朝。
教室に入った瞬間、佐伯さんがワタシを見て、固まった。
「……妃花ちゃん」
「おはよう、佐伯さん」
「お、おはよう」
「今日も良い天気ね」
「うん。曇ってるけど」
「ええ。湿度も適度。気温も悪くない。校舎内の空気も落ち着いているわ」
「え、怖」
失礼な。
何が怖いのか。
ワタシはいつも通り、朱色のインテークツインテールを青紐リボンで結び、眼鏡をかけ、制服をきちんと着ている。
鞄も丁寧に置いた。
机も壊していない。
ロッカーも無事。
窓ガラスも無事。
非常に平和な朝である。
ただ一つ、いつもと違うことがあるとすれば。
金田君がいない。
金田君は今朝、熱を出した。
それだけである。
「妃花ちゃん」
佐伯さんが、恐る恐る聞いてきた。
「金田君、今日休み?」
「ええ」
「風邪?」
「三十八度二分」
「詳しい」
「朝、金田君のお母様から連絡をいただいたわ」
「へえ……心配だね」
「ええ」
ワタシは頷いた。
心配だ。
ものすごく心配だ。
金田君が熱を出すなんて、由々しき事態である。
金田君は普段、ワタシの手が赤いとか、ココアが熱いとか、ロッカーが弱いとか、余計なところばかり見ている。
自分の体調管理もそれくらい見なさいという話だ。
まったく。
腹立たしい。
非常に腹立たしい。
そして。
今日、放課後、ワタシは金田君の看病に行く。
合法的に。
堂々と。
正式な理由を持って。
夫の介護を。
いや、夫ではない。
中学生。
でも契約上は。
「妃花ちゃん」
「なにかしら」
「なんか……機嫌いい?」
「そう見える?」
「めちゃくちゃ見える」
周囲のクラスメイトが、じわじわとこちらを見ていた。
山岸君が、パンをくわえたまま言う。
「金田が熱出して休んでんのに?」
「だからよ」
「だから?」
「看病できるでしょう」
教室が静かになった。
佐伯さんが、ゆっくり瞬きをした。
「妃花ちゃん」
「ええ」
「それ、声に出して大丈夫なやつ?」
「当然よ。病人を看病するのは人として正しい行いでしょう」
「いや、そうなんだけど」
「しかも金田君は、日頃からワタシの世話を焼きすぎている」
「うん」
「今日はワタシが正当に世話を焼く番よ」
「正当に」
「合法的に」
「合法的」
「誰にも止められないわ」
山岸君が、隣の男子に小声で言った。
「金田、逃げろ」
聞こえている。
「山岸君」
「はい」
「病人に逃げろとは何事?」
「いや、なんか危機を感じて」
「安心なさい。ワタシは料理ヨシ、洗濯ヨシ、手芸ヨシ、掃除ヨシ、成績ヨシよ」
「フィジカルが測定不能なんだよなあ」
「病人に暴力は振るわないわ」
「病人以外には?」
「状況によるわ」
「こわ」
佐伯さんが、両手を合わせて言った。
「でも妃花ちゃん、移るかもよ?」
「それについては対策済みよ」
ワタシは鞄からメモ帳を取り出した。
昨日、いや今朝から作った看病計画である。
「マスク、消毒、換気。接触は最低限。ただし必要な介助は行う。食事は消化に良いもの。水分補給。熱が上がるようなら再度ご家族に報告。ワタシは長居しすぎない。以上」
「完璧じゃん」
「当然よ」
「でも、なんでそんなに嬉しそうなの?」
ワタシは眼鏡を押し上げた。
「嬉しいわけではないわ」
「えっ」
「金田君が苦しんでいるのだから、嬉しいはずがないでしょう」
「うん」
「ただ、金田君が普段ワタシにしている過剰な世話焼き行為を、今日はワタシが正論で返せるだけよ」
「嬉しそう」
「嬉しくないわ」
「顔が」
「これは決意よ」
「絶対嬉しいやつだ」
教室の空気が、なんとも言えないものになっていた。
引いている。
明らかに引いている。
だが、かまわない。
今日のワタシには、大義名分がある。
病人の看病。
しかも相手は金田君。
普段、ワタシが少し手を赤くしただけで「冷やす?」と言う男。
ココアが少し熱いだけで「気をつけて」と言う男。
ワタシが怒って本家に帰れば、迎えに来る男。
今日は、ワタシが言う番だ。
寝てなさい。
水を飲みなさい。
汗を拭きなさい。
着替えなさい。
薬は飲んだの?
熱は何度?
ワタシがやるから。
大人しくしてなさい。
なんて素晴らしい響き。
いや、嬉しくない。
心配だ。
とても心配だ。
「妃花ちゃん」
佐伯さんが、そっと言った。
「今、めちゃくちゃ笑ってる」
「笑ってないわ」
「口元が」
「金田君がいないから確認する人がいないだけよ」
「そこ金田君の担当なんだ」
「夫婦なので」
「病欠でも通常運転だ……」
*
昼休み。
ワタシは弁当を開いた。
今日は卵焼きをいつもより少し甘めにしてある。
金田君の好きな味。
だが、金田君はいない。
つまり、この卵焼きを食べる相手がいない。
それは少し寂しい。
少しだけ。
ほんの少し。
ワタシは卵焼きを見つめた。
すると佐伯さんが、向かいに座った。
「妃花ちゃん」
「なに?」
「金田君に写真送る?」
「何の?」
「お弁当」
「……」
それは盲点だった。
ワタシはスマホを取り出し、弁当の写真を撮った。
送信先は金田君。
文面は少し迷った。
甘すぎてはいけない。
病人に負担をかけてはいけない。
しかし、味覚が戻った時の楽しみとして情報共有は必要。
ワタシは文章を打った。
『今日の卵焼きはあなた用に甘めでした。体調回復後に再提供します。薬を飲んで寝ていなさい』
送信。
佐伯さんが覗き込んで言った。
「業務連絡?」
「看病連絡よ」
しばらくして返信が来た。
『ありがとう。寝てる。来なくていい。移るから』
ワタシは目を細めた。
来なくていい。
移るから。
なるほど。
予想通りの抵抗である。
ワタシは即座に返信した。
『病人に来訪可否の判断能力はありません。金田君のお母様から許可は得ています。マスク着用、短時間、非接触で対応します。寝ていなさい』
送信。
すぐに既読。
少し間が空く。
『本当に移る』
ワタシは返す。
『感染対策をします』
『妃花が熱出したら困る』
『その時はあなたが回復後に看病しなさい』
『だめ』
『契約五番。金田君が困った時は妃花も助ける』
『今は助けなくていい』
『助けるかどうかは助ける側も判断します』
『強い』
『寝なさい』
既読。
返信が止まった。
勝った。
ワタシはスマホを伏せた。
佐伯さんが、何とも言えない顔をしている。
「妃花ちゃん」
「なに?」
「金田君、熱で弱ってるのにレスバ負けてる」
「病人相手にレスバをしたわけではないわ」
「してたよ」
「正論による医療的説得よ」
「言い方」
山岸君が遠くから言った。
「金田、たぶん熱上がったぞ」
「山岸君」
「はい」
「不吉なことを言わない」
「すみません」
「でも、ありえるわね」
ワタシはスマホをもう一度見た。
追撃はしない。
病人を休ませることも看病である。
我慢。
ワタシは弁当を食べ始めた。
卵焼きは、少し甘かった。
金田君がいないと、少しだけ味が違う。
腹立つ。
熱を出した金田君が悪い。
いや、風邪は悪ではない。
でも腹立つ。
放課後、絶対に寝かせる。
*
放課後。
ワタシは一度自宅に戻り、装備を整えた。
黒マスク。
ではなく、今日は医療用マスク。
消毒液。
体温計の予備。
冷却シート。
スポーツドリンク。
ゼリー飲料。
消化に良い雑炊の材料。
替えのタオル。
猫柄ではない、洗いやすい白いタオル。
それから、金田君が好きな甘めの卵焼き。
食欲があれば、少しだけ食べられるように小さく切ってある。
完璧。
ワタシは玄関で母に言った。
「では、金田君の看病に行ってきます」
母は微笑んだ。
「妃花」
「はい」
「嬉しそうね」
「心配です」
「そう」
「非常に心配です」
「ええ」
「ですが、介護の機会を得たことについては、契約上、重要な進展と考えています」
「そう」
母は笑った。
笑いすぎでは?
「長居しすぎないこと。金田君が本当に休みたい時は、ちゃんと引くこと。移らないように」
「わかっています」
「それから」
「はい」
「看病は支配ではないわよ」
ワタシは少しだけ黙った。
母は時々、こういうことを言う。
優しい顔で、急所に触れる。
「……わかっています」
「ならいいわ」
「金田君が本気で嫌がることはしません」
「ええ」
「ただし、病人の判断が明らかに不合理な場合は、正論で封殺します」
「ほどほどにね」
ほどほど。
難しい。
だが努力する。
ワタシは金田家へ向かった。
*
金田家に着くと、金田君のお母様が出迎えてくれた。
「あら妃花ちゃん、ありがとうね」
「お邪魔します。金田君の容態は?」
「熱は三十八度ちょうどくらい。薬を飲んで、今は部屋で寝てるわ」
「食欲は?」
「朝はあまり。昼にゼリーを少し」
「水分は?」
「飲んでるけど、もう少し飲んでほしいわね」
「承知しました」
ワタシは靴を揃え、手を洗い、消毒し、マスクを確認した。
完璧。
お母様は、少し面白そうにワタシを見ている。
「妃花ちゃん、頼もしいわね」
「当然です。日頃の恩がありますので」
「金田、妃花ちゃんが来るって言ったら、移るから帰ってもらってって言ってたわ」
「想定内です」
「まあ」
「説得します」
「ほどほどにね」
また、ほどほど。
金田家の大人たちは、ワタシを止めないが、釘は刺す。
賢明である。
ワタシは二階に上がった。
金田君の部屋の前に立つ。
ノック。
「金田君」
中から、少し掠れた声がした。
「……妃花?」
「入るわ」
「だめ」
「理由」
「移る」
「感染対策済み」
「本当に来なくていい」
「あなたに判断能力が十分あるなら、三十八度の熱でスマホを触らないはずよ」
「……」
「入るわ」
「妃花」
「入るわ」
返事を待たずに、ゆっくり扉を開けた。
部屋は薄暗かった。
カーテンが半分閉まっている。
机の上には体温計と水のペットボトル。
ベッドには、金田君。
顔が少し赤い。
髪もいつもより乱れている。
目が潤んでいて、明らかにしんどそうだった。
ワタシは胸がぎゅっとした。
嬉しいとか、合法的とか、介護とか。
全部、一瞬だけ吹き飛んだ。
「……本当に熱じゃない」
「だから言った」
「寝てなさい」
「寝てる」
「喋らない」
「妃花が来たから」
「ワタシのせいにしない」
ワタシは荷物を机に置いた。
窓を少しだけ開け、換気。
冷えすぎない程度。
手早くタオルを確認し、ペットボトルの残量を見る。
「水分が足りないわ」
「飲んだ」
「残量から見て足りない」
「あとで飲む」
「今、飲みなさい」
「起きると頭痛い」
「では、起きなくていいようにします」
ワタシはストロー付きキャップを取り出した。
ペットボトルに装着。
ベッドサイドに置く。
「これで飲めるわ」
「準備いいね」
「当然よ」
「……ありがとう」
「礼は回復後に受け取るわ。今は飲みなさい」
金田君は、しぶしぶストローに口をつけた。
少し飲む。
よろしい。
ワタシは体温計を手に取る。
「熱、測るわ」
「さっき測った」
「いつ?」
「一時間くらい前」
「更新が必要」
「……」
「測りなさい」
「はい」
金田君が体温計を脇に挟む。
少しぼんやりしている。
普段なら、ワタシの手が赤くないか見てくるところだが、今日はその余裕がないらしい。
胸が痛む。
だが同時に。
今日の金田君は、弱い。
普段ワタシを止める金田君が、今日はワタシに止められている。
それは、なんというか。
ものすごく。
……いや、言葉にしてはいけない。
病人相手に不謹慎だ。
ワタシは真面目な顔を作った。
「妃花」
「なに」
「近い」
「体温計を確認するためよ」
「移る」
「マスクをしています」
「それでも」
「あなたは普段、ワタシが嫌がっても手を確認するでしょう」
「それは怪我するから」
「ワタシもあなたの体調を確認しています」
「……」
「反論は?」
「ない」
「よろしい」
体温計が鳴った。
三十八度三分。
「上がっているわね」
「妃花が来たから」
「それは発熱ではなく動揺よ」
「動揺させないで」
「無理ね」
「なんで」
「ワタシが看病しているから」
金田君は、熱で赤い顔のまま、少し眉を寄せた。
「妃花、機嫌いい?」
「心配よ」
「いや、機嫌いい」
「心配しているわ」
「でも、なんか……楽しそう」
「誤解ね」
「本当?」
ワタシは少しだけ目を逸らした。
「……合法的に看病できる機会は、そう多くないわ」
「合法的」
「ご家族の許可あり。感染対策あり。病人本人の意思も尊重」
「俺、来ないでって言った」
「病人の不合理な遠慮は尊重対象外」
「強い」
「正論よ」
「妃花」
「なに」
「本当に移したくない」
声が、少し真面目になった。
ワタシは黙った。
金田君は、布団の中からこちらを見ている。
普段よりずっと弱い顔。
でも、目だけはいつもの金田君だった。
「妃花が熱出したら困る」
「ええ」
「妃花、熱ある時でも無理しそうだから」
「あなたに言われたくないわ」
「俺は寝てる」
「ワタシが寝かせているの」
「うん」
「だから、ワタシが熱を出したら、あなたが寝かせなさい」
「……」
「契約五番」
「俺が困った時は妃花も助ける」
「逆も当然よ」
「書いてない」
「更新するわ」
「今?」
「回復後」
「……そっか」
金田君は目を閉じた。
少し苦しそうに息をする。
ワタシは声を落とした。
「金田君」
「うん」
「嫌なら、帰るわ」
金田君の目が少し開いた。
「ただし、水分、薬、体温、換気を確認してから」
「条件多い」
「最低限よ」
「……嫌じゃない」
ワタシは瞬きをした。
「移したくないだけ」
「……そう」
「来てくれたのは、嬉しい」
「っ」
「でも近いと困る」
「熱があるのに刺すな」
「刺した?」
「刺したわ」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
ワタシは椅子をベッドから少し離した。
金田君が、わずかに安心した顔をする。
その顔を見て、少しだけ反省した。
看病は支配ではない。
母の言葉が頭に浮かぶ。
そうだ。
ワタシは金田君を看病したい。
近くにいたい。
世話を焼きたい。
でも、金田君は本気で移したくないと思っている。
なら、距離を取るのも看病だ。
嫌だけど。
かなり嫌だけど。
「この距離でどう?」
「うん」
「必要な時だけ近づくわ」
「うん」
「でも、必要と判断したら近づく」
「わかった」
「水分補給は十分ごと」
「多くない?」
「少量ずつよ」
「うん」
「食べられそう?」
「あまり」
「ゼリーは?」
「少しなら」
「よろしい」
ワタシはゼリー飲料を取り出し、蓋を開ける。
金田君に渡す。
「自分で持てる?」
「持てる」
「本当に?」
「持てる」
「落としたらワタシが介助するわ」
「持つ」
「残念」
「妃花」
「冗談よ。半分」
金田君は、少しだけ笑った。
弱々しい笑い方。
胸がまた痛くなる。
金田君がゼリーを少し飲む。
ワタシはそれを確認する。
よし。
「学校」
金田君がぽつりと言った。
「どうだった?」
「あなたが休んだせいで、佐伯さんたちにドン引きされたわ」
「なんで?」
「ワタシの機嫌が良かったから」
「……」
「正確には、看病できることについて前向きな姿勢を示したら、周囲に誤解されたの」
「誤解かな」
「金田君?」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
「でも、あなたがいない昼休みは少し静かすぎたわ」
「うん」
「卵焼きも余った」
「写真見た」
「回復したら作るわ」
「甘め?」
「あなた用だから」
「嬉しい」
「だから熱で無防備に刺すな!」
「大きい声出すと喉に悪い」
「あなたの喉でしょう!」
金田君は、また少し笑った。
ワタシは眉を寄せる。
「笑う元気はあるのね」
「少し」
「よろしい」
ワタシは机の上を片付けた。
使ったティッシュを袋に入れる。
ペットボトルを近くに置く。
冷却シートを確認する。
「冷却シート、替える?」
「まだいい」
「汗は?」
「少し」
「タオル」
「自分で」
「できる?」
「できる」
「では自分で」
ワタシはタオルを渡す。
金田君が額や首元を拭く。
ワタシは横を向いて待つ。
見ない。
病人にも尊厳がある。
ただし、様子は音で確認する。
「終わった」
「よろしい」
「妃花」
「なに」
「見ないんだ」
「介護は尊厳を守るものよ」
「うん」
「何よ」
「ちゃんとしてる」
「当然でしょう」
「ありがとう」
「礼は回復後」
「うん」
金田君は、少しずつ眠そうになってきた。
薬が効いてきたのかもしれない。
ワタシは部屋の灯りを少し落とした。
「寝なさい」
「妃花、帰る?」
「あなたが寝たら帰るわ」
「ずっと見てる?」
「見守りよ」
「恥ずかしい」
「では壁を見ているわ」
「そういう意味じゃない」
「難しいわね」
「……椅子、そこならいい」
「ここ?」
「うん」
「よろしい」
ワタシは椅子に座った。
ベッドから少し離れた位置。
近くない。
でも、何かあればすぐ届く距離。
金田君が、目を閉じる。
呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ワタシは静かに、その様子を見ていた。
普段なら、金田君がワタシを見る。
ワタシが壊さないか。
怪我していないか。
怒りすぎていないか。
今日は逆。
ワタシが金田君を見る。
熱で苦しくないか。
水分は足りているか。
布団は暑すぎないか。
ちゃんと眠れそうか。
それは、思っていたよりも嬉しいだけではなかった。
怖い。
金田君が弱っているのが怖い。
ワタシの手ではどうにもできない熱が、金田君の中にあることが怖い。
ワタシは強い。
でも、風邪のウイルスを殴ることはできない。
熱を握り潰すこともできない。
できるのは、水を飲ませて、タオルを替えて、寝かせることだけ。
それが、こんなに心細いとは思わなかった。
「……金田君」
小さく呼ぶと、金田君が薄く目を開けた。
「うん」
「早く治しなさい」
「うん」
「ワタシ、あなたがいない教室は嫌よ」
「……うん」
「卵焼きも余るし」
「うん」
「佐伯さんたちに引かれるし」
「それは妃花が」
「黙りなさい。病人は寝なさい」
「うん」
金田君は、また目を閉じた。
今度こそ、しばらくして寝息が聞こえてきた。
ワタシは立ち上がり、そっと近づく。
近づきすぎない。
額に触れたい。
触れない。
移るから。
金田君が嫌がったから。
代わりに、布団の端を少しだけ整えた。
「……普段、ワタシにこれをやっているのね」
小さく呟く。
腹立つ。
嬉しい。
心配。
全部混ざっている。
ワタシは机にメモを置いた。
『水分補給。起きたら一口。熱を測る。無理に返信しない。明日も休むなら連絡すること。卵焼きは回復後』
その下に、少し迷ってから書き足す。
『早く元気になりなさい。ワタシが困ります』
よし。
完璧な看病メモである。
*
翌日。
金田君はまだ休みだった。
熱は少し下がったが、大事を取って休むとのこと。
ワタシは朝から、非常に冷静だった。
冷静に、登校し。
冷静に、席に着き。
冷静に、佐伯さんに言った。
「今日も放課後、看病に行くわ」
佐伯さんは、昨日よりさらに引いた顔をした。
「妃花ちゃん」
「なに?」
「声が弾んでる」
「心配しているのよ」
「昨日も言ってた」
「看病は継続が大事なの」
「なんか……楽しそう」
「楽しいわけではないわ」
「じゃあ何?」
「必要とされている実感があるだけよ」
言った瞬間、佐伯さんが黙った。
ワタシも黙った。
あ。
今、少し本音が出た。
佐伯さんは、からかわなかった。
ただ、少し柔らかい顔をした。
「そっか」
「……ええ」
「妃花ちゃんも、金田君のお世話したいんだね」
「世話という言い方は」
「看病」
「そう」
「金田君、いつも妃花ちゃんのこと見てるもんね」
「ええ」
「今日は妃花ちゃんが見る番なんだ」
「……そうよ」
山岸君が後ろから言った。
「でも顔はめちゃくちゃ嬉しそう」
「山岸君」
「はい」
「病人回復祈願として、今日の掃除当番を代わりなさい」
「なんで!?」
「徳を積めるわ」
「横暴!」
教室が笑った。
ワタシは少しだけ笑った。
昨日より、クラスメイトの引き具合はやや緩んでいた。
たぶん、彼らも少しわかってきたのだ。
ワタシが金田君の熱を喜んでいるわけではないと。
いや、看病できることにはかなり前向きだが。
それは別問題。
放課後、金田家に行く前に、金田君からメッセージが来た。
『今日は来なくてもいい。昨日より楽』
ワタシは返信した。
『楽ならなおさら油断する頃です。行きます』
『移る』
『感染対策済み』
『妃花、昨日ずっとちゃんとしてたから疲れたでしょ』
『疲れていません』
『本当?』
ワタシは少し止まった。
本当は、少し疲れた。
心配で。
触れないようにするのが。
近づきすぎないようにするのが。
金田君が寝るまで、何度も呼吸を確認してしまうのが。
だから、正直に返した。
『少し疲れました』
すぐ既読がついた。
『じゃあ今日は休んで』
ワタシは返した。
『だから短時間にします』
『妃花』
『看病は支配ではないので、あなたの希望も聞きます。でもワタシの希望も言います。顔を見て安心したいです』
しばらく返信がなかった。
やがて、短く来た。
『じゃあ少しだけ』
ワタシはスマホを握った。
少し力が入り、ケースがみし、と鳴った。
危ない。
『よろしい』
送信。
今日は、少しだけ。
でも行く。
顔を見る。
水分を確認する。
卵焼きはまだ早いかもしれないから、雑炊にする。
金田君が本気で寝たがるなら、帰る。
そう決めて、ワタシは歩き出した。
かなり機嫌が良かった。
心配もしていた。
両方、本当だった。
*
その日の看病は、昨日より穏やかだった。
金田君の熱は三十七度台まで下がっていた。
顔色も少し良い。
声も昨日より出る。
ただし、油断は禁物。
「金田君」
「うん」
「水分」
「飲んだ」
「何分前?」
「……二十分?」
「一口」
「はい」
金田君は素直に飲んだ。
昨日より抵抗が少ない。
よろしい。
「雑炊、食べられそう?」
「少し」
「少しでいいわ」
「妃花が作った?」
「ええ」
「じゃあ食べる」
「病人がそういう刺し方をするな」
「刺した?」
「刺したわ」
金田君は、薄く笑った。
ワタシは雑炊を器によそった。
熱すぎないように冷ます。
金田君はベッドに体を起こそうとする。
「手伝う?」
「自分で」
「無理しない」
「うん」
金田君は少し体を起こした。
ワタシは近づきすぎないようにしつつ、枕の位置を整える。
触れない。
でも支える。
難しい。
けれど、昨日より上手くできた。
「妃花」
「なに」
「上手い」
「褒めるところ?」
「うん」
「当然よ」
「看病、向いてる」
「……」
ワタシは器を持ったまま固まった。
「どうしたの?」
「今のは、非常に良い評価ね」
「うん」
「もう一度」
「看病、向いてる」
「よろしい」
ワタシは満足して雑炊を渡した。
「自分で食べられる?」
「食べる」
「食べられなければ」
「自分で食べる」
「そう」
「残念そう」
「誤解よ」
金田君は少しずつ雑炊を食べた。
ワタシはその様子を見守る。
ちゃんと噛んでいるか。
熱すぎないか。
咳き込まないか。
金田君が半分ほど食べたところで、器を置いた。
「おいしい」
「当然よ」
「卵、甘くない」
「雑炊だからね」
「回復したら卵焼き」
「約束するわ」
「うん」
金田君は、少し眠そうに目を細めた。
ワタシは器を下げる。
「寝なさい」
「妃花、帰る?」
「もう少しだけ」
「少し?」
「あなたが寝るまで」
「昨日もそう言った」
「契約継続中よ」
「移る」
「距離は取る」
「……うん」
ワタシは椅子に座った。
金田君は布団に戻る。
昨日より苦しそうではない。
それだけで、胸の奥が少し軽くなった。
「妃花」
「なに」
「学校、どうだった?」
「あなたがいないせいで、山岸君が掃除当番を代わる羽目になったわ」
「なんで?」
「徳を積ませた」
「妃花」
「何よ」
「横暴」
「病人に言われたくないわ」
「病人関係ない」
「うるさい。寝なさい」
金田君は笑った。
昨日より、少しだけ普通の笑い方だった。
それが嬉しくて、ワタシは口元を引き締めた。
油断すると笑ってしまう。
「明日」
金田君が言った。
「行けるかも」
「無理は許可しない」
「熱下がったら」
「朝の体温、食欲、喉の状態、倦怠感で判断」
「医者?」
「妻よ」
「中学生だけど」
「病人でも禁止」
「うん」
金田君は、目を閉じた。
「妃花」
「なに」
「来てくれて、ありがとう」
「礼は回復後」
「今も言う」
「……受け取るわ」
「うん」
「でも、次からは熱を出す前に体調不良を報告しなさい」
「うん」
「隠したら怒るわ」
「わかった」
「ワタシも」
言ってから、少しだけ迷った。
でも、続けた。
「ワタシも、体調が悪い時は言うわ」
金田君が目を開けた。
「本当?」
「本当よ」
「無理しない?」
「努力する」
「言い方」
「契約更新ね」
「うん」
金田君は、安心したように目を閉じた。
しばらくして、寝息が聞こえる。
ワタシは静かに立ち上がった。
昨日と同じようにメモを書く。
『雑炊は半分食べました。水分補給。起床後に体温。明日の登校は朝の状態で判断。無理は不可』
少し考えて、また書き足す。
『回復後、卵焼き。甘め』
そしてもう一行。
『看病させなさい。ワタシが安心します』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
でも消さない。
今日は、そういう契約更新の日だから。
*
翌々日。
金田君は登校してきた。
完全復活ではないが、熱は下がり、マスクをして、少しゆっくり歩いていた。
教室に入った瞬間、ワタシは立ち上がった。
周囲が一斉にこちらを見た。
「金田君」
「おはよう」
「体温」
「三十六度八分」
「喉」
「少し痛い」
「食欲」
「ある」
「倦怠感」
「少し」
「体育は見学」
「うん」
「水分」
「持ってる」
「薬」
「飲んだ」
「よろしい」
金田君は自分の席に鞄を置いた。
ワタシはさらに言う。
「今日一日、無理は禁止」
「うん」
「昼は消化の良いもの」
「母さんが弁当作ってくれた」
「よろしい」
「妃花」
「なに」
「近い」
「学校では感染期間はほぼ終わりよ。ただし念のため距離を」
「もう近い」
ワタシは一歩下がった。
佐伯さんが、横からにやにやしている。
「妃花ちゃん、金田君が来て嬉しそう」
「当然でしょう」
教室が静かになった。
ワタシは少し考えた。
だが、訂正しなかった。
「いないと困るもの」
金田君が、少し目を開いた。
佐伯さんが口元を押さえた。
山岸君が「うわ」と言った。
「山岸君」
「はい」
「何がうわなの?」
「いや、朝から夫婦すぎて」
「正しい認識ね」
「否定しないんだ」
「病み上がりの金田君に負担をかけたくないので、今日は否定の手間を省くわ」
「効率化の方向がおかしい」
金田君が、小さく笑った。
笑う元気がある。
よし。
ワタシは鞄から包みを取り出した。
「金田君」
「うん」
「卵焼き」
「今日?」
「約束したでしょう」
「ありがとう」
「甘めよ」
「うん」
「昼に食べなさい。ただし無理はしないこと」
「うん」
「あと」
ワタシは、少し声を落とした。
「治ってよかったわ」
金田君は、静かに頷いた。
「うん」
「本当に」
「うん」
「あなたがいない教室は、落ち着かなかった」
「うん」
「でも看病はできたので、そこは評価するわ」
「妃花らしい」
「何よ」
「ありがとう」
「礼はもう受け取ったわ」
「もう一回」
「……受け取るわ」
周囲が、なんとも言えない顔をしていた。
ドン引き。
呆れ。
微笑ましさ。
全部混ざっている。
佐伯さんが言う。
「妃花ちゃん、金田君が熱出してる間、ずっと機嫌よかったよ」
「佐伯さん?」
「でも、ずっと心配もしてた」
「……」
「変だった」
「最後」
「ごめん。でも、妃花ちゃんらしかった」
金田君がこちらを見る。
「機嫌よかったの?」
「看病できたからよ」
「そっか」
「誤解しないで。熱を喜んだわけじゃないわ」
「うん」
「あなたが弱っているのは嫌だった」
「うん」
「でも、あなたの世話を焼けるのは、少し」
ワタシは眼鏡を押し上げた。
「かなり、悪くなかったわ」
金田君は、マスク越しでもわかるくらい、少し笑った。
「また熱出す?」
「出すな!」
ワタシは机を叩きかけた。
寸前で止めた。
偉い。
非常に偉い。
「二度と不用意に熱を出さないこと」
「うん」
「体調不良は早めに報告」
「うん」
「ワタシも報告する」
「うん」
「看病は、相手の希望も聞く」
「うん」
「でも不合理な遠慮は正論で封殺する」
「ほどほどに」
「努力するわ」
「契約更新?」
「ええ」
ワタシはノートの端に書いた。
一、体調不良は隠さない。
二、看病は支配ではない。
三、でも不合理な遠慮は説得する。
四、金田君は水分補給を怠らない。
五、妃花ちゃんは看病できて嬉しそうな顔をしすぎないよう努力する。
五番は不本意だ。
非常に不本意。
でも、クラスメイトにドン引きされるのは少し面倒だ。
だから、努力はする。
金田君が隣で、そのノートを覗き込む。
「五番」
「なに」
「無理しなくていい」
「……」
「妃花が来てくれて、嬉しかったから」
ワタシは、ノートを閉じた。
危険だった。
握力が上がるところだった。
「金田君」
「うん」
「病み上がりでそういうことを言うのは禁止」
「うん」
「昼休み、卵焼きを食べた後なら許可するわ」
「わかった」
「本当に言う気ね?」
「うん」
「……よろしい」
チャイムが鳴った。
授業が始まる。
金田君は席に着く。
ワタシも前を向く。
教室に、いつもの空気が戻っていく。
金田君がいる。
それだけで、少し落ち着く。
看病は楽しかった。
心配だった。
怖かった。
嬉しかった。
全部、本当。
だから、次に金田君が熱を出したら。
いや、出してほしくはない。
出してほしくはないけれど。
もし出したら。
ワタシはまた、マスクと消毒液とゼリーと雑炊を持っていく。
距離は取る。
希望も聞く。
でも、正論で封殺するところは封殺する。
だって。
契約五番。
金田君が困った時は、妃花ちゃんも助ける。
夫婦なので。