倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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番外編 青い予備と土下座とビンタ

 小学校高学年のワタシは、今より少しだけ小さかった。

 

 背も。

 

 手も。

 

 声も。

 

 我慢の器も。

 

 今なら、まだわかる。

 

 ムカつく。

 

 腹立つ。

 

 嫉妬。

 

 不安。

 

 嬉しい。

 

 好き。

 

 大好き。

 

 そういうものが、全部ぐちゃぐちゃになって、喉の奥で熱くなる時がある。

 

 今なら、まあ、多少は分類できる。

 

 多少は。

 

 かなり怪しいけれど。

 

 でも、小学生のワタシには無理だった。

 

 怒っていると思った。

 

 でも嬉しかった。

 

 嬉しいと思ったら、怖かった。

 

 怖いと思ったら、手に力が入った。

 

 手に力が入ると、物が壊れた。

 

 だからワタシは、よく怒っていた。

 

 怒っている方が、まだわかりやすかったから。

 

 金田君は、その頃からよくわからない男の子だった。

 

 今もよくわからない時はある。

 

 あるけれど、昔はもっとわからなかった。

 

 何を考えているのか、顔に出ない。

 

 怒っているのか、困っているのか、嬉しいのか、楽しいのか。

 

 見ているのか。

 

 見ていないのか。

 

 そばにいるのか。

 

 少し離れているのか。

 

 意味がわからない。

 

 でも、ワタシが転びそうになると手が出る。

 

 給食の牛乳が減らない日は、パンを半分くれる。

 

 ワタシが机を叩きそうになると、先に筆箱をどかす。

 

 ワタシが「もう知らない」と言うと、本当に近づいてこない。

 

 でも、少し後ろにはいる。

 

 何なの。

 

 いなくなるなら、いなくなればいい。

 

 いるなら、ちゃんといればいい。

 

 どっちなの。

 

 はっきりしなさいよ。

 

 言いなさいよ。

 

 でも、言われたらたぶん困る。

 

 だから、やっぱり言わなくていい。

 

 でも言いなさい。

 

 つまり。

 

 小学生のワタシは、かなり面倒くさかった。

 

 今?

 

 今はもっと高度に面倒くさいだけよ。

 

     *

 

 その日の放課後、ワタシは機嫌が悪かった。

 

 理由はあった。

 

 でも、その時のワタシには、それが理由だとわからなかった。

 

 金田君が、クラスの女の子に折り紙を教えていた。

 

 ただそれだけ。

 

 その子は鶴の首がうまく折れなくて、金田君に聞いた。

 

 金田君は横から少し手を出して、

 

「ここ、反対」

 

「え、こう?」

 

「うん。そこ」

 

 と、短く言った。

 

 それだけ。

 

 悪くない。

 

 別に何も悪くない。

 

 金田君は手先がそこそこ器用だったし、聞かれたから答えただけ。

 

 わかっている。

 

 わかっているけれど。

 

 その女の子が笑った。

 

「金田くんって、やさしいね」

 

 ぱき、と音がした。

 

 ワタシの鉛筆が折れた音だった。

 

 隣の席の子がびくっとした。

 

 ワタシも少しびくっとした。

 

 鉛筆は悪くない。

 

 申し訳ない。

 

 でも、今のは鉛筆にも覚悟してほしかった。

 

 無理?

 

 そうね。

 

 鉛筆は悪くないわね。

 

 金田君は、何も言わなかった。

 

 嬉しそうにも、照れたようにも、困ったようにも見えなかった。

 

 ただ、折り目を押さえていた。

 

 そこも腹立つ。

 

 何か言いなさいよ。

 

 「そんなことない」とか。

 

 「妃花の方が知ってる」とか。

 

 いや、最後のは言わなくていい。

 

 言ったら困る。

 

 でも言いなさい。

 

 ワタシの方を見なさい。

 

 見る必要はない。

 

 でも見なさい。

 

 意味がわからない。

 

 ワタシが。

 

 放課後。

 

 教室に残っていた子が少なくなった頃、金田君がワタシの机の前に来た。

 

「妃花」

 

「何」

 

「これ」

 

 机の上に、小さな箱が置かれた。

 

 白い包み紙。

 

 青い紐。

 

 ワタシのリボンと同じ青。

 

 その時点で、胸の奥が変な音を立てた。

 

「何これ」

 

「開けて」

 

「説明しなさいよ」

 

「見た方が早い」

 

「そういうところよ」

 

 ワタシは箱を睨んだ。

 

 金田君は立っている。

 

 いつもの顔。

 

 なんでもない顔。

 

 腹立つ。

 

 ワタシは箱を開けた。

 

 中には、青い紐飾りが入っていた。

 

 学校につけているリボンより、少しだけ細い。

 

 でも、色は似ている。

 

 ただ、少し深い青だった。

 

 朱色の髪に合うような色。

 

 派手すぎない。

 

 でも、ちゃんと目立つ。

 

 ワタシがつけたら、たぶん似合う。

 

 ……たぶんではない。

 

 似合う。

 

 その下に、小さな紙。

 

 金田君の字。

 

『リボンが切れた時の予備』

 

 ワタシは動けなくなった。

 

 予備。

 

 リボンの予備。

 

 切れた時の。

 

 何それ。

 

 どうして。

 

「この前、端、ほつれてた」

 

 金田君が言った。

 

「切れたら困ると思って」

 

 それだけだった。

 

 それだけ言って、金田君は黙った。

 

 説明終わり、みたいな顔をしていた。

 

 終わっていない。

 

 全然終わっていない。

 

 いつ見たの。

 

 どうして覚えていたの。

 

 なんで黙って用意したの。

 

 なんで今渡すの。

 

 なんでさっき、他の女の子に折り紙を教えていたの。

 

 ワタシのリボンは見ていたの。

 

 見ていたなら言いなさいよ。

 

 言わないなら見ないでよ。

 

 でも見なさいよ。

 

 箱を持つ指に力が入った。

 

 胸の中が、いっぱいになった。

 

 嬉しい。

 

 すごく嬉しい。

 

 でも、腹立つ。

 

 今すぐ金田君に箱を押し返したい。

 

 でも、絶対に返したくない。

 

 壊したくない。

 

 でも手に力が入る。

 

 箱が、みし、と鳴った。

 

 金田君が、すっと手を出した。

 

 箱とワタシの指の間に、自分の手を入れる。

 

 無理に奪わない。

 

 ただ、挟む。

 

「壊れる」

 

 その一言で、もう駄目だった。

 

「……は?」

 

 金田君が、少し目を開いた。

 

「は??」

 

「妃花?」

 

「は???」

 

 何。

 

 何なの。

 

 何でそんなことを言うの。

 

 何でそんなことをするの。

 

 箱が壊れるのはわかっている。

 

 わかっているのに、止められないのが怖いのよ。

 

 それを、そんなふうに手で止めるな。

 

 嬉しいでしょうが。

 

 腹立つでしょうが。

 

「あなた、何なのよ!」

 

 声が大きくなった。

 

 教室の端にいた子がこちらを見る。

 

 金田君は、手を少しだけ引っ込めた。

 

「嫌だった?」

 

「そういうことじゃないわよ!」

 

「ごめん」

 

「謝るな!」

 

「うん」

 

「何で謝るの!」

 

「怒ってるから」

 

「怒ってるわよ!」

 

「うん」

 

「でも、そういうことじゃないの!」

 

「……うん」

 

 うんじゃない。

 

 わかっていない。

 

 たぶん、わかっていない。

 

 でも、ワタシもわかっていない。

 

 わかっていないのに、金田君が静かにしているのが腹立つ。

 

 ワタシだけが、わからないみたいで。

 

 ワタシだけが、ぐちゃぐちゃみたいで。

 

 嫌だった。

 

「もういい」

 

「妃花」

 

「もう帰る」

 

「家?」

 

「本家」

 

 金田君が止まった。

 

「本家?」

 

「そうよ」

 

「なんで」

 

「帰るからよ!」

 

 箱を置こうとした。

 

 でも置けなかった。

 

 置いていけなかった。

 

 腹立つ。

 

 何で持って帰るの。

 

 ワタシ。

 

 何で。

 

 ランドセルを背負う。

 

 箱を抱える。

 

 扉の前で振り返る。

 

 金田君は立っていた。

 

 追ってこない。

 

 何で追ってこないの。

 

 追ってこないでとは、まだ言っていないのに。

 

 いや、追ってきたら怒る。

 

 でも追ってきなさいよ。

 

「婚約は破棄よ」

 

 言ってしまった。

 

 教室がしんとなった。

 

 金田君は、少しだけ目を開いた。

 

 五歳の時の契約。

 

 折り紙の裏に、赤いクレヨンで書いたやつ。

 

 金田君は、ほかの女の子と結婚しない。

 

 ワタシも、ほかの男の子と結婚しない。

 

 ココアは牛乳多め。

 

 猫の絆創膏。

 

 置いていかない。

 

 戻ってくる。

 

 あれを、破棄すると言った。

 

 小学生の言う婚約破棄。

 

 でも、ワタシたちには本気だった。

 

「……そっか」

 

 金田君は言った。

 

 そっか。

 

 そっか?

 

 そっかじゃない。

 

 止めなさい。

 

 怒りなさい。

 

 何で、と聞きなさい。

 

 でも、今聞かれたら答えられない。

 

 だからワタシは、さらにおかしなことを言った。

 

「追いかけてこないで」

 

「うん」

 

「でも」

 

「うん」

 

「あとで来なさい」

 

 言った瞬間、自分でも変だと思った。

 

 追いかけてくるな。

 

 でも、来い。

 

 何それ。

 

 何なの、ワタシ。

 

 金田君は、少しだけ頷いた。

 

「わかった」

 

「……っ」

 

 わかったじゃない。

 

 もう嫌。

 

 ワタシは教室を出た。

 

 青い紐飾りの箱を抱えたまま。

 

     *

 

 本家は、いつ来ても大きい。

 

 門も、石畳も、庭も、廊下も、座敷も。

 

 全部が大きい。

 

 全部が静か。

 

 ここに来ると、ワタシは声を小さくしなければいけない気がする。

 

 手にも、もっと気をつけなければいけない気がする。

 

 壊したら、高い。

 

 たぶん、とても高い。

 

 祖母は座敷にいた。

 

 背筋の伸びた人。

 

 静かで、怖い人。

 

 でも、ワタシが本当に壊れそうな時だけは、少しだけ声がやわらかくなる人。

 

「おかえりなさい、妃花」

 

「ただいま戻りました、お祖母様」

 

「金田さんと喧嘩を?」

 

「喧嘩ではありません」

 

「そう」

 

「婚約を破棄しに来ました」

 

 祖母は、お茶を置いた。

 

 ゆっくり。

 

 音を立てずに。

 

「理由は?」

 

「……」

 

 言えなかった。

 

 リボンの予備をもらったから。

 

 嬉しかったから。

 

 怖くなったから。

 

 金田君が何を考えているかわからないから。

 

 でも、たぶんワタシのことを見ていて。

 

 それが嬉しくて。

 

 腹が立って。

 

 どうしたらいいかわからなくなったから。

 

 言えるわけがない。

 

「金田君が」

 

「はい」

 

「変なことをしました」

 

「いつものことでは?」

 

「お祖母様」

 

「失礼」

 

 祖母は少しだけ笑った。

 

「嫌でしたか」

 

「……嫌では」

 

 箱を抱える手に力が入った。

 

 慌てて抜く。

 

「嫌では、ありません」

 

「嬉しかった?」

 

「……」

 

「怒っている?」

 

「……はい」

 

「どちらですか」

 

「わかりません」

 

 そこだけは、言えた。

 

 祖母は、しばらくワタシを見ていた。

 

「では、今日は休みなさい」

 

「婚約破棄は」

 

「明日でもできます」

 

「でも」

 

「疲れている時に契約を破るものではありません」

 

「……はい」

 

「その箱は?」

 

 ワタシは、ぎくりとした。

 

「……関係ありません」

 

「そう」

 

 祖母はそれ以上聞かなかった。

 

 それが少し助かった。

 

 部屋に通されて、ワタシは箱を机に置いた。

 

 開ける。

 

 青い紐飾り。

 

 きれい。

 

 腹立つ。

 

 似合うと思って選んだのだろうか。

 

 それとも、ただ予備として便利だから選んだのだろうか。

 

 わからない。

 

 金田君は、いつもわからない。

 

「……ばか」

 

 小さく言った。

 

 でも、箱は閉じなかった。

 

     *

 

 次の日。

 

 御曹司が来た。

 

 御曹司、と呼んでいるけれど、別に王子様ではない。

 

 ただ、家が大きい。

 

 お金もある。

 

 本家と付き合いのある家の子で、何度か集まりで会ったことがある。

 

 ワタシより少し年上。

 

 いつもきちんとした服を着ている。

 

 背筋を伸ばして、大人みたいに話す。

 

 大人からは「しっかりしたお子さん」と言われる。

 

 本人も、そう言われることに慣れている顔をしていた。

 

 でも、ワタシを見る時だけ、少し違った。

 

 まっすぐ見る。

 

 じっと見る。

 

 きれいなものを見つけたような目。

 

 欲しいものを見つけたような目。

 

 その目は、嫌いではなかった。

 

 嫌いではないけれど、苦手だった。

 

 その子は、前からワタシに話しかけてきた。

 

「妃花さんは、すごいですね」

 

「妃花さんなら、もっと大きな場に立てます」

 

「僕なら、あなたの力になれると思います」

 

 いつも、そういうことを言う。

 

 丁寧。

 

 まっすぐ。

 

 でも、どこか高いところから手を差し出してくるみたいだった。

 

 金田君は、そういうことを言わない。

 

 ワタシが木の根につまずきそうになると、黙って手を出す。

 

 ワタシが怒ると、少し離れる。

 

 ワタシが壊しそうになると、物をどかす。

 

 どちらが正しいのかは、わからない。

 

 ただ、御曹司の言葉はきれいで、金田君の手は近かった。

 

 その日、御曹司は大人たちと一緒に来た。

 

 表向きは挨拶。

 

 お見合い前の面談。

 

 そんな言葉を、大人たちが使っていた。

 

 ワタシは座敷に座らされた。

 

 青い紐飾りをつけていた。

 

 つけてしまった。

 

 本家用の髪飾りもあったのに。

 

 あの箱の中のものを、つけてしまった。

 

 意味がわからない。

 

 自分が。

 

「妃花さん」

 

 御曹司はにこやかに言った。

 

「お会いできて嬉しいです」

 

「ご機嫌よう」

 

「急な訪問になってしまって、申し訳ありません」

 

 申し訳ないと言いながら、声は少し弾んでいた。

 

 嬉しそうだった。

 

 勝てると思っているような顔だった。

 

 でも、その顔の奥に、少しだけ固さもあった。

 

 ワタシは、それが何なのかわからなかった。

 

「妃花さんのお話は、よく伺っています」

 

「そうですか」

 

「強くて、優秀で、綺麗で」

 

「……」

 

「僕は、あなたのような人に、もっと相応しい場所があると思います」

 

 相応しい場所。

 

 その言葉は、前にも聞いたことがある。

 

 この子はいつも、そういう言い方をする。

 

 悪気はないのかもしれない。

 

 でも、息が少し詰まる。

 

「僕なら、あなたをちゃんと支えられます」

 

「……」

 

「あなたの家のことも、力になれると思います」

 

 大人たちが、少しだけ動いた。

 

 表向きの家業。

 

 一部の赤字。

 

 子供のワタシにも、何となくわかるくらいには、その話題は重かった。

 

 御曹司は、そこを見ていた。

 

 大人の言葉を使って。

 

 大人の席で。

 

 自分が勝てる場所を選んで。

 

「金田君、でしたか」

 

 ワタシの指が止まった。

 

「幼馴染だと聞いています」

 

「ええ」

 

「子供の約束は、大切だと思います」

 

 御曹司は言った。

 

「でも、約束だけでは守れないものもあります」

 

 ワタシは何も言わなかった。

 

「彼は、普通の子でしょう」

 

 普通。

 

 その言葉は、座敷の中でやけに響いた。

 

「妃花さんは、普通ではありません」

 

「……」

 

「だから、普通の子では難しいと思います」

 

 御曹司は、ワタシを見ていた。

 

 きれいなものを見る目。

 

 欲しいものを見る目。

 

 そして、少しだけ焦った目。

 

「彼では、あなたを扱えない」

 

 膝の上の手に、力が入りそうになった。

 

 扱う。

 

 扱う?

 

 ワタシを?

 

 何それ。

 

 御曹司は、きっと悪い意味で言ったのではない。

 

 でも、その言葉は嫌だった。

 

 すごく嫌だった。

 

 金田君は、ワタシを扱うなんて言わない。

 

 怒った時も。

 

 壊した時も。

 

 怖がった時も。

 

 ただ、横にいる。

 

 でも。

 

 その金田君は、今ここにいない。

 

 来るのだろうか。

 

 昨日、来なさいと言った。

 

 でも、来ないかもしれない。

 

 そっか、で終わったのかもしれない。

 

 婚約破棄と言ったのはワタシだ。

 

 嫌と言ったのもワタシだ。

 

 もし来なかったら。

 

 胸の中が、冷たくなりかけた時だった。

 

 廊下の向こうが少し騒がしくなった。

 

 使用人の足音。

 

 低い声。

 

 祖母が、少しだけ目を上げる。

 

「……金田様が、お見えです」

 

 心臓が跳ねた。

 

 来た。

 

 来た。

 

 来た。

 

 馬鹿。

 

 遅い。

 

 早い。

 

 来なくていい。

 

 来なさいよ。

 

 来た。

 

 御曹司の顔が固くなった。

 

 祖母が言う。

 

「通しなさい」

 

 襖が開いた。

 

 金田君が入ってきた。

 

 制服ではなく、よそ行きの服。

 

 髪も少し整えている。

 

 顔はいつも通り。

 

 でも、少し白い。

 

 緊張しているのかもしれない。

 

 金田君は座敷の入口で正座し、頭を下げた。

 

「お邪魔します」

 

 祖母が静かに言った。

 

「金田さん。今日は何をしに?」

 

 金田君は顔を上げた。

 

 ほんの少し、ワタシを見た。

 

 すぐに祖母を見る。

 

「妃花を迎えに来ました」

 

 座敷の空気が止まった。

 

 ワタシは顔を動かさなかった。

 

 動かさなかったつもりだった。

 

 心臓はうるさい。

 

 でも、顔は動かさない。

 

「妃花」

 

 金田君が言った。

 

「戻ってきてくれ」

 

 それだけだった。

 

 説明もない。

 

 長い言葉もない。

 

 ただ、戻ってきてくれ。

 

 腹立つ。

 

 何なの。

 

 それで足りると思っているの。

 

 それしか言えないの。

 

 それを言われて嬉しいワタシは何なの。

 

「嫌」

 

 口から出た。

 

 思ったより冷たい声だった。

 

「戻らないわ」

 

 金田君は、少しだけ目を伏せた。

 

 でも、帰らなかった。

 

「お願い」

 

「嫌」

 

「戻ってきて」

 

「嫌よ」

 

「妃花」

 

「嫌!」

 

 声が大きくなった。

 

 座敷が静まり返った。

 

 ワタシは自分の声に驚いた。

 

 御曹司の口元が、少しだけ上がった。

 

 勝ったような顔。

 

 でも、その顔はすぐに少し歪んだ。

 

 嬉しそうなのに、どこか苦しそうだった。

 

「金田君」

 

 御曹司が言った。

 

「さすがに見苦しいぞ」

 

 金田君は、御曹司を見なかった。

 

 ワタシだけを見ている。

 

「ここまで拒まれたなら、潔さを見せたまえ」

 

 御曹司の声が、大きくなる。

 

 大人たちに聞かせるように。

 

「君はもう、妃花さんに選ばれていない。子供の約束にすがるのはやめるべきだ」

 

 ワタシは何か言おうとした。

 

 でも、その前に。

 

 金田君が動いた。

 

 座敷の入口から、少しだけ前に出る。

 

 膝をつく。

 

 両手を畳につく。

 

 頭を下げる。

 

 土下座だった。

 

 衆目の中で。

 

 本家の座敷で。

 

 祖母の前で。

 

 親族たちの前で。

 

 御曹司の前で。

 

 金田君は、ただ、ひざまずいた。

 

 かっこよくなかった。

 

 きれいでもなかった。

 

 小学生がすることではなかった。

 

 でも。

 

「妃花」

 

 金田君は、頭を下げたまま言った。

 

「戻ってきてくれ」

 

 その瞬間、ワタシの中で何かが切れた。

 

 ぷつん、と。

 

 怒りなのか。

 

 我慢なのか。

 

 怖さなのか。

 

 嬉しさなのか。

 

 わからない。

 

 全部かもしれない。

 

 金田君が、ワタシの前で、そんな姿をしている。

 

 ワタシに戻ってきてほしいと言っている。

 

 土下座している。

 

 は?

 

 は??

 

 は???

 

 何してるの。

 

 馬鹿なの。

 

 何でそこまでするの。

 

 何でそんなことをされて、ワタシは嬉しいの。

 

 何でこんなに腹が立つの。

 

 何で泣きそうなの。

 

 何で。

 

「誰か」

 

 御曹司の声が響いた。

 

「この者をつまみ出せ!」

 

 その瞬間、ワタシは立ち上がっていた。

 

 座布団が後ろへずれる。

 

 畳がきしむ。

 

 御曹司がこちらを見る。

 

 ワタシは金田君のところへ歩いた。

 

 ずかずかと。

 

「金田君」

 

 自分でも驚くくらい、低い声だった。

 

「頭を上げなさい」

 

 金田君は動かない。

 

「頭を上げなさい」

 

「妃花」

 

「上げなさい」

 

 金田君は顔を上げた。

 

 いつもの顔。

 

 でも、少し白い。

 

 目だけがまっすぐだった。

 

 その顔を見た瞬間。

 

 ぱん。

 

 音がした。

 

 ワタシの手が、金田君の頬を打っていた。

 

 座敷が凍った。

 

 金田君の顔が横を向く。

 

 頬が赤く腫れる。

 

 口の端が少し切れた。

 

 血が滲む。

 

 金田君以外の全員が驚いた。

 

 祖母も。

 

 親族も。

 

 御曹司も。

 

 使用人も。

 

 そして、ワタシも。

 

 ワタシも驚いた。

 

 何をしているの。

 

 何をしているの、ワタシ。

 

 金田君は、ゆっくりこちらを向いた。

 

 痛かったはずだ。

 

 怖かったはずだ。

 

 でも、泣かなかった。

 

 怒らなかった。

 

 謝りもしなかった。

 

 腫れた頬のまま、口の端を切ったまま、ワタシを見た。

 

「妃花」

 

「……」

 

「戻ってきてくれ」

 

 また。

 

 また、それだけ。

 

 ワタシの中で、今度は別のものが壊れた。

 

 怒りなのか。

 

 好きなのか。

 

 怖さなのか。

 

 わからない。

 

 でも、これだけはわかった。

 

 この男は馬鹿だ。

 

 大馬鹿だ。

 

 そして、ワタシはこの馬鹿のところに戻る。

 

「……ほとほと」

 

 声が震えた。

 

「ほとほと、愛想が尽き果てました」

 

 金田君が、少しだけ目を伏せた。

 

 違う。

 

 違うから。

 

 最後まで聞きなさい。

 

「結構です」

 

 御曹司が息を呑む。

 

「お見合いは中止」

 

 座敷の空気が変わる。

 

「ワタシも、あなたのところに戻ります」

 

 金田君の目が、ほんの少し開いた。

 

「これでいいのかしら?」

 

 誰も何も言わなかった。

 

 金田君は、腫れた頬で、口の端を切ったまま、短く言った。

 

「……ありがとう」

 

「〜っ!」

 

 何それ。

 

 何その一言。

 

 怒れない。

 

 いや、怒る。

 

 怒っている。

 

 でも、今の「ありがとう」はずるい。

 

 何に対して?

 

 戻ると言ったこと?

 

 叩いたのに、まだ迎えに来たこと?

 

 それとも、ワタシが金田君を選んだこと?

 

 わからない。

 

 でも腹立つ。

 

 顔が熱い。

 

 泣きそう。

 

 絶対に泣かない。

 

「立ちなさい」

 

「うん」

 

 金田君が立とうとして、少しふらついた。

 

 ワタシは反射的に手を伸ばした。

 

 支える。

 

「大丈夫?」

 

「うん」

 

「頬」

 

「痛い」

 

「でしょうね!」

 

「でも大丈夫」

 

「大丈夫ではないわよ!」

 

「妃花の手は?」

 

「あなたが聞くことじゃない!」

 

「赤い?」

 

「赤いわよ!」

 

「痛い?」

 

「痛いに決まってるでしょう!」

 

「そっか」

 

「そっかじゃない!」

 

 懐紙を出す。

 

 手が震える。

 

 金田君の口元の血を拭こうとして、力がわからなくなる。

 

「動かないで」

 

「うん」

 

「痛かったら言いなさい」

 

「うん」

 

「さっきのは」

 

「うん」

 

「ワタシが悪いわ」

 

「うん」

 

「でもあなたも悪い」

 

「うん」

 

「土下座するから」

 

「うん」

 

「そんなことするから」

 

「うん」

 

「何でそこまでするのよ」

 

 金田君は少し黙った。

 

「戻ってきてほしかった」

 

「それは聞いたわ!」

 

「うん」

 

「それ以外!」

 

「……わからない」

 

「は?」

 

「でも、戻ってきてほしかった」

 

 言葉が足りない。

 

 全然足りない。

 

 でも、その足りない言葉だけで、もう十分だった。

 

 十分すぎて、腹が立った。

 

 やめてほしい。

 

 でも、やめないでほしい。

 

「次に土下座したら、もう一回叩くわよ」

 

「うん」

 

「うんじゃない!」

 

 祖母が、静かに言った。

 

「本日の面談は、ここまでといたしましょう」

 

 大人たちが動き出した。

 

 御曹司の家の人たちが頭を下げる。

 

 御曹司は、立ち尽くしていた。

 

 頬を叩かれたわけでもないのに、真っ白な顔をしていた。

 

 彼は最後に、金田君を見た。

 

 それから、ワタシを見た。

 

 悔しそうだった。

 

 でも、怒っているだけではなかった。

 

 何か言いたそうにして、結局何も言わなかった。

 

 ただ、頭を下げた。

 

 ワタシも、軽く頭を下げた。

 

 それで終わりだった。

 

     *

 

 御曹司たちが帰った後。

 

 ワタシと金田君は、縁側に座らされた。

 

 祖母によって。

 

 逃げ場なし。

 

 使用人が手当ての道具を持ってきた。

 

 なぜか猫柄の絆創膏もあった。

 

 金田君のポケットから出てきた。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「あなた、本家に婚約者を迎えに来る時も猫の絆創膏を持っていたの」

 

「妃花が手、赤くするかもと思って」

 

「っ」

 

 やめて。

 

 今やめて。

 

 もう十分に心臓を殴られている。

 

「あなたの手当てが先よ」

 

「俺は平気」

 

「頬が腫れてる」

 

「うん」

 

「口が切れてる」

 

「うん」

 

「うんじゃない」

 

 濡らした手ぬぐいで、金田君の口元を拭く。

 

 そっと。

 

 力を入れないように。

 

「痛い?」

 

「少し」

 

「……」

 

「妃花?」

 

「次からは、痛いことをされたらちゃんと言いなさい」

 

「うん」

 

「ワタシがやった時も」

 

「うん」

 

「ワタシが悪い時は、ワタシが悪いって言うの」

 

「うん」

 

「でも、ワタシだけ悪いみたいにしない」

 

「うん」

 

「あなたも悪い」

 

「うん」

 

「土下座したから」

 

「うん」

 

「ワタシをあんな気持ちにしたから」

 

「うん」

 

 祖母は静かに聞いていた。

 

 ワタシは手ぬぐいを握った。

 

 絞りすぎないように。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「どうして、土下座なんてしたの」

 

「戻ってきてほしかった」

 

「それは聞いた」

 

「うん」

 

「それだけ?」

 

 金田君は、少し考えた。

 

「妃花、怖かったと思った」

 

「……」

 

「怒ってるのと、嬉しいのと」

 

「……」

 

「わからなくなってた」

 

「……」

 

「俺が、急に渡したから」

 

 胸が痛くなった。

 

 やめて。

 

 そこを言うな。

 

 ワタシが一番わからなくて、一番言えなかったところ。

 

 怒っていた。

 

 嬉しかった。

 

 好きが大きすぎて怖かった。

 

 その嬉しさが怖かった。

 

 自分が壊れそうだった。

 

 だから本家に逃げた。

 

 婚約破棄なんて言った。

 

「だから、迎えに来た」

 

「……土下座で?」

 

「戻ってきてほしかった」

 

「説明になっていないわ」

 

「うん」

 

「あなた、ほんとうに馬鹿ね」

 

「うん」

 

「そこでうんって言うな」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「うん」

 

 祖母が静かに言った。

 

「妃花」

 

「はい」

 

「叩いたことは、あなたが悪い」

 

「……はい」

 

「金田さん」

 

「はい」

 

「土下座で相手に選択を迫ることも、良いことではありません」

 

「……はい」

 

「ですが」

 

 祖母は少しだけ目を細めた。

 

「大切なのは、その後です」

 

 ワタシも金田君も黙っていた。

 

「壊したものを、そのままにしないこと」

 

 その言葉の意味は、その時はまだ全部わからなかった。

 

 ただ、胸に残った。

 

 金田君も、たぶん覚えていた。

 

 祖母は金田君を見た。

 

「金田さん」

 

「はい」

 

「妃花は難しいでしょう」

 

「はい」

 

「金田君!?」

 

「でも」

 

 金田君は、腫れた頬のまま言った。

 

「嫌じゃないです」

 

「っ」

 

 やめなさい。

 

 本家で。

 

 祖母の前で。

 

 その顔で。

 

 やめなさい。

 

「面倒です」

 

「金田君?」

 

「怒るし、本家に帰るし、婚約破棄って言うし、叩くし」

 

「今日のことをすぐ混ぜるな!」

 

「でも、戻ってくれた」

 

「……」

 

「だから、嫌じゃない」

 

 ワタシは手ぬぐいを顔に押し当てたくなった。

 

 耐えた。

 

 濡れているから。

 

 祖母が静かに頷く。

 

「では、金田さん。これからも妃花をよろしくお願いします」

 

「はい」

 

「妃花」

 

「……はい」

 

「金田さんをよろしくお願いします」

 

 ワタシは、金田君を見た。

 

 頬を腫らして、口の端を切った、馬鹿な小学生。

 

 ワタシを迎えに来て、嫌だと言われても、土下座して、戻ってきてくれとしか言わなかった男の子。

 

 ワタシの怒りも、怖さも、好きも、まだ全部はわかっていないくせに。

 

 それでも、来た。

 

 腹立つ。

 

 嬉しい。

 

 大好き。

 

 いや、今は言わない。

 

「当然です」

 

 ワタシは言った。

 

「ワタシの旦那なので」

 

「小学生だけど」

 

 金田君が言った。

 

「禁止」

 

「うん」

 

     *

 

 帰り道。

 

 金田君は、本家からワタシを連れて帰ることになった。

 

 祖母が「きちんと送ってもらいなさい」と言ったから。

 

 門を出る前、祖母がワタシを呼んだ。

 

「妃花」

 

「はい」

 

「帰る場所は、ひとつとは限りません」

 

「……はい」

 

「でも、迎えに来る人を軽んじてはいけません」

 

「わかっています」

 

「叩いたことは、忘れないように」

 

「……はい」

 

 祖母は金田君にも言った。

 

「金田さん」

 

「はい」

 

「次に来る時は、土下座ではなく、玄関から」

 

「はい」

 

「ただし、覚悟は評価します」

 

「ありがとうございます」

 

 評価しないで。

 

 いや、評価して。

 

 複雑。

 

 門を出ると、金田君と二人になった。

 

 夕方の空は、まだ少し曇っていた。

 

 石畳を歩く。

 

 少しして、ワタシは手を出した。

 

 金田君は、何も聞かずに握った。

 

 よろしい。

 

 ただし、小学生なので手が小さい。

 

 ワタシの手も小さい。

 

 でも、その時はそれで十分だった。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日の契約更新よ」

 

「うん」

 

「一、本家に迎えに来る時は、まず玄関」

 

「うん」

 

「二、土下座は原則禁止」

 

「うん」

 

「三、どうしても土下座したい場合は事前申請」

 

「それは違うと思う」

 

「黙りなさい」

 

「うん」

 

「四、ワタシが嫌と言っても、本当に嫌か確認してもいい」

 

「難しい」

 

「難しくてもやりなさい」

 

「うん」

 

「五、でも土下座で確認しない」

 

「うん」

 

「六、ワタシが叩いたら、痛いと言う」

 

「うん」

 

「七、ワタシが悪い時は、ワタシが悪いと言う」

 

「うん」

 

「八、でもワタシだけ悪いみたいにしない」

 

「うん」

 

「九、あなたが全部悪いみたいにもしない」

 

「うん」

 

「十、重いものは半分」

 

「うん」

 

「壊したものも半分」

 

「うん」

 

「怒った理由も半分」

 

「うん」

 

 金田君は、少しだけ手を握り返した。

 

 痛くない。

 

 でも、そこにいるとわかる強さ。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「帰ってきてくれて、ありがとう」

 

「……」

 

 またそれ。

 

 ずるい。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシは、帰ってきたんじゃないわ」

 

「違うの?」

 

「あなたが迎えに来たから、戻ってあげたの」

 

「うん」

 

「勘違いしないで」

 

「うん」

 

「次は、もっと早く来なさい」

 

「うん」

 

「土下座はしない」

 

「うん」

 

「ココアは?」

 

「帰ったら作る」

 

「牛乳多め」

 

「うん」

 

「マシュマロ三個」

 

「うん」

 

「猫のタオルケットも」

 

「持ってくる」

 

「よろしい」

 

 ワタシは前を向いたまま、金田君の手を握り直した。

 

 あの日、座敷で土下座していた金田君は、情けなかった。

 

 馬鹿だった。

 

 最低だった。

 

 でも、ワタシを迎えに来た。

 

 それだけで、全部がひっくり返った。

 

 御曹司の言葉も。

 

 見合いも。

 

 本家の空気も。

 

 ワタシの婚約破棄も。

 

 全部。

 

 だから、ワタシは戻った。

 

 金田君のところに。

 

 腹立つ。

 

 嬉しい。

 

 大好き。

 

 でも、今は言わない。

 

 口で言うのは悔しいから。

 

 代わりに、手を離さなかった。

 

 夫婦なので。

 

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