放課後の帰り道というものは、本来、もっと爽やかなものだと思う。
夕焼け。
並ぶ影。
部活帰りの声。
コンビニの前で買う肉まん。
自転車を押して歩く同級生たち。
そういう、いかにも青春らしい風景の中を、ワタシと金田君は歩いていた。
ただし、ワタシの右手にはスーパーの袋。
中身はココア、牛乳、マシュマロ、あとついでに買った板チョコ。
左手には金田君の手。
そしてワタシの機嫌は、まあ、悪くない。
悪くないだけで、良いとは言っていない。
「金田君」
「うん」
「今日の反省会の議題、覚えてる?」
「夫婦間の報連相について」
「よろしい」
「あと、靴を出す時は先に言う」
「そう」
「見えるところで待つ」
「そう」
「ココアは牛乳多め、マシュマロ三個」
「それは反省会じゃなくて生活基礎よ」
「そっか」
金田君は、そう言って頷いた。
真面目な顔で。
ほんと腹立つ。
ワタシの冗談なのか本気なのかわからない言葉を、いちいちちゃんと受け止める。だからこっちも、どこまで怒っていいのかわからなくなる。
しかも、今日の金田君は少しずるい。
ワタシがロッカーをへこませたあと、先生に一緒に謝りに行った。
そこで金田君は、自分が机の補修をすると言った。ロッカーも、用務員さんに相談して、放課後少し残って手伝うと言った。
ワタシが壊したのに。
ワタシが悪いのに。
金田君は当然みたいに、隣に立った。
責任を半分持つ顔をした。
だからワタシは、腹が立った。
腹が立ったので、帰りにスーパーへ寄らせた。
ココアと牛乳とマシュマロを買わせた。
買わせた、というより、金田君が財布を出す前にワタシが先に払った。
共有財産だからだ。
異論は認めない。
「妃花」
「なによ」
「袋、持つ?」
「持たないで」
「うん」
「でも、手は離さないで」
「うん」
「あと、歩幅合わせなさい」
「合わせてる」
「もっと自然に」
「難しい」
「夫婦でしょうが」
「中学生だけど」
「黙りなさい」
金田君の家は、ワタシの家から歩いて十分ほどのところにある。
普通の住宅街の中にある、普通の一軒家。
ワタシの本家みたいに、門だけで人を威圧したりしない。
イギリスの屋敷みたいに、廊下の端が見えなかったりもしない。
セバスチャンが銀の盆を持って現れたりもしない。
だから、ワタシは金田君の家がわりと好きだ。
落ち着く。
ただし、それを本人に言うつもりはない。
調子に乗るから。
金田君は調子に乗らない?
そういう問題ではない。
ワタシが恥ずかしいのだ。
「ただいま」
玄関で金田君が言う。
奥から、金田君のお母さんの声がした。
「おかえり。あら、妃花ちゃんも一緒?」
「お邪魔します」
ワタシは靴を揃えて、丁寧に頭を下げた。
外では夫婦面をしているが、金田家では礼儀正しくする。
当然だ。
未来の嫁として、姑への印象管理は基本中の基本である。
……いや、別に認められたいわけではない。
ないけど。
金田君のお母さんは、台所から顔を出して、にこにこ笑った。
「今日も反省会?」
「はい」
「はいなんだ」
金田君が隣で小さく言った。
ワタシは肘で金田君の脇腹を軽く突いた。
軽く。
本当に軽く。
「ぐ」
「大げさ」
「今、内臓が少し相談してた」
「何と?」
「引っ越し先」
「失礼ね」
金田君のお母さんは、慣れた様子で笑っている。
この家の人たちは、ワタシのことをあまり怖がらない。
ありがたい。
けれど、少し困る。
怖がってくれないと、ワタシがただの面倒な女みたいになるからだ。
いや、面倒な女ではある。
でも、怖がってくれれば、まだ英雄とか怪力とか、そういう言い訳ができる。
「妃花ちゃん、夕飯食べていく?」
「いえ、今日は少しだけで」
「少しって、何時まで?」
「ココアを飲んで、反省会をして、金田君がきちんと反省したら帰ります」
「なるほど。じゃあ遅くなるわね」
「母さん」
金田君が珍しく抗議した。
ワタシは勝った気持ちになった。
「大丈夫です。門限までには帰ります」
「偉いわねえ」
「ありがとうございます」
「あんた、妃花ちゃんのことちゃんと送るのよ」
「うん」
「当然です」
「妃花ちゃんが返事するのね」
お母さんはまた笑った。
ワタシは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、金田君の後ろについて階段を上がった。
金田君の部屋は二階にある。
扉の前で、金田君が立ち止まった。
「ちょっと待って」
「なによ」
「片付ける」
「今さら?」
「本が出てる」
「見られて困る本?」
「工具の本」
「ならいいわよ」
「妃花が読み始める」
「悪い?」
「反省会が始まらない」
「それは困るわね」
金田君が先に部屋に入った。
数秒後、中からごそごそ音がする。
ワタシは廊下で待った。
待っている間、スーパーの袋を見下ろす。
ココア。
牛乳。
マシュマロ。
猫の膝掛け。
放課後、教室で怒ったワタシのために、金田君が用意していたもの。
腹立つ。
ほんと、腹立つ。
ワタシがそばにいてほしくない時に、こいつはいつもこういうものを持っている。
ココアとか。
タオルケットとか。
黙って隣にいる覚悟とか。
そういうものを。
「いいよ」
扉が開いた。
ワタシは部屋に入る。
金田君の部屋は、相変わらず飾り気がない。
机。
本棚。
ベッド。
小さなローテーブル。
床に置かれた工具箱。
壁にはカレンダー。
そしてカレンダーには、ワタシの誕生日に赤い丸。
その横に、小さな字で「ケーキ予約」と書いてある。
「……金田君」
「うん」
「何あれ」
「カレンダー」
「見ればわかるわよ」
「妃花の誕生日」
「それもわかる」
「ケーキ予約」
「なんで書いてるの」
「忘れないように」
「忘れたことないでしょ」
「ないけど」
「じゃあなんで」
「忘れたくないから」
ワタシは黙った。
こいつは、こういうことを普通に言う。
好きだとは言わない。
愛してるとも言わない。
でも、ワタシの誕生日を忘れたくないから、カレンダーに書く。
好物を忘れない。
機嫌を害さないようにする。
たまに優しくする。
そういうことを、まるで生活の一部みたいにやる。
だからワタシは時々、わからなくなる。
これは愛なのか。
習慣なのか。
責任なのか。
それとも、五歳の時に泣きながら結ばせた契約の後始末なのか。
「……ふん」
ワタシは鞄を置いた。
「まず、着替えるわ」
「うん」
「見たら殺すわよ」
「見ない」
「比喩じゃないわ」
「知ってる」
「よろしい」
金田君の部屋の隣には、客間がある。
ワタシはもう何度もここへ来ているので、勝手はわかっていた。
制服のままでもよかった。
でも、今日はおうちデートだ。
反省会でもあるが、おうちデートでもある。
なら、部屋着に着替えるのは当然だ。
ワタシは鞄から、黒い服を取り出した。
黒マスク。
黒いゴスロリ風のワンピース。
黒チェック柄の、クソデカリボン。
家ではこれが一番落ち着く。
学校では朱色のインテークツインテールに青紐リボン、眼鏡。
部屋では黒。
別にキャラを作っているわけではない。
外と内で装備が違うだけだ。
英雄には装備変更が必要なのだ。
着替えてから鏡を見る。
黒マスクをつける。
大きなリボンを整える。
よし。
完璧。
ワタシは金田君の部屋へ戻った。
「待たせたわね」
金田君はローテーブルにマグカップを二つ置いていた。
その手が止まった。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ。
でも、ワタシは見逃さなかった。
「……何よ」
「似合ってる」
「っ」
危ない。
危うくマグカップを割るところだった。
ワタシは何も持っていなくてよかった。
本当に。
「そ、そういうのを急に言うんじゃないわよ」
「言わない方がよかった?」
「言いなさいよ!」
「難しい」
「難しくない!」
金田君は真面目な顔で考えている。
ワタシは床に座った。
猫の膝掛けを膝にかける。
ふわふわしていた。
腹立つくらい、ちょうどよかった。
「それ、サイズ大丈夫?」
「大丈夫よ」
「寒くない?」
「平気」
「ココア、熱いから気をつけて」
「ワタシを何歳だと思ってるの」
「中学生」
「奥さん!」
「奥さんはココアで火傷しない?」
「しないわよ!」
金田君はマグカップを差し出した。
ワタシは受け取る。
牛乳多め。
表面にマシュマロが三つ浮いている。
完璧だった。
完璧なのが、腹立つ。
「……合格」
「よかった」
「勘違いしないで。ココアが合格なだけで、今日の件はまだ許してないから」
「うん」
「反省会を始めます」
「はい」
ワタシはマグカップをテーブルに置き、背筋を伸ばした。
金田君も正座した。
なぜ正座。
いや、よろしい。
誠意は姿勢に出る。
「議題一。ワタシを置いていかないこと」
「うん」
「昇降口に先回りする場合、事前に報告」
「はい」
「待つ場合、見えるところ」
「はい」
「ただし、ワタシが本当に一人になりたい時は、見えないところ」
「判断は?」
「ワタシが言う」
「言わなかったら?」
「察しなさい」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「そこはもういいの!」
ワタシは膝掛けの猫を撫でた。
金田君がそれを見て、少しだけ安心したような顔をする。
見るな。
いや、見なさい。
でも、そういう顔をするな。
「議題二。謝罪について」
「うん」
「ワタシが悪い時まで謝らない」
「うん」
「謝るなら、何に対して謝ってるのか言う」
「うん」
「謝って終わらせない」
「うん」
「ワタシが怒ってる時は、ワタシが言葉にするまで待つ」
「うん」
「でも待ちすぎると腹立つから、適度に促す」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「言うと思った!」
金田君は少しだけ笑った。
ほんの少し。
ワタシはその顔に弱い。
だから、マグカップに逃げた。
ココアを一口飲む。
甘い。
牛乳の量がちょうどいい。
マシュマロが溶けかけていて、少しとろっとしている。
腹立つくらい、おいしい。
「……金田君」
「うん」
「ワタシ、今日、だいぶ面倒くさかったわね」
「うん」
「即答するな」
「嘘つくところじゃないと思って」
「そうだけど」
「でも、妃花は今日だけじゃない」
「は?」
「ずっと面倒くさい」
ワタシはマグカップを置いた。
危険を察知したからだ。
金田君は続ける。
「怒るし、壊すし、勝手に本家に帰るし、五歳の時の約束を契約って言うし、奥さんって言わせるし」
「……」
「でも、ちゃんと謝る。ちゃんと直そうとする。俺の鞄も持つ。母さんには礼儀正しい。俺の好きな卵焼きの味も覚えてる」
「……」
「だから、面倒くさいけど、嫌じゃない」
ワタシは、膝の上の猫を強く握った。
膝掛けでよかった。
本物の猫だったら、今ごろ抗議されている。
「そういうの」
「うん」
「そういうのを、もっと普段から言いなさいよ」
「うん」
「言わないから、ワタシが勝手に不安になるんでしょうが」
「うん」
「ワタシに飽きてるのかと思うでしょうが」
「飽きてない」
「……即答は評価するわ」
「うん」
「でも、なんで飽きないのよ」
金田君は少し考えた。
今度は長かった。
ワタシは待った。
ココアの表面で、マシュマロが少しずつ崩れていく。
「妃花が、毎日違うから」
「……なにそれ」
「学校の妃花と、今の妃花は違う」
「装備が違うだけよ」
「怒ってる妃花と、反省してる妃花も違う」
「……」
「強い妃花と、不安な妃花も違う」
「……」
「どれも妃花だから、飽きない」
ワタシは下を向いた。
黒マスクがあってよかった。
顔の下半分を隠せる。
でも、目元は隠せない。
眼鏡も、今日は外している。
最悪だ。
目が熱い。
泣くほどではない。
泣くほどではないけれど、ちょっと危ない。
「……金田君」
「うん」
「今のは、よくないわ」
「よくない?」
「ワタシが怒れなくなる」
「怒らなくていいんじゃない」
「よくないわよ」
「なんで」
「ワタシがワタシじゃなくなるみたいで、怖いでしょ」
言ってから、しまったと思った。
少し、本音すぎた。
金田君は黙った。
そして、立ち上がった。
ワタシは身構えた。
金田君は部屋の隅から、小さな裁縫箱を持ってきた。
「なに?」
「リボン、少しほつれてる」
「今?」
「今」
「話の流れ!」
「大事だから」
金田君は、ワタシの黒チェック柄のクソデカリボンを指差した。
確かに端が少しほつれていた。
今日、鞄に雑に入れたからだ。
「直す?」
「……できるの?」
「妃花に教わった」
「覚えてたの」
「覚えてる」
「……やりなさい」
ワタシは大きなリボンを外し、金田君に渡した。
金田君は針に糸を通し、ほつれた部分を丁寧に縫い始めた。
手つきは器用ではない。
でも、雑ではない。
ゆっくり、確かめるように。
ワタシが手芸を教えた時と同じように。
ワタシはそれを眺めながら、ココアを飲んだ。
部屋は静かだった。
下の階から、金田君のお母さんが食器を動かす音がする。
外では、誰かの自転車のブレーキ音。
夕方が、夜に変わり始めていた。
「金田君」
「うん」
「ワタシ、部屋着どう?」
「似合ってる」
「それは聞いた」
「かわいい」
「っ!」
ワタシは咳き込んだ。
ココアが変なところに入った。
金田君がすぐにティッシュを取る。
ワタシはそれを奪い取った。
「急に言うなって言ったでしょうが!」
「言いなさいって言った」
「限度がある!」
「かわいいは限度超え?」
「超えるわよ!」
「じゃあ、すごく似合ってる」
「戻すな!」
金田君は本気で困った顔をした。
ワタシは膝掛けで口元を隠した。
黒マスクより、膝掛けの方が役に立つとは思わなかった。
「妃花」
「なによ」
「怒ってる?」
「怒ってるわよ」
「じゃあ、いいか」
「よくないけど、まあ、いいわ」
ワタシたちは、少し笑った。
ほんの少し。
夫婦喧嘩の後の笑い方。
いや、中学生だけど。
そこは金田君のツッコミが入りそうなので、心の中だけにしておく。
金田君はリボンを縫い終えると、糸を切った。
「できた」
「見せなさい」
ワタシはリボンを受け取る。
縫い目は、少し不揃いだった。
でも、ちゃんと直っている。
ほどけないように、丁寧に止めてある。
「……合格」
「よかった」
「付けて」
「俺が?」
「他に誰がいるのよ」
「いいの?」
「いいから言ってるの」
金田君は少し迷ったあと、ワタシの後ろに回った。
ワタシは背筋を伸ばす。
妙に落ち着かない。
金田君の指が、髪に触れないようにリボンを整える。
触れないように。
でも、近い。
近すぎる。
「妃花」
「な、なによ」
「動くと曲がる」
「動いてないわよ」
「耳、赤い」
「うるさい!」
「ごめん」
「謝るな!」
ワタシは振り返ろうとして、リボンが少しずれた。
金田君が慌てて押さえる。
その拍子に、指先がワタシの髪に触れた。
ほんの少し。
本当に少し。
なのに、心臓が変な音を立てた。
「……終わった?」
「もう少し」
「早くしなさい」
「うん」
「丁寧に」
「うん」
「早く丁寧に」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「もう!」
金田君は笑いながら、リボンを整えた。
ワタシは膝掛けを握りしめて耐えた。
何に耐えているのかは、わからない。
たぶん、平静。
平静を保つことに耐えている。
「できた」
金田君が言った。
ワタシは鏡を借りて確認する。
黒チェック柄の大きなリボンは、ちゃんと真ん中にあった。
少しだけ不器用な縫い目も、近くで見なければわからない。
悪くない。
かなり、悪くない。
「……永久保存ね」
「リボン?」
「縫い目」
「不格好だけど」
「そこがいいのよ」
言ってから、ワタシは固まった。
今のは失言だ。
完全に失言。
金田君がこちらを見ている。
「そこがいいんだ」
「聞き返すな」
「うん」
「忘れなさい」
「忘れたくない」
「忘れなさい!」
ワタシは枕を掴んで投げた。
もちろん、力は抜いた。
抜いたつもりだった。
枕は空気を裂いて、金田君の顔面に直撃した。
ぽふん、ではなく、ばすん、という音がした。
金田君が後ろに倒れた。
「金田君!?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない倒れ方だったわよ!」
「枕だから」
「ワタシが投げた枕よ!」
ワタシは慌てて近づいた。
金田君はベッドに背中を預けて座っている。
鼻血はない。
眼鏡もかけていないから割れていない。
よかった。
本当に。
「痛くない?」
「少し」
「少し!?」
「平気」
「平気じゃない時も平気って言うのやめて!」
「妃花も言う」
「ワタシのことは今いいの!」
ワタシは金田君の顔を両手で挟んだ。
力は入れない。
絶対に入れない。
測定不能にならない。
潰さない。
ワタシは英雄だが、恋人の顔面を圧搾する趣味はない。
恋人。
いや、婚約者。
いや、夫。
いや、中学生。
面倒くさい。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「嘘じゃない?」
「うん」
「ならいいけど」
ワタシは手を離そうとした。
すると、金田君が言った。
「妃花」
「なによ」
「心配してくれるんだ」
ワタシは一瞬で立ち上がった。
「当たり前でしょ!」
「うん」
「奥さんなんだから!」
「うん」
「顔は大事よ!」
「顔?」
「べ、別に顔が好きとかじゃなくて!」
「違うの?」
「違わないけど違う!」
「難しい」
「うるさい!」
ワタシは再び膝掛けを抱えて座った。
もう駄目だ。
今日のワタシは、完全に調子が狂っている。
部屋着が悪い。
ココアが悪い。
金田君の部屋が落ち着くのが悪い。
金田君が優しすぎるのが悪い。
あと、枕が軽すぎるのも悪い。
いや、重かったら金田君が死ぬ。
よくない。
「妃花」
「なによ」
「反省会、続き」
「……そうだったわね」
ワタシは姿勢を正した。
「議題三。金田君の無自覚な距離感について」
「俺?」
「そうよ」
「何かした?」
「したわよ」
「何を?」
「リボンを付けた」
「妃花が言った」
「言ったけど!」
「うん」
「もっと緊張しなさいよ!」
「してた」
「嘘」
「本当」
「顔に出てない」
「妃花の方が出てた」
「なっ」
「耳が赤かった」
「それを言うな!」
ワタシはまた枕を掴みそうになった。
しかし、理性で止めた。
偉い。
今日のワタシは偉い。
褒められていい。
「金田君」
「うん」
「ワタシのこと、妹とか娘みたいに扱うの禁止」
「うん」
「でも、心配はしなさい」
「うん」
「荷物を持ちたい時は聞きなさい」
「うん」
「手を繋ぎたい時は、聞かなくてもいい時がある」
「それはいつ?」
「察しなさい」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「さっきからそればっかり!」
金田君は少し考えた。
それから、手を差し出した。
何も言わずに。
聞かずに。
ただ、テーブルの上に手を置いた。
ワタシの方へ。
「……」
ワタシは、その手を見た。
さっき枕を食らった人間の手。
机のひびを直す手。
ココアを淹れる手。
ワタシのリボンを縫う手。
五歳の時、泣きながら約束したワタシの手を握った手。
雨の山で、泥だらけになりながらワタシを背負った手。
本家の軒下で、地面に置かれていた手。
ワタシは、そっと自分の手を重ねた。
「……及第点」
「よかった」
「ただし」
「うん」
「こういうの、毎回やるとありがたみが薄れるから」
「うん」
「でも、やらないと怒るから」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
ワタシは金田君の手を少しだけ握った。
金田君も握り返す。
強くない。
弱くもない。
ワタシが壊さなくて済む強さ。
金田君が離れないとわかる強さ。
そういう、ちょうどいい力。
腹立つくらい、ちょうどいい。
「ねえ」
「うん」
「金田君の部屋って、落ち着くわね」
「そう?」
「そうよ」
「よかった」
「……調子に乗らないで」
「乗ってない」
「ワタシが落ち着くって言っただけで、別に特別な意味はないから」
「うん」
「ないけど」
「うん」
「また来てもいいわ」
「うん」
「歓迎しなさい」
「いつでも来ていい」
「っ」
ワタシは手を離した。
危なかった。
今、握力が少し上がりかけた。
金田君の手を壊すところだった。
いや、壊さない。
絶対に壊さない。
ワタシは触れるもの皆壊す女だけど、金田君だけは壊したくない。
それが一番面倒くさい。
大事にしたいものほど、触るのが怖い。
だからワタシは怒る。
怒って距離を取る。
怒って、触れない理由を作る。
でも金田君は、いつもその距離に入ってくる。
無理にではなく。
逃げ道を残したまま。
「金田君」
「うん」
「ワタシ、たぶん面倒くさいわ」
「知ってる」
「さっきも聞いたけど、ほんとに飽きない?」
「飽きない」
「ほんとに?」
「うん」
「本家に帰っても?」
「迎えに行く」
「黒マスクでも?」
「似合ってる」
「クソデカリボンでも?」
「かわいい」
「急に刺すな!」
「ごめん」
「謝るな!」
ワタシは膝掛けに顔を埋めた。
猫が柔らかい。
もう駄目だ。
今日のワタシは負けている。
何に負けているのかは、知らない。
たぶん、金田君が淹れた牛乳多めのココアに。
たぶん、不揃いな縫い目に。
たぶん、「いつでも来ていい」の一言に。
下の階から、金田君のお母さんの声がした。
「金田ー、妃花ちゃーん。クッキー焼けたけど食べる?」
ワタシは顔を上げた。
金田君を見る。
金田君もワタシを見る。
「食べる?」
「当然でしょう」
「持ってくる」
「待ちなさい」
「何?」
「一緒に行くわ」
「うん」
「姑への印象管理は大事だから」
「姑」
「将来的な話よ」
「中学生だけど」
「もうそれ禁止!」
ワタシたちは立ち上がった。
部屋を出る前に、ワタシはふと振り返る。
ローテーブルの上には、飲みかけのココアが二つ。
裁縫箱。
糸くず。
猫の膝掛け。
それから、ワタシの黒いリボンから切り取られた、ほんの小さなほつれ糸。
何でもないものばかり。
けれど、妙に大事なものに見えた。
「金田君」
「うん」
「今日の反省会」
「うん」
「一応、合格にしてあげる」
「よかった」
「一応よ」
「うん」
「でも、追加議題があるわ」
「何?」
ワタシは階段へ向かいながら言った。
「次のおうちデートの予定について」
金田君は少しだけ黙った。
そして、いつもの顔で言った。
「来週の水曜、部活ない」
「……調べてたの?」
「妃花がまた来たいって言うかと思って」
「予測するな!」
「ごめん」
「謝るな!」
ワタシは階段を一段降りた。
そして、小さく付け加えた。
「……でも、水曜でいいわ」
「うん」
「ココアは今日と同じ」
「マシュマロ三個」
「クッキーも」
「母さんに頼む」
「ワタシも焼くわ」
「楽しみ」
「失敗すると思ってない?」
「思ってない」
「当然ね。料理ヨシだから」
「うん」
「洗濯も手芸も掃除も成績もヨシよ」
「知ってる」
「ただし、触れるもの皆壊す」
「知ってる」
「そこは否定しなさいよ」
「そこも妃花だから」
ワタシは階段の途中で止まった。
振り返る。
金田君は一段上にいた。
ワタシを見下ろす位置。
少しだけ、夕方の光が横から入って、金田君の顔を照らしていた。
腹立つ。
ほんと、腹立つ。
そういうことを、何でもないみたいに言う。
ワタシが一番欲しい言葉を、欲しい形ではくれないくせに。
欲しかったことに気づいていなかった言葉を、急にくれる。
「……金田君」
「うん」
「下りてきなさい」
「うん」
「手」
金田君は、何も聞かずに手を差し出した。
ワタシはそれを握った。
階段を下りるには、少し邪魔だった。
でも、離さなかった。
下の階から、甘いクッキーの匂いがした。
ワタシの黒いクソデカリボンは、金田君の不揃いな縫い目を隠して、ちゃんと頭の上に乗っている。
猫の膝掛けは部屋に置いてきた。
ココアもまだ残っている。
反省会は、終わったようで終わっていない。
きっと、来週の水曜も、その次も、似たようなことで怒る。
ワタシはまたムカムカして、金田君はまたココアを淹れて、どちらが悪いか半分ずつ分け合う。
それでいい。
今のところは。
「妃花」
「なによ」
「クッキー、何枚食べる?」
「三枚」
「夕飯前だけど」
「奥さんの食欲に口を出す気?」
「五枚持ってくる」
「増やすな!」
「三枚食べて、二枚持って帰る」
「……」
「家の人にも」
「……そういうところよ」
「うん」
「ほんと、腹立つ」
「うん」
「大嫌い」
「うん」
「だから、水曜も空けておきなさい」
「空けてる」
「よろしい」
ワタシは金田君の手を握ったまま、台所へ向かった。
甘い匂い。
あたたかい部屋。
いつもの家。
いつもの幼馴染。
そして、今日も夫婦面をやめられないワタシ。
まあ。
悪くない。
かなり、悪くない。