デートである。
反省会ではない。
契約更新でもない。
補修作業でもない。
公式ライバルの監視でもない。
ましてや、本家への謝罪行脚でもない。
今日は、デートである。
ワタシと金田君の、正式な、休日の、外出。
つまり。
「金田君」
「うん」
「今日の目的を述べなさい」
「妃花とデート」
「よろしい」
「駅前の雑貨屋を見る。昼はオムライス。帰りにココア用のマグカップを見る」
「よろしい」
「ナンパされたら逃げる」
「は?」
駅前の時計台前。
待ち合わせ時間の五分前。
ワタシは、朱色の髪をいつものインテークツインテールにして、今日は学校用の青紐リボンではなく、白いレースのリボンを結んでいた。
服は黒を基調にしたワンピース。
ただし、部屋着の黒マスクゴスロリ黒チェック柄クソデカリボンほど戦闘力は高くない。
外出用の、少し上品なやつだ。
眼鏡も学校用ではなく、細いフレームのもの。
つまり、今日のワタシはかなり良い。
かなり良い、どころではない。
料理洗濯手芸掃除成績ヨシに加え、外出着ヨシ。
完璧。
なのに、金田君は開口一番、ナンパの話をした。
「金田君」
「うん」
「なぜ、今日のデートの予定にナンパ対応が入っているの」
「妃花、目立つから」
「……」
「あと、今日の服、似合ってる」
「っ」
心臓を刺してから防災訓練に戻るな。
順番を考えなさい。
「そ、そういうことは、もっと自然に言いなさいよ」
「自然に言った」
「自然すぎるのよ!」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「禁止」
金田君は、今日もいつも通りだった。
白いシャツに、紺のジャケット。
変に気取っていない。
でも、ちゃんと清潔で、靴も磨いてある。
髪も寝癖がない。
つまり、金田君なりに気合いを入れている。
そこが良い。
かなり良い。
ただし、本人には言わない。
調子に乗らないからこそ、言うとこちらが負けた気になる。
「それで」
ワタシは腕を組んだ。
「ナンパされたら逃げる、とは?」
「妃花が殴る前に」
「殴らないわよ」
「机とロッカー」
「あれはナンパじゃないでしょう!」
「旧校舎の壁」
「あれもナンパじゃない!」
「でも蹴った」
「壁が悪いのよ」
「壁は悪くない」
「今日は金田君のそういう正論が一番悪いわ」
ワタシはぷいと横を向いた。
金田君は少しだけ笑った。
ほんの少し。
ワタシだけがわかる笑い方。
よし。
今日はこの笑い方をワタシのものとして独占する。
公式ライバルのダリアにも、クラスの佐伯さんにも、男子中学生モードの山岸君たちにも渡さない。
今日はデートだから。
「手」
ワタシが言うと、金田君は何も聞かずに手を出した。
よろしい。
ここ最近の契約更新が効いている。
ワタシはその手を握った。
強くしない。
潰さない。
ちゃんとデート用の握力。
「行くわよ」
「うん」
「まず雑貨屋」
「うん」
「その前に」
「うん」
「今日のワタシについて、追加で何か言うことは?」
金田君は、ワタシを見た。
髪。
リボン。
眼鏡。
ワンピース。
靴。
バッグ。
そして、最後に顔。
「かわいい」
「っ!」
ワタシは握力を上げかけた。
金田君の手が、少しだけ沈む。
「妃花」
「な、なによ」
「手」
「……痛い?」
「少し」
「ごめんなさい」
「うん」
「今のはワタシが悪いわ」
「でも急に言った」
「急に言わせたのはワタシよ」
「半分?」
「……半分」
金田君は頷いた。
ワタシは深呼吸した。
危ない。
今日のデート開始三分で、夫の手を破壊するところだった。
いや、夫ではない。
中学生。
でも契約上は。
もういい。
*
駅前の商店街は、休日らしく人が多かった。
親子連れ。
学生。
買い物帰りの主婦。
カップル。
その中を、ワタシと金田君は並んで歩く。
ワタシはかなり機嫌がよかった。
なぜなら、金田君がちゃんと隣にいるから。
手を繋いでいるから。
そして、時々ワタシがショーウィンドウに映るたび、今日のワタシがちゃんと可愛いから。
大事なことだ。
自分のコンディションが良い日は、世界への許容量が少し増える。
ただし、限度はある。
「金田君」
「うん」
「このリボン、どう?」
雑貨屋の前で、ワタシは淡い青色のリボンを手に取った。
学校用の青紐リボンより、少し柔らかい色。
普段のワタシには甘すぎるかもしれない。
でも、休日なら悪くない。
「似合う」
「早い」
「似合うと思った」
「どこが?」
「髪の色が強いから、薄い青だと少し柔らかくなる」
「……」
「今日の白いリボンより、少し子どもっぽいけど」
「子どもっぽい?」
「かわいい方」
「っ」
危ない。
リボンを引きちぎるところだった。
ワタシは慎重にリボンを棚に戻した。
「買うわ」
「うん」
「金田君が買いなさい」
「いいの?」
「贈与契約よ」
「デートだから?」
「そうよ」
「わかった」
金田君は財布を出した。
ワタシはその横顔を見る。
こういう時、金田君は変に格好つけない。
払える範囲で、きちんと払う。
高すぎるものなら、ちゃんと相談する。
安すぎるものでも雑に扱わない。
それが好き。
……好き?
いや、契約上の評価。
「妃花」
「なによ」
「こっちも見る?」
金田君が指差した先には、猫柄のハンカチが並んでいた。
白猫。
黒猫。
三毛猫。
長毛種。
妙に気品のある猫。
ワタシは黙って見た。
金田君も黙って待った。
そして、ワタシが三毛猫のハンカチを五秒見たところで、金田君がそれを手に取った。
「これ?」
「……なぜわかるの」
「五秒見てた」
「観察力が気持ち悪いわ」
「ごめん」
「謝るな。褒めてるのよ」
「褒めてた?」
「半分くらい」
金田君は、リボンとハンカチを一緒に買った。
ワタシは店の外に出てから、袋を受け取る。
「ありがとう」
「うん」
「大事にするわ」
「うん」
「ただし、調子に乗らないで」
「乗ってない」
「よろしい」
ここまでは完璧だった。
非常に良いデートだった。
金田君の手は温かいし、ワタシは可愛いし、リボンもハンカチも手に入った。
このままオムライスへ向かえば、今日はかなり良い日として契約書に記録できる。
そう思っていた。
その時だった。
「ねえ君、めっちゃ可愛くない?」
横から声がした。
ワタシは足を止めた。
金田君も止まった。
声をかけてきたのは、大学生くらいの男二人だった。
一人は明るい髪。
一人は黒いキャップ。
どちらも、軽い。
存在が軽い。
言葉も軽い。
靴音まで軽い。
非常に、危険な軽さだった。
「中学生? いや、高校生?」
「モデルとかやってる?」
「てか、その髪すごいね。地毛?」
ワタシは、無言で彼らを見た。
金田君の手が、ほんの少しだけ動く。
逃げる準備。
ワタシの手を引く準備。
それがわかった瞬間、ワタシは少し冷静になった。
壊さない。
今日はデート。
ナンパごときに、今日のワタシの可愛さとオムライスを台無しにされてたまるか。
「申し訳ありません」
ワタシは、完璧なお嬢様の微笑みを作った。
「連れがおりますので」
男二人が、金田君を見る。
「あー、彼氏?」
「弟とかじゃなくて?」
ぴし。
空気にヒビが入った。
弟。
弟?
今、この男は何と言った?
ワタシの金田君を?
弟?
パパでもおにーちゃんでもなく旦那だと何度言えば。
いや、彼らには言っていない。
言っていないが、常識でわかりなさい。
金田君はワタシの隣にいる。
手を繋いでいる。
これはどう見ても、夫婦。
いや、中学生。
でもデート。
弟ではない。
「妃花」
金田君が静かに言った。
「行こう」
「ええ」
ワタシは歩き出そうとした。
しかし、明るい髪の男が前に回った。
「いやいや、ちょっとだけでいいからさ」
「彼氏君も一緒でいいよ」
「写真撮らない? 映えるって」
映える?
ワタシを?
勝手に?
金田君が一歩前に出た。
「すみません。急いでるので」
声は普通だった。
低くも高くもない。
でも、ワタシにはわかる。
金田君が、少しだけ警戒している。
ワタシではなく、相手に。
珍しい。
いつもはワタシの破壊を止める側の金田君が、今日はワタシを背に庇う位置に立った。
それが。
ものすごく。
腹立つほど。
嬉しかった。
「あー、彼氏君マジメ系?」
「いや、ちょっと話すだけじゃん」
キャップの男が、金田君の肩に手を伸ばした。
その瞬間。
ワタシの中で何かが切れた。
金田君が触れられる。
この軽い男に。
ワタシの許可なく。
契約外の接触。
違反。
重罪。
処す。
「触らないで」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
男の手が止まる。
周囲の空気が少し変わった。
ワタシは金田君の横に出た。
前ではない。
横。
今日は金田君に庇われるだけの日ではない。
夫婦は並ぶものだ。
「ワタシの連れに、無断で触れないでいただけます?」
「え、なに、怖」
「いや、別に触ってないし」
「触ろうとしたでしょう」
「してないって」
キャップの男が笑った。
その笑い方が気に入らなかった。
ワタシは近くにあった街路樹の支柱を見た。
細い金属製。
ちょうどいい太さ。
いや、だめ。
曲げるな。
公共物。
器物損壊。
今日はデート。
オムライス。
リボン。
猫ハンカチ。
金田君の手。
深呼吸。
「妃花」
金田君の声。
ワタシは拳を開いた。
偉い。
かなり偉い。
金田君が、ワタシの開いた手をそっと握った。
人前で。
しっかりと。
そして男たちを見た。
「迷惑です」
短い言葉だった。
でも、はっきりしていた。
男たちは一瞬黙った。
周囲の視線も集まり始めている。
すると明るい髪の男が、面倒くさそうに笑った。
「はいはい。彼氏君こわ」
「いや、彼女ちゃんの方が怖くね?」
「マジで目がさ」
彼女。
彼女ちゃん。
ワタシはぴくりと反応した。
彼女。
今、彼女と言った?
弟ではなく?
彼女?
……まあ。
さっきよりはマシ。
かなりマシ。
しかし、それで許すわけではない。
彼らは舌打ち混じりに去っていった。
ワタシは、その背中を見送る。
追撃はしない。
支柱も曲げない。
今日は壊していない。
すごい。
ワタシは成長している。
「妃花」
「なによ」
「手」
「痛い?」
「少し」
ワタシは慌てて手を離した。
金田君の手が赤くなっていた。
「ごめんなさい」
「うん」
「今のは完全にワタシが悪いわ」
「半分」
「違う。これは全部ワタシ」
「でも、俺も前に出た」
「だから何よ」
「妃花が怒ると思った」
「怒ったわよ」
「うん」
「あなたが触られそうになったからよ!」
言ってから、顔が熱くなった。
周囲にはまだ人がいる。
金田君も黙った。
少しだけ目を開いている。
珍しい顔。
しまった。
非常にしまった。
「……別に」
ワタシは視線を逸らした。
「契約相手が不当な接触を受けそうになったから、当然の抗議をしただけよ」
「うん」
「所有物扱いではないわ」
「うん」
「でも、無断で触られるのは嫌」
「うん」
「ワタシの許可というより、あなたの意思が先だけど」
「うん」
「でもワタシも嫌」
「うん」
「何か言いなさいよ!」
金田君は、少しだけ考えた。
「嬉しかった」
「っ!」
「守ってくれて」
「やめなさい!」
「何を?」
「そういう、素直な感想!」
「だめ?」
「だめではないけど、今はだめ!」
「いつならいい?」
「ココアを飲んでる時!」
「今日はオムライス」
「じゃあオムライスの後!」
「わかった」
金田君は頷いた。
本当に言う気だ。
この男は、ワタシの指定したタイミングで「嬉しかった」ともう一度言う気だ。
恐ろしい。
ナンパ男より恐ろしい。
*
オムライスの店に着くまで、ワタシはやや不機嫌だった。
金田君はそれを、怒っているのではなく、照れているのだと判断したらしい。
正しい。
正しいが腹立つ。
店は駅裏にある小さな洋食屋だった。
木の扉。
赤いチェックのテーブルクロス。
壁に古い映画のポスター。
客は家族連れと、老夫婦と、学生が数組。
落ち着いていて、良い店だった。
ワタシたちは奥の二人席に座った。
「妃花」
「なによ」
「ケチャップ?」
「デミグラス」
「今日は?」
「今日はデートだからデミグラス」
「そっか」
「金田君は?」
「ケチャップ」
「子どもね」
「中学生だから」
「禁止」
注文を済ませると、店員さんが水を置いてくれた。
ワタシはグラスを持つ。
割らないように。
今日はもう十分危なかった。
「さっきの件」
金田君が言った。
「反省会?」
「当然よ」
「ここで?」
「オムライスが来るまで」
「うん」
ワタシは指を一本立てた。
「議題一。ナンパに対する対応」
「うん」
「金田君が前に出たのは評価するわ」
「うん」
「ただし、一人で庇おうとするのは減点」
「なんで?」
「夫婦は並ぶものだから」
「中学生だけど」
「禁止」
「うん」
「議題二。相手が金田君に触ろうとした場合」
「うん」
「ワタシは怒る」
「うん」
「怒るけど、公共物は壊さない」
「うん」
「偉い?」
「偉い」
「もっと」
「かなり偉い」
「よろしい」
金田君は真面目に褒めた。
ワタシは少し機嫌が直った。
褒められて嬉しいわけではない。
努力が正当に評価されたのである。
「議題三」
「うん」
「弟に見えた件」
「そこ?」
「重要よ」
ワタシはグラスを置いた。
「ワタシと金田君が手を繋いで歩いていたのに、弟と言われたわ」
「うん」
「どういうこと?」
「俺が幼く見えた?」
「違うわ」
「妃花が大人っぽかった?」
「それはそう」
「うん」
「でも、そうではなく」
ワタシは金田君を見た。
「あなた、ワタシの隣にいる時、もう少し彼氏面しなさい」
「彼氏面」
「そうよ」
「夫婦面じゃなくて?」
「外では段階を踏む必要があるの」
「契約上?」
「社会的表示の問題よ」
「難しい」
「つまり、ワタシがナンパされたら、もっと堂々と彼氏ですと言いなさい」
「わかった」
「言える?」
「うん」
「今言ってみなさい」
「俺が妃花の彼氏です」
ワタシは水を吹きかけた。
ぎりぎり耐えた。
偉い。
「急に言うな!」
「言ってって」
「練習と本番の間には情緒があるでしょうが!」
「難しい」
「夫でしょうが!」
「彼氏じゃなくて?」
「っ!」
金田君が、少しだけ笑った。
こいつ。
最近、こちらの扱いを覚えてきている。
非常に危険だ。
昔の金田君なら、もっと素直に困っていた。
今はたまに反撃してくる。
これはダリアの影響では?
いや、前からか。
ワタシが育てたのかもしれない。
責任重大だ。
「妃花」
「なによ」
「俺、さっき少し嬉しかった」
「オムライスの後って言ったでしょうが!」
「まだ言い切ってない」
「だめ!」
「わかった」
「食後まで保留!」
「うん」
ちょうどその時、オムライスが運ばれてきた。
ワタシの前にはデミグラスソースのオムライス。
ふわふわの卵。
濃いソース。
上品な湯気。
金田君の前には、ケチャップのオムライス。
シンプル。
赤いケチャップが、丸くかかっている。
「おいしそう」
金田君が言った。
「ええ」
「妃花、少し食べる?」
「当然」
「まだ言ってない」
「夫婦は共有するものよ」
「中学生だけど」
「禁止」
金田君は自分のオムライスを一口分、スプーンに取った。
それをワタシの皿の端に置く。
ワタシもデミグラスの方を一口分、金田君の皿へ。
交換。
周囲から見れば、普通の中学生カップルかもしれない。
いや、普通ではないかもしれない。
でも、今はいい。
ワタシは金田君のケチャップオムライスを食べた。
「……悪くないわ」
「よかった」
「子どもっぽい味だけど」
「中学生だから」
「禁止って言ってるでしょう!」
金田君はデミグラスを食べた。
「おいしい」
「当然よ。ワタシが選んだのだから」
「うん」
「でも、あなたのも悪くない」
「うん」
「次はケチャップでもいいわ」
「次も来る?」
「……来るわよ」
「うん」
「デートなので」
「うん」
金田君は、また少しだけ笑った。
さっきのナンパ男たちに見せた顔ではない。
山岸君たちと笑う顔でもない。
ワタシの前の顔。
ワタシはそれを見て、胸の奥が落ち着いた。
今日、ナンパされて嫌だった。
金田君が触られそうになって、もっと嫌だった。
でも、こうしてオムライスを半分交換していると、少しだけ戻ってくる。
ワタシたちの普通に。
壊して、直して、怒って、手を握って、食べ物を分ける。
普通ではない普通。
*
食後。
金田君は、本当に言った。
「妃花」
「……何よ」
「さっき、守ってくれて嬉しかった」
「保留していたからって本当に言うな!」
「言っていいって」
「食後ならいいとは言ったけど、心の準備があるでしょう!」
「今から準備する?」
「もう遅い!」
ワタシはテーブルの下で拳を握った。
開く。
握る。
開く。
壊さない。
今日は本当に偉い。
「俺」
金田君が続けた。
「妃花を止めることは多いけど」
「ええ」
「妃花に守られるのも、嫌じゃない」
「……」
「嬉しい」
ワタシは下を向いた。
これは反則だ。
あまりにも反則。
金田君は、自分を守られる側に置くのが下手だ。
いつもワタシを心配して、ワタシの手を見て、ワタシの壊したものを一緒に直そうとする。
その金田君が。
ワタシに守られて嬉しいと言った。
それは、ワタシがただ壊すだけの女ではないと、言われたみたいだった。
「……当然よ」
ワタシは小さく言った。
「ワタシは強いもの」
「うん」
「あなたが困ったら、ワタシが助けるって契約にあるでしょう」
「五番」
「そう。五番」
「覚えてる」
「忘れたら本家に帰るわ」
「迎えに行く」
「……よろしい」
ワタシは水を飲んだ。
落ち着くために。
グラスは割らなかった。
かなり偉い。
店を出た後、ワタシたちは予定通り、マグカップを見に行った。
途中、さっきの男たちには会わなかった。
良かった。
会っていたら、今日のワタシの偉さが試されすぎる。
雑貨屋の食器コーナーで、ワタシは白いマグカップを手に取った。
猫の足跡が小さく描いてある。
金田君は、紺色のシンプルなマグカップを見ている。
「それ、金田君用?」
「うん」
「地味ね」
「使いやすそう」
「ワタシのは?」
「猫」
「安直」
「でも見てた」
「何秒?」
「七秒」
「気持ち悪い」
「褒めてる?」
「今日は半分以上褒めてるわ」
「そっか」
結局、二つ買った。
白い猫足跡のマグカップ。
紺色のマグカップ。
お揃いではない。
でも、一緒に使うとちょうどいい。
そういうものを選んだ。
「金田君」
「うん」
「今度、これでココアを飲むわよ」
「うん」
「あなたは?」
「俺もココア?」
「当然」
「俺、薄めでいい」
「知ってる」
「うん」
「ワタシのは牛乳多め、マシュマロ三個」
「知ってる」
「よろしい」
会計を済ませて店を出ると、空は夕方になり始めていた。
駅前の人通りはまだ多い。
ワタシは少しだけ、周囲を警戒した。
また声をかけられたらどうしよう。
今度は壊さずに対応できるだろうか。
金田君がまた前に出たら。
誰かが金田君に触ろうとしたら。
ワタシは。
「妃花」
「なによ」
「手」
金田君が手を出していた。
ワタシは、それを見た。
「……聞かないの?」
「今日は聞かない方がいいと思った」
「そう」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
ワタシは手を重ねた。
金田君が握る。
さっきより少しだけ、しっかり。
でも痛くない。
ワタシも、壊さないくらいに握り返す。
「金田君」
「うん」
「さっきのナンパ男たち」
「うん」
「ワタシのこと、可愛いと言ったわ」
「うん」
「それ自体は事実よ」
「うん」
「でも、腹が立った」
「うん」
「あなたが言うのと、全然違った」
「……うん」
「なぜかしら」
金田君は少し考えた。
「知らない人だったから」
「それもあるわ」
「軽かったから」
「それもある」
「妃花を見てるけど、見てなかったから」
ワタシは足を止めた。
金田君も止まる。
「どういう意味?」
「髪とか服とか、見た目は見てた」
「ええ」
「でも、妃花が嫌かどうかは見てなかった」
「……」
「俺は見る」
「……」
「嫌そうなら、やめる」
「……」
「できてない時もあるけど」
ワタシは、胸の奥が少しだけ静かになるのを感じた。
そうだ。
金田君が言う「かわいい」は、軽くない。
むしろ重い。
ワタシの髪を見ている。
リボンを見ている。
でも、それだけではない。
ワタシが怒りそうか。
照れているか。
嫌がっているか。
手が赤くなっていないか。
壊しそうか。
壊さずに済んだか。
そういう全部を見た上で、言う。
だから腹立つ。
だから、嬉しい。
「……金田君」
「うん」
「今日のワタシ、可愛かった?」
「うん」
「どこが?」
「白いリボン。ワンピース。眼鏡。靴も合ってた」
「うん」
「ナンパされた時、壊さないように手を開いたところ」
「……そこ?」
「うん」
「見た目じゃないわよ」
「でも、よかった」
「……」
「あと、俺が触られそうになった時に怒ったところ」
「それも見た目じゃない」
「かわいかった」
「っ!」
ワタシは金田君の手を握った。
危ない。
でも、今回は力を入れすぎなかった。
「……及第点」
「よかった」
「かなり、よろしい」
「うん」
「でも、人前で言いすぎ」
「今、聞かれた」
「聞いたけど!」
「難しい」
「夫でしょうが」
「中学生だけど」
「禁止!」
通行人が少し笑った。
ワタシは顔を赤くしたまま歩き出す。
金田君も隣に並ぶ。
半歩前でも、半歩後ろでもなく。
ちゃんと隣。
*
帰り道、駅の近くで、ワタシたちはさっきの男たちを見かけた。
向こうもこちらに気づいた。
一瞬、嫌な空気になった。
明るい髪の男が何か言いかける。
ワタシは金田君の手を握った。
金田君も握り返した。
今度は、金田君だけが前に出ることはなかった。
ワタシも前に出ない。
二人で並んだまま、歩く。
男たちは、こちらを見た。
ワタシは、視線を逸らさなかった。
睨まない。
威嚇しない。
ただ、嫌です、迷惑です、通ります、という顔で歩く。
金田君も隣にいる。
彼氏面。
いや、旦那面。
いや、社会的表示としての彼氏面。
男たちは、何も言わなかった。
すれ違う。
終わり。
ワタシは、息を吐いた。
「妃花」
「なによ」
「今の、上手かった」
「……そう?」
「うん」
「壊さなかったわ」
「うん」
「怒鳴らなかった」
「うん」
「支柱も曲げなかった」
「それは本当に偉い」
「もっと褒めなさい」
「かなり偉い」
「よろしい」
ワタシは少しだけ笑った。
ほんの少し。
金田君も笑った。
今日は、知らない人に嫌な思いをさせられた。
でも、金田君と一緒に対応した。
壊さずに済んだ。
金田君も、ワタシを守ろうとしてくれた。
ワタシも、金田君を守れた。
つまり。
かなり良いデートだったのでは?
いや、ナンパは最悪。
でも、結果として契約更新項目が増えた。
なら悪くない。
「金田君」
「うん」
「今日の契約更新」
「うん」
「一、ナンパされた場合、まず明確に断る」
「うん」
「二、金田君は一人で前に出ない」
「うん」
「三、ワタシも一人で突撃しない」
「うん」
「四、公共物を壊さない」
「うん」
「五、相手が無断で触ろうとしたら、二人で距離を取る」
「うん」
「六」
「うん」
「金田君は、必要に応じて彼氏面をする」
「うん」
「七」
「うん」
「でも、ワタシが希望したら夫婦面でもよい」
「中学生だけど」
「禁止」
「うん」
「八、デート後はココア」
「マグカップ使う?」
「今日はまだ使わないわ」
「なんで?」
「初回使用は儀式にするから」
「儀式」
「新しい契約備品だから当然よ」
「そっか」
「マシュマロは三個」
「うん」
駅のホームに着く。
電車を待つ間、ワタシは買ったリボンとハンカチとマグカップの袋を見た。
金田君が持つと言ったけれど、今日は自分で持っている。
大事だから。
でも、手は繋いでいる。
大事だから。
「金田君」
「うん」
「今日は、楽しかったわ」
「うん」
「ナンパは最悪だったけど」
「うん」
「でも、デートとしては」
ワタシは少しだけ迷った。
そして、言った。
「合格」
金田君は少しだけ笑った。
「よかった」
「次もあるわ」
「うん」
「当然でしょう」
「うん」
「次は、ナンパのない場所にしなさい」
「水族館?」
「……悪くないわね」
「人は多い」
「ナンパされたら?」
「二人で断る」
「よろしい」
「彼氏面?」
「必要に応じて」
「夫婦面は?」
「ワタシが許可した時」
「わかった」
電車が来た。
風が吹いて、ワタシの白いリボンが揺れた。
金田君がそれを見ている。
「何よ」
「リボン、やっぱり似合ってる」
「……」
「今日、かわいい」
「……電車に乗るわよ」
「うん」
「手、離さないで」
「うん」
「あと」
「うん」
「さっきの、もう一回だけなら言ってもいいわ」
「かわいい?」
「一回だけよ」
「かわいい」
「……よろしい」
ワタシは前を向いたまま、金田君の手を握り直した。
今日は壊さなかった。
今日は逃げなかった。
今日は二人で並んだ。
ナンパ男たちは最悪だった。
でも、金田君の「かわいい」が軽くないことを再確認できた。
それだけで、まあ。
かなり。
悪くない。
デートだった。