倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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第二話 金田君は部屋着の破壊力を知らない

 

 放課後の帰り道というものは、本来、もっと爽やかなものだと思う。

 

 夕焼け。

 

 並ぶ影。

 

 部活帰りの声。

 

 コンビニの前で買う肉まん。

 

 自転車を押して歩く同級生たち。

 

 そういう、いかにも青春らしい風景の中を、ワタシと金田君は歩いていた。

 

 ただし、ワタシの右手にはスーパーの袋。

 

 中身はココア、牛乳、マシュマロ、あとついでに買った板チョコ。

 

 左手には金田君の手。

 

 そしてワタシの機嫌は、まあ、悪くない。

 

 悪くないだけで、良いとは言っていない。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日の反省会の議題、覚えてる?」

 

「夫婦間の報連相について」

 

「よろしい」

 

「あと、靴を出す時は先に言う」

 

「そう」

 

「見えるところで待つ」

 

「そう」

 

「ココアは牛乳多め、マシュマロ三個」

 

「それは反省会じゃなくて生活基礎よ」

 

「そっか」

 

 金田君は、そう言って頷いた。

 

 真面目な顔で。

 

 ほんと腹立つ。

 

 ワタシの冗談なのか本気なのかわからない言葉を、いちいちちゃんと受け止める。だからこっちも、どこまで怒っていいのかわからなくなる。

 

 しかも、今日の金田君は少しずるい。

 

 ワタシがロッカーをへこませたあと、先生に一緒に謝りに行った。

 

 そこで金田君は、自分が机の補修をすると言った。ロッカーも、用務員さんに相談して、放課後少し残って手伝うと言った。

 

 ワタシが壊したのに。

 

 ワタシが悪いのに。

 

 金田君は当然みたいに、隣に立った。

 

 責任を半分持つ顔をした。

 

 だからワタシは、腹が立った。

 

 腹が立ったので、帰りにスーパーへ寄らせた。

 

 ココアと牛乳とマシュマロを買わせた。

 

 買わせた、というより、金田君が財布を出す前にワタシが先に払った。

 

 共有財産だからだ。

 

 異論は認めない。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「袋、持つ?」

 

「持たないで」

 

「うん」

 

「でも、手は離さないで」

 

「うん」

 

「あと、歩幅合わせなさい」

 

「合わせてる」

 

「もっと自然に」

 

「難しい」

 

「夫婦でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「黙りなさい」

 

 金田君の家は、ワタシの家から歩いて十分ほどのところにある。

 

 普通の住宅街の中にある、普通の一軒家。

 

 ワタシの本家みたいに、門だけで人を威圧したりしない。

 

 イギリスの屋敷みたいに、廊下の端が見えなかったりもしない。

 

 セバスチャンが銀の盆を持って現れたりもしない。

 

 だから、ワタシは金田君の家がわりと好きだ。

 

 落ち着く。

 

 ただし、それを本人に言うつもりはない。

 

 調子に乗るから。

 

 金田君は調子に乗らない?

 

 そういう問題ではない。

 

 ワタシが恥ずかしいのだ。

 

「ただいま」

 

 玄関で金田君が言う。

 

 奥から、金田君のお母さんの声がした。

 

「おかえり。あら、妃花ちゃんも一緒?」

 

「お邪魔します」

 

 ワタシは靴を揃えて、丁寧に頭を下げた。

 

 外では夫婦面をしているが、金田家では礼儀正しくする。

 

 当然だ。

 

 未来の嫁として、姑への印象管理は基本中の基本である。

 

 ……いや、別に認められたいわけではない。

 

 ないけど。

 

 金田君のお母さんは、台所から顔を出して、にこにこ笑った。

 

「今日も反省会?」

 

「はい」

 

「はいなんだ」

 

 金田君が隣で小さく言った。

 

 ワタシは肘で金田君の脇腹を軽く突いた。

 

 軽く。

 

 本当に軽く。

 

「ぐ」

 

「大げさ」

 

「今、内臓が少し相談してた」

 

「何と?」

 

「引っ越し先」

 

「失礼ね」

 

 金田君のお母さんは、慣れた様子で笑っている。

 

 この家の人たちは、ワタシのことをあまり怖がらない。

 

 ありがたい。

 

 けれど、少し困る。

 

 怖がってくれないと、ワタシがただの面倒な女みたいになるからだ。

 

 いや、面倒な女ではある。

 

 でも、怖がってくれれば、まだ英雄とか怪力とか、そういう言い訳ができる。

 

「妃花ちゃん、夕飯食べていく?」

 

「いえ、今日は少しだけで」

 

「少しって、何時まで?」

 

「ココアを飲んで、反省会をして、金田君がきちんと反省したら帰ります」

 

「なるほど。じゃあ遅くなるわね」

 

「母さん」

 

 金田君が珍しく抗議した。

 

 ワタシは勝った気持ちになった。

 

「大丈夫です。門限までには帰ります」

 

「偉いわねえ」

 

「ありがとうございます」

 

「あんた、妃花ちゃんのことちゃんと送るのよ」

 

「うん」

 

「当然です」

 

「妃花ちゃんが返事するのね」

 

 お母さんはまた笑った。

 

 ワタシは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、金田君の後ろについて階段を上がった。

 

 金田君の部屋は二階にある。

 

 扉の前で、金田君が立ち止まった。

 

「ちょっと待って」

 

「なによ」

 

「片付ける」

 

「今さら?」

 

「本が出てる」

 

「見られて困る本?」

 

「工具の本」

 

「ならいいわよ」

 

「妃花が読み始める」

 

「悪い?」

 

「反省会が始まらない」

 

「それは困るわね」

 

 金田君が先に部屋に入った。

 

 数秒後、中からごそごそ音がする。

 

 ワタシは廊下で待った。

 

 待っている間、スーパーの袋を見下ろす。

 

 ココア。

 

 牛乳。

 

 マシュマロ。

 

 猫の膝掛け。

 

 放課後、教室で怒ったワタシのために、金田君が用意していたもの。

 

 腹立つ。

 

 ほんと、腹立つ。

 

 ワタシがそばにいてほしくない時に、こいつはいつもこういうものを持っている。

 

 ココアとか。

 

 タオルケットとか。

 

 黙って隣にいる覚悟とか。

 

 そういうものを。

 

「いいよ」

 

 扉が開いた。

 

 ワタシは部屋に入る。

 

 金田君の部屋は、相変わらず飾り気がない。

 

 机。

 

 本棚。

 

 ベッド。

 

 小さなローテーブル。

 

 床に置かれた工具箱。

 

 壁にはカレンダー。

 

 そしてカレンダーには、ワタシの誕生日に赤い丸。

 

 その横に、小さな字で「ケーキ予約」と書いてある。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「何あれ」

 

「カレンダー」

 

「見ればわかるわよ」

 

「妃花の誕生日」

 

「それもわかる」

 

「ケーキ予約」

 

「なんで書いてるの」

 

「忘れないように」

 

「忘れたことないでしょ」

 

「ないけど」

 

「じゃあなんで」

 

「忘れたくないから」

 

 ワタシは黙った。

 

 こいつは、こういうことを普通に言う。

 

 好きだとは言わない。

 

 愛してるとも言わない。

 

 でも、ワタシの誕生日を忘れたくないから、カレンダーに書く。

 

 好物を忘れない。

 

 機嫌を害さないようにする。

 

 たまに優しくする。

 

 そういうことを、まるで生活の一部みたいにやる。

 

 だからワタシは時々、わからなくなる。

 

 これは愛なのか。

 

 習慣なのか。

 

 責任なのか。

 

 それとも、五歳の時に泣きながら結ばせた契約の後始末なのか。

 

「……ふん」

 

 ワタシは鞄を置いた。

 

「まず、着替えるわ」

 

「うん」

 

「見たら殺すわよ」

 

「見ない」

 

「比喩じゃないわ」

 

「知ってる」

 

「よろしい」

 

 金田君の部屋の隣には、客間がある。

 

 ワタシはもう何度もここへ来ているので、勝手はわかっていた。

 

 制服のままでもよかった。

 

 でも、今日はおうちデートだ。

 

 反省会でもあるが、おうちデートでもある。

 

 なら、部屋着に着替えるのは当然だ。

 

 ワタシは鞄から、黒い服を取り出した。

 

 黒マスク。

 

 黒いゴスロリ風のワンピース。

 

 黒チェック柄の、クソデカリボン。

 

 家ではこれが一番落ち着く。

 

 学校では朱色のインテークツインテールに青紐リボン、眼鏡。

 

 部屋では黒。

 

 別にキャラを作っているわけではない。

 

 外と内で装備が違うだけだ。

 

 英雄には装備変更が必要なのだ。

 

 着替えてから鏡を見る。

 

 黒マスクをつける。

 

 大きなリボンを整える。

 

 よし。

 

 完璧。

 

 ワタシは金田君の部屋へ戻った。

 

「待たせたわね」

 

 金田君はローテーブルにマグカップを二つ置いていた。

 

 その手が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 でも、ワタシは見逃さなかった。

 

「……何よ」

 

「似合ってる」

 

「っ」

 

 危ない。

 

 危うくマグカップを割るところだった。

 

 ワタシは何も持っていなくてよかった。

 

 本当に。

 

「そ、そういうのを急に言うんじゃないわよ」

 

「言わない方がよかった?」

 

「言いなさいよ!」

 

「難しい」

 

「難しくない!」

 

 金田君は真面目な顔で考えている。

 

 ワタシは床に座った。

 

 猫の膝掛けを膝にかける。

 

 ふわふわしていた。

 

 腹立つくらい、ちょうどよかった。

 

「それ、サイズ大丈夫?」

 

「大丈夫よ」

 

「寒くない?」

 

「平気」

 

「ココア、熱いから気をつけて」

 

「ワタシを何歳だと思ってるの」

 

「中学生」

 

「奥さん!」

 

「奥さんはココアで火傷しない?」

 

「しないわよ!」

 

 金田君はマグカップを差し出した。

 

 ワタシは受け取る。

 

 牛乳多め。

 

 表面にマシュマロが三つ浮いている。

 

 完璧だった。

 

 完璧なのが、腹立つ。

 

「……合格」

 

「よかった」

 

「勘違いしないで。ココアが合格なだけで、今日の件はまだ許してないから」

 

「うん」

 

「反省会を始めます」

 

「はい」

 

 ワタシはマグカップをテーブルに置き、背筋を伸ばした。

 

 金田君も正座した。

 

 なぜ正座。

 

 いや、よろしい。

 

 誠意は姿勢に出る。

 

「議題一。ワタシを置いていかないこと」

 

「うん」

 

「昇降口に先回りする場合、事前に報告」

 

「はい」

 

「待つ場合、見えるところ」

 

「はい」

 

「ただし、ワタシが本当に一人になりたい時は、見えないところ」

 

「判断は?」

 

「ワタシが言う」

 

「言わなかったら?」

 

「察しなさい」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「そこはもういいの!」

 

 ワタシは膝掛けの猫を撫でた。

 

 金田君がそれを見て、少しだけ安心したような顔をする。

 

 見るな。

 

 いや、見なさい。

 

 でも、そういう顔をするな。

 

「議題二。謝罪について」

 

「うん」

 

「ワタシが悪い時まで謝らない」

 

「うん」

 

「謝るなら、何に対して謝ってるのか言う」

 

「うん」

 

「謝って終わらせない」

 

「うん」

 

「ワタシが怒ってる時は、ワタシが言葉にするまで待つ」

 

「うん」

 

「でも待ちすぎると腹立つから、適度に促す」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「言うと思った!」

 

 金田君は少しだけ笑った。

 

 ほんの少し。

 

 ワタシはその顔に弱い。

 

 だから、マグカップに逃げた。

 

 ココアを一口飲む。

 

 甘い。

 

 牛乳の量がちょうどいい。

 

 マシュマロが溶けかけていて、少しとろっとしている。

 

 腹立つくらい、おいしい。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、今日、だいぶ面倒くさかったわね」

 

「うん」

 

「即答するな」

 

「嘘つくところじゃないと思って」

 

「そうだけど」

 

「でも、妃花は今日だけじゃない」

 

「は?」

 

「ずっと面倒くさい」

 

 ワタシはマグカップを置いた。

 

 危険を察知したからだ。

 

 金田君は続ける。

 

「怒るし、壊すし、勝手に本家に帰るし、五歳の時の約束を契約って言うし、奥さんって言わせるし」

 

「……」

 

「でも、ちゃんと謝る。ちゃんと直そうとする。俺の鞄も持つ。母さんには礼儀正しい。俺の好きな卵焼きの味も覚えてる」

 

「……」

 

「だから、面倒くさいけど、嫌じゃない」

 

 ワタシは、膝の上の猫を強く握った。

 

 膝掛けでよかった。

 

 本物の猫だったら、今ごろ抗議されている。

 

「そういうの」

 

「うん」

 

「そういうのを、もっと普段から言いなさいよ」

 

「うん」

 

「言わないから、ワタシが勝手に不安になるんでしょうが」

 

「うん」

 

「ワタシに飽きてるのかと思うでしょうが」

 

「飽きてない」

 

「……即答は評価するわ」

 

「うん」

 

「でも、なんで飽きないのよ」

 

 金田君は少し考えた。

 

 今度は長かった。

 

 ワタシは待った。

 

 ココアの表面で、マシュマロが少しずつ崩れていく。

 

「妃花が、毎日違うから」

 

「……なにそれ」

 

「学校の妃花と、今の妃花は違う」

 

「装備が違うだけよ」

 

「怒ってる妃花と、反省してる妃花も違う」

 

「……」

 

「強い妃花と、不安な妃花も違う」

 

「……」

 

「どれも妃花だから、飽きない」

 

 ワタシは下を向いた。

 

 黒マスクがあってよかった。

 

 顔の下半分を隠せる。

 

 でも、目元は隠せない。

 

 眼鏡も、今日は外している。

 

 最悪だ。

 

 目が熱い。

 

 泣くほどではない。

 

 泣くほどではないけれど、ちょっと危ない。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「今のは、よくないわ」

 

「よくない?」

 

「ワタシが怒れなくなる」

 

「怒らなくていいんじゃない」

 

「よくないわよ」

 

「なんで」

 

「ワタシがワタシじゃなくなるみたいで、怖いでしょ」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 少し、本音すぎた。

 

 金田君は黙った。

 

 そして、立ち上がった。

 

 ワタシは身構えた。

 

 金田君は部屋の隅から、小さな裁縫箱を持ってきた。

 

「なに?」

 

「リボン、少しほつれてる」

 

「今?」

 

「今」

 

「話の流れ!」

 

「大事だから」

 

 金田君は、ワタシの黒チェック柄のクソデカリボンを指差した。

 

 確かに端が少しほつれていた。

 

 今日、鞄に雑に入れたからだ。

 

「直す?」

 

「……できるの?」

 

「妃花に教わった」

 

「覚えてたの」

 

「覚えてる」

 

「……やりなさい」

 

 ワタシは大きなリボンを外し、金田君に渡した。

 

 金田君は針に糸を通し、ほつれた部分を丁寧に縫い始めた。

 

 手つきは器用ではない。

 

 でも、雑ではない。

 

 ゆっくり、確かめるように。

 

 ワタシが手芸を教えた時と同じように。

 

 ワタシはそれを眺めながら、ココアを飲んだ。

 

 部屋は静かだった。

 

 下の階から、金田君のお母さんが食器を動かす音がする。

 

 外では、誰かの自転車のブレーキ音。

 

 夕方が、夜に変わり始めていた。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、部屋着どう?」

 

「似合ってる」

 

「それは聞いた」

 

「かわいい」

 

「っ!」

 

 ワタシは咳き込んだ。

 

 ココアが変なところに入った。

 

 金田君がすぐにティッシュを取る。

 

 ワタシはそれを奪い取った。

 

「急に言うなって言ったでしょうが!」

 

「言いなさいって言った」

 

「限度がある!」

 

「かわいいは限度超え?」

 

「超えるわよ!」

 

「じゃあ、すごく似合ってる」

 

「戻すな!」

 

 金田君は本気で困った顔をした。

 

 ワタシは膝掛けで口元を隠した。

 

 黒マスクより、膝掛けの方が役に立つとは思わなかった。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「怒ってる?」

 

「怒ってるわよ」

 

「じゃあ、いいか」

 

「よくないけど、まあ、いいわ」

 

 ワタシたちは、少し笑った。

 

 ほんの少し。

 

 夫婦喧嘩の後の笑い方。

 

 いや、中学生だけど。

 

 そこは金田君のツッコミが入りそうなので、心の中だけにしておく。

 

 金田君はリボンを縫い終えると、糸を切った。

 

「できた」

 

「見せなさい」

 

 ワタシはリボンを受け取る。

 

 縫い目は、少し不揃いだった。

 

 でも、ちゃんと直っている。

 

 ほどけないように、丁寧に止めてある。

 

「……合格」

 

「よかった」

 

「付けて」

 

「俺が?」

 

「他に誰がいるのよ」

 

「いいの?」

 

「いいから言ってるの」

 

 金田君は少し迷ったあと、ワタシの後ろに回った。

 

 ワタシは背筋を伸ばす。

 

 妙に落ち着かない。

 

 金田君の指が、髪に触れないようにリボンを整える。

 

 触れないように。

 

 でも、近い。

 

 近すぎる。

 

「妃花」

 

「な、なによ」

 

「動くと曲がる」

 

「動いてないわよ」

 

「耳、赤い」

 

「うるさい!」

 

「ごめん」

 

「謝るな!」

 

 ワタシは振り返ろうとして、リボンが少しずれた。

 

 金田君が慌てて押さえる。

 

 その拍子に、指先がワタシの髪に触れた。

 

 ほんの少し。

 

 本当に少し。

 

 なのに、心臓が変な音を立てた。

 

「……終わった?」

 

「もう少し」

 

「早くしなさい」

 

「うん」

 

「丁寧に」

 

「うん」

 

「早く丁寧に」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「もう!」

 

 金田君は笑いながら、リボンを整えた。

 

 ワタシは膝掛けを握りしめて耐えた。

 

 何に耐えているのかは、わからない。

 

 たぶん、平静。

 

 平静を保つことに耐えている。

 

「できた」

 

 金田君が言った。

 

 ワタシは鏡を借りて確認する。

 

 黒チェック柄の大きなリボンは、ちゃんと真ん中にあった。

 

 少しだけ不器用な縫い目も、近くで見なければわからない。

 

 悪くない。

 

 かなり、悪くない。

 

「……永久保存ね」

 

「リボン?」

 

「縫い目」

 

「不格好だけど」

 

「そこがいいのよ」

 

 言ってから、ワタシは固まった。

 

 今のは失言だ。

 

 完全に失言。

 

 金田君がこちらを見ている。

 

「そこがいいんだ」

 

「聞き返すな」

 

「うん」

 

「忘れなさい」

 

「忘れたくない」

 

「忘れなさい!」

 

 ワタシは枕を掴んで投げた。

 

 もちろん、力は抜いた。

 

 抜いたつもりだった。

 

 枕は空気を裂いて、金田君の顔面に直撃した。

 

 ぽふん、ではなく、ばすん、という音がした。

 

 金田君が後ろに倒れた。

 

「金田君!?」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫じゃない倒れ方だったわよ!」

 

「枕だから」

 

「ワタシが投げた枕よ!」

 

 ワタシは慌てて近づいた。

 

 金田君はベッドに背中を預けて座っている。

 

 鼻血はない。

 

 眼鏡もかけていないから割れていない。

 

 よかった。

 

 本当に。

 

「痛くない?」

 

「少し」

 

「少し!?」

 

「平気」

 

「平気じゃない時も平気って言うのやめて!」

 

「妃花も言う」

 

「ワタシのことは今いいの!」

 

 ワタシは金田君の顔を両手で挟んだ。

 

 力は入れない。

 

 絶対に入れない。

 

 測定不能にならない。

 

 潰さない。

 

 ワタシは英雄だが、恋人の顔面を圧搾する趣味はない。

 

 恋人。

 

 いや、婚約者。

 

 いや、夫。

 

 いや、中学生。

 

 面倒くさい。

 

「ほんとに大丈夫?」

 

「大丈夫」

 

「嘘じゃない?」

 

「うん」

 

「ならいいけど」

 

 ワタシは手を離そうとした。

 

 すると、金田君が言った。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「心配してくれるんだ」

 

 ワタシは一瞬で立ち上がった。

 

「当たり前でしょ!」

 

「うん」

 

「奥さんなんだから!」

 

「うん」

 

「顔は大事よ!」

 

「顔?」

 

「べ、別に顔が好きとかじゃなくて!」

 

「違うの?」

 

「違わないけど違う!」

 

「難しい」

 

「うるさい!」

 

 ワタシは再び膝掛けを抱えて座った。

 

 もう駄目だ。

 

 今日のワタシは、完全に調子が狂っている。

 

 部屋着が悪い。

 

 ココアが悪い。

 

 金田君の部屋が落ち着くのが悪い。

 

 金田君が優しすぎるのが悪い。

 

 あと、枕が軽すぎるのも悪い。

 

 いや、重かったら金田君が死ぬ。

 

 よくない。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「反省会、続き」

 

「……そうだったわね」

 

 ワタシは姿勢を正した。

 

「議題三。金田君の無自覚な距離感について」

 

「俺?」

 

「そうよ」

 

「何かした?」

 

「したわよ」

 

「何を?」

 

「リボンを付けた」

 

「妃花が言った」

 

「言ったけど!」

 

「うん」

 

「もっと緊張しなさいよ!」

 

「してた」

 

「嘘」

 

「本当」

 

「顔に出てない」

 

「妃花の方が出てた」

 

「なっ」

 

「耳が赤かった」

 

「それを言うな!」

 

 ワタシはまた枕を掴みそうになった。

 

 しかし、理性で止めた。

 

 偉い。

 

 今日のワタシは偉い。

 

 褒められていい。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシのこと、妹とか娘みたいに扱うの禁止」

 

「うん」

 

「でも、心配はしなさい」

 

「うん」

 

「荷物を持ちたい時は聞きなさい」

 

「うん」

 

「手を繋ぎたい時は、聞かなくてもいい時がある」

 

「それはいつ?」

 

「察しなさい」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「さっきからそればっかり!」

 

 金田君は少し考えた。

 

 それから、手を差し出した。

 

 何も言わずに。

 

 聞かずに。

 

 ただ、テーブルの上に手を置いた。

 

 ワタシの方へ。

 

「……」

 

 ワタシは、その手を見た。

 

 さっき枕を食らった人間の手。

 

 机のひびを直す手。

 

 ココアを淹れる手。

 

 ワタシのリボンを縫う手。

 

 五歳の時、泣きながら約束したワタシの手を握った手。

 

 雨の山で、泥だらけになりながらワタシを背負った手。

 

 本家の軒下で、地面に置かれていた手。

 

 ワタシは、そっと自分の手を重ねた。

 

「……及第点」

 

「よかった」

 

「ただし」

 

「うん」

 

「こういうの、毎回やるとありがたみが薄れるから」

 

「うん」

 

「でも、やらないと怒るから」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

 ワタシは金田君の手を少しだけ握った。

 

 金田君も握り返す。

 

 強くない。

 

 弱くもない。

 

 ワタシが壊さなくて済む強さ。

 

 金田君が離れないとわかる強さ。

 

 そういう、ちょうどいい力。

 

 腹立つくらい、ちょうどいい。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「金田君の部屋って、落ち着くわね」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

「よかった」

 

「……調子に乗らないで」

 

「乗ってない」

 

「ワタシが落ち着くって言っただけで、別に特別な意味はないから」

 

「うん」

 

「ないけど」

 

「うん」

 

「また来てもいいわ」

 

「うん」

 

「歓迎しなさい」

 

「いつでも来ていい」

 

「っ」

 

 ワタシは手を離した。

 

 危なかった。

 

 今、握力が少し上がりかけた。

 

 金田君の手を壊すところだった。

 

 いや、壊さない。

 

 絶対に壊さない。

 

 ワタシは触れるもの皆壊す女だけど、金田君だけは壊したくない。

 

 それが一番面倒くさい。

 

 大事にしたいものほど、触るのが怖い。

 

 だからワタシは怒る。

 

 怒って距離を取る。

 

 怒って、触れない理由を作る。

 

 でも金田君は、いつもその距離に入ってくる。

 

 無理にではなく。

 

 逃げ道を残したまま。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシ、たぶん面倒くさいわ」

 

「知ってる」

 

「さっきも聞いたけど、ほんとに飽きない?」

 

「飽きない」

 

「ほんとに?」

 

「うん」

 

「本家に帰っても?」

 

「迎えに行く」

 

「黒マスクでも?」

 

「似合ってる」

 

「クソデカリボンでも?」

 

「かわいい」

 

「急に刺すな!」

 

「ごめん」

 

「謝るな!」

 

 ワタシは膝掛けに顔を埋めた。

 

 猫が柔らかい。

 

 もう駄目だ。

 

 今日のワタシは負けている。

 

 何に負けているのかは、知らない。

 

 たぶん、金田君が淹れた牛乳多めのココアに。

 

 たぶん、不揃いな縫い目に。

 

 たぶん、「いつでも来ていい」の一言に。

 

 下の階から、金田君のお母さんの声がした。

 

「金田ー、妃花ちゃーん。クッキー焼けたけど食べる?」

 

 ワタシは顔を上げた。

 

 金田君を見る。

 

 金田君もワタシを見る。

 

「食べる?」

 

「当然でしょう」

 

「持ってくる」

 

「待ちなさい」

 

「何?」

 

「一緒に行くわ」

 

「うん」

 

「姑への印象管理は大事だから」

 

「姑」

 

「将来的な話よ」

 

「中学生だけど」

 

「もうそれ禁止!」

 

 ワタシたちは立ち上がった。

 

 部屋を出る前に、ワタシはふと振り返る。

 

 ローテーブルの上には、飲みかけのココアが二つ。

 

 裁縫箱。

 

 糸くず。

 

 猫の膝掛け。

 

 それから、ワタシの黒いリボンから切り取られた、ほんの小さなほつれ糸。

 

 何でもないものばかり。

 

 けれど、妙に大事なものに見えた。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日の反省会」

 

「うん」

 

「一応、合格にしてあげる」

 

「よかった」

 

「一応よ」

 

「うん」

 

「でも、追加議題があるわ」

 

「何?」

 

 ワタシは階段へ向かいながら言った。

 

「次のおうちデートの予定について」

 

 金田君は少しだけ黙った。

 

 そして、いつもの顔で言った。

 

「来週の水曜、部活ない」

 

「……調べてたの?」

 

「妃花がまた来たいって言うかと思って」

 

「予測するな!」

 

「ごめん」

 

「謝るな!」

 

 ワタシは階段を一段降りた。

 

 そして、小さく付け加えた。

 

「……でも、水曜でいいわ」

 

「うん」

 

「ココアは今日と同じ」

 

「マシュマロ三個」

 

「クッキーも」

 

「母さんに頼む」

 

「ワタシも焼くわ」

 

「楽しみ」

 

「失敗すると思ってない?」

 

「思ってない」

 

「当然ね。料理ヨシだから」

 

「うん」

 

「洗濯も手芸も掃除も成績もヨシよ」

 

「知ってる」

 

「ただし、触れるもの皆壊す」

 

「知ってる」

 

「そこは否定しなさいよ」

 

「そこも妃花だから」

 

 ワタシは階段の途中で止まった。

 

 振り返る。

 

 金田君は一段上にいた。

 

 ワタシを見下ろす位置。

 

 少しだけ、夕方の光が横から入って、金田君の顔を照らしていた。

 

 腹立つ。

 

 ほんと、腹立つ。

 

 そういうことを、何でもないみたいに言う。

 

 ワタシが一番欲しい言葉を、欲しい形ではくれないくせに。

 

 欲しかったことに気づいていなかった言葉を、急にくれる。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「下りてきなさい」

 

「うん」

 

「手」

 

 金田君は、何も聞かずに手を差し出した。

 

 ワタシはそれを握った。

 

 階段を下りるには、少し邪魔だった。

 

 でも、離さなかった。

 

 下の階から、甘いクッキーの匂いがした。

 

 ワタシの黒いクソデカリボンは、金田君の不揃いな縫い目を隠して、ちゃんと頭の上に乗っている。

 

 猫の膝掛けは部屋に置いてきた。

 

 ココアもまだ残っている。

 

 反省会は、終わったようで終わっていない。

 

 きっと、来週の水曜も、その次も、似たようなことで怒る。

 

 ワタシはまたムカムカして、金田君はまたココアを淹れて、どちらが悪いか半分ずつ分け合う。

 

 それでいい。

 

 今のところは。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「クッキー、何枚食べる?」

 

「三枚」

 

「夕飯前だけど」

 

「奥さんの食欲に口を出す気?」

 

「五枚持ってくる」

 

「増やすな!」

 

「三枚食べて、二枚持って帰る」

 

「……」

 

「家の人にも」

 

「……そういうところよ」

 

「うん」

 

「ほんと、腹立つ」

 

「うん」

 

「大嫌い」

 

「うん」

 

「だから、水曜も空けておきなさい」

 

「空けてる」

 

「よろしい」

 

 ワタシは金田君の手を握ったまま、台所へ向かった。

 

 甘い匂い。

 

 あたたかい部屋。

 

 いつもの家。

 

 いつもの幼馴染。

 

 そして、今日も夫婦面をやめられないワタシ。

 

 まあ。

 

 悪くない。

 

 かなり、悪くない。

 

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