### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 2. キャスターとの遭遇と契約
冬木市の夜を濡らす雨は、時間と共にその冷たさと激しさを増していた。
アンティークショップ『マリン』の裏口。
重厚な木製の扉を開けると、ひんやりとした夜気が店内の暖かな空気を押し退けるように入り込んでくる。
宝鐘マリンは、カーディガンを羽織りながら身震いした。
「うー、さっむ……。これ、明日はもっと冷え込むやつだなぁ」
戸締まりの確認と、ゴミ出しの準備のために裏の路地へと顔を出した彼女は、雨風に打たれる街灯の頼りない光に目を細めた。
港に近いこの一帯は、夜になると人通りが極端に少なくなる。特にこんな土砂降りの夜には、野良猫一匹通りがかることはない。
早く鍵を閉めて、温かいお茶でも淹れて、大好きな衣装作りの続きをしよう。そう思い、扉を閉めようとドアノブに手をかけた——その瞬間だった。
**——……っ、……。**
雨音に紛れて、微かな、しかし確かな「何か」がマリンの耳を打った。
それは、かすれた吐息のような、あるいは苦痛を堪えるうめき声のような音だった。
「……え?」
マリンは動きを止めた。
争いごとや怖い話は、生来の気質として大の苦手である。ホラー映画なんて見ようものなら、三日は夜中にトイレに行けなくなる自信があった。
だから、こんな雨の夜の路地裏で聞こえた不可解な音など、無視して鍵をかけてしまうのが一番賢い選択だ。本能がそう告げている。
しかし、彼女のもう一つの特質——アンティークの『声』すら聞き取ってしまう、無自覚で異常なまでに鋭敏な直感(霊媒体質)が、その音の正体が「幽霊」や「化け物」などではなく、**「今まさに消えようとしている命」**であることを強烈に悟らせてしまった。
「……っ」
マリンはぎゅっと唇を噛むと、店先に立てかけてあった傘を掴み、躊躇いながらも薄暗い裏路地へと足を踏み出した。
コンクリートの冷たい水たまりを跳ね飛ばしながら、声のしたゴミ箱の陰へと近づいていく。
そこに、彼女はいた。
「う、嘘……っ、大丈夫ですか!?」
マリンは思わず傘を取り落とし、地面に膝をついた。
雨に打たれ、冷たい石畳の上に倒れ伏していたのは、一人の女性だった。
年齢はマリンと同じか、少し上くらいだろうか。長い紫色の髪は雨と泥にまみれ、着ている奇妙なデザインのローブは所々が焦げたように破けている。
そして何よりマリンを驚愕させたのは、女性の身体の輪郭が、時折ノイズのようにブレて、淡い青紫色の光の粒子となって空気中に溶け出していることだった。
「ひっ……血、じゃない……? なにこれ、体が、透けて……っ」
痛いのも、血を見るのも嫌いだった。
けれど、目の前の女性が放つ、あまりにも美しく、そしてあまりにも絶望的な「死の気配」に、マリンは恐怖よりも先に手が動いていた。
女性の肩を抱き起こす。驚くほど軽く、そして氷のように冷たかった。
「しっかりして! 今、救急車を……っ!」
「……よせ、無駄な、ことだ……」
マリンの腕の中で、女性が微かに目を開いた。
紫水晶のような、深い色をした瞳。しかし、その瞳には光がなく、世界に対する深い諦念と冷たい怒りが渦巻いているように見えた。
**(……ああ、まさか、このような路地裏で果てることになるとはな)**
キャスター(メディア)は、霞む意識の中で自嘲した。
魔術師としての誇りも何もない、ただサーヴァントを道具としてしか見ない外道——アトラム・ガリアスタ。
あの男の工房を焼き払い、契約を破棄したところまでは良かった。しかし、冬木の地で新たな魔力供給源(マスター)を見つける前に、彼女の魔力は限界を迎えていた。
『裏切りの魔女』。
そう呼ばれ、歴史に名を刻まれた自分の末路が、冷たい異国の雨に打たれ、誰にも知られずに魔力散逸を起こして消滅することだとは。
実に滑稽だ。やはり、自分という存在は誰からも愛されず、誰の庇護も受けられずに終わる運命なのだ。
そう諦め、目を閉じた時だった。
突然、冷え切った身体を、ありえないほど温かく、そして**暴力的なまでに純粋で強大な魔力(オド)の奔流**が包み込んだのは。
(な、んだ……? この、無尽蔵の……魔力は……!?)
キャスターは驚愕に目を見開いた。
彼女を抱き起こしているのは、魔術の知識など欠片もなさそうな、一般人の女性だった。
しかし、その身体から無自覚に垂れ流されている魔力は、一流の魔術師数十人分にも匹敵するほど高密度で、不純物が一切混じっていない。まるで、清らかな霊泉の源流に直接触れているかのようだった。
聖杯が用意した正式なマスターではない。しかし、この女性なら、間違いなく自分を現世に繋ぎ止める『楔』になり得る。
「……あなた、は……」
「喋らないで! とにかく、中へ! ここじゃ冷えちゃうから!」
女性——マリンは、キャスターが人間ではないことに気づいているのかいないのか、必死の形相で彼女の腕を自身の肩に回し、立ち上がろうとした。
その細い腕はガクガクと震えている。明らかに怯えている。それなのに、マリンは決してキャスターを突き放そうとはしなかった。
「ほら、頑張って! 私の店、すぐそこだから……っ!」
ズブ濡れになりながら、マリンはキャスターを引きずるようにして、アンティークショップの裏口へと滑り込んだ。
「はぁっ、はぁっ……! とりあえず、毛布! あとタオル!」
店内に戻るなり、マリンはキャスターを居住スペースのソファに寝かせ、慌ただしく部屋の中を駆け回った。
持てるだけのタオルと、一番分厚い毛布を抱えて戻ってくると、キャスターの泥だらけのローブを躊躇いなく拭き始める。
「ごめんなさい、私、お医者さんじゃないから、どう手当てしていいか……。でも、体が光って消えそうになってるし、これって普通の怪我じゃないですよね……っ」
半泣きになりながら、それでも必死にキャスターを温めようとするマリン。
アンティークショップという、おそらく彼女にとって一番大切で、綺麗に保たれているであろうこの空間を、泥と雨水で汚しているというのに、マリンの目には目の前の命を救うことしか映っていなかった。
キャスターはその姿を、ただ呆然と見つめていた。
(なぜ……? なぜ、赤の他人にすぎない私に、ここまで……)
「……私は、人間ではないわ」
ふいに、キャスターの口からかすれた声が漏れた。
「え?」
「私は『サーヴァント』。魔術によって過去から呼び出された、使い魔のようなもの……。今の私は、現世に留まるための魔力(エネルギー)を失い、消滅を待つだけの存在……。医者にも、現代の医学にも、私を救うことはできないわ」
キャスターの告白に、マリンはタオルを持った手を止めた。
魔術。サーヴァント。
一般人であるマリンにとって、それはあまりにも非現実的で、荒唐無稽な言葉だった。
普通なら、頭がおかしくなったのかと疑うか、恐怖して逃げ出す場面だ。
しかし、マリンの直感は、キャスターの言葉が全て真実であることを告げていた。
そして何より、今この瞬間も、キャスターの指先が淡い光となって崩れ落ちようとしている現実が、それを証明していた。
「……じゃあ、どうすればいいの」
マリンの声は、震えていた。
怖かった。自分が全く知らない、恐ろしい世界に足を踏み入れようとしていることは嫌というほど分かっていた。
それでも。
「どうすれば、あなたは助かるの? エネルギーが足りないなら、私の脂肪でも何でも燃やしていいから! とにかく、あなたが死んじゃうのを見ているなんて、絶対に嫌だ!」
マリンの、そのあまりにも真っ直ぐで、打算のない言葉。
「誰かが傷つくのが嫌だ」という、ただそれだけの、しかし絶対に曲げられない彼女の善性が、キャスターの凍りついていた心を強く打ち据えた。
(……ああ。この人は、本気で私を……)
キャスターの瞳から、冷たい諦念が消え去った。
生き延びたい。そして、自分をただの道具としてではなく、一つの命として救おうとしてくれるこの無垢な魂に、報いてみたい。
「……私と、契約を交わして」
キャスターは、残された最後の力を振り絞り、自身の右手をマリンへと差し出した。
「あなたは無自覚なようだけれど、その身に強大な魔力を宿している。あなたが私の『マスター』となり、魔力を分けてくれるなら……私は、生き延びることができるわ」
「マスター……。よくわかんないけど、私が同意すればいいのね?」
「……ええ。でも、後悔するかもしれないわよ。私と繋がれば、あなたは血で血を洗う魔術師たちの殺し合い……『聖杯戦争』に巻き込まれることになる」
それは、キャスターなりの最後の警告だった。
この優しく平和を愛する女性を、凄惨な地獄に引きずり込んでしまっても良いのかという、裏切りの魔女にはあるまじき逡巡。
だが、マリンは一切の迷いなく、その言葉を切り捨てた。
「後悔なんて、後で勝手にするから! 今、あなたを見殺しにする方が、一生後悔するに決まってるでしょ!」
そう叫び、マリンはキャスターの冷たい右手を、両手でしっかりと握りしめた。
「私は宝鐘マリン! あなたの命、私がもらうからね! だから、勝手に死なないで!」
その宣言は、魔術的な詠唱でもなんでもなかった。
ただの、魂の叫び。
しかし、その強烈な意志と、マリンの内に眠っていた莫大な魔力は、冬木の地に満ちる『大聖杯』のシステムを強引にハッキングし、新たな契約を成立させるには十分すぎた。
**「——契約、完了(アクセプト)」**
キャスターが微笑みと共に短く応じた瞬間。
「……っ!? い、いたっ……!」
マリンの右手の甲に、火箸を押し当てられたような強烈な痛みが走った。
痛いのが大嫌いなマリンの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。しかし、彼女は決してキャスターの手を離さなかった。
強烈な閃光が店内を照らし出し、マリンの白い肌の上に、赤黒い、刺青のような三つの文様——『令呪』が刻み込まれていく。
同時に、マリンの身体から滝のような魔力がキャスターへと流れ込み、光の粒子となって消えかけていたキャスターの身体が、確かな質量を伴って実体化し、急速に修復されていく。
光が収まり、静寂が戻ったアンティークショップ。
「いっ、たたた……。なにこれ、火傷……?」
涙目で自身の右手の甲を見つめるマリン。
そんな彼女を、キャスターはソファからゆっくりと身を起こし、見つめていた。
先程までの死相は完全に消え去り、その絶世の美貌には、確かな生気と、そしてマリンに対する深い親愛の情が宿っていた。
「……痛い思いをさせてしまって、ごめんなさい、私のマスター」
キャスターはそっとマリンの右手に触れ、その令呪に敬愛のキスを落とした。
「私のクラスはキャスター。真名はメディア。……あなたに拾われたこの命、これより先は、あなたの為だけに使いましょう」
「メ、メディアさん……? ええと、うん! とにかく、助かってよかったぁ……っ」
マリンは痛みを忘れ、へなへなとその場に座り込んで安堵の息を吐いた。
魔術、サーヴァント、聖杯戦争。
分からないことだらけで、明日からの生活がどうなるのかも全く見当がつかない。
ただ一つだけ確かなことは、この雨の夜、宝鐘マリンという一人の一般人が、最強の魔女の唯一の理解者となり、運命の歯車を大きく狂わせる最初の一歩を踏み出したということだけだった。