倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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番外編 五歳の約束

 五歳の妃花ちゃんは、すでにだいぶ妃花ちゃんだった。

 

 朱色の髪を二つに結んで、リボンを大きく揺らして、立ち方だけは妙に堂々としている。

 

 お嬢様学校の制服ではない。

 

 子供用の白いワンピース。

 

 靴はぴかぴか。

 

 手には、祖母から持たされた小さなレースのハンカチ。

 

 その姿だけ見れば、まるで絵本から出てきたお姫様だった。

 

 ただし。

 

 本人は、昼寝室の積み木の城を素手で破壊した直後だった。

 

「ちがうわ」

 

 妃花ちゃんは、ぷるぷる震えていた。

 

「ちがうの。ワタシは、お城を作りたかったの」

 

 目の前には、無残に崩れた積み木。

 

 赤い屋根。

 

 青い壁。

 

 黄色い門。

 

 本当なら、綺麗なお城になるはずだった。

 

 けれど妃花ちゃんが最後に尖塔を置こうとした瞬間、力が入りすぎた。

 

 ぱき。

 

 積み木のひとつが割れた。

 

 それに驚いて手を引いたら、肘が当たった。

 

 がしゃん。

 

 城は崩れた。

 

 横にいた女の子が泣いた。

 

 男の子たちは後ずさった。

 

 保育士の先生が慌てて駆け寄ってきた。

 

 妃花ちゃんは、何も言えなくなった。

 

 壊したかったわけじゃない。

 

 怖がらせたかったわけじゃない。

 

 ただ、お城を完成させたかっただけ。

 

「妃花ちゃん、大丈夫?」

 

 先生が優しく聞いた。

 

 でも、妃花ちゃんはそれが嫌だった。

 

 壊された積み木ではなく、泣いた女の子ではなく、ワタシの心配をする。

 

 違う。

 

 違うの。

 

 心配されたいんじゃない。

 

 怒ってほしいの。

 

 怒られたら、ワタシが悪いってわかるから。

 

 怖がられるより、ずっといいから。

 

「ワタシじゃない」

 

 妃花ちゃんは、小さな声で言った。

 

「ワタシ、そんなに強くしてない」

 

 嘘だった。

 

 嘘というより、願いだった。

 

 ワタシがやったんじゃないことにしたかった。

 

 すると、部屋の隅から声がした。

 

「妃花ちゃんがやったよ」

 

 みんなが振り向いた。

 

 そこにいたのは、金田君だった。

 

 五歳の金田君。

 

 髪は少し寝癖があって、服の袖は片方だけ折れていて、表情は今より少しぼんやりしている。

 

 でも、目だけはまっすぐだった。

 

 妃花ちゃんは固まった。

 

「……なによ」

 

「妃花ちゃんがやった」

 

「見てたの?」

 

「見てた」

 

「じゃあ、ワタシがわざとじゃないのも見てたでしょ!」

 

「うん」

 

「だったら!」

 

「でも、やったのは妃花ちゃん」

 

 妃花ちゃんの顔が真っ赤になった。

 

 怒りと、悔しさと、悲しさが、一度に来た。

 

 五歳の体には多すぎた。

 

「金田君なんか、きらい!」

 

「うん」

 

「うんじゃない!」

 

「先生」

 

 金田君は先生を見上げた。

 

「妃花ちゃん、わざとじゃない。でも、壊したから、いっしょに直した方がいいと思う」

 

 妃花ちゃんは、息を止めた。

 

 先生も少し驚いた顔をした。

 

「金田君も手伝ってくれるの?」

 

「うん」

 

「でも、金田君のお城じゃないよ?」

 

「うん」

 

「どうして?」

 

 金田君は、少し考えた。

 

 それから言った。

 

「妃花ちゃん、ひとりだと泣くから」

 

 妃花ちゃんは叫んだ。

 

「泣かないわよ!」

 

 泣いていた。

 

 ぼろぼろ泣いていた。

 

 悔しくて。

 

 恥ずかしくて。

 

 でも、少しだけほっとして。

 

 金田君は、壊れた積み木を拾い始めた。

 

 泣いていた女の子も、先生に抱っこされながら少し落ち着いた。

 

 他の子たちはまだ遠巻きに見ていたけれど、金田君が一個ずつ積み木を集めるものだから、何人かはつられて手伝い始めた。

 

 妃花ちゃんは、しばらく動けなかった。

 

「妃花ちゃん」

 

 金田君が、割れた積み木を持ってきた。

 

「これ、先生に直してもらおう」

 

「……」

 

「割れたから」

 

「わかってるわよ」

 

「手、痛くない?」

 

 妃花ちゃんは、びくっとした。

 

 金田君は、妃花ちゃんの手を見ていた。

 

 指先が赤くなっている。

 

 積み木が割れた時、少し当たったのだ。

 

 先生も気づかなかった。

 

 妃花ちゃん本人も気づいていなかった。

 

「痛くないわ」

 

「ほんと?」

 

「痛くない!」

 

「そっか」

 

 金田君は、自分のポケットから小さな絆創膏を出した。

 

 車の絵がついているやつだった。

 

「貼る?」

 

「貼らない」

 

「なんで?」

 

「ワタシ、車じゃないもの」

 

「じゃあ、先生にもらう?」

 

「……」

 

「猫のやつ、あるかも」

 

「……猫なら、貼ってもいいわ」

 

 先生が笑った。

 

 妃花ちゃんは笑われたと思って、またむっとした。

 

 でも金田君は笑わなかった。

 

 ただ、先生から猫の絆創膏をもらって、妃花ちゃんの指に貼ろうとした。

 

「自分でできるわ」

 

「うん」

 

「……でも、持ってて」

 

「うん」

 

 妃花ちゃんは、金田君に絆創膏の端を持たせた。

 

 そして自分で指に貼った。

 

 少し曲がった。

 

 金田君が言った。

 

「曲がってる」

 

「おしゃれよ」

 

「そっか」

 

「納得しなさい」

 

「うん」

 

 そこから、二人は積み木の城を直した。

 

 妃花ちゃんは、力を入れすぎないように震えながら積み木を置いた。

 

 金田君はその隣で、崩れそうなところを手で押さえた。

 

 何度も倒れた。

 

 妃花ちゃんはそのたびに怒った。

 

 金田君はそのたびに拾った。

 

 やがて、小さくて不格好な城ができた。

 

 最初に作ろうとしたものより、ずっと低い。

 

 尖塔もない。

 

 でも、壊れなかった。

 

 妃花ちゃんは、それを見て、少しだけ胸を張った。

 

「できたわ」

 

「うん」

 

「ワタシが作ったの」

 

「俺も作った」

 

「ワタシが作ったの!」

 

「いっしょに作った」

 

「……」

 

 妃花ちゃんは、少し考えた。

 

「まあ、手伝わせてあげたわ」

 

「うん」

 

「感謝しなさい」

 

「ありがとう」

 

「なんであんたが言うのよ!」

 

 その日から、金田君は妃花ちゃんの近くにいることが増えた。

 

 妃花ちゃんが砂場で山を作れば、横で水の量を見た。

 

 妃花ちゃんが折り紙を折れば、破れた紙を一緒に拾った。

 

 妃花ちゃんが転べば、先に膝ではなく地面の石をどけた。

 

 そして最後に、手を見た。

 

「痛くない?」

 

 いつもそれだった。

 

 痛くない。

 

 平気。

 

 放っておいて。

 

 妃花ちゃんは毎回そう言った。

 

 でも、金田君は毎回見た。

 

 怪我をしていないか。

 

 泣いていないか。

 

 壊したものを、ひとりで抱え込んでいないか。

 

 五歳の妃花ちゃんには、それが何なのかわからなかった。

 

 ただ、金田君が他の子と遊んでいると、胸がむかむかした。

 

 金田君が別の女の子に絆創膏を渡すと、ものすごく腹が立った。

 

 金田君が先生に褒められると、なぜか誇らしくて、でも自分以外に褒められているのが気に入らなかった。

 

 だから、ある日。

 

 妃花ちゃんは決めた。

 

 契約しよう、と。

 

     *

 

 その日は雨だった。

 

 幼稚園の庭には出られない。

 

 部屋の中では、子供たちがそれぞれ遊んでいた。

 

 ままごと。

 

 絵本。

 

 ブロック。

 

 お絵かき。

 

 妃花ちゃんは、ままごとのテーブルに座っていた。

 

 目の前には、プラスチックのティーカップ。

 

 皿には、木でできたケーキ。

 

 その向かいに、金田君を座らせている。

 

 なお、金田君は本当はブロックで車を作っていた。

 

 だが妃花ちゃんが腕を掴んで連行した。

 

「金田君」

 

「なに?」

 

「ワタシ、考えました」

 

「うん」

 

「あなたは、ワタシのそばにいるべきです」

 

「うん?」

 

「ワタシが壊したものを一緒に直せるし、ワタシが泣きそうな時に泣いてないことにできるし、ワタシが怒っても逃げないからです」

 

「逃げたことある」

 

「いつ」

 

「昨日、妃花ちゃんが粘土投げた時」

 

「あれは逃げていいわ」

 

「そっか」

 

「だから、特別に許します」

 

「ありがとう」

 

 妃花ちゃんは、木のケーキを金田君の皿に置いた。

 

「それで」

 

「うん」

 

「ワタシと結婚しなさい」

 

 金田君は、しばらく黙った。

 

 木のケーキを見た。

 

 妃花ちゃんを見た。

 

 また木のケーキを見た。

 

「けっこん?」

 

「そうよ」

 

「お父さんとお母さんがするやつ?」

 

「そう」

 

「俺たち、子どもだよ」

 

「将来の話よ」

 

「しょうらい」

 

「予約です」

 

「予約」

 

「契約とも言います」

 

 妃花ちゃんは、ポケットから紙を出した。

 

 折り紙の裏だった。

 

 そこには、クレヨンで何かが書いてあった。

 

 文字はまだところどころ鏡文字で、線もぐにゃぐにゃしていた。

 

 でも、妃花ちゃんは真剣だった。

 

「読んであげます」

 

「うん」

 

「けいやくしょ」

 

「うん」

 

「一、金田君は、妃花ちゃんを置いていかない」

 

「うん」

 

「二、妃花ちゃんが怒ったら、逃げてもいいけど、あとで戻ってくる」

 

「うん」

 

「三、妃花ちゃんが悪い時は、妃花ちゃんが悪いって言う」

 

「うん」

 

「四、でも、妃花ちゃんがひとりで悪いみたいにしない」

 

「……」

 

「五、金田君が困った時は、妃花ちゃんも助ける」

 

「うん」

 

「六、金田君は、ほかの女の子と結婚しない」

 

「え」

 

「六!」

 

「うん」

 

「七、妃花ちゃんも、ほかの男の子と結婚しない」

 

「うん」

 

「八、ココアは牛乳多め」

 

「それ、けっこん?」

 

「大事です」

 

「そっか」

 

「九、猫の絆創膏を切らさない」

 

「うん」

 

「十」

 

 妃花ちゃんは、そこで少しだけ声を小さくした。

 

「十、金田君は、妃花ちゃんがこわくても、こわいって言っていい。でも、いなくならない」

 

 金田君は黙った。

 

 妃花ちゃんの指には、今日も猫の絆創膏が貼ってあった。

 

 昨日、紙を破った時に少し切った。

 

 たいした怪我ではない。

 

 でも、金田君が気づいて、先生にもらってきた。

 

 妃花ちゃんはその絆創膏を、ずっと気にしていた。

 

「……妃花ちゃん」

 

「なによ」

 

「こわくないよ」

 

 妃花ちゃんは、怒った顔をした。

 

「嘘はだめよ」

 

「嘘じゃない」

 

「じゃあ、どうしてみんな逃げるの」

 

「びっくりするから」

 

「同じよ」

 

「違うよ」

 

「同じ!」

 

 妃花ちゃんは立ち上がった。

 

 ままごとのテーブルが揺れた。

 

 ティーカップが倒れた。

 

 木のケーキが転がった。

 

 周りの子たちがこちらを見る。

 

 妃花ちゃんは唇を噛んだ。

 

 まただ。

 

 また、やった。

 

 ただ立っただけなのに。

 

 少し力が入っただけなのに。

 

 金田君は、転がった木のケーキを拾った。

 

 それを皿に戻した。

 

 それから言った。

 

「妃花ちゃん」

 

「なによ」

 

「こわい時は、こわいって言う」

 

「……」

 

「でも、いなくならない」

 

 妃花ちゃんは、また黙った。

 

 胸の奥が、ぎゅっとした。

 

 それが嬉しいのか悲しいのか、五歳の妃花ちゃんにはよくわからなかった。

 

 ただ、泣きそうになった。

 

 泣きそうになったので、怒ることにした。

 

「じゃあ、サインしなさい」

 

「さいん?」

 

「名前を書くの」

 

「まだ上手に書けない」

 

「練習しなさい」

 

「今?」

 

「今」

 

 妃花ちゃんはクレヨンを差し出した。

 

 赤色だった。

 

 金田君はそれを受け取って、折り紙の裏にゆっくり名前を書いた。

 

 か、ね、だ。

 

 曲がっている。

 

 大きさもばらばら。

 

 でも、ちゃんと書いた。

 

 妃花ちゃんは満足して、自分も名前を書いた。

 

 ひ、め、か。

 

 こっちも少し曲がっている。

 

「これで契約成立です」

 

「うん」

 

「将来、ワタシと結婚するのよ」

 

「うん」

 

「絶対よ」

 

「うん」

 

「破ったら」

 

 妃花ちゃんは、真剣な顔で言った。

 

「本家に帰ります」

 

「ほんけ?」

 

「すごいところです」

 

「遠い?」

 

「たぶん」

 

「迎えに行く」

 

 妃花ちゃんは瞬きをした。

 

「今、なんて?」

 

「妃花ちゃんが本家に帰ったら、迎えに行く」

 

「……」

 

「だって、置いていかないって書いたから」

 

 妃花ちゃんは、紙をぎゅっと握った。

 

 強く握りすぎて、少ししわになった。

 

「ちょっと」

 

「うん」

 

「そういうの、契約書に書いてないわ」

 

「一に書いてある」

 

「そうだけど!」

 

 金田君は、少しだけ首を傾げた。

 

「だめ?」

 

「だめじゃないけど!」

 

「じゃあ、いい?」

 

「……いいわ」

 

 妃花ちゃんは椅子に座り直した。

 

 倒れたティーカップを戻す。

 

 木のケーキを真ん中に置く。

 

 それから、ままごとの急須を持って、空っぽのカップに何かを注ぐふりをした。

 

「ココアです」

 

「お茶じゃないんだ」

 

「ココアです。牛乳多め」

 

「ありがとう」

 

「夫婦なので」

 

「まだ子どもだよ」

 

「将来的に夫婦なので」

 

「そっか」

 

「そうです」

 

 金田君は、空っぽのカップを持って、飲むふりをした。

 

「おいしい」

 

「当然よ」

 

「マシュマロは?」

 

「今日はありません」

 

「そっか」

 

「でも、将来は三個入れます」

 

「うん」

 

 妃花ちゃんは、少しだけ笑った。

 

 本当に少しだけ。

 

 金田君も、少しだけ笑った。

 

 その時、先生が近づいてきた。

 

「二人とも、何してるの?」

 

 妃花ちゃんは堂々と答えた。

 

「結婚しました」

 

 先生は固まった。

 

 金田君は言った。

 

「将来の予約です」

 

 先生は、困ったように笑った。

 

「そっかあ。じゃあ、仲良くね」

 

「仲良くではありません」

 

 妃花ちゃんは言った。

 

「契約です」

 

「契約なんだ」

 

「はい」

 

「大事にできる?」

 

 先生の問いに、妃花ちゃんはすぐ答えられなかった。

 

 大事にする。

 

 それは難しい。

 

 妃花ちゃんは、力を入れすぎる。

 

 積み木も、紙も、粘土も、時々友達の手も。

 

 大事にしたいものほど、壊してしまう。

 

 だから、自信がなかった。

 

 すると、金田君が先に答えた。

 

「いっしょに大事にする」

 

 先生は、少しだけ目を細めた。

 

「そっか」

 

 妃花ちゃんは、金田君を見た。

 

「ワタシが先に言おうとしたのに」

 

「ごめん」

 

「謝るな」

 

「うん」

 

「でも、まあ」

 

 妃花ちゃんは、契約書を丁寧に折った。

 

 四つ折り。

 

 それをハンカチに包んで、ポケットにしまう。

 

「今の答えは、悪くありません」

 

「そっか」

 

「及第点です」

 

「よかった」

 

     *

 

 その日の帰り。

 

 妃花ちゃんは、母に手を引かれて帰る途中も、ずっとポケットを押さえていた。

 

「妃花、何を持っているの?」

 

 母が尋ねる。

 

 妃花ちゃんは、少し迷った。

 

 でも、これは重要なことなので、報告しなければならないと思った。

 

「契約書です」

 

「契約書?」

 

「金田君と結婚します」

 

 母は足を止めた。

 

 そして、ゆっくりしゃがんだ。

 

「そう」

 

「はい」

 

「金田君は、了承したの?」

 

「サインしました」

 

「まあ」

 

 母は口元に手を当てた。

 

 笑っているのか、驚いているのか、妃花ちゃんにはわからない。

 

「どうして金田君なの?」

 

 妃花ちゃんは、少し考えた。

 

「ワタシが壊しても、見ているからです」

 

「見ている?」

 

「逃げないで、見ているの」

 

「……そう」

 

「それで、ワタシが悪い時は悪いって言うの。でも、ひとりにしないの」

 

 母は黙った。

 

 妃花ちゃんの母は、美しい人だった。

 

 旧華族の長女として生まれ、厳しい本家の空気の中で育ち、それでも恋を選んだ人。

 

 父と結ばれるために、結果を出して、認めさせた人。

 

 その母が、少しだけ目を潤ませた。

 

「妃花」

 

「はい」

 

「その契約書、大事にしなさい」

 

「はい」

 

「でも、金田君も大事にしなさい」

 

「……」

 

「契約は、相手を縛るためだけのものではないわ」

 

 五歳の妃花ちゃんには、少し難しかった。

 

 だから、こう聞いた。

 

「じゃあ、何のため?」

 

 母は微笑んだ。

 

「二人で守るものを、忘れないため」

 

 妃花ちゃんは、ポケットの上から契約書を押さえた。

 

「ワタシ、壊さないようにします」

 

「ええ」

 

「でも、壊したら」

 

「直せばいいわ」

 

「一人で?」

 

 母は、首を振った。

 

「二人で」

 

 その夜、妃花ちゃんは契約書を枕の下に入れて眠った。

 

 何度も取り出して、確認した。

 

 金田君の名前。

 

 自分の名前。

 

 曲がった文字。

 

 クレヨンの赤。

 

 十個の約束。

 

 特に、一番目。

 

 金田君は、妃花ちゃんを置いていかない。

 

 そして十番目。

 

 こわくても、いなくならない。

 

 妃花ちゃんは、その二つを指でなぞった。

 

 力を入れすぎないように。

 

 紙を破らないように。

 

 そっと。

 

 そっと。

 

     *

 

 翌日。

 

 金田君は幼稚園に来るなり、妃花ちゃんに小さな箱を渡した。

 

「なにこれ」

 

「絆創膏」

 

「猫?」

 

「猫」

 

「何枚?」

 

「十枚」

 

「……」

 

「契約に書いてあったから」

 

 妃花ちゃんは箱を受け取った。

 

 胸がむずむずした。

 

 嬉しい。

 

 でも、素直に言うのは嫌だった。

 

 なので、こう言った。

 

「準備がいいわね」

 

「うん」

 

「夫としては及第点です」

 

「まだ子どもだよ」

 

「将来的に!」

 

「うん」

 

 その日は、妃花ちゃんはあまり物を壊さなかった。

 

 紙を一枚破った。

 

 ブロックを一個割った。

 

 椅子を少しだけ軋ませた。

 

 でも、大きなものは壊さなかった。

 

 金田君が隣にいたから。

 

 金田君が見ていたから。

 

 ワタシが壊しても、終わりじゃない。

 

 ワタシが怒っても、いなくならない。

 

 そのことを、妃花ちゃんは少しだけ信じられたから。

 

 昼寝の時間。

 

 みんなが布団に入る頃、妃花ちゃんは小声で金田君に言った。

 

「金田君」

 

「なに?」

 

「昨日の契約」

 

「うん」

 

「忘れたら、本家に帰るわよ」

 

「忘れない」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「ワタシのこと、怖くなったら?」

 

「怖いって言う」

 

「そのあと?」

 

「いなくならない」

 

「……よろしい」

 

 妃花ちゃんは布団にもぐった。

 

 目を閉じる。

 

 少ししてから、また目を開けた。

 

「金田君」

 

「なに?」

 

「ココアは?」

 

「牛乳多め」

 

「マシュマロは?」

 

「将来は三個」

 

「よろしい」

 

 金田君は眠そうな声で言った。

 

「妃花ちゃん」

 

「なに?」

 

「俺が困った時も、助けてね」

 

 妃花ちゃんは、布団の中で少しだけ固まった。

 

 そうだ。

 

 契約の五番。

 

 金田君が困った時は、妃花ちゃんも助ける。

 

 妃花ちゃんは、力が強い。

 

 物を壊す。

 

 怒る。

 

 怖がられる。

 

 でも、それでも。

 

 金田君を助けられるかもしれない。

 

 壊すだけじゃなくて。

 

 守れるかもしれない。

 

「当然よ」

 

 妃花ちゃんは言った。

 

「ワタシは強いもの」

 

「うん」

 

「だから、金田君が困ったら、ワタシが助けてあげる」

 

「ありがとう」

 

「夫婦なので」

 

「まだ子ども」

 

「将来的に!」

 

 先生に「静かにね」と言われた。

 

 二人は黙った。

 

 でも、妃花ちゃんは布団の中で、少しだけ笑っていた。

 

 その契約書は、後に何度も更新される。

 

 小学生の時には、雨の日の項目が増えた。

 

 中学生の時には、報連相の項目が増えた。

 

 謝罪についての項目も増えた。

 

 靴を出す時は事前に言う、という馬鹿みたいに具体的な項目も増えた。

 

 そのたびに妃花ちゃんは怒り、金田君は頷き、二人で書き足した。

 

 けれど、最初の契約だけは変わらない。

 

 赤いクレヨンで書いた、曲がった文字。

 

 一、金田君は、妃花ちゃんを置いていかない。

 

 十、金田君は、妃花ちゃんがこわくても、こわいって言っていい。でも、いなくならない。

 

 そして、五番。

 

 金田君が困った時は、妃花ちゃんも助ける。

 

 五歳の妃花ちゃんは、それを恋だとは知らなかった。

 

 愛だとも知らなかった。

 

 ただ、契約だと思っていた。

 

 守るものだと思っていた。

 

 壊さないように、そっと持つものだと思っていた。

 

 そして五歳の金田君は、たぶん、もっと単純に思っていた。

 

 妃花ちゃんが泣くと困る。

 

 妃花ちゃんがひとりだと、もっと困る。

 

 だから隣にいる。

 

 それだけ。

 

 けれど、その「それだけ」が。

 

 妃花ちゃんにとっては、世界で一番強い約束だった。

 

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