世界は終わらない   作:あっつあつ

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陥落(2)

境界線を越えた先の世界は、言葉通りの地獄と化していた。

 

立ち込める濃煙の向こうから響くのは、引き裂かれるような人間の悲鳴と、それらを咀嚼する異形たちの不気味な咀嚼音、そして無慈悲に踏み荒らされる街並みの崩壊音だった。

 

立ち並ぶレンガ造りの家々を、ある者は巨大な体躯でなぎ倒し、ある者は屋根を剥ぎ取って中の獲物を貪り食っている。

 

その狂乱の渦中にあって、紅と蒼の巨人もまた、完全に獣のそれと化した本能に突き動かされ、獲物を求めて街の奥へと突き進んでいた。

 

流線型の美しい肉体は、狭い通りを俊敏に駆け抜け、逃げ惑う人々の影を冷徹に追い詰めていく。

 

彼の脳内は、あの濃密な生の匂いと、それを手に入れたいという強烈な飢餓感だけで満たされ、先ほどまでの躊躇や誇りは、完全に泥の底へと沈んでいた。

 

大通りから一本入った、崩れた瓦礫が退路を塞ぐ薄暗い路地裏――。

 

凄まじい勢いで角を曲がった巨人の白濁した双眸が、その行き止まりの空間に潜む「小さな命」を正確に捉えた。

 

そこにいたのは、崩れ落ちた壁の破片の陰で、身を縮めるようにしてへたり込んでいる一人の子供だった。

 

あまりの恐怖と絶望に、声すら失ってしまったのだろう。

 

子供は、自身の頭上に突如として現れた白銀の硬質な頭部と、燃えるような紅と蒼の異質な巨躯を見上げ、ただガタガタと全身を激しく震わせるしかなかった。

 

涙と泥に汚れた瞳が、死を予感して大きく見開かれる。

 

巨人の口元から、熱い吐息のような蒸気が 漏れ出た。

 

眼前に生きた人間がいる――その事実が、彼の全細胞にこれ以上ない捕食の歓喜を行き渡らせる。

 

巨人はその巨膝を折り、狭い路地裏を覗き込むようにして、上体を深く屈めた。

 

その拍子に、胸の中央にある滴型の結晶が、暗がりの路地を妖しく、鈍く照らし出す。

 

一切の躊躇なく、彼の白銀の右腕が動いた。

 

レンガの壁をガリガリと削りながら、太く強靭な五本の指が、身動きの取れない子供に向かってまっすぐに突き進んでいく。

 

巨人の巨大な影が子供を完全に覆い尽くし、冷酷な指先が、その小さな身体にあと数センチで触れようというところまで迫っていた。

 

「喰らえ、喰らえ。人間に戻るために」と、巨人故の本能が頭の中で反響し…

 

そして、巨人の硬質で冷たい指先が、少年の濡れた前髪をかすめる。

 

死の恐怖が少年の呼吸を完全に止め、路地裏の狭い空気さえも氷結したかのように静まり返った。

 

 

     しかし。

 

 

その刹那、巨人の白濁した両眸に、恐怖に歪む少年の顔が、そしてその瞳に映る己の醜悪な大手が、鏡のように克明に映り込んだ。

 

ドクン、と彼の胸の奥で、巨人の心臓とは異なる「もう一つの鼓動」が激しく鳴り響いた。

 

脳髄を焼き尽くさんばかりに猛威を振るっていた捕食の本能に、冷徹な一条の光が、楔のように打ち込まれる。

 

大人の都合で、国家の思惑で、理不尽に踏みにじられる子供たちの涙を、決して見過ごさないという、魂の最底流に眠る絶対の拒絶だった。

 

巨人の巨躯が、内側からの猛烈な排斥反応によって激しく痙攣し、伸ばしかけた右手がピタリと空間で静止した。

 

人間の肉を求める始祖の呪いと、絶望を拒む最期の意志が、一寸の猶予もない肉体の主導権争いを繰り広げる。

 

その葛藤の凄まじさに耐えかねるように、巨人は伸ばした手を少年の手前で強引に引き剥がし、路地裏のレンガ壁へと猛然と叩きつけた。

 

凄まじい衝撃音とともに壁が粉砕され、赤土の粉塵が路地裏に立ち込める。

 

少年は、突如として獲物であるはずの自分から手を背け、苦悶に満ちた動作で壁を打ち据える異質な怪物を、ただただ涙の浮かぶ目で見つめるしかなかった。

 

巨人の胸の中央にある滴型の結晶が、まるで危険を告げる警鐘のように、鈍い赤色の光を放ちながら激しく点滅し始める。

 

頭を抱えたまま、巨躯を大きくのけ反らせ、背後のレンガ造りの建物を背中から激しく叩きつける。

 

ズガァァァン!! という凄まじい破壊音とともに、厚い壁が紙細工のように粉砕され、大量の瓦礫と土煙が路地裏に降り注いだ。

 

それでも頭の中の嵐は収まらない。

巨人は狂ったように首を振り、頑丈な両肘を周囲の民家へと容赦なく叩き込んだ。

 

二階建ての木造住宅の柱が容易く圧し折れ、屋根が崩落し、レンガの破片が四方八方へと弾け飛ぶ。

 

紅と蒼の鮮烈な肉体が、破壊の嵐そのものとなって、狭い路地裏の空間を完全に蹂躙していく。

 

その凄まじい破壊の衝撃と風圧は、すぐ目の前にへたり込んでいた少年を吹き飛ばすほどだった。

 

そして、その巨人はあれほど暴虐の限りを尽くしながらも、その巨大な足や拳が、捕食対象であるはずの少年がいるその一点だけには、決して当たらないように不自然なほど身をよじっていた。

 

本能が少年に向かおうとするたびに、彼は自らの意志で自らの肉体を殴りつけるかのように、別の方向の壁へと突進し、それを粉砕した。

 

壊滅していく街並みの中で、巨人の胸の滴型の光は、なおも狂ったように明滅を繰り返している。

 

自らの頭部を両手で引きむしるようにしながら、巨人は崩れ行くレンガの山をさらに踏み潰し、少年から遠ざかるようにして、大通りへと向かってのたうち回りながら狂い進んでいった。

 

 

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