妃花ちゃんには、困ったいとこがいる。
名前はダリア。
父方の親戚の子。
つまり、イギリス方面の血筋の、やたらと背が高く、やたらと姿勢がよく、やたらと自分の見せ方を知っている女である。
年はワタシたちと同じ。
なのに、初対面の人間は大体一瞬だけ高校生かと錯覚する。
長い睫毛。
色素の薄い髪。
白い肌。
整った顔。
そして何より、他人を見下ろす角度が上手い。
背が高いからではない。
性格が悪いからだ。
いや、正確には、性格が悪いというより。
性格が、非常に面倒くさい。
マウントが好き。
レスバが好き。
人の急所を見抜くのが好き。
褒め言葉の中に毒を混ぜるのが好き。
相手が怒った瞬間に「怒ったの? 可愛い」と言うのが好き。
そして、現在。
彼女は仮想アイドルをやっている。
名前は「ダリア・ノーブルローズ」。
歌う。
喋る。
ゲーム配信をする。
弱った男の心に「あなたは私の特別な騎士様よ」と囁き、投げ銭をさせる。
実に最低である。
ちなみに本人はこう言う。
「巻き上げてないわ。彼らは自発的に薔薇の肥料になっているだけ」
最低である。
そんなダリアが、金田君のことを狙っている。
正確には、狙っていると言うより。
絡んでいる。
いや、狙っている。
明確に狙っている。
なにしろ、本人がこう言ったのだ。
「わたくし、金田様の愛人になりたいの」
その瞬間。
ワタシは、持っていたティーカップを粉砕した。
*
その日、ワタシは金田君を連れて本家に来ていた。
理由は簡単。
祖母に呼ばれたからである。
表向きは、夏のイギリス行きについての相談。
実際はたぶん、ワタシと金田君の現在の進捗確認。
進捗とは何か。
中学生に対して使う言葉ではない。
しかし、本家の人間は平然と使う。
祖母など、朝の紅茶を飲むような顔で言う。
「妃花。金田さんとの関係は、きちんと成熟していますか」
成熟とは何か。
中学生に対して使う言葉ではない。
だが祖母は使う。
そして金田君は、隣で普通にお辞儀をする。
やめなさい。
あなたも慣れるな。
本家の客間は、今日もやたらと静かだった。
畳。
低い机。
季節の花。
壁に掛けられた古い書。
外では庭師が松の枝を整えている。
そして、その雅やかな空間に。
ダリアがいた。
黒いワンピースに、深紅のリボン。
学校では許されないような装飾のついた髪留め。
足を揃えて座っているのに、なぜか態度だけは玉座にいる女王だった。
「妃花。久しぶりね」
「ええ。相変わらずね、ダリア」
「あら、褒め言葉?」
「診断よ」
「辛辣。そういうところ、好きよ」
「ワタシは嫌いよ」
「でしょうね」
ダリアは楽しそうに笑った。
この女は、ワタシの怒りを栄養にしている節がある。
薔薇ではない。
食虫植物だ。
「金田様も、ご機嫌よう」
「こんにちは、ダリア」
「まあ。相変わらず、わたくしの名前を普通に呼ぶのね」
「呼び方、変えた方がいい?」
「いいえ。そのままで。あなたに様付けされると、なぜか負けた気がするもの」
「そっか」
金田君は普通に頷いた。
ダリアの目が細くなる。
この瞬間だけ、彼女の余裕に小さなヒビが入る。
金田君は、ダリアにとって天敵だ。
なぜなら金田君は、ダリアの煽りに乗らない。
マウントも効かない。
毒を盛った褒め言葉を、毒だけ器用に避ける。
そして、彼女が一番見られたくないところを知っている。
ダリアが仮想アイドルを始めた時。
立ち上げを手伝ったのは、金田君だった。
配信機材の選定。
音声設定。
配信画面の構成。
初回配信の台本。
コメント欄が荒れた時の対応。
収益化までの段取り。
金田君は、全部手伝った。
もちろん、ワタシも聞いている。
だが、ワタシは手伝っていない。
だって、ダリアがワタシに頼らなかったから。
理由は単純。
ワタシに弱みを見せたくなかったのだ。
そしてよりによって、金田君には見せた。
泣きながら。
深夜、通話で。
「誰も来なかったらどうしよう」とか。
「一人も見てくれなかったら、わたくしはどうやって笑えばいいの」とか。
「本当は、自分が選ばれないことが怖い」とか。
そういう、ダリアが絶対に表で言わないことを。
金田君は知っている。
だから、ダリアにとって金田君は天敵であり、恩人でもある。
そして、その結果。
この女はバグった。
「金田様」
ダリアは優雅に茶碗を置いた。
「わたくし、今日こそ正式に申し上げようと思っていたの」
「何を?」
聞くな。
聞かなくていい。
この女がその顔をしている時は、大体ろくなことを言わない。
ワタシは警戒した。
金田君の袖を掴む。
金田君がこちらを見る。
「妃花?」
「逃げる準備」
「誰が?」
「あなたが」
「なんで」
「いいから」
ダリアは、にっこり笑った。
「わたくしを、金田様の愛人にしてくださらない?」
客間の空気が止まった。
庭の鹿威しが、こーん、と鳴った。
遅れて、ワタシの手の中で茶碗が砕けた。
「妃花」
金田君がすぐにワタシの手を取った。
「手」
「痛くないわ」
「破片」
「痛くない」
「妃花」
「痛くないって言ってるでしょ!」
金田君は、ワタシの声に怯えなかった。
ただ、懐紙を取って、ワタシの指に触れないように破片を払った。
腹立つ。
今はそれどころではない。
いや、手を心配されるのは嬉しい。
違う。
違わない。
でも、今はダリアだ。
「ダリア」
ワタシは、低い声で言った。
「今、何て?」
「愛人」
「聞き間違いかと思ったけど、やっぱり頭がおかしいのね」
「あら。妃花ったら、ひどい」
「ひどいのはあなたの倫理観よ」
「貴族社会には古来より、正妻と愛人の美しい均衡というものが」
「ここは現代日本で、ワタシたちは中学生よ!」
「でもあなた、いつも夫婦面しているじゃない」
「それは契約上の正当な権利よ!」
「なら、わたくしにも契約上の立場を用意してくださる?」
「用意するのは退出口よ!」
ワタシは立ち上がった。
畳がぎしりと鳴る。
金田君が少しだけ手を伸ばす。
止めるためではない。
ワタシが踏み込んだ瞬間、畳を破らないようにするためだ。
そういうところ。
いま本当に腹立つ。
「まあ、妃花」
ダリアは扇子を広げた。
どこから出した。
「あなた、案外狭量なのね」
「狭量?」
「だって、あなた自身がよく言っているじゃない。倦怠期の夫婦には、時に刺激が必要だと」
「言ってないわよ!」
「顔に書いてあるわ」
「幻覚よ」
「それに、あなたも薄々わかっているのでしょう? 金田様は、あまりにもあなたに尽くしすぎている。このままでは、あなたは彼の優しさに慣れてしまうわ」
「……」
「記念日を覚えていて当然。好物を忘れなくて当然。あなたが怒れば迎えに来て当然。あなたが壊せば一緒に直して当然」
ダリアの声が、少しだけ鋭くなる。
「ねえ、妃花。それは愛なの? それとも、金田様をあなた専用の修復係にしているだけ?」
部屋が静かになった。
ワタシは、息を止めた。
この女は、こういうところがある。
ふざけて、煽って、最低なことを言っているようで。
急に、喉元に刃を当ててくる。
しかも、完全な的外れではない。
だから腹立つ。
殺す。
いや、殺さない。
現代日本なので。
「ダリア」
金田君が言った。
静かな声だった。
ワタシの手を見ながらではない。
ダリアを見ていた。
「それは違う」
ダリアの扇子が止まった。
「何が?」
「妃花は、俺を修復係にしてない」
「そうかしら」
「俺が勝手にやってる」
「それはそれで重症では?」
「うん」
「認めるのね」
「でも、妃花も直そうとしてる」
金田君は、ワタシの手元に目を落とした。
砕けた茶碗。
懐紙。
破片。
ワタシは、指を少し曲げた。
怪我はしていない。
でも、また壊した。
祖母に怒られる。
いや、祖母はたぶん怒らない。
「良い茶碗でしたが、妃花の心より安く済みましたね」とか言う。
それはそれで重い。
「妃花は、壊した後で考える」
金田君は続けた。
「謝る時もある。直す時もある。次は力を抜こうとする」
「美談にしているだけではなくて?」
「美談じゃない」
金田君は即答した。
「面倒くさい」
ワタシは金田君を見た。
「金田君?」
「怒るし、壊すし、本家に帰るし、契約更新が多いし、反省会が長い」
「後で反省会よ」
「うん」
「でも」
金田君は、少しだけ声を緩めた。
「俺も面倒くさい。言葉が足りない。謝って終わらせようとする。心配しすぎる。妃花の気持ちを勝手に先回りする」
「……」
「だから半分」
ダリアは、黙っていた。
扇子で口元を隠している。
その目だけが、金田君を見ている。
いつものように笑っているようで、笑っていない。
「半分、ね」
ダリアは低く言った。
「本当にあなた、腹が立つほど綺麗事を生活の動作でやるのね」
「そう?」
「褒めてないわ」
「うん」
「そこが腹立つと言っているの」
「妃花もよく言う」
「妃花と一緒にしないでくださる?」
「似てるところある」
ワタシとダリアが同時に言った。
「ないわよ!」
声が重なった。
最悪。
金田君が少しだけ笑った。
殺す。
いや、殺さない。
愛人志望者の前で本妻が殺意を見せるのは、あまりにも余裕がない。
いや、本妻ではない。
中学生。
でも契約上は。
面倒くさい!
「とにかく」
ワタシは咳払いをした。
「愛人は却下よ」
「あら、検討くらいしてくださるのではなくて?」
「しないわ」
「先ほど、倦怠期の夫婦には刺激が」
「言ってない」
「でも少し思ったでしょう」
「殺す」
「ほら、思った」
「思ってない!」
ダリアは楽しそうに笑う。
だが、その笑顔の奥に、少しだけ焦りが見えた。
ワタシにはわかる。
なぜなら、ダリアは今、金田君の反応を待っているからだ。
拒絶されるのを怖がっている。
断られることが決まっている冗談を、わざと大げさに投げている。
自分が本気ではないように。
傷つかないように。
でも、少しでも金田君が困った顔をすれば、それを勝利にできるように。
最低で、面倒で、狡い。
そして、弱い。
「ダリア」
金田君が言った。
「愛人にはしない」
ダリアの扇子が、ほんの少し揺れた。
「まあ。即答?」
「うん」
「少しは悩みなさいよ」
「悩まない」
「わたくし、そこそこ優良物件よ?」
「うん」
「背も高いし、見栄えもするし、話題性もあるし、仮想アイドルとして稼ぎもあるわ。金田様が望むなら、わたくしのヒモにして差し上げてもよろしくてよ」
「ヒモにはならない」
「でしょうね!」
ダリアは扇子を閉じた。
ばちん、と音がした。
強い音だった。
彼女の笑顔が、少し崩れた。
「本当に、あなたはそういうところよ」
「うん」
「恩人面もしない。支配もしない。見下しもしない。わたくしが一番惨めだったところを知っているくせに、それを武器にしない」
「武器にするものじゃないから」
「だから腹が立つのよ!」
ダリアは立ち上がった。
長い髪が揺れる。
まるで舞台の上の役者みたいだった。
悔しさすら、彼女は美しく見せようとする。
「わたくしは、いつかあなたをわからせるの」
「わからせる?」
「ええ。あなたに、わたくしが必要だと懇願させるの。彼女にしてくださいって、あなたの方から言わせるの。その後で、わたくしは微笑んで言うわ。正妻は妃花でいい。わたくしは愛人で十分。だから、わたくしのヒモになりなさいって」
「順番がめちゃくちゃよ!」
「恋とはロジックを破壊するものよ、妃花」
「レスバ好きがロジックを捨てるな!」
ダリアはワタシを見る。
目がきらきらしていた。
悔しさと、楽しさと、寂しさと、全部混ざっている目。
「あなたも嫌でしょう?」
「何が」
「金田様が、わたくしの弱さを知っていること」
「……」
「あなたのいないところで、わたくしの泣き言を聞いたこと。あなたの知らない金田様が、わたくしを助けたこと」
ワタシは言葉に詰まった。
それは。
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
金田君がダリアを助けたこと自体は、悪くない。
困っている人を助ける金田君は、金田君だ。
そこを否定したら、ワタシがワタシの好きな金田君を否定することになる。
でも。
ワタシの知らないところで、ダリアが泣いて。
金田君がそれを知って。
二人だけの文脈がある。
それは、嫌だ。
かなり嫌だ。
殺すほどではない。
でも、茶碗はもう一つ危ない。
「嫌よ」
ワタシは正直に言った。
ダリアの目が少し開いた。
「嫌に決まってるでしょう」
「……あら」
「金田君がワタシの知らないところで、あなたの泣きどころを知っているのも。あなたがそれを恩に着て、天敵とか言いながら執着しているのも。全部、気に入らない」
「ふふ」
「でも」
ワタシは、金田君の袖を掴んだ。
力は入れない。
今は、壊さない。
「それで金田君があなたを助けたことまで否定したら、ワタシの負けだわ」
ダリアの笑みが止まった。
「へえ」
「だから、そこは認める」
「寛大ね」
「寛大じゃないわ。腸が煮えくり返ってるもの」
「でしょうね」
「でも、認める。金田君は、あなたを助けた。あなたは、それが嬉しかった。だから金田君に絡んでる」
「絡んでる?」
「絡んでるでしょうが」
「求愛よ」
「迷惑行為よ」
「愛人希望よ」
「処刑対象よ」
「怖い」
「怖がりなさい。でも、いなくなるのは金田君じゃなくてあなたよ」
ダリアは、一瞬だけ黙った。
そして、腹立たしいほど美しく笑った。
「妃花。あなた、少し変わったわね」
「そう?」
「昔なら、わたくしごと客間を粉砕していたわ」
「今も検討中よ」
「でも、しない」
「金田君がいるもの」
「……」
「ワタシが壊したら、金田君がまた半分持とうとするでしょう。それが腹立つから、今は壊さない」
金田君が隣で言った。
「ありがとう」
「礼を言うところじゃないわ」
「でも、壊さないでくれてる」
「あなたのためじゃない」
「うん」
「ワタシの威厳のためよ」
「うん」
「あと、茶碗の替えは高いから」
「それは本当」
ワタシは砕けた茶碗を見た。
……高そう。
後で祖母に謝ろう。
金田君が一緒に謝ろうとするだろうから、そこは止める。
いや、半分持つとか言うだろう。
そこも反省会だ。
「金田様」
ダリアが、今度は少し静かに言った。
「では、愛人が駄目なら」
「駄目なら?」
「二号さん」
「同じよ!」
「では、側室」
「時代!」
「では、公式ライバル」
「それならまあ」
「妃花!?」
金田君が珍しく声を上げた。
ワタシは金田君を見た。
「何よ」
「公式ライバルはいいの?」
「愛人よりは健全でしょう」
「そう?」
「恋愛戦争には条約が必要よ」
「戦争にしないで」
ダリアは楽しそうに扇子を開いた。
「いいわね、公式ライバル。響きが良いわ」
「ただし、条件があるわ」
「聞きましょう」
ワタシは指を一本立てた。
「一、金田君に愛人、二号、側室、ヒモ等の不健全な地位を要求しないこと」
「つまらないわ」
「二、金田君の恩を盾に距離を詰めないこと」
「痛いところを突くわね」
「三、仮想アイドル活動で弱った男を肥料呼ばわりしないこと」
「それは配信外だけよ」
「配信外でもやめなさい」
「努力するわ」
「四、金田君に彼女になってくださいと懇願させる計画を破棄すること」
「破棄は嫌」
「ダリア」
「修正なら可」
「どのように」
「いつか金田様に、わたくしを友人として必要だと言わせる」
ワタシは少し黙った。
ダリアは、扇子で口元を隠したまま、目を逸らしている。
友人。
愛人ではなく。
彼女でもなく。
ヒモでもなく。
友人。
この女にしては、ずいぶんまともな言葉だった。
「……それなら、まあ」
「許可制なの?」
「許可制よ」
「妃花」
金田君が言った。
「友人は俺が決める」
「っ」
正論だった。
ワタシは詰まった。
「……そうね」
「うん」
「でも、報告義務はあるわ」
「それは契約に書いた」
「ならよろしい」
金田君はダリアを見る。
「ダリア」
「なあに、金田様」
「友人なら、いい」
ダリアの表情が止まった。
ほんの一瞬。
彼女は扇子を閉じた。
「……本当に?」
「うん」
「わたくし、面倒よ」
「知ってる」
「金田様を困らせるわ」
「もう困ってる」
「マウントも取るし、煽るし、負けると根に持つわ」
「知ってる」
「それでも?」
「うん」
「……」
ダリアは、ふいと顔を逸らした。
その耳が、少しだけ赤い。
ワタシは見逃さなかった。
「ダリア」
「なによ」
「照れてる?」
「照れてないわ」
「耳が赤いわ」
「照れてない!」
「金田君、この女、照れてるわ」
「うん」
「金田様、頷かないで!」
珍しい。
ダリアが押されている。
非常に珍しい。
ワタシは少し気分が良くなった。
しかし油断は禁物。
この女は、追い詰められると必ず反撃する。
「でも、妃花」
ほら来た。
ダリアはにっこり笑った。
「友人なら、金田様と個人的に連絡を取っても問題ないわね?」
ワタシのこめかみが鳴った。
「金田君」
「うん」
「連絡はグループにしなさい」
「妃花も入る?」
「当然」
「ダリアは?」
ダリアは肩をすくめた。
「監視付きの友情なんて、窮屈ね」
「愛人希望者に自由を与えるわけないでしょう」
「元、愛人希望者よ」
「元?」
「現役でいたら友人枠が通らないもの」
「切り替えが早いわね」
「配信者は損切りが大事なの」
「弱男から金を巻き上げる女の発想ね」
「彼らは騎士様よ」
「肥料って言ったわよね」
「騎士様は薔薇を育てるものよ」
「最低!」
ダリアは笑う。
でも、その笑い方はさっきより少し軽かった。
金田君に拒まれて、終わりにならなかった。
友人でいいと言われた。
それが彼女の中で、どう処理されたのかは知らない。
でも、少なくとも今、ダリアはさっきほど刺々しくない。
「では、グループを作りましょう」
ダリアはスマホを取り出した。
「名前は?」
「不健全交際監視委員会」
「妃花、センスが終わっているわ」
「では、契約管理室」
「重いわ」
「薔薇とココアと補修用ボンド」
「長い」
金田君が言った。
「契約更新用」
ワタシとダリアは同時に金田君を見た。
「……悪くないわね」
「腹立つけれど、悪くないわ」
ダリアがグループを作る。
メンバーは三人。
ワタシ。
金田君。
ダリア。
グループ名は「契約更新用」。
非常に不本意だが、しっくり来る。
ダリアが最初のメッセージを送った。
『ご機嫌よう、正妻と恩人』
ワタシは即座に返した。
『正妻は将来的な契約上の表現です。あと恩人に不健全な要求をしないこと』
金田君も返した。
『茶碗、片付ける』
現実的。
腹立つほど現実的。
ワタシはスマホを置き、砕けた茶碗に向き直った。
「これはワタシが片付けるわ」
「俺も」
「半分持とうとしない」
「破片、危ないから」
「ワタシが壊したの」
「でも、俺もいた」
「それは理由にならないって何度言えば」
「妃花」
金田君が、ワタシの手を見た。
怪我がないか確認する目。
いつもの目。
ダリアもそれを見ていた。
そして、小さく笑った。
「本当に、夫婦ね」
「そうよ」
今度は、即答した。
ダリアの目が少し丸くなる。
ワタシは続けた。
「だから、愛人は不要」
「公式ライバルは?」
「許可制」
「友人は?」
「金田君が決める」
「あなたは?」
「監視する」
「素直ね」
「嫉妬深いのよ」
言った瞬間、自分で驚いた。
ダリアも驚いた。
金田君も、少し目を開いた。
しまった。
かなり素直に言いすぎた。
けれど、撤回しない。
これは事実だ。
「ワタシは嫉妬深いわ」
ワタシは言った。
「金田君がワタシの知らないところであなたを助けたのが、気に入らない。あなたがその記憶を使って金田君に近づくのも、気に入らない」
「ええ」
「でも、金田君があなたを助けたことを、間違いにはしない」
「……」
「だから、あなたも間違いにしないで」
ダリアの顔から、笑みが消えた。
「どういう意味?」
「恩人に愛人になれとか、ヒモになれとか、そんなふざけ方でしか近づけないなら、あの日泣いたあなたまで安くなるわ」
ダリアが黙った。
扇子を握る指に、少し力が入っている。
ワタシは続けた。
「あなたは、金田君に弱いところを見せた。それは、別に負けじゃないでしょう」
「……」
「ワタシなら嫌だけど」
「最後」
「でも、負けじゃない。だから、それを変な勝負にしないで。金田君をわからせるとか、懇願させるとか、そんな方向に持っていかないで」
ダリアは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐く。
「本当に、あなたも腹立つ女ね」
「あなたほどじゃないわ」
「わたくし、妃花のそういうところ嫌いよ」
「ワタシもあなたが嫌いよ」
「でも」
ダリアは、金田君を一瞬見た。
そしてワタシを見た。
「今のは、少しだけ響いたわ」
「そう」
「少しだけよ」
「十分よ」
「調子に乗らないで」
「あなたに言われたくないわ」
金田君が、懐紙で茶碗の破片を包みながら言った。
「二人、やっぱり似てる」
「似てない!」
また声が重なった。
最悪。
ダリアが吹き出した。
ワタシも、ほんの少しだけ笑ってしまった。
不覚。
*
その日の帰り。
金田君とワタシは、本家の長い廊下を歩いていた。
祖母への謝罪は済ませた。
茶碗については、祖母は予想通りこう言った。
「物は壊れます。関係は、壊した後にどう扱うかが大切です」
重い。
非常に重い。
そして金田君は、また半分頭を下げようとしたので、ワタシが袖を引っ張って止めた。
これはワタシの責任。
ただし、帰りに猫の絆創膏とココアは買ってもらう。
精神的補修費として。
「妃花」
「なによ」
「ダリアと、仲悪い?」
「悪いわ」
「でも、嫌いじゃない?」
「嫌いよ」
「そう?」
「嫌いだけど、放っておくとロクなことをしないから監視する必要があるの」
「そっか」
「あと」
「うん」
「あなたが、あの子を友人にするのは」
ワタシは少し歩調を緩めた。
「嫌ではないわ」
「うん」
「気に入らないけど」
「うん」
「かなり気に入らないけど」
「うん」
「でも、嫌ではない」
「わかった」
金田君は、隣を歩いている。
半歩前でも後ろでもない。
ちゃんと隣。
「金田君」
「うん」
「ダリアに優しくしすぎないで」
「うん」
「でも、雑に扱わないで」
「うん」
「恩人面しないで」
「しない」
「でも、困ってたら助けなさい」
「うん」
「ただし、事後報告」
「契約更新?」
「当然」
「グループに?」
「まずワタシに」
「うん」
「あと、愛人という単語を今後ダリアが出したら、即座に却下」
「うん」
「ヒモも却下」
「ならない」
「彼女にしてくださいって懇願するのも却下」
「しない」
「絶対?」
「うん」
「ワタシが本家に帰ったら?」
「迎えに行く」
「ダリアに誘惑されたら?」
「されても行かない」
「ダリアが泣いたら?」
「話は聞く」
「……」
ワタシは足を止めた。
金田君も止まる。
正しい答えだった。
でも、ムカつく。
「話は聞くのね」
「困ってたら」
「ワタシが嫌だと言っても?」
「妃花には言う」
「……」
「隠さない」
「……よろしい」
正しい。
あまりにも正しい。
だから、ワタシはそれ以上怒れなかった。
「でも」
金田君が言った。
「妃花が嫌だと思うのも、半分持つ」
「……何よそれ」
「ダリアを助けるなら、妃花が嫌な気持ちになるのも一緒に考える」
「……」
「勝手にいいことにしない」
ああもう。
ほんとに。
そういうところだ。
この男は、正論ではなく、生活の中の約束として言う。
だから逃げ場がない。
「金田君」
「うん」
「あなた、本当に愛人向きじゃないわね」
「なりたくない」
「正妻向きでもない」
「正妻?」
「違う、旦那向き」
「中学生だけど」
「禁止」
「うん」
ワタシは手を出した。
金田君は何も聞かずに握る。
廊下の先で、障子越しの光が揺れている。
本家の空気は重い。
でも、金田君の手はいつも通りだった。
「ねえ」
「うん」
「ワタシ、ダリアのこと、少しだけ可哀想だと思ったわ」
「うん」
「でも、金田君の愛人になりたいとか言ったから、やっぱり許さない」
「うん」
「公式ライバルとしてなら、まあ、相手してあげる」
「うん」
「友人としてなら、金田君が決めなさい」
「うん」
「ただし」
「うん」
「ワタシの前で仲良くしすぎたら、反省会よ」
「どのくらいが仲良くしすぎ?」
「察しなさい」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「だから禁止!」
廊下の向こうから、誰かの笑い声がした。
たぶん、ダリアだ。
腹立つほど綺麗な笑い声。
ワタシはそちらを見ない。
今は、金田君と帰る時間だ。
今日の契約更新項目は多い。
一、愛人は不可。
二、公式ライバルは許可制。
三、友人は本人同士の合意。ただし報告義務あり。
四、ダリアの泣きどころを武器にしない。
五、ダリアは金田君をヒモにしようとしない。
六、妃花ちゃんは嫉妬で茶碗を割らないよう努力する。
六は不本意だ。
でも、まあ。
努力はする。
「金田君」
「うん」
「帰り、スーパーに寄るわよ」
「ココア?」
「ココアと猫の絆創膏と」
「赤いクレヨン?」
「今日は黒いペン」
「なんで?」
「愛人不可を太字で書くから」
「そっか」
「それから、茶碗の代わりに何か買うわ」
「本家に?」
「ええ」
「一緒に選ぶ?」
「当然」
「うん」
ワタシたちは手を繋いだまま、玄関へ向かった。
背後で、スマホが震えた。
グループ「契約更新用」。
ダリアからだった。
『公式ライバル就任祝いに、次回は金田様を交えてお茶会をしましょう。正妻の同席は任意でしてよ』
ワタシは即座に返した。
『正妻は常時同席です』
金田君も返した。
『日程は妃花と相談する』
少し遅れて、ダリアから返信が来た。
『そういうところよ、恩人』
ワタシはスマホを見て、ふんと鼻を鳴らした。
本当に、困ったいとこだ。
マウント好きで、レスバ好きで、弱った男を騎士様と呼んで財布を開かせる、最低で、面倒で、寂しがりの貴族娘。
しかも金田君を狙っている。
最悪だ。
でも。
敵としては、悪くない。
公式ライバルとしてなら、まあ、相手をしてあげてもいい。
ただし。
金田君の愛人は、絶対に却下。
そこだけは、契約書に黒太字で書いておく。
夫婦なので。