もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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お前はもう住んでいる

 現実へ戻る時の感覚は、いつも少しだけ目覚めに似ていた。

 ツクヨミの光が薄い膜のように剥がれ、古いIRアパートの畳の匂いも、裸電球の柔らかな明かりも、鍋の底に残った卵おじやの湯気も、視界の奥へゆっくり沈んでいく。

 代わりに戻ってきたのは、タワーマンションのリビングを満たす白い照明と、窓を細かく叩く雨音と、テーブルの上で冷めかけているコーヒーの黒だった。

 

 雨は、まだ降っていた。

 高層階の窓の向こうで、街の灯りが水滴に滲んでいる。

 道路を走る車のヘッドライトは白い尾を引き、遠くのビル群は輪郭をぼかされ、夜景全体が濡れたガラスの向こうで静かに呼吸しているようだった。

 部屋の中は乾いているはずなのに、雨の気配だけが壁や床へ薄く染み込み、さっきまでいたツクヨミの食卓の温度を、少しずつ現実の夜へ戻していく。

 

 巡はスマコンの接続を切ると、一度だけ手元を見下ろした。

 温度は、まだ完全には戻っていない。

 けれど、喉の奥には、さっき飲み込んだ卵おじやの名残がある気がした。

 実際には仮想の味覚プログラムであり、現実の胃に何かが落ちたわけではない。

 それでも、ショウガの刺激と味噌の丸い塩気と、喉の奥へ広がった柔らかな熱は、記憶という形でまだ身体の内側に残っていた。

 

 雨には、本来、冷たさがある。

 当たり前のことなのに、巡はその当たり前を、久しぶりに外側から眺めているような気分になった。

 

「では、私はそろそろ帰るよ」

 

 その声は、ごく自然に落ちた。

 反省会は一段落した。

 味覚と温感を戻すことについても約束した。

 ヤチヨのおじやで最初のリハビリも済ませた。

 ならば次は、それぞれの生活へ戻る。巡の中では、おそらくそういう結論付けだった。

 だが、彩葉はほとんど反射で顔を上げた。

 

「泊まっていきなよ」

 

 巡が瞬きをする。

 画面の中のヤチヨが、ぱっと顔を輝かせる。

 FUSHIが、リビングの端で「ふしゅっ」と小さく鳴く。

 

「酒寄さん、その提案は年頃の女子としては軽はずみが過ぎると思うんだけど」

 

 巡はかなり真面目に言った。

 彩葉は、言われてから一瞬だけ自分の発言を振り返った。

 確かに、字面だけ見れば大胆だった。

 女子の一人暮らしの部屋で、同年代の男子に向かって、夜に「泊まっていきなよ」と言っている。

 普通なら兄が胃を押さえる。保証人なら頭を抱える。

 社会通念という名の委員会が緊急招集される。

 

 けれど、彩葉の中では、それ以上に強い感情があった。

 今この雨の中へ、巡を一人で帰したくない。

 それは恋だの何だのと名付けるにはまだ粗く、けれど単なる心配よりは深い。

 八千年分の反省会を終えた直後に、また何事もなかったような顔で一人の生活へ戻ろうとする、その癖を見過ごしたくなかった。

 

「軽はずみじゃないよ。外、まだ雨だし」

「雨は問題ない。冷たさはまだ分からないから。ここから徐々に戻していくけど、今回は都合が良かった」

「それを都合が良かったって言うところが、もう駄目なんだよ」

 

 彩葉は即座に返した。

 巡は、ほんの少し首を傾げた。

 自分としては、ただ事実を述べただけなのだろう。

 雨に濡れても冷たくない。だから帰る上で支障が少ない。彼の中では、それで筋が通っている。

 通っているから、なお悪い。

 

「濡れることは分かるんでしょ」

「分かる。水分が衣服に含まれる重さと、布が肌に張り付く感覚はある」

「じゃあ問題あるよ。普通に風邪ひくし、普通に見てるこっちが嫌」

「風邪は、今の身体の健康状態なら避けられると思う」

「そういう問題じゃない」

 

 彩葉が眉を寄せると、画面の中のヤチヨが、今度は心底不思議そうに首を傾げた。

 

「そもそも、帰るってどこに?」

「私の家だけど」

「え?」

 

 ヤチヨは、本気で分からないという顔をした。

 それは、芝居がかった重さではなかった。

 所有を主張するような熱も、嫉妬に濡れた声もない。

 ただ、あまりにも自然に、当然のことが分からないという顔だった。

 

「巡が帰る場所は、ヤッチョの所でしょ?」

 

 部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 彩葉は、言葉に詰まった。

 重い。確かに重い。

 けれど、その重さは、今この場で突然積み上げられたものではなかった。

 八千年という時間の底に沈み、長い孤独と再会と喪失の中で、いつの間にかヤチヨの中では常識になってしまった重さだった。

 

 巡は姿と名前を変えながら、いつもかぐやの近くにいた。

 ある時は少年で、ある時は少女で、ある時は老いた人で、ある時は名前すら持たない旅人で。

 それでも、かぐやが一人でいる時、彼はどこかから現れた。

 だからヤチヨにとって、巡がどこか別の場所へ帰るという発想の方が、むしろ現代にだけ存在する奇妙な制度みたいに見えているのだろう。

 

「……かぐや」

 

 巡は、少し困ったように目を伏せた。

 

「現代には、住居というものがある」

「知ってるよ。ヤッチョ、タワマンも古いIRアパートもサーバールームも経験済みです」

「それなら、私の住居も分かると思う」

「分かるけど、納得は別だよ」

 

 ヤチヨは、画面の中で頬を膨らませた。

 

「巡がヤッチョの知らない場所へ帰るの、普通に変。八千年基準で言うと異常事態です」

「基準が八千年なのが、まず現代社会と相性が悪い」

「現代社会の方が八千年に合わせてほしい」

「無茶を言わないでほしい」

 

 彩葉は二人のやり取りを聞きながら、ふと現実的な点に気づいた。

 

「家の人には連絡しなくていいの?」

 

 巡は、少し考えるように瞬きをした。

 

「連絡する相手はいないよ。私は施設の出だから。今は一人で暮らしている」

 

 あまりにも淡々とした声だった。

 そこには、重い自己開示のための間も、気を遣わせないための予防線もなかった。

 ただ、出生地や最寄り駅を説明する時のような自然さがあった。

 施設の出であることも、家族がいないことも、巡にとっては数ある人生の条件のひとつに過ぎないのかもしれない。

 八千年という途方もない時間の中で、家族に恵まれた人生も、家族を持たない人生も、誰かを看取る人生も、誰にも看取られない人生も、きっと幾度となく通り抜けてきたのだろう。

 

 彩葉は、反射的に何か言いかけたが、言葉を飲み込んだ。

 かわいそう、でもない。

 大丈夫、でもない。

 そういう言葉で触る話ではない気がした。

 

「生活には困っていないよ。ライバー活動の収益もあるし、その後の運用もしている。問いの立て方を間違えなければ、資産を大きく減らす選択は避けられる」

 

 その瞬間、ヤチヨの顔がぱっと明るくなった。

 

「じゃあ、なんも問題ないね」

 

 じゅるり。

 実際に音がしたわけではない。

 けれど、そう聞こえた気がするほど、ヤチヨは露骨に口元を袖でぬぐった。

 彩葉は真顔で画面を見た。

 

「ヤチヨ」

「違うの彩葉。これは邪念ではなく、生活上の障害が少ないことへの純粋な喜びで」

「口元」

「よよよ」

 

 ヤチヨはしおらしく袖を下ろした。

 巡は、その反応にどう返すべきか迷ったらしく、少しだけ視線を横へずらす。

 八千年を経ても、こういう種類の情緒には正解が出にくいのだろう。

 彩葉は少しだけ呆れながら、しかし同時に、その言葉の端に引っかかっていた。

 問いの立て方。

 巡は、さっきから何度もその言い方をしている。

 

「問いの立て方を間違えなければ、って何?」

「言葉通りだよ」

「宵宮くん、前から思ってたけどさ」

 

 彩葉は腕を組んだ。

 思い返せば、引っかかることはいくらでもあった。

 雨の日の日傘。ヨミからの大会招待。狐面。昼休みの言葉。朝日に向けた表情の作り方。まるで、答えを先に知ってから行動しているような、妙に正確な手つき。偶然で片付けるには、宵宮巡の善意はいつも当たりすぎていた。

 

「それ、未来予知みたいなことできるよね?」

 

 巡はすぐには答えなかった。

 雨音が、その沈黙の隙間へ入り込む。

 窓の外で水滴が流れ、街の光が縦に滲んだ。ヤチヨも茶化さずに黙っている。

 白いFUSHIさえ、少しだけ浮遊の高さを落としていた。

 

「未来をそのまま見るわけではないよ」

 

 やがて、巡は言った。

 

「ただ、問いを立てると、かなり高い精度で答えが返る。何をすれば危険を避けられるか。どこへ行けば探し物が見つかるか。相手が本当に求めているものは何か。

 どの選択が、望む結果に近いか。そういうものが、筋道として分かる。答えが返ってくるからアンサートーカーって呼んでるんだけど」

「それ、ほぼ未来予知じゃん」

「近いことはできる。でも万能ではないよ。問いが間違っていれば、答えも使えない。答えが分かっても、実行できる身体や時間や材料がなければ意味がない。

 それに、人の心を直接読むわけでもない。状況と行動と過去から、一番筋の通る答えが落ちてくる、という方が近いかな」

 

 彩葉は、巡を見た。

 便利だと思った。

 同時に、少し嫌だとも思った。

 自分の努力や迷いや願いが、誰かの中で「答え」として処理されることへの抵抗が、胸の奥に小さく刺さる。

 けれど、巡がそれを何の痛みもなく使っているわけではないことも、もう分かっている。

 彼は答えが分かるから救えるのではない。答えが分かってしまうから、救えなかったものまで抱えてきた人間だ。

 

「じゃあ、私が本当にやりたいことも分かるの?」

 

 彩葉が訊いた。

 挑発ではなかった。けれど、試している響きはあった。

 巡は少しだけ目を伏せる。

 

「それはもう、味覚プログラムを予約更新する際に問いを立てていた」

「勝手に?」

「ごめん」

 

 謝罪は早かった。

 その早さに、彩葉は少しだけ言葉を詰まらせる。

 今さら、宵宮巡という人間が勝手に人の人生へ手を伸ばす性質を持っていることくらい、嫌というほど分かっている。

 だが、それでも、勝手に分かられることは少し怖い。

 

「それで?」

 

 彩葉は、あえて先を促した。

 巡は顔を上げる。

 

「かぐやの義体開発でしょ」

 

 部屋の空気が止まった。

 雨音だけが続いている。

 ヤチヨも、画面の中で言葉を失った。

 彩葉は、すぐには否定しなかった。否定できなかった。胸の奥にずっと置いていたものを、何の前触れもなく名指しされたような感覚だった。

 かぐやに身体を。

 現実で触れられる身体を。

 食べて、眠って、笑って、怒って、一緒に出かけて、風邪を引いたら看病できる身体を。

 それは、願いというより、もう人生の向きだった。

 

「……そこまで分かるんだ」

「うん」

「勝手に分かられるの、ちょっと嫌だね」

「そうだと思う」

「否定しないんだ」

「否定できない。だから、ごめん」

 

 巡は一度言葉を切った。

 その顔には、妙な潔さがあった。

 取り繕わない。言い訳もしない。悪いと分かっている。

 けれど、知ってしまった答えをなかったことにもできない。そういう顔だった。

 

「でも、知った以上は手伝いたい。月の技術を地球の技術として流用したり、感覚同期の基盤を整理したり、思念体を現実の身体へ接続するための理論を、扱える形にすること。そういう手伝いなら、私にもできる」

 

 ヤチヨが、ようやく息をしたように見えた。

 

「……私の身体の話だよ」

「うん」

「期待しちゃうよ」

「うん」

「駄目だったら、たぶん結構へこむよ」

「それでも、手伝う」

 

 ヤチヨの表情が揺れた。

 配信者としての笑顔でも、管理人AIとしての軽口でもない。

 かつて白いウミウシとして何千年もの時間を過ごし、誰かの手のひらや懐や肩の上から世界を見ていた存在の顔だった。

 現実に触れられる身体。温度を感じられる指。彩葉の隣に立てる足。

 望んではいけないと、どこかで思っていたものを、望んでもいいかもしれないと思わされる顔だった。

 

 彩葉は、巡を見た。

 さっきまで帰ろうとしていた人間が、今は手伝いたいと言っている。

 いや、正確には、帰してもらえないなら、手伝わせてほしいと言っている。

 逃げ道を塞がれたから居座るのではなく、居るなら役目を作ろうとしているのが、少し巡らしかった。

 

「……共同研究者、ってこと?」

「そうなると思う」

「じゃあ、酒寄さんはやめて」

 

 巡が瞬きをした。

 

「え?」

「共同研究者に、ずっと名字で呼ばれるの変でしょ。彩葉でいいよ」

 

 巡は少しだけ黙った。

 その沈黙は、ためらいというより、呼び方ひとつが関係性を変えることを正しく理解している人間の間だった。

 酒寄さん、という距離。

 彩葉、という距離。

 たった数文字の違いなのに、その間には玄関の扉一枚分くらいの境界がある。

 

「分かった」

 

 巡は、ゆっくりとその名前を呼んだ。

 

「彩葉(いろは)」

 

 たった三音だった。

 けれど、その三音で、部屋の空気が少し変わった。

 彩葉は、自分で言わせたくせに、胸の奥が変に跳ねるのを感じた。

 共同研究者。相棒。そう言い聞かせても、名字から名前へ移る瞬間には、思ったよりも温度があった。

 ヤチヨが画面の中で両手を頬に当てる。

 

「おお……共同研究者イベントで名前呼び解禁。これは実質、第一章クリア報酬では?」

「ヤチヨ、茶化さないで」

「は~い」

 

 ヤチヨは素直に黙った。

 けれど、顔は全然黙っていなかった。

 口元はにやけ、目はきらきらし、今にも「ヤオヨロ~!」と叫んで配信画面へ飛び出していきそうな顔である。

 

 

 彩葉は咳払いをして、現実の話に戻した。

 

 名前を呼ばせたのは自分だ。

 共同研究者なら名字のままでは変だと、そう言ったのも自分だ。

 だから、巡が「彩葉」と呼ぶこと自体に文句を言う筋合いはない。

 ないのだが、それでも、耳に残る三音は思ったよりずっと近かった。

 

 酒寄さん、という呼び方には、学校の廊下や教室の机一つ分の距離があった。

 彩葉、という呼び方には、同じテーブルに資料を広げるくらいの距離がある。

 あるいは、同じ雨音を聞きながら、同じ部屋に残ることを許すくらいの距離がある。

 

 その距離の変化を、彩葉はまだうまく扱えない。

 だからこそ、いったん現実的なことを考える必要があった。

 布団。部屋。兄への連絡。鍵。導線。世間体。

 そういう手触りのあるものへ意識を置けば、胸の奥で跳ねた妙な温度も、少しは落ち着くはずだった。

 

「泊まるにしても、リビングに雑に転がすのはさすがに落ち着かないし、ドアもないから逆に気を遣うよね」

 

 彩葉は立ち上がり、リビングの奥にある階段へ視線を向けた。

 この部屋は、タワーマンションの一室と言っても、内部に小さな二階を持つメゾネット型だった。

 彩葉が一人で住むには少し広すぎる、けれど家賃三十五万円というだけあって、安全面も管理も行き届いた部屋。

 その二階には、かつてかぐやが使っていた部屋が残っている。

 今はもう、誰かが毎日眠る場所ではない。

 けれど空っぽでもない。

 かぐやが使っていたクッション、配信用に置いた小物、月を模した柔らかな照明、彩葉が処分できずに残しているタオルケット。

 主のいない部屋というより、次に帰ってくる日を待っている部屋だった。

 

「二階の部屋、使って。前にかぐやが使ってた部屋。布団もあるし、着替えも……まあ、そこはお兄ちゃんの置き服をどうにかするけど」

 

 巡は階段の方を見た。

 その目が、ほんの少しだけ細くなる。

 部屋そのものを見ているというより、その向こうにいるはずだった誰かの気配を見ているようだった。

 

「かぐやの部屋を、私が使ってもいいのかな」

「いいよ」

 

 彩葉は、少しだけ強く言った。

 

「たぶん、ヤチヨも嫌がらないでしょ」

「嫌がるわけないじゃん」

 

 画面の中のヤチヨが、即座に胸を張った。

 

「むしろ、そこが一番自然です。巡がヤッチョの部屋を使う。うむ、ツクヨミ基準でも大変なじみがよい」

「や、ツクヨミにもそんな基準なんて無いから、部屋割りの根拠にしないで」

「でも実績があります。ヤッチョ、いっつも彩葉の布団にもぐり込んでたし。そこも同じにするの~?」

「しないからっ!」

 

 彩葉は、反射で力強く否定した。

 声が思った以上に大きくなり、リビングの白い照明の下で自分の顔が熱くなる。

 ヤチヨは画面の中で、にやにやと口元を緩めていた。

 言うと分かっていて言った顔だった。完全に確信犯である。

 

「おお、即答」

「当たり前でしょ。部屋は分ける。布団も分ける。階も分ける。ドアも閉める。そこは絶対」

「よよよ。彩葉の日本的奥ゆかしさが、八千年の親密さを一刀両断していく」

「八千年を免罪符にしない」

「でもヤッチョ、彩葉の布団にもぐり込むの好きだったよ」

「それは、かぐやが勝手に入ってきただけ」

「彩葉も途中から諦めてたじゃん」

「諦めと許可は違うのっ」

 

 巡が、困ったように二人を見る。

 

「私は、二階の部屋を使わせてもらえるなら十分だよ。布団にもぐり込む話は、私を含めない方向でお願いしたい」

「巡が正しい」

「巡が正しいけど、ちょっとつまらない」

「ヤチヨ」

「はい」

 

 ヤチヨは素直に黙った。

 けれど、やはり顔は黙っていなかった。

 白銀の歌姫の表情には、八千年分の親密さと現代日本の良識を同じ鍋に入れて、火加減を間違えたような危うさがある。

 彩葉はその顔を見て、今夜の監視役にヤチヨを含めるのは、本当に安全策なのかと一瞬だけ疑った。

 FUSHIが、空中で小さく鳴く。

 

「見張り」

「そう。FUSHI、見張りお願い」

「任せろ」

「頼もしい」

「巡を二人から守る、ちゃんと守る」

「獣(けだもの)認定されているの私たちなの!? 違うからね!?」

 

 彩葉の声が、リビングの白い照明の下で少しだけ裏返った。

 雨音の続く夜に、FUSHIの無邪気な断定は妙な破壊力を持っていた。

 白い小さな身体は、ぽよん、と空中で揺れながら、何の悪意もなさそうな顔でこちらを見ている。

 だからこそ余計に始末が悪い。悪意がない分、言葉の刃が真っ直ぐ刺さる。

 巡は一拍置いてから、困ったように笑った。

 

「私は、守られる側なんだね」

「そこを納得しないで。巡も何か否定して」

「二人に危害を加えられるとは思っていないよ」

「そういう丁寧な言い方じゃなくて」

「ただ、かぐやの情緒と彩葉の勢いが同時に噛み合った場合、私の発言権が著しく低下する可能性はあると思う」

「分析しないで」

「ほら彩葉。巡もこう言ってるし、FUSHIの見張りは必要だよ」

「ヤチヨは嬉しそうにしない」

 

 ヤチヨは画面の中で、にこにこと手を振っていた。

 悪びれる気配はない。

 むしろ、FUSHIの「巡を二人から守る」という判定を、自分に都合のいい形で解釈している顔だった。

 白銀の髪は画面内の光を受けてさらさらと揺れ、その笑顔だけ見れば、世界中に安心と月光を振りまく歌姫そのものなのに、中身は八千年基準で現代の境界線を踏み抜こうとする危険物である。

 

 彩葉は、片手でこめかみを押さえた。

 名前呼び。

 共同研究。

 二階の部屋。

 見張り。

 兄への連絡。

 

 やることが多い。あまりにも多い。

 しかも、そのすべてが一つひとつ、今までの生活の輪郭を変えていく。

 リビングに置かれた冷めたコーヒー、窓の外で滲む雨の夜景、巡の濡れた袖口、画面の中でにやつくヤチヨ。

 どれもが今夜という一枚の絵の中に収まりきらず、彩葉の頭の中で少しずつはみ出していた。

 だからこそ、現実側の手続きを先に済ませるべきだった。

 

「とにかく、お兄ちゃんに連絡する」

 

 彩葉がスマホを手に取ると、ヤチヨがぴたりと口を閉じた。

 さすがに朝日の名前が出ると、少しだけ自重するらしい。

 いや、違う。自重というより、兄という現実の防波堤がどれくらい機能するのか、興味津々で観測体勢に入った顔だった。

 

 彩葉は文面を考える。

 短すぎると誤解を招く。長すぎると余計に不安を煽る。

 しかも、今日の朝日はすでに、妹の部屋で同年代の男子が手錠をかけられて正座しているところを目撃し、八千年だの味覚だの温感だの、普通の保証人業務では絶対に扱わない単語を浴びせられている。

 これ以上、胃に負担をかけるのは申し訳ない。

 申し訳ないが、報告しない方がもっと悪い。

 彩葉は、少し迷ってから打った。

 

『宵宮くん、今夜だけ泊めることにした。雨で濡れてるし、帰すのも不安だから。二階の空き部屋を使ってもらう。部屋は完全に分けるし、変なことはない。一応報告しとくね』

 

 送信。

 数秒。

 既読がつくのが早すぎた。

 彩葉は思わずスマホを凝視した。兄の生活にも兄の予定にも、もちろん都合があるはずなのに、どうしてこういう時だけ即応するのか。

 ブラックオニキスのリーダーとしての反射神経なのか、妹関連の危機察知能力なのか、それとも単に胃の痛みでスマホを握りしめていたのか。

 返信も早かった。

 

『兄ちゃんの胃を何やと思ってるん?』

 

 彩葉は目を閉じた。

 気持ちは分かる。

 分かるが、今夜ばかりは引けない。

 

『胃薬が必要なら今度買っておくから』

『そういう話やない』

『事件性はない』

『その言い方やめてって前も言うたやろ』

 

 ヤチヨが画面の中で小さく吹き出した。

 

「朝日さん、だいぶ順応してきてるね」

「順応じゃなくて消耗だと思う」

「彩葉、ちゃんと労わってあげてね」

「原因の一部が言うことじゃない」

 

 巡は黙って二人のやり取りを見ていたが、彩葉のスマホがもう一度震えた瞬間、その視線が画面へ向いた。

 表示されたのは短い一文だった。

 

『宵宮くんに代わって』

 

 彩葉の指が止まる。

 画面の文字はそっけない。けれど、その短さの奥に、兄としての朝日の真面目さがはっきり見えた。

 彩葉を信じることと、巡へ釘を刺すことは、朝日の中で矛盾しない。

 妹の判断を頭ごなしに否定しない代わりに、現実側の責任ある大人として、必要な線は引く。

 それが酒寄朝日という人間なのだろう。

 彩葉は顔を上げた。

 

「巡」

 

 名前で呼ぶと、巡がこちらを見る。

 その自然さに、また彩葉の胸が少しだけ跳ねた。

 さっき自分で決めた呼び方なのに、まだ口の中で新しい。舌に馴染む前の言葉は、発音するたびに自分の方が揺らされる。

 

「お兄ちゃんが、巡と話したいって」

「分かった」

 

 巡はすぐに頷いた。

 スマホを受け取る手つきは落ち着いている。濡れた袖口がまだわずかに重そうで、リビングの照明の下、その指先は少し白く見えた。

 冷たさは分からないと言っていた。けれど濡れている事実はそこにあり、彩葉は改めて、早く乾いた服に替えさせなければと思う。

 巡はスマホを耳に当てた。

 

「宵宮です」

 

 スピーカーにはしていない。

 それでも、静かなリビングには、朝日の声が微かに漏れた。

 

『宵宮くん、急にすまんな。彩葉から聞いた。いや、正直、全部理解できてるとは言わへん。今日だけでも、兄ちゃんの処理能力はだいぶ使い切っとる』

「ご迷惑をおかけしています」

『ほんまにな』

 

 朝日は即答した。

 巡は少しだけ目を伏せる。

 その様子を見て、彩葉は胸の奥がわずかに縮むのを感じた。

 巡はこういう時、言い訳をしない。

 自分の置かれた状況の複雑さや、どれだけ不可抗力が混ざっているかを説明するより先に、相手の言葉をそのまま受けてしまう。

 朝日はまだ巡のそういう性質を深く知っているわけではないはずだが、電話越しの間で何かを察したのか、声を少しだけ柔らかくした。

 

『責めたいわけやない。ただ、兄として言うべきことは言わせてな。彩葉が君を信用してるのは分かる。俺も、君が悪い子やとは思ってへん。

 けど、それとは別に、妹の部屋に泊まる以上、線引きは絶対に守ってもらう。部屋は分ける。夜中に勝手に出入りせえへん。彩葉が嫌がることはせえへん。

 困ったことがあったら、まず彩葉に言う。それで判断に迷うことがあれば、俺に連絡する。ここまではええ?』

「はい」

『あと、これは君のためでもある。彩葉だけやなくて、君にも変な傷がついたらあかん。世間は事情なんか見てくれへん。何があったかより、どう見えるかで勝手に話を作る。

 せやから、疑われるようなことは最初から避ける。これは彩葉を疑ってるんやなくて、二人を守るための話や』

 

 巡は、少しだけ目を細めた。

 たぶん、その言葉は正しく届いたのだと彩葉は思った。

 彩葉を守るためだけではない。巡も守るため。朝日はそこまで言った。

 兄として、保証人として、そして多くの人間を見てきたブラックオニキスの帝アキラとして、彼は状況を無理に理解しきる前に、現実の線を引いている。

 

「承知しました。二階の部屋をお借りします。彩葉の許可なく、私から生活空間の境界を越えることはしません。何かあれば必ず確認します」

『……今、彩葉って言うた?』

 

 朝日の声の質が、ほんの少し変わった。

 彩葉は肩を跳ねさせた。

 巡は、真面目に答える。

 

「はい。共同研究者として、名字では距離があるという話になりました」

『共同研究者』

 

 朝日の声に、情報処理の限界が見えた。

 

『今日だけで、手錠、八千年、味覚、温感、泊まり、共同研究者、名前呼びまで増えたんか。兄ちゃん、もう胃だけやなくて脳も痛いわ』

「すみません」

『いや、ええ。ええわけやないけど、もうそこは後で彩葉から聞く。宵宮くん』

「はい」

『君、たぶん真面目すぎるくらい真面目なんやろうけど、真面目な人間が一番危ない時もあるからな。自分の判断だけで大丈夫やと思わんこと。彩葉が止めたら止まる。

 ヤチヨちゃん……でええんかな、そっちの見えへん誰かが煽っても乗らへん。FUSHIがアウト言うたらアウト。分かった?』

 

 画面の中で、FUSHIが「アウト」と誇らしげに鳴いた。

 ヤチヨが小さく拍手する。

 

「FUSHI、帝様公認アウト判定員だよ。出世したね」

「えっへん」

 

 彩葉はこめかみを押さえた。

 巡は、電話口へ真面目に返す。

 

「分かりました。彩葉が止めたら止まります。かぐやが煽っても乗りません。FUSHIのアウト判定にも従います」

『そこまで素直やと、逆に心配になるな……まあええ。彩葉に代わって』

「はい」

 

 巡はスマホを差し出した。

 彩葉は受け取り、耳に当てる。

 

「お兄ちゃん」

『彩葉』

「うん」

『無理はすんな。変な意味やなくても、今の彩葉は色々背負いすぎとる。ヤチヨさんのことも、宵宮くんのことも、研究のことも、全部いっぺんに抱えようとすると、たぶん足元が見えんようになる。

 泊めるなら泊めるでええ。彩葉が判断したなら、俺は頭ごなしには止めへん。でも、何か違うと思ったら途中でも変えなさい。二階に寝かせる、鍵をかける、俺を呼ぶ、何でもええ。彩葉が安心できる形にするんやで』

 

 朝日の声は、いつものように少し大げさで、少し胃を痛めていて、それでも最後には彩葉の足元を見てくれる声だった。

 彩葉は、胸の奥が少しだけ柔らかくなるのを感じた。

 

「分かってる。ありがとう」

『あと、事件性はないって言い方はやめなさい』

「そこ?」

『そこ大事や。兄ちゃんの寿命に関わる』

「はいはい」

『はいは一回』

「はい」

 

 通話が切れた。

 リビングには、また雨音が戻ってくる。

 彩葉はスマホを下ろし、ゆっくり息を吐いた。たった数分の電話なのに、部屋の空気が少し整った気がした。

 朝日はこの場にいない。ヤチヨも見えていない。八千年の事情など、ほとんど理解できていない。

 それでも彼は、現実側の杭を打ってくれた。ここから先へ流されすぎないように、夜の床へ一本、太い杭を。

 

「お兄さん、良い人だね」

 

 巡が言った。

 

「うん。今日でだいぶ胃を悪くしてたけど、良い兄だよ」

「それは大事にした方がいい」

「言われなくても」

 

 彩葉は、少しだけ笑った。

 それから、改めて巡を見る。

 

「じゃあ、二階の部屋を案内するね。巡」

 

 名前で呼ぶのは、まだ少し慣れない。

 けれど不自然ではなかった。

 巡はその呼び方を受け止めるように、静かに頷いた。

 

「お願いします。彩葉」

 

 ヤチヨが、また画面の中で両手を頬に当てた。

 

「おお……相互名前呼び。これは完全に共同研究者契約締結演出。月見ヤチヨ、拍手を禁じ得ません」

「拍手しないで」

「心の中でしてる」

「それならいい」

「ぱちぱちぱちぱち」

「口に出てる」

 

 FUSHIが「ぱちぱち」と鳴いた。

 

「FUSHIまで乗らない」

 

 二階へ上がる階段は、リビングの奥から静かに伸びていた。

 足を踏み出すと、木の段がわずかに軋む。タワーマンションの中とは思えない、少しだけ生活感のある音だった。

 彩葉は先に立ち、巡は一段分の距離を空けてついてくる。

 ヤチヨは画面の中からAR表示へ切り替わり、階段の横をふよふよと浮きながら、まるで自分の城を案内する管理人のような顔をしていた。

 

 二階の廊下は、リビングより少し暗い。

 壁際の間接照明が足元を淡く照らし、窓のない廊下に柔らかな影を作っている。

 雨音は下より少し遠く、代わりに空調の低い音が耳についた。

 彩葉は一番奥の扉の前で立ち止まり、少しだけ指先を止める。

 

 ここは、かぐやが使っていた部屋だ。

 開けるたびに、そのことを思い出す。

 彩葉はゆっくり扉を開けた。

 部屋の中には、淡い月の形をしたライトが置かれていた。

 ベッド脇の小さな棚には、かぐやが気に入っていたぬいぐるみが二つ並んでいる。

 窓際には、配信の小道具として買った星形のクッション。壁には何も貼られていないが、空白の壁すら、かぐやがいつか「ここに何か飾ろうよ」と言っていた気配を残しているようだった。

 

 使われていない部屋の匂いはしない。

 彩葉が時々掃除をしていたからだ。埃を積もらせたくなかった。

 帰ってくる場所のように残しておきたかった。

 義体開発なんて、まだ形にもなっていない願いを胸に抱えながら、それでもこの部屋だけは、かぐやがいつ戻ってきてもいいように整えていた。

 

「ここ」

 

 彩葉は言った。

 

「前にかぐやが使ってた部屋。今日はここ使って」

 

 巡は入り口で立ち止まり、部屋の中を見た。

 

 その視線は、礼儀正しいほど静かだった。勝手に懐かしがるでもなく、踏み荒らすでもなく、そこに置かれたものの意味をひとつずつ確認するように見ている。

 

「きれいにしてあるんだね」

「たまに掃除してたから」

「帰ってくる場所として?」

 

 彩葉は、少しだけ息を止めた。

 巡の問いは鋭い。

 けれど、責める響きではなかった。人の大切なものを柔らかく包む響きがあった。

 

「……うん。たぶん、そう」

 

 自分で答えて、彩葉は胸の奥が少し痛くなった。

 かぐやはここにいる。ヤチヨとして、ツクヨミの中にいる。

 画面越しに喋れるし、笑えるし、怒れる。

 それでも、この部屋を空けておきたかった。

 現実の身体を持ったかぐやが、いつか階段を上がって、この扉を開けて、ただいまと言う日のために。

 

 ヤチヨは、珍しく茶化さなかった。

 画面の向こうではなく、ARの姿で部屋の入り口にふわりと浮き、月のライトを見つめている。

 その顔には、嬉しさと申し訳なさと、どう扱えばいいか分からないほど大きな愛情を受け取ってしまった時の、少し泣きそうな沈黙があった。

 

「彩葉」

 

 ヤチヨが、小さく言った。

 

「うん」

「ありがと」

 

 彩葉は肩をすくめた。

 

「まだ、何もできてないよ」

「部屋を残してくれてるじゃん」

「それは……私がそうしたかっただけ」

「それでも嬉しいよ」

 

 ヤチヨの声は、いつもの配信者めいた明るさよりずっと柔らかかった。

 巡は、その二人のやり取りを黙って聞いていた。

 雨に濡れた服のせいで、袖口はまだ少し重そうだったが、彼は急かさなかった。

 ただ、部屋の入り口に立ち、かぐやのために残された場所を、自分が今夜借りることの重さを受け止めているようだった。

 

「使わせてもらうよ」

 

 巡は、やがて静かに言った。

 

「ありがとう。彩葉。かぐや」

 

 ヤチヨが、少しだけ目を丸くした。

 自分の部屋として残されていた場所に、巡が泊まる。

 八千年の感覚で言えば自然で、現代の感覚で言えば少し奇妙で、彩葉の感覚で言えば、たぶんその中間だった。

 

「布団、出すね」

 

 彩葉はクローゼットを開け、客用の布団を引っ張り出した。

 巡が手伝おうとすると、彩葉は一度止めかけたが、すぐに考え直した。

 共同研究者。相棒。なら、何でも一人でやる必要はない。

 

「そっち持って」

「分かった」

 

 二人で布団を広げる。

 白いシーツが空気を含んでふわりと膨らみ、ゆっくり床へ落ちる。

 その動きが、なんとなく小さな儀式のように見えた。誰かがこの部屋で眠る準備。

 帰る場所を一晩だけ貸す準備。あるいは、これから始まる共同研究の最初の仮拠点を整える準備。

 ヤチヨが、しみじみと言った。

 

「なんか、いいね」

「何が」

「かぐやの部屋に、巡の寝床ができてる」

「言い方」

「でも事実だよ」

「事実でも言い方」

 

 巡が少しだけ困ったように笑う。

 

「私は、朝日さんとの約束通り、ここから勝手に出ないようにするよ」

「そこまで厳密にしなくてもいいけど、夜中に何かあったら声かけて。勝手に大丈夫判定しないで」

「分かった」

「あと、濡れてるから、このあとちゃんと着替えて。お風呂も使って」

 

 言ってから、彩葉は少しだけ視線を逸らした。

 そこはまだ、現実的な課題として残っている。雨に濡れた人間をそのまま寝かせるわけにはいかない。

 だが、自分の生活空間で巡が風呂を使うという事実を、今はまだ直視しきれない。

 だからその話は、次の段階へ送る。今は部屋を整える。布団を敷く。線を引く。そこまででいい。

 ヤチヨが、にやりとした。

 彩葉は先に釘を刺す。

 

「ヤチヨ」

「まだ何も言ってないよ」

「言う顔だった」

「よよよ。彩葉の予測精度が上がっている」

「八千年分インストールされてるからね」

「それは強い」

 

 巡は、ふと窓の方を見た。

 二階の部屋の窓にも、雨粒が細く流れていた。

 リビングから見る夜景より少しだけ角度が違い、街の光は低く、遠く、静かに滲んでいる。

 雨に濡れた世界は冷たいはずなのに、その冷たさはまだ巡には届かない。だが、部屋の空気には別の温度があった。

 

 誰かが残してくれた部屋。

 誰かが敷いてくれた布団。

 誰かが釘を刺してくれた現実の線。

 それらは、味噌やショウガのように舌へ残るものではない。

 けれど、閉じたままにしていた感覚のどこかを、静かにノックしてくるものだった。

 

「……ここが、今夜の私の部屋なんだね」

 

 巡が言った。

 

「今夜だけね」

 

 彩葉は、少しだけ強調した。

 ヤチヨが横で小さく笑う。

 

「今日のところは、ね」

「ヤチヨ」

「はい」

 

 巡は困ったように、けれどどこか柔らかく笑った。

 

「今夜だけでも、十分だよ」

 

 その言葉は、雨音に紛れるほど静かだった。

 けれど彩葉には、ちゃんと届いた。

 八千年分の反省会は、一段落した。

 味覚と温感は、少しずつ戻していくことになった。

 彩葉とかぐやの願いは、共同研究という形で巡の手も借りることになった。

 そして、帰ると言った巡は、今夜、かぐやのために残されていた二階の部屋で眠ることになった。

 窓の外では、雨がまだ降っている。

 その雨音はもう、誰かを遠ざける音ではなかった。

 タワーマンションの壁を静かに叩き、リビングと二階の部屋を包み、まだ名前のついていない共同生活未満の夜を、柔らかく縁取る音だった。

 

 

 濡れたままの服で寝かせるわけにはいかない、という結論は、誰が見ても妥当だった。

 妥当だったはずなのに、巡がタオルと着替えを受け取り、浴室へ向かう背中を見送った瞬間、彩葉の中でその妥当さは急に輪郭を変えた。

 雨に濡れた男物の私服。

 兄の置き服。洗面所の扉。浴室の曇り硝子。

 その一つ一つはただの生活用品で、ただの家の中の風景でしかないのに、そこに巡という名前が入り込んだだけで、見慣れた部屋の空気が少しだけ他人行儀になる。

 

「じゃあ、借りるね」

「うん。タオル、足りなかったら言って。あと、体調おかしいと思ったらすぐ呼んで。勝手に大丈夫って決めないで」

「分かった。彩葉」

 

 名前を呼ばれた。

 たったそれだけで、彩葉は返事のタイミングを半拍失った。

 共同研究者だから、名前で呼んでいいと言ったのは自分だ。

 さっきから何度もそう言い聞かせているのに、生活空間の中で、しかも浴室の前で呼ばれると、同じ三音でも妙に近い。

 研究室で呼ばれる名前と、家の廊下で呼ばれる名前は、どうしてこんなに響き方が違うのか。

 

「……うん。分かってるならいい」

 

 巡は小さく頷き、脱衣所へ入った。

 扉が閉まる音は静かだった。ぱたん、というほど軽くもなく、ばたん、というほど乱暴でもない。

 生活の境界線が一枚下りるような音だった。

 ほどなくして、浴室の方から水音が聞こえ始める。

 シャワーの水が床を叩く、細かく柔らかな音。換気扇の低い唸り。窓を打つ雨音。

 それらが重なって、タワーマンションの夜は急に現実の湿度を帯びた。

 

 彩葉はリビングのソファへ戻り、何でもない顔でクッションを抱えた。

 何でもない。

 雨に濡れた客人が風呂を借りているだけだ。兄にも連絡した。部屋も分けた。FUSHIもいる。ヤチヨもいる。線引きは済ませた。だから何も問題はない。

 ない、はずなのに。

 自分の部屋の浴室で、巡が今、湯を浴びている。

 その事実だけが、妙に生々しく、彩葉の頭の中へ居座った。

 具体的な何かを考えたわけではない。

 ただ、普段は完全に自分だけのものだった生活空間に、同年代の男子の気配が入り込んでいる。

 その違和感と、くすぐったさと、落ち着かなさが、胸の内側を指先でそっと撫でていく。

 

 顔が熱い。

 彩葉はクッションへ顎を沈めた。

 

「彩葉ぁ~」

 

 画面の中から、甘ったるい声がした。

 見る前から分かる。絶対ににやにやしている。

 そう確信しながら視線を向けると、案の定、白銀の歌姫は頬杖をつき、月よりも明るい悪戯顔でこちらを覗き込んでいた。

 

「照れてる?」

「照れてない」

「でも顔赤いよ」

「照れてない」

「浴室の方、見た」

「見てない」

「見たよね。今、彩葉の中の日本的奥ゆかしさと、共同研究者イベントで名前呼び解禁された情緒が、湯気みたいに混ざってる顔してる」

「変な実況しないで」

 

 彩葉は即答したが、声の硬さがかえって何かを証明してしまっている気がして、言った直後に少しだけ後悔した。

 ヤチヨは、そこを見逃さない。

 画面の中で、白銀の歌姫は頬杖をついたまま、いかにも分かっていますという顔で目を細める。

 配信で何万人ものコメント欄を手玉に取ってきたその表情は、こういう時だけ無駄に鋭い。

 人の心の柔らかいところを、悪意なく、しかし遠慮もなく、ぷにぷに突いてくる。

 

「彩葉、今の否定、ちょっと早すぎたよ」

「早くない」

「早かった。ヤッチョ調べでは、照れてる人ほど否定が早いです」

「どこの調べ」

「月見ヤチヨ脳内統計」

「信用できない」

「でもサンプル数はヤッチョの人生分膨大にあるよ?」

「数の暴力で攻めてくるの禁止」

 

 彩葉はクッションを抱き直し、わざと浴室の方を見ないようにした。

 見ないようにした時点で、意識しているのと同じだと分かっている。

 それでも、視線の置き場を決めておかないと落ち着かなかった。

 窓の外を見る。雨が降っている。テーブルを見る。コーヒーが冷めている。床を見る。FUSHIがふよふよ浮いている。

 どこを見ても、結局、浴室の水音が記憶からリフレインしてくる。

 頭の中のシャワーの水が床を叩く音は、雨音よりも近い。

 近いから、余計に困る。遠くの雨なら風景で済むのに、部屋の中の水音は、生活の内側へ誰かを入れてしまった証拠のように響いていた。

 

「ふむ」

 

 ヤチヨが、何かを思いついた顔をした。

 彩葉は、その一音だけで嫌な予感を覚えた。

 

「ヤチヨ」

「まだ何も言ってないよ」

「今、言う前の顔だった」

「彩葉、ヤッチョのこと分かりすぎでは?」

「八千年分インストールされてるからね」

「それは以心伝心だね」

 

 ヤチヨは感心したように頷いた。

 だが、頷きながら、画面の端へ身体を寄せる。

 次の瞬間、スマコンの表示がふわりと揺れ、リビング空間にARのヤチヨが投影された。

 白銀の髪が光の粒子をまとって広がり、彼女は画面の中から抜け出すように、ふよ、と宙へ浮かぶ。

 彩葉は、ゆっくりと目を細めた。

 

「どこ行くの」

「巡の様子を見に」

「見に行かない」

「でも、安否確認は大事だよ。雨に濡れてたし、温感リハビリ初日だし、シャワーの温度設定が分からなくて困ってるかもしれないし」

「困ったら呼ぶって言ってた」

「転ぶかもしれない」

「転んだ音がしたら行く」

「のぼせるかもしれない」

「まだ入ってからそんなに経ってない」

「ヤッチョがいないと寂しいかもしれない」

「それはない」

「ひどい即答!」

 

 ヤチヨは胸を押さえ、大げさによろめいた。

 しかし、そのよろめきは明らかに進行方向をごまかすための演技だった。

 彼女の足先、正確にはARなので足先というより投影の重心が、じりじりと浴室へ向かっている。

 白銀の髪がふよふよ揺れ、衣装の裾が月光めいた粒子を散らしながら、まるで悪戯好きの小型衛星みたいに廊下方向へ滑っていく。

 彩葉は立ち上がった。

 

「待って」

「よよよ?」

「今、自然に行こうとしたよね」

「自然ではなく、八千年培われた流れるような導線です」

「もっと悪い」

「だって、彩葉」

 

 ヤチヨは振り返った。

 その顔は、半分ふざけていて、半分だけ本気だった。

 

「ヤッチョ、まだ今の巡の全部を見てないんだよ」

「言い方!」

「彩葉はヤッチョの全部を見たでしょ。八千年分、ウミウシ時代から月見ヤチヨまで、いいところも悪いところも、恥ずかしいところも、泣いたところも、調子に乗ってるところも、だいたい全部。

 だけどヤッチョは、今の巡のことをまだ全部知らない。昔の巡は知ってる。いろんな時代の、いろんな姿の巡は知ってる。でも今ここにいる宵宮巡は、まだ知らないことが多い。だから、こう、確認を……」

「確認の方向が間違ってる!」

 

 彩葉は声を上げた。

 ヤチヨは両手を上げる。

 

「よよよ。そこまで怒らなくても」

「怒るよ。普通に怒るよ。八千年分の親密さがあっても、現代日本には現代日本の距離感があるの。浴室は個人領域。入浴中は不可侵。

 安否確認は声かけまで。無断突入は駄目。ヤチヨ、その宇宙人的感性を日本の奥ゆかしい感性にアプデして」

「アップデートには再起動が必要です」

「今すぐ再起動して」

「再起動中に巡が出てきたら見逃す」

「見逃していいの!」

「よよよ……」

 

 ヤチヨはうなだれた。

 だが、うなだれながらも、視線はまだ浴室の方へ向いている。

 彩葉はその目線を見逃さなかった。

 

「ヤチヨ」

「はい」

「戻って」

「一歩だけ」

「戻って」

「半歩だけ」

「戻って」

「せめて浴室前の廊下まで」

「戻って」

 

 彩葉の声が、一段低くなった。

 その瞬間、リビングの空気が少しだけ締まった。雨音とシャワー音の間で、ヤチヨの表情がぴたりと止まる。

 さすがに、これ以上は本気でまずいと判断したのだろう。彼女はしゅんとした顔で、ふよふよとリビング側へ戻りかけた。

 戻りかけた。

 その時だった。

 

「アウト」

 

 低く、短い声がした。

 FUSHIである。

 白い小さな身体が、いつの間にかリビングの端から浮上していた。

 普段は柔らかく、丸く、どちらかといえば抱き枕めいた存在感のFUSHIが、その時だけは妙に厳粛だった。

 小さな目がきりりと細まり、ぷるぷるした身体の表面に、謎の決意が満ちている。

 ヤチヨが振り返る。

 

「FUSHI?」

「アウト予防、帝に任された、ふしゅー」

「予防アウトはさっき聞いたけど、今はもう戻ろうとして――」

「フライング──」

「え?」

 

 次の瞬間、FUSHIが飛んだ。

 飛んだ、というより、弾んだ。

 白い身体が空中でぎゅっと縮み、ばねのように反発し、ぽよん、という音を置き去りにして一直線にヤチヨへ突っ込んでいく。

 AR同士のはずなのに、なぜか質量があるように見えた。

 いや、ツクヨミ管理下の投影存在同士だからこそ、そこには謎の当たり判定が成立しているのかもしれない。

 

「ちょ、FUSHI、待っ――」

「──ボディーアタック、イクゾー!」

 

 ぽふん。

 

 やたら可愛い音がした。

 だが威力は可愛くなかった。

 FUSHIのフライングボディーアタックを胸元に受けたヤチヨは、月面で隕石に衝突されたみたいな大げさな軌道を描き、くるりと半回転してソファの上へ沈んだ。

 実体のないARのはずなのに、ソファのクッションがわずかに沈んだように見えるのは、たぶんヤチヨがわざと演出過多にしたせいである。

 

「よよよ……ヤッチョ、現実世界の奥ゆかしさに敗北……」

 

 ヤチヨはソファに仰向けになり、片手を額へ当てた。

 FUSHIはその上にぽすんと乗り、勝利宣言のように鳴く。

 

「ヤチヨ、討ち取ったり!」

「ナイスFUSHI。そのままヤチヨを拘束しといて」

「承った、フン! フン!」

「ぐえ~☆」

 

 彩葉は深く息を吐いた。

 力が抜ける。

 FUSHIはヤチヨのお腹の上でぴょんぴょん、飛び跳ねて容赦のない追撃を掛けている。

 

 怒っていたはずなのに、最後があまりにも間抜けで、胸の奥に詰まっていた熱まで一緒にほどけてしまった。

 浴室からは、まだシャワーの音が続いている気がする。

 巡はたぶん、このリビングで白銀の歌姫がFUSHIに撃墜されたことなど知らない。

 知らなくていい。

 知られたら、また困った顔で「私のせいかな」と言い出しかねない。

 

「彩葉ぁ……」

 

 ヤチヨが、FUSHIの下から弱々しく手を伸ばす。

 

「ヤッチョ、ただ巡の安否を確認したかっただけなのに」

「安否確認は言い訳。浴室方面、侵入禁止。今夜だけじゃなくて、今後も」

「恒久メンテナンス案件?」

「そう」

「よよよ……ツクヨミ管理人、現実世界の浴室マナーに敗北……」

「勝とうとしないで」

 

 FUSHIが、得意げに胸を張った。

 

「マナー、ダイジ」

「本当に大事」

 

 彩葉はソファに座り直し、クッションを抱えた。

 雨はまだ降っている。窓の向こうで街の灯りが滲み、浴室からは水音が続き、リビングではFUSHIに沈められたヤチヨがよよよと呻いている。

 八千年だの義体開発だの共同研究だの、人生を丸ごと揺らすような話をした夜の終わりにしては、あまりにも締まらない。

 

 けれど、その締まらなさが、少しだけ救いでもあった。

 重いものを重いまま抱え続けたら、きっと誰かが潰れてしまう。だから時々、こうして白いマスコットが全力で飛んで、白銀の歌姫をぽふんと沈めるくらいでちょうどいいのかもしれない。

 彩葉は、浴室の方を一度だけ見た。

 それから、すぐに視線を戻す。

 

「……巡が出てくるまで、大人しくしててね」

「はい……」

「FUSHI、見張り継続」

「マカセロ」

 

 FUSHIはヤチヨの上で、もう一度ぽよんと弾んだ。

 

「重い、重いよFUSHI。物理的には軽いはずなのに……」

「アウトの、重み」

「そんな概念ある?」

「アル」

 

 彩葉はとうとう小さく笑った。

 雨音の夜、二階には巡のための布団が敷かれ、浴室では濡れた服を脱いだ客人が湯を浴び、リビングでは宇宙人的感性を持つ管理人AIが、現実世界の奥ゆかしさとFUSHIの体当たりによって制圧されている。

 八千年分の反省会は、確かに一段落した。

 けれど、共同生活未満の夜は、始まったばかりだった。




・胃を痛めてる鬼ぃちゃん
 この後、乃依くんに心配されていつもより甘々に対応される模様

・一晩泊ったクソボケ
 もう帰れないぞ♡

・帰る場所は、ヤッチョの所でしょ?
 読者が想像する通り、これ以降も帰す気などサラサラない

・7/12はかぐやの誕生日
 公式から供給された誕生日イラストは草生える
 あれは「そんならかぐやもう一回」が成功した世界線の絵なのか、
 それとももと光る竹を掘り返した世界線で受肉した絵なのか、
 超かぐや姫道は深い……
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