### 物語の中盤:『血と魔力の交差点、そして姉としての誓い』
#### 6. アーチャーの殿(しんがり)と悲壮な別れ
**3節 託された願い**
轟音と共に、アインツベルン城の石室が完全に崩落した。
吹き荒れる土煙と粉塵の中、真っ赤な外套を纏った英霊——アーチャーは、ただ一人、神話の怪物と対峙していた。
「■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
狂戦士(バーサーカー)の咆哮が、城の壁をビリビリと震わせる。
その巨大な斧剣が、風を切り裂きながらアーチャーの頭上へと振り下ろされた。並のサーヴァントであれば、受け流すことすら不可能で、触れた瞬間に肉の塊へと変えられる絶対的な質量。
「——『投影、開始(トレース・オン)』」
アーチャーは一歩も引かず、両手に陰陽の双剣『干将・莫耶』を創り出し、交差させてその一撃を受け止めた。
激しい火花が散り、アーチャーの足元の石畳が爆発したように陥没する。すでにボロボロだった彼の全身の筋肉が悲鳴を上げ、左腕の骨に致命的な亀裂が走るのが分かった。
(……やはり、理不尽なまでの膂力だ。しかも、一度受けた攻撃のダメージを軽減するあの宝具。私の投影魔術でどこまで削り切れるか……)
純粋な白兵戦では、数分と保たない。
しかし、アーチャーの瞳には、かつて守護者として永遠の殺戮を繰り返していた時の虚無や、過去の自分(衛宮士郎)を殺すという冷酷な使命感は、微塵も残っていなかった。
『——こんなところで、また自分の命を捨てて誰かを助けるなんて……そんな自己犠牲、お姉さん絶対に許さないからね!!』
涙でぐしゃぐしゃになった、愛すべき姉貴分(マリン)の顔が脳裏をよぎる。
(……本当に、貴女は昔から変わらないな。マリン姉)
アーチャーは、血を吐きながらも、どこか晴れやかな笑みを浮かべていた。
彼が死後、世界と契約を交わして『守護者』となってから、どれだけの月日が流れただろうか。救いを求めて足掻き、裏切られ、最後はただ人類の自滅を防ぐための「清掃装置」として、顔のない人間たちを殺し続けるだけの地獄。
自身の理想を呪い、衛宮士郎という存在そのものを消し去るためにこの時代に呼ばれた彼にとって、宝鐘マリンというイレギュラーの存在は、あまりにも優しすぎた。
彼女は、アーチャーの罪を糾弾するでもなく、恐れるでもなく、ただ「辛かったね」と抱きしめ、子供のように泣いてくれた。
その一粒の涙が、アーチャーの心に分厚くこびりついていた鋼鉄の絶望を、完全に溶かし去ってしまったのだ。
(ああ。私は、間違えてはいなかった。こんなにも私のために泣いてくれる人がいるのなら。……『誰も泣かない世界』という私の理想は、決して、ただの呪いなどではなかったんだ)
だからこそ、彼はここで死ぬことに、一切の未練はなかった。
今の衛宮士郎を殺す必要は、もうない。あの底抜けに優しい「姉」が隣にいて、彼の手綱を握り、時には全力で怒ってくれるのなら。あの未熟な少年は、自分のような地獄へ至ることなく、きっと正しい『正義』の形を見つけ出せるはずだ。
「——ついて来れるか、狂戦士」
アーチャーは、両手の双剣をバーサーカーの斧剣に滑らせるようにして弾き返し、大きく後方へと跳躍した。
「■■■■■■■■■■ッ!?」
「——『体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)』」
空中で姿勢を立て直したアーチャーの口から、冷たく、そして熱を帯びた詠唱が紡がれる。
その瞬間、石室の空気が、いや、世界そのものの法則が書き換えられ始めた。
「——『血潮は鉄で 心は硝子(Steel is my body, and fire is my blood)』」
アーチャーの魔力回路が限界を超えて駆動し、その身に焼き付けられた心象風景が、現実を侵食していく。
「——『幾たびの戦場を越えて不敗(I have created over a thousand blades)』」
「——『ただの一度も敗走はなく(Unknown to Death)』」
「——『ただの一度も理解されない(Nor known to Life)』」
バーサーカーが、異変を察知して猛烈な勢いでアーチャーへと突進してくる。
しかし、遅い。
「——『彼の者は常に独り 剣の丘で勝利に酔う(Have withstood pain to create many weapons)』」
「——『故に、生涯に意味はなく(Yet, those hands will never hold anything)』」
アーチャーの背後から、目を開けていられないほどの眩い光が溢れ出した。
そして。
「——『その体は、きっと剣で出来ていた(So as I pray, unlimited blade works.)』」
燃え盛る炎が、空間を焼き尽くした。
次の瞬間、アーチャーとバーサーカーが立っていた場所は、冷たいアインツベルンの石室から、赤茶けた荒野へと変貌を遂げていた。
空には巨大な歯車が回り、地平線の果てまで、数え切れないほどの無数の『剣』が墓標のように突き刺さっている。
これこそが、アーチャーの真の宝具。魔術師としての彼の唯一の到達点たる、固有結界『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』。
しかし。
かつては絶望と虚無だけが満ちていたこの荒野に、今はほんのわずかに、冷たい風ではなく、どこか温かい風が吹き抜けているような気がした。
「さあ、見せてみろ。貴様の神話の重さを」
アーチャーが右手を天に翳す。
それに応えるように、荒野に突き刺さっていた数十本の業物——かつて英雄たちが振るった宝具の数々が一斉に空へと浮かび上がり、バーサーカーめがけて照準を定めた。
「■■■■■■■■■■■■ッ!!!!」
バーサーカーが咆哮し、迎撃のために斧剣を振り回す。
「撃ち抜け!!」
アーチャーの号令と共に、空を覆う剣の雨が、流星群となって巨神へと降り注いだ。
一本一本が、神話を形作るほどの強大な魔力を持った宝具。それが、直撃と同時に内部の魔力を暴走させて自壊する『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』となって炸裂する。
ドゴォォォォォォォンッ!!!!
規格外の爆発が連鎖し、固有結界の中に巨大な火柱が立ち上がる。
『十二の試練』の防御を貫き、バーサーカーの肉体が完全に消し飛ぶ。
——一の命、喪失。
しかし、バーサーカーの再生は即座に始まる。肉片が寄り集まり、再び巨神が立ち上がる。
「■■■■■■■■ッ!!」
「まだまだ、剣は腐るほどあるぞ!」
アーチャーは再び手を翳し、さらに強力な幻想を複製(トレース)する。
カラドボルグ、デュランダル、そして彼が蓄えてきたあらゆる武具が、狂戦士の命を削るためだけに消費されていく。
二つ、三つ、四つ……。
爆発のたびに、バーサーカーの命が削り取られていく。
しかし、その代償はアーチャー自身にも重くのしかかっていた。固有結界の維持と、限界を超えた連続投影により、彼の霊基はすでに崩壊を始めていた。褐色の肌から光の粒子が漏れ出し、自身の肉体が魔力に還元されようとしている。
「ハァッ……ハァッ……」
五つ目の命を奪った時、アーチャーは膝をついた。
右腕はすでに感覚がなく、左目は血で潰れている。
「■■■■■■■■■■ッ!!!!」
五度目の蘇生を果たしたバーサーカーが、ついにアーチャーの眼前にまで肉薄した。
振り下ろされる死の斧剣。
「——これで、最後だッ!!」
アーチャーは残された全霊を振り絞り、自身の手元に最後の一振りを投影した。
白亜の輝きを放つ、神造兵装の模造品。
それを真正面から斧剣に叩きつけ、同時に限界まで魔力を込めて爆破させた。
**ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!**
固有結界を吹き飛ばすほどの、極大の閃光。
バーサーカーの巨体が、その光の濁流に呑み込まれ、六度目の死を迎えて崩れ去っていく。
その確かな手応えを感じながら、アーチャーの意識もまた、白い光の中へと溶けていった。
固有結界が解除され、元の崩落した石室へと戻る。
しかし、そこにアーチャーの肉体は、すでに形を保っていなかった。足元から黄金の砂のようにサラサラと崩れ落ち、冬の森の冷たい風に乗って消えていく。
「……六つ、か。化け物め、半分も削れなかったとはな」
もはや首から上しか残っていないアーチャーは、自嘲気味に笑った。
しかし、これだけ足止めをすれば、あのお転婆なマスターと、不器用な少年、そして何より愛すべき姉貴分は、無事に森を抜け出せているはずだ。
「……私の役目は、これで終わりだ」
最後に彼の脳裏に浮かんだのは。
生前、夕暮れのアンティークショップで、マリンと一緒に不器用ながらもコスプレ衣装のフリルを縫わされた、あのくだらなくて、平和で、何よりも愛おしかった日常の記憶。
そして、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、「絶対にお姉さんが軌道修正するから」と叫んでくれた、たった数時間前の彼女の姿。
「俺の分まで、頼んだぞ……マリン姉」
誰に聞かれることもなく、最後に、衛宮士郎としての素の口調でそう呟き。
アーチャーの魂は、冬木の夜空へと完全に溶け、その数奇で悲劇的な英霊としての運命を、静かに、そして安らかに終えたのだった。
空が、白み始めていた。
夜明け前の、一番冷え込む時間帯。
「……着いた……!」
士郎の掠れた声と共に、奪還部隊の面々は、衛宮邸の門をくぐり抜けた。
全員がボロボロだった。
士郎は全身から血を流し、衣服は破れ果てている。凛も魔力切れで足元がおぼつかず、セイバーはかろうじて士郎を支えながら歩いている状態だった。
そして、最も絶望的な状態だったのが、メディアだ。
士郎の背から下ろされ、居間の畳の上に横たえられた彼女の身体は、すでに半ば透けかかっており、腹部の傷からは金色の魔力の粒子が止めどなく零れ落ちていた。
「メディア! メディア!!」
マリンは、靴を脱ぐのももどかしくメディアの傍にすがりついた。
自身の令呪が刻まれた右手を、メディアの胸元に強く押し当てる。
「私から、魔力を全部持って行って! 治して、お願いだから……っ!」
「マ、リン……」
メディアが、焦点の合わない紫水晶の瞳を薄く開けた。
「……あなたの、魔力は……とても、温かい、ですね……。でも、霊核が……砕けてしまって……これ以上は……」
「馬鹿なこと言わないで!! 私が絶対に死なせないって言ってるでしょ! 凛ちゃん! 士郎君! 何か、魔術でどうにかできないの!?」
マリンが狂乱したように振り向く。
しかし、凛は悲痛に顔を伏せ、士郎もまた唇を噛み締めて首を振るしかなかった。サーヴァントの霊核が破壊されれば、どれだけ魔力を注いでもバケツの底から水が抜けるように消えてしまう。現代の魔術師の力で、それを修復することは不可能だった。
「いやだ……いやだよ、メディア……。アーチャーがいなくなって、あなたまでいなくなったら……私、どうしたらいいの……っ」
マリンの目から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ち、メディアの頬を濡らした。
「……泣かないで、私の……可愛い、マスター……」
メディアは、震える手でマリンの頬に触れた。
「私は、あなたに救われた……。あの雨の夜、あなたに出会えて……この家で、温かいご飯を作って……あなたの、可愛い衣装を作れて……。裏切りの魔女だった私にとって……それは、夢のような、幸せな時間、でした……」
「メディア……っ!」
「だから……どうか、笑って。あなたが笑ってくれないと……私が、安心して……逝けないじゃ、ない……」
メディアの手から、ふっと力が抜けた。
彼女の身体を構成していた魔力が、限界を迎え、指先から徐々に光の粒子となって分解され始める。
「————っ!!」
その瞬間、マリンの脳内で何かが『弾けた』。
悲しみでも、絶望でもない。
理不尽な世界に対する、究極の『拒絶』。
「……ふざけ、ないで」
マリンの低い、しかし地を這うような声が、居間の空気を一変させた。
士郎と凛が、思わず息を呑む。
マリンの身体から、これまでとは比べ物にならない……それこそ、星の裏側から直接汲み上げているのではないかと思えるほどの、規格外で、圧倒的な密度の魔力(オド)が噴出したのだ。
「誰も死なせないって、約束したの。……アーチャーの手を離しちゃった私を、これ以上、絶望させないでよ……ッ!!」
マリンは、メディアの身体に覆い被さるように抱きつき、自身の額をメディアの額にこすり合わせた。
「令呪を以て命ずる!! 私の命(魔力)を全部使って、無理やりにでもその霊基を繋ぎ止めなさい!! 死ぬことなんか、お姉さんが絶対に許可しないッ!!!!」
カッ!!!!
マリンの右手に刻まれていた三つの令呪のうち、一つが眩い光を放ち、消滅した。
本来、令呪はサーヴァントに対する絶対命令権であり、事象をねじ曲げるほどの膨大な魔力の結晶である。
それを、マリンの規格外の素養と、「絶対に家族を死なせない」という執念の器として使用した結果。
世界は、彼女の『願い』を強引に受理した。
「……あ……ぁ……?」
光が収まった後。
完全に消滅しかけていたメディアの身体が、再び確かな質量を取り戻し、腹部の致命傷が嘘のように塞がっていた。
霊核の修復という奇跡。
メディアは、信じられないというように自身の身体を見下ろし、そして、力を使い果たして自分の胸の上で気絶しているマリンの顔を見た。
「……マスター。あなたは……本当に……」
メディアの目から、初めて、人間らしい温かい涙が溢れ出した。
彼女は、自身の主をきつく抱きしめ、声を殺して泣いた。
数時間後。
すっかり日も高く昇った衛宮邸の客間。
マリンは、ようやく目を覚ました。ベッドの横には、完全に回復したメディアが付きっきりで看病しており、マリンが目覚めたのを見ると、安堵の笑みを浮かべて彼女の手を握った。
「……よかった。メディア、生きてる」
「ええ。マリンの無茶な奇跡のおかげで。……本当に、寿命が縮む思いでしたよ」
「サーヴァントに寿命なんてないでしょ」
マリンが弱々しく笑うと、部屋の襖が開き、包帯だらけの士郎が入ってきた。
「マリンさん、気がついたんですね」
「士郎君。……体、大丈夫?」
「俺は平気です。キャスターが、俺の傷も塞いでくれましたから。……マリンさん」
士郎は、マリンのベッドの傍に座り、深く、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。俺が弱かったから、マリンさんを攫わせて、危険な目に遭わせて……。アーチャーにも……」
士郎の声は、震えていた。
アーチャーが最後に残した、「俺の分まで、頼んだぞ」という言葉。そして、彼が一人でバーサーカーに立ち向かっていった背中。
士郎は、あの赤い英霊が何者だったのか、確かなことは分からない。だが、彼が自分たちのために命を投げ出したこと、そして彼から何か途方もなく重い『願い』を託されたことだけは、痛いほどに理解していた。
「……頭を上げて、士郎君」
マリンは身体を起こし、士郎の赤い髪に手を伸ばした。
「アーチャーはね、士郎君に……生きてほしかったんだよ」
「え……?」
「あいつは、ずっと一人で苦しんでた。誰かのために自分を犠牲にして、ボロボロになって。……でも、最期は、士郎君の未来を信じて、全てを託してくれたの。……だから、士郎君が自分を責めて下を向いてたら、あいつ、あの世で呆れちゃうよ」
マリンの言葉に、士郎は顔を上げた。
マリンの瞳には、昨夜の絶望の涙の痕は残っていたが、同時に、決して揺るがない強い決意の光が宿っていた。
「……託された。俺に……」
「そうだよ。だから、私たちは勝たなきゃいけない。あんな悲しい理由で戦わされてるイリヤちゃんを助け出して、誰も泣かない、本当の意味での『平和な日常』を取り戻すの。……それが、アーチャーが命を懸けて繋いでくれた、私たちの戦いだよ」
士郎は、ギュッと拳を握りしめた。
自分の中でくすぶっていた「正義の味方」という理想。それが、アーチャーの背中と、マリンの言葉によって、全く新しい、明確な形を持って再構築されていくのを感じた。
自分を犠牲にして誰かを救うのではない。
自分が大切な人たちと共に生き抜き、全員で笑い合うために戦うのだと。
「……はい。分かりました。俺は、もう迷いません」
士郎は、力強く頷いた。
「俺たちの力で、イリヤを助け出して、この聖杯戦争を終わらせます。……マリンさん、どうか、俺の手綱を、最後まで握っていてください」
「ふふっ。任せなさい、頼りない弟君。お姉さんが、バッチリ鍛え直してあげるからね」
マリンが優しく微笑み、士郎と拳をこつんと合わせた。
その光景を、部屋の隅で見守っていた凛とセイバーも、静かに頷いていた。
最強の盾を失い、奪還部隊は一度は全滅の危機に瀕した。
しかし、アーチャーの尊い犠牲と、託された願い。そして、マリンという絶対的な精神的支柱を得たことで、同盟陣営はかつてないほどの強固な絆で結ばれた。
「……衛宮くん」
凛が進み出る。
「バーサーカーを倒すためには、セイバーの完全復活が不可欠よ。……準備はいいわね? あなたとセイバーの間に、本格的な魔力パスを繋ぐ儀式を始めるわ」
「ああ。頼む、遠坂」
反撃の準備は整った。
失ったものの重さを背負い、彼らは再び、あのアインツベルンの巨神を打ち倒すため、そして囚われの少女を救い出すために立ち上がる。
宝鐘マリンの「誰も傷つけない」という理想は、血と魔力の交差点を経て、決して折れることのない姉としての絶対の『誓い』へと昇華したのだった。