### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 5. ランサーの襲来
冬木の街に、分厚い灰色の雲が垂れ込めていた。
日没にはまだ少し間があるというのに、港近くの倉庫街はすでに夜の帳が下りたかのような薄暗さに包まれている。潮風が吹き抜けるたび、錆びたトタンが微かに軋む音だけが、不規則なリズムを刻んでいた。
宝鐘マリンは、両手に提げた買い物袋の重みに小さく息をつきながら、人気の途絶えたアスファルトの上を歩いていた。
袋の中身は、特売だった大量の保存食と、衣装作りのための良質なベルベット生地、そしてメディアが好んで飲む高級な茶葉である。
士郎が聖杯戦争に巻き込まれたと知った昨夜から、マリンの頭の中はどうやって彼を助け出すかという思考で埋め尽くされていた。
メディアの知略を頼るとはいえ、相手は七人の魔術師と七騎の英霊が殺し合う異常な世界だ。引きこもってやり過ごすはずだった方針を転換する以上、事前の準備はいくらあっても足りない。
今日はメディアに「絶対安全な工房の中で待っていて」と厳命し、一人で足早に買い出しを済ませてきた帰り道だった。
「……早く帰ろう。なんだか、すごく空気が冷たい」
マリンはカーディガンの前を掻き合わせ、歩調を速めた。
冬の寒さとは違う。肌の表面ではなく、骨の髄に直接触れてくるような、ぞっとするような冷気。
そして、周囲から『音』が消え去っていることに気付いた。
遠く聞こえていたはずの車のエンジン音も、カモメの鳴き声も、波の音すらも。まるで世界から自分だけが切り取られ、真空の箱の中に閉じ込められたような、圧倒的な静寂。
マリンの特異な直感(霊媒体質)が、警報(アラーム)をガンガンと鳴らし始める。
——何かが、いる。
——すぐ近くで、明確な『殺意』がこちらを見下ろしている。
「……ッ」
足を止め、マリンは恐る恐る視線を上げた。
十メートルほど先の、打ち捨てられたコンテナの上。
そこに、一人の男がしゃがみ込んでいた。
青い全身タイツのような、異国の戦装束に身を包んだ男。
海のような青い髪に、獲物を狙う猛獣のように鋭い赤い瞳。
そして彼の手には、身の丈を超えるほど長く、禍々しい血の赤色をした『槍』が握られていた。
「おや。気配を消していたつもりだったが、素人に毛が生えた程度の小娘に勘付かれるとはな。俺も随分と焼きが回ったもんぜ」
男——ランサーが、肉食獣の笑みを浮かべて立ち上がった。
その瞬間、彼から放たれる尋常ではない魔力と血の匂いが、物理的な圧力となってマリンを打ち据えた。
「ひっ……!」
マリンの喉が引きつり、手から買い物袋が滑り落ちる。
ガチャン、と瓶の割れる音が静寂を破った。
怖い。足がすくんで、一歩も動けない。目の前にいるのは、人間ではない。間違いなく、メディアが言っていた『サーヴァント』の一人だ。
「その右手の令呪……なるほど、お前もマスターの一人ってわけだ。だが、魔術の防壁も張らねえ、護衛のサーヴァントも連れ歩かねえ。随分と舐めたマネをしてくれるじゃねえか、お嬢ちゃん」
ランサーは槍を肩に担ぎ、コンテナの端へと歩み寄る。
「聖杯戦争のルールは知ってるな? 出会ったが最後、殺し合うのが俺たちの定めだ。恨むなら、こんなふざけた殺し合いにお前を巻き込んだ、己の不運を恨むんだな」
言葉が終わるよりも早く。
ランサーの姿が、掻き消えた。
「——え?」
マリンの動体視力では、彼が『跳躍した』ことすら知覚できなかった。
ただ、次の瞬間には、彼女の目の前、ほんの数十センチの距離にランサーが着地し、その必殺の赤い槍が、マリンの心臓めがけて真っ直ぐに突き出されていたのだ。
死ぬ。
そう理解する時間すら与えられない、神速の一撃。
**「——させませんッ!!」**
だが、槍の穂先がマリンの衣服を掠める直前。
マリンの足元の影から、凄まじい魔力の奔流と共に、紫色のローブが弾け飛んだ。
**ガアァァァァァァンッッ!!!**
空気を切り裂く金属音と、魔力の衝突による爆発。
爆風が吹き荒れ、マリンは弾き飛ばされるようにして尻餅をつく。
「……チッ。やはりタダの素人じゃなかったか。随分と過保護な番犬を飼ってるじゃねえか」
ランサーが舌打ちと共に後方へ跳躍し、距離を取る。
マリンの目の前には、両手を広げ、彼女を庇うように立ち塞がるメディアの姿があった。その顔には、普段の穏やかさなど微塵もない。愛する主の命が脅かされたことに対する、絶対零度の激怒が張り付いていた。
「よくも……よくも私のマリンに、その穢らわしい槍を向けましたね、野犬……っ!」
メディアの周囲の空間が、彼女の怒りに呼応して歪み始める。
「メディア……っ!」
「マリン、下がっていてください! この愚か者は、私が塵一つ残さず消し去ります!!」
メディアが流れるような動作で腕を振るうと、空中に無数の魔法陣が同時展開された。
神代の魔術師による『高速神言』。現代の魔術師が何節もの詠唱を必要とする大魔術を、彼女は一工程(シングルアクション)で、しかも同時に発動させる。
「——『雨のように降り注げ(Αερο)』ッ!!」
展開された魔法陣から、大口径の砲弾に匹敵する光弾が、文字通り雨あられのようにランサーへと降り注いだ。
「はっ! 上等だ、魔術師(キャスター)!!」
ランサーは凶悪な笑みを深め、赤い槍を風車のように旋回させた。
ドドドドドドドッ!!
光弾がアスファルトをえぐり、周囲のコンテナを紙くずのように吹き飛ばす。しかし、ランサーはその圧倒的な弾幕の雨を、超人的な敏捷性と槍の神技によって全て弾き落とし、あるいは紙一重で躱しながら、メディアへと肉薄していく。
(……なんてデタラメな魔力だ。本陣でもねえこんな道端で、なんでこれだけの神代の魔術を連発できる?)
ランサーは内心で驚愕していた。
キャスタークラスは、陣地(工房)の中であれば無類の強さを発揮するが、野戦においては最弱であるのが定石だ。
だが、目の前の紫の魔女は、呼吸をするように大魔術を乱発している。その魔力の供給源は——。
ランサーの鋭い視線が、メディアの背後で震えているマリンを捉えた。
(あの小娘……。ただの素人かと思ったが、馬鹿みたいに澄んだ魔力(オド)を垂れ流してやがる。あいつがキャスターの『無尽蔵の魔力タンク』ってわけか)
ならば、話は早い。
サーヴァントを相手にするより、マスターの首を落とすのが一番の近道だ。
「よそ見をしている余裕があるのですか!」
「おっと!」
メディアの放った空間凍結の魔術を寸前で避け、ランサーはわざと大きく横へ跳んだ。
壁沿いのコンテナを蹴り上げ、空中を三角跳びの要領で不規則に反射。メディアの魔法陣の死角に回り込む。
「本命はこっちだぜ、お嬢ちゃん!」
メディアを迂回し、ランサーはマリンの頭上から急降下した。
狙いは、マリンの首すじ。
「——ッ! マリン!!」
メディアの悲痛な叫びが響く。彼女の反応速度でも、間に合わない。
死の恐怖が、マリンの全身を金縛りにする。
逃げなきゃ。避けなきゃ。
頭では分かっているのに、身体は凍りついたように動かない。迫り来る赤い槍の穂先が、スローモーションのように眼球に焼き付く。
——ああ、私、死ぬんだ。
争いごとが嫌いで、痛いのが嫌いで、いつも逃げてばかりだった自分。
結局、こういう理不尽な暴力の前には、何もできずに終わるのだ。
そうやって絶望が脳を支配しかけた、その瞬間。
『……でも、あなたが死んじゃうのを見ているなんて、絶対に嫌だ!』
出会った夜、消えかけていたメディアに叫んだ自分の言葉が、脳裏にフラッシュバックした。
自分が死ぬのは怖い。
けれど。自分を庇って、悲痛な顔で手を伸ばしているメディアが、ここで主を失って泣き叫ぶ姿を想像することは、死ぬことよりもずっと、恐ろしく、胸が張り裂けそうだった。
「……やぁぁぁっ!!」
マリンは、逃げるのではなく。
目を固く瞑り、両腕を顔の前にクロスさせながら、ランサーの槍とメディアの間に、**自ら一歩、前に踏み出したのだ。**
サーヴァントの攻撃を一般人が防げるわけがない。それは完全に、身を挺しただけの自殺行為だった。
「なっ——!?」
しかし、そのマリンの『素人ゆえの、しかし絶対の自己犠牲』の動きが、ほんのコンマ数秒、ランサーの槍の軌道に躊躇い(ブレ)を生じさせた。
「——『退け(Χώρος)』ッ!!」
その一瞬の隙を、神代の魔女が見逃すはずがなかった。
メディアは自身の魔術回路が焼き切れるのも厭わず、空間転移の魔術を強引に発動。マリンの身体を自身の背後へと引き寄せると同時に、ランサーの足元の空間を爆砕した。
「チィッ!!」
強烈な爆風に煽られ、ランサーは舌打ちと共に大きく後方へ飛び退いた。
アスファルトが大きくえぐれ、周囲には土煙と魔力の残滓がもうもうと立ち込めている。
「ハァッ……ハァッ……マリン、大丈夫ですか!?」
「う、うん……ごめん、なさい……」
腰が抜け、地面に座り込んで震えるマリンを、メディアが庇うように覆い隠す。
土煙の向こうで、ランサーは槍を地面に突き立て、呆れたように頭を掻いていた。
(……やれやれ。なんだってんだ、あの素人マスターは。サーヴァントの攻撃の前に、自ら盾になりにきやがったぞ)
魔術師としての合理性など皆無。
だが、その無謀なまでの『身内を守ろうとする意地』は、ケルトの英雄であるクー・フーリンにとって、決して嫌いなものではなかった。
それに、彼の今回の目的は『全員の撃破』ではない。
(『すべてのサーヴァントと戦い、生き延びて帰還しろ』。……ウチの胡散臭い神父(マスター)の令呪の命令は果たした。それに、本陣でもない場所で、あの無尽蔵の魔力を持つ女狐を相手にするのは、骨が折れすぎる)
ランサーは、槍をクルリと回して肩に担ぎ直した。
「……興が削がれた。今日はこの辺で勘弁してやるよ、キャスター。それに、そこのお嬢ちゃんもな」
「……逃げる気ですか。マスターを狙った貴方を、私が生かして帰すとでも?」
メディアが再び魔法陣を展開しようとするが、ランサーはニヤリと笑って手を振った。
「吠えるなよ。俺の狙いは偵察だ。お前ら陣営の底なしの魔力量は、よく分かった。……おい、そこの小娘マスター」
ランサーの鋭い視線が、マリンを射抜く。
「お前、魔術師としては三流以下のド素人だが……その根性だけは認めてやる。だがな、次会った時はその首、確実に貰い受けるぜ。精々、そこの優秀なキャスターのスカートの陰に隠れて生き延びることだな!」
高笑いを残し、ランサーの姿は霊体化し、冬木の空へと溶けるように消え去った。
「……待ちなさいっ!」
メディアが追撃をしようと前に出たが、背後から服の裾を弱々しく引っ張られ、足を止めた。
「もう、いいよ……メディア……。いなく、なったから……」
「マリン……!」
マリンの限界だった。
張り詰めていた糸が切れ、マリンの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
ガチガチと歯の根が合わず、全身の震えが止まらない。圧倒的な暴力による死の恐怖が、遅れて身体中を支配していた。
「怖かった……っ、殺されるかと、思った……っ!」
「マリン……! ああ、ごめんなさい、私がついていながら、あなたにこんな恐ろしい思いを……!」
メディアは即座に魔法陣を消し去り、地面にへたり込むマリンを強く、強く抱きしめた。
その温もりと、メディアの服から香る安心する匂いに包まれ、マリンは彼女の胸に顔を埋めて声を上げて泣きじゃくった。
「バカなことをしないでください……! なぜ、逃げずに前に出たのですか! あなたが傷ついたら、私が生きている意味がないのですよ……っ!」
メディアの声もまた、恐怖と怒りと、そして深い愛情に震えていた。
「だって……っ。メディアが、死んじゃうの……嫌だったんだもん……」
「……っ。この、馬鹿……私よりも、自分の命を最優先にすると、約束したでしょう……」
冷たいアスファルトの上で、二人は身を寄せ合い、互いの無事を確かめ合うように抱きしめ合った。
聖杯戦争の過酷な現実。
それは、マリンが想像していた以上に冷酷で、理不尽で、容赦のないものだった。
だが同時に、この恐怖を味わったからこそ、マリンの心の中で一つの決意が鋼のように固まっていった。
(……こんな恐ろしい殺し合いに、士郎君が巻き込まれてるんだ)
自分は、メディアという規格外のサーヴァントに守られて、ようやく命を拾った。
では、未熟な魔術師である士郎はどうなる?
彼がもし、あのランサーのような化け物たちと一人で戦っているのだとしたら。
(……助けなきゃ。絶対に)
涙を拭い、マリンはメディアの腕の中で顔を上げた。
恐怖でまだ足は震えている。だが、その瞳に宿る光は、ただの一般人のものではなく、大切な者を守るために修羅道へ踏み入る覚悟を決めた、確かな『マスター』の瞳へと変わっていた。