゃないです」
「っ」
やめなさい。
本家で。
祖母の前で。
その顔で。
やめなさい。
「面倒です」
「金田君?」
「怒るし、本家に帰るし、婚約破棄って言うし、叩くし」
「今日のことをすぐ混ぜるな!」
「でも、戻ってくれた」
「……」
「だから、嫌じゃない」
ワタシは手ぬぐいを顔に押し当てたくなった。
耐えた。
濡れているから。
祖母が静かに頷く。
「では、金田さん。これからも妃花をよろしくお願いします」
「はい」
「妃花」
「……はい」
「金田さんをよろしくお願いします」
ワタシは、金田君を見た。
頬を腫らして、口の端を切った、馬鹿な小学生。
ワタシを迎えに来て、嫌だと言われても、土下座して、戻ってきてくれとしか言わなかった男の子。
ワタシの怒りも、怖さも、好きも、まだ全部はわかっていないくせに。
それでも、来た。
腹立つ。
嬉しい。
大好き。
いや、今は言わない。
「当然です」
ワタシは言った。
「ワタシの旦那なので」
「小学生だけど」
金田君が言った。
「禁止」
「うん」
*
帰り道。
金田君は、本家からワタシを連れて帰ることになった。
祖母が「きちんと送ってもらいなさい」と言ったから。
門を出る前、祖母がワタシを呼んだ。
「妃花」
「はい」
「帰る場所は、ひとつとは限りません」
「……はい」
「でも、迎えに来る人を軽んじてはいけません」
「わかっています」
「叩いたことは、忘れないように」
「……はい」
祖母は金田君にも言った。
「金田さん」
「はい」
「次に来る時は、土下座ではなく、玄関から」
「はい」
「ただし、覚悟は評価します」
「ありがとうございます」
評価しないで。
いや、評価して。
複雑。
門を出ると、金田君と二人になった。
夕方の空は、まだ少し曇っていた。
石畳を歩く。
少しして、ワタシは手を出した。
金田君は、何も聞かずに握った。
よろしい。
ただし、小学生なので手が小さい。
ワタシの手も小さい。
でも、その時はそれで十分だった。
「金田君」
「うん」
「今日の契約更新よ」
「うん」
「一、本家に迎えに来る時は、まず玄関」
「うん」
「二、土下座は原則禁止」
「うん」
「三、どうしても土下座したい場合は事前申請」
「それは違うと思う」
「黙りなさい」
「うん」
「四、ワタシが嫌と言っても、本当に嫌か確認してもいい」
「難しい」
「難しくてもやりなさい」
「うん」
「五、でも土下座で確認しない」
「うん」
「六、ワタシが叩いたら、痛いと言う」
「うん」
「七、ワタシが悪い時は、ワタシが悪いと言う」
「うん」
「八、でもワタシだけ悪いみたいにしない」
「うん」
「九、あなたが全部悪いみたいにもしない」
「うん」
「十、重いものは半分」
「うん」
「壊したものも半分」
「うん」
「怒った理由も半分」
「うん」
金田君は、少しだけ手を握り返した。
痛くない。
でも、そこにいるとわかる強さ。
「妃花」
「なによ」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
「……」
またそれ。
ずるい。
「金田君」
「うん」
「ワタシは、帰ってきたんじゃないわ」
「違うの?」
「あなたが迎えに来たから、戻ってあげたの」
「うん」
「勘違いしないで」
「うん」
「次は、もっと早く来なさい」
「うん」
「土下座はしない」
「うん」
「ココアは?」
「帰ったら作る」
「牛乳多め」
「うん」
「マシュマロ三個」
「うん」
「猫のタオルケットも」
「持ってくる」
「よろしい」
ワタシは前を向いたまま、金田君の手を握り直した。
あの日、座敷で土下座していた金田君は、情けなかった。
馬鹿だった。
最低だった。
でも、ワタシを迎えに来た。
それだけで、全部がひっくり返った。
御曹司の言葉も。
見合いも。
本家の空気も。
ワタシの婚約破棄も。
全部。
だから、ワタシは戻った。
金田君のところに。
腹立つ。
嬉しい。
大好き。
でも、今は言わない。
口で言うのは悔しいから。
代わりに、手を離さなかった。
夫婦なので。