ログアウトした瞬間、世界の温度が変わった。
ツクヨミの夜空に満ちていた歓声も、月の表示にざわめく観客の声も、白い人型が撒き散らした異物感も、すべてが一枚の膜を隔てた向こう側へ退いていく。
瞼の裏に残っていた光が薄れ、代わりに自室の天井が視界へ戻ってきた。
白い蛍光灯。見慣れた壁紙。勉強机の端に置かれた参考書。半分ほど残った水のグラス。床へ落ちた充電ケーブル。
現実は、あまりにも静かだった。
その静けさが、かえって気味悪かった。
さっきまで私は、八千年という時間の奔流に呑まれていた。
かぐやさんが月へ帰り、地球へ戻ろうとして事故に遭い、八千年前へ落ち、小さな白いウミウシとして人の歴史を見続け、やがて月見ヤチヨになるまでの道筋を、脳の内側へ直接流し込まれた。
自分がその旅路のどこかに何度も現れることまで見た。
なのに、現実の部屋では、空調の低い唸りと、遠くを走る車の音だけが、何事もなかったように続いている。
私はスマコンを外し、机の上へ置いた。
指先が少し震えていた。
怖いからではない、と言い切るほど、私は自分を信用していない。
けれど、それは逃げ出したい震えではなかった。
むしろ、あまりに大きすぎる答えを受け取ったあとの、身体の遅れだった。
心はもう次に進もうとしているのに、肉体だけがまだ、ツクヨミの夜に置き去りにされている。
深く息を吸う。
吐く。
もう一度。
呼吸のたびに、肺の奥に残っていた冷たい月の匂いが、少しずつ現実の空気へ溶けていく気がした。
「……整理しよう」
声に出した。
自分の声は、思ったより落ち着いていた。
机へ向かい、ノートPCを開く。
起動音が鳴り、画面が白く明るむ。
その光を見た瞬間、先ほどツクヨミ中のモニターに広がっていた日付が、反射のように脳裏へ蘇った。
2030年9月12日。
検索欄へ打ち込む。
検索結果が並ぶより先に、アンサートーカーが答えを置いた。
【次の満月】
分かっていた。
分かっていたが、確認は必要だった。
検索結果にも、同じ情報が表示される。
天文カレンダー。満月。月齢。九月十二日。
乾いた文字の列が、かぐやさんのタイムリミットを、ただの日付として淡々と示していた。
画面を見つめたまま、私は椅子へ深く腰掛ける。
では、何をすればいい。
その問いを立てた瞬間、答えは枝分かれした。
月の迎えを阻止する方法。
かぐやさんを月へ帰さない方法。
月の使者を破壊する方法。
ツクヨミを月の干渉から切り離す方法。
酒寄さんへすべてを伝える方法。
ヤチヨへ接触する方法。
ありとあらゆる選択肢が、机の上にばら撒かれたカードのように広がり、次々に裏返っていく。
どれも魅力的に見えた。
少なくとも、感情だけで言えば、かぐやさんを月へ帰したくないと思うのが普通だろう。
あの灯篭頭の白い腕をへし折り、月の使者を追い返し、酒寄さんの隣にかぐやさんを残せるなら、それが一番分かりやすい救いに見える。
けれど、アンサートーカーは無情だった。
【不成立】
【因果崩壊リスク:高】
【月見ヤチヨの成立不可】
【ツクヨミ現行構造の消失】
【酒寄彩葉とかぐやの出会いに重大な変質】
【閉じた輪の破断】
次々と答えが降る。
文字として見えているのに、内容は文字以上の重さを持っていた。
かぐやさんを救うために月への帰還を止めれば、かぐやさんがヤチヨになる道が消える。
ヤチヨが消えれば、ツクヨミの現在が変わる。
ヤチヨカップも、かぐやさんと酒寄さんが出会うための無数の偶然も、私が彼女たちへ関わったきっかけも、全部が別の形へ歪む。
そして、それは多分、救いではない。
未来を変えることと、人を助けることは、いつも同じではない。
かぐやさんの八千年は、痛みだ。孤独だ。見てしまっただけで胸の奥が重くなるほどの、途方もない夜だ。
けれど、その夜の果てに月見ヤチヨがいる。ツクヨミがある。酒寄さんと再会し、八千年分の痛みを抱えたまま、それでも笑おうとするかぐやさんがいる。
なら、その道筋を壊してはいけない。
変えるべきは、結末ではない。
孤独の濃度だ。
私はアンサートーカーが提示した結果を振り払い、PCの検索欄を開いた。
指が止まる。
それから、我ながらどうかと思う単語を入力した。
『幽体離脱 方法』
検索結果が出た瞬間、私は額に手を当てた。
「……急に知能指数が下がった気がする」
画面には、夜更けのネットに相応しい、胡散臭さを煮詰めたようなタイトルが並んでいた。
寝る前にできる体外離脱のコツ。金縛りから幽体離脱へ移行する方法。
明晰夢とアストラル体の違い。意識を保ったまま眠る訓練。周波数音源。
眉間の奥を意識する。身体が振動するまで待つ。魂の紐を切らないこと。戻れなくなった場合の対処法。
正直、普通なら即座にブラウザを閉じている。
だが、私は普通ではなかった。
一度死んでいる。
前世の記憶は曖昧だが、死んだ感覚だけは残っている。
呼吸が遠くなり、身体の重さが自分のものではなくなり、意識だけが肉体から剥がれていく、あの奇妙な境界。
赤子として次に目を開けた時、私は「ああ、続くんだ」と思った。なら、魂というものを完全に否定する資格は、私にはない。
それに、私にはアンサートーカーがある。
私は検索結果を片端から開き、読み飛ばし、閉じ、また開いた。胡散臭い文章の大半は不要だった。
気合いだの波動だの守護霊だの、主観的な体験談だの、肝心なところで有料noteへ誘導する記事だの、その手のものをアンサートーカーが無言で切り捨てていく。
残ったのは、いくつかの共通項だった。
肉体を眠りへ近づける。
意識だけを起こしておく。
入眠直前の境界に留まる。
身体の感覚が消える瞬間を見逃さない。
音や振動の幻覚に反応しない。
恐怖で戻ろうとしない。
身体を動かそうとせず、意識の重心だけをずらす。
そこまで読み込んだ時、アンサートーカーがそれらを一つの手順へ組み替えた。
【仮説手順:可】
【目的:肉体からの意識分離】
【補助条件:ツクヨミ接続状態】
【補助条件:月干渉最大時】
【必要条件:対象かぐやとの因果的接続】
【危険:肉体復帰失敗】
【危険:時間軸逸脱】
【危険:魂の摩耗】
【実行推奨時刻:2030/09/12 卒業ライブ終盤】
私は、アンサートーカーの解を見つめたまま笑ってしまった。
卒業ライブ終盤。
やはり、そこになる。
月の干渉が最大になり、かぐやさんが帰還の流れへ引かれる瞬間。
ツクヨミという仮想空間を経由して月がこちらへ手を伸ばす、その接続路へ魂だけで引っかかる。
羽衣でも、宇宙船でも、月の技術でもない。
ただ、かぐやさんという存在に結びついた縁へ、自分の魂を括り付ける。
言葉にすると、完全に背後霊だった。
「……言葉選びで一気に安っぽくなるな」
独り言が落ちる。
けれど、やること自体は決まっている。
かぐやさんに気づかれてはいけない。
酒寄さんに伝えてはいけない。
ヤチヨへ接触してはいけない。
誰にも相談しない。
誰にも見送られない。
いつも通りだ。
ただ、いつもと違うのは、今回は隠れる理由が逃げではないことだった。
感謝されるのが怖いからではない。
自分の善意を疑いたいからでもない。
かぐやさんの旅路は、かぐやさん自身のものとして始まらなければならない。
最初から誰かに守られていると知ってしまえば、彼女はきっと縋る。あるいは、縋らないまでも、その孤独の形が変わる。
だから私は、見えない場所にいる。
彼女の物語を奪わず、彼女の足で歩かせ、それでも完全な孤独にはしない。
それが、私にできる一番ましな干渉だった。
画面の端に通知が浮かんだ。
ツクヨミ関連のニュースまとめだった。
ライブ後の通信障害。月の表示。白い人型の目撃情報。公式からは調査中の告知。SNSでは演出説、事故説、陰謀論、月見ヤチヨのサプライズ説、ブラックオニキスの新企画説まで出回っている。
その中に、かぐや・いろPのタグもあった。
私は開かない。
開けば、きっと酒寄さんがどうしているか、かぐやさんがどんなふうに振る舞っているか、必要以上に見えてしまう。
アンサートーカーを使えば、彼女たちの会話の断片すら追えるかもしれない。
けれど、それは今の私が見るべきものではなかった。
酒寄さんには、酒寄さんの夜がある。
かぐやさんには、かぐやさんの覚悟がある。
私は、そこへ割り込まない。
そう決めて、今度はテキストエディタを開いた。
準備項目を書き出す。
一、卒業ライブまでに幽体離脱の境界感覚を確認。
二、肉体を安全な状態で保持。
三、実行時はスマコン接続状態を維持。
四、月干渉の最大値を待つ。
五、かぐやさんの魂、または月因子へ接続。
六、気づかれない。
六番目を書いたところで、私はしばらく手を止めた。
気づかれない。
それは、いつもの私なら最も得意なことだった。
誰かを助ける時、私はずっとそうしてきた。
机の脚をずらし、財布を交番へ届け、提出物を忘れないよう掲示位置を変え、酒寄さんを大会へ招待し、狐面を渡し、表では何もしていない顔をする。
感謝されないために、気づかれないために。
けれど、もう以前と同じ意味ではない。
かぐやさんと酒寄さんは、私に礼を言った。
ごめんねではなく、ありがとうと。あの言葉は、まだ胸の奥に残っている。
前世から染み付いた、助けるほど相手を謝らせてしまうという恐怖を、少しだけ溶かしてくれた。
感謝されることは、相手に負担を背負わせることではない。
同じ高さから差し出される温度なのだと、二人は勝手に教えてくれた。
私は、その温かさに救われた
だから今度は、自分の番だと思った。
恩返しという言葉は、少し違う。あの二人は、私から何かを取り立てるために感謝したわけではないし、私も借金を返すつもりで八千年に飛び込むわけではない。
ただ、誰かに温められた人間が、別の誰かの夜に火を置きたくなることはある。
それを善性と呼ぶのなら、私はもう、そこまで必死に否定しなくてもいいのかもしれない。
ふと、画面の検索履歴が目に入った。
『幽体離脱 方法』
『体外離脱 コツ』
『魂 抜ける 感覚』
改めて見ると、ひどい。
人に見られたら、確実に色々な意味で終わる検索履歴だった。
「……消しておくか」
私は検索履歴を消した。
消したところで、何か意味があるのかは分からない。
もし失敗して肉体だけが残った場合、検索履歴など些細な問題でしかない。
むしろ医療関係者や家族からすれば、幽体離脱の検索履歴を残しておいた方が、何かしらの手掛かりになるのかもしれない。
だが、嫌だった。
魂を八千年前へ飛ばそうとしていることより、検索履歴を見られる方が嫌というのは、我ながら大分終わっている。
私は椅子から立ち上がり、ベッドへ横になった。
今夜は、本番ではない。
境界まで行って、戻るだけだ。
部屋の照明を落とす。窓の外では、夜の住宅街が静かに眠っていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴り、すぐに遠ざかる。エアコンの風がカーテンの端をほんの少し揺らし、その影が壁に薄く滲む。
私は仰向けになり、両手を身体の横へ置いた。
呼吸を整える。
身体を動かさない。
瞼の裏へ意識を沈める。
まず、足先の感覚が遠くなる。次に膝。腿。腰。肩。指先。身体が布団へ沈むのではなく、布団の方が私の身体を通り抜けていくような感覚。
重いのに軽い。眠いのに、意識だけが冴えている。
耳の奥で、低い音が鳴り始めた。
空調ではない。
血流でもない。
もっと内側から響く、蜂の羽音に似た振動。
反応するな、とアンサートーカーが告げる。
私は何もしない。
恐怖が上がってくる。身体が動かないことへの、生理的な拒絶。
目を開けたい。指を動かしたい。喉を鳴らしたい。
自分がまだ自分の身体を持っているのだと確認したい。その衝動を、薄氷の上へ息を吐くように、ただやり過ごす。
ふっと、身体の輪郭がずれた。
視界は閉じているのに、部屋が見えた。
天井。
机。
閉じたノートPC。
床に落ちた充電ケーブル。
そして、ベッドの上に横たわる自分。
成功した、と思った瞬間、意識が乱れた。
次の瞬間、私は肉体へ叩き戻されていた。
「っ、は……!」
大きく息を吸う。
心臓が速い。指先が冷えている。額には汗が滲み、喉の奥が乾いていた。
身体を起こそうとして、思ったより力が入らず、私はしばらく布団の上で天井を見つめた。
見えた。
ほんの一瞬だったが、確かに身体から離れた。
幽体離脱などという言葉を、冗談半分で検索した数時間後に、自分の身体を見下ろしている。
普通なら頭がおかしくなったと思うところだが、残念ながら私は以前からそこそこおかしい。
アンサートーカーが静かに答えを置く。
【境界到達:成功】
【維持時間:不足】
【精神動揺:高】
【再訓練:必要】
【本番条件下では月干渉による牽引補助あり】
私は腕で目元を覆った。
笑いが漏れた。
おかしいから笑ったのではない。
道があったからだ。
八千年へ向かう、気の遠くなるほど馬鹿げた道に、実際に足を掛けられることが分かったからだ。
「行くかどうかじゃない」
声は掠れていた。
それでも、言葉にした。
「どうやって、気づかれずについていくかだ」
部屋は静かだった。
画面を閉じたPCの黒い板面には、窓の外の夜と、ベッドに横たわる私の輪郭だけがぼんやり映っている。
その向こうで、東京のどこかにいる酒寄さんは、かぐやさんの異変に気づきながら言葉を飲み込んでいるのだろう。
かぐやさんは明るく振る舞い、何でもない顔で寝室へ向かうのだろう。やがて二人は花火へ行き、帰ることを告げ、卒業ライブを決める。
その時間は、二人のものだ。
私は、その外側で準備をする。
誰にも知られずに。
誰にも見送られずに。
ただ、あの白いウミウシが八千年の夜を歩く時、足元のどこかに小さな灯りが残るように。
私はもう一度、目を閉じた。
眠るためではない。
境界を覚えるために。
◆
翌朝、私は寝不足の身体を引きずるようにして起きた。
眠っていないわけではない。浅く、細切れに、意識の底へ沈んではすぐ浮かぶような眠りを何度か繰り返していた。
ただ、普通の睡眠とは違った。
肉体を休めるための眠りではなく、身体と意識の境目を指先でなぞり続けるような、いやに神経の疲れる作業だった。
朝になって瞼を開けた時、部屋の輪郭はいつもより少しだけ薄く、机も椅子も棚も、現実というより現実の再現映像のように見えた。
境界に触れすぎたせいだろう。
洗面台で顔を洗うと、冷たい水が頬を打ち、ようやく肉体の側へ引き戻される。
鏡の中には、少し目の下に影を落とした男子高校生が映っていた。
宵宮巡。酒寄さんのクラスメイト。ツクヨミではヨミ。対人勢のライバー。前世持ち。アンサートーカー。
これから幽体離脱して月へ帰るかぐやさんに背後霊のようについていこうとしている人間。
こうして並べると、肩書きの渋滞がひどい。
「……最後のやつが一番終わってるかな」
小さく呟くと、鏡の中の自分が同じ顔で苦笑した。
支度を終え、鞄を持って部屋を出る。廊下はまだ朝の湿り気を含んでいて、窓の外からは通学路へ向かう学生たちの声が聞こえた。
世界は平然と続いている。
昨日、ツクヨミに月の使者が現れ、かぐやさんが倒れ、私が八千年の輪を見たことなど、朝の街には関係がない。
コンビニには新商品のポップが並び、信号は律儀に青と赤を繰り返し、駅へ向かう人々はそれぞれの予定へ急いでいる。
この当たり前の風景を、かぐやさんは好きなのだろうと思った。
人が好き勝手に動いている世界。
誰もが決められた役割だけを繰り返しているわけではなく、予定を間違え、寝坊し、朝食を食べ損ね、誰かに怒られ、誰かを待ち、誰かと笑う世界。
月から見れば雑音だらけで、無秩序で、あまりにも非効率で、だからこそ一回きりの世界。
彼女は、ここを好きになった。
だから帰るのだ。
好きになったからこそ、最後まで楽しく走って、きちんと家へ帰る。
その選択を、私は邪魔しない。
学校へ着くと、教室にはいつものざわめきがあった。
夏の終わりの空気が窓際に溜まり、誰かの制汗剤の匂いと、机に置かれたコンビニパンの甘い匂いが混じっている。
酒寄さんは、いつも通りの席にいた。
いつも通りに見えた。
背筋を伸ばし、教材を机の上に揃え、先生が来る前に予習のノートへ目を通している。
髪はきちんと結われ、制服に乱れはなく、周囲に声を掛けられれば淡く笑って返す。
その姿は完璧な優等生そのもので、昨日あれだけの異変を目の当たりにした人間には見えなかった。
だが、アンサートーカーを使うまでもなく分かる。
少し遅い。
ページをめくる指の動きが、ほんのわずかに鈍い。
先生の声に反応するまでの間に、いつもなら存在しない半拍がある。
視線が時折、窓の外へ逃げる。
その先にあるのは、昼の空に薄く溶けた月の位置だった。
声を掛けるべきか。
問いかける前に、答えは返っていた。
【不要】
【酒寄彩葉とかぐやの対話を阻害する可能性】
【介入非推奨】
分かっている。
分かっているが、人の顔色が悪いのを見て何もしないというのは、私にとって案外難しい。
困っている人間を見ると、つい解決策を考える。
考えて、実行に移す。そういう性質は、どれだけ理屈を積んでも消えない。
だから私は、何もしないことをする。
酒寄さんが落としかけた消しゴムを拾わない。
彼女が自分で気づき、指先で机の端へ寄せるのを待つ。
授業中、先生に指されて一瞬だけ答えに詰まった時も、余計な咳払いをしない。
廊下で彼女とすれ違った時も、視線を向けすぎない。
助けるために、助けない。
これが今回の一番難しい準備かもしれないと思った。
放課後、スマートフォンにニュース通知が来た。
かぐや・いろPチャンネル、卒業ライブ発表。
短い見出しなのに、教室の空気が一瞬だけ遠くなる。
指先で通知を開くと、かぐやさんらしい明るさを保った文面が表示された。
楽しかったけど、これでおしまい。
最後に卒業ライブをする。詳しい事情は語らない。たったそれだけの告知に、SNSはすでに沸騰していた。
『なんで?』
『急すぎる』
『この前のライブ最高だったじゃん』
『月のバグ関係ある?』
『いろP大丈夫?』
『かぐやちゃんやめないで』
文字が滝のように流れていく。
私は画面を閉じた。
見れば見るほど、手を出したくなる。
事情を知っている側の人間として、何か言えることがあるような気がしてしまう。
けれど、それは錯覚だ。
かぐやさんが言わないと決めたなら、私から言うことは何もない。
酒寄さんが背負う沈黙を、勝手に軽くしてはいけない。
彼女たちは、彼女たちの形で最後の日々を過ごしている。
なら、私は私の準備を進めるだけだ。
帰宅すると、部屋の鍵を閉め、カーテンを引き、スマコンとPCを机に並べた。
卒業ライブまでの残り日数をカレンダーに記入し、その横に幽体離脱の訓練予定を書き込む。
普通の高校生が試験勉強や筋トレの計画を立てるような顔で、私は魂を肉体から抜く練習計画を作っていた。
冷静に考えれば、だいぶおかしい。
しかし、冷静に考える時間はもう過ぎた。
夜ごと、私は境界へ潜った。
初日は、身体から一瞬浮いてすぐに叩き戻された。
二日目は、天井近くまで意識が上がったところで、足元に引かれるような恐怖に負けた。
三日目には、自分の寝息を上から聞いた。肉体の喉が空気を吸い込み、吐き出す音は、他人の呼吸のようで、ひどく不気味だった。
四日目、私は部屋の隅まで移動できた。机の上に置いた鉛筆へ触れようとして、指が何の抵抗もなく通り抜けた瞬間、言葉通り幽霊になった気分だった。
物理的な干渉はできない。
視覚と聴覚は、肉体にある時より不安定。
壁は通り抜けられるが、意識の集中が切れると肉体へ戻される。
距離が離れすぎると、胸の奥を糸で引かれるような感覚がある。
ツクヨミ接続状態では、肉体とアバターと魂の境目が曖昧になり、離脱が容易になる。
アンサートーカーは、そのたびに記録のような答えを返した。
【離脱維持時間:増加】
【恐怖反応:低下】
【肉体牽引感覚:把握】
【ツクヨミ接続時の成功率:上昇】
【本番実行可能性:中】
中、か。
その文字を見るたび、少し笑えた。
命どころか魂を賭ける作戦で、実行可能性が中。
普通ならやらない。普通の人間なら、そんな危ない橋は渡らない。
だが、私は普通の橋を渡って八千年前へ行こうとしているわけではない。
そもそも道などない場所に、アンサートーカーで足場を見つけているのだ。中なら十分だ、と自分に言い聞かせる。
そうして日々が過ぎていく中、世界の表側では、かぐやさんの卒業ライブへ向けて、騒ぎがどんどん大きくなっていた。
トレンドには毎日のように彼女の名前が上がった。
ファンアートが増え、切り抜きが増え、卒業を惜しむ声が増えた。
酒寄さんが新曲を作っているらしいという噂が流れた時には、界隈が一晩中ざわめいた。
誰もが最後のライブを待っている。待ちながら、終わってほしくないと願っている。
私は、その熱の外側にいた。
放課後、教室で酒寄さんを見る。
夜、ニュースでかぐやさんの名前を見る。
深夜、幽体離脱の練習をする。
明け方、少しだけ眠る。
その繰り返しだった。
途中、何度か酒寄さんと目が合った。
彼女は何かを言いかけたような顔をして、すぐにいつもの表情へ戻った。
私もまた、何かを言わなかった。お互いに、それぞれの隠し事を抱えている。
酒寄さんは、かぐやさんが月へ帰ることを。私は、そのかぐやさんに魂だけで同道することを。
知らないままでいい。
そう思った。
酒寄さんには、かぐやさんの最後の隣にいてほしい。
余計な誰かの覚悟など、そこへ混ぜる必要はない。
卒業ライブ前夜。
私は、机の上を片付けた。
参考書を棚へ戻し、飲みかけのペットボトルを捨て、PCの不要な履歴を削除し、スマコンを充電器へ置く。
部屋を整える動作は、いつもより丁寧になった。
明日、自分の身体が抜け殻になる可能性があるから、というよりは、長い旅行の前に部屋を片付けておきたいという、妙に生活じみた感覚だった。
八千年の旅行。
冗談にしては規模が大きすぎる。
ベッドへ腰掛けると、スマートフォンが通知で震えた。
卒業ライブのリマインダー。配信開始時刻。関連タグ。待機人数。
画面の向こうでは、すでに数え切れない人々がかぐやさんの最後のステージを待っている。
私はその通知を閉じ、別のメモを開いた。
そこには、短い文章だけが残っている。
『戻れなかった場合、気にしないこと』
誰に宛てたものでもない。
家族に向けた遺書でも、酒寄さんたちへの説明でもない。
そんなものを書けば、誰かに余計な荷物を背負わせる。
だから、ただ自分に向けた備忘録のような一文だけを残した。
気にしないこと。
無茶だな、と自分でも思う。
だが、何も残さないよりはまだましだった。
私は画面を消し、暗くなったスマートフォンを机に伏せた。
「……さて」
声が部屋に落ちた。
明日は、卒業ライブ。
かぐやさんが月へ帰る日。
酒寄さんが、かぐやさんを見送る日。
現代の宵宮巡が、八千年へ出発する日。
そして。
アンサートーカーが、一瞬だけ別の答えを見せた。
白い天井。
古い部屋。
薄く鳴る医療機器の電子音。
枕元のタブレットに映る、月見ヤチヨ。
皺だらけの手。
老いた呼吸。
私は、息を止めた。
それは、自分だった。
まだ見ぬ未来。
いや、これから行く旅の終点。
八千年を過ごし、何度も転生し、最後に現代へ辿り着いた巡。
昭和二十年で一度死に、そこからさらに人生を重ね、途方もない時間の果てに老いた自分。
その自分が、静かな部屋で、死を待っている。
そして画面の中には、ヤチヨがいた。
この場面は、今まで見えなかった。
あるいは、見ないようにしていたのかもしれない。
私は目を閉じる。
行く前から、帰りを見るな。
そう思った。
けれど、アンサートーカーは容赦なく答えを置いていく。
【同時刻】
【卒業ライブ終盤】
【八千年後の巡:寿命到達】
【魂回帰条件成立】
私はゆっくり息を吐いた。
なるほど。
出発と帰還は、同時に起きる。
こちらの私が肉体から離れる瞬間、八千年を終えた私が、その肉体へ戻る。
身体の外側の時間では、一瞬。魂の内側では、八千年。
随分と乱暴な仕組みだ。普通の人間が考えれば気が狂いそうな因果の輪を、アンサートーカーはただ「成立」とだけ示してくる。
ふと、老いた自分の表情が見えた気がした。
静かだった。
満足しているようでも、諦めているようでもあった。
そして、何かを隠している顔だった。
「……私だな」
思わず呟く。
八千年経っても、その辺りは治らないらしい。
◆
卒業ライブ当日。
その夜、東京は湿った熱を帯びていた。
窓の外では、ビルの灯りが夏の名残を吸い込んで滲み、遠くの道路を走る車のライトが、雨上がりでもないアスファルトの上に細く流れている。
雲は薄く、空の高いところに月があった。まだ完全な姿を見せる前から、今日の月はやけに明るい。
こちらを待っているような、あるいはもう手を伸ばしているような白さだった。
私は部屋の照明を消した。
机の上にはスマコン。PC。水。充電器。余計なものは何もない。
ベッドの上には、仰向けになった時に身体がずれないよう、枕の位置を整えてある。
現実的な準備と、非現実的な目的の落差がひどい。
スマコンを装着する。
視界がわずかに滲み、ツクヨミへの接続準備画面が浮かぶ。
配信会場へのリンクを選択すると、暗転の後、私は観客席ではなく、自分で設定した無人の待機空間に立っていた。
真っ暗な水面の上に、小さな四角いモニターだけが浮かんでいる。そこには、かぐやさんの卒業ライブの待機画面が映っていた。
観客席へは行かない。
最後のライブを、目立つ場所で見る必要はない。
私が必要としているのは、月の干渉が最大になる瞬間と、かぐやさんへ繋がる因果の糸だけだ。
モニターの中で、開演までのカウントダウンが進む。
十。
九。
八。
私は仰向けの肉体へ意識を半分戻し、呼吸を整えた。
七。
六。
五。
身体の感覚を薄くする。指先、足先、肩、胸、喉。練習通りに、肉体を眠りへ近づける。
四。
三。
二。
一。
画面の中で、光が弾けた。
卒業ライブが始まった。
◆
卒業ライブの会場は、KASSENフィールドの中央に作られていた。
そこは本来、櫓を奪い合い、大将落としを押し込み、天守を砕くための戦場であるはずだった。
左右へ伸びるレーン、遠くに見える天守閣、宙に浮かぶ観客席、戦況を映す巨大スクリーン。
だがその夜だけは、黒曜石のような石畳の中央に円形ステージが組まれ、戦場の照明はライブ演出のためのスポットライトへ姿を変え、空には巨大な月と、花火のようなコメントエフェクトが浮かんでいた。
誰もが泣きそうだった。
けれど、誰も泣く準備だけをしてきたわけではなかった。
フィールドの中心、月光を模した光柱の下に、かぐやが一人で立っている。
隣に彩葉はいない。キーボードもない。ヤチヨもステージ袖には立っていない。卒業ライブの主役は、最初から最後までかぐや一人だった。
それでも孤独には見えなかった。
観客席には、彼女を見送るために集まった数え切れないファンがいる。
会場の外、モニター越しにもツクヨミ中のユーザーがいる。そして何より、ステージの下、戦場の境界線に沿うようにして、彩葉たちがいた。
彩葉は鍵盤型ブレードを抱えていた。
今夜、それは楽器であると同時に武器だった。
キーの一つ一つに淡い光が宿り、音と斬撃の境目を曖昧にするように、青紫の粒子が指先へまとわりついている。
隣には芦花と真実が立ち、その少し前には帝アキラ、雷、乃依――ブラックオニキスの三人が、まるでこれも一つのイベントであるかのように堂々と並んでいた。
泣いている暇はない。
かぐやが最後まで笑って歌うというのなら、自分たちは最後まで戦う。
それが、彼女たちなりのお見送りだった。
『何という急展開! 突如ツクヨミに現れたフリーダム、超新星のかぐやの卒業ライブ! 泣いている場合じゃないぞ、最後のファンサだ! 目に焼き付けろぉぉぉ!』
実況席の忠犬オタ公は、泣くなと言いながら自分の声を震わせていた。
怒鳴り声は熱を帯び、マイクを通して会場全体へ吹き抜ける。
観客たちはその声に押し上げられるようにサイリウムを掲げ、コメントは光の帯となって空を走り、ツクヨミの夜は、まるで祭りの終わりにだけ許される異様な熱に包まれていた。
スポットライトが落ちる。
中央に立つかぐやの金色の髪が、ふわりと光を受けて浮いた。
「みんな、ありがとー!」
かぐやは両手を大きく振った。
その声は明るかった。
あまりにも明るく、まるでこれから始まるのが卒業ライブではなく、いつもの突発配信か、料理動画か、わけのわからない挑戦企画であるかのように、軽やかで、跳ねていて、見る者の胸を刺した。
「今日でお別れみたいなんだけど、悲しくはしたくないんだ! かぐや、ここに来てからずーっと楽しかったから! だからみんな、かぐやをハッピーに卒業させて!
笑って、騒いで、覚えてて! かぐやっていう、めちゃくちゃで、食いしん坊で、ちょっと天才で、すっごく楽しい子がいたんだぞーって!」
歓声が爆発した。
泣き声も混じっていた。卒業しないで、と叫ぶ声もあった。
ありがとう、と叫ぶ声もあった。それらが一つに混ざり、戦場だったはずのフィールドを、巨大な祝祭の器へ変えていく。
彩葉は、ステージの下からかぐやを見上げていた。
あんなに小さかったのに、と思う。
手のひらに収まりそうで、頼りなくて、何も知らなくて、お腹が空いたと泣き、外へ行きたいと喚き、遊びたいと駄々をこねていた存在が、今は無数の視線を浴びながら、たった一人で立っている。
帰ることを選び、別れることを受け入れ、それでも最後の時間を悲しみだけにしないと決めて、笑っている。
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。
いつの間に、自分だけが置いていかれる側になったのだろう。
胸の奥が締め付けられる。
けれど彩葉は、泣き崩れなかった。かぐやが笑っている。なら、自分は戦う。かぐやの歌が終わるその瞬間まで、月から伸びる手を、少しでも長く止める。
かぐやがマイクを握り直した。
イントロが流れ始める。
彩葉が仕上げた曲だった。
父と作りかけた旋律に、かぐやの言葉が混ざり、二人で過ごした日々の匂いが重なった曲。
明るく、速く、祝祭のように跳ねるのに、底の方には別れの痛みが静かに沈んでいる。
流れ出した瞬間、観客席の空気が変わった。誰もが、これはただの卒業ソングではないと感じ取った。理由は分からなくても、心が先に理解してしまう。
かぐやが歌い出す。
その声は、よく晴れた日の風みたいだった。
少し強くて、少し無遠慮で、けれど触れた場所を明るくしていく。
歌詞は、今この瞬間を最高のパーティーにしようと叫ぶように弾み、観客たちは涙をこぼしながら笑い、サイリウムを振り、コメントを打ち込む。
その時だった。
空に花が咲いた。
最初、誰もが演出だと思った。月見ヤチヨが用意した、卒業ライブのための特殊エフェクト。
戦場の空いっぱいに、白い花弁がぱっと広がり、光の粒となって降ってくる。
それはあまりにも美しく、あまりにもタイミングが良すぎた。
だが、花弁の中心から現れたものは、花ではなかった。
異形の月人。
七福神を模したような、あるいは古い神像を機械的に写し取ったような、歪な人型の群れだった。
白く滑らかな顔に表情はなく、身体には月光で編まれた衣のようなものがまとわりついている。
彼らは観客席の歓声を浴びても反応せず、ただ整然と、ステージ中央のかぐやへ向かって降りてきた。
観客は拍手した。
演出だと思っているのだ。
その無邪気な誤解が、かえって彩葉の喉を締めた。これは演出ではない。けれど演出であってくれるなら、どれほどよかっただろう。
誰かの作った悪趣味なサプライズで、ライブ後に「びっくりした?」と笑って済ませられるものなら、どれほど。
帝アキラが笑った。
「さあ、盛り上げて行こうぜ!」
金棒型武器を担いだ黒鬼が、観客席へ向けて片手を上げる。
彼の声に合わせるように、ブラックオニキスの登場エフェクトが爆ぜた。
黒い火花、赤い雷光、虎の咆哮のような重低音。月人の侵入すらショーの一部へ呑み込んでしまうような、強引で、派手で、王者らしい登場だった。
「……勝つだけだ」
雷が扇を構え、足元へ防壁の陣を展開する。
「けっこう面白そうじゃん」
乃依が輪刀を肩で回し、猫のように軽い笑みを浮かべる。
芦花と真実も、その横に並んだ。美容インフルエンサーROKAと、グルメインフルエンサーまみまみ。普段なら戦場の主役ではない二人が、今夜ばかりは一歩も退く気のない顔をしていた。
『鬼あちー! かつて鎬(しのぎ)を削った黒鬼が、かぐやのラストライブに駆けつけたぞ! しかもROKA、まみまみ、いろPまでいる! 何だこの豪華すぎる卒業ライブはぁぁぁ!』
忠犬オタ公が叫ぶ。
観客席がさらに沸く。
その歓声の裏で、彩葉はかぐやを見た。
「……かぐや」
声は届かないはずだった。
けれど、ツクヨミの接続が一瞬だけ揺れ、意識が現実の配信部屋へ引き戻される。
暗い部屋。スマコンをつけた彩葉のオレンジ色の瞳。すぐ隣にいるかぐやの同じ色の瞳。現実の肩と肩が触れ合う距離。
彩葉は、かぐやの手を握った。
「ライブの余興だと思って。私たちは私たちで、精一杯やるから。万が一勝っちゃったら、ドンキで買い出しして、全部乗せのパンケーキ作ろ」
かぐやは、目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
泣きそうな顔ではなかった。向日葵が太陽の方を向くような、明るく、真っ直ぐな笑顔だった。
「そっか……そっか、みんな自由だ!」
その声には、月の退屈な繰り返しを抜け出してきた少女の、心底からの感動があった。
再び瞼を閉じる。
意識はツクヨミへ戻る。
かぐやはステージへ。彩葉は戦場へ。
歌が再開されると同時に、月人たちが動いた。
彼らはKASSENのルールを理解しているかのように、頭上に残機表示を浮かべ、レーンを分かれ、櫓へ向かい、天守を目指す。
未開の遊戯に付き合ってやっている文明人のような、無機質で傲慢な動きだった。その態度が、彩葉の腹の底を熱くする。
付き合ってくれるなら、徹底的に付き合わせてやる。
最初に乃依の矢が降った。
空を覆うほどの氷の矢が、月人の前列へ突き刺さる。
月人たちは一斉に防壁を展開したが、その隙間を縫うように雷の巨大扇が滑り込み、閉じた扇は鈍器となって敵の陣形を崩し、開いた扇は障壁となって光弾を受け止める。
帝アキラはその裂け目へ突っ込んだ。金棒型武器が剣へ変わり、鞘が銃へ変わり、斬撃と射撃が一呼吸の中で切り替わる。
黒鬼の動きは、やはり華があった。
ただ強いだけではない。観客がどこを見ればいいか、味方がどこへ動けばいいか、敵がどこで崩れるか、そのすべてを舞台ごと操っている。
KASSENの王者とは、単に勝つ者ではなく、戦場を物語に変える者なのだと、彩葉は改めて思い知らされた。
その後ろで、芦花が月人の視界を乱した。
美容系インフルエンサーらしい華やかなエフェクトが、香水の霧のように戦場へ広がり、光の反射を歪め、月人の狙いをほんの数度ずらす。
真実は食材を模した爆弾を投げ込み、冗談みたいな見た目に反して、着弾すればフィールドの足場を変形させるほどの妨害効果を発揮した。
彩葉は、その間を走った。
鍵盤型ブレードが、音を鳴らすたびに刃を生む。
低音で重い斬撃を置き、高音で細い刃を飛ばし、和音で防御壁を展開する。戦いながらも、彼女の耳にはずっとかぐやの歌が届いていた。
もっと衝動的な音で。
もっと感情的な歌で。
そんな歌声に背中を押されながら、彩葉たちは戦場を駆ける。
観客席は熱狂していた。
彼らの大半は、月人の本当の意味を知らない。
だからこそ純粋に、この豪華すぎるラストライブを楽しんでいる。
かぐやの歌、ブラックオニキスの参戦、ROKAとまみまみの奮闘、いろPの鍵盤剣舞。すべてが演出だと思われている。
だが、それでよかった。恐怖より熱狂の中で、かぐやを送り出せるなら、それでよかった。
しかし、戦況は少しずつ傾いていった。
月人は強かった。
強いというより、終わらない。
倒しても倒しても、白い花弁の奥から次が現れる。
残機を削り切っても、別の個体が空から降り、光弾は雨のように降り注ぎ、防壁は厚く、攻撃は精密で、何より疲れを知らない。
まず、雷が落ちた。
櫓ごと消し飛ばされるほどの集中砲火を受け、それでも最後の瞬間まで扇を開いて味方の退路を守った。
乃依は笑いながらリスポーンしたが、その声には余裕が減っている。次に、芦花と真実が押し込まれた。
二人は互いを庇いながら粘ったが、数で埋め尽くされる月人の波に呑まれ、光の粒となって後方へ弾き飛ばされる。
残るのは、彩葉と帝アキラ。
それでも帝は笑っていた。
「こんなもんか? 宇宙人どもは。まだ俺と彩葉が残ってるぜ」
強がりではない。
本気でそう言っている顔だった。
その時、空が陰った。
巨大な月人が、空から落ちてくる。
伝説の獣を模した巨体。錫杖を振り下ろしながら迫るその姿は、隕石そのものだった。衝突の直前、帝アキラが前へ出る。
「お兄ちゃん!」
彩葉の叫びが、戦場を裂いた。
帝は剣一本で受け止めた。
衝撃がフィールド全体を揺らし、石畳が砕け、空気が波打つ。帝のアバターに禍々しい紋様が浮かび、黒い火花が肩から噴き上がる。
雷と乃依の補助が彼へ流れ込み、ブラックオニキス三人分の力が一点に集束する。
『チートモードだぁぁぁ! たった今、ブラックオニキスの帝アキラ、雷、そして乃依にもチートモードの使用が確認されました! これは規約違反! これはBAN案件! でも今夜だけは、今夜だけは誰が止められるんだこんなもん!』
忠犬オタ公の実況が、涙と興奮で割れる。
観客席がどよめく。
帝は叫び、月人の巨体を空の彼方へ弾き飛ばした。まるで月へ送り返すような一撃だった。
「まだまだ行くぞ!」
黒鬼が再び戦場へ駆ける。
その背中を見て、彩葉は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ここまでしてくれる。自分のために。かぐやのために。あの兄が、ブラックオニキスが、全部を賭けてくれている。
けれど、それでも足りなかった。
月人の数は減らない。
戦場全体が白く埋まっていく。
やがて、かぐやの歌が終わりへ近づいた。
アウトロが流れ始める。弾むようだった曲調が、少しずつ遠くなり、最後の花火が夜空に尾を引いて消えるように、音が薄れていく。
月人たちは、その瞬間を待っていたかのように動きを変えた。攻撃が止まる。光弾が止まる。戦場を覆っていた暴力が、儀式の静けさへ切り替わる。
彩葉は走った。
ステージへ向かって。
だが、その前に月人たちが幾重にも立ちはだかる。攻撃してこない。ただ、道を塞ぐ。かぐやの姿が見えるように、けれど届かない距離だけを残して、白い壁が作られる。
「……かぐや」
ステージの上で、かぐやはすべてを悟ったように笑っていた。
少しだけヤチヨに似た笑みだった。
やがて、一人の月人が前へ進み出る。恭しく跪き、頭を垂れる。その姿は、主君を迎えに来た臣下のようだった。かぐやはそれを見下ろし、いつもの軽やかさをほんの少しだけ残した声で言う。
「はるばるようこそ」
月人は顔を上げる。
表情はない。けれど、微笑んでいるように見えた。
「逃げちゃってごめん。でも、すっごい、すっごい、楽しかったんだ」
かぐやの足元に、光る雲が現れた。
彼女の身体が、ゆっくりと浮き上がる。
観客席が歓声を上げる。
まだ演出だと思っている者もいる。泣きながら名前を呼ぶ者もいる。真実を知らないまま、真実の別れに立ち会っている人々の声が、星屑のように空へ舞う。
「最高の卒業ライブでした! いっぱいお土産もらっちゃった。みんな、ありがとう!」
かぐやは手を振った。
明るく。
最後まで、明るく。
そして、その声が現実の配信部屋へも届いた。
「彩葉」
現実の肩に温もりが乗る。
彩葉は目を開けられなかった。
スマコンの奥ではツクヨミの戦場が続いている。
けれど現実の配信部屋で、かぐやの身体が彩葉を抱きしめていた。頬、肩、背中。温かい。月へ帰る存在だなんて思えないほど、人間の温もりだった。
彩葉の膝から力が抜ける。
崩れそうになる身体を、かぐやが支えた。
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。あんなに小さかったのに。
頼りなくて、泣いてばかりで、何も知らなかったのに。今は、彩葉の方が泣いている。抱きしめられている。見送られている。
待って。
声が出なかった。
まだ行かないで。
まだしたいこと、いっぱいあるって。
けれど、言葉は喉の奥で崩れた。
「──大好き」
その言葉のあと、ツクヨミの空が白く開いた。
月人たちが、一斉に頭を垂れる。
そして、羽衣が現れた。
それは布というより、月光そのものだった。触れる前から温度のない光を放ち、柔らかく、静かで、美しい。
あまりにも美しいものは、時に刃物より残酷だ。羽衣はかぐやの肩へ、音もなく掛けられた。
その瞬間。
かぐやの瞳から、地球の色が消えた。
それは劇的な悲鳴や、激しい抵抗を伴うものではなかった。
むしろ恐ろしいほど静かだった。波打っていた心が凪ぎ、笑っていた口元から人間らしい揺らぎが抜け、彩葉を抱きしめていた腕から、ほんの少しだけ力が消える。
覚えていたものが、剥がれていく。
料理動画で魚を捌いたこと。
花火大会で屋台を全部回ろうとしたこと。
パンケーキを作る約束。
KASSENで負けて転がり回ったこと。
彩葉の曲を好きだと言ったこと。
彩葉に名前をもらったこと。
彩葉と一緒に笑ったこと。
一つずつ、一つずつ、月光の薄い膜に包まれて、かぐやの内側から遠ざかっていく。
◆
その同じ時刻。
どこか別の部屋で、老いた巡が息をしていた。
部屋は薄暗かった。
窓際のカーテンは半分だけ開いており、外の夜景が細い光の線になって天井へ映っている。
ベッドの周りには医療用の機器がいくつか置かれていたが、どれも大袈裟な延命をするためのものではなかった。
静かな電子音が、時折、老いた身体がまだ生きていることを思い出させる程度に鳴る。
枕元のタブレットには、月見ヤチヨが映っていた。
『やほやほ〜。生存確認に来ましたぞ〜』
画面の中の彼女は、いつもの調子で手を振っていた。
白銀の髪。柔らかな笑み。冗談めかした声。
けれど、その瞳だけは、画面越しの薄明かりの中で、ひどく静かだった。
老いた巡は、ゆっくりと目を開けた。
瞼を持ち上げるだけでも、少し時間がかかる。八千年を旅した魂に対して、今の身体はあまりにも脆かった。
指先は骨ばり、呼吸は浅く、胸の奥に残る鼓動は、遠い祭りの太鼓のように弱い。
「……一人で逝くつもりだったんだけどね」
掠れた声が、部屋の空気を小さく揺らした。
「現代って便利だね。君の目を欺いて死ぬのが、年々難しくなる」
『八千年も付きまとっておいて、最後だけソロプレイは許可されませぬ〜☆』
ヤチヨは扇子を広げ、わざとらしく胸を張った。
『こちら、月見ヤチヨの見守りサービスです。月額無料、逃亡不可、看取り付き。なお、対象者が勝手にログアウトしようとした場合、強制的に通話が繋がります』
「管理人権限の濫用じゃないかな」
『愛です』
「便利な言葉だ」
『便利に使っていかないと、八千年もやってられませんぞ』
老巡は、かすかに笑った。
笑っただけで、胸の奥が少し痛む。
けれど、その痛みすらもう遠かった。
長く使った身体が、役目を終えようとしている。そういう感覚だった。寂しさはある。名残もある。けれど、不思議と恐怖は少ない。
ヤチヨが、画面の向こうで少しだけ目を細めた。
『……本当に、黙っていなくなるつもりだったんですね』
「うん」
『うん、じゃないですぞ。そこは否定するとこです』
「見つかったから、もう否定しても仕方ない」
『そういうところです。そういうところが、ほんとに、あなたという人は』
言葉は軽い。
けれど、最後が少しだけ震えた。
老巡は、画面の中のヤチヨを見つめた。
八千年。長かった。途方もなく長かった。
小さな白いウミウシだった彼女が、泣き、笑い、怒り、ふざけ、別れを覚え、痛みを飲み込み、やがてヤチヨになった。そのすべてを見てきた。
そして今、彼女は彩葉と再会した。
もう一人ではない。
なら、自分の役目は終わったのだと思った。
言えば、彼女は探すだろう。
どこへ転生するのかと、どんな赤ん坊に生まれ変わるのかと、また見つけようとするだろう。
だが、老巡はその必要はないと思っていた。ヤチヨはもう、彩葉の隣で笑える。
八千年の孤独は終わった。ならば、付き添い役は静かに退場するべきだ。
我ながら、人の心がない。
そう思わないでもなかった。
けれど、八千年経っても、そういう性質は治らなかった。
「ヤチヨ」
『はいはい、なんですか。今なら特別に、苦情も遺言も一個まで受け付けますぞ』
「歌ってほしい」
ヤチヨの表情が止まった。
いつもの軽口の形をした笑顔が、ほんの一瞬だけ、剥がれかける。
けれど彼女はすぐに扇子を閉じ、いつものように顎を上げた。
『リクエストは?』
「remember」
そう言うと、ヤチヨは少しだけ黙った。
そして、笑った。
『……選曲がずるいですなあ』
「最後だから」
『最後って言う人ほど、だいたいまたどこかで会うんですけどね』
「そうだといいね」
嘘ではなかった。
だが、本当のことでもなかった。
ヤチヨは知らない。老いた巡が、この後どこへ行くのかを知らない。
彼女はきっと、また転生するのだと思っている。どこかの時代で、どこかの赤ん坊として、もう一度生まれ直すのだと思っている。
現代にいる宵宮巡という少年へ戻ることなど、知らない。
言っていない。
老巡は、言わないことを選んだ。
タブレットの向こうで、ヤチヨが目を閉じる。
歌が始まった。
『remember』
それは、かつて何度も聞いた歌だった。
遠い時代の夜にも、焦土の後にも、ツクヨミのステージにも、ヤチヨの声は形を変えて響いていた。
今、画面越しに届くその声は、派手な伴奏も、観客の歓声も、演出の光も伴わない。ただ静かに、老いた部屋の空気へ染み込んでいく。
歌詞の中に、星が巡っていく一節があった。
『あなたを照らして、星はまた巡ってく』
その言葉が、老巡の胸の奥へ、柔らかく落ちた。
巡。
巡る。
名前のような、呪いのような、祝福のような響き。
老巡は、薄く目を閉じた。
長かった。
本当に、長かった。
けれど。
「……悪く、なかった」
その呟きは、歌に溶けて消えた。
ヤチヨは、最後まで歌い続けた。
電子音が、一度だけ長く伸びる。
そして、部屋は静かになった。
◆
静寂は、死の形をしていなかった。
それはむしろ、長い歌が最後の余韻を残して、誰もいないホールの天井へ溶けていく時の静けさに似ていた。
老いた身体から呼吸が消え、胸の上下が止まり、医療機器の細い電子音だけが、部屋の空気に一本の線を引く。
外の夜景は変わらない。遠くのビルにはまだ灯りがあり、どこかの道路では車が流れ、世界はいつもの速度で動いている。
けれど、タブレットの中のヤチヨだけが、しばらく動かなかった。
歌い終えた口元が、ほんの少しだけ開いたまま止まっている。
画面越しの光に照らされた白銀の髪も、扇子を握る指先も、いつもの大袈裟な身振りを忘れたように静かだった。
『……ほんとに、ログアウトしちゃった』
小さな声だった。
いつもの月見ヤチヨなら、ここで何か言っただろう。
さらば〜い、と軽く手を振ったかもしれないし、八千年分の付き合いにしてはあっさりしすぎですぞ、と頬を膨らませたかもしれない。
けれど、今の彼女は何も言えず、ただ画面の向こうで、もう返事をしない老人を見つめていた。
泣かなかった。
泣けなかったのかもしれない。
泣くには、あまりにも長すぎた。
泣くには、あまりにも多くの別れを知りすぎた。
泣くには、この別れが本当に最後なのか、魂のどこかでまだ判断しきれていなかった。
『……次は、どこに生まれるんでしょうなあ』
ヤチヨは、ようやく笑った。
ひどく下手な笑顔だった。
『見つけるの、大変なんですけど。赤ちゃんはみんな似てますし、名前も違うし、あなた絶対また知らん顔してそこらへんの困ってる人を助けてるんでしょうし。
ほんと、探される側の配慮というものを、八千年経っても覚えませんでしたな』
返事はない。
それでもヤチヨは続けた。
『でもまあ、いいです。ヤッチョは管理人AIなので。検索能力と根性だけは、そこそこありますからね。
……今度は、もう少し早く見つけます。今度は、ちゃんとお礼を言います。今度は、勝手に一人でいなくなる前に、引っ捕まえてやりますから』
その宣言は、誰にも届かないはずだった。
少なくとも、彼女はそう思っていた。
タブレットの向こうで老いた巡の身体は静かに横たわり、魂はもうそこにはない。
ヤチヨは知らない。彼が再び赤子として生まれ直すのではないことを知らない。
現代のどこかに、すでに宵宮巡という高校生の肉体があり、そこへ八千年を終えた魂が回帰することを知らない。
知らされていない。
八千年も共に歩いた相手が、最後の最後でまた肝心なことだけ黙っていた。
もし知っていれば、ヤチヨは怒っただろう。
泣いただろう。
笑っただろう。
そして、絶対に探しただろう。
けれど老いた巡は、それを告げなかった。
ヤチヨが彩葉と再会し、かぐやとしての始まりと、ヤチヨとしての現在を抱えたまま、それでも笑えるようになったのを見届けた時点で、自分の役割は終わったと思っていたからだ。
あとは彼女たちの物語だと、自分はその後景へ退くべきだと、本気で考えていたからだ。
まったく、人の心とかないのだろうか。
本人が聞けば、多分こう答えただろう。
ないわけではない。ただ、使い方が下手なだけだ、と。
◆
魂が抜けた瞬間、時間は音を失った。
老いた巡は、自分の身体を見下ろしていた。
皺だらけの手。細くなった首。眠るように閉じた瞼。
長い人生の終点としては、あまりにも静かな姿だった。
痛みはなかった。息苦しさもない。胸の奥を締め付けていた老いの重さも、骨に染み込んだ疲労も、すべてが遠い場所へ置き去りになっている。
その代わり、引力があった。
上でも下でもない。
未来でも過去でもない。
ただ、自分が本来戻るべき場所から、魂の中心を細い糸で引かれるような感覚だった。
部屋の輪郭が滲む。タブレットに映るヤチヨの姿も、夜景も、医療機器の光も、薄い水の膜の向こうへ沈んでいく。
次に広がったのは、果てのない水面だった。
空と地面の境界がない。
足元には浅い水が張り、そこへ満天の星空が映り込んでいる。
どこまでが上で、どこからが下なのか分からない。
ウユニ塩湖の写真を、月の光だけで再現したような場所だった。
風はないのに、水面にはわずかな波紋が広がり、そのたびに星が揺れる。
そこに、二人の宵宮巡が立っていた。
一人は、老いた巡。
ただし、魂の姿は老人ではなかった。
老いは肉体に属するものだからだろう。そこに立っているのは、いくつもの人生を重ねた気配だけを纏った、輪郭の曖昧な巡だった。
少年にも、青年にも、老人にも見える。無数の前世が薄く重なり、その中心に、静かな目をした魂がある。
もう一人は、現代の宵宮巡だった。
高校生の姿。まだ八千年を知らない顔。
けれど、その瞳だけは、すでに答えを受け取っていた。
卒業ライブの終盤、肉体から魂を剥がし、月の干渉へ乗ろうとしていた彼の意識が、ここへ引き込まれている。
二人は、向かい合った。
言葉は必要なかった。
アンサートーカーが、互いの間で静かに接続する。
質問も、説明も、確認も要らない。
現代の巡は、目の前の自分が八千年を歩き終えた存在だと理解し、老いた巡は、目の前の自分がこれから八千年へ向かう始点だと理解した。
すべてが分かった。
昭和二十年の焦土も、花売りの少女も、白いウミウシを魂だけで抱きしめた夜も、ヤチヨが彩葉と再会して少しずつ明るくなっていった日々も、最後に歌を求めたことも、肝心なことを黙ったまま死んだことも。
現代の巡は、思った。
八千年同道しておいて、再会したらフェードアウトする気だったのか、私。
人の心とかないのか、私。
だが、その突っ込みは口には出さなかった。
言えば、多分、老いた巡も同じ顔で苦笑しただろう。
知っている。自分なのだから。善意はある。情もある。救われたことへの感謝も、痛いほどある。
けれど、それを相手の人生に居座る理由にしたくない。
助けた後に名乗らず、役目が終われば退く。
それを美徳だと思っているわけではない。
ただ、そうするのが一番ましだと、どこかで信じてしまっている。
水面に月が映っていた。
その月は、現実の空にも、ツクヨミのステージにも、八千年前の海にも繋がっているようだった。
先に口を開いたのは、現代の巡だった。
「お疲れ様──」
それだけだった。
あまりにも短い言葉だった。
八千年に対して、短すぎる。
無数の人生と無数の死と、数え切れない別れと、かぐやの隣に置き続けた小さな灯りに対して、たった四文字では到底足りない。
けれど、だからこそ巡らしかった。
老いた巡は、少しだけ目を細めた。
水面に映る星が揺れる。
「──悪くなかった」
こちらも、それだけだった。
幸せだった、とは言わない。苦しくなかった、とは言えない。
報われた、という言葉もどこか違う。
けれど、悪くなかった。八千年の旅をそう総括できるなら、それは多分、巡にとって最大限の肯定だった。
すれ違う。
二人は、握手をしなかった。
抱き合うことも、互いの肩を叩くこともなかった。
ただ、同じ水面の上で互いの横を通り過ぎる。その瞬間、星空が反転した。
現代の巡の魂は、月へ引かれていく。
老いた巡の魂は、肉体へ引かれていく。
役割が入れ替わる。
始点と終点が、同じ身体を挟んで位置を変える。
水面が割れ、月光が開いた。
◆
現代の宵宮巡の部屋で、ベッドの上の身体が一度だけ小さく息を吸った。
それは肉体の反射のようでもあり、長い旅から戻った魂が、忘れていた呼吸を思い出す音のようでもあった。
瞼が震える。
指先がわずかに動く。
八千年を終えた魂が、少年の肉体へ収まった。
外側の時間で見れば、幽体離脱の練習中に一瞬意識が途切れた程度の空白かもしれない。けれど内側では、縄文から現代までの夜が、すべてその小さな身体へ帰ってきている。
戻ってきた巡は、まだ目を開けなかった。
開ければ、世界が変わっていることを知るからだ。
同じ天井。
同じ部屋。
同じ机。
同じ高校生の身体。
けれど、その中身だけが八千年分老いている。老いたというより、巡った。名前の通り、何度も何度も巡って、同じ場所へ戻ってきた。
胸の奥に、ヤチヨの歌の余韻が残っていた。
星がまた巡る。
その一節だけが、まだ魂のどこかで淡く光っている。
巡は、ゆっくり息を吐いた。
「……ただいま」
誰にも聞こえない声だった。
そして、誰にも知らせるつもりのない帰還だった。
◆
一方、現代の巡の魂は、月の光の中へいた。
身体がない。
手もない。
足もない。
けれど、何も感じないわけではなかった。
視界という器官はもう存在しないはずなのに、周囲の光の濃淡も、空間の歪みも、遠ざかっていくツクヨミの輪郭も、不思議なほど鮮明に分かる。
耳がないのに音が届き、皮膚がないのに冷たさが染みてくる。魂だけになった感覚は、自由というより、すべての感覚器を一度溶かされ、月光で雑に作り直されたような心許なさに近かった。
ツクヨミの卒業ライブ会場が、遠ざかっていく。
歓声があった。泣き声があった。かぐやさんの歌の最後の余韻が、まだ空間のどこかに薄く残っていた。
戦場側では、酒寄さんの鍵盤型ブレードが鳴らした音の欠片と、ブラックオニキスの攻撃音と、月人たちの無機質な駆動音が、壊れたオルゴールのようにばらばらになって漂っている。
そして、その中心に、かぐやさんがいた。
いや。
そう呼んでいいのか、ほんの一瞬だけ迷った。
羽衣を肩に掛けられた彼女は、先ほどまでステージで歌っていた少女とは、同じ姿をしているのに、どこか決定的に違っていた。
卒業ライブ用の衣装は月光を浴びて白く発光し、金色の髪は重力を忘れたように静かに浮いている。
けれど、その明るさはもうかぐやさんの明るさではなかった。
そこにあったのは、温度のない美しさだった。
笑っていない。
泣いてもいない。
抵抗もしていない。
ただ、月へ帰るべきものが、月へ戻るための形に整えられている。
そうとしか言いようのない静けさが、彼女の全身を覆っていた。
瞳は澄み切っている。
あまりにも澄み切っているせいで、そこに映っていたはずの地球の雑多な色、酒寄さんの泣き顔、ファンたちの歓声、ツクヨミの騒がしい光、そういうものが、もう何一つ引っかからずに滑り落ちていくように見えた。
酒寄さんが、手を伸ばしていた。
その顔には、別れの悲壮と、理解したくない現実を理解してしまった者の痛みが浮かんでいた。
けれど崩れないようにしているのだろう。
かぐやさんが最後まで楽しい卒業ライブにしたいと願ったから、せめて自分だけはその願いを壊すまいと、喉の奥から込み上げる叫びを噛み殺している。
彼女の声は、月光に滲んで私のいる場所までは届かなかった。
ただ、口の形だけが見えた。
かぐや。
その呼び声に、羽衣をまとった少女は振り返らなかった。
反応しなかったのではない。
もう、その名前が自分を呼ぶものだと分かっていないのだ。
胸が痛むはずなのに、胸はなかった。
それでも確かに、魂のどこかが軋んだ。
羽衣によって記憶が奪われるということを、私は知っていた。アンサートーカーで見ていた。
知識としては理解していた。けれど、実際に目の前で、かぐやさんの中から酒寄さんとの時間が剥がれていくのを見ることは、答えを知っていることとはまるで別物だった。
酒寄さんと出逢い、紡いできた記憶の万華鏡。
それらが消えていく。
消えていくのに、姿だけはそこに残っている。
それがひどく残酷だった。
私は、その背後にいた。
背後霊。
やはり、言葉にすると安っぽい。
だが、今の私はその安っぽい呼び名に縋るしかないほど、危うい位置にいた。
月へ引かれる彼女の魂に、直接触れないぎりぎりの場所で、自分の魂をその牽引力へ結びつける。
触れすぎれば月人に異物として認識される。離れすぎれば流れから弾かれる。
声を出せば、何かが変わるかもしれない。存在を知らせれば、失われた記憶の表面に余計な傷をつけるかもしれない。
月の使者に見つかってはいけない。
彼女に気づかれてもいけない。
酒寄さんへ声を届けてはいけない。
ただ、流れに乗る。
彼女の孤独が始まる最初の一歩に、見えない形でついていく。
その時、羽衣をまとった少女が、わずかに首を動かした。
心臓がないのに、心臓が止まった気がした。
彼女の瞳が、背後へ向く。
私を探しているのではない。
誰かを懐かしむような目でもない。
そこには、かぐやさんらしい好奇心も、悪戯っぽい笑みも、寂しさを誤魔化す明るさもなかった。
ただ、月へ戻る道筋の中に生じた微細な歪みを、月の姫として感知したような、静かで無垢な反応があった。
「……?」
声とも吐息ともつかない小さな揺らぎが、月光の中に生まれた。
目が合った、ように思えた。
けれど、それは人と人が互いを認識する時の交差ではなかった。
ガラスの向こうからこちらを見ているようで、しかもそのガラスには、私の姿など映っていない。
彼女はただ、そこに何かの乱れがあると感じただけなのだろう。名も、顔も、関係も、記憶もないまま、因果の縁だけがほんのわずかに触れてしまった。
私は声を出さなかった。
大丈夫、と言いたかった。
助けるよ、と言いたかった。
これから最初から一緒に行く、と言いたかった。
けれど、ここで声を届けてはいけない。旅の始まりに、彼女が誰かへ縋るための手を作ってはいけない。
ましてや今の彼女は、地球での記憶を失っている。
ここで知らない声に呼び止められれば、それは慰めではなく、ただの異物になる。
かぐやさんの旅は、かぐやさん自身の選択と、月の掟と、これから起こる事故によって始まらなければならない。その道筋を、私が分かりやすい救いの形に塗り替えてはいけない。
だから私は、ただそこにいた。
見えない灯りとして。
月の光が、さらに強くなる。
ツクヨミのステージが遠ざかる。
酒寄さんの姿が、白い光の向こうで滲んでいく。
手を伸ばす彼女の輪郭も、倒れた仲間たちも、観客席のサイリウムも、戦場に残った黒い火花も、すべてが水中の景色のように揺れ、薄く、遠くなっていく。
どこかでヤチヨがこちらを見ているような気配がした。
けれど、それもすぐに消えた。
今のヤチヨが何を見ているのか、私には分からない。
彼女はきっと、かぐやが月へ帰ることも、酒寄さんが泣くことも、その先にある八千年も、どこかで知っている。
けれど、ここから先へは来られない。
そういう運命だから、と彼女なら笑うのだろう。笑って、笑いながら、自分だけが知っている長い夜を抱えるのだろう。
羽衣の少女の輪郭が、月へ向かって引かれる。
私の魂も、その後ろへ滑り込む。
重力とは違う力が、存在そのものを引き延ばしていく。
時間の層が剥がれ、空間の縫い目が開き、ツクヨミの電子的な光が、月の冷たい白へ変わる。
身体があれば吐いていたかもしれない。内臓がなくてよかった、とこんな状況で妙なことを思った。
その時、最後にもう一度だけ、彼女が背後を見た。
今度も、笑ってはいなかった。
ただ、月光を受けた無表情の中に、ほんのわずかな揺らぎがあった。
記憶ではない。感情でもない。名前を呼ぶほどのものではない。
けれど、これから八千年の果てにようやく意味を持つことになる、未読の手紙の封だけが、かすかに震えたような気配だった。
私は、その揺らぎを勝手に受け取った。
笑みではない。
約束でもない。
ただ、縁が切れていないという事実だけを。
そして、誰にも聞こえない場所で、心の中だけで呟く。
大丈夫。
これから、最初から一緒に行く。
次の瞬間、月の光が開いた。
羽衣をまとった少女の魂が、月へ吸い込まれる。
その背後に、ひとつの小さな影のように、宵宮巡の魂が続いた。
誰にも知られないまま。
誰にも見送られないまま。
八千年の旅が、始まった──