もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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なんなんだぁ今のはぁ・・・?

 落ちていく。

 そう感じたのは最初の一瞬だけで、次にはもう、落下という感覚すら意味を失っていた。

 彩葉の身体は、ツクヨミの部屋から剥がされ、現実の椅子からも、アバターの輪郭からも、酒寄彩葉という名前からも遠ざかっていく。

 耳の奥でFUSHIの声が細く鳴り、次いで、誰かが叫んだ「かぐや!」という声が、胸の真ん中へ杭のように打ち込まれた。

 

 その声を聞いた瞬間、彩葉は彩葉でありながら、かぐやになった。

 八千年が流れ込む。

 それは、記録映像を見るようなものではなかった。

 遠い昔を安全な場所から眺めるのではない。

 彩葉は、かぐやの孤独の内側に立っていた。

 身体を失い、声を失い、死ぬことすらできず、最強の外殻の中へ閉じ込められたまま、砂浜に取り残される。

 その絶望が、知識ではなく、呼吸よりも深い場所へ沈み込んでくる。

 

 最初の数日は希望だった。

 一年経っても、まだ諦めきれなかった。

 二年、三年と過ぎ、海は同じように青く、空は同じように広く、星は何ひとつ失っていない顔で瞬き続けた。

 世界が少しも変わらない中で、変わっていくのはかぐやだけだった。

 砂浜へ寄せる波が岩を削るように、誰にも気づかれないまま、心の形だけが少しずつ摩耗していく。

 

 彩葉は、そのすべてを見た。

 見せられたのではない。

 通り過ぎたのでもない。

 かぐやが数えた朝も、数え損ねた夜も、返事のない祈りも、ヤチヨに助けを求めて届かなかった声も、彩葉は一つ残らず浴びた。

 八千年という時間は、人間の意識にそのまま収まるにはあまりにも長い。

 だから記憶は奔流となり、季節は渦となり、出会いと別れは星図のように圧縮されて流れ込んだ。

 けれど、欠けてはいなかった。省かれてはいなかった。

 彩葉は、かぐやが歩いた八千年の厚みを、逃げ場のない重さとして受け止めていた。

 

 ──この一瞬を、最高の、パーティにしよう。

 

 何百、何千回目かのリフレインの果てに、足音が聞こえる。

 砂を踏む音。

 人の気配。

 かぐやは壊れた機能を無理やり動かし、掌へ収まるほど小さな白いウミウシの身体を得る。

 震える思いで叫ぶ。

 待って、と。すると少年が振り返った。日に焼けた肌。芯の強そうな目。八千年前の砂浜に立つ、どこにでもいそうな子ども。

 

 けれど、その瞳には奇妙な安堵があった。

 やっと見つけた。

 聞こえるか聞こえないかの声で、少年はそう呟いた。

 それからの日々は、孤独の海に浮かんだ小さな板切れのようだった。

 少年は海岸へ来る。魚の話をする。空の色を話す。意味もなく笑う。かぐやも月の話をする。宇宙の話をする。彩葉の話をする。

 少年は荒唐無稽な話を否定せず、ただ静かに聞いた。

 

 世界でたった一人、自分を見てくれる誰かがいる。

 その事実だけで、かぐやは少し笑えるようになった。

 だが少年は、少しずつ痩せていった。咳が増え、来ない日が増え、やがて二度と来なくなった。

 別れを告げなかった。看取られることも選ばなかった。

 きっと、それが彼なりの優しさだったのだろう。

 かぐやの中には、何も知らされず置いていかれた寂しさと、最後の苦しみを見せまいとした不器用な思いやりだけが残った。

 

 十年数年後、少女が現れる。

 黒髪の、穏やかに笑う少女だった。

 彼女は砂浜でかぐやを見つけると、まるで宝物を扱うように両手で持ち上げた。

 その仕草に、かぐやの胸の奥が揺れる。顔も声も違う。性別すら違う。なのに、目を細める癖、相手を安心させる間、壊れ物に触れるような手つきだけが、あの少年とどこか似ていた。

 

 さらに時代が流れる。

 男の時もあった。

 女の時もあった。

 子どもとして現れることもあれば、大人として現れることもあった。

 身分も、言葉遣いも、纏う衣も、手の大きさも、そのたびに違った。けれど、その人は必ずかぐやを見つけた。

 海辺で、都で、街道で、城下で、焼け跡で、電線の走る街角で。

 いつも、まるで最初から探していたみたいに、かぐやの前へ現れた。

 

 かぐやはやがて気づき始める。

 同じなのだ。

 姿は違っても、魂の手触りが同じなのだ。

 どの人生でも、その人はかぐやを宝物みたいに持ち上げる。

 会えなかった時間の話を、嬉しそうに聞いてくれる。

 移動できないかぐやを掌へ、肩へ、懐へ乗せて、遠い景色へ連れ出してくれる。

 

 記憶は平安へ滑る。

 牛車の中、桜が舞う。藍色の狩衣を纏った若い貴族の懐から、白いウミウシが顔を出している。

 かぐやは、今世の名ではなく、その奥にある名前を知りたいと駄々をこねる。

 次に会う時も同じ名前で呼びたいのだと怒る。

 自分はずっとかぐやなのに、どうして君だけ違う顔で違う名前になるのかと、袂の中で跳ねる。

 若者は困ったように笑って、秘密だと言う。

 かぐやはずるいと怒る。

 それでも、ありがとう、と言う。

 何度も来てくれたこと。何度も持ち上げてくれたこと。何度も話を聞いてくれたこと。世界を見せてくれたこと。ずっと隣にいてくれたこと。

 

 歌が詠まれる。

 散る花のあとを尋ねて、春ごとに同じ月を見る人を待つ歌。

 かぐやは意味を知らない。

 でも彩葉には分かった。

 花はかぐやだ。

 春ごとには、転生のたびに、という意味だ。

 同じ月を見る人とは、何度生まれ変わっても探し続ける、たった一人の宇宙人のことだ。

 

 次に記憶は戦国へ移る。

 街道沿いの茶屋。団子の焦げる匂い。旅人たちの笑い声。遠くに燻る戦の気配。

 膝の上のかぐやは食べられない団子へ憧れ、その人は未来の話をする。

 いつか食べられるかもしれない。いつか温かいものを温かいと感じられる身体を得られるかもしれない。人間は案外馬鹿にできないよ、と。

 

 その言葉は励ましだった。

 予言ではない。

 けれど、かぐやを前へ向かせるための、慎重に選ばれた希望だった。

 

 淀姫の記憶が来る。

 大坂城の庭。池の水面。幼い姫君が、妙なウミウシを見て笑う。

 未来の空飛ぶ鉄の箱。遠くの人と顔を見ながら話せる世界。信じていないくせに続きを聞きたがる淀姫。

 かぐやは、何もできない自分でも、彼女の退屈な鳥籠へ小さな窓を開けられたことを知る。

 

 そして城は燃える。

 炎の赤。煙の黒。崩れる梁の轟音。

 動けないかぐや。死を受け入れた淀姫の穏やかな顔。

 助けられない悔しさに押し潰されそうなかぐやへ、その人は言う。

 戦えなくても、走れなくても、火を消せなくても、かぐやにしかできなかったことがある。未来を語ったのは誰か。月の話をしたのは誰か。淀姫を、ただの淀として笑わせたのは誰か。

 

 友達なんでしょ。

 助けられなくても、会いに行けばいい。

 その言葉で、かぐやは炎の中へ向かう勇気を得る。

 そして、その人はその人で、自分にできることを果たしに行く。

 どこへ行くのか、何をするのか、詳しくは語らない。ただ戻ったら、かぐや印の花丸を貰えると嬉しいかな、と笑う。

 いつものように。これから火の中へ入ることを少しも大げさにしないように。

 

 彩葉は、また思った。

 優しい。

 勝手だ。

 この人はいつもそうだ。

 かぐやが立てるように言葉を置き、自分はその陰で危ない場所へ行く。

 かぐやが罪悪感を抱かないように、冗談の形で願いを残す。感謝される前に、また少し遠ざかる。

 

 

 時代はさらに流れる。

 旅芸人の笑い声。恋の歌ばかり詠む人。墨で指を黒くしながら物語を書く人。

 江戸の灯。花魁の香。鉄道の汽笛。戦争の足音。空から火が降る夜。焼け跡で花を売る少女。

 泣き声。祈り。諦め。何度も出会い、何度も別れ、何度も「今度こそ」と思い、何度も失う。

 

 そのすべての時代に、かぐやの君はいた。

 ある時は男として。

 ある時は女として。

 幼くして出会うこともあれば、老いてから再会することもある。

 いつもすぐ傍にいるわけではない。何年も、何十年も現れないこともある。

 けれど、かぐやが本当に折れそうな時、どうしても前へ進めなくなりそうな時、その人は必ず、どこかにいた。

 

 名前は教えない。

 理由も話さない。

 けれど、寄り添う。

 

 かぐやの身体を持ち上げる。

 景色を見せ、話を聞き、怒らせる。笑わせる。

 無力だと泣くかぐやへ、その時々で必要な言葉を渡す。

 時には答えを与えず、ただ隣に座る。時には、かぐやが気づかないところで危険を引き受ける。

 時には、自分の死すら見せないように遠ざける。

 

 それは美談だけではなかった。

 かぐやは何度も怒った。

 置いていくなと怒った。

 名前を教えろと怒った。

 勝手に自分を守ろうとするなと怒った。

 けれど、怒れる相手がいること自体が、かぐやを孤独から救っていた。

 

 やがて、世界は電子の光を得る。

 電話。ラジオ。ブラウン管。コンピュータ。ネットワーク。遠くの誰かへ言葉が届く時代。

 かぐやは、ウミウシの小さな身体で震えながら入力した短い言葉へ、知らない誰かから返事が来る衝撃を味わう。

 

 Hello, you.

 

 その一行が、八千年の沈黙に穴を開けた。

 彩葉と過ごした仮想世界の記憶が、少しずつ形を取り戻していく。

 大きな広場を作りたい。誰も一人にならず、好きな姿で歩けて、いつでも返事が返ってくる場所。殺し合いではなく、歌と遊びと交流のための場所。彩葉がいつか見つけてくれる場所。

 その構想の傍にも、かぐやの君はいた。

 直接すべてを作るわけではない。主役を奪うわけでもない。

 けれど、人の世の手続き、機械の調達、危険な道の下調べ、かぐやが月の技術だけでは越えられない部分を、淡々と埋めていく。

 いつも通り、自分は何もしていないという顔で。

 

 異国の男が現れる。

 片方の口角を上げる癖のある笑み。

 ワインは時間が経つほど深まるという言葉。

 正倉院から取り戻される、もと光る竹。

 去っていく友人。残る約束。かぐやはまた一つ別れを抱え、それでも止まらない。

 

 ツクヨミが生まれる。

 最初のライブは、彩葉が知るヤチヨのステージとは比べものにならないほど小さかった。

 観客も少ない。反応もまばら。けれど、八千年ぶりに、かぐやは自分の声で歌った。

 声が届く。誰かが聞いている。拍手が返ってくる。その一つ一つが、長い長い沈黙を破る雷鳴のようだった。

 

 月見ヤチヨは、そこで少しずつ形になる。

 白銀の髪。

 月を背負う衣装。

 ふざけた挨拶。

 笑い方。

 泣かないための冗談。

 誰かを寂しくさせないための、過剰な明るさ。

 

 かぐやが消えたのではない。

 かぐやが積み重なったのだ。

 孤独も、怒りも、出会いも、別れも、淀姫の笑顔も、名を教えないかぐやの君への文句も、彩葉の歌も、全部を抱えたまま、かぐやはヤチヨになった。

 

 そして、ついに彩葉を見つける。

 観客席の中。

 青紫の髪。

 狐耳。

 少し強くて、少し悲しい顔。

 彩葉。

 

 その瞬間の感情が、彩葉自身の胸へ流れ込んだ。

 喜びという言葉では足りない。安堵という言葉でも足りない。

 八千年分の夜が、たった一人の少女へ収束していく。泣くだろうと思っていた。

 崩れるだろうと思っていた。けれどヤチヨは笑った。

 笑って歌った。ようやく会えたその瞬間を、涙ではなく、最高のステージとして彩葉へ渡したかったから。

 

 八千年が、彩葉の中で閉じた。

 終わったのではない。

 見終えたのだ。

 かぐやが見た朝を、彩葉は見た。

 かぐやが耐えた夜を、彩葉は耐えた。

 かぐやが愛した人々を、彩葉も知った。

 かぐやが失ったものを、彩葉も失った。

 そして、かぐやの君という名も知らぬ魂が、男として、女として、子どもとして、大人として、何度も何度も彼女を見つけ、寄り添い、世界を見せ、名前を隠したまま支え続けたことも、彩葉は知った。

 

 人の一生では足りない。

 足りるはずがない。

 それでも彩葉は、八千年を見た。

 だからこそ、帰ってくる時、彼女の中にはもう、ただの同情はなかった。可哀想だと泣くだけの場所にはいなかった。遠くから慰めるためではなく、同じ地面へ立つために、彩葉はその時間を通り抜けてきた。

 

 

「彩葉、彩葉」

 

 遠くから声が聞こえた。

 自分の声のようで、違う声。

 長い夜の向こうから、何度も何度も名前を呼ぶ声。

 彩葉は瞼を開けた。

 目の前に、ヤチヨがいた。

 白銀の髪が乱れ、いつもの余裕などどこにもない。今にも泣き出しそうな顔で、ヤチヨは彩葉を覗き込んでいた。

 

「馬鹿……壊れちゃうよ……」

 

 その声を聞いた瞬間、彩葉の中で、八千年の記憶と、今ここにいるヤチヨの顔が重なった。

 こんな顔を、前にも見た。

 無茶をした彩葉を案じて泣きそうになっていたかぐや。

 八千年経っても、同じ顔をするのだ。

 彩葉は手を伸ばした。

 掴める感覚は薄い。それでも構わなかった。

 彩葉はヤチヨを抱き締めた。かぐやを抱き締めるように。ヤチヨを抱き締めるように。

 八千年を歩いた少女と、彩葉の隣で笑っていた少女、その両方を腕の中へ収めるように。

 

「ごめんね」

 

 声が震えた。

 

「ずっと、気付いてあげられなくて」

 

 ヤチヨが息を呑む。

 彩葉は、さらに強く抱き締めた。

 

「ずっと待っててくれたのに。ずっと探してくれてたのに。笑いながら、何でもないみたいにして、でも本当は、八千年ずっと泣きたかったんだよね」

 

 言葉にした途端、彩葉自身の涙が落ちた。

 かぐやの涙ではない。

 ヤチヨの涙でもない。

 これは、彩葉の涙だった。

 

「やっと追いついた」

 

 大好きなかぐや。

 大好きなヤチヨ。

 長い長い時間をかけて、ここまで来たんだね。

 彩葉は、その言葉を胸の中でもう一度繰り返しながら、腕の中の白銀の歌姫を離さなかった。

 

「追いついたのは、私の方……」

 

 耳元で、ヤチヨが囁いた。

 その声は、ひどく近かった。

 けれど同時に、八千年の彼方から届いた声でもあった。

 彩葉の腕の中にいる白銀の歌姫は、今この瞬間のヤチヨであり、同時に、砂浜で待ち続けた白いウミウシであり、赤ん坊から育てたかぐやであった。。

 

 足元には、浅い水がどこまでも広がっていた。

 夜の空をそのまま映したような水面は、二人の足首を濡らすことなく、ただ静かに波紋だけを広げている。

 頭上には深い青があり、足元にも同じ青があり、その境目は遠い水平線のあたりで淡く溶けていた。

 まだ太陽は昇っていない。けれど夜は、もう完全な夜ではなかった。東の空の底に、ほんのわずか、桃色の光が滲み始めていた。

 

「ねえ、彩葉」

 

 ヤチヨは彩葉の肩へ額を預けたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「彩葉の顔が、とても綺麗でさ。私、すぐ好きになったんだ」

 

 彩葉は息を止めた。

 

「強くて、凛としてて、ちょっぴり悲しい顔。何でもできるみたいに立ってるのに、本当はずっと何かを堪えてる顔。私、最初はその顔に憧れたんだと思う。でも、今なら分かる。

 彩葉も最初から彩葉だったわけじゃないんだよね。辛いことがあって、痛いことがあって、そのたびに一つずつ強くなって、少しずつ彩葉になっていった。私、それを知るのに八千年もかかっちゃった」

「ヤチヨ……」

 

 抱き締めていた身体を、彩葉は少しだけ離した。

 正面から見たかった。

 かぐやではなく、ただヤチヨでもなく、八千年を抱えた今の彼女の顔を、ちゃんと見たかった。

 ヤチヨの白銀の髪は、夜明け前の青に薄く染まっていた。

 頬にはまだ涙の跡が残り、瞳の奥には、かぐやの明るさと、ヤチヨの深さと、八千年分の疲れが重なっていた。

 けれどその顔は、彩葉を安心させようとしている。自分が壊れていないと、自分は大丈夫だと、嘘ではないぎりぎりの形で伝えようとしている顔だった。

 

「私、成長したよ?」

 

 彩葉は、少しだけ明るく言った。

 その声は軽口ではなかった。無理に笑わせようとしているのではなく、ヤチヨを安心させるために、自分の中の本当の言葉を選び直している声だった。

 

「お母さんとだって話せたし、かぐやがいなくなっても、十分ハッピーエンド……お話は、もう終わり」

 

 彩葉は、愛しいその顔を見つめた。

 ヤチヨの中に、かぐやがいる。

 かぐやを収めたヤチヨがいる。

 かぐやは消えていない。ヤチヨも偽物ではない。八千年のすべてを通って、目の前の彼女はここにいる。

 夜明け前の水面に立ち、涙をこらえながら、もう終わりでいいと笑おうとしている。

 その顔を見ていると、彩葉の胸の奥から、まだ一度も言葉になったことのない願いがせり上がってきた。

 

「かぐやと居たい……」

 

 声は小さかった。

 だが、その一言は、彩葉自身を貫いた。

 生まれて初めて、心の底からの願望を口にしていた。誰かに認められるためでも、責任を果たすためでも、正しい答えを選ぶためでもない。

 ただ、自分が本当に望んでいるものが、何の飾りもなく胸の中から出てきた。

 

「彩葉……」

 

 ヤチヨが泣いていた。

 強くて、凛として、ちょっぴり悲しい女神の頬を、八千年分の涙が伝っていた。

 夜明け前の光を受けた涙は、水面へ落ちる前にきらりと光り、そこから小さな波紋が広がる。

 

「……もうこれで、終わってもいいって思ってたのに」

 

 ヤチヨは歌った。

 

 ──この一瞬を最高の──パーティにしよう──

 

 彩葉が月へ届けた歌の一節を、長い年月の中で何度も思い出してきた旋律を、祈りのように、独り言のように、涙で震える声で口ずさんだ。

 歌詞そのものよりも、その声に込められた時間が、彩葉の胸を締めつける。

 

「いつも思い出してた」

 

 ヤチヨの声に、彩葉も重ねた。

 

 ──大切なメロディは──流れてるよ──あなたの──ハートに──

 

 心に流れ続ける大切なメロディを、途切れない糸のように二人で辿る。

 言葉は多くなくてよかった。

 歌は、もう二人の間にある。

 彩葉が知らなかった八千年にも、ヤチヨが知らなかった彩葉の日々にも、同じ旋律が流れていた。

 

「この曲で、生き残れた」

 

 二人は同時に手を上げた。

 かぐやと彩葉のハンドサイン。

 仲良しのやつ。

 指先が形を作った瞬間、水面に映った二人の影も同じように手を上げた。夜の水面に、星明かりと月明かりと、東から差し始めた朝の光が重なる。

 これがある限り。

 何千年経ったって、私たちはずっと一緒だ。

 

 ヤチヨは、そのまま彩葉の手を取った。

 しかし、触れたという事実だけがあり、温度はなかった。

 指と指が重なっている。手の形は確かにそこにある。

 けれど、手のひらの温かさも、指先の柔らかさも、握り返す力もない。

 ヤチヨは、少し寂しそうに微笑んだ。

 

「触れたら、あったかいかなって、いつも思うんだ」

 

 その声に、彩葉の胸が痛んだ。

 

「また、彩葉と一緒にパンケーキ、食べたいな」

 

 ヤチヨは笑った。

 笑ったのに、その目は泣いていた。

 彩葉は、その言葉の奥にあるものを理解した。触れたい。温かいと言いたい。

 食べたい。美味しいとか、不味いとか、くだらない文句を言い合いたい。

 そんな当たり前の願いを、八千年ものあいだ、ヤチヨはずっと胸の奥へ押し込めてきたのだ。

 

 その瞬間、何かが彩葉の中を突き抜けた。

 雷のような衝撃ではなかった。

 もっと深く、もっと静かで、けれど全身の細胞が一斉に目を覚ますような感覚だった。

 八千年の記憶が、悲しみや同情としてではなく、一つの答えへ向かって収束していく。

 かぐやが待っていたもの。ヤチヨが諦めていたもの。彩葉が今、どうしてもやりたいと思ったもの。

 

 分かった。

 まだなのだ。

 このお話には、まだ続きがある。

 その時、東の空が一気に明るくなった。

 夜の青が、薄桃色へほどけていく。雲の縁が金色を帯び、足元の水面には朝焼けが淡く広がった。

 さっきまで深い夜を映していた世界が、少しずつ、まるで誰かが丁寧に色を塗り替えているみたいに変わっていく。

 

 彩葉は立ち上がった。

 身体の芯に、熱が灯っていた。八千年を追体験した直後だというのに、重さより先に力が湧く。

 立っていることすらじれったい。今すぐ走り出したい。

 何かを作りたい。誰かへ手を伸ばしたい。自分の人生をそのために使いたいと、母に告げた時の言葉が、今ようやく本当の形を持った気がした。

 

「私、やりたいことができた!」

 

 声が朝焼けの世界へ響いた。

 ヤチヨは呆けたように彩葉を見上げていた。

 その顔を見て、彩葉は思う。

 もしかすると、かぐやの無茶を聞いた時の自分も、こんな顔をしていたのかもしれない。

 

「本当のハッピーエンドまで付き合ってよね!」

 

 宣言した瞬間、朝の光が水面を走った。

 

 

 その光に呼応するように、二人の周囲へ無数のウィンドウが開いた。

 青白い半透明の板が、空と水面のあいだに何枚も浮かび上がる。そこには、月の文字にも、現代のプログラムにも見える複雑な記号列が流れていた。

 夜明けの柔らかな光の中で、それらは冷たい機械の表示でありながら、不思議と誰かの手紙のようにも見えた。

 

「何、これ」

 

 彩葉は身構えた。

 ヤチヨも目を丸くしている。

 

「……私、これは知らない」

「ヤチヨも?」

「うん。少なくとも、今の私は呼び出していないプログラム」

 

 中央に、一枚だけ大きな確認画面が浮かぶ。

 実行確認。

 感覚再現拡張プロトコル。

 味覚・触覚・温感同期モジュール。

 適用対象、月見ヤチヨ、および酒寄彩葉。

 作成者。

 ――かぐやの君。

 

 その文字を見た瞬間、ヤチヨの呼吸が止まった。

 彩葉はその名を知っている。

 八千年の記憶の中で、何度も聞いた呼び名だった。

 かぐやが勝手につけた、名前を教えない誰かへの呼び名。

 男としても、女としても、子どもとしても、大人としても、何度生まれ変わっても必ずかぐやを見つけてくれた人。

 優しくて、勝手で、感謝される前に逃げてしまう人。

 ヤチヨの唇が、小さく震えた。

 

「……どこかの誰かさんの置き土産かにゃー」

 

 そこで初めて、ヤチヨはわざと軽く言った。

 それは軽口だった。だが、語尾は震えていた。

 怒っているのか、呆れているのか、嬉しいのか、泣きたいのか、自分でも分かっていない声だった。

 

「かぐやの君……」

 

 彩葉が呟くと、ヤチヨは困ったように笑った。

 

「名前、知らないんだ。八千年も近くにいて、最後まで教えてくれなかった。ほんっと性格悪いよね。なのに、こういう時だけ、名前じゃない名前を残してくるんだから」

 

 ヤチヨは、ウィンドウへ手を伸ばした。

 けれど、その指は触れる直前で止まった。

 期待するのが怖いのだろう。これが本当に何かを変えるものなのか、また何も感じられないまま終わるのか、そのすべてを想像してしまうのだろう。

 八千年分の失望は、一度差し出された希望だけで簡単に溶けてはくれない。

 彩葉は、静かに言った。

 

「実行しよう」

「いいの?」

「うん」

「変なプログラムだったら?」

「その時は、かぐやの君に文句言う」

「名前も知らないのに?」

「世界中探してでもガツンと言うから」

 

 ヤチヨは一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。

 

「彩葉、たくましくなったねえ」

「誰の八千年を見たと思ってるの」

「それ言われると弱いなあ」

 

 ヤチヨは笑いながら、実行ボタンに触れた。

 次の瞬間、ウィンドウの文字列が一斉に弾けた。

 光が雪のように降る。白と銀と淡い金の粒子が、朝焼けの水面へ溶けていく。

 彩葉の髪に触れ、ヤチヨの袖に触れ、雲の影を映す足元の水へ沈み、空間そのものへ染み込むように広がっていく。

 

 最初に変化へ気づいたのは、彩葉だった。

 足裏に、水面の冷たさがある。

 濡れているわけではない。だが、浅い水の上へ立っているという感触がある。

 皮膚へ触れる朝の空気の柔らかさ、髪を揺らす風の温度、手を開いた時に指の間を抜けていく湿り気まで、すべてが現実と見まごう密度で返ってくる。

 

 隣で、ヤチヨは自分の手を見つめていた。

 手を開き、閉じる。

 指先を見つめる。

 信じたいのに信じられない、そんな顔で。

 

「ヤチヨ」

 

 彩葉が呼ぶと、ヤチヨはゆっくり顔を上げた。

 その目が、彩葉の手へ向かう。

 白銀の歌姫が、おそるおそる手を伸ばした。八千年のあいだ、何度も人を見送り、歌を届けることはできても、温度を持つ誰かを抱き締めることはできなかった手。その指先が、空中で一度止まる。

 

 彩葉は待たなかった。

 自分から、その手を握った。

 触れた。

 今度は、確かに触れた。

 ヤチヨの指が、彩葉の指を包む。柔らかい。少し冷たい。けれどそこへ彩葉の体温が移っていく。

 握り返す力がある。手のひらの丸みがある。指先が震えていることまで分かる。

 ヤチヨの瞳が、大きく見開かれた。

 

「……あ」

 

 小さな声だった。

 次いで、彼女は彩葉の手を両手で包み込んだ。壊れ物に触れるように、けれど決して離さないように。

 彩葉の手の熱が、ヤチヨの手の中へ広がっていく。

 

「あったかい」

 

 その一言は、ほとんど息だった。

 

「あったかい……あったかいよ、彩葉」

 

 そこで、ヤチヨの顔が崩れた。

 月見ヤチヨが泣いていた。

 八千年を笑い話へ変えて、孤独を冗談へ変えて、痛みを歌へ変えてきた白銀の歌姫が、子どものように顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

 涙は止まらない。止め方を忘れたように、あるいはようやく流していい場所を見つけたように、次々と頬を伝って落ちていく。

 

 彩葉は何も言わず、もう一度抱き締めた。

 今度は、温度があった。

 腕の中に重みがあった。髪が頬へ触れる感触があった。肩口に埋まった顔の震えが、胸元へ直接伝わってくる。

 ヤチヨの涙の熱さまで、彩葉には分かった。

 

「彩葉……ほんとに、いる……」

「いるよ」

「ここに、いる……」

「いる」

 

 彩葉はヤチヨの背を撫でた。

 白銀の髪が指の間を滑る。絹糸のように細く、けれど確かにそこにある手触りだった。

 

「ヤチヨ、私ここにいるよ」

 

 その言葉で、ヤチヨは完全に崩れた。

 声を殺すことも、笑いに逃がすこともできなかった。

 彩葉の肩に縋りつき、何度も息を詰まらせ、泣きながら名前を呼んだ。

 彩葉。彩葉。何度も。まるで八千年のあいだ、ずっと喉の奥で眠っていた呼び声を、今になって取り戻したみたいに。

 

 朝焼けが、二人の周囲を満たしていく。

 足元の水面には、抱き合う二人の影が揺れていた。空はもう夜ではなかった。

 雲の端が金色に燃え、遠い水平線から柔らかな光が差し込んでいる。長い長い夜が、ようやく明けようとしていた。

 

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 朝焼けの光は、少しずつ濃度を増していた。

 東の空に滲んでいた桃色は、やがて雲の縁を金に染め、足元の水面には淡い橙と薄紫が幾重にも重なっていく。

 まるで夜そのものが、長い時間をかけてほどかれ、柔らかな布へ織り直されていくようだった。

 

 彩葉は、ヤチヨを抱きしめたまま動かなかった。

 腕の中には温度があった。

 その事実だけで、胸の奥が何度も震えた。髪が頬に触れる。肩が震える。涙で濡れた頬が、彩葉の首筋へほんの少し触れる。

 ヤチヨが息を吸うたび、胸元に小さな熱が伝わる。これまでツクヨミの中で感じていた擬似的な接触とは、何もかもが違っていた。

 

 触れている。

 触れられている。

 それは、当たり前すぎるほど当たり前のことなのに、八千年を見てしまった彩葉には、世界の法則がひっくり返るほどの奇跡に思えた。

 

「……彩葉」

 

 しばらくして、ヤチヨが小さく呼んだ。

 声はまだ涙に濡れていた。普段なら言葉の端へ冗談を結びつける彼女が、今はただ名前を呼ぶだけで精一杯のようだった。

 

「うん」

「私、ちゃんと触れてる?」

「触れてるよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 

 彩葉は、ヤチヨの背を撫でる手に少しだけ力を込めた。

 すると、ヤチヨはまた泣きそうな顔をした。

 触れられていることを確かめるたびに、喜びと恐怖が同時に押し寄せてくるのだろう。

 信じたい。けれど信じた瞬間に消えてしまうのではないかと怖い。

 長く待たされた希望は、手に入った瞬間でさえ、簡単には安心へ変わってくれない。

 

「大丈夫」

 

 彩葉は言った。

 

「消えない。私、ここにいる」

「……うん」

「ヤチヨも、ここにいる」

 

 その言葉に、ヤチヨは目を閉じた。

 朝の光が、白銀の睫毛に乗った涙を小さく光らせる。

 水面へ落ちた雫は、仮想空間のはずなのに、たしかに波紋を作った。

 円形の揺らぎが二人の足元から広がり、空を映した水の上で、すぐに朝焼けの色へ溶けていく。

 

「……一生分、泣いたかも」

 

 ようやく、ヤチヨが少しだけ笑った。

 まだ声は掠れていたが、その笑いには先ほどまでの壊れそうな痛みだけではなく、泣き切ったあとの微かな軽さが混じっていた。

 

「八千年分には足りないでしょ」

「じゃあ、分割払いでお願いします」

「いつでも請求して」

「利子つけてもいい?」

「そこは遠慮して」

「彩葉、急に現実的」

 

 ヤチヨは鼻をすすり、目元を指で拭った。

 それは、ひどく人間らしい仕草だった

 。泣いたあとに顔を整えようとして、けれど全然整わなくて、少しだけ照れくさそうに笑う。

 月見ヤチヨという完璧な歌姫の顔ではない。かぐやの面影を残した、八千年を歩いた一人の少女の顔だった。

 

 彩葉は、その顔を見ていた。

 見ていたかった。

 ずっと見失っていたものが、ようやく目の前で輪郭を取り戻している気がした。

 かぐやは消えていない。ヤチヨも偽物ではない。かぐやが生きて、失って、笑い方を覚えて、歌い続けて、今この顔になったのだ。

 

 その時。

 ぽん、と場違いに間の抜けた音がした。

 二人は同時に振り向いた。

 水面の上に、小さな丸テーブルが現れていた。

 朝焼けを映す透明な水の上に、まるで昔からそこに置かれていたように、白い天板が浮かんでいる。そして、その上には一枚の皿。

 パンケーキだった。

 

 きつね色に焼かれた生地が三枚重なり、上には四角く切られたバターが乗っている。

 蜜のような光沢が表面をゆっくり伝い、淡い湯気が朝の空気へほどけていく。

 甘く香ばしい匂いがふわりと広がった。

 

「……パンケーキ」

 

 ヤチヨが呟いた。

 声が震えていた。

 その一皿を見つめる瞳には、ただ食べ物を前にした喜びだけではない。

 八千年のあいだ、自分には届かないものとして見続けてきた温度、味、匂い、そのすべてへ今度こそ触れられるかもしれないという恐る恐るの期待があった。

 ヤチヨは皿を見て、それから空中にまだ残っていたウィンドウを見上げる。

 

「本当に……」

 

 泣き笑いの声だった。

 

「本当に、お節介焼きさんなんだから」

 

「かぐやの君?」

「うん」

 

 ヤチヨは、少しだけ唇を尖らせた。

 

「こういうところが腹立つんだよね。こっちが何も言えなくなるタイミングで、ぽんって置いていく。自分では出てこないくせに。名前も教えないくせに。こっちが文句言う前に、嬉しいものを置いて逃げるの」

「……それは、だいぶ腹立つね」

「でしょ?」

 

 言いながら、ヤチヨはパンケーキから目を離せなかった。

 彩葉も同じだった。

 見た目は完璧だった。ふわふわで、温かそうで、匂いだけなら店で出てくるものと変わらない。

 

「彩葉」

「何」

「食べさせてほしいな」

 

 ヤチヨは真剣だった。

 涙で赤くなった目で、じっと彩葉を見上げている。

 さっきまで八千年分泣いていたくせに、その願いだけは芯を持ってはっきりしていた。

 

「自分で食べれば?」

「やだ」

「やだって」

「八千年待ったんだよ。ここは食べさせてもらうところでしょ」

「どういう理屈?」

「私にも分からないけど、魂がそう言ってる」

「便利だな、魂」

「八千年ものだからね」

 

 彩葉は呆れながらも、皿の横に置かれていたフォークを取った。

 持った瞬間、金属の冷たさが指へ伝わった。それだけで少し驚く。

 仮想のはずなのに、現実と変わらない重みがある。

 フォークの柄に刻まれた細い装飾まで、指先に分かる。

 かぐやの君が残したというプログラムの完成度が、今さらのように恐ろしくなった。

 

 パンケーキへフォークを入れる。

 ふわり、と生地が沈む。柔らかい。

 切り分けた一口から湯気が立ち、バターの香りが鼻先をかすめる。

 ヤチヨがほんの少し口を開けた。その仕草が、あまりにもかぐやに似ていて、彩葉は笑いそうになった。

 次の瞬間、フォークの上の一口が、ちらりと光った。

 黄金色のふわふわした断面が、一瞬で別のものへ変わる。

 

 薄く、白っぽく、妙に水気を含み、ところどころ粉っぽさを残した、見覚えのありすぎる何か。

 粉と水だけでどうにかしようとして、どうにもならなかった白っぽい塊。

 彩葉が自信を持って差し出し、かぐやが顔を青くした、あの貧乏飯。

 出会ったばかりの頃の味。

 笑い話にするには拙くて、でも忘れられない味。

 

「あ」

 

 彩葉が止めるより早く、ヤチヨはそれを口に入れた。

 沈黙。

 朝焼けの水面が静かに揺れる。

 ヤチヨの表情が、ゆっくり固まった。

 

「……くそまじぃ……」

 

 その一言で、彩葉は吹き出した。

 

「失礼な奴だな!」

「いや、これは言うでしょ! 何これ!? 粉! 水! 以上! みたいな味がする!」

「人が作ったパンケーキにそこまで言う?」

「彩葉、これはパンケーキじゃない。パンケーキの概念に粉と水が襲いかかった事件だよ」

「本当に失礼!」

「いやでも待って、懐かしい。すっごい不味いのに懐かしい。口の中が八千年前じゃなくて、彩葉の部屋に帰ってきた感じする」

「褒めてるのか貶してるのか、どっち?」

「八割褒めてる」

「残り二割は?」

「本当に不味い」

「やっぱり失礼じゃん!」

 

 二人は笑った。

 声を上げて笑った。

 それは、長い長い夜を越えた涙の延長ではなかった。

 八千年の重みを抱えた感動でもなかった。

 ただ、失敗した料理を一緒に食べて、まずいと文句を言って、怒って、笑うだけの時間だった。

 

 彩葉は、そのくだらなさに泣きそうになった。

 かぐやとしたかったこと。

 ヤチヨが諦めていたこと。

 そんな大きな言葉へ置き換えると急に遠くなるけれど、実際にはこういうことだったのだ。

 温かいものを温かいと言い、まずいものをまずいと言い、美味しいものを分け合い、相手の顔を見て笑う。

 ただそれだけのことを、ヤチヨは八千年、胸の奥へしまっていた。

 

「次、私も食べる」

 

 彩葉は自分用に一口を切った。

 今度は身構えた。粉と水の暴力が来るかもしれない。

 舌が覚えているあの残念な感触に、思わず肩へ力が入る。

 

 だが、口へ入れた瞬間、広がったのはまったく違う味だった。

 温かい。

 甘い。

 ふわりとした生地の中に、バターの塩気と蜜の香りがほどよく混ざっている。

 噛むたびに優しい甘さが増して、喉を通る頃には、胸の奥までじんわり温かくなった。

 

「……美味しい」

 

 彩葉が呟くと、ヤチヨも慌てて自分で一口食べた。

 そして、固まる。

 

「美味しい」

「美味しいね」

「なんで最初だけあれだったの」

「演出じゃない?」

「趣味が悪いなあ、かぐやの君」

 

 ヤチヨは笑った。

 けれど、その笑いはすぐに途切れた。

 

 彼女の視線が、空中に残っていた管理ウィンドウへ向かう。

 先ほどまで実行確認を表示していたそれは、今は詳細ログの形に変わっていた。

 青白い文字列が、朝焼けの世界に浮かんでいる。

 更新履歴、予約実行、適用範囲、同期対象。彩葉には専門的な内容までは分からない。

 けれど、ヤチヨの表情が変わったことだけは分かった。

 

「……ヤチヨ?」

「待って」

 

 声から、さっきまでの柔らかい熱が引いていた。

 ヤチヨは指先でウィンドウを操作する。

 文字列が高速で流れ、幾つもの階層が展開されていく。

 見慣れない記号、日時、アクセス経路、署名。朝焼けの水面に、それらの光が細かく反射した。

 

 やがて、ヤチヨの指が止まる。

 そこには、一つの時刻が表示されていた。

 予約更新時刻。

 彩葉には、ただの数字の羅列にしか見えなかった。

 けれど、ヤチヨには違った。

 彼女の手が、はっきりと震えた。

 

「……これ」

「何?」

「この時刻……あの人が、亡くなった時間の少し後」

 

 空気が、ふっと冷えた気がした。

 朝焼けは変わらず美しい。水面は穏やかに揺れている。

 パンケーキの甘い匂いも、まだそこに残っている。

 けれど、二人の間に落ちたその言葉だけが、世界の温度を一段下げた。

 

 あの人。

 かぐやの君。

 八千年の記憶の中で、何度も現れ、何度も姿を変え、男としても女としても、子どもとしても大人としても、かぐやを見つけ続けた名も知らぬ魂。

 彩葉は、その人の顔を知らない。

 いや、無数に知っている。

 砂浜の少年。桜の下の若者。茶屋の旅人。焼ける城の中で背中を向けた人。機械の光の中で静かに手を貸した誰か。すべて違う顔で、すべて同じ気配をしていた人。

 ヤチヨは、ログから目を離せないまま続けた。

 

「あの人、今生の最期は老衰だった。私が看取った。歌って、見送った。そこまでは知ってる。そこから先は、また転生するんだと思ってた。赤ん坊からやり直して、いつかどこかの時代で、またふらっと出てくるんだって」

 

 声が低くなる。

 

「でも、これはおかしい」

「死んだ後に、更新予約?」

「そう。しかも、この完成度。ツクヨミの深部仕様を分かっているだけじゃない。今の環境に合わせて最適化されてる。

 死ぬ前に全部用意した、というだけでも説明が足りない。少なくとも、この時刻で最終確認が走ってる」

 

 ヤチヨはそこで言葉を切った。

 言いたくないのだろう。

 あるいは、まだ言葉にしてしまえば、何かが決定してしまう気がするのだろう。

 彩葉の中でも、答えになりきらない予感が広がっていった。

 死んだはずの人間が、その少し後に更新を予約している。

 普通の転生なら、そんなことはできない。赤ん坊として生まれ直すなら、なおさら不可能だ。

 なら、かぐやの君はどこへ行ったのか。何をしたのか。どうして、ここにこんな置き土産を残せたのか。

 

 彩葉は、昼休みの廊下を思い出した。

 昔のあなたはどこ、ではなく。

 ここまで来たんだね。

 宵宮巡の声。

 穏やかで、控えめで、踏み込みすぎないように線を引きながら、それでも必要なところへ言葉を置いていく声。

 胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さる。

 けれど、まだ確証はない。

 今その名前を口にしてしまうのは、早すぎる気がした。

 ヤチヨは、ゆっくり笑った。

 その笑みは、美しかった。

 けれど怖かった。

 

「まさかと思うけど」

 

 声は静かだった。

 

「まさか、八千年付き合っておいて、私たちの前からフェードアウトしようとしてる?」

 

 朝焼けの世界で、その言葉だけがひどく冷たく響いた。

 彩葉はヤチヨを見た。

 そこにいるのは、泣き疲れた少女ではなかった。

 長く待たされ、何度も置いていかれ、それでも見つけられ、救われ、腹を立て、諦めきれずに探し続けてきた女神の顔だった。

 怒っている。呆れている。悲しんでいる。けれどそのすべての奥で、絶対に逃がさないという、静かな炎が灯っている。

 

「許さない」

 

 ヤチヨは、にっこり笑った。

 

「絶対に許さない。八千年だよ? 八千年。八千年もかぐやのそばにいて、私のそばにいて、名前も教えず、理由もろくに言わず、

 最後に触覚と味覚と温感の置き土産だけ残して、それで『じゃあ私はこれで』みたいに消えようとしてるなら、そんなの許されると思ってるのかな?」

 

 彩葉は黙って聞いた。

 八千年を見た今なら、その怒りが分かる。

 優しいのだ。

 けれど、勝手なのだ。

 助けるくせに、助けられる側になることを拒む。

 温度を置いていくくせに、自分はその温度の輪の外へ出ようとする。

 かぐやの君はずっとそうだった。だからかぐやは救われた。だからヤチヨは怒っている。

 

「探す」

 

 ヤチヨは言った。

 

「絶対探す。見つけ出して、落とし前つけさせる。名前も聞く。理由も聞く。八千年分の文句も言う。今度こそ、逃げられると思うなよ、かぐやの君」

 

 彩葉は、小さく息を吐いた。

 胸の奥で、何かが静かに決まる。

 

「私も探す」

 

 ヤチヨが彩葉を見る。

 

「彩葉」

「私も、言いたいことがある。お礼も言いたいし、怒りたい。あんなにかぐやのことを助けて、ヤチヨのことを支えておいて、自分だけ綺麗に消えようとするなら、それは違うって言いたい」

「うん」

「それに」

 

 彩葉は、少しだけ目を伏せた。

 まだ、名指しはしない。

 あの昼休みの廊下で、なぜあの言葉をくれたのか。

 どうして、彩葉がヤチヨを傷つけずに済む道を、あんなに自然な形で置いていったのか。

 偶然かもしれない。気遣いの範囲かもしれない。けれど八千年を見たあとでは、その偶然の形が、どうにも見慣れた輪郭をしている気がしてならなかった。

 

「知らないままでいたくない」

 

 ヤチヨは、しばらく彩葉を見つめていた。

 朝焼けに濡れた白銀の髪が、風に少しだけ揺れる。

 涙の跡はまだ頬に残っている。けれどその顔は、もう先ほどのように諦めてはいなかった。

 やがて、ヤチヨは扇子を広げた。

 ぱちん、と小気味よい音が、水面の世界へ響く。

 

「じゃあ決まり」

 

 その笑顔には、ようやく少しだけ、いつもの月見ヤチヨが戻っていた。

 泣いて、怒って、救われて、それでも前へ進むために笑う顔。

 

「真のハッピーエンドへの第一歩は、逃げたお節介焼きさんの捜索からですな〜☆」

「まず何からする?」

「ログを洗う。現実側の接続痕跡も見る。ツクヨミ深部へのアクセス権限、予約更新の経路、使用された端末、全部ひっくり返す」

「できるの?」

「ヤッチョを誰だと思ってるの」

 

 今度の一人称は、軽口としてのものだった。

 涙で赤くなった目のまま、ヤチヨは胸を張る。

 

「月見ヤチヨ。ツクヨミの管理人AIにして、八千年越しに推しへ再会した執念深い歌姫だよ。逃げた相手を探すくらい、朝飯前なのです」

「朝飯、食べられるようになったしね」

「うわ、今の彩葉、なかなか上手いこと言ったね」

「パンケーキだけど」

「朝飯にパンケーキ、最高じゃん」

 

 くだらない会話だった。

 けれど、そのくだらなさが、今は何より尊かった。

 二人は、残りのパンケーキを分け合った。

 最初の一口だけは最悪で、残りはちゃんと甘くて温かかった。

 ヤチヨは一口ごとに少しだけ大げさに目を丸くし、彩葉はそれを見て笑った。美味しい、甘い、温かい。そんな何でもない言葉を、二人は何度も確かめるように口にした。

 

 足元の水面には、朝焼けが広がっている。

 空はもう夜ではない。

 けれど、夜が消えたわけではなかった。八千年の夜は、二人の中にある。消えずにある。

 だからこそ、今ここに差し込む朝の光が、ただ明るいだけのものではなく、長い時間を越えてようやく届いた温度に思えた。

 物語は終わっていない。

 

 まだ見つけなければならない人がいる。

 まだ聞かなければならない名前がある。

 まだ言わなければならないありがとうと、怒らなければならない勝手がある。

 

 彩葉は、ヤチヨの隣でログの光を見つめた。

 青白い文字列が、朝焼けの水面に映って揺れている。

 その向こうに、名を知らぬ誰かの気配がある。

 男でも女でも、子どもでも大人でもあった、かぐやの君。

 八千年を越えて寄り添い続け、最後の最後まで自分を隠した、腹立たしいほど優しい人。

 

 彩葉は、まだその人の今の顔を知らない。

 けれど、探すと決めた。

 ヤチヨと一緒に。

 かぐやと一緒に。

 朝の光は、さらに強くなっていく。

 長い長い夜は、ようやく本当の続きを始めようとしていた。




・8000年インストールされた超担当さん
 なんなんだぁ今のはぁ・・・?

・のた打ち回って絶叫するユニコーンウミウシを見た彩葉
 かぐやはそんな顔しなかったじゃん(目逸らし)

・感覚再現拡張プロトコル及び味覚・触覚・温感同期モジュール
 私は漫画本のクソボケとは違う。
 見つけられる可能性を考えずにプロトコルを予約すると思うか?
 35分前に起動したよ

・クソボケがフェードアウトしようとしている事を知ったヤッチョ
 初めてですよ…ここまで私をコケにしたクソボケは…
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