もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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変態という名の淑女だよ!

 彩葉がそれに気づけたのは、たぶん、身近に諌山真実がいたからだった。

 まみまみ。

 

 グルメインフルエンサーとして、食べること、飲むこと、味わうことを、誰よりも楽しそうに見せる友人。

 熱々のグラタンを前にして、嬉しそうに頬を緩めながらも、ひと口目だけは慎重に息を吹きかける姿。

 真夏の限定パフェにスプーンを入れ、冷たいクリームが舌へ触れた瞬間に肩を小さく震わせる姿。

 強い苦味のコーヒーに眉を寄せ、それでも後味の香ばしさを見つけて目を輝かせる姿。

 辛い麺を食べて涙目になりながら、「でも、もう一口だけ」と笑う姿。

 

 真実の食事には、いつも温度があった。

 味があった。

 それに身体が反応するだけの、正直さがあった。

 

 だから、彩葉は違和感を覚えたのだ。

 

 八千年を追体験した中で、彩葉は何度も巡の食事を見た。

 粗末な粥、熱く煮えた汁物、冷えた井戸水、苦い薬草、甘い菓子、焼きたての餅、腹を満たすためだけの干し飯。

 時代も、場所も、姿も違うのに、巡の食べ方だけはいつも淡白だった。

 熱いものを前にしても息を吹きかけず、冷たいものを含んでも喉を震わせず、苦いものに眉を寄せず、甘いものに表情を緩めない。

 

 かぐやが食べられないものを前にして、巡は平然とそれを口へ運ぶ。

 けれど、その平然さは、強がりの平然さではなかった。

 何も感じていない人間のものだった。

 最初は、長い旅で身についた我慢強さだと思おうとした。

 あるいは、かぐやを気遣うために、あえて反応を小さくしていたのだと。

 けれど、真実の姿を知っている彩葉には、人間が味と温度からどれほど逃れられないかが分かる。

 身体は正直だ。熱ければ一瞬遅れる。

 冷たければ喉が動く。

 苦ければ目元が歪む。

 甘ければ、ほんの少し表情が緩む。

 

 巡には、それがなかった。

 八千年分の記憶の中で、その欠落はあまりにも静かだった。

 静かすぎて、逆に見落としそうになるほどだった。

 けれど一度気づいてしまえば、もう見逃せない。

 どの時代にも、どの姿にも、どの食卓にも、同じ空白があった。

 

 そして今、コーヒーの罠が、その空白に名前を与えた。

 温感。

 味覚。

 巡は、それを閉じている。

 しかも、今も。

 リビングの空気は、冷えていた。

 

 空調の温度は変わっていない。

 窓も開いていない。

 湯気を立てるコーヒーがテーブルの上にあり、朝日の手元にも温かなマグカップがある。

 それなのに、部屋の中から音が一枚ずつ剥がれていくようだった。

 誰もすぐには喋らない。FUSHIさえ、白い小さな身体を硬くしたまま黙っていた。

 

 ヤチヨの目から、光が消えていた。

 笑顔はまだそこにある。

 けれど、笑顔という形だけが残っていて、中身が抜け落ちている。

 青い瞳の奥は深い水底のように沈み、そこに映るはずの灯りがどこにもない。

 

 巡は、マグカップをテーブルへ置いた。

 ことり、と陶器の音がした。

 その音だけが、やけに響いた。

 

 巡が口を開こうとした、その直前。

 朝日が、深く息を吸った。

 

「彩葉」

「うん」

「事件性は、ないんやな」

「ない。少なくとも、今この時点では」

「その但し書き、お兄ちゃんの胃に悪いんやけど」

 

 朝日は片手で胃のあたりを押さえた。

 顔色はかなり悪い。

 理解の追いつかない話を聞かされ、妹が嘘をついていないことだけを頼りにどうにか現実へ留まっている人間の顔だった。

 兄として、保証人として、そしてブラックオニキスの帝アキラとして、彼はどうにか場を見極めようとしている。

 そして、見極めた。

 ここから先は、自分がいるほどややこしくなる、と。

 

「俺は、彩葉が嘘を言うとは思ってへん。宵宮くんも、悪い子には見えへん。見えへんけど、俺がこの場に居続けても、たぶん何も解決せえへん。

 むしろ俺の処理能力が先に落ちる。あと、この先の話は、お兄ちゃんが聞いてええものかどうかも分からへん」

「お兄ちゃん」

「困ったら呼び。警察でも弁護士でも病院でも、必要ならちゃんと動く。そこは保証する。けど、今から起こりそうな何かについては……うん」

 

 朝日は、巡を見た。

 それから、ヤチヨがいるであろう空間を見た。

 彼の目には何も映っていない。

 それでも、何かがいることくらいはもう察しているのだろう。

 見えないものへ目を向ける仕草は、少しだけ帝アキラらしかった。

 

「俺は見なかったことにする」

 

 極めて賢明な判断だった。

 事件性がないことだけを確認し、これから発生する可能性の高い別種の事件性については、兄として、保証人として、そして歴戦のリーダーとして、あえて目を瞑る。

 胃を押さえながら、足音を殺し、玄関へ向かう動きに無駄がない。

 引き際を見誤らない。

 さすがブラックオニキスのリーダーだった。

 

「宵宮くん」

「はい」

「タレ目は禁止な。兄ちゃん、今ほんまに判断力落ちてるから」

「努力します」

「努力やなくて禁止や」

「……分かりました」

「素直なのも、なんか腹立つな……」

 

 朝日は最後にもう一度、彩葉へ「何かあったら呼び」と言い残し、静かに部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 電子錠が落ちる。

 その音が、現実側の安全装置がひとつ外れた音のように聞こえた。

 

 

 巡が、あらためて口を開いた。

 けれど、その声が現実のリビングに落ちることはなかった。

 視界が変わった。

 手錠を掛けれる際に、ついでとばかりに装着させられたスマコンが淡くオレンジ色に輝く。

 起動の合図だ。

 白い壁も、ローテーブルも、湯気を立てるホットコーヒーも、雨に滲む窓の外の街も、ふっと薄い膜の向こうへ退いていく。

 音が一瞬、水底へ沈むように鈍くなり、次の瞬間、巡の意識は青白い光の中へ放り出されていた。

 

 板張りの床。

 薄暗い室内。

 無数の灯籠が宙に浮かび、淡い金色の光をゆっくり揺らしている。

 障子の向こうには存在しない月があり、その月明かりが部屋の隅々へ青い影を落としていた。

 現実のタワーマンションとは違う。ここはツクヨミだ。しかも、ただの共用空間ではない。

 

 ヤチヨの私室。

 彩葉が、ヤチヨをかぐやだと確信した場所。

 外界の喧騒は届かない。ツクヨミの賑わいも、コメントの流れも、配信者の華やかな声も、ここでは遠い。

 空気そのものが記憶でできているようだった。

 綺麗で、静かで、けれどどこか閉じている。長い時間を抱え込んだ部屋の匂いがする。

 

 巡は、謝ろうとした。

 

「ごめんなさい」

 

 それが、第一声だった。

 言い訳でも、説明でも、事情の整理でもなかった。

 声は小さく、けれどはっきりしていた。

 床へ落ちる灯籠の光の中で、その謝罪だけが、何より先にヤチヨへ差し出される。

 その直後だった。

 

「今際の際だから」

 

 ヤチヨの声が落ちた。

 ぞっとするほど綺麗な声だった。

 

「次に喋る言葉は、気を付けて発してね」

 

 巡は口を閉じた。

 閉じるしかなかった。

 さっきまで彼は、現実のリビングで手錠をかけられて正座していたはずだ。

 だが、今は視界の高さが明らかにおかしい。

 低い。床が近い。灯籠の光が、板張りの木目をやけに大きく照らしている。

 

 動こうとする。

 動けない。

 腕も足も、ひとまとめにされている。

 感覚が不自然に軽い。

 身体の重心が、現代の男子高校生のものではない。

 小さく髪が長い。

 肩に落ちる布の感触も違う。

 袖口の重み、結われた髪の引き、細い首筋にかかる飾り紐の感触まで、ツクヨミは嫌になるほど丁寧に再現していた。

 

 自分の状態に気づいた瞬間、巡は重心を失った。

 こてん、と横へ倒れる。

 板張りの床に頬が触れた。

 痛みはない。だが、木の冷たさを模した感覚と、間抜けな転倒の衝撃だけは生々しい。

 視界の端で、灯籠の光がゆっくり揺れた。

 

「……かぐや」

 

 巡は床に転がったまま、自分の身体を見下ろした。

 江戸時代の転生体。

 花街で禿として過ごしていた頃の姿を模したアバターだった。

 華やかな着物。小柄な手足。結われた髪。まだ幼さの残る輪郭。

 その上から、反省用としか言いようのない太めの紐で、簀巻きに近い形へぐるぐるとまとめられている。

 艶っぽさというより、完全に身動きを封じるためのコミカルな拘束であり、見た目としては高級な荷物が床へ転がされているに近かった。

 

 巡は身体を揺らした。

 少し転がった。

 それだけだった。

 

「これは一体……」

「謹慎反省用アバターです」

 

 ヤチヨが即答した。

 彼女は巡のすぐ前に立っている。

 現実ではARの姿だった彼女が、ツクヨミの私室では完全な存在感を持っていた。

 白銀の髪が灯籠の光を受け、床へ柔らかく影を落としている。

 けれど、その青い瞳にはまだハイライトが戻っていない。

 

「巡用にせっせとヤッチョが拵えたものです。浜辺の少年少女アバター、平安の歌人アバター、戦国の青年アバター、大正浪漫女性アバター、その他各種幅広く取り揃えております。趣味です、以上」

「趣味……いつの間に」

「それはもう、ツクヨミ創生以来せっせとヤッチョが夜なべして作ったに決まってるモンブラン☆」

「うーん、想いが重い」

「ハハッ、味覚と温感を八千年単位で勝手に無くしている人に、重いって言われたくないのです~」

 

 巡は返す言葉を失った。

 それは、本当に返す言葉がなかった。

 謝罪はもうした。けれど、謝ったからといって何かが軽くなるわけではない。

 むしろ、謝罪の後に残る説明の方が比重が大きい。

 巡は、床に頬をつけたまま、灯籠の淡い光を見た。

 かつてこの部屋で彩葉がヤチヨをかぐやだと確信したのなら、今この部屋は、巡が自分の行いの重さをかぐやに突き返される場所なのだろう。

 

 自分としては、かぐやに何かを背負わせるつもりなどなかった。

 勝手にやったことだ。

 彼女が味のない世界にいるなら、温度のない世界にいるなら、隣にいる自分だけが美味いだの熱いだの冷たいだのと反応するわけにはいかない。

 そんな単純な、けれど十分に重い理由だった。

 

 それが重い行動であることは、分かっていた。

 だから話すつもりはなかった。

 知らせるつもりもなかった。

 結果として、その欠落は感覚再現プログラムを作る時の物差しになった。

 感じない状態を現実で知っていたからこそ、何を足せば「感じる」に近づくのかを測ることができた。

 巡の中では、そうやって処理されていた。

 万事塞翁が馬。悪いことばかりではなかった、と。

 

 だが、その行為をかぐやが知り、悲しみ、心を削られるなら。

 それはもう、平身低頭するしかない。

 巡は床に転がったまま、どうにか頭を下げようとした。

 けれど拘束のせいで身体がほとんど動かず、結果として額がわずかに床へ擦れただけだった。

 

「かぐや。私は、このことで君の心に重しを乗せるつもりは毛頭無かった。勝手にやったことで、知らせるつもりもなかった。

 意味が無いことは理解していたし、そうすることで君の不足が満たされるわけでもない。

 ただ、君が味も温かさも持たないまま、私だけがそれに享受することが、どうしてもできなかった」

 

 ヤチヨは黙って聞いていた。

 巡は続ける。

 

「それに、その選択が感覚再現プログラムを作る上で役に立ったのも事実だと思っている。感じない状態を知っていたから、感じる状態を作る時の差分を測れた。

 だから、私は自分の中でそれを深刻に扱いすぎないようにしていた。だけど、それは私の中の処理でしかなかった。君がどう受け取るかを考えていなかった」

 

 このことが白日の下に晒されることは想定してなかったから、と巡は小さく締めた。

 板張りの床の上で、灯籠の光がゆっくり揺れる。

 ヤチヨは一歩近づいた。

 床に転がる巡の前へ膝をつく。白い髪がさらりと肩から流れ、月光を含んだ絹糸のように床へ広がった。

 

「そういうところだよ」

 

 穏やかな声だった。

 穏やかだから、逃げられなかった。

 

「巡。あなたは、私に背負わせるつもりなんてなかったんだと思う。知ってる。あなたはそういうところ、嫌になるほど一貫してるから。

 自分で勝手に決めて、自分で勝手に抱えて、自分で勝手に終わらせる。相手が少しでも楽になるなら、それでいいって顔をする」

 

 ヤチヨの指先が、巡の頬の近くへ伸びかける。

 けれど触れない。

 空中で止まる。

 

「でも、知った側はどうすればいいの。私は頼んでない。そんなことしてほしいなんて一度も言ってない。味が分からないのも、温かさが分からないのも、私の壊れ方だった。

 私の事情だった。それなのにあなたは、勝手にそこへ降りてきた。私と同じ場所に、自分の意思で立った。そんなの、怒るよ。クソボケって言うよ。重すぎるって叫ぶよ」

 

 そこで、ヤチヨの声が少しだけ揺れた。

 

「でも、嬉しくなかったって言えるほど、私は綺麗じゃない」

 

 巡は顔を上げた。

 ヤチヨの瞳は暗いままだった。

 だが、その奥で、何かが痛々しく揺れていた。

 

「嫌だよ、そんなの。頼んでもいないのに、私の孤独に勝手に並ばれるなんて。しかも黙って。八千年も知らないまま、ずっと。でも、同じ世界にいてくれたんだって思ってしまった。

 味のないものを、温度のないものを、私だけじゃなくてあなたも飲み込んでいたんだって知って、怒りながら、どこかで安心してしまった。

 最低だよね。嬉しいって思った自分にも腹が立つ。あなたにも腹が立つ」

 

 巡はそのヤチヨの独白じみた吐露に、眉尻を下げてしまう。

 困ったような、申し訳なさそうな、けれどどうしようもなく逃げ場を失った顔。

 ヤチヨの目が、ほんの少しだけ揺れた。

 

「だめだよ、巡。そんな表情(かお)されちゃうと、ヤッチョの胸の奥のごちゃごちゃしたものをぶつけたくなっちゃう」

「それで──かぐやの心の淀みがすこしでも小さくなるなら、私はかまわないよ」

 

 さらり、と身動きの取れない禿の髪を耳に流すヤチヨ。

 彼女の内側で、何かが決壊しかけていた。

 むくつけき男との水揚げを想像し、独占欲を発露させた在りし日の禿が手の内に居る。

 手折るのも摘むのも自身の胸先一つ。

 

 ──やめなよ巡。そんな表情されたら。ヤッチョ、今ほんとにだめだから。

 ──あ、あ、あ、あ。もう我慢できないよ。ヤオヨロするよ? かぐやっほーするよ? めでたししちゃうよ? 八千年分の情緒が、いま一斉にログインしてるんだけど?

 

「ヤチヨ」

 

 その声で、ヤチヨははっとした。

 部屋の入口に、彩葉が立っていた。

 ツクヨミのアバター姿だった。青を基調としたストリート着物に、狐耳と狐尻尾。現実のリビングからログインしてきたのだろう。

 彼女は腕を組み、床に転がる禿風アバターの巡と、その前で明らかに危険な情緒になっていたヤチヨを見比べている。

 

「顔」

「……セーフ」

 

 ヤチヨはゆっくり扇子を開いた。

 

「今のはセーフ寄りのアウト」

「アウトなんだ」

「限りなくアウトに近いセーフです」

「それ、たぶんアウトだよ」

「よよよ。彩葉、今は優しさがほしい場面です」

「優しさで見逃すには、ヤチヨの顔がかなり危なかったよ、手にお縄は掛かる顔をしていた」

 

 ヤチヨは咳払いをした。

 それから、床に転がる巡を見下ろす。

 

「……やっぱり、拘束設定をもうちょっと凝ったものにしようかな」

「かぐや」

 

 巡が不穏な気配に気づいて声を上げる。

 ヤチヨの指先が空中を滑り、管理者用の操作パネルが光の板として浮かび上がった。

 アバター設定、拘束状態、反省用プリセット、表示制限、セーフティ項目。無機質なUIが、灯籠の柔らかな光の中へ不釣り合いなほど事務的に並ぶ。

 ヤチヨは、迷いなく一項目へ指を伸ばした。

 

「たとえば亀甲――」

 

 次の瞬間、空中に赤い警告が表示された。

 

【この設定はセンシティブ制限により適用できません】

 

 沈黙。

 灯籠の光が揺れる。

 巡は床に転がったまま、何とも言えない顔をした。

 

 彩葉は片手で顔を覆った。

 ヤチヨは、管理者用パネルを見つめたまま固まっていた。

 

「……しまったー!」

 

 叫んだ。

 

「管理人である過去のヤッチョが有能すぎる!」

「自分で自分を止めたね」

「違うの彩葉。これは倫理が勝ったんじゃなくて、システムが勝っただけ。ヤッチョの内なるかぐやは今、かなり危ない橋を渡ろうとしていた。けれどツクヨミの健全設計が、未来の私をシステム的に止めたのです」

「止まってよかったよ」

「いと悔し」

「悔しがらないで」

 

 FUSHIがどこからともなく現れ、床の上でふよふよ浮きながら「アウト」と鳴いた。

 

「FUSHIまで」

「アウト、アウト」

「二回言わないで」

「ゲームセット、ウォンバイ彩葉」

「試合が終わった~!」

 

 場の温度が、少しだけ戻った。

 完全にではない。味覚と温感を失った事実は、部屋の隅にまだ冷たい影として残っている。

 ヤチヨの瞳にも、完全な光は戻っていない。

 それでも、自分の暴走を自分で設定したセンシティブ制限に止められて叫ぶ姿は、あまりにも月見ヤチヨだった。

 

 彩葉は、ゆっくり息を吐いた。

 そして、巡の前へ歩み寄る。

 

「宵宮くん」

「酒寄さん」

「さっきの話、まだ終わってないからね。味覚と温感のこと。どうして戻してないのか。戻せるのか。戻す気があるのか。全部聞く。これは、ヤチヨだけじゃなくて私も聞くよ」

「分かっている」

「それから、ヤチヨ」

「はい」

「ちょっと嬉しかったからって、全部を禿アバター相手に暴走しすぎ」

「……猛省します──でもでも、このアバターの出来良くない? ヤッチョの会心の出来なんだよ」

「全然反省してないな、この管理人AI。や、確かに日本人形みたいで可愛らしいけどさ、女児が紐で縛られているっている絵面がもう犯罪なんだよ」

 

 ヤチヨは少しだけ頬を膨らませたが、反論はしなかった。

 巡は床に転がったまま、ログアウトしようとした。

 逃げるつもりではなかった。たぶん、現実側へ戻って、ちゃんと座り直し、ちゃんと話すためだった。

 あるいは単に、この簀巻き状態では謝罪の姿勢にも限界があると思ったのかもしれない。

 だが、視界に無機質な通知が現れた。

 

【ログアウトは使用できません。

 セキュリティ上の理由により、三時間後にもう一度お試しください。】

 

 巡は、その通知を見つめた。

 

「……かぐや」

「なに」

「ログアウトが出来なくて、変なメッセージが出るのだけれども」

「林檎製スマホを参考にしました☆」

「なぜ」

「逃げる人間には、ちょうどいい不便さだからです」

「ログアウト凍結は、さすがに無法じゃないかな? 罰則が重すぎる」

 

 ヤチヨは、にこりと笑った。

 

 今度は、目も少しだけ笑っていた。

 

「味覚と温感を八千年単位で勝手に閉じた人に、重いって言われたくないです~」

「返す言葉がない」

「でしょうね」

 

 彩葉は、腰に手を当てて二人を見下ろした。

 ツクヨミの私室は、灯籠の光に包まれている。

 床に転がる江戸期の禿アバター。腕を組む狐耳の少女。管理者権限で謹慎部屋を作り上げた白銀の歌姫。ふよふよ漂うFUSHI。

 現実のリビングで始まった反省会は、いつの間にかツクヨミの奥、月見ヤチヨの私室へと場所を移していた。

 手錠の次は、ログアウト不可。

 反省文の次は、八千年分の事情聴取。

 巡は簀巻きのまま板張りの床に転がり、灯籠の光を見上げた。

 どうやら第一部で済む見込みは、完全に消えたらしい。

 

 

「戻して」

 

 彩葉の声は、思ったより静かだった。

 怒鳴ったわけではない。責め立てたわけでもない。

 けれど、ツクヨミの私室に浮かぶ灯籠の光が、その一言を受けてふっと揺れたように見えた。

 板張りの床には薄い金色の影が落ち、簀巻きにされた禿アバターの巡は、その光の中で横たわったまま、ほんの少しだけ目を伏せている。

 

 小柄な身体。

 華やかな着物。

 結われた髪。

 そして、反省用としか言いようのない太い紐で、胴も腕も足もまとめられている姿。

 絵面はおかしい。かなりおかしい。だが、そのおかしさの底には、笑いだけでは済まないものが沈んでいた。

 巡が八千年ものあいだ、自分の味覚と温感を閉じたままにしていたという事実。

 それを、本人はまるで、古い荷物を押し入れにしまっていただけのように扱おうとしていた。

 

 そんなわけがない。

 彩葉は、もう一度言った。

 

「味覚と温感。戻して」

 

 ヤチヨは何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は、彩葉の言葉にぴたりと寄り添っていた。

 白銀の髪の下、青い瞳にはまだ完全な光が戻っていない。

 怒っている。傷ついている。

 それなのに、どこか仄暗く嬉しそうでもある。

 自分と同じ世界へ勝手に降りてきた巡に対して、怒りと安堵と独占欲と後悔が、細い糸のように絡まり合っている。

 巡は、少しだけ息を吐いた。

 

「……せめて、かぐやが現実世界で物を食べたり、温かいものに触れたりできるようになるまでは」

「却下」

「却下です」

 

 彩葉とヤチヨの声は、ほとんど同時だった。

 神速だった。

 巡が瞬きをする。

 

「早い」

「早くていい。そこは考える余地ない」

「秒で却下だよ、巡。八千年分の情状酌量を考慮しても却下です。むしろ八千年分あるから却下です」

 

 ヤチヨの扇子が、ぱちん、と閉じられる。乾いた音が、小さな部屋の空気を切った。

 

「かぐやが食べられないから自分も食べない。かぐやが温かさを持てないから自分も温かさを閉じる。聞こえだけなら一途だね。物語にしたら泣けるかもね。

 でも現実でやられた側は普通にキレます。私の不自由を、あなたが黙って勝手に増やすな。私の孤独に、あなたの孤独を無断で増築するな。これは、そういう話です」

 

 巡は返事をしなかった。

 返事ができない顔だった。

 彩葉は、ヤチヨの言葉を受け取ってから、ゆっくり息を吸った。

 胸の奥がまだ熱い。怒りなのか、悲しさなのか、あるいはそのどちらでもない、名前を持たない感情なのかは分からない。けれど、これだけは分かっていた。

 

 ここで譲ってはいけない。

 かぐやが身体を得るまで。

 かぐやが食べられるようになるまで。

 それは一見、優しくて綺麗な言葉だ。巡らしく、相手を中心に置いているように見える。

 だが、その実、自分をまた外側へ置くための言葉でもある。自分の身体の感覚さえ、かぐやの未来へ預けてしまう言葉だ。

 

「宵宮くん」

「うん」

「ヤチヨが現実で食べられるようになることと、宵宮くんが今、味や温度を取り戻すことは別の話だよ。そこを一緒にしないで。ヤチヨの身体のことを理由にして、自分の身体を後回しにしないで」

 

 巡は、床に転がったまま、少しだけ視線を逸らした。

 図星だったのだろう。

 そういうところが、本当にずるい。

 

「戻すこと自体は、可能だと思う」

 

 やがて巡が言った。

 声は小さいが、逃げる響きではなかった。

 

「ただ、急に全てを戻すと、舌や喉が驚く可能性がある。長く閉じていた情報が一度に入ってくるから、味や温度を快不快以前に刺激として処理してしまうかもしれない。

 飲み込んでも、身体が受け付けずに戻してしまう、くらいのことはあると思う」

「それは、危ないの?」

 

 彩葉が訊く。

 

「命に関わるほどではない。けれど、負担はある。現代の身体への再定着もまだ完全ではないから、食べ物の温度や味を急に戻すのは、少し慎重にした方がいい」

「ふうん」

 

 ヤチヨが、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。

 怒りが消えたわけではない。

 けれど、何かを思いついた顔だった。

 

「なら、ツクヨミで慣らそう」

 

 巡がヤチヨを見る。

 

「ツクヨミで?」

「そう。味覚再現プログラム。どこかのお節介焼きさんが作ったものが。だったら、あなたにも適用できるよね」

「理論上は可能だと思う」

「はい、決定」

「決定が早い」

「早くていいの。今の巡には、自分で考える時間を与えると、また適当な理由を見つけて逃げる危険性があります」

「逃げるつもりは──」

「──ない、は信用できないと今日すでに判明しています」

 

 ヤチヨは扇子を軽く振った。

 その瞬間、私室の灯籠がふっと遠のいた。

 

 青白い月明かりも、板張りの床も、寂しげな広さを持つヤチヨの私室も、薄い幕を引くように形を変えていく。

 空間がぐにゃりと歪むのではない。もっと自然だった。

 記憶が別の記憶へ重なり、灯籠の光が裸電球の明かりへ、広い床が狭い畳とフローリングへ、障子の向こうの月が古い窓の向こうの夜へ、少しずつ置き換わっていく。

 

 気がつけば、そこはIRのアパートの一室だった。

 かぐやと彩葉が暮らしていた部屋。

 手を伸ばせば届きそうな距離に小さなテーブルがあり、隅にはぬいぐるみがいくつか置かれている。

 キッチンは狭く、けれど生活感があった。古い床の色、カーテンの揺れ、壁際に積まれた雑多なもの。

 すべてが、彩葉の記憶をくすぐる。

 

 懐かしさが、胸の奥へまっすぐ刺さった。

 ここで、熱を出した。

 ここで、布団に寝かされた。

 ここで、かぐやが台所に立っていた。

 ここで、泣きそうな顔をしながら、それでもご飯を作ってくれた。

 

「ヤチヨ」

 

 彩葉が呼ぶと、ヤチヨはもうキッチンにいた。

 白銀の髪を後ろで軽くまとめ、どこから取り出したのか割烹着めいたものを羽織っている。

 現実の料理ではない。

 ツクヨミの中で再現されたキッチンだ。

 けれど、鍋から立ち上る湯気や、刻んだネギの青い匂い、おろしたショウガのきりりとした刺激まで、味覚プログラムによって再現されていた。

 

「本日のメニューは」

 

 ヤチヨが、お玉を掲げた。

 

「ネギ味噌ショウガと卵おじやです」

 

 彩葉の喉が、ほんの少し詰まった。

 

「それ」

「うん」

 

 ヤチヨは笑った。

 さっきまでの、ハイライトの消えた笑顔ではない。

 まだ少し危うさは残っている。けれど、そこには確かにかぐやの面影があった。

 病人相手にくどいほど得意げな顔をしていた、あの日のかぐやの顔。

 

「彩葉に作ったやつ。思い出のレシピです。まず鰹節と細かく切ったネギとおろしショウガを、クソほど練ります」

「そこも再現するんだ」

「思い出なので」

 

 ヤチヨは真顔で言い切った。

 

「そこにアツアツの熱湯を注ぐ。出汁は鰹節から出るので調味料は最小限でOK。次に残りご飯を水で軽く洗ってから、本だし少々を溶いたお湯に投入。卵を入れる前に鍋を反対方向にかき混ぜておくと――」

「待って」

 

 彩葉が思わず遮る。

 

「その解説、病人に聞かせるには長すぎるやつ」

「正解。彩葉、よく覚えてるね」

「忘れないよ」

 

 言ってから、彩葉は少しだけ目を伏せた。

 忘れるわけがなかった。

 あの時、身体が熱で重く、バイトに行かなければと焦る自分の横で、かぐやが本気で泣きそうになっていた。

 映画の中の人間みたいに、彩葉がすぐ死んじゃうじゃないかと混乱していた。

  大げさで、うるさくて、けれどその大げささの全部が、自分を心配する気持ちでできていた。

 

 あの時のおじやは、舌の先を火傷しそうなくらい熱かった。

 けれど、それ以上に美味しかった。

 残りの舌が全部とろけるくらい、美味しかった。

 ヤチヨは鍋をかき混ぜる。

 卵がふわりと広がり、湯気の中で淡い黄色の雲になる。

 ネギの香り、味噌の香ばしさ、ショウガの鋭い匂いが、狭いアパートの空気へ満ちていく。仮想の匂い。仮想の湯気。けれど、そこに込められた記憶だけは本物だった。

 

 巡は、相変わらず床に転がっている。

 禿アバターのまま、簀巻き。

 華やかな着物に、太めの紐。身動きは取れず、視線だけをキッチンへ向けている。

 ヤチヨ渾身の力作だけあって、顔が良い。長い睫毛が灯りを受けて影を落とし、無防備な目元がやけに整っている。

 現代の巡とは違う。けれど確かに巡で、八千年のどこかにいた姿なのだと分かる。

 

 彩葉は、その姿を見て、微妙に困った。

 これは看病。

 これは介助。

 これは味覚リハビリ。

 心の中でそう三回唱えた。

 ヤチヨが作ったおじやを、小さな椀によそう。湯気が立ち上り、白い米粒と卵の黄色が柔らかく混ざっている。

 ヤチヨはそれを満足げに見つめてから、椀と匙を彩葉へ手渡した。

 

「はい、彩葉」

「わ、私?」

「この状態の巡、手が使えないので」

「それはそうだけど」

「ヤッチョが食べさせると、今ちょっと情緒が危険なので」

「自覚があるなら偉い」

「偉いでしょう。管理人は学習するのです」

 

 FUSHIが横から「アウトヨボウ」と鳴いた。

 

「予防線の張り方が露骨」

「安全第一だよ、彩葉」

 

 彩葉はため息をつきながらも、椀を受け取った。

 そして、巡の前に膝をつく。

 そのまま、上半身を抱き起す。

 介助を受けて彩葉に寄りかかっている禿アバターの巡は、彩葉を見上げていた。

 身動きが取れないせいで、視線だけがこちらへ向く。

 睫毛が長い。目元があまりにも無防備だ。口元は小さく、けれど表情は困ったように落ち着いている。

 

 彩葉は匙でおじやを少しだけすくい、息を吹きかけた。

 湯気が薄く散る。

 その瞬間、胸の奥に奇妙な理解が落ちた。

 かつて、禿時代の巡に対して、かぐやがどうしようもない独占欲を滲ませたという、その気持ちが、少しだけ分かるかもしれない。

 これは、誰かに渡したくなくなる。

 

 乱暴に扱われるところなど見たくない。都合よく消費されるところなど見たくない。

 誰かの手がこの無防備さを、自分と同じ温度で大切に扱う保証がないのなら、思わず声を荒げてでも抱え込んでしまいたくなる。

 そういう、恋と保護欲と執着の境目にある、名前を付けると危険になる感情が、彩葉の胸の奥をかすめていった。

 

 食べさせているだけだ。

 ただの介助だ。

 それなのに、差し出した匙を素直に待つこの姿は、庇護欲やら独占欲やら、普段なら蓋をしている感情を、正確に突いてくる。

 なるほど、この時代の巡は魔性。

 そう周囲に思わせる美貌の蕾だったのだろう。

 彩葉は自分の内側に生まれかけたものを、慌てて押し戻した。

 

「宵宮くん」

「はい」

「今から食べさせるけど、その、普通にしていてね?」

「普通じゃないとは、例えば?」

「無自覚で人の情緒を荒らすような仕草とか」

「無自覚なら気を付けようがないのでは?」

「それでも努力はして」

「分かった」

 

 さっき朝日が言っていたことと同じだ、と彩葉は思った。

 酒寄家、本当にタレ目と無防備に弱い。

 同じようなことをされれば例え彩葉であろうと情緒ぐちゃぐちゃである。

 

 匙を差し出す。

 巡は、ほんの少し顔を上げた。

 簀巻き状態で身動きが取れないせいで、動きは小さい。

 けれど、差し出された匙へ向けて素直に口を開く仕草は、まるで巣の中で餌を待つひな鳥のようだった。

 小さく、無防備で、素直で行儀が良い。

 はむ、と小さな唇が匙を食む。

 彩葉の手が一瞬止まった。

 

「……宵宮くん」

「はい」

「その仕草、無自覚?」

「食べさせてもらう姿勢として、これが一番安全かと思った」

「最適解って、時々ほんとに最悪だよ」

「ごめん?」

 

 謝り方まで素直だった。

 彩葉は、これ以上考えると負ける気がして、そっと匙を巡の口元へ運んだ。

 巡が、おじやを口に含む。

 その瞬間、部屋の空気が少し変わった。

 巡の表情が、ほんのわずかに動いた。

 驚きとも、困惑ともつかない揺れ。舌の上に乗ったものを、どう処理すればいいのか分からないような顔だった。

 今まで閉じていた扉の隙間から、久しぶりに光が差し込んだ人間の顔。

 

 彼はすぐには飲み込まなかった。

 ゆっくり、確かめるように、口の中でそれを受け止めている。

 そして、こくりとその小さな喉が動いて嚥下する。

 

「……待ってほしい」

 

 ようやく、巡が言った。

 

 声は小さかった。けれど、いつものように整えられた声ではなかった。何かを説明しようとしているというより、自分の中で起きたことに追いつけず、思わずこぼれたような響きだった。

 

「熱かった?」

 

 彩葉が慌てて訊くと、巡はゆっくり首を振った。

 

「違う。熱い、というより……入ってきた」

「入ってきた?」

「うん。口に入れたものが、ただそこにあるだけじゃなかった。今までは、食べ物って、形があって、重さがあって、飲み込めるものだった。

 でも、今のは違う。舌に触れた瞬間から、勝手にほどけて、広がって、奥の方まで来た。米が柔らかいとか、卵が混ざっているとか、そういうことは分かるはずなのに、それだけじゃなくて……」

 

 巡はそこで言葉を失った。

 彩葉は匙を持ったまま、彼の顔を見つめた。巡は泣いてはいなかった。

 苦しんでもいない。ただ、思いがけず知らない景色の前に立たされた人のように、どこか頼りない目をしていた。

 

「……変だな」

 

 巡は、困ったように笑った。

 

「こんなに小さな一口なのに、身体の中でまだ続いてる。飲み込んだのに、終わらない。喉を通ったあとも、胸の奥が少しだけ熱を持っている。

 味噌の匂いがまだ残っていて、ショウガがあとから追いかけてきて、ネギの青い感じが鼻の奥にいる。変な感じだ。たぶん、前にも知っていたはずなのに、初めてみたいだ」

 

 ヤチヨの表情が、そこでくしゃりと歪んだ。

 巡は自分の言葉に戸惑うように、目を伏せた。

 簀巻きのままでは胸元に手を当てることもできないのに、それでも彼の意識が、喉の奥から胸へ落ちていった温度を追いかけているのが分かった。

 

「これが、温かい、だったんだね」

 

 ぽつりと落ちたその言葉は、部屋の湯気よりも静かに、けれど確かにそこへ残った。

 

「久しく忘れていた、というより……忘れていたことにも、気づいていなかった」

 

 ヤチヨの顔が、くしゃりと歪んだ。

 泣きそうだった。

 けれど、泣く代わりに、彼女は両手を腰に当て、あの日と同じくらいくどい笑顔を作った。

 

「でーしょおおおおおおおう?」

 

 その声で、彩葉の胸に懐かしさが落ちる。

 病人に見せるにはくどすぎるほどの笑顔。

 謎の自信。

 料理の出来を褒められるのが嬉しくてたまらない顔。

 かぐやだった。

 ヤチヨは、確かにかぐやだった。

 

「美味しい?」

 

 ヤチヨが訊く。

 巡は少し考えた。

 

「まだ、美味しい、という言葉に整理しきれていない。けれど、不快ではない。むしろ、もう一度確かめたい」

「それはもう、実質おかわり希望です」

「そうなのか」

「そうです。ヤッチョ判定では完全におかわりです」

 

 彩葉は、また一匙すくった。

 今度は少しだけふーふーと息を吹きかける。

 湯気が散り、ネギとショウガの香りが鼻先をくすぐった。巡はその香りにも反応したのか、目元を少しだけ動かす。

 

「……匂いも、する」

 

 巡が、少し遅れて言った。

 

「それも戻ってる?」

 

 彩葉が訊くと、巡はすぐには頷かなかった。

 目を伏せたまま、鼻先に残った湯気を追いかけるように、浅く息を吸う。

 

「戻っている、のかは分からない。ただ、さっきまで空気だったものに、急に輪郭がついた感じがする。ショウガは少し痛いくらいはっきりしていて、ネギは青くて、味噌は……懐かしい、のかな」

「懐かしい?」

「たぶん。知っている匂いのはずなのに、どこで知ったのか思い出せない。でも、嫌じゃない。むしろ、もう少し近くで確かめたくなる」

 

 彩葉は、匙を持ったまま少し笑った。

 

「それなら、だいぶ戻ってると思う」

「そうなのかな」

「少なくとも、匂いを嫌がってない」

「嫌ではない。ただ、名前をつけるのが難しい」

「これから増やせばいいよ。美味しいも、懐かしいも、落ち着くも、少しずつ」

 

 そう言ってから、彩葉はもう一度、巡の口元へ匙を運んだ。

 巡はやはり、ひな鳥みたいに素直に口を開ける。

 彩葉は思った。

 駄目だ。

 これは、慣れるまでに時間がかかる。

 

 禿時代の巡を前に、かぐやが独占欲を見せた気持ちが、ますます分かってしまう。

 顔が良い。無防備が過ぎる。

 しかも中身は八千年分のクソボケを煮詰めたような宵宮巡なのに、差し出された匙へ従順に口を開くものだから、脳がいくつもの方向へ引っ張られる。

 

 この姿を、誰かの勝手な都合に渡したくない。

 この無防備さを、軽く扱われたくない。

 そう思ってしまうこと自体が危ういと分かっているのに、分かっているからこそ、胸の奥に生まれる感情の輪郭がやけにはっきり見えてしまう。

 かぐやが声を荒げたのは、きっと単なる冗談でも過保護でもなかったのだろう。

 目の前の相手が、あまりにも大事で、あまりにも危なっかしくて、世界の雑な手つきから隠してしまいたくなる瞬間が、確かにある。

 

「彩葉、顔」

 

 今度はヤチヨが言った。

 

「……セーフ」

「今のは?」

「セーフ寄りのアウト」

「真似しないで」

「ヤチヨの気持ち、少し分かったかもしれない」

「でしょ?」

「そこで嬉しそうにしない」

 

 FUSHIが「アウト」と鳴いた。

 

「今日はアウト判定が多いね」

「オオイ」

 

 おじやは、少しずつ減っていった。

 ヤチヨは自分の分も椀によそい、彩葉にも手渡した。

 三人で小さなテーブルを囲む。

 正確には、巡は簀巻きのまま床に転がり、彩葉が介助し、ヤチヨがその横でやたらと満足げに座っているという、家族団欒と呼ぶにはかなり歪な光景だった。

 

 けれど、不思議と温かかった。

 狭いIRのアパートの一室。

 湯気の立つおじや。

 ネギ味噌ショウガの香り。

 卵の黄色。

 お玉を持つヤチヨの得意げな顔。

 匙を差し出す彩葉の少し困った横顔。

 そして、初めて取り戻す温度に目を細める巡。

 かぐやが彩葉に作ったおじやを、今度はヤチヨが巡へ作っている。

 失った味を、失った温度を、三人で囲んで取り戻していく。

 それは反省会の第二部というには、あまりにも食卓に似ていた。

 

「宵宮くん」

 

 彩葉が、三口目を食べさせた後で訊いた。

 

「戻したいって、思えた?」

 

 巡は少し黙った。

 おじやの温度が、まだ舌に残っているのだろう。

 睫毛の長い目元が伏せられ、口の中に残る味を確認するように、小さく息が落ちる。

 

「……思えた」

 

 やがて、巡は言った。

 

「ただ、まだ慣れない」

 

 巡は、喉の奥に残っている温度を確かめるように、ゆっくり息を吐いた。

 

「今まで、食べることはもっと簡単だった。口に入れて、飲み込んで、それで終わりだった。でも今は、まだ残ってる。温度も、匂いも、味も。……こんなに続くものだったんだね」

 

 巡は、自分の言葉に少し驚いたように目を伏せた。

 

「不思議だけど、嫌じゃない。閉じたままにしておくのは、少し惜しいと思った」

 

 ヤチヨが、少しだけ目を伏せた。

 

 泣きそうな顔をしていた。けれど泣く代わりに、いつものように口元だけを少し持ち上げる。彩葉は何も言わず、もう一匙すくった。

 

 今度は、ほんの少しだけ冷ましてから。

 

「じゃあ、少しずつね」

「うん」

「一人でやらないこと」

「分かった」

「黙って進めないこと」

「分かった」

「かぐやが食べられるようになるまで待つ、とか、またそれっぽいな理由を出して、自分を後回しにしないこと」

 

 巡は、少しだけ困ったように笑った。

 

「……そこまで言われると思っていた」

「思ってたなら、なおさら言わせないで」

「分かった。酒寄さん。今度は、ちゃんと相談する」

 

 彩葉は匙を差し出した。

 巡は、またひな鳥のように素直に口を開けた。

 簀巻きにされているという状況のひどさに反して、その仕草はあまりにも無防備で、彩葉の中にある怒りと庇護欲の境目をまた曖昧にした。

 はむはむ、と匙を啄ばむ姿に、言いしれない感情が背筋を這う。

 ヤチヨが横で、両手で顔を覆う。

 

「うわあ……」

「ヤチヨ?」

「いや、だめ。ヤッチョ、今ちょっと感情が忙しい。まだ怒ってるし、全然許してないんだけど、自分の作ったおじやで巡の温度が戻ってるのは、普通に嬉しい」

「素直」

「しかも彩葉に食べさせられてる絵面が強い。過去の私、いいアバターを作りすぎた。グッジョブ私」

「そこは反省して」

「無理。そこだけは褒めたい」

 

 それでも、彩葉は笑ってしまった。

 ヤチヨも笑った。

 巡も、少し遅れて笑った。

 狭いアパートの部屋に、三人分の笑い声が落ちる。そこへFUSHIの「ウマイ」が混ざり、鍋の中では卵おじやがまだ柔らかく湯気を立てている。

 八千年の孤独を、たった一杯のおじやで埋められるわけではない。

 閉じた感覚が、今日だけで全て戻るわけでもない。

 けれど、最初の一口は確かにここにあった。彩葉が差し出し、ヤチヨが作り、巡が受け取った。その小さな受け渡しは、反省会という名目には少し不似合いなくらい、静かで、柔らかくて、食卓に似ていた。

 湯気の向こうで、ヤチヨが小さく呟く。

 

「おかえり、巡の温度」

 

 巡はすぐには答えなかった。

 舌に残るショウガの刺激と、喉の奥に落ちていった温かさを、ひとつずつ確かめているようだった。やがて、彼は簀巻きのまま、少しだけ目を伏せる。

 

「……ただいま、でいいのかな」

「いいよ」

 

 彩葉が言った。

 

「そこは、ただいまでいい」

 

 ヤチヨも頷いた。

 

「よろしい」

 

 FUSHIが重々しく鳴く。

 

「ヨロシイ」

 

 反省会第二部。

 味覚と温感の返還について。

 その議事録の最初の一行は、きっと反省文よりずっと柔らかい。

 ネギと味噌とショウガと卵の匂いがして、湯気の向こうに三人分の笑い声が残っている、あたたかな一行だった。

 

 

 だが、あたたかな一行で終われないのが月見ヤチヨだった。

 かぐやだった際の悪童の面がむくむく、ともたげてきた。

 おじやの湯気がまだ白く立ち上り、ネギと味噌とショウガの匂いが狭いIRのアパートに残っている、その食後の柔らかな空気の中で、ヤチヨの胸にふと邪念が灯った。

 亀甲は、だめだった。

 センシティブ判定に弾かれた。

 それは分かる。過去の自分が仕込んだ健全設計は有能だった。未来の自分の暴走を、まるで月面基地の隔壁のようにきっちり封じていた。悔しいが認めるしかない。

 

 けれど、ならば。

 菱縄なら、どうだろう。

 思いついた瞬間、ヤチヨの指先はもう空中の管理者パネルを叩いていた。

 ぽん、と軽い確認音が鳴る。

 次の瞬間、巡を包んでいた簀巻き状の紐が、するすると光へほどけ、着物の上で菱形の飾り紐めいた配置へ組み替わっていった。

 危うい艶っぽさはツクヨミ側の安全補正で削がれているものの、見た目としては明らかにさっきより凝っている。

 

 そして何より。

 通ってしまった。

 センシティブ判定を、すり抜けてしまった。

 ヤチヨは一拍置いてから、両拳を握りしめた。

 

「勝った!」

 

 勝っていない。

 彩葉はそう思ったが、声勝に出すより早く、ヤチヨは天井へ向けて無駄に綺麗なガッツポーズを決めていた。

 

「正鵠を得たり! システムの隙間にヤッチョの知性が月光のごとく差し込みました! 感謝感激、雨アラモード!」

 

 高らかだった。

 無駄に高らかだった。

 湯気の立つおじや、菱目の飾り紐になった巡、満面の勝利顔をした管理人AI。

 そのすべてを見た彩葉は、匙を置いた。

 

 ことり。

 小さな音だった。

 けれど、その一音で部屋の温度が三度ほど下がった。

 

「ヤチヨ」

「……はい」

 

 彩葉の視線は冷たかった。

 怒鳴られるよりも、よほど怖い目だった。

 ヤチヨは、さっきまで天へ突き上げていた拳をそろそろと下ろし、肩を小さくして正座した。

 白銀の歌姫は、みるみるうちに叱られる直前の子どものような顔になった。

 

「よよよ……センシティブ判定の不備で、ツクヨミに緊急メンテナンスの告知しとくね~」

「そうして」

「はい……」

 

 ヤチヨはすごすごと管理者パネルを開いた。

 

【緊急メンテナンスのお知らせ】

【一部アバター表示プリセットにおいて、センシティブ判定の不備が確認されました。

 健全なツクヨミ運営のため、該当機能の一時停止および判定基準の修正を実施いたします。】

 

 送信。

 ぽん、と軽い音が鳴る。

 ツクヨミ全体へ、管理人AIの邪念が正式に緊急メンテナンス案件として配信されていった。

 FUSHIが、重々しく鳴いた。

 

「アウト」

「二回言われる前に自首したから、実質セーフでは?」

「アウト」

「二回言われた!」

 

 彩葉は深くため息をつき、まだ温かいおじやをもう一匙すくった。

 

「はい、宵宮くん。続き」

「うん」

 

 巡が困ったように笑いながら、素直に口を開ける。

 ヤチヨはその横で、反省した顔をしながらも、ほんの少しだけ勝利の余韻を捨てきれていない顔をしていた。

 ネギ味噌ショウガと卵おじや。

 味覚と温感の返還。

 そして、拘束表示プリセットのセンシティブ判定不備。

 反省会第二部の議事録には、余計な一行が増えた。

 こうして八千年分の反省会は、緊急メンテナンス告知を挟みながら、もうしばらく続くことになった。




・退散する朝日ニキ
 流石黒鬼のリーダー、高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変な対応だ

・くっそ汚い感謝感激、雨アラモード!
 悔い改めてどうぞ

・ヤッチョ渾身の禿アバター
 一点物のアバター。一般ツクヨミユーザーの権限では再現不可能らしい

・未来の自分(ロリに菱縄縛り)と過去の自分(センシティブ判定)が戦う展開
 男子ってこういうのが好きなんでしょ?

・このアバターに菱縄縛りする管理人AIが居るってマ?

【挿絵表示】
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