### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 6. 士郎の訪問と、すれ違う思惑
ランサーの強襲から一夜が明けた。
アンティークショップ『マリン』の店内は、何事もなかったかのように静寂とカチコチという時計の音に包まれていた。メディアの張った強固な結界のおかげで、昨夜の路地裏での戦闘の余波は一切この店には届いていない。
しかし、宝鐘マリンの心の中には、まだ冷たい恐怖の残滓がこびりついていた。
自身の命が理不尽な暴力によって奪われかけた記憶。そして、そんな狂気の世界に、あの心優しい弟分が巻き込まれているという確信。
「……はぁ」
カウンターで紅茶のカップを両手で包み込みながら、マリンは深いため息をついた。
その時である。
**カランカランカランッ!**
「マリンさん、こんにちは。起きてますか?」
聞き慣れたドアベルの音と共に、店の扉が開いた。
そこに立っていたのは、見慣れたスーパーのレジ袋を提げた衛宮士郎だった。いつものように、少しだけ申し訳なさそうな、けれど人の良さが滲み出た微笑みを浮かべている。
「あ、士郎君! いらっしゃい!」
マリンはパッと表情を明るくして立ち上がった。
だが、カウンター越しに彼へ近づいた瞬間、マリンの特異な直感——『霊媒体質』が、けたたましい警鐘を鳴らした。
(——っ、なに、これ)
士郎の出で立ちは、いつもと変わらない私服姿だ。
しかし、マリンの鼻腔を突いたのは、いつもの洗剤の香りではなく、微かな『鉄の匂い』だった。血だ。しかも、一度や二度かすり傷を負った程度のものではない。致死量に近い血を流し、それが無理やり塞がれたような、生々しくも奇妙な匂い。
さらに、彼の身体全体を薄く覆うように、昨日ランサーから感じたものと同じ、焦げるような魔力の残滓がこびりついている。
「マリンさん? どうかしましたか、顔色悪いですよ。風邪でも引きました?」
「えっ? あ、ううん! なんでもないよ。ちょっと寝不足なだけ。それより、今日もご飯作りに来てくれたの?」
「はい。昨日買い出しに行ったついでに、大根が安かったんで。藤ねえも後で来るって言ってましたけど、とりあえず昼飯作っちゃいますね」
士郎は全く普段通りに、何事もなかったかのように奥の居住スペースのキッチンへと向かっていく。
その後ろ姿を見つめながら、マリンはギリッと唇を噛み締めた。
(士郎君の歩き方、少し左足を庇ってる……。それに、服の下……あんなにガチガチにテーピングかなにか巻いてるのに、どうして平気な顔して笑えるの?)
メディアの言っていた通りだった。
衛宮士郎は、すでに聖杯戦争に巻き込まれている。それも、おそらく昨夜、血みどろの死闘を繰り広げたばかりなのだ。
それなのに、彼はマリンに一切の心配をかけまいと、痛みを隠して『いつもの日常』を演じている。
「……士郎君ってば、ほんとバカなんだから」
マリンは小さく呟き、キッチンへと後を追った。
「はい、お待たせしました。ふろふき大根と、鶏肉の照り焼きです」
手際よく作られた昼食がテーブルに並ぶ。
メディアは士郎が来るのを察知し、あらかじめ霊体化して気配を絶っていた。今はマリンと士郎の二人きりだ。
「わぁ……美味しそう! いただきまーす」
マリンは箸をつけながら、さりげなく士郎の顔を観察した。
目の下には微かに隈があり、疲労の色は隠しきれていない。
「……ねえ、士郎君」
「はい? 味、薄かったですか?」
「ううん、すっごく美味しいよ。ただ、ちょっと気になって……。最近、士郎君、無理してない? なんだかすごく疲れてるみたいに見えるし、それに……なんだか、危ないこと、してない?」
マリンの真っ直ぐな問いかけに、士郎は箸を止めた。
一瞬だけ、彼の瞳に強い動揺が走るのをマリンは見逃さなかった。しかし、士郎はすぐにいつもの困ったような笑顔を作った。
「危ないことなんてしてませんよ。ただ、ちょっと家の手伝いとか、弓道部のことでバタバタしてるだけで。俺は丈夫ですから、心配いりませんよ、マリンさん」
(……嘘つき)
マリンは心の中で悲しく呟いた。
彼は、マリンを——一般人である『知り合いの綺麗なお姉さん』を、自分の抱え込んだ地獄から遠ざけようとしているのだ。彼なりの優しさと、自己犠牲の精神。
「……そっか。ならいいんだけど。でも、何かあったら絶対にお姉さんに相談するんだよ? 私、これでも大人だからね。士郎君の力になれること、あるかもしれないから」
「ははっ、ありがとうございます。でも、マリンさんはそのままでいてください。いつも綺麗で、部屋も片付いてて、でもご飯だけは俺が作らないとダメな、そういうマリンさんでいてくれるのが、俺の安心ですから」
士郎のその言葉には、嘘偽りのない本心がこもっていた。
狂気の世界に足を踏み入れてしまった彼にとって、このアンティークショップで過ごす平和な時間は、己の人間性を繋ぎ止めるための大切な錨(アンカー)なのだ。
「……もう、生意気なんだから」
マリンは少しだけ涙ぐみそうになるのを誤魔化すように、ふろふき大根を口に運んだ。
彼がこれほどまでに自分を守ろうとしてくれている。なら、自分も大人として、マスターとして、この子を絶対にお兄ちゃん……いや、姉として守り抜いてみせる。
決意を新たに、マリンは昼食を平らげた。
昼食後、士郎が足早に帰っていくのを見送ったマリンの背後に、紫色の光の粒子が集束し、メディアが実体化した。
「……行きましたね」
「うん。……メディアの言う通りだった。士郎君、すごく無理して笑ってた。血の匂いもしたし、魔力の匂いもした」
「ええ。それに彼の衣服には、あのセイバーの魔力の残滓が色濃く残っていました。間違いないわ。あの少年が、最強のカードであるセイバーのマスターよ」
メディアの紫水晶の瞳が、冷徹な光を帯びて細められる。
彼女はマリンの前に進み出ると、魔術師としての極めて合理的、かつ冷酷な提案を口にした。
「マリン、よく聞いて。あの少年は確かに善良だけれど、魔術師としては致命的なまでに未熟よ。いずれ必ず足元をすくわれ、セイバーという最強の盾すら活かしきれずに死ぬわ」
「……」
「だから、私から提案があるの。私が彼に『暗示』をかけ、洗脳する。あるいは、私の宝具である『破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)』を使って、セイバーの契約権を彼から奪い取る」
その言葉に、マリンの肩がビクッと跳ねた。
「そうすれば、あの強力なセイバーは私たちの手駒になるわ。マリンの無尽蔵の魔力でセイバーを十全に使役すれば、他のどの陣営も私たちには手出しできない。マリンの安全は完全に確保されるし、あの少年も戦いから解放されて『生かす』ことができる。一石二鳥の、最も完璧な計画よ」
メディアの言葉は、理にかなっていた。
彼女は彼女なりに、どうすれば最も安全に宝鐘マリンというただ一人の主を守り抜けるか、徹夜で思考を巡らせた結果なのだ。
邪魔なマスターからサーヴァントを簒奪し、己の戦力とする。それは『裏切りの魔女』と呼ばれる彼女にとって、最も得意で、最も手っ取り早い手段だった。
「……メディア」
うつむいていたマリンが、静かに口を開いた。
その声は、震えていた。しかしそれは、恐怖からくる震えではなかった。
「……絶対に、ダメ」
顔を上げたマリンの瞳には、かつてないほどの強い怒りと、悲しみが浮かんでいた。
「絶対にダメ! 他人を傷つけるのも、士郎君の心を操って利用するのも、セイバーさんを奪うのも! 全部、絶対に嫌だ!!」
「マ、マリン……? でも、そうしなければ、あなたの命が——」
「私の命が助かれば、それでいいの!? 士郎君の心を壊して、彼が一番大切にしてるものを奪って、それで安全地帯でヘラヘラ笑ってるなんて、そんなの生きてるって言わない!!」
マリンの叫びが、アンティークショップに響き渡った。
「私はね、争いが嫌いだよ。痛いのも怖いのも大嫌い。できればずっと、この店でメディアとお茶飲んで、コスプレの衣装作って、平和に暮らしていたい」
マリンは、メディアの腕を両手で強く掴んだ。
その力強さに、メディアは思わず息を呑む。
「でも! 誰かの不幸の上に成り立つ平和なんて、いらない! 士郎君は、私を守ろうとして笑ってくれたの。その士郎君から、戦う理由も、誇りも奪って、操り人形にするなんて……そんなの、昨日私を殺そうとしたランサーや、外道の魔術師たちと一緒じゃない!!」
「……っ!」
「私たちは、誰も傷つけない! 士郎君も、セイバーさんも、もちろんメディアも! 全員が笑って生き残る方法を探すの! もしメディアが私の言うことを聞けないっていうなら……私、令呪を使ってでも止めるからね!」
涙をポロポロとこぼしながら、それでも真っ直ぐにメディアを見据え、一歩も引かずに言い放つマリン。
メディアは、目を見開いたまま固まっていた。
生前、彼女を利用し、裏切り、道具として扱ってきた王や英雄たち。
己の目的のためなら、他者を蹴落とし、奪い取るのが当たり前の世界。メディア自身も、それが生き残るための唯一の術だと信じ込んでいた。
だが、目の前のこの少女はどうだ。
ただの一般人で、魔術の知識もなく、戦闘力も皆無。
それなのに、自分の命よりも『他者の尊厳』を重んじ、誰も傷つけないという最も困難で、最も甘い理想を、本気で貫こうとしている。
(……ああ。私は、なんて愚かな提案をしてしまったのだろう)
メディアの胸の奥で、冷たく凍りついていた魔術師としての論理が、マリンの流す熱い涙によって完全に溶かされていくのを感じた。
呆れるほどの善性。底抜けのお人好し。
しかし、だからこそ。メディアはこの少女に惹かれ、この命を捧げたいと願ったのではないか。
「……ふふっ」
不意に、メディアの唇から柔らかな笑みがこぼれた。
彼女はマリンの手に自分の手を重ね、まるで大切な宝物を扱うように、優しく包み込んだ。
「ごめんなさい、マリン。私が間違っていたわ。……あなたは、本当にどこまでも優しくて、そして強い人ね」
「メディア……?」
「あなたを不快にさせるような提案をしたこと、許してちょうだい。もう二度と、あの子を傷つけるような真似はしない。ええ、あなたの言う通りよ。私たちは私たちのやり方で、誰も欠けることなく、この理不尽な戦争を生き抜いてみせましょう」
メディアの紫水晶の瞳には、冷酷な魔女の影は微塵もなく、ただ主への絶対の親愛と、揺るぎない忠誠だけが輝いていた。
「……ほんと? 本当に、士郎君を洗脳したりしない?」
「ええ、神に誓って。……まあ、私は神々をあまり信じてはいないけれど、私のたった一人のマスターであるマリンには、絶対に嘘はつかないわ」
「……よかったぁ……っ」
安堵から一気に力が抜け、マリンはその場にへたり込みそうになる。それをメディアが慌てて支え、優しく背中を撫でた。
「でも、マリン。誰も傷つけずに生き残るというのは、口で言うほど簡単な道ではないわ。血を流す覚悟がないのなら、それ以上の知略と、行動力が必要になる。……あの衛宮士郎の陣営と、接触を図る必要があるわね」
「うん。士郎君が無理して戦うなら、私がお姉ちゃんとして、隣で手綱を握ってあげなきゃ」
マリンは涙を拭い、力強く頷いた。
すれ違いかけた二人の思惑は、マリンの強烈な善性によって一つに結ばれた。
ここから、魔術協会にも聖杯にも縛られない、異端にして最も温かい『第4の陣営』が、冬木の運命を大きく動かしていくための作戦会議が、夜通し行われることとなる。