それは、事故だった。
本当に事故だった。
故意ではない。
悪意もない。
誰も、金田君をどうにかしようと思っていたわけではない。
ただ、金田君のお母様が知人からもらったチョコレートの箱を、居間のテーブルに置いていた。
ただ、その箱が妙に上品で、普通の高級チョコレートに見えた。
ただ、金田君が帰宅後、少し疲れていて、何も考えずにひとつ口に入れた。
ただ、それがウイスキーボンボンだった。
ただ、金田君はアルコールに非常に弱かった。
それだけの話である。
それだけの話なのに。
「妃花」
「……なによ」
「好き」
ワタシは、死にかけていた。
*
その日、ワタシは金田家に来ていた。
名目は宿題。
実態は、おうちデートである。
さらに細かく言えば、先日の風邪看病に関する契約更新と、金田君の病み上がり体力の経過観察と、甘めの卵焼き再提供の打ち合わせを兼ねた、非常に健全で正当な訪問だった。
金田君のお母様は、いつものようににこにこしていた。
「妃花ちゃん、いらっしゃい」
「お邪魔します」
「金田、部屋にいるわよ。あ、チョコ食べる?」
「ありがとうございます」
ワタシはテーブルの上の箱を見た。
上品な箱。
金色の文字。
外国製っぽい包装。
その横で、金田君がひとつ食べていた。
……食べていた。
「金田君?」
「うん」
「それ、何?」
「チョコ」
「中身は?」
「……」
金田君は、少しだけ首を傾げた。
その顔が、いつもよりぼんやりしていた。
「中、なんか入ってた」
ワタシは箱を手に取った。
裏を見る。
小さな文字。
洋酒入り。
アルコール分。
ワタシは固まった。
「金田君」
「うん」
「それ、何個食べたの」
「一個」
「本当に?」
「うん」
「飲み込んだ?」
「うん」
「気分は?」
「ふつう」
「顔が少し赤いわ」
「そう?」
金田君のお母様が、箱を見て「あっ」と声を上げた。
「ごめんなさい! それ、洋酒入りだったのね。あんた、もう食べちゃった?」
「うん」
「大丈夫? 気持ち悪くない?」
「大丈夫」
金田君はそう言った。
普段通りの、落ち着いた声で。
でも、ワタシにはわかった。
大丈夫ではない。
目が少し潤んでいる。
頬が赤い。
動きが遅い。
そして何より。
ワタシを見ている時間が、いつもより長い。
「妃花」
「な、なによ」
「今日、リボン違う」
「ええ」
「似合ってる」
「……ありがとう」
「かわいい」
「っ」
ワタシは後ずさった。
危険。
非常に危険。
いつもの金田君もたまに刺してくるが、今日の刺し方は違う。
普段なら一撃ずつ間合いを測ってくる。
今日は違う。
無差別。
無防備。
ノーガード。
クールな顔のまま、弾幕のように好意を撃ってくる。
まずい。
「金田君のお母様」
「妃花ちゃん?」
「金田君を座らせます。水分を取らせます。様子を見ます。今日はチョコレート禁止です」
「お願いしていい?」
「もちろんです」
ワタシは金田君の前に立った。
「金田君」
「うん」
「座りなさい」
「妃花が言うなら」
「っ」
やめなさい。
病み上がりでもないくせに、妙な素直さを出すな。
金田君はソファに座った。
ワタシは少し離れて座ろうとした。
すると、金田君が言った。
「遠い」
「遠くないわ」
「遠い」
「近いと危険なの」
「なんで?」
「あなたが」
「俺?」
「主にワタシが」
意味がわからなかったのか、金田君は少しだけ首を傾げた。
そして、真顔で言った。
「妃花が近いと嬉しい」
ワタシは膝から崩れかけた。
屈辱だった。
非常に屈辱だった。
いつもなら怒れる。
急に何を言っているの、馬鹿じゃないの、そういうことを軽々しく言うな、反省会よ。
いくらでも言える。
だが、今日は言えない。
相手は軽く酔っている。
本人の意思が完全ではない。
ここで怒鳴れば、ワタシが病人に怒鳴ったようなものだ。
いや、病人ではない。
しかし正常ではない。
つまり、ワタシが大人にならなければならない。
屈辱。
圧倒的屈辱。
「金田君」
「うん」
「まず水を飲みなさい」
「うん」
ワタシはコップに水を注いだ。
金田君に渡す。
金田君は受け取る時、ワタシの指を見た。
「手、赤くない」
「ええ」
「よかった」
「……」
「妃花の手、好き」
ワタシはコップを落としかけた。
金田君のお母様が、台所の方で小さく「あらまあ」と言った。
あらまあ、ではない。
危機である。
「金田君」
「うん」
「飲みなさい」
「うん」
「喋らない」
「妃花の声も好き」
「飲め!」
金田君は水を飲んだ。
素直。
非常に素直。
普段も素直ではあるが、今日は変な方向に素直すぎる。
「気持ち悪くない?」
「ない」
「頭痛は?」
「ない」
「眠気は?」
「少し」
「なら横になりなさい」
「妃花も?」
「ならない!」
「そっか」
金田君は少し残念そうにした。
やめなさい。
その顔をするな。
ワタシは怒れない。
本当に怒れない。
怒れないから、心臓だけが一方的に殴られている。
こんな一方的な戦いがあるか。
不公平。
契約違反。
「金田君のお母様」
「はいはい」
「これは、しばらく休ませた方が」
「そうねえ。でも一個だけだから、少ししたら落ち着くと思うけど」
「ではワタシが様子を」
「お願いね」
お母様は、明らかに面白がっていた。
大人というものは時に残酷である。
*
金田君の部屋。
ワタシは扉を開け、部屋の空気を入れ替えた。
金田君をベッドに座らせる。
自分はローテーブルの前に座る。
距離を取る。
適切な距離。
看病の時に学んだ距離。
しかし金田君は、ベッドに座ったまま言った。
「妃花、遠い」
「これが適正距離よ」
「手、届かない」
「届かなくていいの」
「手、繋ぎたい」
「っ」
ワタシは深呼吸した。
鼻から吸う。
口から吐く。
握力を抜く。
机を壊さない。
今日は相手が悪いのではない。
ウイスキーボンボンが悪い。
いや、確認せずに食べた金田君も少し悪い。
でも責めるほどではない。
屈辱。
「金田君」
「うん」
「あなたは今、軽く正常判断能力を欠いている可能性があります」
「うん」
「よって、今の発言は正式な契約事項としては扱いません」
「うん」
「ただし、記録はします」
「記録?」
「回復後の反省会で確認します」
「反省会」
「そうよ」
「妃花と話せるなら、いい」
「やめなさい」
「何を?」
「全部よ!」
金田君は、真面目な顔だった。
酔っているのに、表情だけはいつも通り。
そこが本当に厄介だった。
へらへらしていれば怒れたかもしれない。
だらしなく笑っていれば、もう少し引けたかもしれない。
でも金田君は、いつもの静かな顔で、淡々と言う。
「妃花、今日もかわいい」
「それはさっき聞いたわ」
「何回でも言える」
「言わなくていい!」
「言いたい」
「言わなくていい!」
「好きだから」
「っ!」
ワタシはローテーブルに額を打ちつけそうになった。
耐えた。
偉い。
だが限界は近い。
「金田君」
「うん」
「水」
「飲んだ」
「もう一口」
「うん」
水を飲ませる。
それしかできない。
好意の弾幕に対する唯一の防御が、水分補給。
あまりにも弱い。
「妃花」
「なによ」
「怒ってる?」
「怒ってないわ」
「よかった」
「怒れないのよ!」
「なんで?」
「あなたが酔っているから!」
「酔ってない」
「酔っている人は大体そう言うの!」
「妃花」
「何よ」
「怒ってる妃花も好き」
「許して」
口から出た。
自然に出た。
ワタシは自分で驚いた。
許して?
ワタシが?
金田君に?
屈辱。
あまりにも屈辱。
しかし、言わずにはいられなかった。
「お願いだから、今日はもう少し黙って」
「妃花がお願いしてる」
「そうよ! 屈辱よ!」
「かわいい」
「だから!」
ワタシは両手で顔を覆った。
だめだ。
終わりだ。
この男、止まらない。
しかも悪意がない。
からかっているわけでもない。
普段なら言葉になる前に飲み込んでいるものが、全部そのまま出てきている。
クールに見えるのは外側だけ。
中身が、だだ漏れ。
「妃花」
「……何」
「顔、見たい」
「無理」
「なんで?」
「死ぬから」
「俺が?」
「ワタシが!」
金田君は、少し考えた。
「死なないで」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺?」
「そうよ」
「ごめん」
「謝るな。今のあなたに謝られると、さらに何も言えない」
「じゃあ、ありがとう」
「何に?」
「そばにいてくれて」
「っ」
ワタシは顔を覆ったまま固まった。
許して。
本当に許して。
ワタシは金田君の看病や介護なら正論で封殺できる。
水を飲みなさい。
寝なさい。
無理しない。
移るから来るなは不合理な遠慮。
そういう戦いなら勝てる。
だが、これは無理だ。
好き。
かわいい。
そばにいて嬉しい。
声が好き。
手が好き。
怒ってる妃花も好き。
何これ。
拷問?
いや、幸福?
違う。
屈辱。
幸福に屈服させられる屈辱。
「金田君」
「うん」
「あなた、普段どれだけ飲み込んでいるの」
「何を?」
「そういうのよ」
「言ったら妃花、怒る」
「怒るわよ」
「でも嬉しい?」
「……」
「嬉しい?」
酔っているくせに。
そこだけ鋭い。
ワタシは顔を覆ったまま、小さく言った。
「……少し」
「そっか」
「少しよ」
「うん」
「かなりじゃないわ」
「うん」
「……かなりかもしれないけど」
「そっか」
「返事をするな!」
金田君はベッドの上で、静かに笑った。
いつもの小さな笑い方。
だが今日は、そこに遠慮がない。
「妃花」
「何よ」
「こっち来て」
「無理」
「なんで?」
「近づいたらワタシが負ける」
「勝負?」
「勝負よ」
「妃花が勝ってる」
「どこが!?」
「来てくれたから」
「それは……」
「妃花、いつも来てくれる」
「……」
「本家に帰っても、最後は戻ってくる」
「あなたが迎えに来るからでしょう」
「うん」
「そこはあなたの功績よ」
「でも、妃花が戻ってくれる」
「……」
「それが好き」
「金田君」
「うん」
「本当に寝ましょう」
「寝る」
「今すぐ」
「妃花が近くに来たら」
「人質交渉みたいなことをしない」
「近く」
「だめ」
「少し」
「だめ」
「手だけ」
「……」
手だけ。
手だけなら。
いや、危険。
非常に危険。
だが、金田君はベッドに座って、ぼんやりこちらを見ている。
顔が赤い。
目が眠そう。
声も少し柔らかい。
ここで突っぱねすぎるのも、病人ではないが弱っている相手に対して冷たいのでは?
いや、これは酔っぱらいだ。
しかし未成年の事故的摂取であり、責めるのは違う。
倫理。
契約。
看護。
恋愛。
全部が脳内でレスバを始めた。
結果。
ワタシは負けた。
「……手だけよ」
「うん」
「それ以上はなし」
「うん」
「握力が上がったら言いなさい」
「うん」
「あと、変なこと言ったら離すわ」
「好き」
「最初から変なこと言うな!」
それでも、ワタシはベッドの横に座った。
距離は保つ。
金田君が手を出す。
ワタシは、おそるおそるその手を握った。
いつもの手。
机のひびを直す手。
ココアを淹れる手。
ワタシのリボンを縫う手。
熱の時にワタシを遠ざけようとした手。
今日は少し温かい。
「……熱はなさそうね」
「妃花の手、冷たい」
「あなたが熱いのよ」
「冷たくて気持ちいい」
「……そう」
「好き」
「手の話?」
「妃花」
「やめなさい」
「やめる?」
「……」
やめてほしい。
やめてほしいが。
少しだけ、やめてほしくない。
ワタシは最低だ。
相手が正常ではないのに。
でも、金田君の言葉は嬉しい。
聞きたい。
聞きたくない。
聞いたら死ぬ。
聞かないと惜しい。
屈辱。
「金田君」
「うん」
「今日は、記録しないことにしてあげる」
「なんで?」
「あなたが不利だから」
「不利?」
「正気に戻った時、あなたが死ぬ」
「妃花が死ぬんじゃなかった?」
「二人とも死ぬわ」
「じゃあ、記録しない」
「ええ」
「でも」
「何」
「好きなのは、正気でも同じ」
ワタシは手を離そうとした。
金田君が、ほんの少しだけ握った。
強くはない。
逃げられる。
でも、逃げなかった。
「……金田君」
「うん」
「今のは、卑怯よ」
「そう?」
「そうよ」
「ごめん」
「謝らないで」
「うん」
「……正気に戻ってから、もう一回言いなさい」
金田君は、目を細めた。
「うん」
言質を取った。
いや、今日の発言は無効にすると言ったばかりでは?
でも今のは別。
契約上、重要。
屈辱だが、重要。
*
しばらくして、金田君は眠くなってきた。
アルコールの影響か、疲れか、単純に安心したのか。
ワタシの手を握ったまま、まぶたが落ちかけている。
「寝なさい」
「うん」
「手は離すわ」
「やだ」
「子供みたいなことを言わない」
「妃花、いる?」
「しばらくはいるわ」
「帰る?」
「あなたが寝て、様子を見てから」
「そっか」
「だから寝なさい」
「妃花」
「何」
「好き」
「寝ろ」
「うん」
金田君はようやく目を閉じた。
しばらくして、呼吸が穏やかになる。
眠った。
ワタシは動けなかった。
手を握られているから、ではない。
力は弱い。
抜こうと思えば抜ける。
でも、抜けなかった。
あれだけ好き好き言われて。
怒ることもできず。
許しを請い。
手を握られ。
寝顔を見守る。
屈辱。
屈辱だ。
なのに、胸の奥が温かい。
ワタシは空いた手で、自分の顔を覆った。
「……ほんと、なんなのよ」
小さく呟く。
寝ている金田君は答えない。
答えなくていい。
これ以上答えられたら、ワタシが本当に死ぬ。
十分ほどして、お母様がそっと様子を見に来た。
扉の隙間からこちらを見て、にこりと笑う。
「寝た?」
「はい」
「ありがとう、妃花ちゃん」
「いえ」
「大丈夫だった?」
ワタシは、少し考えた。
「ワタシが大丈夫ではありません」
「まあ」
「金田君は、たぶん大丈夫です」
「そう」
お母様は笑いを堪えている。
大人は残酷だ。
「チョコは片付けておくわね」
「お願いします。今後、洋酒入りは明示してください」
「本当にごめんなさいね」
「事故ですので」
「金田、何か変なこと言った?」
ワタシは沈黙した。
お母様の目が輝いた。
「言ったのね」
「守秘義務があります」
「妃花ちゃん、顔が真っ赤よ」
「室温です」
「そうねえ」
絶対に信じていない。
ワタシは視線を逸らした。
金田君の手は、まだワタシの手を握っている。
お母様はそれを見て、声を潜めた。
「妃花ちゃん」
「はい」
「嫌だったら離していいのよ」
「……嫌ではありません」
「そう」
「屈辱ではあります」
「そう」
「非常に屈辱です」
「ふふ」
お母様はそれ以上何も言わず、扉を閉めた。
やめて。
笑わないで。
これは笑い事ではない。
ワタシの尊厳に関わる大事件である。
*
翌日。
学校。
金田君は登校してきた。
顔色は普通。
目も普通。
声も普通。
完全に正気。
つまり、地獄の始まりである。
ワタシは朝から不機嫌だった。
いや、機嫌は悪くない。
むしろ少し良い。
でも、非常に複雑だった。
屈辱がまだ残っている。
佐伯さんが近づいてきた。
「妃花ちゃん」
「なに」
「昨日、金田君の家行ったんでしょ?」
「ええ」
「なんかあった?」
「ないわ」
「即答が怪しい」
「何もないわ」
そこへ金田君が来た。
「おはよう、妃花」
「おはよう」
「昨日、ありがとう」
教室が少し静かになった。
佐伯さんの目が光る。
山岸君もこちらを見る。
やめなさい。
見世物ではない。
「記憶は?」
ワタシは低い声で聞いた。
金田君は少し考えた。
「チョコ食べた」
「その後」
「水飲んだ」
「その後」
「妃花が部屋にいた」
「その後」
「手、繋いだ」
「その後」
「寝た」
ワタシは目を細めた。
「発言は?」
「……少し覚えてる」
終わった。
ワタシは机に手を置いた。
まずい。
力を抜け。
机は悪くない。
学校備品。
「どこまで」
「妃花が、許してって言った」
「忘れなさい」
「うん」
「今すぐ」
「でも、珍しかった」
「忘れなさい!」
周囲がざわついた。
佐伯さんが口元を押さえている。
山岸君が「金田、何したんだよ」と呟いた。
金田君は真面目な顔で言った。
「ウイスキーボンボン食べた」
「事故物件かよ」
「山岸君」
ワタシは言った。
「この件は機密です」
「はい」
「情報漏洩は契約違反です」
「俺、契約してないんだけど」
「今しました」
「横暴!」
金田君が、ワタシを見る。
その顔は、昨日と違う。
いつもの金田君。
でも、少しだけ気まずそう。
「妃花」
「なに」
「変なこと言ったなら、ごめん」
「謝るな」
「でも」
「あなたは正常ではなかった。だから正式な責任追及はしないわ」
「うん」
「ただし」
「うん」
「ワタシの尊厳は傷ついた」
「尊厳」
「怒ることもできず、言葉で封殺することもできず、許しを請う羽目になったのよ」
「……ごめん」
「謝るなと言っているでしょう!」
金田君は少し困った顔をした。
そして言った。
「じゃあ、ありがとう」
「それも昨日言ったわ」
「覚えてる」
「忘れなさい」
「忘れたくない」
「忘れなさい!」
机がみし、と鳴った。
佐伯さんが小声で言う。
「妃花ちゃん、机」
ワタシは手を離した。
危ない。
金田君は、机ではなくワタシの手を見る。
「手、痛くない?」
「その確認をするな! 昨日の続きになるでしょう!」
「昨日も見た?」
「見たわよ!」
「好きって言った?」
「言ったわよ!」
教室が爆発した。
男子が何人か立ち上がった。
女子が佐伯さんの周りに集まった。
山岸君が「うおおお」と謎の声を出した。
ワタシは、遅れて自分の発言に気づいた。
終わった。
完全に終わった。
「妃花ちゃん」
佐伯さんが震える声で言った。
「金田君、妃花ちゃんの手が好きなの?」
「違うわ!」
違わない。
だが違う。
そういう問題ではない。
「金田君」
ワタシは金田君の袖を掴んだ。
「来なさい」
「うん」
「反省会よ」
「今?」
「今!」
「ホームルーム始まる」
「廊下で三分!」
ワタシは金田君を廊下へ連れ出した。
教室の中が騒がしい。
どうせ佐伯さんが情報整理を始めている。
後で釘を刺さなければ。
廊下の端。
ワタシは金田君に向き直った。
「金田君」
「うん」
「昨日の件は、事故です」
「うん」
「あなたに全面的な非があるわけではありません」
「うん」
「ただし、今後、洋酒入り菓子を確認せずに食べることは禁止」
「うん」
「体質的に弱い可能性があるため、成人後も注意」
「うん」
「そして昨日の発言は、原則無効」
「……うん」
少しだけ、金田君の声が落ちた。
ワタシは眉を寄せた。
「何よ」
「無効」
「当然でしょう。正常判断能力が」
「全部?」
「……」
全部。
全部無効。
そう言うつもりだった。
でも。
正気でも同じ。
昨日、金田君はそう言った。
好きなのは、正気でも同じ。
正気に戻ってから、もう一回言いなさい。
ワタシは、そう返した。
あれは。
あれは、有効なのか。
無効なのか。
ワタシは腕を組んだ。
「一部、保留」
「保留」
「再確認が必要」
「何を?」
「……」
言えるか。
言えるわけがない。
廊下で。
朝から。
クラスメイトが聞き耳を立てている可能性がある状況で。
しかし金田君は、静かにこちらを見ている。
昨日の酔った顔ではない。
いつもの、言葉を待つ顔。
腹立つ。
「昨日」
ワタシは小さく言った。
「あなたは、好きなのは正気でも同じ、と言いました」
「うん」
「ワタシは、正気に戻ってからもう一回言いなさい、と言いました」
「うん」
「……覚えているのね」
「覚えてる」
「では」
喉が詰まった。
心臓がうるさい。
屈辱の一日が、まだ続いている。
「再確認を」
「妃花」
「な、何よ」
「好き」
廊下の空気が止まった。
ワタシも止まった。
金田君は、昨日と同じように静かな顔で。
でも、今日は完全に正気で。
「昨日も言ったけど、正気でも同じ」
「……」
「妃花が好き」
ワタシは、壁に手をついた。
壁が、みし、と鳴った。
金田君がすぐに言った。
「妃花、壁」
「今それを言うな!」
「手、痛くない?」
「言うな!」
「うん」
ワタシは顔を伏せた。
終わりだ。
屈辱の一日は、まだ終わっていなかった。
むしろ翌日に追撃が来た。
正気の金田君による、再確認。
逃げ場なし。
契約上、有効。
「……金田君」
「うん」
「今の発言は」
「うん」
「有効です」
「うん」
「ただし」
「うん」
「処理に時間がかかります」
「わかった」
「昼休みまで待ちなさい」
「うん」
「あと、教室では言うな」
「うん」
「佐伯さんに聞かれたら終わる」
その瞬間、教室の扉の隙間がわずかに動いた。
ワタシは振り返った。
扉の向こうに、人影。
「佐伯さん」
無言。
「山岸君」
無言。
「聞いていたわね」
扉の向こうから、山岸君の声がした。
「聞いてません」
「嘘が下手」
佐伯さんの声。
「妃花ちゃん、おめでとう」
「出てきなさい。反省会よ」
「やだー!」
教室の中が騒がしくなった。
ワタシは顔を覆った。
屈辱。
本当に屈辱。
だが、金田君は隣にいる。
少し困った顔で。
でも、逃げない顔で。
「妃花」
「何」
「昼休みまで待つ」
「……よろしい」
「返事も?」
「返事?」
「俺が好きって言ったから」
「っ」
ワタシは膝から崩れかけた。
金田君が支えようと手を出す。
ワタシはその手を掴んだ。
掴んで、どうにか立った。
「金田君」
「うん」
「今日のあなたは、昨日より危険よ」
「そう?」
「そうよ」
「でも正気」
「そこが危険なの!」
チャイムが鳴った。
ホームルームが始まる。
ワタシは深呼吸した。
金田君の手を離す。
いや、離せない。
少しだけ握ったまま、言った。
「昼休み」
「うん」
「屋上前の階段」
「うん」
「誰にも聞かれないところ」
「うん」
「そこで、返事をします」
「わかった」
「ただし、期待しすぎないこと」
「うん」
「あと、昨日の発言を全部思い出そうとしないこと」
「少し思い出してる」
「忘れなさい!」
「忘れたくない」
「忘れなさい!」
教室の中から、佐伯さんたちの笑い声が聞こえた。
ワタシは扉を開けた。
全員が一斉に前を向く。
白々しい。
非常に白々しい。
ワタシは席に戻りながら思った。
今日は、屈辱の一日だ。
怒れない。
逃げられない。
許しを請うたことを覚えられている。
好きと言われた。
正気でも同じだと言われた。
しかも昼休み、返事をしなければならない。
屈辱。
でも。
ワタシは席に座り、前を向いた。
頬が熱い。
心臓がうるさい。
金田君が後ろの席で静かにしている気配がする。
昨日、酔った金田君は言った。
妃花が近いと嬉しい。
妃花の声も好き。
怒ってる妃花も好き。
そばにいてくれてありがとう。
そして。
好き。
正気の金田君も、今朝言った。
好き。
妃花が好き。
「……ほんと」
ワタシは小さく呟いた。
「屈辱だわ」
佐伯さんが、前の席からそっとメモを回してきた。
『顔、めちゃくちゃ嬉しそう』
ワタシはそのメモを握り潰しかけた。
寸前で止めた。
そして、裏に書いて返した。
『昼休み後、反省会』
佐伯さんはそれを見て、小さく震えていた。
笑っている。
まったく。
今日は本当に、屈辱の一日である。
だけど昼休み。
屋上前の階段で。
ワタシはたぶん、金田君にこう言う。
ワタシも、と。
ただし、一回だけ。
小声で。
契約上、必要だから。
夫婦なので。