受話器の向こうで、学校の事務的な応答が終わった。
「はい。家庭の都合で、一週間ほど欠席します。必要な連絡があれば、こちらで確認します」
自分の声が、思っていたより若い。
電話を切った後もしばらく、私はスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
声帯を震わせた感覚が喉の奥に残っている
学校へ欠席の連絡を入れた後、私はしばらく机の前に座ったまま、自分の手を眺めていた。
若い手だった。
爪の色がよく、関節に節くれだった硬さもなく、皮膚の下を流れる血の温度まで分かる。
指を開けば素直に開き、握れば遅れなく力が入る。
ほんの少し前まで、私の手はもっと乾いていて、骨ばっていて、血管が浮き、指先を閉じるだけでも時間をかけていたはずだった。
老いた身体には、老いた身体の速度がある。
立ち上がる前に呼吸を整え、足を出す前に重心を測り、湯呑を持つ前に指先の震えを計算する。
長い時間をかけて身体へ刻み込まれたその慎重さは、死んだからといって簡単に消えるものではないらしい。
けれど今の身体は、それを待ってくれない。
宵宮巡の身体。
かつて私自身のものだった、男子高校生の肉体。
老衰した身体から、この若い身体へ戻ってきたのだと理解はしている。
理屈では分かる。だが、理屈と感覚は別物だった。
これまでの転生は、いつも赤子から始まった。首の据わらない身体、ままならない手足、曖昧な視界、意味をなさない声。そこから少しずつ、時間と一緒に肉体へ馴染んでいけばよかった。
今回は違う。
最初から身体が出来上がっている。
歩ける。話せる。走れる。物を掴める。文字も書ける。
だが、それらすべてが、思っているより少しだけ速い。
椅子から立つ時の膝の返りが速すぎる。ドアノブへ伸ばした手が、記憶より手前で届いてしまう。
声を出せば、胸の奥で想定していたよりずっと軽い響きが喉を抜ける。
自分の身体なのに、自分より先に動く。
私は机の上に置いた湯呑へ手を伸ばした。
指先が縁を掠める。陶器がかたんと鳴った。
反射で掴んだが、今度は力が強すぎて、中の水が波打つ。零れはしなかった。けれど、それだけで十分だった。
「……慣らし運転がいるな」
独り言の声も若かった。
家庭の都合、と学校には伝えた。
間違いではない。魂と肉体の都合など、学校へ説明するにはあまりにも向いていない。
体調不良と言うのも違った。病気ではない。ただ、八千年を経て戻ってきた魂が、再び現代の身体に定着しようとしているだけだ。
歩く。
座る。
掴む。
食べる。
書く。
眠る。
どれも当たり前の動作のはずなのに、今の私は、それを一つずつ確かめる必要があった。
一週間。
それだけあれば、最低限、人前で不自然に見えない程度には整うだろう。
少なくとも、教室で湯呑を倒したり、階段で足運びを誤ったり、声の調子を間違えて周囲に余計な心配をかけたりせずに済むくらいには。
それでいい。
かぐやは、酒寄さんのもとへ届いた。
八千年を越えて、ようやく。
月見ヤチヨとして、かぐやは酒寄さんと再会した。
温度を知り、味を知り、抱きしめられる場所へ辿り着いた。
まだ完全ではない。現実の身体を得たわけではない。けれど、少なくとも、もう一人で波打ち際に取り残されているわけではない。
なら、私の役目は終わった。
そう思っている。
終わったという言葉が、冷たいわけではない。
投げ捨てるような意味でもない。むしろ、ようやく渡せた荷物を、相手の手の中に確認した時のような、静かな安堵に近かった。
あの二人には、健やかに過ごしてほしい。
酒寄さんには、自分の人生をちゃんと自分のために使ってほしい。
ヤチヨには、笑い話だけで八千年を包まなくてもいい場所を持ってほしい。
二人が同じ場所で、同じ食卓を囲み、時々くだらないことで喧嘩をして、時々馬鹿みたいに笑って、今日の続きとして明日を迎えられるなら、それでいい。
それ以上、私が何かを望む必要はない。
◆
慣らし運転の合間に、私は文書を開いた。
白い画面に、黒い文字が並んでいる。まだ論文と呼べるほど整ってはいない。
章立ても粗く、用語の統一も甘い。思いついた断片を、地球の科学体系に接続できる順番へ並べ直している途中だった。
月で見た技術。
もと光る竹。
月人の思念体と、物理身体の関係。
地球環境に適応した肉体を形成する仕組み。
感覚を返し、身体を操り、人格の連続性を保つための同期機構。
それらは月では技術だった。比喩でも神秘でもなく、実際に運用される体系だった。
けれど、月の言葉で書かれた技術は、そのままでは地球の言葉にならない。
概念が違う。前提が違う。身体を持たない存在を基準にした技術体系を、身体を持つことが当たり前の地球の科学へ落とし込むには、何段階もの翻訳がいる。
私は、それを書いていた。
完成させるつもりはない。
完成など、一週間でできるものではない。
ただ、骨組みを作る。月の概念を地球側の分野へ対応させる。
材料科学、神経工学、義体制御、感覚フィードバック、情報連続性、身体性の獲得。そうした既存の言葉で、月の技術の影を掬い上げていく。
それが、いつか誰かの役に立つかもしれない。
酒寄さんが、いつかかぐやのために現実の身体を作ろうとするなら。
その時、世界のどこかに、月の技術を地球の言葉へ置き換えようとした不完全な論文があれば、ほんの少しだけ役に立つかもしれない。
到達が早まるかもしれない。完成度が上がるかもしれない。失敗する回数が一つ減るかもしれない。
その程度のものだ。
海に流す瓶詰めのメッセージに似ている。
宛先を大きく書くわけではない。誰かの手元へ必ず届くと信じるわけでもない。
ただ、いつかどこかの岸に流れ着いた時、中に入っていた紙切れが、誰かの手を少しだけ止めるかもしれない。そのくらいの期待を込めて、硝子瓶の栓を閉める。
私がしていることは、それに近かった。
酒寄さんを導くためではない。
彼女の行き先を決めるためでもない。
まして、かぐやの身体を私が作るためでもない。
月で見たものを、私の中だけに残しておくのは惜しいと思った。
使える形へ少しでも近づけておけば、いつかどこかで、誰かの研究の一行になるかもしれない。
その誰かが、酒寄さんであるかもしれない。
そうであればいいな、と思う。
私はキーボードへ指を置いた。
打鍵がまだ少し乱れる。指が速く、意識が遅い。文字が余計に重なり、何度も消して打ち直す。それでも、書くことはできた。
月性非肉体知性体を、物理身体を本来的条件としない情報連続体として仮定する。
物理環境下で活動するためには、外部環境に適応した器官構成、器官から得られる感覚情報を返却する同期基盤、身体変化によって人格連続性が破綻しないための定着制御が必要となる。
そこまで書いて、手を止める。
感覚。
その単語が、指先に引っかかった。
味覚。
温度。
私は、それらを意図的に麻痺させた。
八千年の途中、かぐやは団子を食べられなかった。
香りも分からず、焼き立ての温かさも感じられず、人々が笑顔で食べる姿を見て、それを想像するしかなかった。
私は、彼女の隣で団子を食べた。食べていたことになっている。けれど、実際には味などなかった。
甘さも、香ばしさも、温かさも。
何も感じなかった。
そうなるようにしたからだ。
馬鹿げているとは思う。
かぐやが感じられないからといって、私まで感じないことに意味があるわけではない。
私が味を失っても、かぐやが味を得られるわけではない。私が温かさを感じなくなっても、かぐやが温かい団子を持てるわけではない。
ただ、自分だけが平然と味わうことが、どうにもできなかった。
だから、問いを投げた。
どうすれば味覚を鈍らせられるのか。
どうすれば温度感覚を遮断できるのか。
アンサートーカーは、そんな問いにも答えた。
私はその答えを実行した。
その結果、長い時間、味も温度もほとんどない世界を生きることになった。
食事は栄養になり、湯は液体になり、火傷は危険信号としてだけ残った。身体が変わるたび、同じことを繰り返した。
完全に同じ方法ではない。時代によって、身体によって、使える知識によって方法は違う。
それでも私は、かぐやの隣で同じ欠落に近づくことを選んだ。
その選択が、今になって役に立っている。
感覚再現プログラムを作る時、私は「ある感覚が存在しない状態」を知っていた。
味覚のない舌。温度を返さない皮膚。温かいはずのものを、ただ質量と接触としてだけ受け取る身体。
OFFの状態を知っていれば、ONに戻す過程を検証できる。
味を感じないところから、ほんのわずかに甘さを戻す。
温度を返さない皮膚へ、柔らかな熱を一段階ずつ与える。
触覚、温感、味覚。どの信号を加えた時に、存在が「そこにある」と認識するのか。
何を足せば、ただのデータが、食べ物になるのか。どの温度差が、抱きしめられたと感じさせるのか。
それらを、私は自分の欠落から逆算できた。
皮肉な話だと思う。
かぐやに合わせるために手放した感覚が、かぐやへ感覚を返すための足場になった。
私は文書の別窓を開いた。
感覚同期基盤に関する覚書。
まだ覚書だ。論文ではない。
まとまってもいない。だが、そこには必要な断片があった。
OFF状態からON状態への段階的復元。
感覚の強度ではなく、存在の納得を基準にしたフィードバック調整。味覚を味覚として、温度を温度として受け取るための、記憶と期待の補正。
私は、ゆっくり打ち込んだ。
感覚とは、単なる信号ではない。
信号が身体へ届き、それを経験として認めるための履歴が必要である。
非肉体知性体へ感覚を返却する際には、刺激の強度よりも、当該存在がその刺激を「自分の経験」として受け取るための同調過程が重要となる。
書きながら、ヤチヨが「あったかい」と泣いた顔を思い出した。
直接見てはいない。
だが、分かる。
きっと泣いただろう。
酒寄さんの手を握って、何度も確かめただろう。抱きしめられて、温度と重みと存在をいっぺんに受け取り、八千年分の夜が少しだけほどけただろう。
そうであればいい。
そうであってほしい。
私はそれを想像しながら、少しだけ目を閉じた。
満足とは違う。
達成感とも違う。
ただ、遠くの部屋に灯りが点いたのを、窓の外から見たような気持ちだった。自分がその部屋に入る必要はない。
中にいる人たちが、寒くないなら──私の心もほんのり熱を持ってくれるのだから。
◆
四日目には、身体の扱いが少しましになった。
歩いても、足が先走ることが減った。湯呑を倒さずに持てるようになった。
声も、思った音に近づいてきた。まだ時々、老いた身体の癖で息を深く吐きすぎる。
若い肺には、それが少し大げさに響く。
昼過ぎ、私は部屋の中を何度か往復した。
一歩、二歩、三歩。
止まる。
振り返る。
また歩く。
単調な動作を繰り返すと、身体が少しずつこちらへ寄ってくる感覚があった。
足裏が床を捉え、膝が曲がり、腰が重心を運び、肩が自然に揺れる。意識せずに動ける時間が、少しずつ長くなる。
肉体は、ありがたい。
厄介で、不自由で、時々ひどく重いが、それでも肉体は世界へ触れるための窓だ。
かぐやは、その窓を長い間持てなかった。
ヤチヨとしてツクヨミに立つことはできても、現実の雨に濡れることはできない。
パンケーキを見せることはできても、本当の生地の柔らかさや、焼き立ての温度や、口に広がる甘さを、自分の身体で受け取ることはできない。
だから、いつか。
いつか酒寄さんがそこへ向かうのなら。
その時、月の技術が地球の言葉になっていれば、少しだけ助けになるかもしれない。
私は机に戻る。
論文群は、まだ途中だった。途中でいい。
むしろ途中でなければならない、とまでは思わない。
ただ、一週間で無理に完成させるものではない。急いで形にしたものは、長く使われる足場にはならない。
今は、基礎の目次を作る。
概念を分類する。
月の言葉を、地球の研究者が笑いながらでも読める程度には整える。
私は箇条書きを増やしていった。
一、環境適応器官の生成理論。
二、非肉体知性体と義体間の双方向同期。
三、味覚・温感・触覚の段階的返却。
四、人格連続性の破綻を防ぐ定着制御。
五、長期稼働義体における感覚疲労の分散。
六、既存地球技術による代替可能領域と、不足領域の整理。
不足領域。
その言葉を打ったところで、指が止まった。
不足しているものは、多い。
素材。演算資源。倫理基準。法制度。医療的安全性。人格の扱い。誰がその身体を所有するのか。身体を得た非肉体知性体は、地球の社会でどのような権利を持つのか。
技術だけでは足りない。
酒寄さんは、たぶんそこにもぶつかる。
彼女なら、ぶつかった上で進むだろう。正しさにこだわる人だ。
誰かを踏み台にして進むことを嫌う人だ。かぐやのために走りながらも、かぐやだけを見て世界を壊すようなことはしない。
そういう人だから、月の技術は酒寄さんに渡ってほしいと思う。
渡す、というより、海へ流す瓶が彼女の岸へ届けばいいと思う。
私は文書を保存した。
画面の右下に、保存完了の表示が出る。
それだけの表示を見て、少しだけ息を吐いた。
◆
七日目の朝、雨が降っていた。
細い雨だった。
窓ガラスに細かな水滴がつき、外の景色を淡くぼかしている。
街路樹の葉は暗い緑に沈み、アスファルトは黒く濡れて、車が通るたびに薄い水の音がした。
身体は、かなり馴染んできた。
完全ではない。完全など、たぶんまだ遠い。
だが、外を歩くくらいなら問題ないだろう。
傘を持つ。鞄を肩にかける。靴紐を結ぶ。立ち上がる。玄関まで歩く。どれも、昨日より少し自然だった。
机の上には、未完成の論文群が残っている。
まだ瓶に詰めている途中の紙片。
蓋をするには早い。
それでも、最初の数枚は書けた。
月の技術を地球の言葉へ直す作業は、ようやく輪郭を持ち始めていた。
これがどこへ届くかは分からない。届かないかもしれない。誰にも読まれないかもしれない。それでも構わない。
二人が健やかに過ごしてくれればいい。
いつか酒寄さんがかぐやの身体へ辿り着くなら、その道のどこかで、ほんの少しでも足元がぬかるまずに済めばいい。
私は玄関で傘立てを見た。
傘はある。
手を伸ばしかけて、止まった。
外は雨だ。持っていくべきだ。そう分かっているのに、どうにも手が動かなかった。
理由を探せばいくらでもある。近くまでだから。小雨だから。身体の感覚を確かめたいから。雨に濡れる温度を、今の身体で確認したいから。
最後の理由だけが、少し本当だった。
温度を戻した身体で雨に濡れる。
ただ、それを確かめたかった。
私は傘を持たずに外へ出た。
雨が髪に触れる。
冷たい、とは思わなかった。
思えなかった、と言う方が正しい。
額を伝い、頬を滑り、襟元へ落ちる。その軌跡は分かる。
水滴が皮膚の上を這う感触も、濡れた前髪が少しずつ重くなることも、肩の布が水を吸って肌へ張りつく不快さも分かる。
けれど、そこにあるはずの温度だけが、綺麗に抜け落ちていた。
温感を眠らせた身体は、雨をただ水として受け取る。
重さ、湿り、流れ、布地が肌へ貼りつく抵抗。そうした情報だけが淡々と届き、そこにあるべき冷たさだけが空白のまま残る。
私はゆっくり歩き出した。
一歩ずつ、重心を確かめるように。
雨は静かに降っている。
私は、ただその中を歩いた。
役目を終えた後の、少し余った時間を、どう使えばいいのかまだ分からないまま。
それでも、身体は前へ進んだ。
◆
その日は、朝から雨だった。
細い雨だった。空全体を灰色の布で覆い、その布を指先でしぼったような、途切れず、騒がず、けれど確かに世界を濡らしていく雨だった。
校舎の窓も、駅前のアスファルトも、街路樹の葉も、通り沿いの看板も、すべてが薄い水膜をまとい、普段なら雑然と跳ね回っている街の音まで、一段低い場所へ沈み込んでいる。
雨の日の街は、輪郭がやわらかい。
信号機の赤も、コンビニの白い光も、車のヘッドライトも、水の膜を通すと少しだけ滲む。
人々は傘の下へ肩をすぼめ、足早に歩き、誰もが少しずつ自分の内側へ閉じこもっているように見えた。
彩葉はその中を、一本の傘を差して歩いていた。
正確には、日傘だった。
晴れの日に使うものとして渡されたはずの、けれど雨粒を受けても不思議とよく馴染む、あの日の傘。
かつて宵宮巡が、彩葉とかぐやのために差し出したもの。
かぐやが「日傘の人」と覚えていた、名前より先に記憶へ残った品物。
借りたままだった。
ずっと、返せないままだった。
傘の内側では、雨音がやわらかく丸まって聞こえている。
ぽつ、ぽつ、という間のある音ではなく、もっと細かな無数の粒が薄い布を叩き続ける、白い雑音のような響きだった。
耳に触れるたび、胸の内側まで湿っていく気がする。
けれど、その湿りは不快ではなかった。長い夜が明けた後に残る、まだ名前のついていない感情を、雨が静かに包んでくれているようだった。
彩葉の横には、ARのヤチヨが歩いている。
白銀の髪は雨に濡れない。衣装の裾も水を含まない。
足元の水たまりにも波紋は生まれない。
現実の雨は彼女の身体をすり抜けていくだけだ。それでも、細い雨の幕の中に立つヤチヨの横顔は、どこか本当に雨に濡れている人のように見えた。
触れられない雨に、ずっと触れたかった人。濡れることさえ、身体を持つ者だけに許された些細な特権だと、八千年かけて知ってしまった人。
その横顔を見ていると、彩葉は傘の柄を握る手に自然と力が入った。
「……いた」
ヤチヨが言った。
彩葉も、すでに見つけていた。
駅から少し離れた歩道だった。人通りの多い大通りではなく、古いビルとビルの間を抜ける細い道で、濡れた外壁には雨の筋がいくつも垂れている。
歩道の端には小さな水たまりが点々とでき、落ちる雨粒が絶えずその表面を震わせていた。
そこを、一人の少年が歩いている。
傘を持っていなかった。
制服ではない。薄い上着に、黒い鞄を肩から提げている。
髪は雨を吸って少し重くなり、前髪の先から水滴が落ちていた。
肩の布地は雨を含んで色を濃くし、鞄の革紐にも細かな雫が連なっている。
遠目にはただ雨に濡れた男子高校生でしかないはずなのに、その歩き方だけが、彩葉の目に引っかかった。
歩幅は大きくない。むしろ慎重すぎるくらいだった。
右足を出す。重心を乗せる。ほんの少し遅れて左足を引き寄せる。
肩は自然に揺れているようで、どこかぎこちない。まるで、身体という楽器の調律を確かめながら、一音ずつ弾いているみたいだった。
慣らしている。
その言葉が、彩葉の頭に浮かんだ。
老いた身体から、成長済みの若い身体へ。
八千年を経た魂が、かつて自分のものだったとはいえ、現代の男子高校生の肉体へ戻る。
そんな馬鹿げたことが起きたのなら、歩くだけでも、息をするだけでも、何かがずれるのかもしれない。
今の彼の足取りには、逃げる者の軽さよりも、戻ってきた身体の扱い方を一から思い出しているような、不器用な集中があった。
けれど。
それでも。
「傘くらい、持ちなよ」
彩葉の口から、低い声が漏れた。
責めるつもりで言ったのか、心配して言ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、濡れている背中を見た瞬間、胸の奥で何かがざらりと音を立てた。
怒りだけではない。安堵だけでもない。ようやく見つけたという震えと、そんな状態で雨の中を歩くなという苛立ちが、同じ場所でぶつかっていた。
「ほんとにね」
ヤチヨの声も静かだった。
「八千年そばにいて、雨に濡れない方法を覚えなかったのかな」
「いや、たぶん知ってるでしょ」
「知っててやってるなら、なお悪い」
その声には、笑いが少しだけ混じっていた。けれど、笑いきれてはいなかった。
ヤチヨの目は、雨の向こうの少年をまっすぐ見ている。
かつて何度も姿を変えて自分を見つけた人。
名前だけは最後まで教えなかった人。
今度は自分たちが見つける番なのだと、その瞳が言っていた。
彩葉は傘の柄を握り直した。
歩き出す。
雨音に足音が溶ける。
ローファーが水たまりの縁を踏み、制服の裾が湿った風に揺れた。
近づいていくにつれて、宵宮巡の背中が少しずつ大きくなる。
彼はまだ気づかない。あるいは、気づいていて気づかないふりをしているのかもしれない。
そういう人だ。
困っている人へは迷わず近づくくせに、自分が呼び止められる側になると、最後の一瞬まで知らない顔をする。
「宵宮くん」
彩葉が呼んだ。
少年の足が止まった。
大げさな反応ではなかった。
ただ、ほんのわずかに肩が強張り、雨に濡れた横顔がこちらへ向くまでに、一拍だけ間があった。
その一拍の中に、驚きではなく、観念に似た静かな呼吸が見えた気がした。
宵宮巡は振り返った。
濡れた髪の下、静かな目が彩葉を見る。続いて、その視線が彩葉の隣へずれた。
そこにはARのヤチヨがいる。
巡は、当然のように彼女を見た。
彩葉は一瞬、呼吸を忘れた。
ヤチヨも、わずかに目を細める。雨を透かして立つ自分の姿を、彼が迷いなく見ている。
スマコンの表示越しではない。周囲の人間には見えていないはずのARの輪郭を、彼は確かに視線で捉えていた。
「……見えてるんだ」
彩葉が思わず言うと、巡は少しだけ瞬きをした。
「完全に、というわけではないけど。視覚と聴覚に補正を入れている。そういう小技だけは得意だから」
「だけ、で済ませる話かな、それ」
ヤチヨが低く呟いた。
彩葉も同感だった。ARのヤチヨは、現実の光を反射しているわけではない。
端末が空間へ重ねている情報であり、本来なら見る側の機器を通さなければ認識できないものだ。
それを彼は、答えを組み合わせることで見て、聞いている。
普通なら驚くところだ。
けれど、数秒後には彩葉もヤチヨも、ほとんど同じような顔で息を吐いていた。
「……まあ」
「彼なら、そのくらいはするか」
二人の声が重なった。
巡は少しだけ困ったように視線を落とした。
「便利ではあるから」
「便利、で片づけるのも宵宮くんらしいね」
彩葉はそう言いながら、改めて彼の前に立った。
傘の外に出ていた巡の肩へ、雨が降り続けている。
上着の生地は色を濃くし、鞄の革紐にも水滴が連なっていた。
それなのに彼は、自分が濡れていることを、どこか後回しにしている顔をしていた。
濡れることも、寒さも、身体の不快さも、自分の中では優先順位が低いのだとでも言いたげな顔。
腹が立つ。
そういうところが、どうしようもなく。
「傘、持ってないんだ」
「降るとは思っていたけど」
「思ってたなら持ちなよ」
「……そうだね」
巡は一度だけ空を見上げた。
雨粒が睫毛に乗り、すぐに頬へ落ちる。
彼の表情は静かだったが、静かすぎるからこそ、彩葉にはその奥の疲れが少しだけ見えた気がした。
「『私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む』、と言えば言い訳になるかな?」
彩葉は目を細めた。
「チャップリンの『雨』だね」
「知っていたんだ」
「有名だから」
彩葉はそう返し、それから少しだけ声を落とした。
「でも、宵宮くんの場合、『誰かが泣いているところを見ずに済む』が正しいんじゃないかな。優しい人だものね、あなたは」
巡が、ほんのわずかに眉を動かした。
「そんなことは――」
ない、と続けようとしたのだろう。
けれど、その言葉は最後まで出なかった。
彩葉とヤチヨ、二対の瞳が同時に彼を見ていたからだ。
彩葉の瞳には、体調を崩した自分を助けてくれた日の記憶があった。
大会へ呼ばれ、狐面を受け取り、ヨミと戦い、自分の道へ押し出された記憶があった。
ヤチヨの瞳には、八千年があった。
白いウミウシだった自分を何度も見つけてくれた手、膝の上で未来の食べ物の話を聞いてくれた声、名前も理由も隠したまま、それでも隣に居続けた誰かの記憶があった。
その二つの光が、巡の謙遜を静かに否定していた。
優しくない、などと言わせない。
あなたに助けられた者がここにいる、と。
あなたのお節介で、今ここに立っている者がいる、と。
言葉にしなくても、その目が言っていた。
巡は口を閉じた。
雨だけが、三人の間で細かく鳴っている。
やがて彼は、降参するように息を吐いた。
「……そう言われると、反論が難しいね」
「難しいじゃなくて、しなくていいの」
彩葉が言う。
「私も同意見だよ」
ヤチヨが続ける。
「満場一致です。被害者兼受益者の会より、謙遜を却下します」
「会ができているんだ」
「八千年分の会員資格があります」
その軽口に、彩葉は少しだけ笑いそうになった。
けれど、まだ笑いきるには早かった。胸の奥には、雨より重いものが沈んでいる。
ヤチヨが一歩前へ出た。
ARだから、水たまりに波紋は生まれない。雨粒も彼女の髪をすり抜ける。
けれど、そこにいる。
白銀の髪を揺らし、扇子を持つ指を少しだけ強く握り、八千年かけて追いかけてきた相手を正面から見ている。
「一週間」
ヤチヨが言った。
声は静かだったが、その静けさは、よく研がれた刃のように薄く光っていた。
「家庭の都合」
巡は目を伏せた。
「間違いではないと思う」
「便利な言い方だね。どうせまた誰かのためにあくせく動いてたんでしょ?」
「……そうだね」
「否定しないんだ」
「否定できるほど、上手い理由を作れなかったんだ」
雨が降っている。
三人の間に降り続けている。
三つ子の魂百まで。
彼の場合、8000年を経てもその気質は変らないのだろう。
彩葉は、傘の柄を握る手に力を込めた。
「これ」
そう言って、日傘を少しだけ前へ差し出した。
巡が、ようやく傘を見る。
その目が、わずかに揺れた。
覚えている。
きっと覚えている。
「借りたままだったから」
彩葉は言った。
「返しに来たよ」
巡はすぐに受け取らなかった。
細い雨が、傘の縁から落ちていく。歩道の水たまりへ小さな輪が生まれ、すぐに次の雨粒で崩れた。
巡の視線は日傘に落ちている。
かつて自分が差し出したものが、今度は自分へ向けられている。その意味を、彼が理解していないはずがなかった。
「……それは、もう」
「もう?」
「返してもらうつもりはなかった」
「でしょうね」
彩葉は即答した。
その言葉は、少し鋭くなった。
けれど、刺すための鋭さではなかった。
ずっと手の中に残っていた棘を、ようやく抜くための鋭さだった。
「そういう人だもんね。貸したものも、置いたものも、助けたことも、だいたい回収する気がない。相手が助かったらそれで終わり。
自分はもう関係ありません、みたいな顔をする。日傘も、狐面も、練習相手も、感覚再現プログラムも。全部、置いたら終わりにしようとする」
巡は何も言わなかった。
彩葉は続けた。
「でも、返すよ。これは私とかぐやが借りたものだから。かぐやが日傘の人って覚えてたものだから。
あの日、あなたが名前を置いていかなかった代わりに、この傘だけが残った。だから、ちゃんと返す。返して、そのうえで話をする」
声は震えていなかった。
怒りはある。けれど、それだけではなかった。今ここで、日傘を差し出している自分の手は、責めるためだけの手ではない。
八千年の輪の外側から、ようやく名前のある場所へ相手を引き戻すための手だった。
ヤチヨが、巡を見上げる。
「受け取って」
その一言は短かった。
けれど、彩葉よりもずっと重かった。
かぐやだった頃、白いウミウシだった頃、ヤチヨになるまでの長い長い時間、その人は何度も何度も手を差し出してきた。
今度は、その手へ返す番だった。貸し借りの問題ではない。名前も理由も隠したまま積み重なった八千年に、ひとつだけ形を与えるための返却だった。
巡はヤチヨを見る。
雨粒が、彼の睫毛の先に溜まっていた。それが一つ落ちるまで、誰も動かなかった。
やがて巡は、ゆっくりと手を伸ばした。濡れた指が、日傘の柄に触れる。彩葉の手から、巡の手へ、傘の重みが移った。
その瞬間、奇妙なほど胸が鳴った。
何かが返された。
何かが戻った。
けれど、元通りになったわけではない。
返された日傘は、もう昔の日傘ではなかった。
彩葉を守り、かぐやに記憶され、ヤチヨへ繋がり、八千年の旅を経て、そして今、巡の手に戻ってきた。
一本の傘が、三人の時間を通って、別の意味を持ってしまった。
巡が傘を開く。
ぱさり、と濡れた空気の中で布が広がった。
その下に入れば、ようやく彼の肩へ落ちる雨が止まった。髪の先から落ちる雫だけが、しばらく名残のように頬を伝っていた。
「ありがとう」
巡は言った。
彩葉は少しだけ目を細める。
「それ、こっちの台詞なんだけど」
「そうかな」
「そうだよ」
「ちゃんとお礼を言われると気恥ずかしくなるから、そっちからはいいかな」
巡は本気でそう言っているようだった。
だからこそ、ヤチヨのこめかみがぴくりと動いた。
──おうワレ、それだけの理由でフェードアウトしようとしたんかい。いとおこやぞ、いとおこ。
喉まで出かかった言葉を、ヤチヨは多大な精神力で堰き止めた。
扇子を握る指に力が入る。今ここで叫んだら、たぶん止まらない。
八千年分の苦情が堰を切って溢れ、雨どころではない水量になる。それはそれで少し魅力的だったが、今はまだ、先に済ませなければならないことがあった。
ヤチヨが、改めて前へ出る。
彼女は雨に濡れない。傘の内側に入る必要もない。けれど、なぜかその姿は、傘の下へ一緒に立っているように見えた。
かつて白いウミウシだった存在。月見ヤチヨとして笑い続けた歌姫。八千年、名前を知らないまま隣にいた人を、今ようやく正面から見ている。
ヤチヨは、軽口を言わなかった。
扇子も開かなかった。
ただ、まっすぐ巡を見た。
「あなたの名前を、教えてくれますか」
雨音が、少し遠くなった気がした。
その問いは、責め言葉ではなかった。けれど、ただの質問でもなかった。
八千年分の空白が、その一文に詰まっていた。
何度も顔を変え、声を変え、時代を変えて、かぐやを見つけに来た人。
宝物を扱うように白いウミウシを持ち上げ、懐に隠し、牛車の中で月を見せ、戦の火の中へ背を向けて歩き、名前だけは最後まで教えなかった人。
かぐやの君。
ヨミ。
日傘の人。
宵宮くん。
どの名前も、彼を指している。
けれど、ヤチヨが欲しかったのは、誰かが付けた呼び名でも、ログに表示された登録名でもなかった。
本人が、自分の口で差し出す名前だった。
巡は、しばらく黙っていた。
傘を持つ手に、少しだけ力が入る。濡れた指先の水滴が、柄を伝って落ちる。
「……もう、知っているんじゃないかな」
「知ってる名前と、あなたが教えてくれる名前は違う」
ヤチヨは即座に返した。
その声は静かだった。静かすぎて、胸に刺さった。
「ログで見た名前じゃなくて、彩葉から聞いた名前じゃなくて、私が勝手に呼んでいた名前でもなくて。
あなたが、今ここで、私たちに渡してくれる名前が欲しい。八千年、私はあなたを呼ぶための名前を持っていなかった。
かぐやの君って呼んで、日傘の人って覚えて、ヨミって知って、宵宮くんって聞いて、それでもまだ、あなたからもらった名前は一つもなかった。だから、今度はあなたの口から聞かせて」
巡の表情が、わずかに崩れた。
困ったような、痛むような、どこか観念したような顔だった。
彩葉はその顔を見て、少しだけ息を呑んだ。
彼は拒もうとしているのではなかった。言わない理由を探しているのでもない。
ただ、長すぎる沈黙の後に、たった一つの名前を差し出すことの重さを、今さら量っているように見えた。
雨が傘を叩く。
細かい雨音が、三人の沈黙を包む。
やがて、巡は小さく息を吐いた。
「──巡」
雨音に紛れそうな声だった。
けれど、ヤチヨは聞き逃さなかった。
彩葉も、聞き逃さなかった。
巡はもう一度、今度は少しだけはっきりと言った。
「──宵宮巡」
その名前が、雨の中へ落ちた。
八千年かけて、ようやく届いた名前だった。
ヤチヨの瞳が揺れる。
泣くのかと思った。怒るのかと思った。笑うのかとも思った。
けれど、ヤチヨはその全部を一度胸の奥へ押し込めるようにして、ただ小さく息を吸った。
「……やっと聞けた。今度こそ、かぐやから君を見つけられたね」
その声は、ひどく柔らかかった。
柔らかいからこそ、重かった。
彩葉は、巡を見た。
「じゃあ、宵宮くん」
「うん」
「話、しようか」
巡は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……長くなりそうだね」
ヤチヨが、ようやく笑った。
その笑みには、怒りも、安堵も、呆れも、八千年分の執着も、全部混ざっていた。
月見ヤチヨの華やかな笑顔ではない。かぐやが、ようやくなくしたものを見つけた時の笑みだった。
「八千年分だからね」
「それは」
巡は言いかけて、やめた。
言えることはいくつもあったのだろう。必要だったから。
そうするしかなかったから。閉じた因果だったから。役目は終わったと思ったから。
彩葉とかぐやが笑える場所へ辿り着いたなら、それで十分だと思ったから。
けれど、そのどれも、今この雨の中で最初に言う言葉ではなかった。
彩葉は一歩近づき、傘の内側へ入った。
巡が持つ日傘の下に、彩葉も入る。ヤチヨも、見えない身体のまま、その隣に立つ。
三人分には少し小さい傘だった。肩が近い。雨の匂いがする。濡れたアスファルトの匂い、湿った髪の匂い、街路樹の葉が雨を受ける青い匂い。
日傘の下だけ、世界から少し切り取られたようだった。
「距離を置くなら」
彩葉が言った。
「次は傘、持っていってね」
巡が瞬きをする。
「……そこ?」
「そこも」
ヤチヨが続ける。
「あと、家庭の都合を使う時は、家庭に事前申請してください」
「家庭」
「かぐやの家庭はここです」
巡は困ったように笑った。
その笑いは、少しだけ今までと違っていた。
距離を置くための笑みではない。困って、観念して、それでも少しだけ救われた人の笑みだった。
「申請先が厳しそうだ」
「厳しいよ」
ヤチヨは胸を張った。
「八千年待たされたので」
彩葉は、傘の下で小さく笑った。
雨はまだ降っていた。
けれど、その雨はもう、誰かを一人で濡らすための雨ではなかった。
一本の日傘の下に、彩葉がいる。ヤチヨがいる。宵宮巡がいる。
名前は、もう聞いた。
だから、ここから先は話をするだけだ。
怒って、呆れて、問い詰めて、たぶん少し泣いて、それからまた笑う。
八千年分の話は、きっと長くなる。長くなっていい。ようやく、長く話せる場所まで来たのだから。
雨音の中、ヤチヨがぽつりと言った。
「ねえ、巡」
呼ばれた名前に、巡が少しだけ目を見開いた。
「はい」
「距離を置こうとした分、あとでこっぴどく絞るから」
「……はい」
彩葉が頷く。
「私も参加する」
「だろうね」
巡は、今度こそ小さく笑った。
その笑いに、彩葉もヤチヨも少しだけ笑った。
雨の街の片隅で、借り物だった日傘はようやく持ち主へ返された。
名前のなかった八千年の旅は、ようやく一人の少年の名前へ辿り着いた。
宵宮巡。
その名を、二人はもう知っている。
めでたし、めでたし。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ここならぬいづこの物語なり。
むかし、とある少女ありけり。
名をば、かぐやとなむいひける。
――そして、名を持たぬまま彼女の背に憑いた者が、ひとり。
◆
月の宮は、音が少なかった。
無音ではない。衣擦れの気配も、遠くを流れる光の管がかすかに震える音も、何か巨大な機構が眠りながら呼吸しているような低い響きもある。
けれど、それらはすべて、地球の雑音とは決定的に違っていた。
風が窓を叩く音もなければ、誰かが慌ただしく廊下を駆ける足音もない。
食器が触れ合う音も、雨に濡れたアスファルトの匂いも、隣の部屋から漏れる笑い声もない。
すべてが整いすぎている。
月とは、そういう場所だった。
誰も老いず、誰も飢えず、誰も汗を流さず、誰も本当の意味では急がない。
初めから答えの書かれた方程式の中を、住人たちが静かに行き来しているような場所。
光は美しく、床は清潔で、空気は澄んでいて、争いは表面化する前に処理される。
完成された水槽の中にいるみたいだと、私は何度も思った。
その水槽の中で、かぐやだけが、ひどく地球じみていた。
「はい、こっちは完了。次、継承ログの整合性チェック。姫、そっちの承認お願い。え、まだ終わってない? うそでしょ、かぐやちゃん地球基準で言ったら三徹くらいしてるんだけど?」
彼女は文句を言いながら、目の前に浮かぶ無数の光の札を次々と処理していた。
金色の髪がふわりと揺れ、白い指が空中を滑るたび、月の文字が整列し、消え、別の誰かへ引き継がれていく。
羽衣を肩に掛けられて地球の記憶を奪われた姫君は、もうそこにはいなかった。
彩葉の歌を受け取った彼女は、確かに戻ってきていた。
私は、その背後にいた。
幽霊と言えば近いのかもしれない。背後霊と言えば、もっと近い。
身体はなく、声も届かず、触れることもできない。
ただ、彼女のそばにいる。彼女が振り返っても、そこに私の姿はない。彼女が疲れて机に突っ伏しても、その肩を叩くことはできない。
それでも、私はそこにいた。
月へ帰る彼女についていくと決めた時、何ができると思っていたわけではない。
ただ、あのまま見送ることができなかった。
彩葉とハッピーエンドにしたいと、太陽みたいな顔で願った彼女が、月の静謐に沈んでいくのを、地上から眺めているだけでは済ませられなかった。
お節介という言葉は便利だ。
自分の身勝手に、多少まともそうな名前を与えられる。
「……彩葉」
月での仕事の合間、かぐやは何度もその名前を呟いた。
誰に聞かせるでもない声だった。
光の札が並ぶ部屋の片隅で、引き継ぎ用の記録を整理しながら。
地球時間との誤差を計算しながら。時間遡行の経路を検証しながら。
彼女は何度も、同じ名前を呼んだ。
「待っててね、彩葉。いや、待ってなくてもいいけど。忘れててもいいけど。かぐやは行くから。何年かかっても、何十年かかっても、絶対行くから」
私は彼女の少し後ろで、その言葉を聞いていた。
届かないと分かっていても、返事をしたくなる。
大丈夫だ、と言いたかった。
彩葉は、たぶん待つ。
待つという形ではなくても、きっと歌う。
彼女の時間を止めることはできないし、止めるべきでもない。
けれど、かぐやという名前が彼女の中から消えることはないだろう。あの歌が届いたのなら、もう十分すぎるほど答えは出ている。
だが、私は何も言えない。
だから、黙って見ていた。
数十年、月の時間で。
月における数十年は、地球のそれとは違っていた。
季節で区切られず、花が咲いて散ることもなく、誰かが髪に白いものを増やすわけでもない。
けれど、仕事は確かに積み重なった。
かぐやは月側の責務を片付け、残すべきものを残し、誰かに託すべき権限を託し、地球へ向かうための準備を整えていった。
その間、私は月の技術を見続けていた。
月人は肉体を持たない。
思念体として存在し、必要に応じて身体を得る。
地球の人間から見れば神秘や霊魂の領域に見えるものが、月ではごく当たり前に技術として扱われている。
もと光る竹は、その象徴だった。
環境を読み、乗員に適した器を形成し、感覚と運動と記憶を接続する。肉体を作る装置であり、同時に、存在を世界へ翻訳する装置でもある。
美しい技術だった。
危うい技術でもあった。
私はそこに、何度も目を奪われた。
直接触れられないからこそ、余計に細部を見た。
かぐやが調整する画面、月の技官たちが扱う概念、思念体と物理身体を結ぶ同期層、擬態機能の安全装置、時間遡行時の外殻保護。
その一つ一つが、地球の科学とはまったく違う場所から伸びた枝のようで、それでいて、いつかどこかで地球の技術と接ぎ木できる可能性を感じさせた。
そんなことを考えている自分に、時々呆れた。
私は何をしているのだろう。
彼女のそばにいるだけでいいはずなのに。
何もできない背後霊であるはずなのに。どうして私は、目の前の別れや再会だけでなく、その先にある技術の形まで見ているのか。
たぶん、癖なのだと思う。
困っている未来が見えると、そこに置ける足場を探してしまう。
それが役に立つかどうかも分からないのに。
「よし」
ある日、かぐやはそう言った。
月の宮の奥、もと光る竹の格納層でのことだった。
光を吸った竹のような外殻が、静かに浮かんでいる。
地球で見た竹よりもずっと無機質で、けれど不思議と生命じみていた。節に似た構造の内側で、淡い光が脈打っている。
かぐやはその前に立ち、両手を腰に当てた。
「全部終わり。引き継ぎも、承認も、後始末も、月の偉い人たちへの嫌味返しも。かぐやちゃん、完璧」
誰もいない格納層で、彼女は胸を張った。
私はその後ろに立っていた。
いや、立っているという表現は正しくない。身体がないのだから。けれど、私の意識は確かに彼女の背後にあった。
「……行くよ、彩葉」
かぐやの声は小さかった。
先ほどまでの軽口が嘘のように、静かで、まっすぐだった。
「大遅刻かもしれないけど。時間、ちょっとばかし無茶するけど。それでも行く。だって、歌が届いたもん。彩葉が呼んでくれたもん。だったら、かぐやが行かない理由なんてない」
その言葉に、私は何も返せなかった。
返せるなら、言っていたかもしれない。
無茶はほどほどに、と。
だが、かぐやにそれを言う資格が、私にあるのかどうかは分からない。
私自身、無茶をしてここにいる。肉体を置いて魂だけで月までついてきた者が、彼女へ慎重さを説くのは、さすがに少し滑稽だった。
もと光る竹の外殻が開く。
淡い光があふれ、かぐやの身体を包み込んだ。
私はその光の後ろへ、吸い込まれるようについていった。
◆
出発は静かだった。
月から地球へ向かう旅路は、地球人が想像するような轟音を伴わない。
爆炎も振動もなく、ただ空間の座標が滑り、時間の層がめくられ、進むべき方向へ光が折り畳まれていく。
もと光る竹の内部は白く、柔らかな光に満たされていた。壁も床も天井も、はっきりとした境界を持たない。まるで巨大な繭の中にいるようだった。
かぐやは中央に立ち、無数の光の糸を操作していた。
「時間遡行アルゴリズム、補正値再計算。地球側基準時刻、彩葉の歌唱時点を基準に再接続。環境適応機能、地球人型義体生成プロトコル準備。えーっと、これでよし。たぶんよし。いや、絶対よし。かぐやちゃん天才」
彼女は自分を励ますように言いながら、光の束へ指を走らせる。
私は、その背後で計算の流れを見ていた。
美しい。
そう思った。
時間を遡るという行為は、力任せに過去へ飛び込むことではない。
月の技術では、それは糸を通す作業に似ていた。
無数に重なる可能性の布目から、目的の時代へ繋がる細い穴を見つけ、そこへ針を通す。
少しでも角度を誤れば、糸は別の層へ滑る。けれど、かぐやの計算は緻密だった。危うさはあっても、雑ではない。
だから、本来なら問題はなかった。
問題にならないはずだった。
衝突は、ほとんど無音だった。
最初に来たのは、光の歪みだった。
白い船内の一部が、波紋のように捩れる。次いで、空間全体が鈍く軋んだ。
音というより、概念の骨がきしむような感覚だった。身体のない私でさえ、意識の輪郭を引っ張られるような不快感を覚えた。
運命の刻が来てしまったのだ。
「……え?」
かぐやが顔を上げる。
次の瞬間、光の糸が一斉に乱れた。
外部衝撃。
隕石。
時間遡行層への干渉。
言葉になる前に、答えだけが頭の中へ落ちてくる。
アンサートーカーが、私に状況を突きつけていた。
だが、答えが分かっても手は出せない。私は触れられない。警告もできない。身体のない私にできることは、ただ見ていることだけだった。
「嘘、嘘嘘嘘、待って、今そこに来る!? 今!? なんで!? いや、回避――」
かぐやの指が光を掴む。
遅い。
いや、彼女が遅いのではない。
事態の方が速すぎた。隕石との衝突そのものは、もと光る竹の外殻なら耐えられる程度だった。
だが、その衝撃が、時間遡行の最も繊細な箇所へ入った。針に糸を通している最中、横から台を蹴られたようなものだった。
世界が折れる。
そう思った。
船内の光が白から青へ、青から赤へ、赤から何色ともつかない暗い輝きへ変わる。
時間の座標が滑り落ちていく。到着すべき時代の輪郭が遠ざかる。
彩葉のいる時間が、目の前で細い線になり、それがさらにほどけて見えなくなる。
「彩葉!」
かぐやが叫んだ。
その声だけが、船内に鮮明に響いた。
私は彼女の背に手を伸ばそうとした。
触れられないと知っているのに。
それでも伸ばした。
指は、光を掴めなかった。
次の瞬間、もと光る竹は時間の底へ落ちた。
◆
落下に時間があったのかどうか、私には分からない。
長かった気もする。一瞬だった気もする。
光が渦巻き、音が消え、方向という概念が意味を失う。かぐやの姿が見えた。
見失った。また見えた。彼女は必死に制御を戻そうとしていた。頬に焦りが浮かび、唇が何度も彩葉の名前を形作っていた。
そして、衝撃。
海。
塩の匂い。
波の音。
気がついた時、世界はすでに地球だった。
ただし、私たちの知る時代ではなかった。
もと光る竹は、八千年前の日本近海へ不時着していた。
外殻は生きていた。
さすが月の技術と言うべきか、完全には砕けていない。
だが、内部機能の多くは死んでいた。時間遡行機構は沈黙し、通信は届かず、自己修復も十分ではない。そして何より、擬態機能が壊れていた。
かぐやに身体を与えるはずの機能が。
「……ああ、ドジっちゃったなぁ」
彼女の声は、最初だけ聞こえた気がした。
いや、それは実際の声ではなかったのかもしれない。
思念の揺れだったのかもしれない。
私には判別できなかった。なぜなら、その時点で私自身の意識もひどく不安定だったからだ。
身体のない魂は、衝突の余波で裂けかけていた。
かぐやのそばに留まろうとする意志だけが、かろうじて私を形にしていた。
だが、もと光る竹の破損した外殻は、私を乗員として認識していない。
保護もされない。足場もない。地球の重力に縛られる身体もなければ、月の技術へ接続する権限もない。
私は、海鳴りの中でほどけていった。
かぐやが叫んでいる。
声は出ていない。
それでも、叫んでいるのが分かる。
自分の身体がないことに気づき、声が出ないことに気づき、ここから離れられないことに気づき、死ぬことすらできないことに気づいていく。
理解するたびに、彼女の思考はむしろ澄んでいった。混乱ではなく、整理。整理されてしまうからこそ、逃げ場のない絶望へ辿り着く。
やめろ、と思った。
それ以上、分からなくていい。
分かってしまえば、壊れる。
だが、私は何もできなかった。
かぐやは、ゆっくりと時間をかけて絶望していった。
最初の数日には、まだ希望があった。
船が直るかもしれない。月から誰かが迎えに来るかもしれない。彩葉の時代へ戻れるかもしれない。そういう細い糸が、いくつも彼女の中に残っていた。
一年経っても何も変わらなかった。
二年経っても。
三年経っても。
海は青く、空は広く、星々は何事もなかったように瞬いていた。
世界は少しも変わらない。変わっていくのは、いつだって彼女だけだった。砂浜へ打ち寄せる波が岩を削るように、誰にも気づかれないまま、かぐやの心も少しずつ形を失っていった。
その間、私はどこにいたのか。
正確には分からない。
時々、かぐやの近くにいた気がする。
波音の向こうで、彼女が彩葉の歌を繰り返すのを聞いた。時々、ひどく遠くへ流された気がする。
まだ名前もない集落の火の匂い、木の実を拾う子供たちの声、獣の骨で作った道具、海辺を歩く人々の足跡。そうした断片が、夢のように私を通り過ぎた。
私は魂のままでは長く留まれなかった。
この時代の輪廻へ、少しずつ引き寄せられていく。
それでも、意識の底には一つだけ残っていた。
かぐやを見つける。
どこにいても。
どんな形になっても。
もう一度、彼女を見つける。
◆
目を開けた時、私は子供だった。
十歳になるかならないかの少年。
日に焼けた腕。細い指。膝には擦り傷があり、足の裏は硬く、腹はよく空いた。言葉はこの時代の言葉になっていた。家族もいた。名前もあった。日々の暮らしもあった。
だが、その奥に、別の記憶が沈んでいた。
月の白い光。
かぐやの背中。
もと光る竹。
隕石。
海。
そして、声にならない声。
最初は夢だと思った。
子供の身体に、大人どころか八千年の始まりを知る魂が収まっている。
そんなもの、まともな形で意識できるはずがない。
日々の暮らしに引っ張られ、目の前の食事や遊びや家の手伝いに気を取られ、記憶は眠ったり浮かんだりを繰り返した。
けれど、海へ近づくと、胸が痛んだ。
波の音を聞くたび、誰かが呼んでいる気がした。
歌が聞こえる時があった。
言葉は遠い。
けれど、旋律だけは分かった。
この一瞬を、最高の、パーティにしよ。
そんな意味を持つ歌だった。
私は何日も海岸へ通った。家の者には貝を拾うと言った。
魚を見ると言った。波打ち際に落ちている珍しいものを探すのだと言った。
嘘ではない。私は探していた。誰にも説明できない何かを。
その日も、海はよく晴れていた。
空は高く、雲は薄く伸び、波は光を砕きながら砂浜へ寄せていた。
潮の匂いが鼻に強く、足の裏に湿った砂の感触がまとわりつく。
遠くで鳥が鳴き、浜辺に打ち上げられた海藻が陽に温められて、青臭い匂いを放っている。
私は耳を澄ませた。
波の音。
風。
鳥。
それから。
歌。
かすかな歌だった。
実際の音として聞こえているのか、頭の奥へ直接触れているのか、少年の私には分からなかった。
ただ、確かにそこにあった。何百回、何千回も繰り返され、擦り切れ、それでも消えずに残った歌。
私は歩き出した。
砂を踏む音がする。
一歩。
もう一歩。
胸の奥が強く鳴っている。
自分のものとは思えない鼓動だった。
少年の小さな身体には大きすぎる記憶が、波に揺すられて目を覚まそうとしている。
そして、見つけた。
白いものが、波打ち際にいた。
掌に収まるほど小さな、白いウミウシだった。
柔らかな身体を震わせるようにして、こちらを向いている。
月の姫だった面影など、そこにはない。金色の髪も、人型の義体も、太陽みたいな笑顔もない。
けれど、分かった。
分からないはずがなかった。
彼女だ。
かぐやだ。
「待って!」
小さな身体から、声がした。
少年の私には、ひどく不思議な光景だったはずだ。ウミウシが喋るなど、この時代のどんな昔話にもない。
普通なら驚いて逃げる。家へ帰って大人を呼ぶ。棒で突く者だっているかもしれない。
けれど、私は逃げなかった。
驚きも、恐怖も、遅れてやってくる前に、もっと大きな安堵が胸を満たしていた。
見つけた。
ようやく。
私はゆっくりしゃがみ込んだ。
白いウミウシがこちらを見ている。
必死だった。怯えていた。置いていかれまいとして、たった一つ残った声を振り絞っている。
長い時間、誰にも届かなかった声。海へ流した瓶詰めの手紙が、ようやく誰かの足元へ流れ着いた瞬間だった。
私は息を吸った。
胸が痛い。
少年の肺には入りきらないほどの感情が、喉元まで込み上げてくる。
月で見た背中。船内で聞いた叫び。海辺でほどけていった意識。
何年も、何年も、誰にも届かず歌い続けた彼女の孤独。それらが一度に押し寄せて、言葉が詰まりそうになった。
それでも、言わなければならなかった。
彼女には聞こえないくらいの、小さな声で。
「……やっと見つけた」
口にした瞬間、自分の中で何かが定まった。
この子供の人生が何年続くのかは分からない。
この身体で何ができるのかも分からない。
けれど、今はそれでよかった。
私は小さなウミウシを見つめた。彼女はまだ、私が誰なのか知らない。
これからも、私はきっと名乗らない。名乗れば、この輪がどう変わるのか分からないから。何より、今の彼女に必要なのは、答えではなく、隣にいる誰かだった。
「大丈夫」
私は、今度は彼女にも届く声で言った。
この時代の言葉で。
それがどれほど通じたかは分からない。
かぐやは月人だから、いずれ言葉を解くだろう。だが、今この瞬間に届くものは、言葉の意味だけではないはずだった。
「ここにいる」
私は手を伸ばした。
触れるべきか迷った。白い身体はあまりに小さく、波が少し強く寄せれば攫われてしまいそうだった。
けれど、怖がらせたくもなかった。だから、まず掌を砂の上に置いた。来るかどうかは彼女が決めればいい。
ウミウシの触角が、わずかに揺れた。
波が寄せる。
砂が湿る。
遠くで鳥が鳴く。
長い長い物語の始まりにしては、あまりにも静かな浜辺だった。
けれど、私には分かっていた。
ここから始まる。
八千年が。
別れと再会が。
数え切れない名と、教えられない名が。
かぐやがヤチヨになるまでの時間が。
彩葉の歌へ戻っていく輪が。
私は白いウミウシを見つめながら、少年の小さな胸で、静かに息をした。
そしてもう一度だけ、心の中で呟いた。
見つけたよ、かぐや──
・ストックが無くなったから今日の投稿はムリぽよと言ったな
あ れ は 嘘 だ
その日に投稿文書き上げればええねんという脳筋プレイ
・「──巡」、「──宵宮巡」
劇団ひとりが、名前言った後にフルネーム言えばだれでもかっこよくなるって言ってたから……
・いとおこ
「私は今かなり怒っていますが、まだ言葉を選んであげています」の意
・めでたし、めでたし
と思っていたのか?
次回の話はクソボケ折檻回です
・浜辺のラストシーン
【挿絵表示】