もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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すりかえておいたのさ!

 敗北の表示が、ツクヨミの夜空へ浮かんでいた。

 ブラックオニキス勝利。

 その文字は淡く、けれど残酷なほどはっきりと、かぐやと彩葉の頭上で光っている。

 つい先ほどまで大将落としを押し込み、帝アキラを斬り伏せ、あと一歩で王者に手が届くと本気で思わせた戦場は、すでに粒子となって崩れ始めていた。

 砕けた石畳も、燃えるようなエフェクトも、遠くの天守閣も、すべてが薄い光の砂となって上空へ還っていく。

 その中で、かぐやだけが戦場の終わりに納得していなかった。

 

「あーーっ! 負けた! 負けっだあああああ!」

 

 彼女は床に転がり、手足をばたばたさせ、叩けるものを全部叩く勢いで悶えている。

 悔しさが全身から噴き出しているような暴れ方で、見ている側としては止めるべきなのだろうが、その声には怒りだけでなく熱があった。

 楽しかった。

 悔しかった。

 その二つが、うまく分けられないまま一つの叫びになっている。

 

「ちょっと、かぐや、落ち着いて」

 

 彩葉が膝をついてかぐやの肩を押さえた。

 狐面を外したままの顔には、疲労と興奮と、まだ敗北を飲み込めていない苦みが混ざっている。

 頬には戦闘中のエフェクトの名残がかすかに残り、乱れた髪が額に張り付いていた。けれど、その瞳は沈んでいない。

 彼女もまた、負けたのだ。

 けれど、何もできずに負けたわけではなかった。

 

 帝アキラへ刃は届いた。

 かぐやと連携して王者のリーダーを落とした。

 ヤチヨが雷と乃依を押さえ、かぐやが大将落としを押し込み、あと一歩で勝利の景色を掴みかけた。

 最後に雷の地雷トラップがすべてをひっくり返したとしても、その事実まで消えるわけではない。

 

「だってだって、負けちゃったんだよ! かぐやと彩葉なのに負けちゃったんだよ! たくのやしかったー!」

「最後、何?」

「たくのやしかった!」

「混ざってる」

「混ざるよ! だって本当に混ざってるもん!」

 

 かぐやがむくりと起き上がり、涙目とも怒り顔とも笑顔ともつかない表情で叫ぶ。

 その表情を見て、彩葉はほんの少しだけ息を抜いた。

 悔しがれるのなら、大丈夫だ。楽しかったと言えるのなら、まだ次へ行ける。

 

「彩葉、かぐや、お疲れ様! もうちょっとだったのにね〜〜、ヤッチョもたくのやしかったー☆」

 

 バトル衣装のヤチヨがふわりと降りてきた。へそ出しの軽装に、クラゲ傘を肩へ引っ掛け、いつもの調子で軽やかに笑っている。

 だが、彼女の目の奥にも、ほんのわずかに熱が残っていた。

 お助け枠としての彼女は強い。

 強いが、無敵ではない。だからこそ、今の試合には本気の手応えがあったのだろう。

 

「でもね、お二人さん。それ流行らないから」

「なんで!」

「語感が悪いからかな〜☆」

 

 ヤチヨがそう言った時だった。

 空間に黄色い波紋が走り、そこから白いウミウシ──FUSHIがぽんっと飛び出して、ヤチヨの肩へ着地した。

 小さな身体を揺らしながら、彼は二人に届く声で叫ぶ。

 

「そうだぞ、小娘ども! お前ら、ヤチヨが何のために助っ人に入ったのか忘れたのか? 投票時間ギリギリまでこのイベントを盛り上げるためだ!」

「投票……そっか、忘れてた」

「忘れるな!」

 

 先程まで彩葉たちの目の前にいたはずのヤチヨがバトル衣装から、いつものオリエンタルな和装に変わって上空高くに浮かんでいた。

 そして、その姿にはいくつものスポットライトが浴びせられている。

 

「いと大儀〜〜☆」

 

 ヤチヨが扇子をひらひらさせる。

 このKASSENは、帝アキラからの挑戦であり、世紀の竹取合戦であり、かぐやの結婚回避を賭けた一戦であり、ブラックオニキスとの大舞台だった。

 だが、そもそもそれらすべての根元には、ヤチヨカップというイベントがある。

 月見ヤチヨとのコラボライブ権を懸け、一ヶ月間の新規獲得ファン数を競う、ツクヨミ最大級の祭り。

 

 会場の照明が落ちた。

 かわりに、夜空の中央へ巨大なスポットライトが降り注ぐ。ツクヨミ中の視線が一斉にその一点へ集まったような圧力が、空気そのものを震わせる。

 ヤチヨはいつの間にか公式MCの顔へ切り替わっていた。

 先ほどまで戦場で笑っていた少女とは違う、ツクヨミ全体を抱き込む歌姫の笑顔。

 

「とーっても楽しいKASSENでした。そして、たった今! ヤチヨカップの投票を締め切ったよー。FUSHI、集計お願い!」

「はーい。一、二、サン、スー、ファイブ、セイス、ズイーベン、ヨドゥル……ちーん! 集計完了!」

「それでは、ヤッチョとコラボる人を、発表ー!」

 

 FUSHIの口から、にょきっと巻物が吐き出される。

 ヤチヨがそれを受け取ると同時に、夜空いっぱいに巨大なスクリーンが広がった。

 まるで月面そのものを映写幕へ変えたかのような白銀の光。

 そこへ下位から順に、参加ライバーたちの名前と棒グラフが凄まじい速度で表示されていく。

 

 歓声が渦を巻いた。

 名前が出るたび、そこに宿った一ヶ月分の努力や熱狂が、数字となって夜空を駆け上がる。

 だが、ほとんどのユーザーにとって、これは確認作業のようなものだった。

 絶対王者ブラックオニキスが頂点に立ち、かぐや・いろPチャンネルがどこまで迫ったかを確認する。

 その程度の空気が、まだ会場には残っていた。

 

「ヤチヨカップの優勝者は〜〜☆」

 

 ヤチヨが元気に声を張る。

 その瞬間、誰もが予想した名前がスクリーンに刻まれた。

 

 ――第二位 ブラックオニキス 新規獲得ファン数 101万4221人

 

 会場が、妙な形で静まった。

 

「……え、二位?」

 

 彩葉が呟いた。

 

「って、ことは!?」

 

 かぐやがぱっと顔を上げる。ついさっきまでふてくされてしゃがみ込んでいたのに、今度は彩葉の手を両手で握り締め、ぶんぶんと振り回し始めた。

 

「彩葉、出た!? 名前、もう出た!?」

「見てる、見てるから揺らさないで。多分……」

「多分?」

「今から、出る」

 

 一本だけ残った棒グラフが、まだ伸び続けていた。

 ただ数字が加算されているのではない。その棒グラフを押し上げているのは、いくつもの言葉だった。

 ファンの言葉。視聴者の叫び。誰かがその瞬間に抱いた感情。コメント欄に流れたはずの文字列が、流星群のように集まり、グラフをどこまでも押し上げていく。

 

『なんか、いいねあの二人!』

『かぐやちゃん、見てるだけで元気出る』

『いろP、狐面外した瞬間やばかった』

『兄妹バレで情緒壊れた』

『帝様ごめん、今日だけこっち』

『彩葉と一緒に勝ちたいから、で泣いた』

『二人の絆が見えた回』

『上から来るかぐや意味わからんけど最高』

『がんばれ♡ がんばれ♡』

『かぐやのドヤ顔好き』

『ブラックオニキス相手にここまでやる新人いる?』

『負けたのに勝ってる』

『この二人最高』

『推す』

『今日から推す』

『絶対推す』

 

 言葉は止まらなかった。

 彩葉は呆然とそれを見上げていた。数字の意味が、すぐには頭に入ってこない。

 けれど、言葉だけは胸へ落ちてくる。

 誰かが自分たちを見ていた。かぐやの笑顔を、彩葉の踏み込みを、二人の無茶を、敗北の中でなお前へ進もうとした姿を、ちゃんと見ていた。

 そして、ついに最後の表示が夜空へ刻まれる。

 

 ――第一位 かぐや・いろP 新規獲得ファン数 106万106人

 

 今日一番の歓声が爆発した。

 音が圧となって降ってくる。大気が震え、足元が浮くような錯覚があった。

 勝った、と誰かが叫んでいる。すごい、と誰かが泣いている。

 かぐやの名前と、いろPの名前が、波のように何度も何度も会場を巡っている。

 彩葉は膝から力が抜け、ふらりとその場へしゃがみ込んだ。

 代わりに、かぐやが飛んだ。

 

「やったああああああああああああ!」

 

 月へ届くのではないかと思うほどの大ジャンプだった。

 金色の髪が光をまき散らし、背中の飾りが軌跡を引き、かぐやの全身が嬉しさそのものになって夜空へ跳ね上がる。

 着地した瞬間、彼女は彩葉へ抱きつき、言葉にならない声で笑った。

 

「彩葉! 勝った! 勝ったよ! 負けたけど勝った!」

「情緒がめちゃくちゃ……」

「でも勝った!」

「……うん」

 

 彩葉はようやく笑った。

 

「勝ったんだね」

 

 その声は、歓声に消えそうなほど小さかった。

 けれど、かぐやには届いていた。

 

 

「おめでとう、かぐやちゃん、彩葉」

 

 背後から声がした。

 振り返ると、帝アキラが立っていた。隣には駒沢雷。

 乃依の姿は見えない。飽きて先に帰ったのか、それともファン対応へ消えたのか、その辺りはいかにも彼らしかった。

 帝はいつもの黒い毛皮を肩へ掛け、金棒型武器を軽く担ぎながら、楽しそうに笑っている。

 

 かぐやは彩葉の横で、急に青ざめた。

 

「げっ、やばっ、結婚!」

 

 完全に忘れていた顔だった。

 帝アキラは、にやりと笑う。

 

「これじゃ、勝ったとは言えないな」

「ん? お? あー……」

「ま、もともと無理やり結婚する気なんてねーし」

「だよな。かぐやちゃんも知ってた」

 

 彩葉がジト目でかぐやの嘯きに視線を送ると、帝は肩を竦めた。

 けれど、その顔には本気で不満を言う色はない。

 むしろ、二人の戸惑う顔が見られて満足したように、彼は雷へ軽く顎をしゃくった。

 

「つーわけで、俺ファンのとこ行くから」

 

 去り際、帝は一瞬だけ彩葉へ視線を向けた。

 兄の顔ではない。

 帝アキラとしての顔でもない。

 その二つが、ごく自然に重なった顔だった。

 

「いい相方、見つけたな」

 

 彩葉は、言葉に詰まった。

 返事をする前に、帝アキラと雷は踵を返す。

 人だかりが、彼らの行く先で自然と割れた。

 ブラックオニキスは負けていない。KASSENでは勝ち、ヤチヨカップでは二位。

 それでも不平を言わず、王者としてのありようを崩さない。観客が彼らへ送る歓声は、敗者へのものではなかった。

 

「ふったりとも~。よ~きかな~☆」

 

 結果発表を終えたヤチヨが、公式の表情を少しだけ脱いで降りてきた。

 彩葉は、まだうまく声が出せない。

 推しが目の前にいる。

 自分たちは勝った。コラボライブが決まった。あまりにも多くのことが一度に起きすぎて、感情が処理待ちの列を作っている。

 

「やるじゃねーか、マグレに頼る天才だな」

 

 FUSHIがかぐやの周りをひょこひょこ飛ぶ。

 

「違うよー、一夜漬けの秘密特訓の成果だよ! かぐやちゃんの華麗なチェストツクヨミ見たっしょ~。

 まあ、でもかぐやがハンマー職だからかもだけど、どうしたらヤチヨみたいにしゅばばって動けるの?」

 

 かぐやはFUSHIを捕まえ、なぜかリフティングを始めた。彩葉は止める気力もなく、ただそれを見ていた。

 

「それはもう、日々の努力の玉藻の前というか~、気まぐれアメンボロードというか~」

「はあ? ヤチヨって、いっつもテキトーじゃない?」

「 ……困っている人を見ちゃうと、すーぐ動いちゃう人がずーっと近くに居たからね、それでヤッチョも脊髄反射で動く術(すべ)を身に着けたのです」

 

 ヤチヨは、いつものふわふわした調子でそう言った。

 けれど、その言葉の終わりだけが、不思議と夜の底へ沈むように重かった。

 明るく笑っている。扇子を揺らす仕草も、肩に乗ったFUSHIを軽く撫でる指先も、いつもの月見ヤチヨそのものだった。

 けれど彩葉には、その一瞬だけ、彼女がひどく遠いところを見ているように思えた。

 

 困っている人を見ちゃうと、すぐ動いてしまう人。

 それが誰なのか、かぐやにも彩葉にも分からない。

 少なくとも、今ここにいる誰かのことを言っているようには聞こえなかった。

 ヤチヨの声に含まれた親しさは、昨日今日の付き合いで生まれるものではなく、もっと長く、もっと古く、年月どころか時代そのものをまたいで擦り切れた布のような手触りをしていた。

 

「え、誰それ?」

 

 かぐやが素直に訊ねる。

 その問いに、ヤチヨは一度だけ瞬きをした。

 

「んっんー。内緒ですな~☆」

「ずるい! そういう意味ありげなの、かぐや気になる!」

「気になっても、まだ食べ頃じゃないお話なのです。青いバナナを無理やり食べるとお腹を壊しますぞ?」

「バナナの話だったっけ?」

「違うなー」

 

 FUSHIがぼそりと言う。

 その声音が、いつもより少しだけ低かった気がして、彩葉は反射的に視線を向けた。

 しかし、白いウミウシはすぐにいつもの憎まれ口の顔に戻り、かぐやの手から逃げるように宙を泳いだ。

 

「ともあれ、お前らはよくやった。勝負には負け、数字では勝ち、話題性では全部持っていった。まったく、とんでもない小娘どもだ」

「褒めてる?」

「褒めてるとも。半分くらいはな」

「残り半分は?」

「呆れてる」

 

 かぐやがむくれ、彩葉は思わず小さく笑った。

 緊張も興奮も、まだ身体の奥で熱を持っている。

 帝アキラとの激闘、雷の地雷、乃依の狙撃、ヤチヨの助っ人、そして優勝発表。

 あまりにも多くの出来事が一度に押し寄せて、感情がまだ渋滞していた。

 けれど、目の前でかぐやがFUSHIといつもの調子で言い合っているのを見ると、ようやく足元が戻ってくる。

 

 勝ったのだ。

 KASSENには負けた。

 けれど、ヤチヨカップには勝った。

 それは、かぐやと彩葉が、たくさんの人に見つけてもらえたということだった。

 

「ふたりとも」

 

 ヤチヨが、もう一度扇子を閉じた。

 

 ぱちん、という小さな音がしただけなのに、会場のざわめきがそこへ集まるように静まる。

 公式MCの顔でも、バトル中のお助けキャラの顔でもない。

 どこか少しだけ、友人に語りかけるような声だった。

 

「今日のこと、ちゃんと覚えておくとよいです。負けてくやしいことも、勝って嬉しいことも、叫びすぎて喉がひゅーひゅーすることも、誰かが見ていてくれたって分かった瞬間の胸の感じも、全部です。

 そういうのはね、あとで、すごーく遠い夜を歩く時の灯りになるから」

 

 彩葉は、その言葉に少しだけ眉を寄せた。

 

「遠い夜?」

「たとえばのお話ですぞ~☆」

 

 ヤチヨは軽く笑い、くるりとその場で回った。

 長い袖が月光を掬い、扇子の先から光の粒が散る。

 その一つ一つが会場の上空へ昇り、先ほどまで数字を映していたスクリーンを柔らかく溶かしていく。

 

「さーて、ここからはクライマックスに向けてハードな展開が待っているかも。このお話を、最後まで見届けてね? 運命の荒波に揉まれる覚悟はいいかー?」

「おー!」

 

 かぐやが迷いなく拳を突き上げた。

 彩葉も、少し遅れてそれに倣った。

 この時の二人は、ヤチヨの言葉をただの激励だと思っていた。

 これからコラボライブの準備が始まり、慣れない打ち合わせに追われ、練習に苦しみ、それでもヤチヨと同じステージへ立つ。

 その程度の意味だと思っていた。

 

 楽しいことばかりではないだろう。

 大変なことも、きっとある。

 それでも、今日みたいに二人で走れば何とかなる。

 彩葉もかぐやも、そう信じて疑わなかった。

 ツクヨミの夜空には、歓声と祝福の光が満ちていた。誰も、その先にある月の冷たさを知らない。

 誰も、まだ訪れていない別れの輪郭を知らない。

 ヤチヨだけが、ほんの一瞬、笑顔の奥に八千年分の夜を隠し、それから何事もなかったように両手を広げた。

 

「それではみんな、さらば~い☆」

 

 会場全体が、再び歓声に包まれた。

 

 

 コラボライブ当日。

 私は観客席の端にいた。

 ヨミとしてログインすることも考えたが、やめた。

 ここで目立つ理由がない。

 月見ヤチヨと、かぐや・いろPの初コラボライブ。

 そこに対人勢として少しばかり知られたヨミが観客席にいるだけで、妙な切り抜きが生まれかねない。

 だから今日は、ほとんど誰にも認識されない一般観客用の簡易アバターを選んでいた。

 地味な上着、地味な髪、光量の低い輪郭。観客の群れに混ざれば、背景の一粒にしか見えない。

 

 もっとも、そうまでして来る必要があったのかと聞かれると、返事に困る。

 自分が招いたSETSUNA大会が、酒寄さんの生活を変え、紆余曲折の末にヤチヨカップへ繋がり、ここまで来た。

 その行く末を確認するのは、私の悪癖の延長でもあった。

 助けた人間の顔を確認する。

 困った顔が終わったか。

 曇った顔が消えたか。

 それだけ見て、満足して離れる。

 趣味が良いとは言えない。

 ただ、今回ばかりは感謝されることの暖かさを思い出させてくれた二人の晴れ舞台を見たいという想いの比重が少しばかり強かった。

 

 ライブ会場は、銀河の内側のようだった。

 ツクヨミの夜空はいつも暗い。

 けれど今日の暗さは、ただの黒ではない。

 幾万ものサイリウムが星のように瞬き、ステージの外周を巡る光の帯が天の川のように流れている。

 足元は水鏡のように澄んだ仮想床で、観客の熱量に応じて波紋が広がり、光が細かく砕けて散っていた。

 

 中央ステージは、月見ヤチヨらしい和と電子の混合だった。

 神楽殿のような檜の舞台に、未来的な透明ディスプレイが重なり、背後には巨大な月が浮いている。

 月といっても不穏なものではない。ツクヨミの象徴としての、柔らかい、夜を照らす月だった。

 少なくとも、その時は。

 

 開演前のざわめきは、肌に触れるほど濃かった。

 ツクヨミの音響はよくできている。

 歓声の距離、隣の観客が足踏みする振動、誰かが息を呑む気配まで、現実のライブ会場に近い密度で再現されていた。

 だが、私にはそれ以上のものが見える。

 アンサートーカーが、無意識に情報を補完する。誰が何を期待しているか、どこで歓声が弾けるか、どの演出で酒寄さんの膝が少し震えるか。

 見えすぎるのは、いつも便利で、時々うるさい。

 

 ステージ中央の床が、ふわりと持ち上がった。

 歓声が爆発する。

 昇降機に乗って現れたのは、三人だった。

 月見ヤチヨ。

 かぐやさん。

 そして、いろP――酒寄彩葉。

 

 三人は、同じ意匠のライブ衣装を纏っていた。

 黒いハイネックの上衣に、斜めへ走る翡翠色のライン。

 胸元から腰へかけて白と黒が交差し、赤い帯が全体をきゅっと締め、膝丈の白いフレアスカートが昇降機の揺れに合わせて軽やかに膨らむ。

 その統一された衣装は、ツクヨミの夜に浮かぶ月明かりを布にしたようでありながら、着る者によってまるで表情を変えていた。

 

 ヤチヨは、いつもの神秘的な和装ではなく、同じステージへ立つ歌姫としてそこにいた。

 白銀の髪を高くまとめ、長く垂らした一房に淡い桃色を宿した姿は、どこか夜空に咲く花のようで、笑みを浮かべるだけで会場の空気を自分のものにしてしまう。

 

 かぐやさんは、その衣装さえ跳ねる光に変えていた。

 金色の髪を弾ませ、客席を見渡す目を好奇心で輝かせる彼女は、緊張より先に「楽しいことが始まる」という期待で満ちている。

 

 そして酒寄さんは、二人と同じ衣装でありながら、少しだけ違う熱を纏っていた。

 青紫の髪が肩で揺れ、腕には鍵盤型ブレードを楽器として調整したキーボードが抱えられている。

 KASSENで刃として振るわれていたそれは、今夜は音を鳴らすために彼女の指先を待っていた。

 握る手にはわずかな強張りがある。

 けれど、怖いものがないから強いのではなく、怖さを抱えたまま前へ出られるから強いのだと、その横顔を見て思った。

 

 歓声が、三人へ降り注いだ。

 それは音というより、熱だった。

 幾万もの観客の期待と興奮が、サイリウムの海から立ち上り、透明な床を震わせ、仮想の空気を肌に触れるほど濃くする。

 現実の肉体は自室の椅子に座っているはずなのに、簡易アバターの胸の奥まで、その圧は確かに届いた。

 

「ヤオヨロ〜☆」

 

 ヤチヨの声が、会場全体を撫でた。

 たった一言で、ざわめきの質が変わる。

 散らばっていた興奮がひとつの流れへまとまり、ステージを中心に大きな輪を描く。

 月見ヤチヨという存在は、やはり格が違った。管理人AI、トップライバー、ツクヨミの象徴。

 肩書きはいくらでもあるのだろうが、目の前に立つ彼女は、それらを説明として必要としない。

 ただそこに立ち、笑い、手を振るだけで、観客の心が自然と彼女の方へ向いてしまう。

 

「みんな、生きるのはどうですか? 良いことあった? それとも泣いちゃいそう? よしよし、全部大丈夫。

 どんなに孤独な道のりでも、楽しかったなーって記憶が足元を照らすよ。この時間も忘れられない思い出にしたいから……どうか一緒に踊ってくれる?」

 

 楽しかった記憶が、足元を照らす。

 その言葉だけが、妙に胸の奥へ引っかかった。

 理由は分からない。けれど、まるでずっと昔にどこかで聞いた言葉のようでもあり、これから先のどこかで聞くことになる言葉のようでもあった。

 アンサートーカーは沈黙している。

 少なくとも、この時点ではまだ、答えを返していない。

 それなのに、私はその一節を、意味もなく忘れてはいけないもののように感じていた。

 

 ライブが始まった。

 一曲目のイントロが流れた瞬間、会場の色が変わる。

 足元の水鏡が光を拾い、サイリウムの海が一斉に波打ち、観客席全体が巨大な発光生物のように揺れ始めた。

 ヤチヨの歌声は、透明でありながら底が深かった。

 水底から空を見上げるような、手を伸ばしても届かないのに、確かに肺へ空気を送り込んでくれるような声。

 そこへ、かぐやさんの明るい声が飛び込み、少し跳ね、少しはみ出し、それでも場を一気に陽の方へ引っ張っていく。

 

 酒寄さんは、最初こそ硬かった。

 キーボードを抱える手に余計な力が入り、歌い出しの前に一度だけ浅く息を吸う。

 けれど、隣でかぐやさんが振り付けを少し間違え、本人だけが堂々と正解みたいな顔をした瞬間、酒寄さんの口元が小さく緩んだ。

 その笑いが、彼女の肩から力を抜いた。

 鍵盤を叩く指が滑らかになり、歌詞の入りが少しだけ柔らかくなる。

 ヤチヨはそれを見逃さず、目線だけで次の合図を送り、三人の声は少しずつ一つの形へ馴染んでいった。

 

 完璧ではなかった。

 だが、完璧でないから良かった。

 

 ヤチヨは全体を包み、かぐやさんは光の粒をまき散らし、酒寄さんは一音一音を大切に置いていく。

 三人の白いスカートが同じ振り付けで翻っても、その揺れ方は少しずつ違った。

 ヤチヨの動きは水のようにしなやかで、かぐやさんは跳ねる炎のように勢いがあり、酒寄さんは楽譜の上を正確に歩くように丁寧だった。

 その違いが、かえってステージへ奥行きを与えている。

 

 私は、観客席の端でそれを見ていた。

 自分がしたことなど、ほとんどない。

 最初に大会へ招待した。彼女が欲しがっていた狐面を渡した。ほんの少しだけ、彼女が参加しやすいように道具を置いた。それだけだ。

 あとは酒寄さん自身が勝ち、かぐやさんと出会い、ヤチヨカップで走り抜き、ここまで辿り着いた。

 だから胸の奥に湧くこの満足感は、私の功績ではない。ないはずなのに、どうしても少し気分が良くなる。

 

 悪い癖だと思う。

 助けた人間の顔を確認する。困った顔が終わったか、曇った顔が消えたか、それだけを見て満足する。

 それでも、今夜ばかりは少しだけ違う気もした。

 感謝されることの温かさを、あの二人は私に思い出させた。

 こちらの隠れ方を、あまり上手に許してくれない人たちだった。

 だからこそ、この晴れ舞台を見たいと思った気持ちまで、全部が全部、自己満足だけだったとは言い切れない。

 

 

 やがて最後の曲が終わる頃には、会場全体が熱を持ちすぎた星のようになっていた。

 余韻というには激しすぎる。

 観客の叫びはまだ鳴りやまず、サイリウムは揺れ続け、ステージ外周の光帯は三人の足元を祝福するように巡っている。

 ヤチヨは息を乱さず笑っていたが、かぐやさんは興奮で目を潤ませ、酒寄さんは胸へ手を当てて、まだ現実感を掴みきれていないように客席を見渡していた。

 

 その時、かぐやさんがふと、隣の酒寄さんを見た。

 距離がある。

 普通なら聞こえない。

 けれど、アンサートーカーは唇の形と表情の揺れから、勝手に言葉を補完する。

 

『彩葉、好き』

『私?』

 

 酒寄さんが固まった。

 

 かぐやさんは、ライブ後の高揚をそのまま声にしたように、もう一度口を動かす。

 

『あー、もー、彩葉と結婚しよっかなー』

 

 酒寄さんの顔が、分かりやすく処理落ちした。

 私は少しだけ笑いそうになった。

 

『ダメ?』

『まあ、生活費折半してくれるなら、一緒に住むのはいいけどさ』

『え、本当?』

 

 その瞬間だった。

 音が、乱れた。

 はじめは、ごく小さな違和感だった。歓声の中に混じった一瞬のノイズ。

 音声が薄い膜に引っかかったような歪み。

 ステージ外周のディスプレイが、ほんの一拍だけ瞬く。

 ライブ後の高負荷による処理落ちと言われれば、観客の大半は納得しただろう。

 実際、すぐ近くの観客はまだ笑っていたし、遠くでは「最高だった」と叫ぶ声が続いていた。

 

 けれど、私の背筋はその前に冷えていた。

 アンサートーカーが、問いを待たずに反応した。

 違う。

 これはツクヨミの不具合ではない。

 

 ステージ背後の巨大モニターに、月が映った。

 先ほどまで演出として浮かんでいた、柔らかく夜を照らす月ではなかった。

 それは冷たく、遠く、こちらを観測するような月だった。

 光は白いのに温度がない。美しいのに親しみがない。

 見上げるものではなく、見下ろされるものとしての月。

 

 次の瞬間、別のモニターにも、外周の情報パネルにも、観客席の簡易端末にも、同じ月が次々と浮かび上がった。

 それから、数字。

 『2030/09/12』

 文字列は増殖した。

 一つの画面から隣へ、隣から空中表示へ、空中表示から観客の端末へ。

 白いカビが黒い壁を侵食するように、日付がツクヨミの表示系へ広がっていく。

 ざわめきが生まれた。演出なのか、障害なのか、誰も判断できず、その判断できなさが恐怖の種になる。

 ざわめきは波となり、波はやがて観客席のあちこちで小さな悲鳴を咲かせた。

 

 そのざわめきにつけ込むように、違和感は人の形を取った。

 白い人型。

 顔のない灯篭の輪郭。

 無機質な腕。

 ツクヨミのアバターではない。通常のルールで生成されたものではない。

 欠損すれば桜の花びらになって散る、そういう電子的な身体ではなく、もっと冷たく、もっと異質な、月の裏側から伸びてきた指のような何かだった。

 

 最初に気づいたのは、かぐやさんだった。

 ステージの上で、彼女が客席の方を覗き込む。

 どうしたの、と酒寄さんが声を掛けようとした、その横を。

 白い腕が通り過ぎた。

 

「かぐや!」

 

 酒寄さんの声が飛ぶ。

 だが、触れられた方が早かった。

 白い腕が、後ろからかぐやさんの腕を掴む。

 次の瞬間、かぐやさんの身体ががくりと崩れた。電源を落とされた人形のように膝から力が抜け、白いスカートが舞台の上に広がる。

 目は開いている。けれど、何も見ていない。視線だけが遠く、別の世界へ引きずられている。

 

 

 刹那。

 私の中で、何かが割れた。

 アンサートーカーが暴走した。

 問いを立てていない。

 それなのに、答えが流れ込んでくる。

 最初に来たのは、文字だった。

 月の使者。対象、かぐや。接続先、月。予告日、二〇三〇年九月十二日。満月。帰還。記憶消去。歌。再帰。時間遡行。事故。八千年。

 ばらばらの単語は、冷たい刃物のように脳の内側へ突き刺さり、次の瞬間、それらは単語であることをやめて、ひとつの長すぎる物語として展開した。

 

 私は、月へ帰るかぐやさんを見た。

 

 羽衣を纏わされ、地球で得た記憶が薄い霧のように剥がれていく彼女は、最初、自分が何を失っているのかすら分からないまま、遠い宮殿の奥で月の仕事に追われていた。

 そこは美しく、静かで、何も欠けていない場所だった。

 けれど、欠けていないからこそ息が詰まる。

 人の生活にある雑音も、匂いも、失敗も、笑い声もない冷たい完全さの中で、彼女は長い時間を過ごし、やがて地球から届いた彩葉の歌によって、失ったはずの心の輪郭を取り戻す。

 

 戻らなければ、と彼女は思う。

 彩葉に会わなければ、と。

 けれど月で過ぎた時間は、地球では数十年を意味していた。

 そのまま帰れば間に合わない。

 ならば時間を遡ればいい、と月の技術はあまりにも当然のように答えを用意し、かぐやさんは仕事を片付け、引き継ぎを済ませ、複製のような後任を残し、タケノコ型の宇宙船――もと光る竹へ乗り込んだ。

 彩葉に会えるという希望だけを胸に抱えて、彼女はもう一度地球を目指した。

 

 だが、宇宙船は地球を目前にして隕石と衝突する。

 衝撃が時間遡行アルゴリズムを狂わせる。

 戻るはずだった数十年は、気の遠くなるような過去へと裂け目を開き、船は現代ではなく、まだ東京も、アスファルトも、電線も、学校も、ツクヨミも存在しない列島の海へ落ちる。

 波は今より荒く、森は今より深く、人の営みは小さな焚き火の周囲にしかなかった。

 八千年前。縄文時代前期。

 そこでかぐやさんは、人の身体を作る機能を失い、白いウミウシの姿で目を覚ます。

 

 その姿を見た瞬間、私の呼吸が止まった。

 さっきまでステージで跳ねていた金色の少女ではない。

 月から来た姫でもない。

 小さな、小さな白い海の生き物。

 意識も、声も、記憶もある。

 けれど、人の腕がない。走る脚がない。誰かの手を握る指がない。抱きしめたいと思っても、抱きしめる身体がない。

 泣きたいと思っても、人の涙を流す顔がない。

 

 彼女のそばには、黒い小さな影がいた。

 犬DOGEだったもの。

 残されたわずかなエネルギーで外界へ形を得た、後にFUSHIと呼ばれる存在。彼がいたから、かぐやさんは完全に世界から切り離されずに済んだ。

 けれど、彼がいてもなお、八千年は長すぎた。

 

 そこから流れ込んできた時間は、早送りなどという生易しいものではなかった。

 

 ひとつの人生なら、まだ物語として受け止められる。

 けれど八千年は、物語という器を簡単に溢れさせる。

 土器を焼く煙の匂いが、貝塚に残された骨の白さが、

 森の暗さが、祭りの火が、飢えた子どもの泣き声が、

 恋をした若者の笑い声が、戦に巻き込まれた村の黒煙が、

 都を渡る鐘の音が、疫病の静けさが、焼け落ちる街の熱が、時代という時代の重みを伴って押し寄せてくる。

 

 かぐやさんは、それを見続けた。

 

 小さな身体で、人ならざるものとして、出会い、別れ、笑い、置いていかれ、大切になった人間の死を何度も何度も見送った。

 人は短い。あまりにも短い。

 昨日まで自分を拾い上げて笑っていた子どもが、次に会う頃には大人になり、やがて老いて、墓の下へ行く。

 国が変わり、言葉が変わり、服が変わり、祈りの形が変わっても、別れだけは何度も同じ顔をしてやってくる。

 

 それでも彼女は、彩葉へ会いたいと願い続ける。

 まだ生まれていない少女へ。

 何千年も先の未来で、自分を見つけてくれるはずの人へ。

 そして、その長すぎる旅路のどこかに、私はいた。

 

 最初は意味が分からなかった。

 知らない顔だったからだ。

 けれど、魂の輪郭だけが嫌になるほど自分のものだった。

 ある時は海辺の集落に生まれた少年として、ある時は平安の歌人として、

 ある花街の禿として、ある時は文壇の袴姿の女として、ある時は戦火の中を走る少年として、私は何度もかぐやさんの前に現れていた。

 

 まだ経験していないはずの記憶なのに、確かに自分のものだと分かる。

 ときには名乗り、ときには名乗らず、ときにはほんの少し道を示し、ときには拾われた花を一緒に見て笑い、ときには崩れかけた世界の中で彼女を庇っていた。

 私は何度も生まれ、何度も死に、そのたびに、かぐやさんに悲しいものばかりを残さないように、なるべく楽しい記憶を渡そうとしていた。

 

 アンサートーカーが私へ突きつけているのは、単なる未来ではなかった。

 始点から終点へ伸びる直線ではなく、始まりと終わりが同じ場所へ繋がった輪だった。

 

 

 ステージでは、ヤチヨが白い人型を弾き飛ばしていた。

 海色のネイルに飾られた人差し指を軽く振るたび、人型が見えない力に叩かれ、消しゴムのように吹き飛ぶ。

 残った人型が後ずさり、無機質な声で何かを言う。

 

 モウシワケゴザイマセン。

 

 謝罪。

 誰に。

 ヤチヨにか。

 それとも、かぐやさんにか。

 

 私はヤチヨを見た。

 今なら分かる。

 分かってしまう。

 彼女は未来のかぐやさんだ。

 八千年を歩いた果てに、作り笑顔を覚え、痛みを隠す術を覚え、人の賑わいを愛し、仮想空間ツクヨミを作ったかぐやさん。

 その本人が、今、若いかぐやを守っている。過去と未来の自分の輪廻を破綻させないために。

 

 だが、私は彼女へ接触しない。

 してはいけない。

 彼女は相談相手ではない。

 答えを知っている優しい管理人AIではない。

 彼女自身が、八千年の結果だ。

 これから八千年へ落ちるかぐやさんの運命を、すでに八千年を耐えた彼女に背負わせるのは違う。

 そんなことをすれば、私は助けるふりをして、一番重い荷物を一番傷だらけの人間へ渡すことになる。

 

 だから、私がやる。

 勝手に。

 誰にも言わずに。

 いつも通り、勝手に助ける。

 ヤチヨは観客席へ向き直り、いつもの声で叫んだ。

 

「今のは、一体? 何が起こってしまうんだ? 続報を待て!」

「みんな、今日は本当にありがとう〜〜☆」

 

 幕が下りる。

 客席とステージが分断される。

 通信が切れる。

 ツクヨミの夜空から、月の異物感だけが薄い染みのように残った。

 

 私は動けなかった。

 簡易アバターの指先が、冷たく震えている。

 仮想の身体に過ぎないはずなのに、胸の奥を直接掴まれたような感覚があり、視界の端ではまだ月の残滓が薄い染みのように揺れていた。

 八千年分の断片を一度に押し込まれた脳が、現実の時間へ戻り切れていない。

 

 けれど、迷ってはいなかった。

 見えた。

 かぐやさんの未来が。

 ヤチヨになる旅の全容が。

 そして、その旅路に自分がどう関わるのかが。

 

 私は観客席の端で、ひとり小さく息を吐いた。

 ステージはもう見えない。

 けれど、倒れたかぐやさんを抱き起こす酒寄さんの顔は、アンサートーカーが見せていた。

 震える指。必死に明るく振る舞うかぐやさん。

 笑顔の裏で嘘をつくヤチヨ。日付を検索する酒寄さん。満月に気づく夜。母親からの不在着信。迫る九月十二日。

 

 以前、かぐやさんからKASSENの練習相手を頼まれた時にも、私は未来の断片を見ていた。

 あの時はまだ、全体の輪郭など分からなかった。

 ただ、遠い夜と、白いウミウシと、届かない手と、何かを失いながらそれでも笑おうとするかぐやさんの姿だけが見えた。

 そして私は、それが何を意味するのか全部は分からないまま、それでも「助けるよ」と口にした。

 

 だからこれは、初めての決意ではなかった。

 答え合わせだった。

 八千年という時間は、途方もない。

 ひとつの人生ですら、人は抱えきれないほどの痛みと喜びを積み上げる。

 それを数え切れないほど繰り返し、何度も生まれ、何度も死に、そのたびにかぐやさんの孤独のそばへ立つ。

 言葉にすれば美しいが、実際には魂の摩耗だ。自分という輪郭が削れ、宵宮巡として戻ってこられる保証など、どこにもない。

 

 

 それでも、退く理由にはならなかった。

 たった一度だった。

 かぐやさんが、私にまっすぐ礼を言ったのは。

 酒寄さんが、少し掠れた声で、それでも確かに感謝を向けてくれたのは。

 たったそれだけのことだったのかもしれない。

 普通の人間なら、助けたのだからありがとうと言われるのは当然で、少し照れて、笑って、それで終わる程度の出来事だったのかもしれない。

 

 けれど、私には違った。

 

 前世の母は、ありがとうと言えない人だった。

 私が手を伸ばすたび、母は少し楽になるのではなく、申し訳なさそうに目を伏せて、ごめんね、と謝った。

 買い物袋を持っても、部屋を片付けても、具合の悪い日に食べられそうなものを用意しても、返ってくるのは感謝ではなく謝罪だった。

 

 助けたいだけなのに、助けるほど相手を小さくしてしまう。

 幼かった私には、その感覚が怖かった。

 だから私は、気付かれないように助けることを覚えた。

 誰がやったのか分からない形にすれば、相手は謝らない。

 ありがとうも、ごめんねも受け取らずに済む。そうしているうちに、私はいつの間にか、自分の善意を疑うことに慣れてしまった。

 

 けれど、かぐやさんと酒寄さんは違った。

 ありがとう、と言った。

 ごめんねではなく。

 こちらの手を重荷にするのではなく、そのまま受け取るみたいに、まっすぐ温かい言葉を渡してきた。

 その時、胸の奥で何かがほどけたのだと思う。助けることは、相手を惨めにすることだけではない。

 感謝は、上から下へ落ちてくる褒美ではなく、同じ高さで差し出される温度なのだと、私はようやく思い出した。

 

 私は、そのことに救われた。

 かぐやさんと酒寄さんに。

 感謝されることが怖かった私が、感謝されてもいいのだと、ほんの少しだけ思えるようになった。

 自分の善性を、すべて偽善や優越感に押し込めなくてもいいのだと、あの二人は勝手に教えてくれた。

 

 なら、今度はこちらの番だった。

 白いウミウシが、一人で泣いている未来を見た。

 海辺で冗談を言い、自分で笑い、自分で黙る未来を見た。

 花をもらって喜び、その花をくれた人間を見送り、時代に置いていかれ、それでもまだ生まれていない酒寄さんへ会うために歩き続ける未来を見た。

 そして私は、その未来に自分がいる道筋を見た。

 

 なら、十分だった。

 八千年だろうと、月だろうと、時間の輪だろうと、関係ない。

 助けると言った。

 なら、助ける。

 感謝されたから、恩を返すのではない。

 救われたから、救い返すのでもない。

 ただ、あの二人が私の中の歪みを少しだけ晴らしてくれたから、私はもう、善くありたいと思う自分をそこまで嫌わずに済む。

 

 だから行く。

 誰にも言わずに。

 誰にも知られずに。

 けれど今度は、逃げるために隠れるのではない。

 かぐやさんの旅路を、かぐやさん自身のものとして守るために、見えない場所から寄り添う。

 

 なら私が考えるべきことは、行くかどうかではない。

 どうやって行くかだ。

 

「……大丈夫」

 

 誰にも聞こえないように、私は呟いた。

 それは、まだ言っていない言葉だった。

 けれど、いつか焦土の中で、自分がかぐやさんへ言う言葉でもあった。

 

「これから──最初から一緒に行く」

 

 ツクヨミの夜空は、何事もなかったかのように暗かった。

 けれどその暗闇の奥で、月だけが、こちらを見ていた。

 

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 ここならぬいづこの物語なり。

 

 月より落ちし姫は、白き小さき身となりて、人の世の移ろいを八千年ながめたり。

 

 花は咲き、花は散り、国は興り、国は滅び、されど人はまた灯を掲げ、言の葉を遠き者へ届ける術を得たり。

 

 これは、失われし竹を求めし姫が、異国の男と、名も知らぬ懐かしき魂に再び出会う物語。

 

 時は昭和を過ぎ、焼け跡の国に新しき光の網が張られ始めし頃にて――

 

 

 戦争のあとも、人の世は終わらなかった。

 焼け野原に柱が立ち、柱の間に電線が渡り、やがて家々の中へ電話が入り、冷蔵庫が唸り、ラジオが夜を喋り、ブラウン管の向こうで遠い国の映像が揺れた。

 人は何度も過ち、何度も壊し、そのたびに壊したものの上へ、また別の便利なものを積み上げていく。

 かぐやはそれを、白いウミウシの小さな身体で見続けた。

 

 八千年という時間は、長すぎた。

 長すぎる時間は、痛みを鈍らせる。

 思い出を優しくするのではない。ただ、輪郭を摩耗させる。

 彩葉の声も、指先の温度も、笑った時に少しだけ目尻が緩む顔も、花火の夜に握り返してくれた手の強さも、時折、遠い水底のもののように揺らいだ。

 

 忘れたくない、と何度も思った。

 けれど、忘れたくないと思うたび、忘れかけている自分に気づく。

 それが一番怖かった。

 ある夜、かぐやは薄暗い部屋の隅で、古い端末の前にいた。人間の指はない。手もない。白く小さな身体をよじり、補助装置を介して、たどたどしく文字を入力する。

 画面の中には、簡素な入力欄があり、点滅するカーソルが、こちらの言葉を待っていた。

 かぐやは、長い時間をかけて打ち込んだ。

 

 Hello, world!

 

 送信。

 すぐに返事が来た。

 

 Hello, you.

 

 たったそれだけだった。

 けれど、その瞬間、かぐやの中で何かが震えた。

 世界が返事をした。

 自分の声が、知らないどこかへ届き、知らない誰かが、こちらへ声を返してくれた。海より広く、月より遠く、けれど手を伸ばせばすぐ隣にあるような場所。人間は、ついにそんなものを作り始めていた。

 

「……人間、すごいじゃん」

 

 月の技術がなければ、自分は小さな義体一つまともに直せない。

 けれど人間は、戦争と失敗と欲望と好奇心の果てに、ついに世界中の誰かから返事が来る場所を作り始めていた。

 なら。

 もし、『もと光る竹』をもう一度手に入れられたなら。

 もし、壊れた船の中枢と、人の作ったこの通信網を接続できたなら。

 この小さな身体の制約を越えて、もっと多くの人へ声を届けられるかもしれない。

 誰も孤独にならず、いつでも誰かの返事があり、好きな姿で、好きなことをして、歌って、踊って、戦って、笑える場所を作れるかもしれない。

 仮想の、大きな広場。

 その発想が浮かんだ瞬間、かぐやの中で、薄れていた記憶が一つずつ形を取り戻し始めた。

 

 夜空。

 サイリウム。

 歌。

 KASSEN。

 彩葉の鍵盤。

 月見ヤチヨ。

 ヤオヨロ〜、と笑う白銀の歌姫。

 かぐやは、小さな身体を震わせた。

 

「……バカだったなあ」

「何で、今まで気付かなかったんだろ」

 

 自分が、そこへ辿り着くのだ。

 あの白銀の髪の歌姫は、遠い未来に現れる誰かではない。

 自分自身だ。八千年の果てに、痛みと孤独と無数の別れを抱え、それでも笑って、彩葉と再会するためにツクヨミを作る。

 

 私が、ヤチヨになる。

 

 その理解は、救いであると同時に、途方もない重さだった。

 未来は閉じている。けれど、閉じているからこそ辿り着ける。彩葉と再会できる。あの歌へ、あの夜へ、あの笑顔へ、もう一度手を伸ばせる。

 そのためには、『もと光る竹』が必要だった。

 船は、失われたわけではない。

 長い時間の中で、人間たちはそれを宝物として扱い、意味も分からないまま守り、名を変え、由来をぼかし、やがて正倉院の奥深くへ収めていた。

 月の船の中枢であり、時間遡行の残骸であり、かぐやがもう一度世界へ繋がるために必要な鍵。

 

 けれど、今のかぐやには、それを取りに行く身体がなかった。

 協力者が必要だった。

 

 

 ジョン・カーターと出会ったのは、外国人が集まる古いバーだった。

 

 湿った木の匂いと、磨き込まれたカウンター。

 煙草の名残と、安いジャズ。

 グラスの中で氷が鳴り、琥珀色の酒が鈍く光っている。

 そこへ、小さな白いウミウシが当然のように現れ、カウンターに乗り上げたのだから、普通の人間なら悲鳴を上げるか、店を出るか、酔いを疑うかのどれかだった。

 

 けれど、その男は違った。

 ジョン・カーターは、一度だけグラスを持つ手を止め、それから片方の口角を上げて笑った。

 

「こんばんは、お嬢さん。席は空いているが、塩は注文しない方がいいな。君には少し失礼な組み合わせに見える」

「初対面のウミウシに塩の話するの、紳士としてどうなの?」

「謝罪しよう。僕の紳士教育は、大西洋を渡る途中で何割か海へ落ちた」

「へえ、じゃあ残ってる何割かで頑張って」

「努力する。努力は、結果が伴わない時に最も美しい言葉だ」

 

 かぐやは思わず笑った。

 ジョンは、紳士的だった。

 椅子を引く仕草も、声の落とし方も、こちらを妙なものとしてではなく一人の相手として扱う距離の取り方も、ひどく洗練されている。

 だが同時に、口を開けばどこか皮肉で、軽く、少しだけ湿った冗談を混ぜる男だった。

 そして、嘘をつくのがうまい人間特有の、嘘をつかない時の妙な透明さがあった。

 

「君は何者だ?」

「月から来たかぐや姫。今はウミウシ」

「なるほど」

「信じるの?」

「信じるよ。僕はCIAの人間だからね。月から来たウミウシくらいで驚いていたら、予算会議を生き延びられない」

「CIAって、そういう仕事なの?」

「時々ね。たいていは書類と会議と、胃に悪いコーヒーだ」

 

 ジョンはそう言って、グラスを傾けた。

 かぐやは自分の事情を話した。

 月から来たこと。羽衣で地球の記憶を失ったこと。彩葉の歌でそれを取り戻したこと。地球へ戻ろうとして事故に遭い、八千年前へ落ちたこと。

 身体を失い、今は小さなウミウシの姿で生きていること。そして、正倉院に眠る『もと光る竹』を取り戻したいこと。

 

 荒唐無稽にも程があった。

 だがジョンは、最後まで笑わなかった。

 いや、笑いはした。

 けれど、それは馬鹿にする笑いではなかった。

 

「正倉院から宝を盗めと」

「盗むんじゃないよ。元々かぐやの」

「所有権の主張としては大胆だ。八千年越しの忘れ物取り扱い窓口があれば、君は間違いなく常連になれる」

「手伝ってくれる?」

「質問が速いな」

「八千年待ったから、そろそろ急ぎたい」

 

 ジョンはしばらく黙った。

 氷が、からん、と鳴る。

 

「理由を聞いても?」

「彩葉に会うため」

「恋人?」

「……大切な人」

「なるほど」

 

 ジョンはそれ以上、踏み込まなかった。

 その礼儀正しさが、かぐやには少しだけ心地よかった。

 

「分かった。やろう」

「軽くない? 頼んだかぐやが言う事じゃないけどさ」

「軽い返事に聞こえるよう練習している。重い返事は、たいてい聞き手を不安にするからね」

「ジョンって、ちゃんと変な人だね」

「ありがとう。職務経歴書には書けない長所だ」

 

 

 奈良の夜は、古い夢のように静かだった。

 木々が風に鳴り、湿った土の匂いが低く漂い、遠くの灯りがかすかに揺れている。

 正倉院は夜の中に、巨大な沈黙の箱のように建っていた。

 校倉造の木組みは年月を吸い込み、まるで時間そのものを保管しているかのようだった。

 ジョンは黒い服に身を包み、胸元の保護ケースには、白いウミウシのかぐやが収まっていた。

 

「ほんとに忍び込んでる」

「今さら倫理観が目を覚ました?」

「わくわくしてる」

「結構。いい性格をしている海洋生物だ」

「八千年生きてるからね」

「極上のワインは時間が経つほど深まる。悪いことばかりじゃないさ」

 

 ジョンはそう言って、片方の口角だけを上げた。

 その言葉は軽口の形をしていたが、かぐやの中へ妙に深く残った。

 八千年という時間を、誰かがそんなふうに言ったのは初めてだった。

 長すぎる。苦しい。寂しい。終わらない。そういう言葉なら何度も思った。

 けれど、深まる、と言われると、ほんの少しだけ、積み重ねてきた痛みに別の光が差す気がした。

 

「……ジョン、たまにいいこと言うじゃん」

「たまにではなく毎分良いことを言おうと考えて生きてるよ」

 

 かぐやが笑うと、ジョンは満足そうに片方の口角を上げた。

 警備の隙を縫い、古い建物の奥へ進む。木の匂い、古い紙の匂い、金属の冷えた匂い。

 宝物庫へ近づくほど、空気の底に月の残り香が混じり始めた。かぐやの小さな身体が、保護ケースの中で震える。

 

「近い」

「心拍数が上がる場面だが、君に心臓は?」

「ある気持ちでやってるよ」

「それは大事だ。人間も大半は気持ちで心臓を動かしている」

「医学に怒られそう」

 

 ジョンが最後の扉を開ける。

 その奥には、月光を封じ込めたような筒状の物体があるはずだった。

 しかし、置かれていたものを見た瞬間、かぐやの声が低くなった。

 

「違う」

 

 ジョンの表情が変わる。

 

「偽物か」

「うん。すっごくよくできてる。でも違う。これ、かぐやのじゃない」

「先客がいたらしい」

 

 ジョンが銃を抜く。

 その直前、暗がりから静かな声がした。

 

「撃たない方がいい。銃声が響けば、君の逃走経路は三つ潰れる。残り二つは、もう塞いである」

 

 日本語だった。

 けれどジョンの携帯端末が即座に翻訳し、意味だけが低く流れる。

 暗闇の奥から現れたのは、年齢の読みにくい男だった。

 若くも見える。疲れても見える。何より、その立ち姿に、妙な既視感があった。

 派手な武器はない。

 威圧もない。

 ただ、無駄がない。

 

 そして、その傍らには本物の『もと光る竹』があった。

 かぐやは、保護ケースの中で息を呑んだ。

 顔は違う。

 声も違う。

 背丈も、年齢も、昭和二十年の焦土で見た少年とは違う。

 それなのに、魂が先に分かった。

 火の夜に、自分を抱きしめてくれた魂。

 死に際に、人の力を信じろと告げた魂。

 名を知らぬまま失い、名を知らぬまま、時代のどこかで何度も気配だけを追いかけてきた魂。

 かぐやは、ケースの内側で小さな身体を乗り出した。

 

「……まさか」

 

 男が、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「久しぶり、かぐや」

 

 その一言で、かぐやの中の時間が壊れた。

 嬉しさが先に来た。驚きは後から来た。

 怒りも、安堵も、文句も、全部が一度に溢れて、白い小さな身体が保護ケースの中でじたばた暴れた。

 

「うそ、ほんとに? また会えた! かぐや、また会えたんだ! ずるい、ずるいよ、どうしていつも急にいるの!? 

 ずっと探してたのに、名前も知らないし、呼びようもないし、でも分かるし、分かるのがまた悔しいし! ああもう、『かぐやの君』、そういうとこだよ!」

 

 男は、ほんの少しだけ困ったように笑った。

 

「呼称が急に重くなってない?」

「重くしてるの! かぐやのだから!」

「所有権の主張が強いなぁ」

「当たり前じゃん。八千年の途中で何回も会って、何回も勝手に助けて、何回も勝手にいなくなる人なんて、もうかぐやの君でしょ」

「理屈が力技すぎる」

「月の姫なので」

「便利な身分だ」

 

 ジョンは銃を下ろしきらないまま、二人を見比べていた。

 

「説明を求めたいところだが、今の会話で説明されても理解が遠ざかる気がしてきた」

 

 男はジョンへ視線を戻した。

 

「長い付き合いなんだ。彼女は私の名前を知らないけれど」

「そこまで長く付き合って名乗っていないのか」

「名乗らない方がいい時もある」

「それは便利な逃げ文句だな。僕も次の任務で使おう」

 

 ジョンが片眉を上げる。

 かぐやがすかさず口を尖らせた。

 

「ほら、ジョンもそう言ってる!」

「私はCIAの人間と同じ倫理基準で生きたくはないかな」

「失礼だな」

 

 ジョンは穏やかに微笑んだ。

 

「もっとも、反論材料は少ない」

 

 その軽口で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。

 とはいえ、状況は何一つ安全ではない。

 正倉院の奥で、月の船を挟んで、CIA職員と、ウミウシの月姫と、名を明かさない転生者が向かい合っている。

 どこを切り取っても正気ではなかった。

 ジョンが言う。

 

「先にすり替えたのは君か」

「そう。君たちが来る少し前に」

「目的は?」

「同じだと思う」

「彼女のため?」

 

 男は一瞬、かぐやを見た。

 

「彼女のため、と言うと、また本人が調子に乗る」

「乗るよ。めちゃくちゃ乗る」

「ほら」

「乗せてよ。『かぐやの君』なんだから」

 

 男は小さくため息を吐いた。

 ジョンはおかしそうに笑った。

 

「君たちを見ていると、八千年も悪くないと思えてくるな」

「悪いこといっぱいあったよ」

 

 かぐやは即座に言った。

 けれど、その声は沈んでいなかった。

 

「でも、また会えたから、今はちょっとだけいい」

 

 男は何も言わなかった。

 ジョンも、茶化さなかった。

 その沈黙のあと、男がかぐやへ問いかける。

 

「これで何を作るつもり?」

 

 かぐやは、本物の『もと光る竹』を見た。

 長い時間、自分から奪われていたもの。

 けれど今は、ただ帰るための船ではない。

 未来へ向かうための鍵だった。

 

「広場を作るの」

 

 かぐやは言った。

 

「誰かが一人で泣かなくていい場所。遠くにいても返事がもらえる場所。好きな姿でいられて、好きに歌えて、戦っても死ななくて、負けてもまた会えて、誰かが困ってたら、すぐ誰かが動ける場所。

 月みたいに決められた役割だけを繰り返すんじゃなくて、みんなが好き勝手に動いて、めちゃくちゃで、でもそれが楽しい場所。

 かぐやは、そこに彩葉が来る場所を作る。そこにいれば、きっと会える。だって、かぐやはそこにいたから」

 

 男は黙って聞いていた。

 ジョンも、今度は一切冗談を挟まなかった。

 

「名前も、もう分かった」

「名前?」

「ツクヨミ」

 

 その言葉が、暗い宝物庫の中に落ちた。

 月を読む。

 月へ祈る。

 月より落ちた者が、人の世に月の名を冠した場所を作る。

 

「私が、ヤチヨになるんだ」

 

 かぐやは、静かに言った。

 

「八千年の終わりに、白銀の髪で笑って、ヤオヨロ〜って手を振って、彩葉と会う。あの子が推してくれて、私を見つけてくれて、私はずっと探してたみたいに笑う。

 変だよね。自分で作る場所なのに、自分でそこに辿り着くんだよ。ずっと分からなかったけど、今なら分かる。これは、何度も何度も巡ってたんだ」

 

 その言葉に、男の表情がほんのわずかに揺れた。

 巡る。

 かぐやの知らない、彼の始点に触れる言葉。

 けれど男は、それを口にはしなかった。

 

「なら、私も手伝うよ」

「ほんと?」

 

 かぐやの声が跳ねる。

 

「ツクヨミの設計も、もと光る竹との接続も、人間社会側の面倒な手続きも、協力者の選別も、君がヤチヨとして成立するまでの道も。かぐや一人だと、たぶん勢いでとんでもない穴を開ける気がするからね」

「失礼じゃん」

「否定できる?」

「できないけど、かぐやの君ならもうちょっと優しく言うべき」

「善処する」

「それ、優しくしない人の言い方」

 

 ジョンが喉の奥で笑った。

 

「私は?」

「ジョンは、今夜これを運び出す役」

 

 かぐやが即答する。

 

「雑だな」

「大事な役だよ、ワインニキ」

「その呼称は品種が分からない安酒の響きがある」

「じゃあ、極上ワインニキ」

「やめてくれ、悪化している」

 

 男が少しだけ吹き出した。

 かぐやは得意げに身体を反らす。

 暗い宝物庫の中で、三人の間に奇妙な空気が生まれた。

 侵入者と先客、CIA職員と転生者とウミウシ。

 冷静に見れば不審者の集まりでしかない。だが、月の船の淡い光を中心に、そこには確かに一つの作戦班が成立していた。

 ジョンは輸送を。

 名を明かさぬ男は設計と隠蔽を。

 かぐやは中枢制御を。

 それぞれが、それぞれの場所から、未来のツクヨミへ向かって動き出す。

 作戦は、簡単ではなかった。

 

 『もと光る竹』を外へ出し、偽物を残し、記録をごまかし、月因子の痕跡を隠し、人間社会の網をくぐり抜ける。

 途中でジョンは何度か品の良い悪態をつき、男は淡々と次の手を示し、かぐやは小さな身体で偉そうに指示を飛ばした。

 

「右、右! 違う、そっちじゃない!」

「君の右とジョンの右は違う」

「ウミウシ基準だとこっち!」

「採用しない方がいい基準だ」

 

 ジョンが肩越しに呟く。

 

「逃走中に漫才を聞くとは思わなかった。次の報告書に書けないのが残念だ」

「書いたら怒られる?」

「まず信じてもらえない。次に休暇を勧められる」

「休暇いいじゃん」

「休暇中に喋るウミウシと宝物を盗む羽目になるなら、仕事の方がまだ安全だ」

 

 かぐやは笑った。

 男も、ごく薄く笑った。

 それでも三人は走り続け、隠れ続け、やり遂げた。

 夜が明ける頃、『もと光る竹』はもう正倉院にはなかった。

 かわりに、月の光を完全に模倣した偽物が静かに眠っていた。人間の検査では、当分気づかれないだろう。もし気づかれる日が来たとしても、その時にはもう、別の歴史が動き出している。

 

 

 空港で、ジョンはかぐやに言った。

 

「一緒に来ないか」

 

 彼は本気だった。

 声は軽い。表情もいつものように穏やかで、片方の口角には癖のある笑みが浮かんでいる。

 けれど、その目には冗談では済まさない静かさがあった。

 

「アメリカには、君のような存在を歓迎する者も、研究したがる者も、崇拝する者も、たぶん料理しようとする者もいる。最後の連中からは僕が守るから来ないかい?」

「最後のが一番怖いんだけど」

「だから最初に申告した。紳士は危険物を隠さない」

 

 かぐやは少し笑った。

 それから、首を横に振った。

 

「約束があるの」

 

 ジョンは、分かっていたように頷いた。

 

「酒寄彩葉という少女か」

「うん」

「それと、かぐやの君?」

「……そっちは、まあ、今はここにいるし」

 

 かぐやが少しだけそっぽを向く。

 ジョンは愉快そうに目を細めた。

 

「独占欲は健康に悪いが、長生きしすぎた君にはちょうどいい刺激かもしれない」

「ジョン、そういうとこだよ」

「褒め言葉として受け取る」

「褒めてない」

「褒められないことにも慣れてる」

 

 飛行機の案内が、遠くで流れた。

 ジョンは鞄を持ち直す。

 

「極上のワインは時間が経つほど深まる。悪いことばかりじゃないさ」

 

 そう言って、彼は片方の口角を上げた。それはジョンの口癖のようなものなのかもしれない。

 かぐやは、その笑い方を覚えておこうと思った。

 時間は奪うばかりではない。

 深めることもある。

 痛みも、歌も、約束も、長い時間の底で沈殿し、いつか別の味になる。

 

「ありがと、ジョン」

「どういたしまして、お姫様。次に宝物を盗む時は、もう少し退屈なものにしてくれ」

「退屈なのは嫌い」

「知ってる」

 

 ジョンは背を向けた。

 その背中が搭乗口の向こうへ消えるまで、かぐやは見送った。

 隣には、名を知らない男が立っていた。

 

「行こうか」

「うん」

 

 かぐやは答える。

 

「ツクヨミを作ろう。ね、かぐやの君」

「その呼び方、定着するの?」

「する。嫌なら名前教えて」

「それは、まだ秘密かな」

「じゃあ定着」

「強引じゃない?」

「月のお姫なので」

 

 男は、困ったように笑った。

 その笑顔を見て、かぐやは少し満足した。

 

 

 それからの日々は、戦いではなかった。

 けれど、戦場より忙しかった。

 かぐやは『もと光る竹』の中枢を解析し、人間のネットワークへ接続するための翻訳層を作った。

 月の技術は、人類の通信規格から見ればあまりにも異質だった。速すぎる。広すぎる。存在そのものを情報として扱う。そのまま繋げば、人間の回線など一瞬で焼き切れる。

 

 名を知らぬ男は、人間側の形を整えた。

 法人、サーバー、資金、協力者、表向きの開発者、研究名目、趣味の仮想空間プロジェクトとして見せるための書類。

 どれも地味で、面倒で、けれど必要なものばかりだった。かぐやが月の技術を未来へ引っ張るなら、男は人間社会の泥臭い手続きを過去から積み上げる。

 

 二人で作った。

 正確には、作り続けた。

 最初のツクヨミは、記憶の中のそれとは比べものにならないほど小さかった。

 広場と呼ぶには狭く、ライブ会場と呼ぶには簡素で、アバターはぎこちなく、音響は薄く、動けばよくバグった。

 KASSENなど影も形もない。空に浮かぶ月も、時々読み込みに失敗して四角くなった。

 

 けれど、かぐやは泣きそうになるほど嬉しかった。

 初めて、そこに立った時。

 白いウミウシの身体ではなく、仮想の身体で。

 人の形には、まだ少し遠い。白い髪も、衣装も、声も、後のヤチヨとは違う。けれど、歌えた。

 歌えたのだ。

 

 八千年ぶりに、喉という概念を持ち、ステージという場所に立ち、誰かへ向けて声を出せた。

 観客は少なかった。

 数えるほどしかいなかった。

 それでも、かぐやは歌った。

 曲は、あの曲だった。

 彩葉と一緒に戦った時の曲。八千年の間に何度も形を変え、口ずさみ、忘れかけ、思い出し、また変奏した旋律。Remember。名前だけが、長い時間の底で光り続けていた。

 歌い終えた時、まばらな拍手が鳴った。

 かぐやは笑った。

 あまりにも楽しくて、笑うしかなかった。

 

 かぐやは、ツクヨミの月を見上げた。

 時間は深まる。

 極上のワインみたいに。

 悪いことばかりじゃない。

 ジョンの言葉は、長い年月の底で色を変え、今もかぐやの中に残っていた。

 痛みは消えない。孤独もなかったことにはならない。

 けれど、それらはただ腐るだけではなかった。時間の底で澱のように沈み、いつか歌の深みになり、笑い方の奥行きになり、誰かを迎える時の優しさになる。

 

 なら、八千年も悪いことばかりではなかったのかもしれない。

 

 そう思える日が来るとは、ヤチヨ自身、かつては思っていなかった。




・かぐや・いろP 新規獲得ファン数 106万106人
 原作獲得ファン数101万7106人に4万3千人(ヨミ)を足した数字。

・生粋の2ちゃんねらーyachi8000
 古参2ちゃんねらーならワインニキ呼称を自力で出力する筈

・ワインニキ
 超かぐや姫屈指の有能ニキ
 彼が居ないとツクヨミまでたどり着けないのは確定的明らか

・次話の投稿予定日
 もう完成してるので、明日の同じ時間帯に予約投稿しときます
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