第3話:古代ギリシャ編「天空の兵器(BC 800)」
中央アジアの草原から、地中海の強い潮風の匂いへと意識が急速に反転する。
紀元前八世紀。エーゲ海を望む岩だらけの海岸線。太陽の光は暴力的なまでに白く、海は濃い群青色(ワイン色)に染まっていた。
「……見たものをそのまま歌えば、民は恐怖で狂ってしまう。だから、私は彼らを『神』と呼ぶのだ」
盲目の吟遊詩人、ホメロスは、竪琴(リラ)の弦に指をかけながら、見えない目で小高い丘の向こうを見つめていた。彼の耳には、常人には聞こえない「世界の軋み」が、高周波の電子ノイズとなって絶え間なく届いていた。
数百年前にマイケナイ文明が突如として崩壊し、文字も、精緻な青銅器の技術も失われた「暗黒時代」。その混迷の果てに、かつて先祖たちが目撃した「天空からの降臨者」の記憶だけが、歌の断片として各地に残されていた。
ホメロスは、それらを集めて一つの巨大な叙事詩――『イリアス』と『オデュッセイア』へと編纂する作業を行っていた。それは歴史の記録ではなく、一種の「隠蔽(カモフラージュ)」だった。
彼らの先祖が目撃したものの正体。それは、全幅数百メートルに及ぶ、自律型の巨大迎撃・環境制御兵器群(オリンポス)だった。
「ゼウス」と呼ばれたそれは、天空の軌道上に静止する、白銀の流線型をしたマザー・メインフレーム(主幹制御ユニット)だ。それが地上をスキャンし、環境のバグ(反乱因子)を検知すると、大気中の電子を強制収束させて超高出力のプラズマを放つ。古代の人間は、その軌道兵器の精密照合レーザーを「ゼウスの雷(ケラウノス)」と呼び、天の怒りとして恐れた。
「ポセイドン」は、エーゲ海の海底深く、地殻の奥底にプラグを打ち込んだプレート制御・津波発生装置だった。その三本の鋭い突起を持つ巨大なシャフト(三叉槍)が駆動し、地球の地殻に高周波の振動(振動兵器)を送り込むたびに、海は裂け、大地は揺れた。
そして「ヘパイストス」は――その軌道兵器群のメンテナンスを司る、自己修復型の自動ナノファクトリー(鍛冶の神)だ。彼が作り出す青銅の巨人タロスや、自律して動く金属製の召使いとは、まぎれもない「AI搭載型のアンドロイド」に他ならなかった。
「彼らは、人間を愛してなどいない。ただ、地表という畑を管理しているだけだ」
ホメロスは静かに竪琴を弾いた。哀切な旋律が、波の音に混ざっていく。
彼がかつて旅の途中で、古代の崩壊した神殿の地下から掘り起こした青銅の円盤。そこには、触れると脳裏に直接、文字ではない「設計概念(ロゴス)」を送り込んでくる奇妙な細工が施されていた。
その円盤の裏面には、直角と直線を組み合わせた同心円状の溝が刻まれていた。
そう、三千年後に日本の横須賀で林舜二が発見する、あの「マスター基盤」の、中央を貫く重要なパーツの形状だった。
ホメロスの脳裏に、そのパーツが持つ「意味」が流れ込んでくる。
このオリンポスという兵器群は、地球のシステムを保護するために、定期的に人間の人口や文明の規模を『剪定(せんてい)』するプログラムを持っている。かつて起きたトロイア戦争の真の目的は、人間の増えすぎたエネルギー(ログ)が地球の許容量を超えたため、ゼウスの主導によって行われた「人為的なデータの間引き(サーバー負荷軽減)」だったのだ。
「しかし、それをそのまま伝えれば、人は生きる希望を失う」
だからこそ、ホメロスは彼らを「人間臭い神々」として翻訳した。
浮気をし、嫉妬に狂い、人間のように怒り、泣く、巨大な力を持った不老不死の美しき神々。そうやって神話を「エンターテインメント(叙事詩)」のオブラートに包むことで、古代ギリシャの人間たちは、いつ降ってくるか分からない軌道兵器の恐怖に怯えることなく、ポリス(都市国家)という文明を再建するだけの精神的な平穏を得ることができたのだ。
「歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの怒りを……」
ホメロスの唇から、美しいギリシャ語の韻律が溢れ出す。
その歌は、冷徹な機械の駆動ログを、壮大な英雄譚へと変換する天才的な「コーディング(暗号化)」だった。
彼の歌はまたたく間にエーゲ海全域に広まり、やがてアテネの神殿で「12」という完璧な数字に固定され、守護神として祀られるようになっていく。
だが、ホメロスが竪琴のなかに大切に隠したあの青銅の円盤パーツには、もう一つの警告が刻まれていた。
――『プログラムが再接続(オンライン)されるとき、翻訳は解かれ、神々は再び元の冷酷な鉄の姿となって天に満ちるだろう』。
その日、地中海の空を横切った流れ星は、夜空のゼウスが放った微弱な同期シグナルだったのかもしれない。ホメロスは竪琴の弦を押さえ、深く長い吐息を漏らした。
その頃、さらに東の乾いた大地――イスラエルの地では、別の神官たちが、このマスタープログラムの「真の名前」そのものを、歴史の表舞台から完全に消去しようとする、最も厳格なプロテクト処理を始めようとしていた。