妃花ちゃんは、気づいてしまった。
それは、昼休みのことだった。
ワタシが日直の仕事で職員室にプリントを取りに行き、ついでに担任から昨日壊したロッカーの補修確認と、今後の力加減について軽く説教を受け、さらに廊下ですれ違った生活指導の先生に「妃花、今日は何も壊してないな」と褒められたのか煽られたのかわからない声をかけられた、その帰り。
教室の前まで戻ってきた時だった。
中から、笑い声が聞こえた。
別に珍しいことではない。
昼休みなのだから、教室が賑やかなのは当然だ。
ただ、その笑い声の中心にいるのが、金田君だった。
……金田君?
ワタシは、扉の横で足を止めた。
なぜ止まったのか、自分でもわからない。
別に、金田君が笑ってはいけないわけではない。
金田君にも友達はいる。
山岸君たち男子と話すこともある。
佐伯さんたち女子にからかわれることもある。
ワタシがいないところで、金田君が金田君として生活しているのは当たり前だ。
当たり前なのに。
なんか。
ムカつく。
「いや金田、それは地味に怖いって」
山岸君の声。
「怖くない」
金田君の声。
いつもより、少し気安い。
ワタシに向ける時の、あの静かで確認するような声ではない。
もっと普通の男子っぽい声。
……何よ、それ。
「だってお前、昨日の補修用に木工用ボンド持ってたんだろ?」
「持ってた」
「なんで常備してんだよ」
「必要になるから」
「誰のせいで?」
「半分くらい俺」
「違う違う違う。そこは妃花ちゃんって言えよ」
「妃花だけのせいじゃない」
教室の中が少し静かになった。
ワタシは扉の影で、プリントを持つ手に力が入りかけた。
いけない。
紙が曲がる。
破れる。
これは職員室から預かったプリント。
破ってはいけない。
「……お前、そういうとこだよな」
山岸君が、少し呆れたように言った。
「何が?」
「いや、妃花ちゃんがあれだけ夫婦夫婦言う理由、ちょっとわかるわ」
「そう?」
「そう。普通なら逃げるって」
「逃げたことはある」
「あるのかよ」
「粘土投げられた時」
「そりゃ逃げろ」
笑い声。
金田君も少し笑った。
ほんの少し。
でも、ワタシにはわかる。
こいつ、今、普通に笑った。
ワタシの前で見せる、腹立たしいほど小さな笑みではなく。
気を遣っていない笑い方。
ワタシの怒りを受け止める準備をしていない顔。
ワタシの手が赤くなっていないか確認していない声。
そのことが。
なんだか。
ものすごく気に入らなかった。
「金田ってさ」
今度は別の男子の声だった。
「妃花ちゃんいないと、わりと普通だよな」
ぴし。
ワタシの中で、何かにヒビが入った。
普通。
金田君が、普通。
ワタシがいないと?
ワタシがいると普通じゃないみたいな言い方ね?
いや、まあ、実際そうかもしれないけれど。
ワタシがいると、金田君は夫婦扱いされる。
補修用ボンドを常備する。
ココアの牛乳比率を覚えている。
ワタシのリボンの緩みに気づく。
ワタシが怒る前提で行動する。
それは確かに普通ではない。
でも。
金田君の普通が、ワタシのいないところにあるみたいなのは。
非常に。
気に入らない。
「普通かな」
金田君が言った。
「普通だろ。妃花ちゃんの前だと、なんかこう、旦那みたいになるじゃん」
「旦那ではない」
「まだ中学生だから?」
「うん」
「そこ律儀に守るの、逆に何なんだよ」
男子たちは笑った。
金田君も、また少し笑った。
ワタシは扉の前で固まったまま、プリントを見下ろす。
これは、よくない。
非常によくない。
ワタシがいないところの金田君。
普通に男子と笑う金田君。
ワタシの話題を出されても、照れもせず、怒りもせず、当たり前みたいに受け止める金田君。
それを見ていると、胸の奥がざわざわする。
これは何?
嫉妬?
違う。
男子に嫉妬するほどワタシは狭量ではない。
いや、相手が女子ならわかる。
佐伯さんなら警戒する。
あの子は恋愛話が好きすぎるし、情報網が地域密着型すぎるし、ワタシの顔色を見て面白がる悪癖がある。
でも、今は男子だ。
山岸君だ。
別に金田君を取られるわけではない。
じゃあ何が嫌なのか。
金田君が、ワタシなしでも普通に笑っていること?
……いや。
それは、喜ぶべきことでは?
ワタシがいなくても、金田君が困らない。
ワタシがいなくても、金田君には金田君の世界がある。
それはいいことだ。
いいことのはずだ。
なのに。
ムカムカする。
「妃花ちゃん?」
背後から声がした。
ワタシは肩を跳ねさせた。
振り返ると、佐伯さんが立っていた。
両手に弁当箱。
目が完全に面白がっている。
「なにしてるの?」
「偵察よ」
「言い切った」
「違うわ。見守りよ」
「言い直してもだいぶ怪しいよ」
「うるさいわね」
ワタシは声を潜めた。
「金田君が、ワタシのいないところで普通なの」
「そりゃそうじゃない?」
「そりゃそうじゃない、とは何よ」
「妃花ちゃんの前の金田君、旦那モードだもん」
「旦那モード」
「うん。妃花ちゃんの手が赤くないか見るし、飲み物の温度見るし、怒ってる理由を半分持とうとするし」
「当然でしょう」
「当然なんだ」
「夫婦なので」
「でも、金田君にも男子中学生モードはあるでしょ」
男子中学生モード。
何それ。
聞いてない。
契約書にない。
ワタシは眉を寄せた。
「ワタシ、そんなの許可してないわ」
「妃花ちゃん、金田君の全人格を許可制にする気?」
「必要なら」
「重い」
「契約は重いものよ」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
佐伯さんは、困ったように笑った。
それから、教室の中をちらっと見た。
「でも、意外だね」
「何が」
「妃花ちゃん、金田君が自分以外と楽しそうなの、嫌なんだ」
「嫌じゃないわ」
「じゃあ?」
「気に入らないだけ」
「それを嫌って言うんだよ」
「違うわ。嫌というより、納得がいかないの」
「何に?」
ワタシは答えようとして、詰まった。
何に納得がいかないのか。
金田君が笑っていること?
違う。
金田君が普通でいること?
違う、たぶん。
金田君が、ワタシの前では見せない顔をしていること?
……それだ。
ワタシは、知らない金田君が嫌なのだ。
いや、違う。
嫌というより。
悔しい。
「……ワタシが知らない顔をしてるの」
小さく言うと、佐伯さんは少しだけ目を丸くした。
「金田君が?」
「そう」
「妃花ちゃんでも知らない顔、あるんだ」
「あるわよ」
認めるのは、悔しかった。
けれど、事実だった。
ワタシは金田君のことなら大抵わかる。
好きな卵焼きの甘さ。
ココアを淹れる時の手順。
嘘をつく時ではなく、言葉を選ぶ時に目を伏せる癖。
ワタシが本当に危ない時だけ、呼び方の声が少し低くなること。
でも、ワタシのいない場所の金田君は、知らない。
男子の輪の中で笑う金田君。
気を抜いた金田君。
ワタシを見ていない金田君。
それが、思ったよりも胸に刺さった。
「妃花ちゃん」
「なによ」
「入らないの?」
「……入るわよ」
「その顔で?」
「どんな顔よ」
「今入ったら、金田君の机だけ壊しそうな顔」
「失礼ね」
「違う?」
「……半分くらい」
佐伯さんは笑った。
そして、ワタシの手元のプリントを指差した。
「まずプリント配ろう。紙は罪がないから」
「わかっているわ」
「金田君も罪はないよ?」
「それは、反省会で判断するわ」
「何を反省させるの?」
「ワタシの知らない金田君がいる件について」
「それ金田君悪いかなあ」
「半分くらい」
「半分持たせるんだ」
「夫婦なので」
ワタシは教室の扉を開けた。
中の視線が一斉にこちらを向く。
山岸君が「あ」と言った。
金田君もこちらを見た。
そして、いつもの顔になった。
ほんの少しだけ目元が柔らかくなる。
ワタシがプリントを持っている手を見る。
紙が曲がっていないか。
指が赤くなっていないか。
それから、顔を見る。
「妃花」
「何よ」
「先生、長かった?」
「ええ。生活指導の先生にも絡まれたわ」
「壊してないって?」
「そうよ」
「よかった」
よかった。
その一言で、さっきまでの普通の金田君が消える。
いつもの金田君になる。
ワタシの金田君になる。
……ワタシの?
今、ワタシは何を考えた?
非常に危険な思想では?
「妃花?」
「何でもないわ」
ワタシはプリントを配り始めた。
なるべく普通に。
なるべく平静に。
しかし、山岸君の席にプリントを置いた時、山岸君がにやっと笑った。
「妃花ちゃん、もしかして聞いてた?」
「何を?」
「金田の普通モードの話」
プリントが、山岸君の机にめり込みかけた。
危ない。
ワタシは手を離した。
「聞いていないわ」
「今、机が死にかけたけど」
「錯覚よ」
「こわ」
「怖いなら、怖いと言いなさい。でも、いなくならないこと」
「俺も契約対象?」
「違うわ。あなたは一般市民」
「一般市民への圧が強い」
教室が笑った。
金田君が少しこちらを見る。
心配そうではない。
ただ、様子を見ている。
ワタシが怒っているのか、拗ねているのか、壊しそうなのか。
その全部を見ている。
それも腹立つ。
ワタシはプリントを配り終えて、自分の席に戻った。
金田君が隣に来る。
当然のように、ではない。
今は人が多いので、少し距離を取っている。
そういう配慮も腹立つ。
「妃花」
「なによ」
「何かあった?」
「ないわ」
「ある時のない、だと思う」
「観察しないで」
「わかった」
「観察をやめないで」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「それ禁止」
金田君は少し考えた。
「じゃあ、聞く」
「何を」
「怒ってる?」
「怒ってないわ」
「拗ねてる?」
「……」
「そっちか」
「決めつけるな!」
山岸君が後ろで「熟練だな」と呟いた。
ワタシは振り返らずに言った。
「山岸君」
「はい」
「放課後、反省会の傍聴は禁止です」
「俺、呼ばれてないのに出禁になった」
佐伯さんが笑っている。
完全に面白がっている。
ワタシは腕を組み、金田君を見上げた。
「金田君」
「うん」
「放課後、反省会よ」
「うん」
「場所は?」
「俺の家?」
「違うわ」
「妃花の家?」
「本家に通報されるわ」
「じゃあ?」
ワタシは少し考えた。
教室では落ち着かない。
金田君の家では、昨日の続きになってしまう。
ワタシの家も、母が面白がる。
祖母に知られたら、謎の婚前教育に発展する。
セバスチャンに知られたら、イギリスから紅茶が届く。
困る。
「帰り道の公園」
「うん」
「ベンチ」
「ココアは?」
「今日は缶でいいわ」
「温かいやつ?」
「当然」
「マシュマロはないけど」
「そこは妥協するわ」
「わかった」
金田君は頷いた。
それで終わり。
詮索しない。
昼休みに、ワタシが何を聞いたのか問い詰めない。
ワタシが自分で言うまで待つ。
待たれるのは腹立つ。
でも、待たれないのも腹立つ。
つまり、ワタシは面倒くさい。
知っている。
*
放課後。
ワタシと金田君は、学校から少し離れた公園にいた。
小さな公園だ。
ブランコが二つ。
滑り台。
砂場。
ベンチ。
平日の夕方なので、子供はあまりいない。
遠くで小学生がボールを蹴っているだけ。
ワタシはベンチに座り、温かい缶ココアを両手で持っていた。
金田君は隣に座っている。
近すぎない。
遠すぎない。
腹立つ距離。
安心する距離。
「それで」
金田君が言った。
「うん」
「反省会?」
「ええ」
「俺、何した?」
「ワタシの知らない金田君がいた」
金田君は瞬きをした。
「俺?」
「そうよ」
「いつ?」
「昼休み。ワタシがいない時」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ」
ワタシは缶を握った。
熱い。
ちょうどいい熱さ。
少し力を入れれば潰せる。
潰さない。
偉い。
「金田君」
「うん」
「ワタシがいない時、普通に笑ってたわね」
「うん」
「気安かったわね」
「山岸たちと?」
「そう」
「友達だから」
「知ってるわよ」
「嫌だった?」
「……嫌ではないわ」
「うん」
「ただ」
ワタシは缶ココアの飲み口を見つめた。
「知らない顔だった」
金田君は黙った。
ワタシは続ける。
「ワタシ、金田君のこと、大抵知ってると思ってたの」
「うん」
「卵焼きは少し甘めが好き。ココアはワタシ用より自分用の方が薄い。嘘をつく時じゃなくて、言葉を選ぶ時に目を伏せる。怒るより先に、どう直すか考える」
「うん」
「でも、ワタシがいない時の金田君は知らない」
「……うん」
「それが、なんか」
言葉に詰まる。
なんと言えばいいのかわからない。
寂しい?
悔しい?
不安?
全部違う気もするし、全部合っている気もする。
「……気に入らないの」
結局、そう言った。
金田君は少しだけ考えた。
「そっか」
「そっか、じゃないわ」
「ごめん」
「謝るな」
「今のは?」
「謝るところじゃない」
「うん」
「説明するところ」
「うん」
金田君は缶ココアを両手で持った。
自分用は無糖の缶コーヒーだった。
ココアじゃない。
それも少し気に入らない。
金田君の手が、缶の縁をなぞる。
「俺も」
「うん」
「妃花がいない時の妃花、知らない」
ワタシは目を瞬かせた。
「ワタシ?」
「うん」
「ワタシはいつもワタシよ」
「でも、俺がいない時、佐伯さんと話してる妃花は、俺が見る妃花と違うと思う」
「……そうかしら」
「違うと思う」
「例えば?」
「たぶん、もっとお嬢様っぽい」
「外面が良いからね」
「あと、俺の話をしてる時、俺の前より素直らしい」
「佐伯さんね」
あの子、どこまで情報を流しているのか。
今度反省会に呼ぶ必要がある。
「俺も、少し気になる」
金田君が言った。
ワタシは顔を上げた。
「気になるの?」
「うん」
「ワタシが近くにいない時のワタシが?」
「うん」
「……」
胸の奥のムカムカが、少しだけ形を変えた。
金田君も、気になる。
ワタシだけではない。
金田君にも、ワタシの知らないところを知りたい気持ちがある。
それは、なんだか。
かなり。
悪くない。
「じゃあ、聞けばいいじゃない」
「聞いていいの?」
「いいわよ」
「妃花は、俺がいない時、俺の話する?」
「するわ」
「即答」
「契約管理上、必要だから」
「何を話すの?」
「金田君がいかに無自覚にワタシを腹立たせるか」
「それだけ?」
「それだけじゃないわ」
「他には?」
ワタシは缶ココアを口元に運んだ。
飲む。
甘い。
缶の味がする。
でも温かい。
「……ココアの牛乳比率が完璧だったとか」
「うん」
「リボンの縫い目が不揃いだったけど、ほどけないようにちゃんとしてたとか」
「うん」
「ワタシが壊したものを、半分持とうとするところが腹立つとか」
「うん」
「手を差し出すタイミングが、たまに及第点だとか」
「うん」
「それくらいよ」
「そっか」
金田君は、少しだけ笑った。
「嬉しい」
「っ」
ワタシは缶を取り落としかけた。
金田君が手を伸ばす。
ワタシは自分で持ち直した。
「急に言うな」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
「嬉しいとか、そういう直球は禁止」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「……評価する、くらいにしなさい」
「評価する」
「違う! 今のは違う!」
金田君は困った顔をした。
ほんとに困っている。
ワタシは少しだけ笑ってしまった。
不覚。
「金田君」
「うん」
「あなたが、ワタシのいないところで普通なのは、いいことよ」
「うん」
「ワタシがいないと何もできない男なんて、こちらから願い下げだわ」
「うん」
「友達と笑っているのも、いいことよ」
「うん」
「でも」
「うん」
「ワタシの知らない顔があるのは、気に入らない」
「うん」
「だから、報告しなさい」
「何を?」
「今日、ワタシがいない時に何を話して、何で笑ったか」
「毎日?」
「必要に応じて」
「それ、日報?」
「夫婦間の報連相よ」
「中学生だけど」
「禁止」
金田君は少し考えて、頷いた。
「じゃあ、妃花も報告して」
「ワタシも?」
「うん」
「何を」
「俺がいない時に、何を考えてたか」
「……それは」
「だめ?」
「だめではないけど」
難しい。
それは、かなり難しい。
だって、ワタシが金田君のいないところで何を考えているかなんて。
だいたい、金田君のことだ。
金田君がリボンの緩みに気づいたとか。
金田君が昨日、ココアを熱すぎない温度にしていたとか。
金田君がクッキーを割れないように持ってきたとか。
金田君が、ワタシがいない時に普通に笑っていたのが気に入らないとか。
そんなものを毎日報告したら。
ただの。
ただの、金田君が大好きな女ではないか。
いや、違わないけれど。
違わないけれど!
「……検討するわ」
「うん」
「ただし、全部は言わない」
「なんで」
「ワタシの威厳に関わるから」
「威厳」
「そうよ」
「俺、威厳じゃない妃花も好きだけど」
缶ココアが、ぐしゃりと鳴った。
ワタシは自分の手元を見た。
缶が、少しだけへこんでいた。
少しだけ。
まだ飲める。
偉い。
「金田君」
「うん」
「今のは、よくないわ」
「何が?」
「好きとか軽々しく言うな」
「軽くない」
「っ」
今度は缶が本格的に危なかった。
金田君が、そっとワタシの手に触れた。
缶ではなく、手に。
握るのではなく、力を抜かせるように。
「妃花」
「なによ」
「缶、痛い」
「缶が?」
「妃花の手が」
「……」
ワタシは、ゆっくり力を抜いた。
缶のへこみが戻るわけではない。
でも、それ以上潰れない。
金田君の指が、ワタシの手から離れた。
少し、惜しいと思った。
言わない。
「……今のは、上手かったわ」
「缶を守った?」
「ワタシの手を守ったのよ」
「うん」
「ついでに缶も守った」
「うん」
「及第点」
「よかった」
夕方の公園に、風が吹いた。
ブランコが小さく揺れる。
金属の鎖が、きい、と鳴った。
ワタシはその音を聞きながら、少しだけ落ち着いていた。
「ねえ、金田君」
「うん」
「ワタシがいない時のあなたって、どんな感じなの」
「普通」
「その普通が気に入らないって言ってるの」
「山岸たちと話す。宿題する。たまに購買行く」
「ワタシの話は?」
「出る」
「どのくらい?」
「けっこう」
「内容」
「妃花は怒ると怖いけど、謝れるとか」
「うん」
「料理が上手いとか」
「うん」
「卵焼きが甘めでおいしいとか」
「うん」
「部屋着が似合ってたとか」
「っ」
ワタシは金田君を見た。
「言ったの?」
「山岸に」
「黒マスクゴスロリ黒チェック柄クソデカリボンの話を?」
「そこまでは言ってない」
「どこまで」
「部屋着が黒くて、リボンが大きかったって」
「十分よ!」
「だめだった?」
「だめではないけど、なんで言うのよ!」
「似合ってたから」
「だからそれを人に言うな!」
「妃花のこと、悪く言われたくなかった」
「……何?」
金田君は、自分の缶コーヒーを見た。
「妃花は、怖いって言われやすいから」
「……」
「でも、怖いだけじゃない。家だと、ちゃんと落ち着く格好してるし、ココア飲むし、リボンのほつれも気にするし」
「……」
「そういうのも、知ってほしかった」
ワタシは黙った。
それは。
ずるい。
とても、ずるい。
ワタシのいないところで、金田君はワタシを普通にしている。
壊す女でも、暴力系でも、名家の娘でも、英雄でもなく。
部屋着のリボンを直してもらって、ココアを飲んで、照れて怒る女の子として。
ワタシの知らないところで、ワタシを守っている。
何それ。
そんなの。
怒れないじゃない。
「……金田君」
「うん」
「それは」
「うん」
「もっと早く言いなさいよ」
「聞かれなかった」
「聞かれなくても言いなさい」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「禁止って言ったでしょ!」
ワタシは怒った。
怒ったけれど、さっきまでのムカムカとは少し違った。
胸の奥が温かい。
缶ココアのせいではない。
たぶん、金田君のせい。
全部こいつのせい。
「妃花」
「なによ」
「俺がいない時の妃花も、教えて」
「……」
「少しでいい」
ワタシはベンチの背にもたれた。
空は赤かった。
公園の向こうを、ランドセルを背負った小学生が走っていく。
五歳の契約をした頃のワタシたちより、少し大きいくらい。
ワタシは缶ココアを見つめたまま言った。
「ワタシは」
「うん」
「あなたがいない時も、だいたい怒ってるわ」
「うん」
「あなたが言葉足らずだったこととか、謝りすぎることとか、ワタシを妹扱いすることとか」
「うん」
「でも」
ワタシは少しだけ声を落とした。
「だいたい最後には、あなたが迎えに来る時のことを考えてる」
金田君が黙った。
ワタシは続ける。
「本家に帰った時も、そうだった」
「うん」
「御曹司が来た時も、みんなが勝手に話を進めて、ワタシも意地になって」
「うん」
「でも、どこかで思ってたの」
言葉が、喉の奥で引っかかった。
それでも言う。
今日は反省会だから。
契約更新だから。
「金田君、来るかしらって」
「……うん」
「来なかったらどうしようって」
「うん」
「来たら、どう怒ってやろうって」
「うん」
「で、実際に来たら」
「うん」
「大勢の前で土下座なんかして」
「うん」
「あれ、ほんと最低だったわ」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
「でも」
ワタシは、缶を両手で包んだ。
もうあまり温かくない。
「嬉しかった」
金田君は、動かなかった。
たぶん、こいつも驚いている。
ワタシがここまで素直に言うのは珍しい。
珍しいどころではない。
天変地異に近い。
でも、言ってしまったものは仕方ない。
「……以上よ」
「うん」
「報告終わり」
「うん」
「何か言いなさいよ」
「嬉しい」
「だから直球は禁止!」
「でも、嬉しい」
「っ」
ワタシは顔を逸らした。
公園の砂場を睨む。
砂場は悪くない。
睨まれても困るだろう。
でも、金田君を見るよりは安全だ。
「妃花」
「なによ」
「俺がいない時の妃花も、好き」
「……」
「怒ってても」
「……」
「本家で待ってても」
「……」
「俺の悪口言ってても」
「悪口じゃないわ。契約上の苦情よ」
「うん」
「訂正しなさい」
「苦情言ってても」
「よろしい」
金田君は、少しだけ笑った。
ワタシはまだそっぽを向いていた。
でも、手だけを出した。
金田君がそれに気づく。
何も言わず、そっと握った。
強くない。
弱くない。
ワタシが壊さずに済む強さ。
金田君が離れないとわかる強さ。
「金田君」
「うん」
「ワタシがいない時も、ワタシのこと考えてる?」
「うん」
「どのくらい」
「けっこう」
「曖昧ね」
「授業中は考えないようにしてる」
「成績に関わるから?」
「妃花に怒られるから」
「当然ね」
「昼は考える」
「何を」
「弁当の卵焼き、甘いかなとか」
「うん」
「今日、怒ってるかなとか」
「うん」
「帰り、一緒に帰れるかなとか」
「……」
「それくらい」
ワタシは、金田君の手を少しだけ握り返した。
「及第点」
「よかった」
「ただし」
「うん」
「ワタシがいない時に、ワタシの部屋着の話を勝手にしないこと」
「うん」
「ワタシがいない時に、ワタシを怖いだけの女にしないこと」
「うん」
「ワタシがいない時に、ワタシを忘れないこと」
「うん」
「でも、ワタシがいない時も、ちゃんと普通に笑うこと」
金田君が、こちらを見た。
ワタシは顔を逸らしたまま言った。
「ワタシがいないと笑えない男なんて、困るもの」
「うん」
「でも、笑ったら報告しなさい」
「うん」
「誰と、何で笑ったか」
「日報」
「夫婦間の報連相」
「うん」
金田君は頷いた。
「妃花も」
「何よ」
「俺がいない時、俺のこと考えたら報告して」
「全部?」
「少しでいい」
「……検討するわ」
「うん」
「でも、今日の分は報告したから」
「うん」
「もう追加はないわ」
「そっか」
「ないったらないわ」
「うん」
「……少しだけあるけど」
金田君がこちらを見た。
ワタシは小さく咳払いをした。
「昼休み、あなたが普通に笑っているのを見て、腹が立った」
「うん」
「でも、そのあと、ワタシの方を見て、いつもの顔になった」
「うん」
「それで」
「うん」
「少し、安心した」
金田君の手が、ほんの少しだけ強くなった。
でも痛くない。
ちょうどいい。
「そっか」
「そっか、しか言えないの?」
「嬉しいって言うと怒るから」
「……言ってもいいわ」
「嬉しい」
「やっぱり腹立つ」
「うん」
ワタシは空いた手で、缶ココアを飲み干した。
ぬるくなっていた。
でも、甘かった。
公園の時計を見ると、そろそろ帰らないといけない時間だった。
「帰るわよ」
「うん」
「今日はワタシの家の前まで」
「うん」
「途中でスーパーに寄るわ」
「何買うの?」
「ココア」
「家にあるんじゃない?」
「契約備蓄よ」
「猫の絆創膏は?」
「それも買うわ」
「まだある?」
「あるけど、切らさないのが契約でしょう」
「うん」
ワタシたちはベンチから立ち上がった。
金田君が空き缶を二つ持とうとする。
ワタシは先に自分の缶を取った。
「自分の分は自分で捨てるわ」
「うん」
「でも、ゴミ箱までは一緒に行く」
「うん」
「置いていかない」
「置いていかない」
公園の出口に向かって歩く。
夕焼けの中、二人分の影が伸びていた。
ワタシはふと、隣の金田君を見た。
今の金田君は、ワタシの隣にいる金田君。
でも、ワタシがいない時の金田君も、どこかにいる。
友達と笑う金田君。
ワタシの話をする金田君。
ワタシを怖いだけの女にしない金田君。
その全部を、ワタシはまだ知らない。
知らないのは、気に入らない。
でも。
これから聞けばいい。
毎日少しずつ。
報告させればいい。
契約に追加すればいい。
「金田君」
「うん」
「帰ったら、契約書を更新するわ」
「項目は?」
「互いの不在時における報告義務」
「固い」
「大事なことよ」
「うん」
「それから」
「うん」
「不在時も、相手を悪く言わないこと」
「言わない」
「相手を怖いだけにしないこと」
「うん」
「相手がいなくても、ちゃんと自分の世界で笑うこと」
「……うん」
「でも」
ワタシは、金田君の手を握り直した。
「帰ってくる場所は、ちゃんとここにすること」
金田君は、しばらく黙った。
そして言った。
「契約書に書こう」
「当然よ」
「赤いペン?」
「クレヨンじゃないのが惜しいわね」
「買う?」
「……買うわ」
「赤?」
「赤」
「ココアと絆創膏と赤いクレヨン」
「契約更新三点セットね」
「うん」
金田君は少しだけ笑った。
いつもの顔で。
ワタシの隣にいる時の顔で。
でも、その奥に、ワタシの知らない金田君もいるのだろう。
今は、それでいい。
全部知らなくてもいい。
これから知る。
勝手に遠くへ行かせない。
でも、縛りすぎない。
いなくならないなら。
帰ってくるなら。
ワタシの知らない場所で笑うことくらい、許してあげる。
「金田君」
「うん」
「明日、山岸君と何で笑ったか、報告しなさい」
「今日じゃなくて?」
「今日の分は、帰り道で聞くわ」
「長くなる?」
「反省会ですもの」
「うん」
「あと、ワタシの話をする時は、事実に基づき、でもなるべく可愛く伝えなさい」
「可愛く」
「怖いだけにしないこと」
「うん」
「リボンの話は許可制」
「うん」
「部屋着は厳重管理」
「うん」
「でも、似合ってたことは否定しない」
「かわいかった」
「だから急に刺すな!」
夕方の道に、ワタシの声が響いた。
金田君は笑った。
今度は、ワタシの前で。
ワタシも、少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
妃花ちゃんが近くにいない時の金田君は、まだ気に入らない。
でも、気になる。
腹立たしいほど、気になる。
だから。
契約書に、こう書き足すのだ。
十一、ふたりは、いない時のことも、少しずつ話す。
十二、でも、帰る場所は忘れない。
十三、金田君は、妃花ちゃんの部屋着を勝手に男子に詳しく説明しない。
十四、妃花ちゃんは、金田君が普通に笑っていても、缶を潰さない。
……十四は、少し不本意だけれど。
まあ。
努力はしてあげる。
夫婦なので。