倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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第四話 妃花ちゃんは、金田君の不在時の金田君が気に入らない

 

 妃花ちゃんは、気づいてしまった。

 

 それは、昼休みのことだった。

 

 ワタシが日直の仕事で職員室にプリントを取りに行き、ついでに担任から昨日壊したロッカーの補修確認と、今後の力加減について軽く説教を受け、さらに廊下ですれ違った生活指導の先生に「妃花、今日は何も壊してないな」と褒められたのか煽られたのかわからない声をかけられた、その帰り。

 

 教室の前まで戻ってきた時だった。

 

 中から、笑い声が聞こえた。

 

 別に珍しいことではない。

 

 昼休みなのだから、教室が賑やかなのは当然だ。

 

 ただ、その笑い声の中心にいるのが、金田君だった。

 

 ……金田君?

 

 ワタシは、扉の横で足を止めた。

 

 なぜ止まったのか、自分でもわからない。

 

 別に、金田君が笑ってはいけないわけではない。

 

 金田君にも友達はいる。

 

 山岸君たち男子と話すこともある。

 

 佐伯さんたち女子にからかわれることもある。

 

 ワタシがいないところで、金田君が金田君として生活しているのは当たり前だ。

 

 当たり前なのに。

 

 なんか。

 

 ムカつく。

 

「いや金田、それは地味に怖いって」

 

 山岸君の声。

 

「怖くない」

 

 金田君の声。

 

 いつもより、少し気安い。

 

 ワタシに向ける時の、あの静かで確認するような声ではない。

 

 もっと普通の男子っぽい声。

 

 ……何よ、それ。

 

「だってお前、昨日の補修用に木工用ボンド持ってたんだろ?」

 

「持ってた」

 

「なんで常備してんだよ」

 

「必要になるから」

 

「誰のせいで?」

 

「半分くらい俺」

 

「違う違う違う。そこは妃花ちゃんって言えよ」

 

「妃花だけのせいじゃない」

 

 教室の中が少し静かになった。

 

 ワタシは扉の影で、プリントを持つ手に力が入りかけた。

 

 いけない。

 

 紙が曲がる。

 

 破れる。

 

 これは職員室から預かったプリント。

 

 破ってはいけない。

 

「……お前、そういうとこだよな」

 

 山岸君が、少し呆れたように言った。

 

「何が?」

 

「いや、妃花ちゃんがあれだけ夫婦夫婦言う理由、ちょっとわかるわ」

 

「そう?」

 

「そう。普通なら逃げるって」

 

「逃げたことはある」

 

「あるのかよ」

 

「粘土投げられた時」

 

「そりゃ逃げろ」

 

 笑い声。

 

 金田君も少し笑った。

 

 ほんの少し。

 

 でも、ワタシにはわかる。

 

 こいつ、今、普通に笑った。

 

 ワタシの前で見せる、腹立たしいほど小さな笑みではなく。

 

 気を遣っていない笑い方。

 

 ワタシの怒りを受け止める準備をしていない顔。

 

 ワタシの手が赤くなっていないか確認していない声。

 

 そのことが。

 

 なんだか。

 

 ものすごく気に入らなかった。

 

「金田ってさ」

 

 今度は別の男子の声だった。

 

「妃花ちゃんいないと、わりと普通だよな」

 

 ぴし。

 

 ワタシの中で、何かにヒビが入った。

 

 普通。

 

 金田君が、普通。

 

 ワタシがいないと?

 

 ワタシがいると普通じゃないみたいな言い方ね?

 

 いや、まあ、実際そうかもしれないけれど。

 

 ワタシがいると、金田君は夫婦扱いされる。

 

 補修用ボンドを常備する。

 

 ココアの牛乳比率を覚えている。

 

 ワタシのリボンの緩みに気づく。

 

 ワタシが怒る前提で行動する。

 

 それは確かに普通ではない。

 

 でも。

 

 金田君の普通が、ワタシのいないところにあるみたいなのは。

 

 非常に。

 

 気に入らない。

 

「普通かな」

 

 金田君が言った。

 

「普通だろ。妃花ちゃんの前だと、なんかこう、旦那みたいになるじゃん」

 

「旦那ではない」

 

「まだ中学生だから?」

 

「うん」

 

「そこ律儀に守るの、逆に何なんだよ」

 

 男子たちは笑った。

 

 金田君も、また少し笑った。

 

 ワタシは扉の前で固まったまま、プリントを見下ろす。

 

 これは、よくない。

 

 非常によくない。

 

 ワタシがいないところの金田君。

 

 普通に男子と笑う金田君。

 

 ワタシの話題を出されても、照れもせず、怒りもせず、当たり前みたいに受け止める金田君。

 

 それを見ていると、胸の奥がざわざわする。

 

 これは何?

 

 嫉妬?

 

 違う。

 

 男子に嫉妬するほどワタシは狭量ではない。

 

 いや、相手が女子ならわかる。

 

 佐伯さんなら警戒する。

 

 あの子は恋愛話が好きすぎるし、情報網が地域密着型すぎるし、ワタシの顔色を見て面白がる悪癖がある。

 

 でも、今は男子だ。

 

 山岸君だ。

 

 別に金田君を取られるわけではない。

 

 じゃあ何が嫌なのか。

 

 金田君が、ワタシなしでも普通に笑っていること?

 

 ……いや。

 

 それは、喜ぶべきことでは?

 

 ワタシがいなくても、金田君が困らない。

 

 ワタシがいなくても、金田君には金田君の世界がある。

 

 それはいいことだ。

 

 いいことのはずだ。

 

 なのに。

 

 ムカムカする。

 

「妃花ちゃん?」

 

 背後から声がした。

 

 ワタシは肩を跳ねさせた。

 

 振り返ると、佐伯さんが立っていた。

 

 両手に弁当箱。

 

 目が完全に面白がっている。

 

「なにしてるの?」

 

「偵察よ」

 

「言い切った」

 

「違うわ。見守りよ」

 

「言い直してもだいぶ怪しいよ」

 

「うるさいわね」

 

 ワタシは声を潜めた。

 

「金田君が、ワタシのいないところで普通なの」

 

「そりゃそうじゃない?」

 

「そりゃそうじゃない、とは何よ」

 

「妃花ちゃんの前の金田君、旦那モードだもん」

 

「旦那モード」

 

「うん。妃花ちゃんの手が赤くないか見るし、飲み物の温度見るし、怒ってる理由を半分持とうとするし」

 

「当然でしょう」

 

「当然なんだ」

 

「夫婦なので」

 

「でも、金田君にも男子中学生モードはあるでしょ」

 

 男子中学生モード。

 

 何それ。

 

 聞いてない。

 

 契約書にない。

 

 ワタシは眉を寄せた。

 

「ワタシ、そんなの許可してないわ」

 

「妃花ちゃん、金田君の全人格を許可制にする気?」

 

「必要なら」

 

「重い」

 

「契約は重いものよ」

 

「そういう意味じゃないんだけどなあ」

 

 佐伯さんは、困ったように笑った。

 

 それから、教室の中をちらっと見た。

 

「でも、意外だね」

 

「何が」

 

「妃花ちゃん、金田君が自分以外と楽しそうなの、嫌なんだ」

 

「嫌じゃないわ」

 

「じゃあ?」

 

「気に入らないだけ」

 

「それを嫌って言うんだよ」

 

「違うわ。嫌というより、納得がいかないの」

 

「何に?」

 

 ワタシは答えようとして、詰まった。

 

 何に納得がいかないのか。

 

 金田君が笑っていること?

 

 違う。

 

 金田君が普通でいること?

 

 違う、たぶん。

 

 金田君が、ワタシの前では見せない顔をしていること?

 

 ……それだ。

 

 ワタシは、知らない金田君が嫌なのだ。

 

 いや、違う。

 

 嫌というより。

 

 悔しい。

 

「……ワタシが知らない顔をしてるの」

 

 小さく言うと、佐伯さんは少しだけ目を丸くした。

 

「金田君が?」

 

「そう」

 

「妃花ちゃんでも知らない顔、あるんだ」

 

「あるわよ」

 

 認めるのは、悔しかった。

 

 けれど、事実だった。

 

 ワタシは金田君のことなら大抵わかる。

 

 好きな卵焼きの甘さ。

 

 ココアを淹れる時の手順。

 

 嘘をつく時ではなく、言葉を選ぶ時に目を伏せる癖。

 

 ワタシが本当に危ない時だけ、呼び方の声が少し低くなること。

 

 でも、ワタシのいない場所の金田君は、知らない。

 

 男子の輪の中で笑う金田君。

 

 気を抜いた金田君。

 

 ワタシを見ていない金田君。

 

 それが、思ったよりも胸に刺さった。

 

「妃花ちゃん」

 

「なによ」

 

「入らないの?」

 

「……入るわよ」

 

「その顔で?」

 

「どんな顔よ」

 

「今入ったら、金田君の机だけ壊しそうな顔」

 

「失礼ね」

 

「違う?」

 

「……半分くらい」

 

 佐伯さんは笑った。

 

 そして、ワタシの手元のプリントを指差した。

 

「まずプリント配ろう。紙は罪がないから」

 

「わかっているわ」

 

「金田君も罪はないよ?」

 

「それは、反省会で判断するわ」

 

「何を反省させるの?」

 

「ワタシの知らない金田君がいる件について」

 

「それ金田君悪いかなあ」

 

「半分くらい」

 

「半分持たせるんだ」

 

「夫婦なので」

 

 ワタシは教室の扉を開けた。

 

 中の視線が一斉にこちらを向く。

 

 山岸君が「あ」と言った。

 

 金田君もこちらを見た。

 

 そして、いつもの顔になった。

 

 ほんの少しだけ目元が柔らかくなる。

 

 ワタシがプリントを持っている手を見る。

 

 紙が曲がっていないか。

 

 指が赤くなっていないか。

 

 それから、顔を見る。

 

「妃花」

 

「何よ」

 

「先生、長かった?」

 

「ええ。生活指導の先生にも絡まれたわ」

 

「壊してないって?」

 

「そうよ」

 

「よかった」

 

 よかった。

 

 その一言で、さっきまでの普通の金田君が消える。

 

 いつもの金田君になる。

 

 ワタシの金田君になる。

 

 ……ワタシの?

 

 今、ワタシは何を考えた?

 

 非常に危険な思想では?

 

「妃花?」

 

「何でもないわ」

 

 ワタシはプリントを配り始めた。

 

 なるべく普通に。

 

 なるべく平静に。

 

 しかし、山岸君の席にプリントを置いた時、山岸君がにやっと笑った。

 

「妃花ちゃん、もしかして聞いてた?」

 

「何を?」

 

「金田の普通モードの話」

 

 プリントが、山岸君の机にめり込みかけた。

 

 危ない。

 

 ワタシは手を離した。

 

「聞いていないわ」

 

「今、机が死にかけたけど」

 

「錯覚よ」

 

「こわ」

 

「怖いなら、怖いと言いなさい。でも、いなくならないこと」

 

「俺も契約対象?」

 

「違うわ。あなたは一般市民」

 

「一般市民への圧が強い」

 

 教室が笑った。

 

 金田君が少しこちらを見る。

 

 心配そうではない。

 

 ただ、様子を見ている。

 

 ワタシが怒っているのか、拗ねているのか、壊しそうなのか。

 

 その全部を見ている。

 

 それも腹立つ。

 

 ワタシはプリントを配り終えて、自分の席に戻った。

 

 金田君が隣に来る。

 

 当然のように、ではない。

 

 今は人が多いので、少し距離を取っている。

 

 そういう配慮も腹立つ。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「何かあった?」

 

「ないわ」

 

「ある時のない、だと思う」

 

「観察しないで」

 

「わかった」

 

「観察をやめないで」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「それ禁止」

 

 金田君は少し考えた。

 

「じゃあ、聞く」

 

「何を」

 

「怒ってる?」

 

「怒ってないわ」

 

「拗ねてる?」

 

「……」

 

「そっちか」

 

「決めつけるな!」

 

 山岸君が後ろで「熟練だな」と呟いた。

 

 ワタシは振り返らずに言った。

 

「山岸君」

 

「はい」

 

「放課後、反省会の傍聴は禁止です」

 

「俺、呼ばれてないのに出禁になった」

 

 佐伯さんが笑っている。

 

 完全に面白がっている。

 

 ワタシは腕を組み、金田君を見上げた。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「放課後、反省会よ」

 

「うん」

 

「場所は?」

 

「俺の家?」

 

「違うわ」

 

「妃花の家?」

 

「本家に通報されるわ」

 

「じゃあ?」

 

 ワタシは少し考えた。

 

 教室では落ち着かない。

 

 金田君の家では、昨日の続きになってしまう。

 

 ワタシの家も、母が面白がる。

 

 祖母に知られたら、謎の婚前教育に発展する。

 

 セバスチャンに知られたら、イギリスから紅茶が届く。

 

 困る。

 

「帰り道の公園」

 

「うん」

 

「ベンチ」

 

「ココアは?」

 

「今日は缶でいいわ」

 

「温かいやつ?」

 

「当然」

 

「マシュマロはないけど」

 

「そこは妥協するわ」

 

「わかった」

 

 金田君は頷いた。

 

 それで終わり。

 

 詮索しない。

 

 昼休みに、ワタシが何を聞いたのか問い詰めない。

 

 ワタシが自分で言うまで待つ。

 

 待たれるのは腹立つ。

 

 でも、待たれないのも腹立つ。

 

 つまり、ワタシは面倒くさい。

 

 知っている。

 

     *

 

 放課後。

 

 ワタシと金田君は、学校から少し離れた公園にいた。

 

 小さな公園だ。

 

 ブランコが二つ。

 

 滑り台。

 

 砂場。

 

 ベンチ。

 

 平日の夕方なので、子供はあまりいない。

 

 遠くで小学生がボールを蹴っているだけ。

 

 ワタシはベンチに座り、温かい缶ココアを両手で持っていた。

 

 金田君は隣に座っている。

 

 近すぎない。

 

 遠すぎない。

 

 腹立つ距離。

 

 安心する距離。

 

「それで」

 

 金田君が言った。

 

「うん」

 

「反省会?」

 

「ええ」

 

「俺、何した?」

 

「ワタシの知らない金田君がいた」

 

 金田君は瞬きをした。

 

「俺?」

 

「そうよ」

 

「いつ?」

 

「昼休み。ワタシがいない時」

 

「ああ」

 

「ああ、じゃないわよ」

 

 ワタシは缶を握った。

 

 熱い。

 

 ちょうどいい熱さ。

 

 少し力を入れれば潰せる。

 

 潰さない。

 

 偉い。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時、普通に笑ってたわね」

 

「うん」

 

「気安かったわね」

 

「山岸たちと?」

 

「そう」

 

「友達だから」

 

「知ってるわよ」

 

「嫌だった?」

 

「……嫌ではないわ」

 

「うん」

 

「ただ」

 

 ワタシは缶ココアの飲み口を見つめた。

 

「知らない顔だった」

 

 金田君は黙った。

 

 ワタシは続ける。

 

「ワタシ、金田君のこと、大抵知ってると思ってたの」

 

「うん」

 

「卵焼きは少し甘めが好き。ココアはワタシ用より自分用の方が薄い。嘘をつく時じゃなくて、言葉を選ぶ時に目を伏せる。怒るより先に、どう直すか考える」

 

「うん」

 

「でも、ワタシがいない時の金田君は知らない」

 

「……うん」

 

「それが、なんか」

 

 言葉に詰まる。

 

 なんと言えばいいのかわからない。

 

 寂しい?

 

 悔しい?

 

 不安?

 

 全部違う気もするし、全部合っている気もする。

 

「……気に入らないの」

 

 結局、そう言った。

 

 金田君は少しだけ考えた。

 

「そっか」

 

「そっか、じゃないわ」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「今のは?」

 

「謝るところじゃない」

 

「うん」

 

「説明するところ」

 

「うん」

 

 金田君は缶ココアを両手で持った。

 

 自分用は無糖の缶コーヒーだった。

 

 ココアじゃない。

 

 それも少し気に入らない。

 

 金田君の手が、缶の縁をなぞる。

 

「俺も」

 

「うん」

 

「妃花がいない時の妃花、知らない」

 

 ワタシは目を瞬かせた。

 

「ワタシ?」

 

「うん」

 

「ワタシはいつもワタシよ」

 

「でも、俺がいない時、佐伯さんと話してる妃花は、俺が見る妃花と違うと思う」

 

「……そうかしら」

 

「違うと思う」

 

「例えば?」

 

「たぶん、もっとお嬢様っぽい」

 

「外面が良いからね」

 

「あと、俺の話をしてる時、俺の前より素直らしい」

 

「佐伯さんね」

 

 あの子、どこまで情報を流しているのか。

 

 今度反省会に呼ぶ必要がある。

 

「俺も、少し気になる」

 

 金田君が言った。

 

 ワタシは顔を上げた。

 

「気になるの?」

 

「うん」

 

「ワタシが近くにいない時のワタシが?」

 

「うん」

 

「……」

 

 胸の奥のムカムカが、少しだけ形を変えた。

 

 金田君も、気になる。

 

 ワタシだけではない。

 

 金田君にも、ワタシの知らないところを知りたい気持ちがある。

 

 それは、なんだか。

 

 かなり。

 

 悪くない。

 

「じゃあ、聞けばいいじゃない」

 

「聞いていいの?」

 

「いいわよ」

 

「妃花は、俺がいない時、俺の話する?」

 

「するわ」

 

「即答」

 

「契約管理上、必要だから」

 

「何を話すの?」

 

「金田君がいかに無自覚にワタシを腹立たせるか」

 

「それだけ?」

 

「それだけじゃないわ」

 

「他には?」

 

 ワタシは缶ココアを口元に運んだ。

 

 飲む。

 

 甘い。

 

 缶の味がする。

 

 でも温かい。

 

「……ココアの牛乳比率が完璧だったとか」

 

「うん」

 

「リボンの縫い目が不揃いだったけど、ほどけないようにちゃんとしてたとか」

 

「うん」

 

「ワタシが壊したものを、半分持とうとするところが腹立つとか」

 

「うん」

 

「手を差し出すタイミングが、たまに及第点だとか」

 

「うん」

 

「それくらいよ」

 

「そっか」

 

 金田君は、少しだけ笑った。

 

「嬉しい」

 

「っ」

 

 ワタシは缶を取り落としかけた。

 

 金田君が手を伸ばす。

 

 ワタシは自分で持ち直した。

 

「急に言うな」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「うん」

 

「嬉しいとか、そういう直球は禁止」

 

「じゃあ、どう言えばいい?」

 

「……評価する、くらいにしなさい」

 

「評価する」

 

「違う! 今のは違う!」

 

 金田君は困った顔をした。

 

 ほんとに困っている。

 

 ワタシは少しだけ笑ってしまった。

 

 不覚。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「あなたが、ワタシのいないところで普通なのは、いいことよ」

 

「うん」

 

「ワタシがいないと何もできない男なんて、こちらから願い下げだわ」

 

「うん」

 

「友達と笑っているのも、いいことよ」

 

「うん」

 

「でも」

 

「うん」

 

「ワタシの知らない顔があるのは、気に入らない」

 

「うん」

 

「だから、報告しなさい」

 

「何を?」

 

「今日、ワタシがいない時に何を話して、何で笑ったか」

 

「毎日?」

 

「必要に応じて」

 

「それ、日報?」

 

「夫婦間の報連相よ」

 

「中学生だけど」

 

「禁止」

 

 金田君は少し考えて、頷いた。

 

「じゃあ、妃花も報告して」

 

「ワタシも?」

 

「うん」

 

「何を」

 

「俺がいない時に、何を考えてたか」

 

「……それは」

 

「だめ?」

 

「だめではないけど」

 

 難しい。

 

 それは、かなり難しい。

 

 だって、ワタシが金田君のいないところで何を考えているかなんて。

 

 だいたい、金田君のことだ。

 

 金田君がリボンの緩みに気づいたとか。

 

 金田君が昨日、ココアを熱すぎない温度にしていたとか。

 

 金田君がクッキーを割れないように持ってきたとか。

 

 金田君が、ワタシがいない時に普通に笑っていたのが気に入らないとか。

 

 そんなものを毎日報告したら。

 

 ただの。

 

 ただの、金田君が大好きな女ではないか。

 

 いや、違わないけれど。

 

 違わないけれど!

 

「……検討するわ」

 

「うん」

 

「ただし、全部は言わない」

 

「なんで」

 

「ワタシの威厳に関わるから」

 

「威厳」

 

「そうよ」

 

「俺、威厳じゃない妃花も好きだけど」

 

 缶ココアが、ぐしゃりと鳴った。

 

 ワタシは自分の手元を見た。

 

 缶が、少しだけへこんでいた。

 

 少しだけ。

 

 まだ飲める。

 

 偉い。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今のは、よくないわ」

 

「何が?」

 

「好きとか軽々しく言うな」

 

「軽くない」

 

「っ」

 

 今度は缶が本格的に危なかった。

 

 金田君が、そっとワタシの手に触れた。

 

 缶ではなく、手に。

 

 握るのではなく、力を抜かせるように。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「缶、痛い」

 

「缶が?」

 

「妃花の手が」

 

「……」

 

 ワタシは、ゆっくり力を抜いた。

 

 缶のへこみが戻るわけではない。

 

 でも、それ以上潰れない。

 

 金田君の指が、ワタシの手から離れた。

 

 少し、惜しいと思った。

 

 言わない。

 

「……今のは、上手かったわ」

 

「缶を守った?」

 

「ワタシの手を守ったのよ」

 

「うん」

 

「ついでに缶も守った」

 

「うん」

 

「及第点」

 

「よかった」

 

 夕方の公園に、風が吹いた。

 

 ブランコが小さく揺れる。

 

 金属の鎖が、きい、と鳴った。

 

 ワタシはその音を聞きながら、少しだけ落ち着いていた。

 

「ねえ、金田君」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時のあなたって、どんな感じなの」

 

「普通」

 

「その普通が気に入らないって言ってるの」

 

「山岸たちと話す。宿題する。たまに購買行く」

 

「ワタシの話は?」

 

「出る」

 

「どのくらい?」

 

「けっこう」

 

「内容」

 

「妃花は怒ると怖いけど、謝れるとか」

 

「うん」

 

「料理が上手いとか」

 

「うん」

 

「卵焼きが甘めでおいしいとか」

 

「うん」

 

「部屋着が似合ってたとか」

 

「っ」

 

 ワタシは金田君を見た。

 

「言ったの?」

 

「山岸に」

 

「黒マスクゴスロリ黒チェック柄クソデカリボンの話を?」

 

「そこまでは言ってない」

 

「どこまで」

 

「部屋着が黒くて、リボンが大きかったって」

 

「十分よ!」

 

「だめだった?」

 

「だめではないけど、なんで言うのよ!」

 

「似合ってたから」

 

「だからそれを人に言うな!」

 

「妃花のこと、悪く言われたくなかった」

 

「……何?」

 

 金田君は、自分の缶コーヒーを見た。

 

「妃花は、怖いって言われやすいから」

 

「……」

 

「でも、怖いだけじゃない。家だと、ちゃんと落ち着く格好してるし、ココア飲むし、リボンのほつれも気にするし」

 

「……」

 

「そういうのも、知ってほしかった」

 

 ワタシは黙った。

 

 それは。

 

 ずるい。

 

 とても、ずるい。

 

 ワタシのいないところで、金田君はワタシを普通にしている。

 

 壊す女でも、暴力系でも、名家の娘でも、英雄でもなく。

 

 部屋着のリボンを直してもらって、ココアを飲んで、照れて怒る女の子として。

 

 ワタシの知らないところで、ワタシを守っている。

 

 何それ。

 

 そんなの。

 

 怒れないじゃない。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「それは」

 

「うん」

 

「もっと早く言いなさいよ」

 

「聞かれなかった」

 

「聞かれなくても言いなさい」

 

「難しい」

 

「夫でしょうが」

 

「中学生だけど」

 

「禁止って言ったでしょ!」

 

 ワタシは怒った。

 

 怒ったけれど、さっきまでのムカムカとは少し違った。

 

 胸の奥が温かい。

 

 缶ココアのせいではない。

 

 たぶん、金田君のせい。

 

 全部こいつのせい。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「俺がいない時の妃花も、教えて」

 

「……」

 

「少しでいい」

 

 ワタシはベンチの背にもたれた。

 

 空は赤かった。

 

 公園の向こうを、ランドセルを背負った小学生が走っていく。

 

 五歳の契約をした頃のワタシたちより、少し大きいくらい。

 

 ワタシは缶ココアを見つめたまま言った。

 

「ワタシは」

 

「うん」

 

「あなたがいない時も、だいたい怒ってるわ」

 

「うん」

 

「あなたが言葉足らずだったこととか、謝りすぎることとか、ワタシを妹扱いすることとか」

 

「うん」

 

「でも」

 

 ワタシは少しだけ声を落とした。

 

「だいたい最後には、あなたが迎えに来る時のことを考えてる」

 

 金田君が黙った。

 

 ワタシは続ける。

 

「本家に帰った時も、そうだった」

 

「うん」

 

「御曹司が来た時も、みんなが勝手に話を進めて、ワタシも意地になって」

 

「うん」

 

「でも、どこかで思ってたの」

 

 言葉が、喉の奥で引っかかった。

 

 それでも言う。

 

 今日は反省会だから。

 

 契約更新だから。

 

「金田君、来るかしらって」

 

「……うん」

 

「来なかったらどうしようって」

 

「うん」

 

「来たら、どう怒ってやろうって」

 

「うん」

 

「で、実際に来たら」

 

「うん」

 

「大勢の前で土下座なんかして」

 

「うん」

 

「あれ、ほんと最低だったわ」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「うん」

 

「でも」

 

 ワタシは、缶を両手で包んだ。

 

 もうあまり温かくない。

 

「嬉しかった」

 

 金田君は、動かなかった。

 

 たぶん、こいつも驚いている。

 

 ワタシがここまで素直に言うのは珍しい。

 

 珍しいどころではない。

 

 天変地異に近い。

 

 でも、言ってしまったものは仕方ない。

 

「……以上よ」

 

「うん」

 

「報告終わり」

 

「うん」

 

「何か言いなさいよ」

 

「嬉しい」

 

「だから直球は禁止!」

 

「でも、嬉しい」

 

「っ」

 

 ワタシは顔を逸らした。

 

 公園の砂場を睨む。

 

 砂場は悪くない。

 

 睨まれても困るだろう。

 

 でも、金田君を見るよりは安全だ。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「俺がいない時の妃花も、好き」

 

「……」

 

「怒ってても」

 

「……」

 

「本家で待ってても」

 

「……」

 

「俺の悪口言ってても」

 

「悪口じゃないわ。契約上の苦情よ」

 

「うん」

 

「訂正しなさい」

 

「苦情言ってても」

 

「よろしい」

 

 金田君は、少しだけ笑った。

 

 ワタシはまだそっぽを向いていた。

 

 でも、手だけを出した。

 

 金田君がそれに気づく。

 

 何も言わず、そっと握った。

 

 強くない。

 

 弱くない。

 

 ワタシが壊さずに済む強さ。

 

 金田君が離れないとわかる強さ。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時も、ワタシのこと考えてる?」

 

「うん」

 

「どのくらい」

 

「けっこう」

 

「曖昧ね」

 

「授業中は考えないようにしてる」

 

「成績に関わるから?」

 

「妃花に怒られるから」

 

「当然ね」

 

「昼は考える」

 

「何を」

 

「弁当の卵焼き、甘いかなとか」

 

「うん」

 

「今日、怒ってるかなとか」

 

「うん」

 

「帰り、一緒に帰れるかなとか」

 

「……」

 

「それくらい」

 

 ワタシは、金田君の手を少しだけ握り返した。

 

「及第点」

 

「よかった」

 

「ただし」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時に、ワタシの部屋着の話を勝手にしないこと」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時に、ワタシを怖いだけの女にしないこと」

 

「うん」

 

「ワタシがいない時に、ワタシを忘れないこと」

 

「うん」

 

「でも、ワタシがいない時も、ちゃんと普通に笑うこと」

 

 金田君が、こちらを見た。

 

 ワタシは顔を逸らしたまま言った。

 

「ワタシがいないと笑えない男なんて、困るもの」

 

「うん」

 

「でも、笑ったら報告しなさい」

 

「うん」

 

「誰と、何で笑ったか」

 

「日報」

 

「夫婦間の報連相」

 

「うん」

 

 金田君は頷いた。

 

「妃花も」

 

「何よ」

 

「俺がいない時、俺のこと考えたら報告して」

 

「全部?」

 

「少しでいい」

 

「……検討するわ」

 

「うん」

 

「でも、今日の分は報告したから」

 

「うん」

 

「もう追加はないわ」

 

「そっか」

 

「ないったらないわ」

 

「うん」

 

「……少しだけあるけど」

 

 金田君がこちらを見た。

 

 ワタシは小さく咳払いをした。

 

「昼休み、あなたが普通に笑っているのを見て、腹が立った」

 

「うん」

 

「でも、そのあと、ワタシの方を見て、いつもの顔になった」

 

「うん」

 

「それで」

 

「うん」

 

「少し、安心した」

 

 金田君の手が、ほんの少しだけ強くなった。

 

 でも痛くない。

 

 ちょうどいい。

 

「そっか」

 

「そっか、しか言えないの?」

 

「嬉しいって言うと怒るから」

 

「……言ってもいいわ」

 

「嬉しい」

 

「やっぱり腹立つ」

 

「うん」

 

 ワタシは空いた手で、缶ココアを飲み干した。

 

 ぬるくなっていた。

 

 でも、甘かった。

 

 公園の時計を見ると、そろそろ帰らないといけない時間だった。

 

「帰るわよ」

 

「うん」

 

「今日はワタシの家の前まで」

 

「うん」

 

「途中でスーパーに寄るわ」

 

「何買うの?」

 

「ココア」

 

「家にあるんじゃない?」

 

「契約備蓄よ」

 

「猫の絆創膏は?」

 

「それも買うわ」

 

「まだある?」

 

「あるけど、切らさないのが契約でしょう」

 

「うん」

 

 ワタシたちはベンチから立ち上がった。

 

 金田君が空き缶を二つ持とうとする。

 

 ワタシは先に自分の缶を取った。

 

「自分の分は自分で捨てるわ」

 

「うん」

 

「でも、ゴミ箱までは一緒に行く」

 

「うん」

 

「置いていかない」

 

「置いていかない」

 

 公園の出口に向かって歩く。

 

 夕焼けの中、二人分の影が伸びていた。

 

 ワタシはふと、隣の金田君を見た。

 

 今の金田君は、ワタシの隣にいる金田君。

 

 でも、ワタシがいない時の金田君も、どこかにいる。

 

 友達と笑う金田君。

 

 ワタシの話をする金田君。

 

 ワタシを怖いだけの女にしない金田君。

 

 その全部を、ワタシはまだ知らない。

 

 知らないのは、気に入らない。

 

 でも。

 

 これから聞けばいい。

 

 毎日少しずつ。

 

 報告させればいい。

 

 契約に追加すればいい。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「帰ったら、契約書を更新するわ」

 

「項目は?」

 

「互いの不在時における報告義務」

 

「固い」

 

「大事なことよ」

 

「うん」

 

「それから」

 

「うん」

 

「不在時も、相手を悪く言わないこと」

 

「言わない」

 

「相手を怖いだけにしないこと」

 

「うん」

 

「相手がいなくても、ちゃんと自分の世界で笑うこと」

 

「……うん」

 

「でも」

 

 ワタシは、金田君の手を握り直した。

 

「帰ってくる場所は、ちゃんとここにすること」

 

 金田君は、しばらく黙った。

 

 そして言った。

 

「契約書に書こう」

 

「当然よ」

 

「赤いペン?」

 

「クレヨンじゃないのが惜しいわね」

 

「買う?」

 

「……買うわ」

 

「赤?」

 

「赤」

 

「ココアと絆創膏と赤いクレヨン」

 

「契約更新三点セットね」

 

「うん」

 

 金田君は少しだけ笑った。

 

 いつもの顔で。

 

 ワタシの隣にいる時の顔で。

 

 でも、その奥に、ワタシの知らない金田君もいるのだろう。

 

 今は、それでいい。

 

 全部知らなくてもいい。

 

 これから知る。

 

 勝手に遠くへ行かせない。

 

 でも、縛りすぎない。

 

 いなくならないなら。

 

 帰ってくるなら。

 

 ワタシの知らない場所で笑うことくらい、許してあげる。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「明日、山岸君と何で笑ったか、報告しなさい」

 

「今日じゃなくて?」

 

「今日の分は、帰り道で聞くわ」

 

「長くなる?」

 

「反省会ですもの」

 

「うん」

 

「あと、ワタシの話をする時は、事実に基づき、でもなるべく可愛く伝えなさい」

 

「可愛く」

 

「怖いだけにしないこと」

 

「うん」

 

「リボンの話は許可制」

 

「うん」

 

「部屋着は厳重管理」

 

「うん」

 

「でも、似合ってたことは否定しない」

 

「かわいかった」

 

「だから急に刺すな!」

 

 夕方の道に、ワタシの声が響いた。

 

 金田君は笑った。

 

 今度は、ワタシの前で。

 

 ワタシも、少しだけ笑った。

 

 ほんの少しだけ。

 

 妃花ちゃんが近くにいない時の金田君は、まだ気に入らない。

 

 でも、気になる。

 

 腹立たしいほど、気になる。

 

 だから。

 

 契約書に、こう書き足すのだ。

 

 十一、ふたりは、いない時のことも、少しずつ話す。

 

 十二、でも、帰る場所は忘れない。

 

 十三、金田君は、妃花ちゃんの部屋着を勝手に男子に詳しく説明しない。

 

 十四、妃花ちゃんは、金田君が普通に笑っていても、缶を潰さない。

 

 ……十四は、少し不本意だけれど。

 

 まあ。

 

 努力はしてあげる。

 

 夫婦なので。

 

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