### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 3. 新たな日常とキャスターの準備
翌朝。
冬木の街を洗った昨夜の雨はすっかり上がり、雲一つない爽やかな青空が広がっていた。
「……んんぅ……」
アンティークショップ『マリン』の2階、居住スペースのベッドで、宝鐘マリンは目を覚ました。
柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込み、フローリングを温めている。いつもの、平和で静かな朝だった。
ただ一つ、いつもと違う点を除けば。
「……夢じゃ、なかったんだ」
寝ぼけ眼で自身の右手を持ち上げると、白い手の甲には赤黒い三つの文様――令呪が、確かな熱を持って刻み込まれていた。
昨夜の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎる。
裏路地で倒れていた女性。消えかかっていた身体。魔術、サーヴァント、そして契約。
常識という秤にかければ、即座に「幻覚」と切り捨てられるような出来事の連続。しかし、この令呪の感触と、そして何より――
トントン、トントン……。
一階のキッチンから聞こえてくる、軽快でリズミカルな包丁の音。
それに混じって、食欲を強烈に刺激する出汁の匂いと、甘じょっぱい醤油の香りが、階段を下から上へと漂ってきている。
「……あれ? 士郎君が来るには早すぎる時間だよね……?」
ベッドから抜け出し、カーディガンを羽織って階段を降りる。
キッチンを覗き込んだマリンは、思わず目を丸くした。
そこにいたのは、士郎ではなかった。
昨夜、血と泥にまみれていた紫色のローブではなく、マリンが貸したダボダボのスウェットとエプロンに身を包んだ、メディアだった。
長い紫の髪を綺麗にまとめ、コンロの前でフライパンを鮮やかに振っている。その横顔は真剣そのもので、とても昨夜「死にかけていた」人物とは思えないほど生き生きとしていた。
「あ……おはよう、メディアさん」
「おはようございます、マスター。ちょうど朝食ができたところですわ。すぐに温かいお茶も淹れますね」
振り返ったメディアは、花が綻ぶような、それは美しい微笑みを浮かべた。
テーブルの上には、焼きたての出汁巻き卵、ふっくらと焼かれた鮭、ほうれん草のおひたし、そして湯気を立てる炊きたてのご飯とワカメのお味噌汁が並べられていた。
士郎が作ってくれる家庭的な料理にも似ているが、どこか洗練された小料理屋のような佇まいがある。
「え、これ……メディアさんが作ってくれたの?」
「はい。昨夜は私のために、あなたの聖域であるこの家を汚してしまいましたから……そのお詫びと、命を救っていただいたほんのささやかな恩返しです。お口に合うとよろしいのですが」
「恩返しって……あのね、私、料理が大の苦手で……こんなちゃんとした朝ごはん、久しぶりすぎるかも……」
椅子に座り、恐る恐る出汁巻き卵を一口かじる。
途端に、上品な一番出汁の旨味と絶妙な甘さが、マリンの舌の上でふわっととろけた。
「んんんんんっ!? なにこれ、めちゃくちゃ美味しい!!」
「本当ですか? よかった……」
「士郎君のご飯も最高だけど、メディアさんのご飯もお店が出せるレベルだよ! すごい、サーヴァントって皆こんなに料理上手なの!?」
「ふふ、他の英霊たちはどうか知りませんが、私はこういうちまちました作業が嫌いではないのです。むしろ、得意分野と言ってもいいかもしれませんわ」
メディアは恥ずかしそうに頬を染めながら、マリンの向かいに座った。
裏切りの魔女と恐れられた彼女にとって、誰かのために料理を作り、それを無邪気に喜んでもらうという経験は、生前も含めてほとんど記憶にないものだった。
昨夜、自分を見捨てず、自身の身の危険すら顧みずに手を差し伸べてくれたこの少女。彼女の無垢な善性は、メディアの深く閉ざされていた心をいとも容易く溶かしてしまったのだ。
「美味しい、美味しい……! あぁ、幸せ……」
頬を緩ませてご飯をかき込むマリンを見つめながら、メディアは心の中で静かに誓った。
この温かな場所と、この優しすぎる主だけは、何があっても自分の手で守り抜こう、と。
「メディアさん、これからは私のこと『マスター』じゃなくて『マリン』って呼んでね。マスターなんて堅苦しいの、私には似合わないし」
「……よろしいのですか? 私はあなたの使い魔のようなもの。主従のけじめは——」
「ううん、私の中ではもう、メディアさんは大切な同居人であり、お友達だよ。それに、同い年か、少しお姉さんくらいでしょ? 敬語もなしにしてほしいな」
「……マリン」
メディアは、その名を満ち足りた思いで口の中で転がした。
「ええ、分かったわ、マリン。でも、あなたが私にどれだけ自由を与えようと、私があなたに捧げた忠誠と親愛は絶対に変わらないわ。それを忘れないで」
朝食を終えた後、メディアは本題を切り出した。
「マリン。昨夜少し話した通り、私と契約したことで、あなたはこの冬木で行われている『聖杯戦争』という殺し合いに巻き込まれてしまったわ」
「……うん。でも、私、戦うなんて絶対無理だよ。痛いのも怖いのも大嫌いだし」
「分かっているわ。だから、あなたが戦う必要はない。私がこの場所を、いかなる外敵も寄せ付けない絶対の『神殿(工房)』に変えるわ」
メディアが立ち上がり、すっと手をかざすと、マリンの目にも薄っすらと分かるほどの青紫色の魔力の波が、アンティークショップ全体を包み込んでいくのが見えた。
「マリン、あなたの魔力は、本当に規格外よ。無自覚なだけで、あなた自身が巨大な霊脈そのもののようなもの。私に供給される魔力(オド)の量は、一流の魔術師の比ではないわ。おかげで、ここを本来以上の強固な結界で覆うことができる」
それは、神代の魔術師であるメディアの真骨頂だった。
本来なら柳洞寺のような大規模な霊脈の土地でなければ展開できないレベルの陣地作成を、マリンという特異な供給源を得たことで、この小さな店舗兼住居に圧縮して構築し始めたのである。
物理的な破壊の無効化、認識阻害、魔力探知の遮断、侵入者に対する自動迎撃術式。外から見ればただのアンティークショップだが、内実は現代の魔術師では手も足も出ない難攻不落の要塞へと変貌を遂げつつあった。
「すごい……なんか空気が澄んでるっていうか、すっごく安心感がある」
「ええ。これで、他のマスターやサーヴァントが容易に近づくことはできないわ。あなたは、今まで通りここで平穏に暮らしていればいい」
メディアの言葉に、マリンは安堵の息を吐いた。
魔術のことはよく分からないが、彼女がこれほど頼もしく言ってくれるのなら、きっと大丈夫なのだろう。
「あ、そうだ! 今まで通りといえば、私、やりかけの作業があったんだ!」
思い出したようにマリンはカウンターの方へ駆け寄り、一冊のスケッチブックを開いた。
「昨日の夜、これを描いてて……」
そこには、赤と黒のフリルがふんだんにあしらわれた、海賊をモチーフにした華やかなコスプレ衣装のデザイン画が描かれていた。
マリンが「よし、生地をどうしようか」と呟いた時、後ろからひょっこりと顔を出したメディアが、そのスケッチを見て目を大きく見開いた。
「ま、マリン……! これは、あなたが描いたの!?」
「えっ、うん。私、オタクだからさ。アニメとか漫画のキャラの服を作ったり、こういうオリジナル衣装をデザインして着るのが趣味で……変、かな?」
オタク趣味を引かれたかと思い、マリンが少し恥ずかしそうに縮こまったが、メディアの反応は全く逆だった。
彼女の紫水晶の瞳は、かつてないほどの熱を帯びてキラキラと輝いていた。
「変なんてとんでもない! 素晴らしいわ! このフリルの重なり、コルセットの絶妙なライン、そしてこのリボンの配置……! なにより、この服をあなたが着るという事実が最高よ!!」
「え? ええっ?」
圧倒的なテンションで迫るメディアに、マリンは後ずさる。
実はメディアには、神代の魔女という顔の裏に、「可愛い女の子に可愛い服を作って着せるのが大好き」という、強烈な趣味があったのだ。
生前はそんな趣味を理解してくれる者などいなかった。しかし今、目の前の主は、自ら好んでそんな服をデザインしているというではないか。
「マリン、あなた、これを形にしたいのね?」
「う、うん。でも、型紙から作るとなると時間もかかるし、私の裁縫スキルじゃこのフリルはちょっと難しくて……」
「任せなさい!!」
メディアはドンッ! とカウンターを叩き、鼻息を荒くした。
「私が、私の持てる全ての技術と魔術を駆使して、この服を仕立ててあげるわ! 生地は上質なシルクとベルベットを用意して……いや、待って、魔術で編み込んだ方がより軽く、動きやすいわね……!」
「め、メディアさん? なんか、目が怖いよ……?」
そこからのメディアの行動は早かった。
自身のローブを仕立てる際に使う裁縫術と、神代の高速詠唱をなぜかミシンの縫製スピードに応用し、マリンが買い込んでいた布の山を瞬く間に切り出し、縫い合わせていく。
「ここはもっとギャザーを寄せて……ええ、あなたの体のラインなら、腰回りはもっとタイトに絞った方が魅力的だわ! ふふふ、あはははは!」
工房と化したアンティークショップの中に、魔女の楽しげな高笑いと、ミシンの駆動音が鳴り響く。
マリンはポカンと口を開けて、その凄まじい光景を見つめていた。
(……聖杯戦争って、もっとこう、血みどろで殺伐としてるものかと思ってたけど……)
目の前で、自分のために嬉々としてフリルを縫い付ける魔女の姿を見て、マリンは思わず吹き出してしまった。
「あははっ! メディアさん、最高! じゃあ、私もボタン付け手伝うね!」
「ええ、マリン! 一緒に最高の衣装を作りましょう!」
こうして、冬木市で最も奇妙で、最も平和な陣営の日常が幕を開けた。
料理嫌いなマスターと、家事スキルカンストのサーヴァント。
オタクのレイヤーと、着せ替え大好きな凄腕テーラー。
それはまるで、ずっと前から一緒に暮らしていた姉妹のように、あまりにも波長の合う同居生活だった。
外の世界では、英霊たちによる凄惨な死闘が始まろうとしている。
しかし、このアンティークショップの中だけは、血の匂いなど一切しない、温かくて甘いお茶と、新しい衣装への期待に満ちた空気に包まれていたのである。