### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 7. アーチャー陣営との遭遇と看破
冬木の夜は、昼間とは全く異なる顔を持つ。
街灯の光が届かない路地裏や、静まり返った公園には、血の匂いと魔力(オド)の残滓が濃密に漂っていた。
「……やっぱり、夜の冬木は空気が悪いね。なんだか息が詰まりそう」
宝鐘マリンは、厚手のトレンチコートの襟を立て、小さく身震いをした。
隣を歩くのは、黒いロングコートで紫のローブを隠したメディアだ。彼女はマリンの周囲に不可視の索敵結界を展開しながら、油断なく周囲に目を光らせていた。
士郎を守るための情報を集めるべく、二人は夜の街へと偵察に出たのである。
本来ならマスターであるマリンが直接出向くのは危険極まりない行為だが、彼女の異常なまでの直感(サイコメトリー)は、メディアの魔術的な索敵を補う強力なレーダーとして機能していた。
「我慢してください、マリン。……ですが、確かに妙ですね。聖杯戦争の序盤にしては、サーヴァントの気配が少なすぎる。ランサーもセイバーも、息を潜めているようです」
「うーん……士郎君、無事だといいんだけど……」
二人が深山町の住宅街から少し離れた、静かな公園の横を通りかかったその時だった。
**「——随分と呑気なマスターとサーヴァントね。夜の散歩のつもりかしら?」**
凛とした、しかし冷ややかな敵意を含んだ声が、闇の中から響いた。
「——ッ!」
メディアが即座にマリンの前に立ち塞がり、両手に紫色の魔力を集束させる。
街灯の光の下に歩み出てきたのは、赤いコートを着たツインテールの少女だった。
年の頃は士郎と同じくらいだろうか。しかし、その瞳に宿る知性と魔力は、まごうことなき一流の魔術師のそれだった。遠坂凛である。
そして、彼女の背後の影が揺らぎ、ぬらりと一人の大柄な男が実体化した。
赤と黒を基調とした外套(マント)。褐色の肌に、白髪。
彼が現れた瞬間、周囲の空気が一気に重くなり、研ぎ澄まされた刃物のようなプレッシャーがマリンたちを包み込んだ。
「……アーチャーのクラスね。姿を見せるとは、舐められたものだわ」
「ふん。そちらのマスター、素人同然の魔力ダダ漏れ状態じゃない。……でも、そのサーヴァントの魔力、異常ね。神代の魔術師(キャスター)と見たわ」
凛は警戒を解かず、右手に宝石を握りしめた。
一触即発の空気。マリンはメディアの背中に隠れながら、ガクガクと震える膝を必死に押さえていた。
(こ、怖い……! 昨日会ったランサーよりは話が通じそうだけど、あの赤い服の男の人、すっごく強いのが分かる……!)
「アーチャー、いつでもいけるわね?」
凛の問いかけに、赤い外套の男——アーチャーが、低く皮肉めいた声で応える。
「ああ。だが、あのキャスターは陣地外とはいえ厄介だ。マスターを庇いながらでは、そちらの小娘を守り切れないぞ」
「舐めないで。私は自分の身くらい自分で守るわよ」
アーチャーが一歩、前に出る。
その瞬間だった。
**「——投影、開始(トレース・オン)」**
アーチャーの呟きと共に、彼の両手に青白い閃光が走った。
魔力によって物質を編み出す魔術。瞬きする間に、彼の手には陰と陽、白と黒の美しい双剣——『干将・莫耶』が握られていた。
チャキ、と金属音が鳴り、アーチャーが姿勢を低くして双剣を構えた。
主である凛を背後で守るように、大きく、そして堅牢な盾のように立ち塞がるその姿勢。
その時。
マリンの脳内に、**強烈な落雷のような衝撃**が走った。
「……え?」
マリンの特異な『霊媒体質』と『アンティークの来歴を読み取る直感』が、アーチャーの投影した双剣に強烈に反応したのだ。
ただの魔力で作られた剣ではない。
そこには、その剣を打った者の『魂の在り方』、狂気じみた信念、そして……マリンがよく知る、ある少年の『不器用で、誰かを守るために傷つくことを厭わない自己犠牲の精神』が、ありありと刻み込まれていた。
それだけではない。
視覚的な情報が、マリンの直感をさらに決定づける。
少し前傾になり、左足を軸にして重心を下げる独特の構え。
それは、アンティークショップの台所で、硬いカボチャや魚の骨を包丁で叩き切る時に、士郎が無意識に見せる癖と全く同じだった。
誰かを背後で庇う時の、その広すぎる背中の使い方も。
相手の出方を伺う時に、ほんのわずかに右の眉を動かす微細な表情の変化も。
髪の色も、肌の色も、身長も、声の低さも全く違う。
魔術師なら「別人だ」と即座に切り捨てるだろう。
しかし、一般人であり、日常の些細な仕草を誰よりも見てきた『近所の綺麗なお姉さん』であるマリンの目は、ごまかせなかった。
「…………士郎、君……?」
静寂に包まれた公園に、マリンの呆然とした声が響き渡った。
その言葉が落ちた瞬間。
アーチャーの身体が、まるで不可視の雷に撃たれたかのように、**ビクンッ!!**と激しく硬直した。
「え?」
凛が戸惑いの声を上げる。
アーチャーの構えていた双剣の切先が、信じられないほど無様にブレた。
彼から放たれていた冷酷な殺意と歴戦の英霊としてのプレッシャーが、嘘のように霧散していく。
白髪の男は、目を見開き、信じられないものを見るような……いや、絶対に会ってはならない相手に最悪のタイミングで会ってしまったような、極度の動揺を顔に浮かべていた。
「な、……なぜ、貴女が、ここに……?」
アーチャーの口から漏れたのは、冷酷なサーヴァントの声ではない。
かつて、アンティークショップの台所で「またカップ麺ですか」と呆れていた、あの少年の面影を残す、狼狽えきった声だった。
その反応を見て、マリンの中で『直感』は『確信』へと変わった。
同時に、恐怖よりも先に、お姉さんとしての**得体の知れない怒り**が沸点に達した。
「……ちょっと」
マリンは、自分を庇っていたメディアの結界をズカズカと通り抜け、真っ直ぐにアーチャーの方へと歩き出した。
「マ、マリン!? 何を——」
メディアが止める間もなかった。
「な、ちょっとあんた! 何のつもり!?」
凛が宝石を構えるが、マリンは完全に無視した。
彼女の目は、ただ一点、白髪の男だけをロックオンしていた。
「あ、いや……待て、これは、その……」
アーチャーは完全にペースを崩され、双剣を消して後ずさる。かつての大英雄が、怒れる一般人の女性を前にタジタジになっていた。
マリンはアーチャーの目の前まで歩み寄ると、その赤い外套の胸ぐらを、ガシッ!!とヤンキーのように両手で力いっぱい掴み上げた。
**「ちょっとツラ貸しなさいッ!!!」**
「ぶふぅっ!?」
そのまま、マリンは身長差も体重差も無視するような火事場の馬鹿力を発揮し、アーチャーを強引に公園の公衆トイレの物陰へと引きずり込んでいった。
「ええええええええ!?」
「マ、マスター……!?」
取り残された凛とメディアは、完全に状況が理解できず、ポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
公園の暗がり。
コンクリートの壁に押し付けられたアーチャーは、冷や汗を流しながら視線を泳がせていた。
「……さて。どういうことか、説明してくれるわよね? 士郎君」
マリンは腕を組み、仁王立ちになってアーチャーを睨み下ろしていた(身長は彼の方が高いのだが、気迫で完全に上回っていた)。
「い、いや、人違いではないかな……。私はアーチャー。遠坂凛に召喚されたサーヴァントであり——」
「嘘おっしゃい! あんた、今自分で『なぜ貴女がここに』って言ったじゃない! 目を逸らさない! 私の目を見なさい!」
「ぐっ……」
マリンの真っ直ぐな、そして本気で怒り、心配している瞳。
アーチャーにとって、生前の記憶——『宝鐘マリン』という女性は、誰もが血みどろの争いをしている中で、唯一日常の平穏を体現していた「世話になった優しい姉貴分」だった。
数多の戦場を駆け抜け、冷徹な守護者として摩耗しきった彼の心の中にあってすら、彼女の涙や怒りを見ることは、極めて精神的なダメージが大きかった。
「身長、どうしたの? 髪の毛、なんでそんな真っ白なの!? 肌も焼けてるし! 第一、どうしてあんたが『サーヴァント』になってるのよ! あんたは昨日、私の家で大根煮てたじゃない!!」
「……それは……」
アーチャーは言葉に詰まった。
自分が『未来の衛宮士郎』であること。
正義の味方を目指した果てに、裏切られ、絞首台に送られ、死後も守護者として殺戮を繰り返していること。
そして今、過去の自分を殺すためにこの時代に呼ばれたこと。
そんな絶望的な真実を、争いも痛いことも嫌いで、ただ平穏を愛しているこの優しい女性に、どうして語れるだろうか。
「……すまない。今は、何も言えない」
アーチャーは苦渋に満ちた顔で目を伏せた。
「士郎君……」
マリンの声が、怒りから悲痛な響きへと変わる。
彼が何か、途方もない地獄を抱え込んでいることだけは、その表情から痛いほどに伝わってきた。
「……だが、一つだけ忠告しておく。聖杯戦争から手を引け、マリンさん。貴女のような人が関わっていい領域じゃない。あの魔女(キャスター)の結界に引き篭もり、全てが終わるまで息を潜めているんだ。……私からは、絶対に手出しはしないと誓うから」
それだけを早口で告げると、アーチャーは身を翻した。
これ以上彼女の目を見ていれば、己の冷徹な決意(過去の自分を殺すという目的)が大きく揺らいでしまうと本能で察知したのだ。
「あっ、待ちなさいよ!」
アーチャーは物陰から飛び出すと、まだポカンとしている凛の脇に駆け寄った。
「凛! 撤退だ!」
「はぁ!? ちょっとアーチャー、あんた何言ってるの!? 相手は隙だらけよ、それにあの女に何を言われて——」
「いいから! 今は戦略的撤退だッ!!」
アーチャーは有無を言わさず凛の腰に腕を回し、米俵のように担ぎ上げた。
「きゃああっ!? なにするのよバカ!!」
「キャスター! 今夜は見逃してやる! 追ってくるなよ!」
捨て台詞とも悲鳴ともつかない言葉を残し、アーチャーは超人的な跳躍力で夜のビルの上へと飛び乗り、文字通り『脱兎のごとく』逃げ去ってしまった。
「…………えぇ……?」
取り残されたメディアは、呆然と夜空を見上げていた。
そこへ、物陰からマリンがトボトボと戻ってくる。
「……逃げられちゃった」
「マ、マリン……あなた、一体あのアーチャーに何を……? いえ、それよりなぜ、あの英霊があなたのことを知っているような素振りを……?」
メディアの問いかけに、マリンはギュッと拳を握りしめた。
直感が告げている。あのアーチャーは、間違いなく『衛宮士郎』だ。そして、彼が背負っているものは、昨夜のランサーの殺意よりもずっと重く、悲しいものであると。
「……メディア。帰ろう」
「えっ、偵察はもうよろしいのですか?」
「うん。……あの赤い服の人が、今日の夜中、絶対にお店に来る。……そんな気がするから」
マリンの目は、今までで一番真剣だった。
未来の士郎(アーチャー)が、なぜあんな絶望に満ちた顔をしていたのか。
彼から全てを聞き出し、必ず救い出してみせる。
お姉さんとしての絶対の決意を胸に、マリンとメディアはアンティークショップへの帰路についた。
その夜更け、マリンの予想通り、アーチャーが単独で店の結界の前に姿を現すことになるとは、メディアはまだ知る由もなかった。