倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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第三話 妃花ちゃんと金田君は、周囲から見てもだいぶおかしい

 

 翌朝。

 

 ワタシが教室に入った瞬間、空気が変わった。

 

 ざわ、とまではいかない。

 

 けれど、明らかに何人かの視線がこちらを向いた。

 

 女子が二人、ひそひそ話をやめる。

 

 男子が三人、妙に姿勢を正す。

 

 黒板前でプリントを配っていた学級委員が、ワタシと目が合った瞬間に微笑んだ。

 

 微笑んだ?

 

 なぜ?

 

 ワタシは警戒した。

 

 こういう時の人間は、だいたい余計なことを知っている。

 

「おはよう、妃花ちゃん」

 

「おはようございます」

 

 ワタシは、完璧な礼儀で返した。

 

 学校でのワタシは、朱色のインテークツインテールに青紐リボン、眼鏡。

 

 制服もきちんと着る。

 

 姿勢も良い。

 

 成績も良い。

 

 料理洗濯手芸掃除もヨシ。

 

 つまり外面は完璧だ。

 

 なお、昨日は机とロッカーを破壊した。

 

 その件は反省している。

 

 反省しているが、あれは金田君にも半分くらい責任がある。

 

 理由は、ワタシを不安にさせたから。

 

 異論は反省会で受け付ける。

 

 ワタシが席に着くと、前の席の女子、佐伯さんが振り返った。

 

 彼女はふわふわした髪の、いつも穏やかな子だ。

 

 成績は中の上。

 

 運動はやや苦手。

 

 恋愛話が好き。

 

 つまり危険人物である。

 

「妃花ちゃん」

 

「なにかしら」

 

「昨日、金田君の家に行ったんだって?」

 

 早い。

 

 情報が早すぎる。

 

 ワタシは眼鏡を押し上げた。

 

「……誰から聞いたの」

 

「金田君のお母さんが、うちのお母さんとスーパーで会ったらしくて」

 

「情報網が地域密着型すぎるわ」

 

「クッキー食べたんでしょ?」

 

「食べたわ」

 

「何枚?」

 

「三枚」

 

「持って帰った?」

 

「二枚」

 

「やっぱり」

 

「なぜ、やっぱりなの」

 

 佐伯さんは、にこにこしていた。

 

 その表情が非常によくない。

 

 完全に面白がっている。

 

「金田君って、そういうところあるよね」

 

「そういうところとは?」

 

「妃花ちゃんが言う前に、妃花ちゃんが欲しいものを用意してるところ」

 

「……」

 

「昨日もココアだったんでしょ?」

 

「なぜそれを」

 

「金田君が朝、牛乳パック捨ててたから」

 

「観察力が探偵なの?」

 

 ワタシは鞄を机に置いた。

 

 少しだけ強めに置いてしまい、机がぎし、と鳴る。

 

 近くの男子がびくっとした。

 

 失礼な。

 

 今日は壊さない。

 

 たぶん。

 

「別に、昨日は反省会よ」

 

「おうちデートじゃなくて?」

 

「反省会よ」

 

「でも部屋着に着替えたんでしょ?」

 

 ワタシは固まった。

 

「誰が」

 

「金田君のお母さんが」

 

「あの人、情報開示の範囲が広いわね……!」

 

「黒いリボン、金田君が直してくれたって」

 

「そこまで!?」

 

 ワタシは思わず立ち上がった。

 

 教室が静かになる。

 

 窓際の男子が、反射的に自分の机を押さえた。

 

 失礼な。

 

 押さえても壊れる時は壊れる。

 

 いや、今日は壊さない。

 

「妃花ちゃん」

 

 佐伯さんは、両手を合わせて言った。

 

「それもう夫婦じゃん」

 

「そうよ」

 

「否定しないんだ」

 

「五歳からの契約だから」

 

「契約」

 

「婚約とも言うわ」

 

「金田君は?」

 

「泣いてたわ」

 

「えっ」

 

「でも約束したもの」

 

 佐伯さんは一瞬、何か言いたげに口を開いた。

 

 だが、すぐに閉じた。

 

 おそらく、突っ込んではいけない種類の歴史だと判断したのだろう。

 

 賢明だ。

 

 その時、教室の後ろの扉が開いた。

 

 金田君が入ってきた。

 

 いつも通りだった。

 

 髪は寝癖なし。

 

 制服は少しだけ古いけれど清潔。

 

 鞄は片側にかけている。

 

 片手には、小さな紙袋。

 

 ワタシはそれを見た瞬間、眉をひそめた。

 

「金田君」

 

「おはよう」

 

「それは?」

 

「昨日のクッキー」

 

「持ってきたの?」

 

「妃花、朝は甘いもの食べると機嫌が少し戻るから」

 

 教室が、完全に静止した。

 

 佐伯さんが両手で口を押さえた。

 

 男子の一人が「うわ」と小声で言った。

 

 別の男子が「熟年かよ」と呟いた。

 

 ワタシは振り返った。

 

「誰が熟年よ」

 

「すみませんでした」

 

 男子は即座に謝った。

 

 よろしい。

 

 反省が早いのは良いことだ。

 

 金田君は何事もなかったかのように、ワタシの机の横に来た。

 

 そして紙袋を差し出す。

 

「二枚。割れてない」

 

「……」

 

「あと、昨日のリボン」

 

「リボン?」

 

「糸、少し残ってたから切った」

 

「……」

 

「今日、学校用だから関係ないけど」

 

 金田君はそこで少しだけ黙って、ワタシの青い紐リボンを見た。

 

「そっちも、右が少し緩い」

 

「っ」

 

 ワタシは反射的にリボンに手をやった。

 

 確かに、少しだけ緩い。

 

 朝、急いだからだ。

 

 そんなもの、普通は気づかない。

 

 普通は。

 

 金田君は気づく。

 

 腹立つ。

 

 本当に腹立つ。

 

「直す?」

 

「……ここで?」

 

「人いるから、やめる?」

 

「当然よ」

 

「じゃあ昼休み」

 

「なんで昼休みならいいのよ」

 

「人が少ない」

 

「そういう問題じゃないわ!」

 

 また教室がざわついた。

 

 佐伯さんが隣の女子と目を合わせている。

 

 男子たちは、妙な顔をしている。

 

 なんだ。

 

 何がおかしい。

 

 ワタシと金田君は、いつも通りだ。

 

 五歳からずっとこうだ。

 

 夫婦喧嘩をして、反省会をして、ココアを飲んで、リボンを直して、翌朝クッキーを持ってくる。

 

 普通では?

 

 いや、普通ではないかもしれない。

 

 でも、こちらでは通常運転だ。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「席に着きなさい」

 

「うん」

 

「あと、クッキーは昼に食べるわ」

 

「朝じゃなくていい?」

 

「今食べたら、佐伯さんがさらにうるさいから」

 

「もう遅いと思う」

 

「金田君?」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「今のは謝るところじゃない?」

 

「……半分くらい」

 

 金田君は少しだけ笑って、自分の席へ向かった。

 

 その背中を見送ってから、ワタシは座る。

 

 佐伯さんが、机に頬杖をついてこちらを見ていた。

 

「なにかしら」

 

「妃花ちゃんってさ」

 

「ええ」

 

「金田君のこと、めちゃくちゃ好きだよね」

 

 ワタシは眼鏡を外した。

 

 レンズをハンカチで拭く。

 

 呼吸を整える。

 

 衝動的に机を破壊しないように、深く息を吸う。

 

 吐く。

 

 よし。

 

「佐伯さん」

 

「はい」

 

「そういうことは、軽々しく口にするものではないわ」

 

「違うの?」

 

「違わないけれど!」

 

 教室のざわめきが爆発した。

 

 男子が数人、机に突っ伏した。

 

 女子が「きゃー」ではなく「ひゃあ」と妙な声を出した。

 

 学級委員が黒板前でプリントを落とした。

 

 ワタシはハンカチを握った。

 

 まずい。

 

 これはまずい。

 

 完全に乗せられた。

 

「違わないんだ……」

 

 佐伯さんがしみじみ言う。

 

 ワタシは眼鏡をかけ直した。

 

「契約相手として、当然の情よ」

 

「好きってこと?」

 

「契約上の情よ」

 

「好きってことだ」

 

「聞き分けが悪いわね!」

 

 その瞬間、担任が入ってきた。

 

「おーい、席着けー。朝から何を盛り上がってるんだー」

 

 助かった。

 

 ワタシは背筋を伸ばす。

 

 教室は少しずつ静かになった。

 

 担任は出席簿を開きながら、ちらっとワタシの席を見た。

 

「妃花」

 

「はい」

 

「昨日の机とロッカーの件な」

 

「はい」

 

「用務員さんが、補修は今日の放課後でいいそうだ。金田も手伝うって聞いてる」

 

「はい」

 

 そこで担任は、なぜか少しだけ笑った。

 

「まあ、夫婦で責任取るならいいだろ」

 

 教室が再びざわついた。

 

 ワタシは立ち上がりかけた。

 

 金田君が後ろの席から言った。

 

「先生」

 

「ん?」

 

「まだ中学生です」

 

 教室が爆笑した。

 

 ワタシは振り返った。

 

「そこじゃないでしょ!」

 

 金田君は真面目な顔で首を傾げた。

 

 腹立つ。

 

 ほんと腹立つ。

 

 でも、その場の空気が少し緩んだ。

 

 昨日、物を壊したことへの怖がり方が、少しだけ薄まった。

 

 金田君はそういうことをする。

 

 ワタシが悪目立ちしないように、こっそり空気を変える。

 

 笑われる側に半分入ってくる。

 

 ワタシ一人を、壊す女として教室の真ん中に立たせない。

 

 そういうところだ。

 

 そういうところが。

 

 大嫌い。

 

 大嫌いだから、昼休みにクッキーを一枚分けてあげる。

 

 半分ではない。

 

 一枚だ。

 

 夫婦だから。

 

     *

 

 昼休み。

 

 ワタシは教室の隅で弁当を広げていた。

 

 今日の弁当は自作だ。

 

 卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、鶏の照り焼き、ミニトマト。

 

 彩りヨシ。

 

 栄養ヨシ。

 

 詰め方ヨシ。

 

 完璧。

 

 なお、卵焼きは金田君の好みに合わせて少し甘め。

 

 別に、金田君のために作ったわけではない。

 

 ワタシが食べたいから作った。

 

 そこを間違えてはいけない。

 

 金田君が自分の弁当を持って、当然のように隣に座る。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「卵焼き、一個交換していい?」

 

「なぜ?」

 

「好きだから」

 

「ワタシの卵焼きが?」

 

「うん」

 

「……」

 

「だめ?」

 

「だめとは言ってないわ」

 

 ワタシは卵焼きを一つ、金田君の弁当箱に入れた。

 

 金田君は代わりに、唐揚げを一つ入れてくる。

 

「ありがとう」

 

「礼はいいわ」

 

「いただきます」

 

「味わいなさい」

 

「うん」

 

 金田君は卵焼きを食べた。

 

 そして、少しだけ目元を緩めた。

 

「おいしい」

 

「当然よ」

 

「昨日より甘い」

 

「……」

 

「俺の好きな味」

 

「黙って食べなさい」

 

「うん」

 

 近くの席で弁当を食べていた男子、山岸君が箸を止めた。

 

「お前らさ」

 

 嫌な予感がした。

 

「何?」

 

 金田君が返す。

 

 ワタシは無言で山岸君を見る。

 

 山岸君は一瞬たじろいだが、言った。

 

「もう家でやれよ」

 

「昨日やったわよ」

 

「そういう意味じゃねえ!」

 

 周囲がまた笑った。

 

 ワタシは唐揚げを噛んだ。

 

 おいしい。

 

 金田君の家の味だ。

 

 たぶんお母さんが作ったもの。

 

 冷めてもおいしい。

 

「妃花ちゃん」

 

 今度は佐伯さんがやってきた。

 

 彼女は自分の弁当を持って、ワタシの正面に座る。

 

 さらに女子が二人、男子が二人。

 

 なぜか周囲に人が増えた。

 

 いつもはもっと遠巻きなのに。

 

「なにかしら」

 

「ちょっと聞きたいんだけど」

 

「内容によるわ」

 

「金田君って、妃花ちゃんのどこが好きなの?」

 

 金田君が唐揚げを飲み込み損ねた。

 

 ワタシは箸を置いた。

 

「佐伯さん」

 

「はい」

 

「あなた、昼休みに爆弾を投げる趣味があるの?」

 

「気になるじゃん」

 

「気にしなくていいわ」

 

「じゃあ妃花ちゃんは、金田君のどこが好き?」

 

「質問を増やすな」

 

 周囲が前のめりになっている。

 

 男子まで興味津々の顔をしている。

 

 なんだこの状況は。

 

 裁判か。

 

 公開尋問か。

 

 ワタシは深く息を吐いた。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「答えなさい」

 

「俺が?」

 

「夫でしょう」

 

「中学生だけど」

 

「逃げに使うな」

 

 金田君は少し考えた。

 

 教室が静かになる。

 

 やめなさい。

 

 そんなに期待するな。

 

 金田君は、こういう時に派手なことは言わない。

 

 少女漫画のヒーローみたいな台詞も言わない。

 

 たぶん、もっと地味で、もっと腹立つことを言う。

 

「妃花は」

 

「うん」

 

「壊したものを、そのままにしない」

 

 やっぱり、そう来た。

 

 ワタシは目を伏せた。

 

「怒っても、あとで考える。悪かったところは言う。直せるものは直す。直せないものは、次どうするか考える」

 

「……」

 

「あと、俺が困ってる時、怒りながら助ける」

 

 佐伯さんが、ほう、と息を漏らした。

 

 山岸君が「なるほどな」と言った。

 

 ワタシは箸を握った。

 

 折らない。

 

 折らない。

 

 これは学校の箸。

 

 備品ではないが、折ったら面倒。

 

「顔とかじゃないんだ」

 

 女子の一人が言う。

 

 金田君は即答した。

 

「顔も好き」

 

 ワタシの箸が、ぱきん、と折れた。

 

 教室が静かになった。

 

 ワタシは折れた箸を見た。

 

 木製でよかった。

 

 金属なら危なかった。

 

「妃花」

 

 金田君が、自分の予備の箸を差し出した。

 

「使う?」

 

「……使う」

 

「ごめん」

 

「謝るな。今のはワタシが悪い」

 

「でも急に言った」

 

「急に言わせたのは佐伯さんよ」

 

「え、ワタシ?」

 

 佐伯さんが自分を指差す。

 

 ワタシは頷いた。

 

「共同責任ね」

 

「えー」

 

「異論は放課後、反省会で」

 

「参加制なの?」

 

「傍聴は許可制よ」

 

 周囲がまた笑った。

 

 ワタシは金田君の予備の箸で弁当を食べる。

 

 金田君は何も言わず、自分の弁当の蓋を少しこちらに寄せた。

 

 蓋の上に、朝のクッキーが二枚置かれている。

 

 割れていない。

 

 ワタシは一枚取った。

 

 それを半分に割る。

 

 半分を金田君に渡した。

 

 金田君は少し驚いた顔をした。

 

「一枚くれるんじゃなかった?」

 

「半分に減額よ」

 

「なんで」

 

「顔も好きとか急に言ったから」

 

「だめだった?」

 

「だめではないけど」

 

「けど?」

 

「心臓に悪い」

 

 金田君は、何か言いかけてやめた。

 

 珍しい。

 

 そこで佐伯さんが、ふふっと笑った。

 

「妃花ちゃんも答えなよ」

 

「何を」

 

「金田君の好きなところ」

 

「……」

 

 逃げ場がなかった。

 

 右に佐伯さん。

 

 左に山岸君。

 

 前に女子二人。

 

 斜め前に男子二人。

 

 そして隣に金田君。

 

 金田君は、何も言わずにこちらを見ている。

 

 期待しているわけではない。

 

 聞かなくてもいい、という顔。

 

 でも、聞けるなら聞きたい、という顔。

 

 ずるい。

 

 本当にずるい。

 

 ワタシはクッキーを噛んだ。

 

 甘い。

 

 昨日の夜の味がした。

 

 金田君の家の台所。

 

 あたたかい部屋。

 

 黒いリボン。

 

 不揃いな縫い目。

 

 ココア。

 

 手。

 

「……金田君は」

 

 ワタシは、なるべく平静に言った。

 

「ワタシが壊してしまうことを、怖がるより先に、ワタシが傷ついていないか見るの」

 

 周囲が黙った。

 

「それが腹立つ」

 

 金田君が少しだけ目を伏せる。

 

「ワタシが怒っても、置いていかないの」

 

 佐伯さんが、口元を押さえた。

 

「それも腹立つ」

 

 山岸君が何か言おうとして、やめた。

 

「ワタシがそばにいてほしくない時に、ココアとか膝掛けとか持って、ちょうどいい距離にいるの」

 

 ワタシは金田君を見た。

 

「それが、一番腹立つ」

 

「……好きなところの話だよね?」

 

 山岸君が小声で言った。

 

 ワタシは頷いた。

 

「ええ」

 

「全部腹立つじゃん」

 

「好きなところなんて、だいたい腹立つものよ」

 

「名言っぽく言うな」

 

 教室がまた笑った。

 

 でも、さっきとは少し違った。

 

 からかう笑いではなく、納得したような、困ったような、あたたかい笑い。

 

 ワタシは視線を落とした。

 

 金田君の手が、机の下で少しだけ動いた。

 

 手を出してきたわけではない。

 

 ただ、そこにあるとわかる位置に置いた。

 

 ワタシは、見ないふりをして、その手の小指に自分の小指を引っ掛けた。

 

 周囲には見えない。

 

 たぶん。

 

「見えてるよ」

 

 佐伯さんが言った。

 

 ワタシは小指に力を入れた。

 

「金田君」

 

「痛くない」

 

「先に言うな」

 

「うん」

 

     *

 

 放課後。

 

 机とロッカーの補修をするために、ワタシと金田君は教室に残った。

 

 担任と用務員さんも来てくれた。

 

 用務員さんは、昨日へこんだロッカーを見て、妙に感心した顔をした。

 

「いやあ、見事に入ってるねえ」

 

「申し訳ありません」

 

 ワタシは深く頭を下げた。

 

「まあ、怪我人が出なくてよかったよ」

 

「はい」

 

「でも妃花さん、力があるんだから、力の逃がし方を覚えなきゃね」

 

「……はい」

 

「怒るなとは言わないよ。怒るのも大事だ。ただ、壁とロッカーは悪くない」

 

「はい……」

 

 正論だった。

 

 正論は痛い。

 

 拳より痛い。

 

 金田君が隣で工具を受け取る。

 

「俺、何やればいいですか」

 

「金田君はこっち押さえてくれる?」

 

「はい」

 

「妃花さんは、この板を持ってて。力入れすぎないでね」

 

「はい」

 

 力入れすぎない。

 

 これが難しい。

 

 ワタシにとって一番難しいのは、勉強でも料理でも手芸でもない。

 

 壊さないことだ。

 

 そっと持つ。

 

 軽く押さえる。

 

 ゆっくり動かす。

 

 普通の人が普通にやることを、ワタシはいつも意識しないといけない。

 

 疲れる。

 

 面倒くさい。

 

 でも、隣に金田君がいると、少しだけやりやすい。

 

「妃花」

 

「なに」

 

「そこ、もう少し右」

 

「こう?」

 

「うん。力、ちょうどいい」

 

「……そう」

 

「上手い」

 

「褒めるほどのことじゃないわ」

 

「でも上手い」

 

「……うるさい」

 

 用務員さんが、にこにこしている。

 

 担任も腕を組んで見ている。

 

 嫌な予感がする。

 

「お前ら、ほんと息合ってるな」

 

「先生」

 

 ワタシは言った。

 

「それは当然です」

 

「当然なんだ」

 

「五歳からの契約なので」

 

「契約なのか」

 

 担任は笑った。

 

 用務員さんも笑った。

 

 金田君だけが真面目な顔で板を押さえている。

 

 やがて補修が終わると、ロッカーのへこみはだいぶ目立たなくなった。

 

 机のひびも、応急処置としては十分。

 

 ワタシはほっと息を吐いた。

 

「ありがとうございました」

 

「はいよ。次は壊す前に深呼吸ね」

 

「努力します」

 

「金田君、止めてあげてね」

 

「はい」

 

 金田君が即答した。

 

 ワタシは横から睨む。

 

「止めるって何よ」

 

「妃花が怪我しないように」

 

「またそれ」

 

「ロッカーも守る」

 

「ワタシよりロッカー?」

 

「ロッカーは弱い」

 

「ワタシは?」

 

「強い」

 

「よろしい」

 

 担任が「今のでいいんだ」と呟いた。

 

 いいのだ。

 

 ワタシの扱いは難しい。

 

 金田君は、もう十年近くそれをやっている。

 

 年季が違う。

 

 補修道具を片付けていると、教室の入口に人影があった。

 

 佐伯さんたちだ。

 

 山岸君もいる。

 

「……あなたたち、何してるの」

 

「見学」

 

「許可してないわ」

 

「傍聴は許可制って言ってたから、廊下から」

 

「屁理屈を覚えたわね」

 

 佐伯さんは笑いながら、手に持っていた紙袋を差し出した。

 

「これ、差し入れ」

 

「差し入れ?」

 

「購買のパン。補修作業お疲れ様」

 

 ワタシは少し驚いた。

 

 金田君も瞬きをした。

 

 山岸君が、頭を掻きながら言う。

 

「いや、昨日はちょっとビビったけどさ。今日見てたら、なんか……まあ、悪気で壊してるわけじゃねえんだなって」

 

「当たり前でしょう」

 

「いや、うん。悪い」

 

「謝るところよ」

 

「すみません」

 

 山岸君は素直に頭を下げた。

 

 ワタシは、少しだけ力が抜けた。

 

 怖がられるのには慣れている。

 

 遠巻きにされるのにも慣れている。

 

 でも、こうやって戻ってきてくれるのは、慣れていない。

 

 壊した後でも。

 

 怒った後でも。

 

 もう一度、普通の距離に来てくれる人たち。

 

 ワタシは、どう受け取ればいいかわからなかった。

 

「……ありがとう」

 

 だから、普通に言った。

 

 佐伯さんが目を丸くする。

 

「妃花ちゃんが素直」

 

「失礼ね」

 

「かわいい」

 

「やめなさい」

 

 金田君が、紙袋を受け取った。

 

「ありがとう」

 

「金田君もお疲れ」

 

「うん」

 

「妃花ちゃん係」

 

 金田君は少し考えた。

 

「係じゃない」

 

 佐伯さんが首を傾げる。

 

「じゃあ何?」

 

「……隣」

 

 教室の空気が止まった。

 

 ワタシも止まった。

 

 金田君は、何か変なことを言ったつもりがない顔をしている。

 

 こいつ。

 

 こいつは。

 

 ほんとに。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今の、禁止」

 

「だめだった?」

 

「だめではないけど!」

 

 佐伯さんが両手で顔を覆った。

 

 山岸君が天井を見た。

 

 女子の一人が「強い」と呟いた。

 

 男子の一人が「妃花より金田の方が火力ある」と言った。

 

 その通りだ。

 

 ワタシは物理火力。

 

 金田君は精神火力。

 

 後者の方が、時々とても危険である。

 

「帰るわよ、金田君」

 

「うん」

 

「差し入れは持ちなさい」

 

「うん」

 

「今日は反省会追加」

 

「議題は?」

 

「人前で不用意にワタシを照れさせないこと」

 

「照れてた?」

 

「照れてない!」

 

「じゃあ議題は?」

 

「照れてないけど、照れさせないこと!」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが!」

 

「中学生だけど」

 

「それ禁止って言ったでしょ!」

 

 周囲が笑った。

 

 ワタシは顔を赤くしながら、鞄を持った。

 

 金田君が自然に手を伸ばす。

 

 ワタシは睨む。

 

 金田君は止まる。

 

「持っていい?」

 

「……今日は許すわ」

 

「うん」

 

「ただし、ワタシの鞄を持つということは、夫婦の共有責任を負うということよ」

 

「わかった」

 

「ほんとにわかってる?」

 

「重いものは半分」

 

「……」

 

「壊したものも半分」

 

「……」

 

「怒った理由も半分」

 

 ワタシは目を逸らした。

 

 周囲が静かになる。

 

 金田君は、またそういうことを言う。

 

 派手な告白ではない。

 

 甘い台詞でもない。

 

 でも、ワタシが一番欲しかった場所に、当たり前みたいに手を置く。

 

 ワタシだけが悪いわけじゃない。

 

 ワタシだけが怖いわけじゃない。

 

 ワタシだけが壊しているわけじゃない。

 

 そう言ってくれる。

 

 だからワタシは、仕方なく。

 

 本当に仕方なく、金田君の制服の袖を掴んだ。

 

「……帰るわよ」

 

「うん」

 

「今日はココア」

 

「牛乳多め?」

 

「マシュマロ三個」

 

「パンも食べる?」

 

「半分こ」

 

「うん」

 

 佐伯さんが、背後で小さく言った。

 

「夫婦じゃん」

 

 ワタシは振り返らずに答えた。

 

「そうよ」

 

 教室がまた騒がしくなる。

 

 でも、もう振り返らなかった。

 

 金田君も何も言わなかった。

 

 ただ、隣を歩いた。

 

 半歩前でも、半歩後ろでもなく。

 

 ちゃんと隣。

 

 廊下に出ると、夕方の光が床に伸びていた。

 

 昨日と同じ放課後。

 

 でも、少し違う。

 

 昨日より、周囲の声が近い。

 

 昨日より、怖がる視線が少ない。

 

 昨日より、ワタシの手が軽い。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「周り、うるさかったわね」

 

「うん」

 

「でも」

 

「うん」

 

「……悪くはなかったわ」

 

「そっか」

 

「調子に乗らないで」

 

「乗ってない」

 

「あと、隣とか言うの禁止」

 

「なんで」

 

「心臓に悪いから」

 

「妃花も言ってた」

 

「何を」

 

「置いていかないでって」

 

「……忘れなさい」

 

「忘れたくない」

 

「忘れなさい!」

 

 ワタシは拳を握った。

 

 すぐに開いた。

 

 今日は壊さない。

 

 今日は、ちゃんと開けた。

 

 金田君がそれを見ていた。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「今の、上手かった」

 

「……褒めるほどじゃない」

 

「でも上手かった」

 

「うるさい」

 

 ワタシは開いた手で、金田君の袖をもう一度掴んだ。

 

 握り潰さない。

 

 引っ張りすぎない。

 

 ただ、そこにいると確かめるくらい。

 

 そのまま、昇降口へ向かう。

 

 今度は金田君が先に靴を出しに行くことはなかった。

 

 ちゃんと隣にいた。

 

 そして靴箱の前で、ワタシに言った。

 

「妃花」

 

「なに」

 

「靴、出していい?」

 

 ワタシはしばらく黙った。

 

 それから、少しだけ笑ってしまった。

 

「よろしい」

 

 金田君はワタシの靴を出した。

 

 ワタシも、金田君の靴を出した。

 

 周囲から見れば、きっと変な二人だ。

 

 中学生なのに夫婦面して。

 

 喧嘩して。

 

 壊して。

 

 直して。

 

 怒って。

 

 照れて。

 

 それでも隣にいる。

 

 変だと思われても仕方ない。

 

 でも。

 

 ワタシたちは、五歳の時からずっとこうなのだ。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日の反省会、長くなるわよ」

 

「うん」

 

「差し入れのパンは半分」

 

「うん」

 

「ココアは濃いめ」

 

「牛乳多めじゃなくて?」

 

「今日は濃いめ」

 

「わかった」

 

「マシュマロは?」

 

「三個」

 

「よろしい」

 

 外に出ると、夕焼けが眩しかった。

 

 校門の向こうで、佐伯さんたちがまだこちらを見ていた。

 

 手を振ってくる。

 

 ワタシは一瞬迷って、小さく手を上げた。

 

 佐伯さんが嬉しそうに笑った。

 

 山岸君が、なぜか親指を立てた。

 

 なんなの。

 

 でも。

 

 まあ。

 

 悪くない。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「楽しかった?」

 

「……少しだけ」

 

「そっか」

 

「ほんの少しよ」

 

「うん」

 

「勘違いしないで。周囲に認められて嬉しいとか、そういうのじゃないから」

 

「うん」

 

「ただ、まあ」

 

「うん」

 

「ワタシたちを見て、笑ってくれる人がいるのは」

 

 ワタシは、金田君の袖を離した。

 

 代わりに、手を出す。

 

 金田君は何も聞かずに握った。

 

「嫌ではないわ」

 

 金田君は、少しだけ笑った。

 

「うん」

 

 その笑い方が、昔から嫌いだ。

 

 大嫌いだ。

 

 だから、今日も一緒に帰ってあげる。

 

 そして反省会で、たっぷり文句を言ってあげる。

 

 ココアを飲みながら。

 

 差し入れのパンを半分こしながら。

 

 周囲から見てもだいぶおかしい、ワタシたちの普通を。

 

 もう少しだけ、続けてあげる。

 

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