### 物語の中盤:『血と魔力の交差点、そして姉としての誓い』
#### 6. アーチャーの殿(しんがり)と悲壮な別れ
**1節 決死の提案**
絶望という言葉すら、生ぬるかった。
崩落した石室の土煙が晴れていく中で、宝鐘マリンの視界に映ったのは、圧倒的な死と暴力の蹂躙劇だった。
「ごふっ……ぁ……っ」
「メディア!! メディア、しっかりして! 血が……血が止まらないよ……っ!」
冷たい石畳の上に倒れ伏したメディアを抱き抱え、マリンはパニックに陥りながらも自身のカーディガンを脱ぎ、メディアの腹部から流れる鮮血を必死に押さえつけていた。
バーサーカーの斧剣による一撃。咄嗟に展開した多重防壁がなければ、間違いなく即死だっただろう。それでも、神代の魔女の身体は深く切り裂かれ、霊基そのものが致命的なダメージを負っていた。
彼女の美しい紫水晶の瞳は焦点が定まらず、かすかに痙攣している。
「マ、リン……逃げ、て……」
「馬鹿なこと言わないで! 置いて逃げるなんて絶対しない! お願い、死なないで……っ!」
マリンの頬を、止めどない涙が伝い落ちる。
最強の前衛であるセイバーは、限界を超えた一撃の反動で立ち上がることすらできない。士郎もまた、イリヤの魔術とバーサーカーの衝撃波を浴びて壁際で血を吐き、動けずにいた。
「■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
勝利を確信したかのように、黒い巨神——バーサーカーが咆哮を上げた。
その鼓膜を破るような叫び声が、石室の空気をビリビリと震わせる。
バーサーカーは、血だまりの中で動けないメディアと、彼女を必死に庇うマリンを見下ろし、ゆっくりと巨大な斧剣を振り上げた。
(——死ぬ)
逃げ場はない。防ぐ手段もない。
絶対的な死が、断頭台の刃のようにマリンの頭上へ落ちてこようとした、まさにその刹那だった。
**「——投影、連続(トレース・オーバー)ッ!!」**
鋭い、しかしどこか聞き慣れた詠唱と共に。
闇を切り裂いて飛来した陰陽の双剣——『干将・莫耶』が、バーサーカーの眉間と胸板めがけて寸分違わぬ精度で突き刺さった。
「ガ、■■■!?」
いかなる魔術も弾き返す巨神の肉体。しかし、その双剣は直撃した瞬間に爆発(ブロークン・ファンタズムの簡易版)を引き起こし、バーサーカーの頭部を大きく仰け反らせ、斧剣の軌道を強引に逸らしたのだ。
ズガァァァンッ!! という轟音と共に、斧剣はマリンたちのわずか数十センチ横の床を粉砕し、激しい破片を飛び散らせた。
「きゃああっ!?」
マリンがメディアを覆い隠すように丸くなった直後。
土煙を切り裂き、赤い外套を翻した大柄な背中が、マリンと巨神の間にドスンと音を立てて着地した。
「アー、チャー……!」
遠くから、凛の震える声が響いた。
彼は先程、バーサーカーの最初の一撃をまともに受け、壁に激突して血の海に沈んでいたはずだった。
事実、その赤い外套はボロボロに引き裂かれ、褐色の肌には無数の裂傷が走り、左腕は不自然な方向に曲がってだらりと垂れ下がっている。
誰の目から見ても、致命傷。立っていることすら奇跡という状態だった。
それでも。
アーチャーの背中は、まるで一本の巨大な大樹のように、一切の揺らぎを見せずにバーサーカーの前に立ち塞がっていた。
「……遅れてすまない、マリンさん。無事か」
「アーチャー……あんた、その怪我……!」
「気にするな。死人(サーヴァント)の痛覚など、あってないようなものだ」
アーチャーは振り返らずにそう告げると、残された右手に再び青白い閃光を走らせた。
チャキ、と心地よい金属音が鳴り、新たな剣がその手に握られる。
「アーチャー! 何をしているの、早く下がって! あなたの身体じゃもう……!」
マスターである凛が、悲痛な叫びを上げる。
しかし、アーチャーは双剣をだらりと下げたまま、静かに、ひどく落ち着いた声で口を開いた。
「凛。状況を見ろ。セイバーは魔力枯渇で動けず、頼みのキャスターも重傷だ。衛宮士郎は論外。……このままここで足掻けば、三分と経たずに全滅するぞ」
「それは……っ! でも、だからってどうしろって言うのよ!」
「簡単なことだ。——逃げるんだよ、お前たちは」
その言葉に、石室の空気が凍りついた。
逃げる。
言葉にするのは容易いが、相手はあのバーサーカーだ。誰かが標的となって足を止めない限り、背中を見せた瞬間に全員が細切れにされる。
アーチャーの言葉の意味は、ただ一つしかなかった。
「な……何を馬鹿なこと言ってるのよ! 殿(しんがり)をするって言うの!? 相手はバーサーカーよ、いくらあなたでも一人で時間を稼げる相手じゃないわ!」
凛が半ばパニックになりながら、アーチャーへと駆け寄ろうとする。
だが、アーチャーは顔だけを背後に向け、凛を鋭く睨み据えた。
「来るな!! 貴女の魔術では足手まといだ。……凛。私がお前を勝たせてやれなくなったこと、謝罪する。私抜きで、どうにかこの聖杯戦争を生き延びてくれ」
「アーチャー、あんた……っ」
それは、紛れもない『死の宣告』にして、マスターへの最後の別れの言葉だった。
「……ダメ」
静寂の中、震える声が響いた。
「ダメだよ……っ、行かないで、士郎……っ!!」
床に座り込んだまま、マリンが涙で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。
アーチャーの真実——彼が衛宮士郎の成れの果てであり、正義の味方という呪いに縛られ、誰も救えない地獄で永遠に摩耗し続けてきたことを知っているのは、ここにいる全員の中でマリンただ一人だった。
「ここで死ぬなんて、絶対にダメ! あんた、私と約束したじゃない! 今の士郎君を私が軌道修正できたら、あんたも救われるんだから……っ! こんなところで、また自分の命を捨てて誰かを助けるなんて……そんな自己犠牲、お姉さん絶対に許さないからね!!」
マリンの悲痛な叫びは、魔術師の戦いなどという枠を完全に超えた、ただの「家族」としての慟哭だった。
自分の痛みを隠し、他人のために命を投げ出す。
あの深夜の密会で「そんな呪いみたいな夢、私がぶっ壊してあげる」とマリンが抱きしめて泣いた、その男の根本的な『歪み』が、今まさに最悪の形で繰り返されようとしているのだ。
マリンの言葉を聞いたアーチャーは、少しだけ目を丸くし。
そして。
かつての『衛宮士郎』しか見せたことのないような、憑き物が完全に落ちた、ひどく穏やかで、優しい笑みを浮かべた。
「……ああ。貴女なら、そう言って怒ってくれると思っていたよ。マリン姉(ねえ)」
「——っ」
その呼び方に、マリンの呼吸が止まった。
出会ってから一度も、彼はマリンをそう呼んだことはなかった。それは、記憶の奥底にある平和な日常の中で、照れ臭そうに彼が呼んでいた、温かい名前。
「私はずっと、自分の歩んできた道を後悔していた。何も救えなかった、全てが間違いだったと、自分自身を呪い続けていた。……だが、昨夜、貴女が私のために泣いてくれた時。私の罪も、地獄も、全てを知った上で……ただ『頑張ったね』と抱きしめてくれた時。私は、救われたんだ」
アーチャーは、バーサーカーから目を離すことなく、静かに語り続けた。
「あの記憶(ぬくもり)がある限り、私は、私の歩んできた道を……『衛宮士郎』が目指した正義の味方という理想を、もう間違いだったとは決して思わない。……だからこそ、今の私(あいつ)を、ここで死なせるわけにはいかないんだ」
アーチャーの背中から、これまでとは全く異質の、澄み切った莫大な魔力が立ち昇り始めた。
それは絶望による特攻の力ではない。
大切なものを守り抜くために、自らの魂を燃やし尽くす『英雄』としての輝き。
「行け、凛! 衛宮士郎たちを連れて、一秒でも早くこの森から脱出しろ!」
アーチャーの決死の怒声が、石室を震わせた。
「くっ……! わかったわよ、この大馬鹿アーチャー!!」
凛は唇から血が出るほど噛み締め、両手で顔の涙を拭うと、即座に行動を開始した。
「衛宮くん、立て! キャスターに肩を貸して! 走るわよ!!」
「だ、だが、アーチャーが……!」
「あいつの覚悟を無駄にする気!? 死にたくなかったら足を動かしなさい!!」
凛が士郎の腕を強引に引き、マリンのもとへと駆け寄る。
士郎が歯を食いしばりながらメディアの身体を背負い上げ、凛がマリンの腕を引いた。
「いやだ……いやだよ、士郎……っ!」
マリンはなおもアーチャーの背中に向かって手を伸ばそうとするが、凛の強い力に引かれ、よろめきながら後ずさる。
「……俺の分まで、今のあいつ(士郎)を……正義の味方なんて呪いから、救ってやってくれ」
アーチャーが、最後に肩越しにマリンへ視線を向けた。
その瞳には、かつての世話になった姉貴分に対する深い感謝と、全ての未練を断ち切った清々しい光が宿っていた。
「頼んだぞ、マリン」
その直後。
アーチャーの周囲の空間が、炎のように揺らぎ始めた。
彼の内面に広がる心象風景——無数の剣が突き刺さる赤茶けた荒野が、現実の石室を侵食していく。
「——『体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)』」
詠唱が始まった。
それは、狂戦士という絶対的な死の壁に対し、たった一人で挑む英霊の、誇り高き反逆の狼煙だった。
「■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
バーサーカーが、眼前の小さな英霊をすり潰すべく、巨大な斧剣を振り下ろして突進する。
「マリンさん、走って!!」
士郎が叫び、凛がマリンの背中を押す。
崩れゆく城の広間から、奪還部隊が森へ向けて駆け出す中、マリンは何度も何度も後ろを振り返った。
赤と黒の閃光が交差し、轟音が森全体を揺るがす。
アーチャーの背中が、瓦礫と土煙の中に消えていく。
「士郎……っ!!」
マリンの悲痛な慟哭は、無限の剣を複製するアーチャーの詠唱と、巨神の咆哮にかき消され、冷たい冬の森の闇の中へと吸い込まれていった。