翌朝。
ワタシが教室に入った瞬間、空気が変わった。
ざわ、とまではいかない。
けれど、明らかに何人かの視線がこちらを向いた。
女子が二人、ひそひそ話をやめる。
男子が三人、妙に姿勢を正す。
黒板前でプリントを配っていた学級委員が、ワタシと目が合った瞬間に微笑んだ。
微笑んだ?
なぜ?
ワタシは警戒した。
こういう時の人間は、だいたい余計なことを知っている。
「おはよう、妃花ちゃん」
「おはようございます」
ワタシは、完璧な礼儀で返した。
学校でのワタシは、朱色のインテークツインテールに青紐リボン、眼鏡。
制服もきちんと着る。
姿勢も良い。
成績も良い。
料理洗濯手芸掃除もヨシ。
つまり外面は完璧だ。
なお、昨日は机とロッカーを破壊した。
その件は反省している。
反省しているが、あれは金田君にも半分くらい責任がある。
理由は、ワタシを不安にさせたから。
異論は反省会で受け付ける。
ワタシが席に着くと、前の席の女子、佐伯さんが振り返った。
彼女はふわふわした髪の、いつも穏やかな子だ。
成績は中の上。
運動はやや苦手。
恋愛話が好き。
つまり危険人物である。
「妃花ちゃん」
「なにかしら」
「昨日、金田君の家に行ったんだって?」
早い。
情報が早すぎる。
ワタシは眼鏡を押し上げた。
「……誰から聞いたの」
「金田君のお母さんが、うちのお母さんとスーパーで会ったらしくて」
「情報網が地域密着型すぎるわ」
「クッキー食べたんでしょ?」
「食べたわ」
「何枚?」
「三枚」
「持って帰った?」
「二枚」
「やっぱり」
「なぜ、やっぱりなの」
佐伯さんは、にこにこしていた。
その表情が非常によくない。
完全に面白がっている。
「金田君って、そういうところあるよね」
「そういうところとは?」
「妃花ちゃんが言う前に、妃花ちゃんが欲しいものを用意してるところ」
「……」
「昨日もココアだったんでしょ?」
「なぜそれを」
「金田君が朝、牛乳パック捨ててたから」
「観察力が探偵なの?」
ワタシは鞄を机に置いた。
少しだけ強めに置いてしまい、机がぎし、と鳴る。
近くの男子がびくっとした。
失礼な。
今日は壊さない。
たぶん。
「別に、昨日は反省会よ」
「おうちデートじゃなくて?」
「反省会よ」
「でも部屋着に着替えたんでしょ?」
ワタシは固まった。
「誰が」
「金田君のお母さんが」
「あの人、情報開示の範囲が広いわね……!」
「黒いリボン、金田君が直してくれたって」
「そこまで!?」
ワタシは思わず立ち上がった。
教室が静かになる。
窓際の男子が、反射的に自分の机を押さえた。
失礼な。
押さえても壊れる時は壊れる。
いや、今日は壊さない。
「妃花ちゃん」
佐伯さんは、両手を合わせて言った。
「それもう夫婦じゃん」
「そうよ」
「否定しないんだ」
「五歳からの契約だから」
「契約」
「婚約とも言うわ」
「金田君は?」
「泣いてたわ」
「えっ」
「でも約束したもの」
佐伯さんは一瞬、何か言いたげに口を開いた。
だが、すぐに閉じた。
おそらく、突っ込んではいけない種類の歴史だと判断したのだろう。
賢明だ。
その時、教室の後ろの扉が開いた。
金田君が入ってきた。
いつも通りだった。
髪は寝癖なし。
制服は少しだけ古いけれど清潔。
鞄は片側にかけている。
片手には、小さな紙袋。
ワタシはそれを見た瞬間、眉をひそめた。
「金田君」
「おはよう」
「それは?」
「昨日のクッキー」
「持ってきたの?」
「妃花、朝は甘いもの食べると機嫌が少し戻るから」
教室が、完全に静止した。
佐伯さんが両手で口を押さえた。
男子の一人が「うわ」と小声で言った。
別の男子が「熟年かよ」と呟いた。
ワタシは振り返った。
「誰が熟年よ」
「すみませんでした」
男子は即座に謝った。
よろしい。
反省が早いのは良いことだ。
金田君は何事もなかったかのように、ワタシの机の横に来た。
そして紙袋を差し出す。
「二枚。割れてない」
「……」
「あと、昨日のリボン」
「リボン?」
「糸、少し残ってたから切った」
「……」
「今日、学校用だから関係ないけど」
金田君はそこで少しだけ黙って、ワタシの青い紐リボンを見た。
「そっちも、右が少し緩い」
「っ」
ワタシは反射的にリボンに手をやった。
確かに、少しだけ緩い。
朝、急いだからだ。
そんなもの、普通は気づかない。
普通は。
金田君は気づく。
腹立つ。
本当に腹立つ。
「直す?」
「……ここで?」
「人いるから、やめる?」
「当然よ」
「じゃあ昼休み」
「なんで昼休みならいいのよ」
「人が少ない」
「そういう問題じゃないわ!」
また教室がざわついた。
佐伯さんが隣の女子と目を合わせている。
男子たちは、妙な顔をしている。
なんだ。
何がおかしい。
ワタシと金田君は、いつも通りだ。
五歳からずっとこうだ。
夫婦喧嘩をして、反省会をして、ココアを飲んで、リボンを直して、翌朝クッキーを持ってくる。
普通では?
いや、普通ではないかもしれない。
でも、こちらでは通常運転だ。
「金田君」
「うん」
「席に着きなさい」
「うん」
「あと、クッキーは昼に食べるわ」
「朝じゃなくていい?」
「今食べたら、佐伯さんがさらにうるさいから」
「もう遅いと思う」
「金田君?」
「ごめん」
「謝るな」
「今のは謝るところじゃない?」
「……半分くらい」
金田君は少しだけ笑って、自分の席へ向かった。
その背中を見送ってから、ワタシは座る。
佐伯さんが、机に頬杖をついてこちらを見ていた。
「なにかしら」
「妃花ちゃんってさ」
「ええ」
「金田君のこと、めちゃくちゃ好きだよね」
ワタシは眼鏡を外した。
レンズをハンカチで拭く。
呼吸を整える。
衝動的に机を破壊しないように、深く息を吸う。
吐く。
よし。
「佐伯さん」
「はい」
「そういうことは、軽々しく口にするものではないわ」
「違うの?」
「違わないけれど!」
教室のざわめきが爆発した。
男子が数人、机に突っ伏した。
女子が「きゃー」ではなく「ひゃあ」と妙な声を出した。
学級委員が黒板前でプリントを落とした。
ワタシはハンカチを握った。
まずい。
これはまずい。
完全に乗せられた。
「違わないんだ……」
佐伯さんがしみじみ言う。
ワタシは眼鏡をかけ直した。
「契約相手として、当然の情よ」
「好きってこと?」
「契約上の情よ」
「好きってことだ」
「聞き分けが悪いわね!」
その瞬間、担任が入ってきた。
「おーい、席着けー。朝から何を盛り上がってるんだー」
助かった。
ワタシは背筋を伸ばす。
教室は少しずつ静かになった。
担任は出席簿を開きながら、ちらっとワタシの席を見た。
「妃花」
「はい」
「昨日の机とロッカーの件な」
「はい」
「用務員さんが、補修は今日の放課後でいいそうだ。金田も手伝うって聞いてる」
「はい」
そこで担任は、なぜか少しだけ笑った。
「まあ、夫婦で責任取るならいいだろ」
教室が再びざわついた。
ワタシは立ち上がりかけた。
金田君が後ろの席から言った。
「先生」
「ん?」
「まだ中学生です」
教室が爆笑した。
ワタシは振り返った。
「そこじゃないでしょ!」
金田君は真面目な顔で首を傾げた。
腹立つ。
ほんと腹立つ。
でも、その場の空気が少し緩んだ。
昨日、物を壊したことへの怖がり方が、少しだけ薄まった。
金田君はそういうことをする。
ワタシが悪目立ちしないように、こっそり空気を変える。
笑われる側に半分入ってくる。
ワタシ一人を、壊す女として教室の真ん中に立たせない。
そういうところだ。
そういうところが。
大嫌い。
大嫌いだから、昼休みにクッキーを一枚分けてあげる。
半分ではない。
一枚だ。
夫婦だから。
*
昼休み。
ワタシは教室の隅で弁当を広げていた。
今日の弁当は自作だ。
卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、鶏の照り焼き、ミニトマト。
彩りヨシ。
栄養ヨシ。
詰め方ヨシ。
完璧。
なお、卵焼きは金田君の好みに合わせて少し甘め。
別に、金田君のために作ったわけではない。
ワタシが食べたいから作った。
そこを間違えてはいけない。
金田君が自分の弁当を持って、当然のように隣に座る。
「妃花」
「なによ」
「卵焼き、一個交換していい?」
「なぜ?」
「好きだから」
「ワタシの卵焼きが?」
「うん」
「……」
「だめ?」
「だめとは言ってないわ」
ワタシは卵焼きを一つ、金田君の弁当箱に入れた。
金田君は代わりに、唐揚げを一つ入れてくる。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「いただきます」
「味わいなさい」
「うん」
金田君は卵焼きを食べた。
そして、少しだけ目元を緩めた。
「おいしい」
「当然よ」
「昨日より甘い」
「……」
「俺の好きな味」
「黙って食べなさい」
「うん」
近くの席で弁当を食べていた男子、山岸君が箸を止めた。
「お前らさ」
嫌な予感がした。
「何?」
金田君が返す。
ワタシは無言で山岸君を見る。
山岸君は一瞬たじろいだが、言った。
「もう家でやれよ」
「昨日やったわよ」
「そういう意味じゃねえ!」
周囲がまた笑った。
ワタシは唐揚げを噛んだ。
おいしい。
金田君の家の味だ。
たぶんお母さんが作ったもの。
冷めてもおいしい。
「妃花ちゃん」
今度は佐伯さんがやってきた。
彼女は自分の弁当を持って、ワタシの正面に座る。
さらに女子が二人、男子が二人。
なぜか周囲に人が増えた。
いつもはもっと遠巻きなのに。
「なにかしら」
「ちょっと聞きたいんだけど」
「内容によるわ」
「金田君って、妃花ちゃんのどこが好きなの?」
金田君が唐揚げを飲み込み損ねた。
ワタシは箸を置いた。
「佐伯さん」
「はい」
「あなた、昼休みに爆弾を投げる趣味があるの?」
「気になるじゃん」
「気にしなくていいわ」
「じゃあ妃花ちゃんは、金田君のどこが好き?」
「質問を増やすな」
周囲が前のめりになっている。
男子まで興味津々の顔をしている。
なんだこの状況は。
裁判か。
公開尋問か。
ワタシは深く息を吐いた。
「金田君」
「うん」
「答えなさい」
「俺が?」
「夫でしょう」
「中学生だけど」
「逃げに使うな」
金田君は少し考えた。
教室が静かになる。
やめなさい。
そんなに期待するな。
金田君は、こういう時に派手なことは言わない。
少女漫画のヒーローみたいな台詞も言わない。
たぶん、もっと地味で、もっと腹立つことを言う。
「妃花は」
「うん」
「壊したものを、そのままにしない」
やっぱり、そう来た。
ワタシは目を伏せた。
「怒っても、あとで考える。悪かったところは言う。直せるものは直す。直せないものは、次どうするか考える」
「……」
「あと、俺が困ってる時、怒りながら助ける」
佐伯さんが、ほう、と息を漏らした。
山岸君が「なるほどな」と言った。
ワタシは箸を握った。
折らない。
折らない。
これは学校の箸。
備品ではないが、折ったら面倒。
「顔とかじゃないんだ」
女子の一人が言う。
金田君は即答した。
「顔も好き」
ワタシの箸が、ぱきん、と折れた。
教室が静かになった。
ワタシは折れた箸を見た。
木製でよかった。
金属なら危なかった。
「妃花」
金田君が、自分の予備の箸を差し出した。
「使う?」
「……使う」
「ごめん」
「謝るな。今のはワタシが悪い」
「でも急に言った」
「急に言わせたのは佐伯さんよ」
「え、ワタシ?」
佐伯さんが自分を指差す。
ワタシは頷いた。
「共同責任ね」
「えー」
「異論は放課後、反省会で」
「参加制なの?」
「傍聴は許可制よ」
周囲がまた笑った。
ワタシは金田君の予備の箸で弁当を食べる。
金田君は何も言わず、自分の弁当の蓋を少しこちらに寄せた。
蓋の上に、朝のクッキーが二枚置かれている。
割れていない。
ワタシは一枚取った。
それを半分に割る。
半分を金田君に渡した。
金田君は少し驚いた顔をした。
「一枚くれるんじゃなかった?」
「半分に減額よ」
「なんで」
「顔も好きとか急に言ったから」
「だめだった?」
「だめではないけど」
「けど?」
「心臓に悪い」
金田君は、何か言いかけてやめた。
珍しい。
そこで佐伯さんが、ふふっと笑った。
「妃花ちゃんも答えなよ」
「何を」
「金田君の好きなところ」
「……」
逃げ場がなかった。
右に佐伯さん。
左に山岸君。
前に女子二人。
斜め前に男子二人。
そして隣に金田君。
金田君は、何も言わずにこちらを見ている。
期待しているわけではない。
聞かなくてもいい、という顔。
でも、聞けるなら聞きたい、という顔。
ずるい。
本当にずるい。
ワタシはクッキーを噛んだ。
甘い。
昨日の夜の味がした。
金田君の家の台所。
あたたかい部屋。
黒いリボン。
不揃いな縫い目。
ココア。
手。
「……金田君は」
ワタシは、なるべく平静に言った。
「ワタシが壊してしまうことを、怖がるより先に、ワタシが傷ついていないか見るの」
周囲が黙った。
「それが腹立つ」
金田君が少しだけ目を伏せる。
「ワタシが怒っても、置いていかないの」
佐伯さんが、口元を押さえた。
「それも腹立つ」
山岸君が何か言おうとして、やめた。
「ワタシがそばにいてほしくない時に、ココアとか膝掛けとか持って、ちょうどいい距離にいるの」
ワタシは金田君を見た。
「それが、一番腹立つ」
「……好きなところの話だよね?」
山岸君が小声で言った。
ワタシは頷いた。
「ええ」
「全部腹立つじゃん」
「好きなところなんて、だいたい腹立つものよ」
「名言っぽく言うな」
教室がまた笑った。
でも、さっきとは少し違った。
からかう笑いではなく、納得したような、困ったような、あたたかい笑い。
ワタシは視線を落とした。
金田君の手が、机の下で少しだけ動いた。
手を出してきたわけではない。
ただ、そこにあるとわかる位置に置いた。
ワタシは、見ないふりをして、その手の小指に自分の小指を引っ掛けた。
周囲には見えない。
たぶん。
「見えてるよ」
佐伯さんが言った。
ワタシは小指に力を入れた。
「金田君」
「痛くない」
「先に言うな」
「うん」
*
放課後。
机とロッカーの補修をするために、ワタシと金田君は教室に残った。
担任と用務員さんも来てくれた。
用務員さんは、昨日へこんだロッカーを見て、妙に感心した顔をした。
「いやあ、見事に入ってるねえ」
「申し訳ありません」
ワタシは深く頭を下げた。
「まあ、怪我人が出なくてよかったよ」
「はい」
「でも妃花さん、力があるんだから、力の逃がし方を覚えなきゃね」
「……はい」
「怒るなとは言わないよ。怒るのも大事だ。ただ、壁とロッカーは悪くない」
「はい……」
正論だった。
正論は痛い。
拳より痛い。
金田君が隣で工具を受け取る。
「俺、何やればいいですか」
「金田君はこっち押さえてくれる?」
「はい」
「妃花さんは、この板を持ってて。力入れすぎないでね」
「はい」
力入れすぎない。
これが難しい。
ワタシにとって一番難しいのは、勉強でも料理でも手芸でもない。
壊さないことだ。
そっと持つ。
軽く押さえる。
ゆっくり動かす。
普通の人が普通にやることを、ワタシはいつも意識しないといけない。
疲れる。
面倒くさい。
でも、隣に金田君がいると、少しだけやりやすい。
「妃花」
「なに」
「そこ、もう少し右」
「こう?」
「うん。力、ちょうどいい」
「……そう」
「上手い」
「褒めるほどのことじゃないわ」
「でも上手い」
「……うるさい」
用務員さんが、にこにこしている。
担任も腕を組んで見ている。
嫌な予感がする。
「お前ら、ほんと息合ってるな」
「先生」
ワタシは言った。
「それは当然です」
「当然なんだ」
「五歳からの契約なので」
「契約なのか」
担任は笑った。
用務員さんも笑った。
金田君だけが真面目な顔で板を押さえている。
やがて補修が終わると、ロッカーのへこみはだいぶ目立たなくなった。
机のひびも、応急処置としては十分。
ワタシはほっと息を吐いた。
「ありがとうございました」
「はいよ。次は壊す前に深呼吸ね」
「努力します」
「金田君、止めてあげてね」
「はい」
金田君が即答した。
ワタシは横から睨む。
「止めるって何よ」
「妃花が怪我しないように」
「またそれ」
「ロッカーも守る」
「ワタシよりロッカー?」
「ロッカーは弱い」
「ワタシは?」
「強い」
「よろしい」
担任が「今のでいいんだ」と呟いた。
いいのだ。
ワタシの扱いは難しい。
金田君は、もう十年近くそれをやっている。
年季が違う。
補修道具を片付けていると、教室の入口に人影があった。
佐伯さんたちだ。
山岸君もいる。
「……あなたたち、何してるの」
「見学」
「許可してないわ」
「傍聴は許可制って言ってたから、廊下から」
「屁理屈を覚えたわね」
佐伯さんは笑いながら、手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、差し入れ」
「差し入れ?」
「購買のパン。補修作業お疲れ様」
ワタシは少し驚いた。
金田君も瞬きをした。
山岸君が、頭を掻きながら言う。
「いや、昨日はちょっとビビったけどさ。今日見てたら、なんか……まあ、悪気で壊してるわけじゃねえんだなって」
「当たり前でしょう」
「いや、うん。悪い」
「謝るところよ」
「すみません」
山岸君は素直に頭を下げた。
ワタシは、少しだけ力が抜けた。
怖がられるのには慣れている。
遠巻きにされるのにも慣れている。
でも、こうやって戻ってきてくれるのは、慣れていない。
壊した後でも。
怒った後でも。
もう一度、普通の距離に来てくれる人たち。
ワタシは、どう受け取ればいいかわからなかった。
「……ありがとう」
だから、普通に言った。
佐伯さんが目を丸くする。
「妃花ちゃんが素直」
「失礼ね」
「かわいい」
「やめなさい」
金田君が、紙袋を受け取った。
「ありがとう」
「金田君もお疲れ」
「うん」
「妃花ちゃん係」
金田君は少し考えた。
「係じゃない」
佐伯さんが首を傾げる。
「じゃあ何?」
「……隣」
教室の空気が止まった。
ワタシも止まった。
金田君は、何か変なことを言ったつもりがない顔をしている。
こいつ。
こいつは。
ほんとに。
「金田君」
「うん」
「今の、禁止」
「だめだった?」
「だめではないけど!」
佐伯さんが両手で顔を覆った。
山岸君が天井を見た。
女子の一人が「強い」と呟いた。
男子の一人が「妃花より金田の方が火力ある」と言った。
その通りだ。
ワタシは物理火力。
金田君は精神火力。
後者の方が、時々とても危険である。
「帰るわよ、金田君」
「うん」
「差し入れは持ちなさい」
「うん」
「今日は反省会追加」
「議題は?」
「人前で不用意にワタシを照れさせないこと」
「照れてた?」
「照れてない!」
「じゃあ議題は?」
「照れてないけど、照れさせないこと!」
「難しい」
「夫でしょうが!」
「中学生だけど」
「それ禁止って言ったでしょ!」
周囲が笑った。
ワタシは顔を赤くしながら、鞄を持った。
金田君が自然に手を伸ばす。
ワタシは睨む。
金田君は止まる。
「持っていい?」
「……今日は許すわ」
「うん」
「ただし、ワタシの鞄を持つということは、夫婦の共有責任を負うということよ」
「わかった」
「ほんとにわかってる?」
「重いものは半分」
「……」
「壊したものも半分」
「……」
「怒った理由も半分」
ワタシは目を逸らした。
周囲が静かになる。
金田君は、またそういうことを言う。
派手な告白ではない。
甘い台詞でもない。
でも、ワタシが一番欲しかった場所に、当たり前みたいに手を置く。
ワタシだけが悪いわけじゃない。
ワタシだけが怖いわけじゃない。
ワタシだけが壊しているわけじゃない。
そう言ってくれる。
だからワタシは、仕方なく。
本当に仕方なく、金田君の制服の袖を掴んだ。
「……帰るわよ」
「うん」
「今日はココア」
「牛乳多め?」
「マシュマロ三個」
「パンも食べる?」
「半分こ」
「うん」
佐伯さんが、背後で小さく言った。
「夫婦じゃん」
ワタシは振り返らずに答えた。
「そうよ」
教室がまた騒がしくなる。
でも、もう振り返らなかった。
金田君も何も言わなかった。
ただ、隣を歩いた。
半歩前でも、半歩後ろでもなく。
ちゃんと隣。
廊下に出ると、夕方の光が床に伸びていた。
昨日と同じ放課後。
でも、少し違う。
昨日より、周囲の声が近い。
昨日より、怖がる視線が少ない。
昨日より、ワタシの手が軽い。
「金田君」
「うん」
「周り、うるさかったわね」
「うん」
「でも」
「うん」
「……悪くはなかったわ」
「そっか」
「調子に乗らないで」
「乗ってない」
「あと、隣とか言うの禁止」
「なんで」
「心臓に悪いから」
「妃花も言ってた」
「何を」
「置いていかないでって」
「……忘れなさい」
「忘れたくない」
「忘れなさい!」
ワタシは拳を握った。
すぐに開いた。
今日は壊さない。
今日は、ちゃんと開けた。
金田君がそれを見ていた。
「妃花」
「なによ」
「今の、上手かった」
「……褒めるほどじゃない」
「でも上手かった」
「うるさい」
ワタシは開いた手で、金田君の袖をもう一度掴んだ。
握り潰さない。
引っ張りすぎない。
ただ、そこにいると確かめるくらい。
そのまま、昇降口へ向かう。
今度は金田君が先に靴を出しに行くことはなかった。
ちゃんと隣にいた。
そして靴箱の前で、ワタシに言った。
「妃花」
「なに」
「靴、出していい?」
ワタシはしばらく黙った。
それから、少しだけ笑ってしまった。
「よろしい」
金田君はワタシの靴を出した。
ワタシも、金田君の靴を出した。
周囲から見れば、きっと変な二人だ。
中学生なのに夫婦面して。
喧嘩して。
壊して。
直して。
怒って。
照れて。
それでも隣にいる。
変だと思われても仕方ない。
でも。
ワタシたちは、五歳の時からずっとこうなのだ。
「金田君」
「うん」
「今日の反省会、長くなるわよ」
「うん」
「差し入れのパンは半分」
「うん」
「ココアは濃いめ」
「牛乳多めじゃなくて?」
「今日は濃いめ」
「わかった」
「マシュマロは?」
「三個」
「よろしい」
外に出ると、夕焼けが眩しかった。
校門の向こうで、佐伯さんたちがまだこちらを見ていた。
手を振ってくる。
ワタシは一瞬迷って、小さく手を上げた。
佐伯さんが嬉しそうに笑った。
山岸君が、なぜか親指を立てた。
なんなの。
でも。
まあ。
悪くない。
「妃花」
「なによ」
「楽しかった?」
「……少しだけ」
「そっか」
「ほんの少しよ」
「うん」
「勘違いしないで。周囲に認められて嬉しいとか、そういうのじゃないから」
「うん」
「ただ、まあ」
「うん」
「ワタシたちを見て、笑ってくれる人がいるのは」
ワタシは、金田君の袖を離した。
代わりに、手を出す。
金田君は何も聞かずに握った。
「嫌ではないわ」
金田君は、少しだけ笑った。
「うん」
その笑い方が、昔から嫌いだ。
大嫌いだ。
だから、今日も一緒に帰ってあげる。
そして反省会で、たっぷり文句を言ってあげる。
ココアを飲みながら。
差し入れのパンを半分こしながら。
周囲から見てもだいぶおかしい、ワタシたちの普通を。
もう少しだけ、続けてあげる。