### 物語の中盤:『血と魔力の交差点、そして姉としての誓い』
#### 3. イリヤスフィールの強襲と「間違い」の誘拐
「さあ。残りのサーヴァントはキャスターだけ。……お兄ちゃん、今から私と、死ぬほど痛い『かくれんぼ』、しよっか?」
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの無邪気で残酷な笑い声が、夜風に吹き荒れる新都センタービルの屋上に響いた。
その背後にそびえ立つ、漆黒の岩山のような巨神——バーサーカー。
彼がただそこに「在る」というだけで、周囲の空間が重圧で軋み、呼吸をすることすら困難になる。神話の時代からそのまま抜け出してきたかのような、圧倒的で絶対的な『暴力』の具現。
「……っ、バケモノ……なんてデタラメな魔力と威圧感……っ」
遠坂凛が顔を引き攣らせ、両手に構えた宝石をギリッと握りしめる。
これまで彼女が相対してきたどのサーヴァントとも違う。知性も、英霊としての誇りすらも削ぎ落とされ、ただ破壊するためだけに最適化された狂戦士。
「メディア……っ!」
「マリン、私の背から絶対に離れないで!」
宝鐘マリンは、メディアのローブの裾を震える手で強く握りしめていた。
怖い。ランサーの時とは比べ物にならないほどの、純粋な『死』の気配が、黒い巨体から立ち昇っている。
メディアはマリンを庇うように両手を広げ、自身の魔力回路を極限まで駆動させていた。しかし、神代の魔女である彼女の直感すらも、目の前の怪物には『通常の魔術が一切通用しない』という絶望的な事実を告げていた。
「シロウ……お逃げ、ください……!」
魔力枯渇により地面に伏したままのセイバーが、かすれた声で士郎に訴える。
「バカ言うな! お前を置いて逃げられるか!」
士郎はセイバーの前に立ち塞がり、未熟な魔術回路を無理やり繋ぎ、鉄パイプを投影しようと試みる。だが、セイバーの宝具の余波と結界の毒に当てられた今の彼では、魔力の形成すらままならない。
イリヤスフィールは、必死に足掻こうとする士郎の姿を見て、ルビーのような瞳を昏く濁らせた。
「……ふふ。優しいお兄ちゃん。自分のサーヴァントを庇って、正義の味方のつもり?」
イリヤの声から、先程までの無邪気さが消え去り、底知れぬ憎悪と嫉妬が顔を覗かせる。
「キリツグはね、私とお母様を裏切って、お兄ちゃんを選んだの。アインツベルンの冷たい城に私を捨てて、自分だけ温かい家族ごっこをしてた。……だからね、私はお兄ちゃんが憎い。キリツグの代わりに、お兄ちゃんから全てを奪って、絶望させてから殺してあげる!」
イリヤが白く細い指を空へと向けた。
彼女の指先から、白鳥の形をした無数の魔力塊(シュトルヒリッター)が顕現し、鋭い刃となって士郎へと狙いを定める。
バーサーカーを動かすまでもない。魔術師としての格の違い。あの魔術の檻に捕らえられれば、士郎の四肢は容易く切り裂かれ、生きたままイリヤの玩具にされる。
「行けッ!!」
イリヤの号令と共に、光の刃が士郎めがけて殺到した。
「士郎——っ!!」
凛の叫びが響く。メディアが迎撃の魔術を放とうとするが、バーサーカーの牽制によるプレッシャーで初動が遅れる。
士郎自身も、迫り来る魔術の速度に反応しきれず、ただ目を剥いて固まるしかなかった。
その、刹那。
(——士郎君が、死ぬ!)
マリンの頭の中で、理性が完全に吹き飛んだ。
痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。争いごとなんて絶対にごめんだ。
そんな生来の気質を、たった一つの『大切な弟分を守らなければ』という姉としての絶対的な本能が凌駕した。
「……やだぁっ!!」
マリンは、自身を庇っていたメディアの背中から飛び出し、士郎の前にその身を投げ出した。
「マリンさんッ!?」
「マスタァァァァッ!!」
士郎とメディアの悲痛な絶叫が交差する。
イリヤの放った光の鳥が、マリンの身体を容赦なく捉えた——かに見えた。
**——カァァァァァァァァンッ!!!!**
「……え?」
イリヤスフィールが、思わず間の抜けた声を漏らした。
マリンの身体に白鳥の刃が突き刺さる直前。マリンの内部に眠る『異常なまでに高密度で純粋な魔力(オド)』が、生命の危機に呼応して無意識下で爆発的に膨張したのだ。
それは極上の魔力による、強固なオーラ。
イリヤの魔術はマリンの身体を傷つけることなく、その圧倒的な魔力の壁に衝突して弾け飛び、眩い光の粒子となって霧散してしまった。
「な、なに……!? 今の魔力、一体……!」
イリヤの赤い瞳が、驚愕に見開かれた。
アインツベルンの最高傑作であるホムンクルス、小聖杯としての機能を持つイリヤの極めて鋭敏な魔術センサーが、マリンの放つ魔力の特異性に強烈に反応した。
(この女……ただの人間じゃない! 魔術回路すら見えないのに、まるで冬木の霊脈そのものみたいな、底なしの魔力……! キャスターのマスター……いや、それ以上の何か……!?)
暗闇と混乱の中、イリヤの頭の中で致命的な『誤認』が発生した。
衛宮士郎を庇い、一切の躊躇いもなく自らの命を投げ出そうとしたこの女性。そして、常軌を逸した魔力量。
「……マリンさん! なんで、どうしてあんたはいつも……っ!」
士郎が、マリンの身体を抱きとめながら、涙声で叫んだ。
その姿を見たイリヤは、直感的に悟った(と思い込んだ)。
(……そうか。この女は、シロウにとって最も大切な身内。キリツグが残した、もう一つの遺産。シロウの『本当の家族』なんだわ!)
ならば、衛宮士郎を最も絶望させる方法は、一つしかない。
イリヤの口元に、再び残酷な笑みが浮かんだ。
「……予定変更。お兄ちゃんをここで殺すのは、なんだか勿体なくなっちゃった。それよりもっと、良いことを思いついたわ」
「な……何を企んでいる、イリヤスフィール……!」
凛が身構える。
「バーサーカー」
イリヤの冷たい声が、夜の屋上に響く。
「シロウを殺すのは後回し。——その女を、攫いなさい」
「——■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
狂戦士の咆哮が、大気をビリビリと震わせた。
次の瞬間、岩山のような巨体が、物理法則を無視した神速でマリンと士郎の眼前に迫っていた。
「させませんッ!! 『凍てつく空間(Παγωμένος)』!!」
メディアが血相を変え、バーサーカーの足元から空間そのものを凍結・破砕する大魔術を叩き込む。並のサーヴァントであれば四肢を粉砕される神代の絶技。
しかし。
バーサーカーは、凍りつく空間など存在しないかのように、何一つ傷を負うことなく、その魔術の壁をただ『歩いて』通り抜けた。
「魔術が、無効化された……!? なぜ、私の神言が!」
メディアが驚愕に目を見開く。
「無駄よ、キャスター。バーサーカーには、そんな中途半端な魔術は効かないわ」
イリヤが冷酷に笑う。
「士郎君、逃げ——!」
マリンが叫ぼうとした瞬間、バーサーカーの丸太のような巨大な腕が、マリンの細い腰を無造作に、しかしイリヤの「攫え」という命令に従い、殺さないようにギリギリの手加減をもって掴み上げた。
「きゃあぁぁぁぁぁっ!?」
「マリンさん!!」
宙に吊り上げられたマリン。
士郎が必死にバーサーカーの腕に飛びつこうとするが、巨神の腕が軽く払われただけで、士郎の身体はボールのように弾き飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられた。
「士郎君!!」
「マ……マリンッ!! ああ、あああああッ!! 離しなさい、その薄汚い手で、私のマリンに触れるなァァァァッ!!」
冷静沈着な『裏切りの魔女』の仮面が、完全に崩れ去った。
愛する主を目の前で奪われたメディアは、発狂したように魔力を暴走させ、空を覆い尽くすほどの魔法陣を無数に展開する。
その瞳からは、比喩ではなく血の涙が流れ落ちていた。
「——『降り注ぐ光の雨(Βροχή από φως)』ッ!!」
数百発の神代の光弾が、バーサーカーめがけて絨毯爆撃のように降り注ぐ。
しかし、バーサーカーはマリンを片腕で庇うように抱え込みながら、もう片方の腕で大剣(斧剣)を振り回し、光弾の雨をことごとく弾き飛ばしていく。
着弾した光弾も、彼の強靭な肉体を傷つけるには至らない。
「ふふっ。無駄な抵抗はおやめなさい、キャスター。あなたのマスターがミンチになってもいいの?」
「……ッ!!」
イリヤのその一言に、メディアの展開していた魔法陣がピタリと停止した。
バーサーカーをこのまま攻撃し続ければ、その余波で確実にマリンが死ぬ。
メディアの最大の強みである『範囲と火力を度外視した魔術の乱れ撃ち』が、人質を取られたことで完全に封じられてしまったのだ。
「メ、メディア……っ、士郎君たちを、守って……っ!」
バーサーカーの腕の中で、マリンが苦痛に顔を歪めながら、必死に声を振り絞る。
「あはは! まだ他人の心配をするなんて、本当に面白い女! 気に入ったわ!」
イリヤは嬉しそうに笑い、バーサーカーの肩へと軽やかに飛び乗った。
「シロウ! この女を返してほしかったら、アインツベルンの森まで来なさい! ま、魔力すらない今のシロウじゃ、森に入る前に死んじゃうだろうけどね!」
高笑いを残し、バーサーカーがビルの縁を力強く蹴り上げた。
その跳躍力は一瞬にして彼らを夜の闇の中へ、深い森の方向へと消し去っていった。
「マリンさん——ッ!!」
「待て……待ちなさい、マリン! マリィィィィィィィンッ!!!!」
士郎の絶叫と、メディアの悲痛な慟哭だけが、破壊されたビルの屋上に虚しく響き渡った。
「……ああ、あああああああッ!!」
残された屋上で、メディアは自身の髪を掻き毟りながら、獣のような唸り声を上げていた。
彼女の周囲の空間が、制御を失った莫大な魔力によってグニャグニャと歪み、紫色の電ショートのようにバチバチと弾けている。
「殺す……! アインツベルンの小娘、あの狂犬……! 塵一つ残さず、魂の形すら残さず、永遠の苦痛を与えて燃やし尽くしてやる……ッ!」
メディアは立ち上がり、冬木市中に張り巡らされたレイライン(霊脈)から、強引に魔力を汲み上げ始めた。
マリンからの供給が途絶えた今、彼女は街そのものの生命力を削ってでも、最大の破壊魔術を構築しようとしていた。
「——『神殿よ、我が怒りに応えよ(Ναός)』ッ!!」
彼女の狙いは、アインツベルン城への単独強襲。
街の霊脈を全て束ねて城そのものを吹き飛ばすという、魔術師としての隠蔽も何もかもをかなぐり捨てた、完全な自爆特攻(狂気)の沙汰だった。
「待ちなさい、キャスター!!」
凛が、展開されようとする魔法陣の前に両手を広げて立ち塞がった。
「どきなさい、小娘! マリンが……私のたった一つの光が奪われたのよ! 今すぐあの城を消し飛ばさなければ、私の存在意義がないッ!!」
「正気!? あんたがそんな大規模な魔術を撃ち込んだら、城と一緒に人質になってるマリンさんまで死ぬのよ!!」
凛の叫びに、メディアの動きが一瞬だけ止まる。
その隙を突き、壁に叩きつけられて血を流していた士郎が、ふらつく足で立ち上がり、メディアの肩を強く掴んだ。
「キャスター……! 頼む、落ち着いてくれ……っ!」
「……触るな! そもそも、マリンが攫われたのはあなたのせいでしょう!! 彼女があなたを庇わなければ、こんなことには……ッ!」
メディアは士郎の手を激しく払い除けた。
その瞳には、士郎に対する強烈な憎悪と殺意が宿っていた。同盟など知ったことではない。マリンがいなくなった今、この少年を守る理由など彼女には一つも残されていなかった。
「……っ、そうだ。俺のせいだ。マリンさんは、また俺を庇って……っ」
士郎は俯き、ギリッと拳を握りしめた。その手から血が滴り落ちる。
「俺が弱いから、セイバーにも、マリンさんにも無理をさせた! だから……だから絶対に、俺がマリンさんを助け出す! お願いだ、キャスター。あんたの力が、マリンさんを助けるためには絶対に必要なんだ!!」
士郎は、神代の魔女に対し、深く、深く頭を下げた。
「あのバーサーカーには、並の攻撃は通じなかった。それにアインツベルンの森は、強力な結界で守られているはずだ。俺たちだけじゃ、辿り着くことすらできない……。どうか、俺たちに力を貸してくれ!!」
その言葉に、凛もまた深く頷く。
「衛宮くんの言う通りよ。セイバーは魔力枯渇で動けない。今、単独であの怪物相手に殴り込みをかけても、各個撃破されるだけ。……マリンさんを取り戻すには、私たちの手札を全て合わせて、完璧な『奪還作戦』を立てるしかないわ」
メディアは、頭を下げる士郎と、真剣な眼差しを向ける凛を交互に見つめた。
彼女の胸の中には、今すぐにでも飛んで行きたいという激情の炎が燃え盛っている。
しかし、凛の「マリンごと死ぬ」という言葉が、冷たい氷のように彼女の理性を辛うじて繋ぎ止めていた。
(……そうだ。私がマリンを傷つけるようなこと、絶対にあってはならない……。確実に、あの優しいマスターを私の腕の中に取り戻すためには……)
「……いいでしょう」
メディアは、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締め、展開していた魔法陣を全て掻き消した。
「一時休戦です。そして、マリンを助け出すための戦力を、即座に整えます」
メディアは倒れているセイバーを一瞥し、冷徹な声で告げた。
「アインツベルン城へ突入し、あの怪物を倒すには、セイバーの力が不可欠。……衛宮士郎。あなたのその未熟な魔術回路を、私が直接『改造』します」
「改造、だと……?」
「ええ。あなたとセイバーの間に、無理やりにでも太い魔力のパスを繋ぎ直すのです。痛みを伴うなどという次元の話ではありません。最悪、あなたの精神と肉体が焼き切れる危険な儀式……」
「やる」
士郎は、一切の躊躇いなく即答した。
「マリンさんを助けられるなら、回路が焼き切れようが、なんだろうがやってやる。今すぐ始めてくれ」
その迷いのない覚悟に、メディアは少しだけ目を細めた。
(……マリン。あなたがこの少年に肩入れする理由が、ほんの少しだけ分かった気がします。……必ず、迎えに行きますからね。どうか、無事で……)
夜の冷たい風が吹き抜けるビルの屋上。
最強の盾を失い、最愛のマスターを奪われた同盟陣営。
悲しみと怒りを冷酷な刃へと変え、彼らはアインツベルンの巨神を打ち倒すための、決死の『奪還作戦』へと動き出すのだった。