### 物語の序盤:『アンティーク・デイズと運命の夜』
#### 8. アーチャーとの密会と真実
深夜二時。
冬木市は深い眠りにつき、アンティークショップ『マリン』の店内には、ただ複数の古い時計が刻むカチ、コチという規則正しい音だけが満ちていた。
宝鐘マリンは、パジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、カウンターの丸椅子に座ってじっと扉の方を見つめていた。
彼女の隣には、霊体化せずに実体を持ったままのメディアが控えている。紫色のローブを纏った魔女の瞳は、いかなる外敵の襲撃にも即座に対応できるよう、鋭い警戒の光を帯びていた。
「……マリン。本当に来ると思っているのですか?」
「うん。絶対に来るよ」
マリンの返答には、一切の迷いがなかった。
彼女の持つ『直感』は、あの公園で出会った白髪の英霊——アーチャーが、衛宮士郎の成れの果てであることを確信している。
士郎が、マリンという「日常の象徴」であり「世話になった年上の姉貴分」を、あんな不自然な形で突き放したまま放置するはずがない。彼は不器用で、ひどくお人好しで、他人に心配をかけることを極端に嫌う少年なのだから。
「……来ました」
メディアが短く告げた。
同時に、店の外を覆っている強固な防衛結界——メディアの編み上げた『神殿』の境界線に、ひとつの気配が触れるのをマリンも感じ取った。
敵意はない。ただ、そこに入りたくても入れず、立ち尽くしているような静かな気配。
マリンは丸椅子から立ち上がり、迷うことなく店の入り口へと向かった。
「マリン、私が開けます。何かの罠かもしれない」
「大丈夫だよ、メディア。結界、少しだけ開けてあげて」
メディアは不満げに眉をひそめたが、主の強い意志に逆らうことはせず、指先を小さく振って扉への認識阻害と魔術障壁を一時的に解除した。
カチャリ、と鍵を開け、マリンが重厚な木製の扉を手前に引く。
「……やっぱり、来た」
夜の冷たい空気と共にそこに立っていたのは、赤い外套を纏った大柄な男——アーチャーだった。
彼は双剣を帯びることもなく、ただ両手をポケットに突っ込み、ひどく居心地の悪そうな、バツの悪そうな顔をして立っていた。
「……驚くほどの無防備だな。敵のサーヴァントを、ノコノコと結界の中に招き入れる気か? そこの優秀な魔女殿の教育を疑うぞ」
「うるさい。いいから入りなさい。ご近所迷惑でしょ」
皮肉でペースを握ろうとするアーチャーの言葉を、マリンは一刀両断に切り捨てた。
ヤンキー座りでもしそうな勢いで睨みつけるマリンの迫力に、かつての大英雄は小さくため息をつき、「失礼する」と肩をすくめて店内へと足を踏み入れた。
カチ、コチ……。
アンティークランプの淡い光に照らされた店内。
つい数時間前まで命のやり取りをしていたはずのサーヴァントが、アンティークショップの椅子に腰掛け、テーブルの向こうで湯気を立てるアールグレイの紅茶を見つめている。
極めてシュールな光景だった。
「……毒は入っていないわよ。私のマスターの厚意を無駄にしたら、ただでは済まさないけれど」
メディアがマリンの背後に立ち、冷ややかな声で牽制する。
「頂こう。……相変わらず、貴女の淹れる紅茶は香りが強いな、マリンさん」
アーチャーがティーカップを口に運び、静かに目を伏せる。
その「相変わらず」という言葉が、彼自身が衛宮士郎であるという何よりの証明だった。
マリンは自分のカップを両手で包み込みながら、真っ直ぐにアーチャーを見据えた。
「……さて。どうして士郎君が、あんな白髪で、背も高くて、真っ黒に日焼けした『英霊』になっちゃったのか。お姉さんに、一から全部説明してもらうからね」
逃げ道は用意しない、という強い意志を持った瞳。
アーチャーはティーカップをソーサーに置き、ふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「貴女のその『直感』には、本当に昔から敵わなかった。……ああ、そうだ。私は衛宮士郎だ。正確には、貴女が知っているこの時代の衛宮士郎が、遥か未来において辿り着いた『成れの果て』と言った方が正しい」
「未来の、士郎君……」
「英霊は時間軸の縛りを受けない。過去からも未来からも召喚される。私はある事情で、遠坂凛のペンダントを触媒として、この時代に呼ばれた」
アーチャーは、淡々と、感情を切り離したような声で語り始めた。
「貴女も知っているだろう。私が……衛宮士郎という人間が、度を越したお人好しであり、『正義の味方』という馬鹿げた理想に取り憑かれた機械であったことを」
その言葉に、マリンの胸がチクリと痛んだ。
いつも誰かのためにご飯を作り、自分の痛みを隠して笑っていた少年の顔が浮かぶ。
「……士郎君は、優しい子だよ。誰かのために頑張れる、立派な子だもん」
「優しさなどではない! あれはただの強迫観念だ!」
突然、アーチャーが声を荒げた。
その声には、自分自身に対する激しい嫌悪と憎悪がこもっていた。
「私は、ただ『誰も泣かない世界』を作りたかった。目の前で苦しんでいる人間を、全員救いたかった。だが、人間の力には限界がある。どれだけ魔術を鍛えようと、どれだけ剣を振るおうと、必ず取りこぼす命がある」
「……」
「だから私は、売ったのだ。『死後の自分』を対価にして、奇跡にすがりついた」
アーチャーの赤い外套が、微かに揺れた。
「ある大事故が起きた時、百を超える命を救うため、私は世界の抑止力……『阿頼耶(アラヤ)』と契約を交わした。死後、人類を守るための使い魔である『守護者』となることを条件に、その時の人々を救う力を得た」
「……死んだ後の自分を、売った……? そんなの、そんなのって……!」
マリンの顔から血の気が引いていく。
「結果として、私は多くの人間を救った。英雄として称えられもした。……だが、結末は惨めなものだ。正義を貫こうとした結果、私は、私が救ったはずの者たちの裏切りに遭い、無実の罪を着せられて絞首台へと送られた」
淡々と語られる『死』の事実に、マリンの呼吸が浅くなる。
隣で聞いていたメディアすら、そのあまりにも凄惨で報われない結末に、わずかに眉をひそめた。
「だが、絶望はそこからだった」
アーチャーの瞳が、虚無の闇に沈み込む。
「死後、抑止力の使い魔となった私に与えられた仕事。それは『人類の存続を脅かす要因の排除』だ。……聞こえはいいが、要は『人類の自滅を防ぐための、清掃作業』に過ぎない」
「清掃、作業……?」
「そうだ。人類の脅威となる者が現れれば、世界に呼び出され、その原因となる者たちを殺す。ただひたすらに、殺す。善人も悪人も関係ない。世界を救うために、一部の人間を虐殺し続けるのが『守護者』の役割だった!」
ガチャン!と、アーチャーの拳がテーブルを叩いた。
カップの紅茶が跳ね、テーブルクロスに染みを作る。
「私は誰も傷つけたくなかった! 誰も泣かない世界を作りたかった! だが、私が死後に永遠と繰り返しているのは、命乞いをする人間をこの手で切り刻み、殺し続けることだけだ! 理想を抱いて溺死した男の末路は、自らの手で血の山を築き上げるだけの、永遠の地獄だったんだ!!」
悲痛な叫びが、店内に響き渡る。
『正義の味方』を夢見た少年が、どれほどの絶望と後悔を抱え、自身の信じた理想に裏切られながら、永遠に近い時間を殺戮に費やしてきたのか。
その計り知れない苦痛の重さに、空気そのものが凍りついたようだった。
「……それが、私の真実だ」
激昂から一転、アーチャーは力なく背もたれに寄りかかった。
「だから私は、この聖杯戦争を利用して呼ばれた。私の目的は聖杯ではない。この時代に生きる『衛宮士郎』を……過去の私自身を、私の手で殺し、この矛盾した円環から自分という存在を消滅させること。それが、今の私の唯一の願いだ」
過去の自分を殺す。
それが、彼が辿り着いた唯一の救済の道。
静寂が降りた。
アーチャーは、マリンの言葉を待っていた。
狂っていると罵られるだろう。恐ろしいと怯えられるだろう。
それでも構わない。これで彼女が自分を完全に「敵」だと認識し、この戦争から遠ざかってくれるなら、それでいい。
しかし。
**「……っ、……ぅ、ぁぁ……っ」**
沈黙を破ったのは、非難の言葉でも、恐怖の悲鳴でもなかった。
ポロポロと。
大粒の涙が、マリンの瞳から止めどなく溢れ落ち、テーブルクロスを濡らしていく音だった。
「マ、マリン……さん?」
「……っ、バカ……。大バカ野郎……っ」
マリンは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら、子供のように声を上げて泣き始めた。
「な、なぜ貴女が泣く……? 私は、過去の自分を殺すと言っているんだぞ。狂った殺人鬼の戯言だ。貴女は、今の衛宮士郎を守りたかったはずだ……!」
混乱するアーチャー。
だが、マリンは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼を強く睨みつけた。
「泣くよ! 当たり前でしょ!!」
「……!」
「あんたが、どれだけ苦しかったか……っ。誰かのためにって、自分のこと後回しにして、必死に頑張って……っ。なのに裏切られて、死んだ後もずっと、やりたくないことやらされて……っ!」
マリンは、椅子から立ち上がった。
そして、戸惑うアーチャーの元へと歩み寄り、その大きな身体を、両腕で力強く、優しく抱きしめた。
「——え?」
「……ごめんね。ごめんね、士郎君」
アーチャーの胸に顔を埋め、マリンは彼の背中に腕を回して、子供をあやすようにポンポンと優しく叩いた。
「そんなに苦しんでたのに、痛かったのに……気づいてあげられなくて、ごめんね。一人で、ずっとずっと辛い思いをしてたんだね……。本当に、よく頑張ったね……っ」
アーチャーの頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
彼の罪業。彼の後悔。彼の絶望。
その全てを聞いた上で、この女性は、彼を否定しなかった。彼が犯してきた殺戮の罪を糾弾するのではなく、ただひたすらに、傷ついた『少年の心』に寄り添い、彼のために大粒の涙を流してくれたのだ。
『——お姉さんが、士郎君の力になるからね』
いつか、台所で笑いかけてくれた彼女の顔がフラッシュバックする。
ああ、そうだ。この人は、昔からこういう人だった。
底抜けに優しくて、他人の痛みに自分のことのように泣いて、絶対に誰かを見捨てたりしない。
「……っ、あ……」
アーチャーの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
鋼鉄で覆われていたはずの彼の心が、温かい涙によって溶かされていく。
ゆっくりと、恐る恐る。アーチャーの大きな両腕が、マリンの背中へと回され、しがみつくように彼女の身体を抱きしめ返した。
数え切れないほどの血を吸ってきたその手が、今はただ、救いを求める迷子のように震えていた。
メディアは、その光景を何も言わずに見つめていた。彼女の目にも、ほんのわずかに、共感のような、哀れみのような光が揺れていた。
数十分後。
ようやく落ち着きを取り戻したマリンは、目を真っ赤に腫らしながら、再び席についた。
アーチャーもまた、どこか憑き物が落ちたような、生前の衛宮士郎に近い穏やかな顔つきになっていた。
「……すまない。見苦しいところを見せた」
「いいよ。お姉さんの胸は、いつでも貸してあげるからね」
鼻をすすりながら、マリンが少しだけおどけたように言うと、アーチャーは微かに笑みをこぼした。
「……だが、私の目的は変わらない。衛宮士郎を野放しにすれば、彼は必ず私と同じ道を辿り、地獄へ落ちる。彼を殺すことだけが、彼を……私を救う唯一の道なんだ」
「……」
「だから、マリンさん。貴女はここから動かないでくれ。貴女が彼を庇うなら、私は貴女ごと……」
「ダメ」
マリンは、ピシャリと言い放った。
「士郎君を殺させるわけにはいかない。でも、今の士郎君が、あんたみたいな悲しい未来を迎えるのも、絶対に許さない」
「……それは、詭弁だ。あの男の歪みは根本的なものだ。誰かが止めてどうにかなるものではない」
「どうにかするの! 私が、軌道修正(矯正)する!」
マリンは拳を握りしめ、力強く宣言した。
「正義の味方なんて、呪いみたいな夢、私がぶっ壊してあげる! もっと自分のために生きて、自分の幸せを見つけられるように、私が隣で手綱を握ってあげる! ……だから」
マリンはアーチャーを真っ直ぐに見据えた。
「私たちが、今の士郎君を正道に戻せたら……あんたは、士郎君を殺すのを諦めなさい」
「……私と、賭けをするつもりか?」
「そう。それまでは、あんたたち陣営と私たち陣営は『不可侵』。絶対にお互いを攻撃しない。約束できる?」
アーチャーは、目の前の女性の芯の強さに圧倒されていた。
魔術の知識もない一般人が、英霊の運命をねじ曲げようとしている。本来なら失笑ものの提案だ。
だが、なぜかアーチャーには、彼女なら本当にあの『衛宮士郎』の歪みを治してしまうのではないかという、奇妙な確信があった。
「……いいだろう。凛には、私からうまく説明しておく。……だが、あの男の頑固さは筋金入りだぞ。精々、苦労することだな」
アーチャーは立ち上がり、外套を翻した。
「……ありがとう、マリンさん。貴女の淹れた紅茶、本当に美味しかった」
最後に残したその声は、かつて彼女の台所に立っていた少年のものと、完全に重なっていた。
青白い魔力の光と共に、アーチャーの姿が店から消え去る。
店内に残されたマリンは、大きく一つ深呼吸をした。
未来の士郎が抱えた地獄。そして、今の士郎が向かおうとしている破滅の道。
「……メディア」
「はい、マリン」
「明日、衛宮邸に行くよ。……同盟の締結と、士郎君の監視。近くにいないと、あの子の矯正なんてできないからね」
涙の痕が残る顔を拭い、マリンは力強く前を向いた。
平和なアンティークショップから、最前線である衛宮邸への引っ越し。
それは、誰も傷つけないという最も困難な戦いへ挑む、宝鐘マリンのマスターとしての最初の決断だった。