### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 4. 聖杯戦争の開始を悟るキャスター
メディアがこのアンティークショップに転がり込んでから、数日の時が流れた。
外の世界——冬木市に渦巻く不穏な空気とは裏腹に、宝鐘マリンの生活はこれ以上ないほど充実し、かつ怠惰な輝きを放っていた。
「うわぁ……っ! すごい、すごいよメディア! これ、本当に私が描いたデザイン!?」
夜の店内。アンティークのランプが柔らかく照らす空間で、マリンは等身大の鏡の前で歓声を上げていた。
彼女が身に纏っているのは、赤と黒を基調とし、金色の装飾が施された豪奢な海賊風のドレス。コルセットが腰のラインを美しく引き締め、幾重にも重なる深紅のフリルが動くたびにふわりと揺れる。
生地の光沢、刺繍の細やかさ、そして何より着心地の軽さ。どれをとっても一級品の、いや、人間の職人では到底辿り着けない領域の芸術品だった。
「ええ、マリン。あなたのプロポーションを完璧に計算して仕立てたわ。……ああ、素晴らしい。私の目に狂いはなかった。あなたは本当に、どんな美しい服も着こなしてしまうのね!」
メディアは両手を組み合わせ、うっとりとした熱を帯びた瞳でマリンを見つめていた。その顔は、冷酷な魔女というよりも、推しのアイドルを最前列で拝む熱狂的なファンのそれに近い。
「ふふっ、これで次の即売会とかイベントに行ったら、絶対目立っちゃうね! メディア、本当にありがとう。私の一生の宝物にする!」
「イベント……? ええ、外に出るのは少し危険だけれど、マリンが望むなら私が護衛としてついて行くわ。あなたがその服で輝く姿、絶対に見逃せないもの」
くるくると回ってドレスの裾を揺らすマリンを見て、メディアの胸の奥底に、これまでに感じたことのない温かく甘い感情が満ちていく。
家事全般を引き受け、マリンの身の回りの世話を焼き、彼女の趣味を全力でサポートする。
それは「魔術師のサーヴァント」という本来の役割からは大きく逸脱していたが、メディアにとってはこの平穏な日々こそが、何にも代えがたい救いだった。
しかし、その幸福な時間は、世界の裏側で進行する冷酷な法則によって、唐突に破られることとなる。
その日の深夜。
マリンが満足してベッドに潜り込み、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた頃。
1階の店舗スペースで、一人静かに瞑想に耽りながら結界の調整を行っていたメディアは、唐突に目を見開いた。
**「——っ!?」**
息を呑み、立ち上がる。
紫水晶の瞳が、壁を、建物を、そして冬木の街を透過して、遥か遠くの夜空を睨みつけた。
(……何という、規格外の魔力……!)
それは、物理的な光ではない。魔術に携わる者、あるいは特異な霊媒体質を持つ者にしか知覚できない、極めて純度が高く、そして圧倒的な質量を持った『魔力の奔流』だった。
まるで、冬木の夜空を真っ二つに切り裂くような、黄金の光の柱。
それが、冬木市の住宅街——深山町の方角から、天に向かって立ち昇ったのだ。
「……間違いない。最高位の英霊。おそらくは『セイバー』のクラス。それが、今この瞬間に召喚された……」
メディアの表情から、先程までの穏やかな姉のような顔が消え失せ、冷徹な神代の魔女としての顔が表に浮かび上がる。
聖杯戦争において、最後に残ったピースが埋まった。
それはつまり、互いの願いを懸けて殺し合う、七人のマスターと七騎のサーヴァントによる凄惨な儀式が、ついに本格的な火蓋を切ったことを意味している。
メディアは目を閉じ、自身の魔力網を冬木市全域へと広げた。
マリンという無尽蔵の魔力タンクを持つ今の彼女にとって、遠く離れた場所の霊脈の乱れを読み取ることなど造作もない。
黄金の光が立ち昇った震源地。その正確な座標を割り出していく。
(深山町の、端。武家屋敷のような広い敷地を持つ家……。あそこは、確しか……)
そこまで解析した瞬間、メディアの脳裏に、数日前にマリンの口から聞いた「ある少年」の情報がフラッシュバックした。
『士郎君っていうんだけどね、すっごく家庭的で、料理上手で。あの子のおかげで私、なんとか生きてるんだ〜』
温かい夕食の思い出と共に語られた、赤毛の少年。
彼が住んでいるという家の住所と、今まさに最強のサーヴァントが召喚された座標が、ピタリと重なり合っていた。
「……衛宮、士郎」
メディアの唇から、小さくその名が漏れた。
彼女の胸中に、冷たい計算が走る。
あの少年が、魔術師として未熟であることは、わずかな接触でも明らかだった。しかし、何らかの要因で聖杯に選ばれ、セイバーを召喚してしまったのだろう。
戦局としては、未熟なマスターに最強のカードが渡ったというだけの話だ。放っておいても、他の陣営に潰されるか、自滅する可能性が高い。
(マリンには、言わない方がいいかもしれないわね……)
それが、冷酷な魔術師としての最適解だった。
争いを嫌い、平和を愛するマリン。彼女にとって、あの少年は大切な弟分だ。彼が殺し合いの渦中に放り込まれたと知れば、間違いなくパニックに陥り、最悪の場合、彼を助けようと無茶をするかもしれない。
メディアの目的はただ一つ。宝鐘マリンというただ一人の主を守り抜き、この結界の中で平穏に暮らすこと。
他人の命など、知ったことではない。
そう結論づけ、メディアは再び結界の調整に戻ろうとした。
「……メディア?」
その時。
背後から、微かに震える声が響いた。
振り返ると、階段の途中に、パジャマ姿のマリンが立っていた。
彼女は胸元をギュッと掴み、顔面を蒼白にして、自身の右手——令呪が刻まれた手の甲を強く握りしめていた。
「マリン? どうしたの、こんな夜更けに。体の具合でも……」
「……なんか、変な感じがしたの。耳鳴りみたいな……すっごく鋭くて、冷たい空気が、あっちの方から……」
マリンが震える指で示した方角。それは見事に、セイバーが召喚された深山町の方角を指し示していた。
魔術の知識は皆無でも、彼女の持つ異常なまでの直感と霊媒体質が、冬木を揺るがした巨大な魔力変動を『不吉な予感』として感じ取ってしまったのだ。
「……ねえ、メディア。今、何かあったの? あなた、すっごく怖い顔してた」
誤魔化すことは、できない。
メディアは一つ小さなため息をつき、静かに首を振った。
「……隠し立てはしないわ。マリンの言う通りよ。今、この冬木に、新たなサーヴァントが召喚されたわ。おそらく、非常に強力な英霊が」
「サーヴァントが……。じゃあ、本格的に『聖杯戦争』が始まっちゃうの?」
「ええ。これからは、毎晩のように街のどこかで血が流れることになる。でも安心して、マリン。この工房の防壁は完璧よ。私たちはここに引き篭もっていれば、誰一人として近づくことは——」
「どこなの?」
マリンの声が、メディアの言葉を遮った。
普段の彼女からは想像もつかないほど、低く、切羽詰まった声。
「その……新しいサーヴァントが呼ばれたのって、どこ? 私、すごく嫌な予感がするの。胸がざわざわして、落ち着かなくて……お願い、教えて」
メディアは唇を噛んだ。
ここで嘘をつけば、彼女の直感はそれを敏感に察知し、二人の間の信頼にヒビが入る。
メディアにとって、それだけは絶対に避けなければならない事態だった。
「……深山町よ。そこにある、日本家屋の敷地内」
「——っ!」
「……ええ。マリンの嫌な予感は当たっているわ。そこは、あなたが『士郎君』と呼んでいた、あの少年の家よ」
その瞬間、マリンの時間が止まったかのように見えた。
瞳孔が収縮し、呼吸が浅くなる。
「しろう、くんが……? 嘘でしょ……だってあの子、ただの高校生で……料理が得意なだけの、普通の男の子だよ……?」
「彼からは、微弱ながら魔術回路の気配を感じたわ。おそらく、何かをきっかけに聖杯にマスターとして選ばれてしまったのよ。……聖杯戦争は、無慈悲なもの。一度選ばれれば、逃げることは許されない。戦って殺すか、何もしないまま殺されるかの二択しかないの」
殺される。
その単語が、マリンの鼓膜を容赦なく叩き据えた。
脳裏に浮かぶのは、いつも呆れたような顔をしながらも、手際よく温かいご飯を作ってくれる士郎の姿。
そして、「士郎のご飯は最高ね!」と大口を開けて笑う大河の笑顔。
あの温かい食卓が。大河の太陽のような笑顔が。士郎という存在が理不尽な暴力によって奪われることで、永遠に失われてしまう。
「だめ……」
マリンは、その場にへたり込みそうになる足に必死で力を込め、ギリッと唇を噛んだ。
「そんなの、絶対にだめだよ……っ!!」
恐怖で足はガクガクと震えている。
痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。血を見るのも、誰かが傷つくのも、自分が死ぬかもしれないのも、全部、全部嫌だ。
布団を被って、この安全なアンティークショップの中で、メディアと一緒に震えながら全てが終わるのを待っている方が、何万倍も賢い。
けれど。
自分の大切な居場所を、大切な人たちを、よく分からない魔術師たちの勝手な都合で奪われることだけは。
それだけは、絶対に、我慢できなかった。
「……マリン。あなたは、どうしたいの」
メディアが、静かに問う。
もしここで主が「怖いからここにいる」と言えば、メディアは全力で彼女を甘やかし、共に隠れ潜むだろう。
だが。
「……助けなきゃ」
顔を上げたマリンの瞳には、恐怖による涙が浮かんでいた。
しかし、その奥底には、決して折れることのない強烈な意志と、大切なものを守ろうとする母性のような強さが燃え上がっていた。
「士郎君は、私のかわいい弟分だもん。あの子が死んじゃったら、大河が悲しむ。私も悲しい。……誰も傷つかないでほしい。だから、私……何ができるか分からないけど、士郎君を守りたい」
その言葉を聞いた瞬間、メディアの胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
ああ、やはりこの人は、そういう人なのだ。
見ず知らずの、雨の中で死にそうになっていた自分を助けた時と同じ。
自分が傷つくことを極端に恐れながら、それでも他人のために、震える足で立ち上がれる人間。
「……本当に、世話の焼けるマスターね。あなたは」
メディアはふっと柔らかく微笑むと、マリンの前に歩み寄り、その震える小さな肩を優しく抱き寄せた。
「いいでしょう。あなたがそれを望むなら、私は私の持てる魔術の全てを以て、その少年を死地から引き摺り出してみせます。この『裏切りの魔女』の知略、存分に頼りになさい」
「メディア……っ!」
「泣かないの。せっかくの綺麗な顔が台無しよ。さあ、そうと決まったら、早急に情報収集と対策を練らなければね。忙しくなるわよ、マリン」
こうして、アンティークショップの平和な夜は終わりを告げた。
聖杯にかけて叶えたい願いなど、何一つない。
ただ「誰も傷つけず、平和な日常を取り戻す」という、聖杯戦争において最も困難で、最も美しい目的のために。
宝鐘マリンとメディアの主従は、自らの意思で、血塗られた運命の歯車の中へと足を踏み入れていくのであった。