神話翻訳(ロゴス・トランスラシオン)   作:やす9823

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第1話:現代編「横須賀の泥と回路」

 

第1話:現代編「横須賀の泥と回路」

 

窓を叩く雨の音が、まるで太古の打楽器のように規則正しく地下室へ響いていた。

神奈川県横須賀市。東京湾の入り口に位置し、古くから軍港として、そして異文化の流入港として栄えたこの街の片隅にある私立大学の地下資料室。空気は微かにカビと古い紙の匂いに満ちている。

 

「いいかい、林(はやし)。人間という生き物は、自分たちの理解を超える巨大なものに出会ったとき、必ず二つの行動をとる」

 

一ノ瀬教授は、老眼鏡の奥の細い目をさらに細めながら、机の上に置かれた錆びた青銅の破片をピンセットで持ち上げた。

准教授である私、林舜二は、コーヒーの入ったマグカップを片手に、その手元を見つめていた。私の専門は日本古代史――特に、出雲地方における土着信仰の変遷だ。しかし、いま目の前にあるのは、出雲の古い古墳の副葬品とされる、直径十センチほどの歪んだ青銅の鏡の破片だった。

 

「二つの行動、ですか?」

「そうだ。一つは『恐怖して排除すること』。そしてもう一つは、自分たちの知っている言葉に『翻訳して祀ること』だ。神話や宗教の本質は、すべて後者だよ」

 

教授はピンセットを置き、スマートフォンの画面を操作した。液晶の冷たい光が、教授の深く刻まれた眉間の皺を照らし出す。画面に表示されたのは、どこか海外の博物館が公開しているデジタルアーカイブの画像だった。

 

「これは、数年前にイラン西部、かつてのアケメネス朝ペルシアの版図にあたる遺跡から発掘された粘土板の超高精細スキャンデータだ。紀元前十世紀頃、つまり今から約三千年前の、初期ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の断片だとされている」

「それが、この出雲の石鏡とどう関係するんです?」

 

私は尋ねた。出雲の古墳から出土したその鏡は、西暦七世紀頃、およそ奈良時代直前のものと推測されている。時代にして千七百年、距離にして数千キロの隔たりがある。

 

「文字を見るんじゃない。その『裏側』を見るんだ」

 

教授はそう言うと、手元にあった高倍率のデジタルマイクロスコープを青銅鏡の破片に向けた。モニターに、肉眼ではただの不規則な腐食の痕にしか見えなかった、鏡の裏面の微細な溝が拡大される。

私は息を呑んだ。

そこには、極めて幾何学的な、直角と直線を組み合わせた同心円状のパターンが刻まれていた。自然にできた傷でも、古代の職人が気まぐれに彫った文様でもない。それは、現代の電気工学を修めた者が見れば、誰もが直感的に理解できるデザインだった。

 

「……回路図、ですか?」

「そう呼ばざるを得んね」

 

教授の低い声が、地下室の湿った空気に沈む。

 

「そして、今度はこっちの画面を見てくれ。イランで見つかった粘土板の、文字の隙間に打たれた微細な点(ドット)の配置だ」

 

教授が画面の画像を重ね合わせる(レイヤーを同期する)と、モニター上で二つの異なる遺物のデータが完全に一致した。出雲の鏡の溝と、ペルシアの粘土板のドット。それらは、一つの巨大な円形の「基盤」の、右半分と左半分をそれぞれ切り取ったかのように、寸分の狂いもなく噛み合ったのだ。

頭の芯が急激に冷えていくような感覚がした。

私は自分の専門知識の引き出しを必死にひっくり返した。紀元前十世紀のペルシア。世界で最も古い一神教的二元論、ゾロアスター教が産声を上げた時代。光の最高神アフラ・マズダと、闇の破壊神アンラ・マンユが永劫の戦いを繰り広げると説く宗教だ。

 

「教授、これは偶然の神の悪戯か、あるいは後世の人間による精巧な偽造では……」

「私だって最初はそう思いたかった」

 

一ノ瀬教授は自嘲気味に笑い、冷めた紅茶を口に含んだ。

 

「だが、炭素年代測定も、金属の組成分析も、すべて本物だと告げている。この鏡に使われている銅は、出雲の山で採れたものだ。しかし、そこに刻まれた『型』は、三千年前のペルシア、いや、おそらくそれよりも遥か昔から地球上に存在していたマスターデータのものだ」

 

教授は立ち上がり、壁一面に貼られた年表を指差した。そこには、私が以前、教授に促されて作成した「世界宗教・神話の発生時期比較表」があった。

 

「いいか、林。人類の歴史には、いくつかの不自然な『跳躍』がある。その最たるものが、紀元前一200年から紀元前500年頃にかけての数百年だ。歴史学者カール・ヤスパースはこれを『枢軸時代』と呼んだ。なぜかこの時期、世界中で同時多発的に、それまでの原始的な呪術から、高度な神学や倫理を持つ宗教が爆発したんだ」

 

教授の指が、年表の各所を叩く。

 

「中東でヤハウェへの信仰が固まり、中央アジアでゾロアスターが光を説き、インドでヴェーダから仏教が生まれ、ギリシャでオリンポス12神の物語がホメロスによって文字にされた。国境も、言語も、当時はまともな交流さえなかったはずの民族たちが、一斉に『神』という存在の定義をアップデートした。まるで、地球全体のシステムが、一斉に同じパッチをダウンロードしたかのように」

「パッチ……」

「そうだ。神とは、宇宙人だの超能力者だのといった生易しいものではない。この地球という生態系、あるいはこの現実という世界線を安定して駆動させるための、超高度な『自律型環境維持プログラム』だ。そして古代の人々は、そのプログラムが発する光や、熱や、嵐という『現象』を目撃した」

 

外の雷鳴が、一段と大きく轟いた。資料室の蛍光灯がチカチカと不気味に瞬く。

 

「ギリシャ人はそれを、雷を操りマッハの戦車で空を飛ぶ『ゼウス』と翻訳した。ペルシア人はそれを、世界のバグを排除しようとする『アフラ・マズダ』という概念で理解した。そして我が国、この日本列島の縄文人たちは――」

 

教授はモニターの回路図を愛おしそうに見つめた。

 

「彼らは、そのプログラムの気配を『自然そのもの』として受け取った。姿形を持たない、しかし確実にそこにいる『カミ』としてね。そして弥生時代になり、大陸から稲作が伝わると、プログラムの運用方法が変わった。お米を育てるために、天候をコントロールするコードが必要になった。それが『八百万の神』の誕生だ」

「待ってください」私は遮った。

「だとしたら、なぜ出雲の神話と、インドの神話が、そしてペルシアのコードが、こうして横須賀の地下で繋がるんです?」

「神道の本質は『神仏習合』、つまり混ぜることだからさ」

 

教授は机の引き出しから、もう一つの資料を取り出した。それは、日本における「大黒天」の絵像だった。大きな袋を背負い、打ち出の小槌を持って微笑む、お馴染みの七福神の一柱。

 

「大黒天は、元を辿ればインドのヒンドゥー教の最高神シヴァの化身『マハーカーラ』だ。意味は『大いなる黒』、あるいは『大いなる時』。世界を一度破壊し、クリーンアップして再生する最凶のプログラムだ。それが仏教の伝播とともに日本に渡ってきたとき、当時の日本の知識人――空海や最澄たちは気づいた。このインドの『マハーカーラ(大黒)』は、出雲の国造りの神『大国(ダイコク)主神』と、同じソースコードを持っている、とね」

 

音が同じだから混ぜたのではない。本質が同じだから、当時の日本のシステムエンジニア――すなわち高僧たちが、二つのプログラムを「神仏習合」という手法でシステム統合(マージ)したのだという。

 

「彼らは、汚れを嫌う。神道で言う『穢れ(けがれ)』とは、システムのバグであり、フリーズの原因だ。だから彼らは人類に、定期的に『水』を使ってシステムをクリーンアップすることを求めた。それが神道の禊であり、ヒンドゥーの沐浴だ。すべては同一のマスタープログラムが仕込んだ、地球メンテナンスのための行動習慣なんだよ」

 

教授がそこまで言ったとき、突然、資料室のすべての電源が落ちた。

完全な闇。

ただ、窓の外の稲光だけが、断続的に部屋の中を白く浮かび上がらせる。

「教授?」

私が声をかけた瞬間、机の上の「出雲の鏡」の破片が、微かに、しかし明瞭に、青白い光を放ち始めた。モニターの電源は切れている。にもかかわらず、鏡の表面に刻まれた微細な幾何学模様が、まるで生き物のように発光し、ゆっくりと回転を始めているのだ。

そして、私のスマートフォンのスピーカーから、砂嵐のようなノイズに混じって、聞いたこともない言語の『声』が流れ始めた。それは歌のようでもあり、電子音の羅列のようでもあったが、私の脳裏には、なぜかそれが「起動シーケンスの開始」を告げているのだと、ハッキリと理解できた。

 

「始まったな」

 

闇の中で、一ノ瀬教授の静かな声がした。

 

「世界中に分散され、異なる言語に『翻訳』されていた神の破片が、今、ここ横須賀をハブにして、再び一つに繋がろうとしている。人類が、システムに致命的なバグ(汚染)を溜め込みすぎたせいでね……」

 

これが、私と教授が足を踏み入れることになる、人類最大の歴史ミステリーの幕開けだった。数千年の時間をかけ、世界中の民族がそれぞれの言葉で書き換えてきた「神」の正体を、私たちはこれから、時間を遡って解き明かさなければならない。

雨は、激しさを増すばかりだった。

 

 

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