もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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オイオイオイ死ぬわアイツ

 酒寄朝日は、妹の部屋の扉を開けた瞬間、自分が保証人として想定していた責任範囲の外側へ、片足どころか全身を突っ込んだことを悟った。

 外はまだ雨だった。

 タワーマンションの共用廊下には、雨音そのものは届かない。

 分厚い壁と床、整えられた空調、磨き込まれた石材の床が、外界の湿気やざわめきを綺麗に切り離している。

 だが、窓の向こうに見える街は灰色に濡れていて、遠くの道路を走る車のヘッドライトが、水を含んだ空気の中でぼんやり滲んでいた。

 

 ここは彩葉の部屋だ。

 かつて、世紀の竹取合戦の後、ヤチヨカップで優勝した彩葉に、朝日が何をしてほしいかと尋ねた時、妹は少し迷った末に、この住まいの保証人になってほしいと言った。

 あの時の彩葉の表情を、朝日はよく覚えている。

 頼ることに慣れていない妹が、それでも自分の生活を変えるために差し出した、ひどく不器用で、ひどく切実な願いだった。

 

 だから、保証人になった。

 兄として。

 ブラックオニキスの帝アキラではなく、酒寄朝日として。

 妹が、薄い壁の部屋で食費を削りながら眠る日々から離れ、きちんと鍵の掛かる場所で、きちんと朝を迎えられるようになるなら、それでいいと思った。

 管理会社からの連絡や、契約書類や、身元確認や、そういう現実的な面倒ならいくらでも引き受けるつもりだった。

 

 だが。

 保証人とは、こういう現実まで保証する仕事だっただろうか。

 リビングの床に、青年が正座していた。

 彩葉と同じくらいの年頃に見える。濡れていたらしい髪はタオルで拭かれた後なのか、ところどころ跳ねていて、肩にはまだわずかに湿り気が残っている。

 服は部屋着に替えられているが、着慣れている様子はない。

 背筋は真っ直ぐで、膝の上に置かれた両手には、光沢の鈍い手錠が掛けられていた。

 

 手錠。

 朝日はそこで一度、思考を止めた。

 もう一度見る。

 やはり手錠だった。

 

 玩具にしては嫌に存在感があり、冗談にしては青年の姿勢が丁寧すぎる。

 リビングの低いテーブルの上には紙とペンが置かれ、紙の上には整った字で『八千年分の無断離席について』と題が記されていた。

 その横には、赤いペンで誰かが書いたらしい『反省文・第一部』の文字がある。

 

 第一部。

 つまり続きがある。

 朝日は、玄関からリビングへ一歩踏み出したまま、数秒ほど固まった。

 彩葉の姿は見えない。キッチンにもいない。洗面所の方から物音がするわけでもない。

 おそらく席を外しているのだろう。部屋には、手錠をかけられ正座している青年と、自分だけがいる。

 

 妹の一人暮らしの部屋。

 同年代の男。

 手錠。

 正座。

 反省文。

 第一部。

 兄の心境を百文字以内に述べよ。

 

 ──妹の部屋に同い年くらいの男が手錠で正座……彩葉、説明してくれへん?兄ちゃん、保証人にはなったけど、監禁じみた青春まで面倒見るとは聞いてへんえ。ブラックオニキスとしてもえらい困るんや。なんでやねん。

 

 声には出さなかった。

 出さなかったが、概ねその通りだった。

 朝日はゆっくり息を吸い、吐く。

 深呼吸をしたところで、部屋の中央に正座する青年が消えるわけではない。

 手錠が外れるわけでもない。妹の倫理観が今日この瞬間だけ雨で滑って転んだのだと説明されても困るし、逆に日常的にこうなのだと説明されてももっと困る。

 

 青年が朝日の存在に気づき、顔を上げた。

 目が合う。

 不思議な目だった。怯えてはいない。焦ってもいない。

 助けを求めるには落ち着きすぎていて、諦めるにはどこか淡々としている。

 まるで、この状況もまあ仕方がない、と一度受け入れた上で、それでも好転するならありがたい、くらいの温度で朝日を見ている。

 

「……こんにちは」

 

 青年はぺこり、と頭を下げて丁寧に言った。

 その声にも切迫感はなかった。

 少なくとも、監禁されている人間の第一声としては穏かすぎる。

 

「こんにちは、やあらへんと思うんやけど」

 

 朝日は思わず返した。

 

「君、誰?」

「宵宮巡です」

「宵宮くん」

「はい」

「なんで手錠されて正座してるん?」

 

 青年――宵宮巡は、一拍だけ考えた。

 その間に、彼の視線がほんの少しだけ宙へずれた。

 誰もいない空間を見るような、あるいはそこに誰かがいる前提で確認を取るような視線だった。

 だが朝日には何も見えない。普段からスマコンを装着しているわけでもないし、AR表示を常態化させる趣味もない。

 だから、その視線の先には、雨に濡れた窓の反射と、白い壁があるだけだった。

 

「色々あって」

「色々、で手錠まで行くことある?」

「普通はないと思います」

「よかった、そこを普通やないて思える常識は持ち合わせてるんやね」

「はい」

 

 会話が平坦だった。

 あまりにも平坦だった。

 朝日は、自分の眉間に皺が寄っていくのを感じた。

 この青年は、状況を理解している。

 自分がかなり異様な姿で妹の部屋にいることも、兄に見つかった場合どう見えるかも、たぶん分かっている。それなのに、取り乱さない。

 

 その落ち着きが、逆に怖い。

 と、そこで巡がわずかに目を伏せた。

 ほんの一瞬、考える顔だった。

 次いで、彼の表情が変わる。

 目尻が少し下がり、もともと静かな顔立ちが、どこか人畜無害な小動物めいて柔らかくなる。

 眉の角度が控えめに緩み、視線が真正面から少しだけ斜め下へ落ちた。

 

 タレ目気味。

 朝日の思考の片隅で、妙に冷静な言葉が浮かんだ。

 その瞬間、酒寄家の血に刻まれた何かが、非常に嫌な音を立てて反応した。

 タレ目。

 まずい。

 酒寄家にとって、それはだいぶまずい。

 彩葉にとってのかぐやしかり、朝日にとっての駒沢乃依しかり、母である紅葉の亡き夫しかり、なぜか酒寄家の人間は、タレ目に対して防御力が低い。

 好みと言えばそれまでだが、もはや家系単位の弱点に近い。

 ブラックオニキスとしてどれほど鉄壁の戦術を組もうが、血筋に刻まれた急所というものはどうにもならない。

 

 宵宮巡は、たぶんそれを知らない。

 いや、知らないはずだ。

 だが、その表情はあまりにも的確だった。

 まるで、見えない何かが最適解を告げ、それを淡々と実行したように。

 

「酒寄さんのお兄さんですよね」

「……まあ、せやけど」

「できれば、この状況が少しだけ穏便な方向に向かうよう、助力してもらえると助かります」

 

 切実ではない。

 命乞いでもない。

 どうか助けてください、という悲壮感はどこにもない。

 ただ、雨の日に傘を貸してもらえたらありがたい、くらいの声音だった。

 今の状態が劇的に改善されなくても受け入れるが、もし多少ましになるならそれは助かる、という程度の緩いお願い。

 

 だからこそ、余計に始末が悪かった。

 朝日は、胸の奥で何かがぐらりと揺れるのを感じた。

 タレ目気味の同年代男子が、手錠をかけられたまま正座し、淡々と「助力してもらえると助かります」と頼んでくる。

 絵面が強い。

 倫理的には最悪なのに、庇護欲だけを妙に正確に突いてくる。

 

 朝日には見えていないが傍にはARのヤチヨが控えていた。

 タワマンの彩葉の部屋に住み着いている座敷童的な電子の歌姫である。

 表情は笑顔のまま凝り固まっている。

 ヤチヨは対朝日用に巡が使用した仕草に対して笑顔のまま、内心穏やかではなかった。

 

 ──はぁ~☆ くっそあざといな、かぐやの君。心のヤッチョがイラつくんですけど~☆

 

 貞操感が超ムリ限界ギリであった。

 そんな電子の歌姫の内心と姿など視界には無い朝日が続ける。

 

「……君」

「はい」

「今、わざとその顔した?」

 

 巡は少しだけ目を瞬かせた。

 

「最適解に従いました」

「何の?」

「この状況を、できるだけ穏便にするための」

「それでタレ目なん?」

「効果があると出たので」

 

 朝日は天井を見上げた。

 やめてほしい。

 そういう精度で妹の兄を攻略しないでほしい。

 ブラックオニキスとして、相手の癖や弱点を読む戦術は嫌いではない。

 むしろ得意分野だ。だが、自分が読まれる側になり、しかも酒寄家共通の弱点を無自覚に踏み抜かれると、こんなにも釈然としないものなのかと、朝日は新鮮な敗北感を覚えた。

 

「……とりあえず」

 

 朝日は低く言った。

 

「何があったか説明してくれへん? 彩葉が戻る前に、最低限、俺が警察を呼ぶべきか、弁護士を呼ぶべきか、兄として頭を抱えるだけで済む話なんか判断したい」

「警察は、たぶん不要です」

「たぶん」

「弁護士も、現時点では不要かと」

「現時点では」

「お兄さんが頭を抱える可能性は高いです」

「そこは高いんやな」

「はい」

 

 巡は静かに頷いた。

 その素直さが、また朝日の判断力を鈍らせる。

 悪い人間には見えない。少なくとも、妹の部屋で手錠をかけられている側としては、あまりにも行儀が良い。

 正座の姿勢も崩さず、声を荒げず、言い訳を並べない。普通の男子高校生ならもっと混乱しているはずだ。あるいは、もっと必死で自分の潔白を訴えるはずだ。

 

 だが、宵宮巡はそうしない。

 困ってはいるが、困り果ててはいない。

 助けを求めてはいるが、救命ではなく改善要望くらいの温度だ。

 その妙な落ち着きが、朝日の警戒心を完全には解かせなかった。

 同時に、タレ目気味の顔が、警戒心の端をじわじわ削ってくる。

 非常にずるい。

 

「……彩葉、ほんま何に巻き込まれてん」

 

 朝日は小さく呟いた。

 その時、廊下の奥から足音がした。

 彩葉の足音だ。

 この部屋の主が戻ってくる。

 朝日は、正座したままの青年と、手錠と、反省文と、先ほどまで自分の心を揺らしたタレ目気味の表情を順番に見た。

 そして、兄として、保証人として、帝アキラとして。

 とりあえずこの場を見なかったことにはできない、と深く悟った。

 

 

 時刻は、一時間ほど巻き戻る。

 雨の街角で、借り物だった日傘がようやく持ち主の手へ返り、八千年分の沈黙を越えて、宵宮巡という名前が二人の前へ差し出された直後のことだった。

 

 そこまでは、確かに綺麗だった。

 細い雨が降っていた。

 濡れたアスファルトは鈍い鏡のように街灯を映し、傘の内側にこもる雨音は、誰かが遠くで小さく拍手をしているようにも聞こえた。

 日傘の下に彩葉がいて、ヤチヨがいて、巡がいた。

 名前は聞けた。日傘も返せた。八千年の旅は、ようやく一人の少年の名前へ辿り着いた。

 

 めでたし、めでたし。

 そう締めれば、美しかった。

 だからこそ、彩葉は思った。

 綺麗に終わらせてたまるか、と。

 

「宵宮くん、部屋に来て」

 

 彩葉が言った時、巡はほんの少しだけ瞬きをした。

 雨に濡れた前髪は、日傘の下に入ってからもう新しい雫を受けていない。

 それでも髪の先にはまだ水気が残り、頬の輪郭へ薄く影を落としていた。

 現代の身体へ戻って間もないせいなのか、彼の立ち方にはわずかな不安定さがある。けれどその目だけは、いつもと同じように静かだった。

 

「話をする、という意味で合っているかな、酒寄さん」

「うん。話をする」

 

 彩葉は頷いた。

 ヤチヨがその横で、にこりと笑う。

 

「八千年分ね」

 

 巡はヤチヨを見る。

 アンサートーカーによる視覚と聴覚の補正。

 そこにいるはずの情報を組み立てているだけだと、雨の中で彼は言った。

 普通なら「だけ」で済ませていい話ではない。けれど、巡が当然のようにヤチヨへ視線を向ける姿は、もう不思議なほど自然に見えていた。

 

「かぐや」

「うん。今その呼び方をされると、ヤッチョの情緒が浴衣の帯みたいにほどけ散るので、いったん保留ね」

「風前の灯みたいな情緒になってるんだね」

「それはもう、巡が選択肢を間違えた時点でヤッチョの情緒はさらば~い☆ だよ? ……言葉に気を付けてね」

 

 ヤチヨは笑っていた。

 笑っているのに、目が笑っていなかった。

 巡はその笑顔を見て、ほんのわずかに表情を引きつらせた。

 八千年付き合ってきた相手だからこそ分かるのだろう。

 今のヤチヨの笑みは、配信者がカメラへ向ける愛嬌ではない。

 かつて白いウミウシだった少女が、ようやく目の前に現れた逃亡未遂犯へ、丁寧に逃げ道を塞いでいく時の顔だった。

 有り体に言えば捕食者の顔である。

 

 タワーマンションのエントランスへ入ると、雨音は一気に遠ざかった。

 分厚いガラス扉が閉まり、外の湿った空気が背後に切り離される。

 磨かれた床は白い照明を反射し、天井の間接光は静かで、外の街の混乱も、細い雨も、ここには届かない。

 彩葉はカードキーを握る指に力を込めながら、隣を歩く巡をちらりと見た。

 巡は返された日傘を丁寧に畳んでいる。濡れた布の先を下へ向け、床を汚さないようにしていた。

 

 そういうところが、腹立たしい。

 黙っていなくなろうとした人間が、床の水滴には気を遣う。

 感謝を受け取る前に距離を置こうとした人間が、他人の建物のマナーは守る。

 八千年も名前を隠した人間が、日傘を畳む手つきだけはやけに綺麗だ。

 

 エレベーターの中で、三人はほとんど話さなかった。

 階数表示だけが、無機質に上へ上へと数字を変えていく。

 箱の中は狭く、鏡面の壁には彩葉と巡の姿だけが映る。ヤチヨはARだから、鏡には映らない。

 それでも彩葉の視界には、白銀の髪の少女が確かに隣に立っていた。

 

 彩葉の胸の中では、言葉が渋滞していた。

 ありがとう。

 無事でよかった。

 でも、馬鹿。

 どうして。

 どうして、一人で居なくなろうとしたの。

 

 巡は隣で静かに立っている。

 たぶん、怒られることは分かっている。

 けれど、自分がどれほど怒られていい人間なのかまでは、まだ分かっていない。

 そこが、彩葉には分かった。分かってしまったから、余計に腹が立った。

 ヤチヨと目配せをする。八千年分の記憶を共有した二人はアイコンタクトのみで思考を共有することが出来た。

 

 部屋の前に着く。

 カードキーをかざすと、電子錠が軽く鳴った。

 扉が開く。

 

「どうぞ」

「お邪魔します」

 

 巡はそう言って、玄関へ足を踏み入れた。

 その瞬間だった。

 

「手、出して」

 

 彩葉が言った。

 

「……酒寄さん?」

「手」

「今?」

「今」

 

 巡は靴を片方脱ぎかけた姿勢のまま、しばし固まった。

 雨の残り香をまとった玄関に、妙な沈黙が落ちる。

 外から持ち込まれた湿気と、部屋の中の暖かい空気が混ざり、玄関の照明が三人の影を足元に薄く落としていた。

 

 彩葉の手には、銀色の手錠があった。

 彩葉の手には──銀色の手錠があった。

 

「……???」

 

 疑問が増殖する。

 自身の理解の範疇外の事が目の当たりになると人はフリーズする。

 巡もご多分に漏れず思考が一瞬だけ停止した。

 

 かぐやがライバー時代、配信用に買い込んだ雑多な小道具の一つ。

 安全装置付きで、鍵がなくても外せるおもちゃに近いものだが、見た目だけはやけに本格的だった。

 狐耳や巨大サングラスや光るマラカスと同じ箱に入っていたとは思えない、無駄に説得力のある金属光を放っている。

 

 巡はそれを見た。

 それから彩葉を見た。

 最後に、ヤチヨを見た。

 とても良い笑顔で巡を見つめていた。穴が開くのではと思うくらいには。

 

「展開が早すぎないかな」

「まあ今どきは何もかものスピードが速いんですわってヤチヨが」

「ヤッチョは絵面の説得力が大事だと思うのです」

 

 ヤチヨがにこやかに補足した。

 

「玄関開けて三秒で手錠。げに痛快。逃げる余地も言い訳を整える暇もない。八千年無断同行、名前未提出、理由未説明、感覚再現プログラム置き土産、家庭の都合による煙幕休暇。

 これだけの罪状がある人に対して、普通にリビングへ案内してお茶を出すのは、こちらの怒りの見えざま、いささか薄し☆」

「罪状の読み上げが玄関で始まっている」

「始まってるよ、宵宮くん」

 

 彩葉は手錠を軽く持ち上げた。

 

「大丈夫。安全装置付き。痛くしない。鍵も見えるところに置くから」

「問題は痛みじゃなくて、状況がかなり社会的にアウトな方向へ転がってることだと思うんだけど。

 酒寄さんの部屋に入った瞬間、同年代の男子が手錠をかけられてる絵面って、説明の順番を一歩間違えたら、誰かの人生が普通に壊れるやつだよ」

「説明の順番を間違え続けた結果が今の宵宮くんでしょ」

 

 彩葉が即座に返すと、巡は口を閉じた。

 そこを突かれると弱いらしい。

 ヤチヨが、さらに笑みを深める。

 

「そうだよ巡。説明の順番、八千年くらい間違えてるよ。今さら玄関で『社会的に危険』とか言われても、ヤッチョの心はすでに八千年前から何度も危険水域に突入してるので、ちょっと説得力ないかなー」

「その言い方はだいぶ重くないかな?」

「重いよ~。なんせ八千年分だもん」

 

 巡は、手錠を見下ろしたまま、少しだけ息を吐いた。

 抵抗しようとしている、というより、打開策を探している顔だった。

 とはいえ本気で逃げるつもりはないのだろう。もしその気なら、きっとこの玄関に来る前にいくらでも方法はあった。

 けれど今の彼は、彩葉とヤチヨの怒りを、まだ完全ではないにせよ、受け止めなければならないものとして認識している。

 なので、巡は素直に両手を差し出した。

 

「はい、抵抗はしません」

「いと潔し。ヤッチョポイントを八千ポイント贈呈してあげるね~☆」

「それ、貯めると何か交換できるやつ?」

「は? ヤッチョの気持ちを物品交換に出そうとした?」

 

 ヤチヨの声が数段低くなった所で、巡はこれ以上言葉を重ねることは断念した。

 彩葉は、大人しくなった下手人へかちり、と手錠をかけた。

 玄関に金属音が響いた。

 その瞬間、物語のジャンルが変わった気がした。

 さっきまで雨の街角で八千年越しの名前を聞く情緒的な場面だったはずなのに、今は玄関で男子高校生に手錠をかけている。

 落差がひどい。情緒が階段を踏み外して転がり落ちた。

 だが、不思議と胸は少しだけすっとした。

 

 

「正座はリビングね」

「せめて靴を脱ぐ権利はありますか」

「あります。そこまで人権を剥奪する予定はないゆえ」

「よかった。まだ文明の内側にいる」

「八千年分怒ってるだけで、鬼じゃないからね~」

 

 ヤチヨが、妙に明るい声で言った。

 

「ただし、鬼ではないけど、かぐやではあります」

「それは知ってる」

「知ってるなら逃げるな」

「……返す言葉もない」

 

 巡は手錠をかけられた両手で少し不器用に靴を脱ぎ、きちんと揃えた。

 その所作を見て、彩葉はまた額を押さえたくなった。

 手錠をかけられながら靴を揃えるな。

 いや、揃えないよりはいい。

 でも揃えるな。

 心の中で矛盾した突っ込みが渦を巻く。

 ヤチヨも同じことを思ったのか、扇子で口元を隠しながら「律儀さが腹立つ」と呟いた。

 リビングへ入る。

 

 窓の向こうでは、雨に濡れた街が灰色の水彩画のように滲んでいた。

 高層階のガラス越しに見る雨は、地上で浴びるものよりずっと静かで、まるで誰かが遠くの世界へ細い線を何本も引いているように見える。

 部屋の中は暖かく、床も乾いている。その乾いた居心地の良さが、かえって今から始まる裁判めいた折檻の異様さを際立たせていた。

 

「そこ」

 

 彩葉がローテーブルの前を指差した。

 巡はしばらくその位置を見つめた。

 

「正座」

「はい」

 

 巡は膝を折った。

 背筋は意外なほど綺麗に伸びている。

 手錠をかけられた両手が膝の上に置かれ、濡れた髪の先が少しだけ頬にかかる。

 反省中の人間というより、なぜか茶道の稽古に呼ばれた人間のような落ち着きがあり、それがまた彩葉の神経を逆撫でする。

 

「宵宮くん、正座が綺麗なの腹立つ」

「そこまで怒りの対象になるとは思わなかった。できれば姿勢の良さは別枠で評価してほしい」

「別枠で腹立つ」

「逃げも隠れもせず正座してるのに、加点されないのか」

 

 巡が少しだけ困った声を出した。

 ようやく人間味が出た気がした。

 ヤチヨはそんな巡に捲し立てる。

 

「加点方式ではありません。減点方式でもありません。今日は存在確認型怒りポイント制です。

 巡がいる。はい加点。息をする。はい加点。靴を揃える。はい高得点。礼儀正しく正座する。はい倍率ドン。

 なぜなら、そこまで普通のことを普通にできる人間が、どうして肝心な説明と相談だけ八千年単位で飛ばしたのか、というクソボケに怒りが発生するからです」

「制度設計に悪意を感じる」

「悪意じゃないよ。一片の曇りがない──すべてが正義だよ」

 

 彩葉は巡の正面に座った。

 

「そして、その怒りの原因は、ちゃんと宵宮くんにある」

 

 その言葉で、部屋の空気が少し変わった。

 おふざけの明るさが、ふっと一枚捲れる。

 下から出てきたものは、冷たくも熱くもあった。怒りと安堵と、言いそびれた感謝が、同じ器の中でかすかに揺れている。

 ヤチヨが扇子を閉じた。

 

「ねえ、巡」

 

 声が静かになった。

 

「どうして、何も言わずにいなくなろうとしたの」

 

 巡はすぐに答えなかった。

 窓の外で雨が降っている。高層階のガラスには雨粒が直接当たらないのに、街全体が濡れているせいか、部屋の中にも薄い水の気配があるようだった。

 彩葉は自分の指がローテーブルの縁を掴んでいることに気づいた。

 巡は視線を落とす。

 

「学校には、連絡を入れた」

「違う」

 

 ヤチヨの声が被さった。

 低く、鋭く、容赦がなかった。

 

「そういう話じゃない。家庭の都合とか、一週間とか、そういう紙の上で通る言葉の話をしてるんじゃない。

 あなたが何を抱えていたのか、どうして身体がうまく動かないのか、どうしてあんな置き土産だけ残して距離を置こうとしたのか、

 そういう肝心なところを、私たちに何も言わずに済ませようとしたことを聞いてるの」

「……身体の再定着は、本当に必要だった。今の身体は、私が覚えている最後の身体とは感覚が違いすぎる。

 歩幅も、力加減も、声の出し方も、心拍の速さも、全部が若すぎる。だから、少し時間がいると思った」

「そこは怒ってない」

 

 彩葉が言った。

 巡が顔を上げる。

 

「身体を慣らす必要があったなら、それは仕方ないよ。学校を休むのも分かる。問題は、その言葉の奥にあるものを全部『家庭の都合』で閉じて、自分だけ外へ出ようとしたこと。

 宵宮くん、たぶん私たちに心配される前に、怒られる前に、お礼を言われる前に、静かに消えようとしてたでしょ」

 

 巡は、答えなかった。

 その沈黙は、あまりに正直だった。 巡は、答えなかった。

 その沈黙は、あまりに正直だった。

 ヤチヨが笑う。

 口元だけで。

 

「あー、やっぱり」

 

 軽い声だった。

 けれど、その軽さは刃物の薄さに似ていた。

 

「そういうところ。本当にそういうところだよ、巡。あなた、八千年もかぐやのそばにいたくせに、最後の最後でまた同じことするんだね。

 名前も教えない。理由も言わない。助けるだけ助ける。置くものだけ置く。あとは、相手が幸せなら自分は外側でいいって顔をする。ねえ、それで本当に私が納得すると思った?」

 

 巡は、ヤチヨを見る。

 

「かぐやが、酒寄さんと再会できたことを、私は本当に喜んでいる。君がずっと求めていた場所へ辿り着けたのなら、それ以上に私が何かを望むのは違うのではないかと思った」

「違う」

 

 ヤチヨは即座に言った。

 

「そこが違う。あなたが何かを望むのが違うんじゃない。あなたが、自分は望まれない側だって勝手に決めるのが違う。

 私は彩葉と笑いたいよ。彩葉と手を繋ぎたい。パンケーキを食べたい。現実の身体だって欲しい。そこは合ってる。

 でも、その中に、あなたに怒ることも入ってる。あなたにありがとうって言うことも、名前を呼ぶことも、八千年分の文句を言うことも入ってる。健やかって、そういうことも含めて健やかなんだよ」

 

 ヤチヨの青い瞳が、わずかに揺れる。

 

「役目って言葉で片づけるな」

 

 その声は、静かだった。

 静かだから、重かった。

 

「あなたは役目じゃない。白いウミウシだった私を見つけてくれた人だよ。名前を聞いても教えてくれなかった人だよ。

 何度も姿を変えて、今度こそ違う人だと思いたいのに、結局いつも同じ目をしていて、また私を見つけてくれた人だよ。

 そんなことをしておいて、役目は終わりました、では退場しますって、そんなの、かぐやが『はいそうですか』って言うと思った?」

 

 巡は口を開きかけた。

 だが、言葉は出ない。

 ヤチヨは、ふっと笑った。

 

「言っておくけど、ヤッチョは怒ってます。いとおこです。八千年熟成です。しかも今、本人に怒れてるから余計に面倒くさいです。

 かぐやの君じゃなくて、日傘の人じゃなくて、ヨミでもなくて、巡って呼んで、本人に怒れてるのが、腹立つくらい嬉しいんだよ」

 

 最後の声だけが、少し滲んだ。

 彩葉はそれを聞きながら、胸の奥が強く痛むのを感じた。

 自分も言わなければならない。

 今、この手錠と正座と反省文予定地という、ひどくおかしな状況の中で。

 

「宵宮くん」

 

 巡がこちらを見る。

 その目には、さっきまでより少しだけ人間らしい困惑があった。

 叱責を受け止めようとしているのに、受け止めきれず、どこへ置けばいいのか分からないものを抱えた顔だった。

 

「私も、ちゃんと言うね」

 

 彩葉は、ゆっくり息を吸った。

 

「私、宵宮くんに助けられた。倒れた時も、日傘の時も、ヨミとして大会に呼んでくれた時も、狐面の時も、決勝で本気で戦ってくれた時も。

 私の人生が少しずつ変わったところに、宵宮くんがいる。たぶん、私が知らない場所でも、宵宮くんは色々やってくれてたんだと思う。でもね、助けられた側は、助かったら終わりじゃないんだよ」

 

 言葉にするたび、胸の奥に沈んでいたものが形を持っていく。

 

「ありがとうって言いたい。怒りたい。どうしてそんなことしたのって聞きたい。次からは相談してよって言いたい。

 宵宮くんは、相手が助かったらそれでいいって顔をするけど、こっちは違う。お礼を言う手が空中で止まる。怒る相手がいなくなる。残されたこっちは、ずっと空席を見ることになる」

 

 巡の表情が、少しだけ歪んだ。

 彩葉は続けた。

 

「宵宮くんは、私たちに怒られる権利があるの。ありがとうって言われる権利も、馬鹿って言われる権利もある。

 黙っていなくなろうとしたことを、ちゃんと詰められる権利もある。それを受け取らないで、自分だけ綺麗に下がろうとするのはずるい」

 

 部屋が静かになる。

 FUSHIさえ黙っていた。

 巡は、手錠のかかった手を膝の上で握った。金属の輪がかすかに鳴る。

 

「……言い訳になるかもしれないけれど」

 

 ようやく巡が口を開いた。

 その声は、先ほどまでよりずっと揺れていた。

 

「私は、酒寄さんとかぐやが再会できたなら、それで十分だと思っていた。かぐやが八千年越しに望んでいた人のところへ辿り着いて、酒寄さんがかぐやを見つけて、二人がこれから笑えるのなら、

 私がそこに居続ける理由はないのだと。邪魔をしたいわけではなかったし、何かを奪いたいわけでもなかった。ただ、終わった役割が舞台に残っているのは、少し違うと思った」

「だから、それがクソボケなの」

 

 彩葉は被せた。

 

「舞台に残るなって、誰が言ったの。宵宮くんが勝手に幕を下ろして、勝手に自分だけ袖へ下がろうとしたんでしょ。

 私たちはまだ話してない。ありがとうも言ってない。怒ってもいない。ヤチヨなんて八千年分あるんだよ。どう考えても上演時間延長でしょ」

「上演時間延長」

「そう。アンコールです」

 

 ヤチヨが頷く。

 

「しかも観客総立ちです。帰ろうとした出演者を舞台袖から引きずり戻すやつです」

「それは少し怖い」

「怖くしてるのはあなたです」

 

 ヤチヨは扇子を掲げた。

 

「では、反省文」

 

 彩葉は紙とペンを置いた。

 巡は、ローテーブルに置かれた原稿用紙の束をしばらく見つめていた。

 四百字詰めの紙が、妙に白く見える。手錠を掛けられた両手では、ペンを持つ角度ひとつにも少しだけ不自由があったが、それでも彼は文句を言わなかった。

 むしろ、その不自由ささえ自分に相応しい制約だとでも受け止めるように、指先の位置を何度か確かめてから、丁寧にペン先を紙へ落とした。

 

 まず題名が書かれる。

 

 『八千年分の無断離席について』。

 

 素っ頓狂な題字だった。状況はどう考えてもおかしいのに、巡の筆跡だけは端正で、文字の一つ一つが律儀に並んでいく。

 その几帳面さが、彩葉には少し腹立たしく、同時に、ようやくこちらの怒りが紙の上に形を持ち始めたようにも見えた。

 

 巡は少しだけ筆を止めた後、自分が感謝と怒りを受け取る前に逃げようとしたことを、綺麗な言い換えに逃げずに書いた。

 続けて、酒寄さんとかぐやの健やかさを、自分の基準だけで勝手に測っていたことも書いた。さらに、その下へ、一字ずつ確かめるように綴っていく。

 

 最後の一文を書く時だけ、ペン先がわずかに遅くなった。

 それは反省文というより、約束に近かった。手錠よりもずっと強く、けれど誰かに押しつけられた鎖ではなく、自分の意思で紙の上へ置くための言葉だった。

 巡はしばらくその一文を見下ろし、書き終えた後で小さく息を吐いた。

 ヤチヨは、紙の上に並んだ文字をじっと見ていた。

 

『次からは黙っていなくなりません。』

 

 途中までは裁判長めいた顔をしていたくせに、その文字列を見た瞬間、ほんの少しだけ目元が揺れた。

 けれど、彼女は何も言わなかった。ただ扇子を閉じ、こつん、と掌へ軽く当てる。

 その仕草は採点というより、ようやく提出された八千年越しの答案に、赤点ではあるが再試験の意思あり、と判を押すようだった。

 

 FUSHIが、重々しく一声「ヨロシイ」、と鳴いた。

 それを合図にしたように、ヤチヨは満足げに顎を引く。

 まだ許したわけではない。怒りは残っている。けれど、巡が逃げずに紙へ向かい、自分の言葉でそこに座ったことだけは、確かに受け取ったのだと分かる表情だった。

 

 彩葉は、その横顔を見て、ようやく少しだけ息を吐いた。

 胸の奥に詰まっていたものが、全部ほどけたわけではない。

 怒りはまだ残っている。八千年分の沈黙も、名前を聞けなかった時間も、助けられた側に残された宙ぶらりんの感謝も、たった一枚の原稿用紙で片づくほど軽いものではなかった。

 

 それでも、巡がそこに座っている。

 それだけで、ほんの少しだけ呼吸がしやすくなった。

 彩葉は立ち上がってキッチンへ向かった。

 

「コーヒー、淹れてくるね」

 

 砂糖とミルクの有無は訊かなかった。

 巡の好みは八千年の記憶の中にあったので訊く必要が無いのだ。

 

 湯沸かし器に水を入れ、スイッチを押す。

 小さな機械音が鳴り、部屋に生活の音が戻ってくる。

 雨の日に、八千年越しの名前を聞いて、帰宅してすぐ手錠をかけ、正座させ、反省文を書かせて、お茶を淹れている。

 

 冷静に考えれば、何一つ冷静ではない。

 だが、彩葉は少しだけ呼吸がしやすくなっていた。

 リビングには、手錠をかけられて正座する巡と、ARのヤチヨと、FUSHIが残っている。

 ヤチヨが反省文を見下ろしながら、ぽつりと言った。

 

「巡」

「うん」

「ヤッチョ、まだ怒ってるからね」

「分かっている。怒られる理由も、まだ十分に聞けていないことも、分かっているつもり」

「つもり、禁止」

「……分かろうとしている」

「よろしい」

 

 ヤチヨは少しだけ頬を緩めた。

 

「でも、帰ってきたことは、ちゃんと嬉しい」

 

 巡は、そこでしばらく黙った。

 

「それを、聞けてよかった」

「そういうこと、最初から言いなよ」

「順番を間違えた」

「八千年分くらいね」

「かなり間違えた」

「うん。かなり」

 

 ヤチヨは笑った。

 今度は、少しだけ本当に笑っていた。

 その時だった。

 玄関の方で、電子錠が開く音がした。

 

 彩葉の手が、キッチンで止まる。

 リビングの空気も止まる。

 巡が顔を上げた。

 ヤチヨが振り返る。

 FUSHIが「ム」と鳴く。

 彩葉ではない。

 巡ではない。

 ヤチヨでも、FUSHIでもない。

 廊下から、外の雨をわずかに含んだ空気が流れ込む。扉の向こうで、誰かが靴音を立てた。

 そして時刻は、酒寄朝日が訪れた瞬間へ戻る。

 妹の部屋に、同年代の青年が手錠をかけられて正座している。

 保証人である兄にとって、あまりにも想定外の光景が、そこに完成していた。

 

 

 廊下の奥から戻ってきた彩葉は、トレーを両手で持ったまま、リビングの入口でぴたりと足を止めた。

 視線の先には、玄関から半歩ほど踏み込んだ兄がいる。

 靴を脱ぐことも、部屋へ入ることも、帰ることもできず、どう考えても通常の兄妹訪問では遭遇しない光景を前に、判断の置き場所を探している顔をしていた。

 その視線の先には、手錠を掛けられて正座する同年代の青年。

 

 ローテーブルには反省文。

 題名は『八千年分の無断離席について』。

 横には赤いペンで『反省文・第一部』。

 説明する側から見ても、最低だった。

 

「……お兄ちゃん」

 

 彩葉は、まずコーヒーを置いた。

 自分でも驚くくらい、手つきは落ち着いていた。

 白いマグカップがテーブルへ並ぶ。ひとつは彩葉の分。ひとつは巡の分。ひとつは、今まさに全身で困惑している兄の分として追加で淹れてきたものだった。

 

「コーヒー、飲む?」

 

 朝日はしばらく彩葉を見た。

 それから、正座の青年を見た。

 手錠を見た。

 反省文を見た。

 もう一度、彩葉を見た。

 

「……飲む」

 

 答えるまでに、相当な努力が要った声だった。

 彩葉は頷き、兄の分のマグカップをテーブルの端へ置いた。

 湯気が薄く立ち上る。コーヒーの香りが、室内にゆっくり広がっていった。

 雨の匂い、濡れた衣服の湿り気、空調の乾いた空気、そこへ深煎りの苦い香りが混ざり、さっきまで裁判所だったリビングが、わずかに人の家へ戻る。

 

 朝日は靴を脱ぎ、どこか慎重にリビングへ入ってきた。

 その慎重さは、妹の部屋へ入る兄のものではなかった。

 知らない儀式場へ迷い込んだ参列者のそれに近い。

 下手な場所へ足を置けば、何かを踏み抜いてしまいそうな顔をしている。

 

「彩葉」

「うん」

「まず確認してええ?」

「うん」

「これは、事件?」

「事件ではない」

「監禁?」

「監禁ではない」

「青春?」

「それも違うと思う」

「じゃあ何なん」

 

 彩葉は少し考えた。

 巡が、手錠をかけられたまま真面目な顔で口を開く。

 

「反省会です」

「君は黙っててくれるかな。手錠正座側から『反省会です』言われると、余計に判断が難しくなる」

「すみません」

「謝り方が素直なんも怖いな……」

 

 朝日は深く息を吐き、テーブルの前に腰を下ろした。

 兄の前にマグカップが置かれる。朝日はそれを手に取ったが、すぐには飲まなかった。

 香りを嗅ぐ余裕もなさそうで、ただ温かい陶器を手のひらで包み、現実へ戻るための重石にしているようだった。

 

 彩葉は、説明した。

 すべてを長々と語ったわけではない。

 月の事故、八千年、かぐやがヤチヨになったこと、宵宮巡が何度も転生しながらそばにいたこと、そして今日、彼がまた何も言わずに距離を置こうとしていたこと。

 言葉は何度か詰まり、朝日はそのたびに眉間へ深く皺を寄せた。理解している、という顔ではなかった。理解しようとしている顔だった。

 

 無理もない。

 兄からすれば、妹の部屋で手錠正座している男子高校生の事情が、月と八千年とAR存在と魂の再定着に繋がっているなど、納得以前に脳が受け付けない話だろう。

 それでも朝日は、彩葉の話を遮らなかった。

 彩葉が嘘をつかないことを知っているからだ。

 全部を飲み込めなくても、少なくとも妹が今この場でふざけているわけではないことは分かる。

 分からないものを分からないまま、けれど妹の言葉を疑わない。その努力が、朝日の目元に濃い疲労となって滲んでいた。

 

「……つまり」

 

 朝日は、マグカップを両手で包んだまま言った。

 

「俺の妹は、月から来た女の子かぐやちゃんと八千年越しに再会して、そのかぐやちゃんが今はヤチヨで、そこの宵宮くんはその八千年のあいだ何回も生まれ変わって一緒におって、

 ほんで今日、また黙って消えようとしたから、彩葉とヤチヨが怒って、かぐやちゃん時代の配信用手錠で正座させて反省文を書かせた、と」

「うん」

「うん、で済ませる情報量やないんよ」

 

 朝日は額を押さえた。

 

「でも、彩葉が嘘を言うとは思わへん。俺が理解できへんことと、彩葉が本気で言うてることは別や。そこは分ける。分けるけど、兄ちゃんの処理能力にも限界はある。今日この部屋、情報の暴力が過ぎる」

 

 もっともだった。

 彩葉は素直に「ごめん」と言った。

 巡も「すみません」と続けた。

 

「君はほんま、謝るタイミングだけは綺麗やな」

「褒められているわけではないですよね」

「ちゃうな」

 

 朝日はコーヒーをひと口飲み、ようやく少しだけ肩を落とした。

 温かい苦味が喉を通ったのだろう。彼の表情に、わずかに人間らしい疲れが戻った。

 非現実に殴られ続けていた頭へ、現実の味が差し込んだようだった。

 

 

 彩葉も自分のマグカップへ手を伸ばす。

 そして、巡を見た。

 巡は、手錠をかけられたままマグカップを持っていた。持ちにくそうではあるが、器用に両手で包み、ゆっくり口元へ運ぶ。

 湯気が彼の顔の前で揺れ、湿った前髪の先をかすかに曇らせた。

 白いマグカップの縁へ、唇が触れる。

 

 巡は一口、飲んだ。

 何の躊躇もなく。

 彩葉は、そこを見逃さなかった。

 

「宵宮くん」

「うん」

「コーヒー、ちょっと熱すぎたかな?」

 

 何気ない声で訊いた。

 あまりにも何気ない声だったので、朝日も最初はただの気遣いだと思ったらしい。

 ヤチヨだけが、ぴくりと反応した。画面の中の白銀の歌姫が、笑顔のままわずかに目を細める。

 巡はマグカップを持ったまま、短く考えるように視線を落とした。

 

「熱いけど、飲めなくはないよ。酒寄さんが淹れてくれたものだし、特に問題はないと思う」

 

 自然だった。

 あまりにも自然だった。

 彩葉の胸の奥で、何か冷たいものがゆっくり沈んだ。

 

「そう」

 

 彩葉は頷く。

 

「でも、そのコーヒー、アイスコーヒーだよ」

 

 巡の指が、ほんのわずかに止まった。

 マグカップの中で、黒い液面が小さく揺れる。

 朝日が眉を寄せた。

 

「アイス……?」

 

 巡はすぐに顔を上げた。

 穏やかな表情を作ろうとしている。

 だが、ほんの一瞬遅かった。視線がわずかに泳いだ。手錠の金属が、膝の上で小さく鳴った。

 

「ああ……そうだったのか。すまない、湯気のように見えたのは、部屋の温度差か何かを勘違いしたのかもしれない。冷たい、というよりは、少し温度が分かりにくくて」

「冷たいんだ?」

 

 彩葉の声は静かだった。

 巡は、そこでまた止まった。

 ほんのわずかな沈黙。

 だが、その沈黙は致命的だった。

 

「……冷たい、と思う」

 

 巡は慎重に言った。

 

「少なくとも、今言われてみれば、熱いという表現は適切ではなかったかもしれない」

 

 取り繕っている。

 彩葉には分かった。

 朝日にも、分かったらしい。マグカップを持つ手が止まり、兄の視線が彩葉と巡の間を行き来する。

 ヤチヨは動かない。

 笑顔のまま、動かない。

 彩葉は、自分のマグカップを静かに置いた。

 陶器がテーブルに触れる音は、小さかったのに、やけに部屋へ響いた。

 

「嘘」

 

 彩葉は言った。

 

「本当は、ホットコーヒーだよ」

 

 巡の表情から、色が少し抜けた。

 それはほんのわずかな変化だった。けれど、彩葉はもう見逃さない。

 八千年を全部見た。味も温度も感じられないかぐやの隣で、同じように何かを手放していた人の姿を見た。

 戦国の茶屋で、団子を噛みながら何も感じていなかったその口元を、彩葉は見ていた。

 

 だから、確かめた。

 確かめたくなかったのに、確かめた。

 

「宵宮くん、もう一つ言うね」

 

 彩葉は、ゆっくり巡のマグカップを指差した。

 

「そのマグカップの飲み口、少し細工してあるの。食品用の、ものすごく苦い成分を薄く塗っておいた。

 普通なら、口をつけた瞬間に顔をしかめる。少なくとも、何もなかったみたいに飲めるものじゃない」

 

 朝日が「え」と声を漏らした。

 FUSHIが、低く鳴いた。

 ヤチヨは、まだ動かない。

 彩葉は言葉を続けた。

 

「ごめん。罠を仕掛けたのは、悪いと思ってる。でも、普通に聞いたら、宵宮くんは絶対に言わないと思った。温かさが分からないことも、味が分からないことも、自分からは言わない。

 たぶん、『問題ない』って言う。さっきみたいに、熱いけど飲めなくはないよって言う。アイスだって言われたら、冷たいと思うって合わせる。そうやって、その場で一番波風が立たない答えを探す」

 

 巡は、マグカップを両手で包んだまま、黙っていた。

 手錠の輪が、白い陶器にかすかに触れている。

 彩葉の声は、思ったより震えなかった。

 震えなかったことが、自分でも少し怖かった。

 

「でもね、宵宮くん。これ、波風の話じゃないよ。八千年かぐやの隣にいて、味が分からないかぐやに合わせて、自分の味覚も温感も閉じたんでしょ。

 手段がどうとか、実現可能とかはこの際置いておいて、かぐやの記憶からの違和感で私はそう推測した。間違ってる? 間違ってないよね?

 そうしておいて、今でも戻してないんでしょ。雨が冷たいかどうかも、コーヒーが熱いかどうかも、苦いかどうかも、分からないままなんでしょ」

 

 その言葉が落ちた瞬間。

 部屋の温度が変わった。

 実際に空調が動いたわけではない。窓が開いたわけでもない。雨が吹き込んだわけでもない。

 それなのに、室内の空気が一瞬で冷えた。コーヒーの湯気さえ、怯えたように細くなる。

 

 ヤチヨの目から、光が消えていた。

 先ほどまで、怒りながらも笑っていた瞳。八千年越しに本人へ怒れることを、腹立つくらい嬉しいと言っていた瞳。

 その青が、すうっと深く沈み、底の見えない水面のようになる。

 

 笑顔は残っている。

 だが、ハイライトだけがない。

 朝日は、何が起きたのか完全には分かっていない。

 それでも、今この部屋で何か取り返しのつかない地雷が踏み抜かれたことだけは理解したらしく、マグカップを両手で抱えたまま固まっていた。

 

 巡は、ゆっくりマグカップをテーブルへ戻した。

 ことり、と音がする。

 その音だけが、冷え切った部屋の中で妙に優しく響いた。

 

「……酒寄さん」

 

 巡が口を開く。

 言い訳を探している声ではなかった。

 けれど、何を言えばいいのか分からない声だった。

 

 彩葉は何も言わない。

 ヤチヨも何も言わない。

 FUSHIさえ、黙っている。

 朝日は突然発生した地獄のような空気に胃が痛くなった。

 

 雨の街は、窓の向こうで静かに滲んでいた。

 リビングの中心には、手錠をかけられたままの巡と、湯気の立つホットコーヒーと、苦味を知らない唇と、温度を失ったままの沈黙があった。

 そして、ヤチヨの瞳から消えた光だけが。

 この場の次の審判を、静かに告げていた。

 果たして反省文は第二部で済むだろうか──




・妹の部屋に入った際に、見知らぬ男が手錠をして正座していたときの兄の心境を応えよ
 宇 宙 猫 状 態

・かぐやと彩葉を巡り合わせてフェードアウトしたクソボケが捕まりました
 オイオイオイ死ぬわアイツ

・かぐやと彩葉に味覚と温感を麻痺させていたことがバレました
 オイオイオイ死ぬわアイツ
 ちょっとTNP重視でバレまでが雑だったかも

・突然地獄のような空気に放り込まれた朝日
 「わァ…あ…」、「泣いちゃった!!」
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