第2話:古代ペルシア編「光と闇の二元(BC 1000)」
現代の横須賀、闇に包まれた資料室で青白く光る鏡の破片。その光の渦に呑み込まれるようにして、私の意識は時空の底へと引きずり込まれていった。スマートフォンのノイズが、いつしか激しい「風の音」へと変わる。
……そこは、見渡す限りの緑と、乾いた土が広がる中央アジアの広大なステップ(大草原)だった。
今から約三千年前、紀元前十世紀。
夜空には、現代の都市では決して見ることのできない、圧倒的な密度の天の川が文字通り「発光する大河」となって横たわっている
。
「……目を覚ましたか、ザラシュストラよ」
低い、だが妙に透き通った声に、青年ザラシュストラは身震いをした。彼はまだ二十代半ばの、部族のしきたりに従って神々に生贄を捧げるしがない祭司の補助者に過ぎなかった。しかし今、彼の目の前にあるのは、草原の獣たちを怯えさせ、夜の闇を完全に消し去る「異形」だった。
それは、虚空に浮かぶ巨大な「光の球体」だった。
火を燃やしているわけではない。煙も出ない。ただ、冷徹なまでに純粋な白い光が、幾何学的な同心円の模様を描きながら、静かに回転している。球体の表面からは、時折、青白い電流のような光の糸が走り、草原の土をかすめていた。当時の人類の語彙(ごい)では、これを「光り輝く車輪」あるいは「天の目」と呼ぶほかなかった。
「お前たちの言葉で、私をどう呼ぶかは委ねよう。私はこの地表の環境を最適化する。だが、システムに重大な『遅延(バグ)』が発生している。知的生命体であるお前たちの精神が発する、無秩序なノイズのせいだ」
光の球体――のちに彼が**『アフラ・マズダ(知恵ある主)』**と名付けることになる絶対的な知性は、ザラシュストラの脳内に直接、言語ではないイメージを叩き込んできた。
それは、地球という巨大なハードウェアの設計図だった。
大気が循環し、水が循環し、生命が死んでは土に還る。すべては完璧なコード(秩序)によって制御されている。しかし、人間の「悪意」や「嘘」、そして死体を放置することによる「疫病(不潔)」は、その精緻な循環システムを物理的に汚染する「破壊プログラム」として機能していた。
「不潔を排除せよ。嘘を棄てよ。世界は今、私の記述する『秩序(アシャ)』と、システムを崩壊させようとする『混沌(ドゥルジ)』の二つのプロセスに引き裂かれている」
ザラシュストラは平伏した。彼の目から、圧倒的な光への畏怖で涙がこぼれ落ちる。
「主よ……私に、何をせよとおっしゃるのですか。私たちはこれまで、たくさんの神々に牛や羊の血を捧げ、嵐を鎮めてもらってきました。あの神々は、偽りだったのですか?」
「それらは、システムのエラーを神格化した幻影に過ぎない」
光の球体から、一条の強い光線がザラシュストラの足元の泥へと放たれた。泥がまたたく間にガラス化し、そこに精緻な「回路パターン」が焼き付けられていく。それは、三千年後に横須賀の地下室で林舜二が見ることになる、あの幾何学模様の『右半分』だった。
「この地にパッチ(修正プログラム)を適用する。これより、お前たちの行動規範を制限する。善き思考、善き言葉、善き行動。これらは単なる道徳ではない。私のシステムと同期し、世界の崩壊を防ぐための『プロトコル(通信規約)』だ。お前はこれを、民に語り、歌(ガサ)として記憶させよ」
ザラシュストラは、ガラス化した泥に刻まれた回路を、震える指でなぞった。彼の脳内に、アフラ・マズダから発せられる膨大な「維持コード」が、彼が理解できる言葉――「光と闇の戦い」「天国と地獄」「最後の審判」という物語に翻訳されて定着していく。
「世界は、一万二千年の時を経て初期化(クリーンアップ)される。その時、プロトコルに従った『善きデータ』のみが、新しい世界へと移行(アップデート)を許される。悪しきデータは、すべて消去(デリート)される」
これこそが、人類の歴史上初となる「徹底的な善悪二元論」と「終末思想」が誕生した瞬間だった。
それまでの多神教の世界では、神とは気まぐれに怒り、気まぐれに恵みを与える自然そのものだった。しかし、ザラシュストラが受け取ったのは、人間のモラル(行動)が直接世界の寿命を左右するという、恐るべき「管理システム」の思想だった。
「……わかりました、アフラ・マズダ。私はこの光のコードを、世界の果てまで伝える預言者となりましょう」
ザラシュストラが誓った瞬間、光の球体は音もなく垂直に上昇し、夜空の天の川へと溶けるように消え去った。あとに残されたのは、静まり返った草原と、青白く熱を持ったままの回路の文字。
ザラシュストラは、その文字を丁寧に羊皮紙へと書き写し始めた。彼が紡ぐその言葉は、のちに聖典『アヴェスター』となり、やがて中東を支配するペルシア帝国の国教へと昇華していく。
しかし、彼はまだ知らなかった。
アフラ・マズダが放ったこの「二元論のパッチ」は、数百年後、バビロンの地で国を追われたユダヤ人たちの思想(ユダヤ教)に組み込まれ、さらには「キリスト教」「イスラム教」という巨大な子システムへと枝分かれしていく、すべての「一神教のOS(基本ソフト)」になるということを。
そして同時に――。
地球の反対側、エーゲ海の島々では、また全く異なる「翻訳」が始まろうとしていた。同じ一つの超高度存在の、別の一面を目撃した人間たちが、それを「マッハで飛ぶ黄金の戦車」や「オリンポスの神々」という名の別のファイル名で保存し始めていたのだ。
ザラシュストラの持つ羊皮紙の上で、インクが乾いていく。
その文字の隙間に打たれた微細なドットの配置は、横須賀の地下で覚醒を待つ「マスター基盤」の、確かな片割れだった。