倦怠期夫婦中学生(仮題)   作:全肯定逆張りおじさん

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第八話 妃花ちゃん、屈辱の一日

 それは、事故だった。

 

 本当に事故だった。

 

 故意ではない。

 

 悪意もない。

 

 誰も、金田君をどうにかしようと思っていたわけではない。

 

 ただ、金田君のお母様が知人からもらったチョコレートの箱を、居間のテーブルに置いていた。

 

 ただ、その箱が妙に上品で、普通の高級チョコレートに見えた。

 

 ただ、金田君が帰宅後、少し疲れていて、何も考えずにひとつ口に入れた。

 

 ただ、それがウイスキーボンボンだった。

 

 ただ、金田君はアルコールに非常に弱かった。

 

 それだけの話である。

 

 それだけの話なのに。

 

「妃花」

 

「……なによ」

 

「好き」

 

 ワタシは、死にかけていた。

 

     *

 

 その日、ワタシは金田家に来ていた。

 

 名目は宿題。

 

 実態は、おうちデートである。

 

 さらに細かく言えば、先日の風邪看病に関する契約更新と、金田君の病み上がり体力の経過観察と、甘めの卵焼き再提供の打ち合わせを兼ねた、非常に健全で正当な訪問だった。

 

 金田君のお母様は、いつものようににこにこしていた。

 

「妃花ちゃん、いらっしゃい」

 

「お邪魔します」

 

「金田、部屋にいるわよ。あ、チョコ食べる?」

 

「ありがとうございます」

 

 ワタシはテーブルの上の箱を見た。

 

 上品な箱。

 

 金色の文字。

 

 外国製っぽい包装。

 

 その横で、金田君がひとつ食べていた。

 

 ……食べていた。

 

「金田君?」

 

「うん」

 

「それ、何?」

 

「チョコ」

 

「中身は?」

 

「……」

 

 金田君は、少しだけ首を傾げた。

 

 その顔が、いつもよりぼんやりしていた。

 

「中、なんか入ってた」

 

 ワタシは箱を手に取った。

 

 裏を見る。

 

 小さな文字。

 

 洋酒入り。

 

 アルコール分。

 

 ワタシは固まった。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「それ、何個食べたの」

 

「一個」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「飲み込んだ?」

 

「うん」

 

「気分は?」

 

「ふつう」

 

「顔が少し赤いわ」

 

「そう?」

 

 金田君のお母様が、箱を見て「あっ」と声を上げた。

 

「ごめんなさい! それ、洋酒入りだったのね。あんた、もう食べちゃった?」

 

「うん」

 

「大丈夫? 気持ち悪くない?」

 

「大丈夫」

 

 金田君はそう言った。

 

 普段通りの、落ち着いた声で。

 

 でも、ワタシにはわかった。

 

 大丈夫ではない。

 

 目が少し潤んでいる。

 

 頬が赤い。

 

 動きが遅い。

 

 そして何より。

 

 ワタシを見ている時間が、いつもより長い。

 

「妃花」

 

「な、なによ」

 

「今日、リボン違う」

 

「ええ」

 

「似合ってる」

 

「……ありがとう」

 

「かわいい」

 

「っ」

 

 ワタシは後ずさった。

 

 危険。

 

 非常に危険。

 

 いつもの金田君もたまに刺してくるが、今日の刺し方は違う。

 

 普段なら一撃ずつ間合いを測ってくる。

 

 今日は違う。

 

 無差別。

 

 無防備。

 

 ノーガード。

 

 クールな顔のまま、弾幕のように好意を撃ってくる。

 

 まずい。

 

「金田君のお母様」

 

「妃花ちゃん?」

 

「金田君を座らせます。水分を取らせます。様子を見ます。今日はチョコレート禁止です」

 

「お願いしていい?」

 

「もちろんです」

 

 ワタシは金田君の前に立った。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「座りなさい」

 

「妃花が言うなら」

 

「っ」

 

 やめなさい。

 

 病み上がりでもないくせに、妙な素直さを出すな。

 

 金田君はソファに座った。

 

 ワタシは少し離れて座ろうとした。

 

 すると、金田君が言った。

 

「遠い」

 

「遠くないわ」

 

「遠い」

 

「近いと危険なの」

 

「なんで?」

 

「あなたが」

 

「俺?」

 

「主にワタシが」

 

 意味がわからなかったのか、金田君は少しだけ首を傾げた。

 

 そして、真顔で言った。

 

「妃花が近いと嬉しい」

 

 ワタシは膝から崩れかけた。

 

 屈辱だった。

 

 非常に屈辱だった。

 

 いつもなら怒れる。

 

 急に何を言っているの、馬鹿じゃないの、そういうことを軽々しく言うな、反省会よ。

 

 いくらでも言える。

 

 だが、今日は言えない。

 

 相手は軽く酔っている。

 

 本人の意思が完全ではない。

 

 ここで怒鳴れば、ワタシが病人に怒鳴ったようなものだ。

 

 いや、病人ではない。

 

 しかし正常ではない。

 

 つまり、ワタシが大人にならなければならない。

 

 屈辱。

 

 圧倒的屈辱。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「まず水を飲みなさい」

 

「うん」

 

 ワタシはコップに水を注いだ。

 

 金田君に渡す。

 

 金田君は受け取る時、ワタシの指を見た。

 

「手、赤くない」

 

「ええ」

 

「よかった」

 

「……」

 

「妃花の手、好き」

 

 ワタシはコップを落としかけた。

 

 金田君のお母様が、台所の方で小さく「あらまあ」と言った。

 

 あらまあ、ではない。

 

 危機である。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「飲みなさい」

 

「うん」

 

「喋らない」

 

「妃花の声も好き」

 

「飲め!」

 

 金田君は水を飲んだ。

 

 素直。

 

 非常に素直。

 

 普段も素直ではあるが、今日は変な方向に素直すぎる。

 

「気持ち悪くない?」

 

「ない」

 

「頭痛は?」

 

「ない」

 

「眠気は?」

 

「少し」

 

「なら横になりなさい」

 

「妃花も?」

 

「ならない!」

 

「そっか」

 

 金田君は少し残念そうにした。

 

 やめなさい。

 

 その顔をするな。

 

 ワタシは怒れない。

 

 本当に怒れない。

 

 怒れないから、心臓だけが一方的に殴られている。

 

 こんな一方的な戦いがあるか。

 

 不公平。

 

 契約違反。

 

「金田君のお母様」

 

「はいはい」

 

「これは、しばらく休ませた方が」

 

「そうねえ。でも一個だけだから、少ししたら落ち着くと思うけど」

 

「ではワタシが様子を」

 

「お願いね」

 

 お母様は、明らかに面白がっていた。

 

 大人というものは時に残酷である。

 

     *

 

 金田君の部屋。

 

 ワタシは扉を開け、部屋の空気を入れ替えた。

 

 金田君をベッドに座らせる。

 

 自分はローテーブルの前に座る。

 

 距離を取る。

 

 適切な距離。

 

 看病の時に学んだ距離。

 

 しかし金田君は、ベッドに座ったまま言った。

 

「妃花、遠い」

 

「これが適正距離よ」

 

「手、届かない」

 

「届かなくていいの」

 

「手、繋ぎたい」

 

「っ」

 

 ワタシは深呼吸した。

 

 鼻から吸う。

 

 口から吐く。

 

 握力を抜く。

 

 机を壊さない。

 

 今日は相手が悪いのではない。

 

 ウイスキーボンボンが悪い。

 

 いや、確認せずに食べた金田君も少し悪い。

 

 でも責めるほどではない。

 

 屈辱。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「あなたは今、軽く正常判断能力を欠いている可能性があります」

 

「うん」

 

「よって、今の発言は正式な契約事項としては扱いません」

 

「うん」

 

「ただし、記録はします」

 

「記録?」

 

「回復後の反省会で確認します」

 

「反省会」

 

「そうよ」

 

「妃花と話せるなら、いい」

 

「やめなさい」

 

「何を?」

 

「全部よ!」

 

 金田君は、真面目な顔だった。

 

 酔っているのに、表情だけはいつも通り。

 

 そこが本当に厄介だった。

 

 へらへらしていれば怒れたかもしれない。

 

 だらしなく笑っていれば、もう少し引けたかもしれない。

 

 でも金田君は、いつもの静かな顔で、淡々と言う。

 

「妃花、今日もかわいい」

 

「それはさっき聞いたわ」

 

「何回でも言える」

 

「言わなくていい!」

 

「言いたい」

 

「言わなくていい!」

 

「好きだから」

 

「っ!」

 

 ワタシはローテーブルに額を打ちつけそうになった。

 

 耐えた。

 

 偉い。

 

 だが限界は近い。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「水」

 

「飲んだ」

 

「もう一口」

 

「うん」

 

 水を飲ませる。

 

 それしかできない。

 

 好意の弾幕に対する唯一の防御が、水分補給。

 

 あまりにも弱い。

 

「妃花」

 

「なによ」

 

「怒ってる?」

 

「怒ってないわ」

 

「よかった」

 

「怒れないのよ!」

 

「なんで?」

 

「あなたが酔っているから!」

 

「酔ってない」

 

「酔っている人は大体そう言うの!」

 

「妃花」

 

「何よ」

 

「怒ってる妃花も好き」

 

「許して」

 

 口から出た。

 

 自然に出た。

 

 ワタシは自分で驚いた。

 

 許して?

 

 ワタシが?

 

 金田君に?

 

 屈辱。

 

 あまりにも屈辱。

 

 しかし、言わずにはいられなかった。

 

「お願いだから、今日はもう少し黙って」

 

「妃花がお願いしてる」

 

「そうよ! 屈辱よ!」

 

「かわいい」

 

「だから!」

 

 ワタシは両手で顔を覆った。

 

 だめだ。

 

 終わりだ。

 

 この男、止まらない。

 

 しかも悪意がない。

 

 からかっているわけでもない。

 

 普段なら言葉になる前に飲み込んでいるものが、全部そのまま出てきている。

 

 クールに見えるのは外側だけ。

 

 中身が、だだ漏れ。

 

「妃花」

 

「……何」

 

「顔、見たい」

 

「無理」

 

「なんで?」

 

「死ぬから」

 

「俺が?」

 

「ワタシが!」

 

 金田君は、少し考えた。

 

「死なないで」

 

「誰のせいだと思ってるの」

 

「俺?」

 

「そうよ」

 

「ごめん」

 

「謝るな。今のあなたに謝られると、さらに何も言えない」

 

「じゃあ、ありがとう」

 

「何に?」

 

「そばにいてくれて」

 

「っ」

 

 ワタシは顔を覆ったまま固まった。

 

 許して。

 

 本当に許して。

 

 ワタシは金田君の看病や介護なら正論で封殺できる。

 

 水を飲みなさい。

 

 寝なさい。

 

 無理しない。

 

 移るから来るなは不合理な遠慮。

 

 そういう戦いなら勝てる。

 

 だが、これは無理だ。

 

 好き。

 

 かわいい。

 

 そばにいて嬉しい。

 

 声が好き。

 

 手が好き。

 

 怒ってる妃花も好き。

 

 何これ。

 

 拷問?

 

 いや、幸福?

 

 違う。

 

 屈辱。

 

 幸福に屈服させられる屈辱。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「あなた、普段どれだけ飲み込んでいるの」

 

「何を?」

 

「そういうのよ」

 

「言ったら妃花、怒る」

 

「怒るわよ」

 

「でも嬉しい?」

 

「……」

 

「嬉しい?」

 

 酔っているくせに。

 

 そこだけ鋭い。

 

 ワタシは顔を覆ったまま、小さく言った。

 

「……少し」

 

「そっか」

 

「少しよ」

 

「うん」

 

「かなりじゃないわ」

 

「うん」

 

「……かなりかもしれないけど」

 

「そっか」

 

「返事をするな!」

 

 金田君はベッドの上で、静かに笑った。

 

 いつもの小さな笑い方。

 

 だが今日は、そこに遠慮がない。

 

「妃花」

 

「何よ」

 

「こっち来て」

 

「無理」

 

「なんで?」

 

「近づいたらワタシが負ける」

 

「勝負?」

 

「勝負よ」

 

「妃花が勝ってる」

 

「どこが!?」

 

「来てくれたから」

 

「それは……」

 

「妃花、いつも来てくれる」

 

「……」

 

「本家に帰っても、最後は戻ってくる」

 

「あなたが迎えに来るからでしょう」

 

「うん」

 

「そこはあなたの功績よ」

 

「でも、妃花が戻ってくれる」

 

「……」

 

「それが好き」

 

「金田君」

 

「うん」

 

「本当に寝ましょう」

 

「寝る」

 

「今すぐ」

 

「妃花が近くに来たら」

 

「人質交渉みたいなことをしない」

 

「近く」

 

「だめ」

 

「少し」

 

「だめ」

 

「手だけ」

 

「……」

 

 手だけ。

 

 手だけなら。

 

 いや、危険。

 

 非常に危険。

 

 だが、金田君はベッドに座って、ぼんやりこちらを見ている。

 

 顔が赤い。

 

 目が眠そう。

 

 声も少し柔らかい。

 

 ここで突っぱねすぎるのも、病人ではないが弱っている相手に対して冷たいのでは?

 

 いや、これは酔っぱらいだ。

 

 しかし未成年の事故的摂取であり、責めるのは違う。

 

 倫理。

 

 契約。

 

 看護。

 

 恋愛。

 

 全部が脳内でレスバを始めた。

 

 結果。

 

 ワタシは負けた。

 

「……手だけよ」

 

「うん」

 

「それ以上はなし」

 

「うん」

 

「握力が上がったら言いなさい」

 

「うん」

 

「あと、変なこと言ったら離すわ」

 

「好き」

 

「最初から変なこと言うな!」

 

 それでも、ワタシはベッドの横に座った。

 

 距離は保つ。

 

 金田君が手を出す。

 

 ワタシは、おそるおそるその手を握った。

 

 いつもの手。

 

 机のひびを直す手。

 

 ココアを淹れる手。

 

 ワタシのリボンを縫う手。

 

 熱の時にワタシを遠ざけようとした手。

 

 今日は少し温かい。

 

「……熱はなさそうね」

 

「妃花の手、冷たい」

 

「あなたが熱いのよ」

 

「冷たくて気持ちいい」

 

「……そう」

 

「好き」

 

「手の話?」

 

「妃花」

 

「やめなさい」

 

「やめる?」

 

「……」

 

 やめてほしい。

 

 やめてほしいが。

 

 少しだけ、やめてほしくない。

 

 ワタシは最低だ。

 

 相手が正常ではないのに。

 

 でも、金田君の言葉は嬉しい。

 

 聞きたい。

 

 聞きたくない。

 

 聞いたら死ぬ。

 

 聞かないと惜しい。

 

 屈辱。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日は、記録しないことにしてあげる」

 

「なんで?」

 

「あなたが不利だから」

 

「不利?」

 

「正気に戻った時、あなたが死ぬ」

 

「妃花が死ぬんじゃなかった?」

 

「二人とも死ぬわ」

 

「じゃあ、記録しない」

 

「ええ」

 

「でも」

 

「何」

 

「好きなのは、正気でも同じ」

 

 ワタシは手を離そうとした。

 

 金田君が、ほんの少しだけ握った。

 

 強くはない。

 

 逃げられる。

 

 でも、逃げなかった。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「今のは、卑怯よ」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

「ごめん」

 

「謝らないで」

 

「うん」

 

「……正気に戻ってから、もう一回言いなさい」

 

 金田君は、目を細めた。

 

「うん」

 

 言質を取った。

 

 いや、今日の発言は無効にすると言ったばかりでは?

 

 でも今のは別。

 

 契約上、重要。

 

 屈辱だが、重要。

 

     *

 

 しばらくして、金田君は眠くなってきた。

 

 アルコールの影響か、疲れか、単純に安心したのか。

 

 ワタシの手を握ったまま、まぶたが落ちかけている。

 

「寝なさい」

 

「うん」

 

「手は離すわ」

 

「やだ」

 

「子供みたいなことを言わない」

 

「妃花、いる?」

 

「しばらくはいるわ」

 

「帰る?」

 

「あなたが寝て、様子を見てから」

 

「そっか」

 

「だから寝なさい」

 

「妃花」

 

「何」

 

「好き」

 

「寝ろ」

 

「うん」

 

 金田君はようやく目を閉じた。

 

 しばらくして、呼吸が穏やかになる。

 

 眠った。

 

 ワタシは動けなかった。

 

 手を握られているから、ではない。

 

 力は弱い。

 

 抜こうと思えば抜ける。

 

 でも、抜けなかった。

 

 あれだけ好き好き言われて。

 

 怒ることもできず。

 

 許しを請い。

 

 手を握られ。

 

 寝顔を見守る。

 

 屈辱。

 

 屈辱だ。

 

 なのに、胸の奥が温かい。

 

 ワタシは空いた手で、自分の顔を覆った。

 

「……ほんと、なんなのよ」

 

 小さく呟く。

 

 寝ている金田君は答えない。

 

 答えなくていい。

 

 これ以上答えられたら、ワタシが本当に死ぬ。

 

 十分ほどして、お母様がそっと様子を見に来た。

 

 扉の隙間からこちらを見て、にこりと笑う。

 

「寝た?」

 

「はい」

 

「ありがとう、妃花ちゃん」

 

「いえ」

 

「大丈夫だった?」

 

 ワタシは、少し考えた。

 

「ワタシが大丈夫ではありません」

 

「まあ」

 

「金田君は、たぶん大丈夫です」

 

「そう」

 

 お母様は笑いを堪えている。

 

 大人は残酷だ。

 

「チョコは片付けておくわね」

 

「お願いします。今後、洋酒入りは明示してください」

 

「本当にごめんなさいね」

 

「事故ですので」

 

「金田、何か変なこと言った?」

 

 ワタシは沈黙した。

 

 お母様の目が輝いた。

 

「言ったのね」

 

「守秘義務があります」

 

「妃花ちゃん、顔が真っ赤よ」

 

「室温です」

 

「そうねえ」

 

 絶対に信じていない。

 

 ワタシは視線を逸らした。

 

 金田君の手は、まだワタシの手を握っている。

 

 お母様はそれを見て、声を潜めた。

 

「妃花ちゃん」

 

「はい」

 

「嫌だったら離していいのよ」

 

「……嫌ではありません」

 

「そう」

 

「屈辱ではあります」

 

「そう」

 

「非常に屈辱です」

 

「ふふ」

 

 お母様はそれ以上何も言わず、扉を閉めた。

 

 やめて。

 

 笑わないで。

 

 これは笑い事ではない。

 

 ワタシの尊厳に関わる大事件である。

 

     *

 

 翌日。

 

 学校。

 

 金田君は登校してきた。

 

 顔色は普通。

 

 目も普通。

 

 声も普通。

 

 完全に正気。

 

 つまり、地獄の始まりである。

 

 ワタシは朝から不機嫌だった。

 

 いや、機嫌は悪くない。

 

 むしろ少し良い。

 

 でも、非常に複雑だった。

 

 屈辱がまだ残っている。

 

 佐伯さんが近づいてきた。

 

「妃花ちゃん」

 

「なに」

 

「昨日、金田君の家行ったんでしょ?」

 

「ええ」

 

「なんかあった?」

 

「ないわ」

 

「即答が怪しい」

 

「何もないわ」

 

 そこへ金田君が来た。

 

「おはよう、妃花」

 

「おはよう」

 

「昨日、ありがとう」

 

 教室が少し静かになった。

 

 佐伯さんの目が光る。

 

 山岸君もこちらを見る。

 

 やめなさい。

 

 見世物ではない。

 

「記憶は?」

 

 ワタシは低い声で聞いた。

 

 金田君は少し考えた。

 

「チョコ食べた」

 

「その後」

 

「水飲んだ」

 

「その後」

 

「妃花が部屋にいた」

 

「その後」

 

「手、繋いだ」

 

「その後」

 

「寝た」

 

 ワタシは目を細めた。

 

「発言は?」

 

「……少し覚えてる」

 

 終わった。

 

 ワタシは机に手を置いた。

 

 まずい。

 

 力を抜け。

 

 机は悪くない。

 

 学校備品。

 

「どこまで」

 

「妃花が、許してって言った」

 

「忘れなさい」

 

「うん」

 

「今すぐ」

 

「でも、珍しかった」

 

「忘れなさい!」

 

 周囲がざわついた。

 

 佐伯さんが口元を押さえている。

 

 山岸君が「金田、何したんだよ」と呟いた。

 

 金田君は真面目な顔で言った。

 

「ウイスキーボンボン食べた」

 

「事故物件かよ」

 

「山岸君」

 

 ワタシは言った。

 

「この件は機密です」

 

「はい」

 

「情報漏洩は契約違反です」

 

「俺、契約してないんだけど」

 

「今しました」

 

「横暴!」

 

 金田君が、ワタシを見る。

 

 その顔は、昨日と違う。

 

 いつもの金田君。

 

 でも、少しだけ気まずそう。

 

「妃花」

 

「なに」

 

「変なこと言ったなら、ごめん」

 

「謝るな」

 

「でも」

 

「あなたは正常ではなかった。だから正式な責任追及はしないわ」

 

「うん」

 

「ただし」

 

「うん」

 

「ワタシの尊厳は傷ついた」

 

「尊厳」

 

「怒ることもできず、言葉で封殺することもできず、許しを請う羽目になったのよ」

 

「……ごめん」

 

「謝るなと言っているでしょう!」

 

 金田君は少し困った顔をした。

 

 そして言った。

 

「じゃあ、ありがとう」

 

「それも昨日言ったわ」

 

「覚えてる」

 

「忘れなさい」

 

「忘れたくない」

 

「忘れなさい!」

 

 机がみし、と鳴った。

 

 佐伯さんが小声で言う。

 

「妃花ちゃん、机」

 

 ワタシは手を離した。

 

 危ない。

 

 金田君は、机ではなくワタシの手を見る。

 

「手、痛くない?」

 

「その確認をするな! 昨日の続きになるでしょう!」

 

「昨日も見た?」

 

「見たわよ!」

 

「好きって言った?」

 

「言ったわよ!」

 

 教室が爆発した。

 

 男子が何人か立ち上がった。

 

 女子が佐伯さんの周りに集まった。

 

 山岸君が「うおおお」と謎の声を出した。

 

 ワタシは、遅れて自分の発言に気づいた。

 

 終わった。

 

 完全に終わった。

 

「妃花ちゃん」

 

 佐伯さんが震える声で言った。

 

「金田君、妃花ちゃんの手が好きなの?」

 

「違うわ!」

 

 違わない。

 

 だが違う。

 

 そういう問題ではない。

 

「金田君」

 

 ワタシは金田君の袖を掴んだ。

 

「来なさい」

 

「うん」

 

「反省会よ」

 

「今?」

 

「今!」

 

「ホームルーム始まる」

 

「廊下で三分!」

 

 ワタシは金田君を廊下へ連れ出した。

 

 教室の中が騒がしい。

 

 どうせ佐伯さんが情報整理を始めている。

 

 後で釘を刺さなければ。

 

 廊下の端。

 

 ワタシは金田君に向き直った。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「昨日の件は、事故です」

 

「うん」

 

「あなたに全面的な非があるわけではありません」

 

「うん」

 

「ただし、今後、洋酒入り菓子を確認せずに食べることは禁止」

 

「うん」

 

「体質的に弱い可能性があるため、成人後も注意」

 

「うん」

 

「そして昨日の発言は、原則無効」

 

「……うん」

 

 少しだけ、金田君の声が落ちた。

 

 ワタシは眉を寄せた。

 

「何よ」

 

「無効」

 

「当然でしょう。正常判断能力が」

 

「全部?」

 

「……」

 

 全部。

 

 全部無効。

 

 そう言うつもりだった。

 

 でも。

 

 正気でも同じ。

 

 昨日、金田君はそう言った。

 

 好きなのは、正気でも同じ。

 

 正気に戻ってから、もう一回言いなさい。

 

 ワタシは、そう返した。

 

 あれは。

 

 あれは、有効なのか。

 

 無効なのか。

 

 ワタシは腕を組んだ。

 

「一部、保留」

 

「保留」

 

「再確認が必要」

 

「何を?」

 

「……」

 

 言えるか。

 

 言えるわけがない。

 

 廊下で。

 

 朝から。

 

 クラスメイトが聞き耳を立てている可能性がある状況で。

 

 しかし金田君は、静かにこちらを見ている。

 

 昨日の酔った顔ではない。

 

 いつもの、言葉を待つ顔。

 

 腹立つ。

 

「昨日」

 

 ワタシは小さく言った。

 

「あなたは、好きなのは正気でも同じ、と言いました」

 

「うん」

 

「ワタシは、正気に戻ってからもう一回言いなさい、と言いました」

 

「うん」

 

「……覚えているのね」

 

「覚えてる」

 

「では」

 

 喉が詰まった。

 

 心臓がうるさい。

 

 屈辱の一日が、まだ続いている。

 

「再確認を」

 

「妃花」

 

「な、何よ」

 

「好き」

 

 廊下の空気が止まった。

 

 ワタシも止まった。

 

 金田君は、昨日と同じように静かな顔で。

 

 でも、今日は完全に正気で。

 

「昨日も言ったけど、正気でも同じ」

 

「……」

 

「妃花が好き」

 

 ワタシは、壁に手をついた。

 

 壁が、みし、と鳴った。

 

 金田君がすぐに言った。

 

「妃花、壁」

 

「今それを言うな!」

 

「手、痛くない?」

 

「言うな!」

 

「うん」

 

 ワタシは顔を伏せた。

 

 終わりだ。

 

 屈辱の一日は、まだ終わっていなかった。

 

 むしろ翌日に追撃が来た。

 

 正気の金田君による、再確認。

 

 逃げ場なし。

 

 契約上、有効。

 

「……金田君」

 

「うん」

 

「今の発言は」

 

「うん」

 

「有効です」

 

「うん」

 

「ただし」

 

「うん」

 

「処理に時間がかかります」

 

「わかった」

 

「昼休みまで待ちなさい」

 

「うん」

 

「あと、教室では言うな」

 

「うん」

 

「佐伯さんに聞かれたら終わる」

 

 その瞬間、教室の扉の隙間がわずかに動いた。

 

 ワタシは振り返った。

 

 扉の向こうに、人影。

 

「佐伯さん」

 

 無言。

 

「山岸君」

 

 無言。

 

「聞いていたわね」

 

 扉の向こうから、山岸君の声がした。

 

「聞いてません」

 

「嘘が下手」

 

 佐伯さんの声。

 

「妃花ちゃん、おめでとう」

 

「出てきなさい。反省会よ」

 

「やだー!」

 

 教室の中が騒がしくなった。

 

 ワタシは顔を覆った。

 

 屈辱。

 

 本当に屈辱。

 

 だが、金田君は隣にいる。

 

 少し困った顔で。

 

 でも、逃げない顔で。

 

「妃花」

 

「何」

 

「昼休みまで待つ」

 

「……よろしい」

 

「返事も?」

 

「返事?」

 

「俺が好きって言ったから」

 

「っ」

 

 ワタシは膝から崩れかけた。

 

 金田君が支えようと手を出す。

 

 ワタシはその手を掴んだ。

 

 掴んで、どうにか立った。

 

「金田君」

 

「うん」

 

「今日のあなたは、昨日より危険よ」

 

「そう?」

 

「そうよ」

 

「でも正気」

 

「そこが危険なの!」

 

 チャイムが鳴った。

 

 ホームルームが始まる。

 

 ワタシは深呼吸した。

 

 金田君の手を離す。

 

 いや、離せない。

 

 少しだけ握ったまま、言った。

 

「昼休み」

 

「うん」

 

「屋上前の階段」

 

「うん」

 

「誰にも聞かれないところ」

 

「うん」

 

「そこで、返事をします」

 

「わかった」

 

「ただし、期待しすぎないこと」

 

「うん」

 

「あと、昨日の発言を全部思い出そうとしないこと」

 

「少し思い出してる」

 

「忘れなさい!」

 

「忘れたくない」

 

「忘れなさい!」

 

 教室の中から、佐伯さんたちの笑い声が聞こえた。

 

 ワタシは扉を開けた。

 

 全員が一斉に前を向く。

 

 白々しい。

 

 非常に白々しい。

 

 ワタシは席に戻りながら思った。

 

 今日は、屈辱の一日だ。

 

 怒れない。

 

 逃げられない。

 

 許しを請うたことを覚えられている。

 

 好きと言われた。

 

 正気でも同じだと言われた。

 

 しかも昼休み、返事をしなければならない。

 

 屈辱。

 

 でも。

 

 ワタシは席に座り、前を向いた。

 

 頬が熱い。

 

 心臓がうるさい。

 

 金田君が後ろの席で静かにしている気配がする。

 

 昨日、酔った金田君は言った。

 

 妃花が近いと嬉しい。

 

 妃花の声も好き。

 

 怒ってる妃花も好き。

 

 そばにいてくれてありがとう。

 

 そして。

 

 好き。

 

 正気の金田君も、今朝言った。

 

 好き。

 

 妃花が好き。

 

「……ほんと」

 

 ワタシは小さく呟いた。

 

「屈辱だわ」

 

 佐伯さんが、前の席からそっとメモを回してきた。

 

『顔、めちゃくちゃ嬉しそう』

 

 ワタシはそのメモを握り潰しかけた。

 

 寸前で止めた。

 

 そして、裏に書いて返した。

 

『昼休み後、反省会』

 

 佐伯さんはそれを見て、小さく震えていた。

 

 笑っている。

 

 まったく。

 

 今日は本当に、屈辱の一日である。

 

 だけど昼休み。

 

 屋上前の階段で。

 

 ワタシはたぶん、金田君にこう言う。

 

 ワタシも、と。

 

 ただし、一回だけ。

 

 小声で。

 

 契約上、必要だから。

 

 夫婦なので。

 

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