### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 1. 聖杯戦争以前の日常
冬木市の港にほど近い、潮の香りが微かに漂う閑静な裏通り。
古びたレンガ造りの建物の1階に、その小さな店舗はひっそりと店を構えている。
真鍮製のドアノブに下げられたプレートには『アンティーク・マリン』という控えめな文字。そこが、宝鐘マリンの居城であり、職場であり、生活の全てだった。
カチ、コチ、と規則正しい複数の時計の音が、静寂な空間に溶け込んでいる。
店内には、ヴィクトリア朝のティーカップ、くすんだ銀の懐中時計、ステンドグラスのランプシェードなどが所狭しと、しかし完璧な計算と秩序をもって陳列されていた。チリ一つ落ちていない磨き上げられたフローリングに、夕暮れの陽光が差し込んでいる。
「ふぅ……こんなもんかな」
カウンターの奥で、マリンはふきんを下ろし、小さく伸びをした。
栗色の艶やかな髪を無造作に後ろで束ね、ラフだがシルエットの綺麗なワインレッドのニットに、黒のスキニーパンツという出で立ち。25歳という年齢相応の、落ち着いた大人の女性の魅力と、どこか隙のある柔らかい雰囲気を併せ持っている。
彼女は極度の綺麗好きだった。
アンティークという「古いもの」を扱う手前、ホコリや汚れは天敵だという仕事上の理由もあるが、根本的に整頓された空間にいないと落ち着かないのだ。
ふと、カウンターの上に広げたスケッチブックに目を落とす。
そこには、赤と黒を基調とし、フリルをふんだんにあしらった『海賊』をモチーフにした衣装のデザイン画が描かれていた。
マリンの密かな趣味。それはアニメや漫画、そして「コスプレ」である。イベントに行くのはもちろん、自分で納得のいく衣装をデザインし、特注で作るのが何よりの楽しみだった。この海賊衣装は、今の彼女が一番熱を入れているオリジナルデザインだ。
「よし、このフリルの造形は完璧。あとは生地選びだねぇ……」
満足げに頷いたその時。
——きゅるるるる。
静かな店内に、全く似つかわしくない間の抜けた音が響き渡った。マリンのお腹の虫である。
壁掛け時計を見上げれば、時刻はすでに午後7時を回っていた。
「あー……お腹減った。今日のご飯、どうしようかなぁ」
綺麗好きで、整理整頓が得意で、仕事にも真面目。しかし、マリンには決定的な弱点があった。
『料理』である。
正確に言えば、作れないわけではない。「面倒くさい」のだ。食材を切り、火を通し、味付けをし、何より後片付けをする。その一連の工程を想像するだけで、彼女の体力は急激にレッドゾーンへと突入してしまう。
マリンは居住スペースである奥の部屋へ向かい、ピカピカに磨かれたシステムキッチンの棚を開けた。
そこには、綺麗に整列した数十個のカップ麺。
「今日はシーフードの気分だね」
一切の迷いなくカップ麺を手に取り、電気ケトルのスイッチを入れたその瞬間だった。
**カランカランカランカラン!!**
「たのもーーーっ!! マリン、生きてるーー!?」
ドアベルが引きちぎれんばかりの勢いで鳴り響き、店の扉が勢いよく開け放たれた。
ドタドタという遠慮のない足音と共に居住スペースまで上がり込んできたのは、トラ柄のTシャツを着たショートヘアの女性——藤村大河だった。
「ちょっと大河! ドア壊れる! アンティークなんだから優しく扱ってよ!」
「あはは、ごめんごめん! でもそれどころじゃないわよマリン! あんた、またそんな体に悪いもん食べようとしてるでしょ!」
大河はマリンの手にあるシーフード味のカップ麺を指さし、鬼の首を取ったように叫んだ。高校時代からの親友であり悪友である大河には、マリンの怠惰な食生活などお見通しだった。
「い、いいじゃない! 栄養は……サプリメントとかで補ってるし!」
「ダメダメ! 肌荒れするわよ! だから今日は、強力な助っ人を連れてきたわ!」
大河が背後を振り返ると、店の入り口から「お邪魔します」と申し訳なさそうな声が聞こえた。
両手にスーパーのレジ袋を提げた赤毛の少年——衛宮士郎が、苦笑いを浮かべて立っていた。
「士郎君!」
「こんばんは、マリンさん。藤ねえが、どうしてもマリンさんの食生活を救済しなきゃダメだって言うから……押し掛けちゃってすみません」
「ううん、全然! むしろ大歓迎! 士郎君、神!」
マリンの瞳がパッと輝く。
大河繋がりで数年前から知り合っているこの高校生は、マリンにとって「可愛い弟分」であり、同時に「胃袋の救世主」でもあった。
「それじゃあ、早速作らせてもらいますね。台所、借ります」
「うんうん! 好きに使って! あ、エプロンそこにあるから!」
士郎は慣れた手つきでエプロンを身に着けると、レジ袋から手際よく食材を取り出し始めた。大根、豚肉、ネギ、そして新鮮なアジ。
あっという間に包丁のリズミカルな音が響き始め、出汁の良い香りが部屋中に漂い出す。
その鮮やかな手並みを、マリンはカウンターに肘をついてうっとりと眺めていた。
「はぁ〜……士郎君は本当にお母さんみたいだねぇ。お姉さん、士郎君がお嫁さんに欲しいよ」
「なっ……! マ、マリンさん、からかわないでくださいよ。俺は男ですよ」
士郎は包丁を持つ手を少し滑らせそうになりながら、耳まで真っ赤にして抗議する。
「あはは! 士郎、照れてる照れてるー!」と大河がゲラゲラ笑いながら冷蔵庫から勝手に麦茶を取り出して飲んでいる。
「からかってないよぉ。だってこんなに料理上手で、気が利いて、優しくて。将来絶対いい旦那さんになるよ。彼女とかいないの?」
「い、いませんよ! そんなことより、マリンさんも少しは自炊覚えた方がいいです。せっかくこんなに綺麗で立派なキッチンがあるのにもったいないですよ」
「うっ……それは、ほら、私はアンティークのお手入れで忙しいから……」
「はいはい。だから今日は、明日と明後日の分の作り置きも作っておきますからね。ちゃんと温めて食べてくださいよ」
呆れながらも、士郎の声には年上の女性に対する確かな気遣いと優しさが込められていた。
マリンはくすっと笑い、温かい視線を送る。
争い事が嫌いで、平穏を愛するマリンにとって、大河の騒がしさと士郎の家庭的な優しさが交差するこの時間は、何にも代えがたい宝物だった。
30分後。
ダイニングテーブルには、アジの南蛮漬け、豚肉と大根の煮物、ほうれん草の胡麻和え、そして豆腐とワカメの味噌汁が並んでいた。完璧な一汁三菜である。
「「「いただきまーす!」」」
三人で食卓を囲む。
「んんん〜〜っ! 美味しい!! 士郎君、この煮物、味がしみしみで最高!」
「よかった。大根は下茹でしてあるんで、味が入りやすいんですよ」
「むむむ、士郎のやつ、また腕を上げたわね! ご飯おかわり!」
「藤ねえ、まだ一口しか食べてないだろ……」
賑やかな夕食。
大河が学校での出来事を面白おかしく語り、マリンが相槌を打ち、士郎が呆れながらも補足を入れる。いつも通りの、平和な冬木の夜。
しかし、ふと大河が箸を止め、少し真面目な顔をした。
「そういえばさ、最近、冬木で物騒な事件が多くない? ガス漏れとか、強盗とか。夜歩いてると、なんか変な空気っていうか……」
「あー、ニュースでやってるね。物騒だよねぇ、ほんと嫌になっちゃう。痛いのも怖いのも、絶対ごめんだよ」
マリンは味噌汁を啜りながら同意する。
しかし、大河の言う『変な空気』という言葉に、マリンの心の中で小さな引っかかりが生まれた。
(……変な空気。確かに、最近この辺りの空気が、ピリピリしてるっていうか……)
マリンは無自覚であったが、彼女は極めて質の高い『魔術回路』と『霊媒体質』を持って生まれていた。
それは普段、アンティークの真贋を見抜いたり、古い物に宿る「持ち主の想い」を直感的に感じ取る『サイコメトリー』のような特技として発揮されていた。
最近の冬木の街に漂う、血と鉄と、濃密な魔力の匂い。魔術師ではない彼女にはそれが何かは分からない。ただ、本能的な防衛機能が「夜はあまり出歩かない方がいい」と警鐘を鳴らしているのを感じていた。
「マリンさん? どうかしましたか?」
「え? あ、ううん! なんでもないよ。士郎君も、夜遅く出歩いちゃダメだよ? 何かあったらお姉さん心配しちゃうからね」
「俺は大丈夫ですよ。それに、夜は鍛錬……いや、その、家の手伝いとかありますし」
士郎は少し言葉を濁したが、マリンは深く追及しなかった。
彼が毎夜、土蔵で奇妙な「ガラクタいじり(魔術の鍛錬)」をしていることは大河から聞いて知っていたからだ。男の子には男の子の趣味があるのだろう、と大人の余裕で受け止めている。
「ごちそうさまでした!」
「あー食った食った! 満腹!」
食事が終わり、士郎は流れるような動作で食器を洗い、タッパーに詰めた作り置きのおかずを冷蔵庫にしまっていく。
「マリンさん、冷蔵庫の一段目に煮物、二段目にサラダ入れておきましたから。賞味期限は明後日までです」
「はーい! ありがとう士郎君。気を付けて帰ってね。大河も、あんまり飲みすぎないようにね!」
「わかってるわよー! じゃあねマリン、また来るから!」
「お邪魔しました。おやすみなさい、マリンさん」
二人が帰り、店には再びカチ、コチという時計の音だけが残された。
さっきまでの喧騒が嘘のように、静かで、少しだけ寂しい空間。
マリンは丁寧に拭き上げられたカウンターに寄りかかり、窓の外を見た。
いつの間にか、雨が降り出していた。
冷たい雨粒が、ステンドグラスを濡らして滑り落ちていく。
「……明日は、お休みだし。たまには夜更かしして、衣装の布でも縫おうかな」
ふと、胸の奥がざわざわと波立った。
何かが起こるような、そんな予感。彼女の異常なまでに澄んだ直感が、運命の交差を告げていた。
しかし、ただの一般人であるマリンに、それがこれから始まる凄惨な殺し合い——『聖杯戦争』の幕開けを意味していることなど、知る由もなかった。
マリンは一つだけため息をつき、静かに戸締まりを確認するため、雨の降る裏口へと向かって歩き出した。
それが、傷ついた『魔女』との運命の出会いに繋がっているとは夢にも思わずに。