もうちっとだけハッピーにするんじゃ   作:加賀美ポチ

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もうやめて!芦花のライフはゼロよ!

 昼休みの屋上は、校舎の喧騒から半歩だけ外れた場所にあった。

 階下からは椅子を引く音や、弁当箱の蓋を開ける音や、誰かが廊下で笑う声が薄く届いている。

 けれど、屋上へ出る扉を一枚隔てると、それらは水の底で鳴る鐘のように遠くなり、代わりに風がフェンスを撫でる音と、空調設備の低い唸りだけが耳に残った。

 

 屋上には、学校側が昼食や休憩のために設置したベンチがいくつか並んでいる。

 昼時には陽当たりの良い場所から順に埋まるのだが、今日の芦花と真実は、屋上入口の建物の壁際、ちょうど日差しが陰になる場所を選んで陣取っていた。

 逃げ場を塞ぐには、ちょうどいい場所だった。

 彩葉は、二人の前に座らされた。

 座った、ではなく、座らされた、である。

 

 真実は膝の上に広げたランチクロスに、彩りの良いサンドイッチと小さなスープジャーを並べていた。

 芦花はコンビニで買ったらしいおにぎりをまだ開けず、膝の上に置いたまま腕を組んでいる。

 二人とも昼食を広げてはいるが、食べるためというより、詰問を日常の形へ偽装するために置いているだけだった。

 風が吹き、真実の前髪が少し揺れた。

 芦花が、最初に口を開いた。

 

「で?」

 

 短い。

 けれど、その一音に全部入っていた。

 彩葉は視線を少しだけ逸らし、屋上のフェンス越しに見える校庭を見た。

 もう昼食を食べてしまった男子生徒たちが、遠くで小さく動いている。

 あの距離なら、どんな説明をしても聞こえないだろう。

 聞こえないことに安堵しながらも、聞こえない場所へ連れてこられた事実に、胃のあたりが少し重くなる。

 

「で、とは」

「今朝」

 

 芦花は逃がさなかった。

 

「彩葉が、宵宮くんと、同じ方向から、同じ時間に、同じ空気で登校してきた件について」

「同じ空気って何」

「見れば分かるやつ」

 

 真実がサンドイッチを持ち上げかけて、やっぱり置いた。

 

「私、朝からずっと気になってたんだけど、あれは同伴登校? お泊まり明け? それとも昨日の夜に世界観が急にジャンル変更した?」

「言い方」

「彩葉が言える立場?」

「……ないです」

 

 彩葉は観念した。

 二人の視線が痛い。怒っているというより、混乱している。

 混乱しているから、まず事実を出せ、という顔だった。

 友人としての心配と、同級生としての好奇心と、親友が知らないところで何か巨大な面倒事に巻き込まれているのではないかという警戒が、三つ編みにされてこちらへ差し出されている。

 

 彩葉は息を吸った。

 何から話せばいいのか。

 昨夜、巡を泊めたことから話すべきか。

 けれどそれでは、肝心の理由に辿り着く前に真実のサンドイッチが空中で止まる。

 ヨミが巡だったことから話すべきか。

 けれどそれも、どうしてヨミが今さら出てくるのかという話になる。

 かぐやの八千年から始めるべきか。だが八千年から始める説明は、もはや昼休みの屋上でする会話ではない。

 

「まず、昨日の件なんだけど」

「昨日の件が複数ありそうないいぶりなんだけど」

 

 芦花がすかさず言った。

 彩葉は黙った。

 真実が目を細める。

 

「複数あるんだ」

「……ある」

「あるんだ」

 

 真実がスープジャーの蓋をそっと閉めた。

 

「食べながら聞く話じゃない気がしてきた」

「それはたぶん正しい」

 

 彩葉は両手を膝の上で握った。

 それから、できるだけ順番を選びながら話し始めた。

 昨日、宵宮巡がかぐやにとってただの同級生ではないと分かったこと。

 かぐやが月へ帰った後、地球へ戻ろうとして、八千年前へ落ちていたこと。

 巡が、魂だけでそのかぐやについていき、何度も転生しながら八千年のあいだ寄り添っていたこと。

 

 言葉にすると、すべてが嘘みたいだった。

 自分で話しているのに、途中で何度も現実感が剥がれそうになる。

 屋上のベンチ。昼休みの弁当。校舎の白い壁。フェンス越しの青空。

 その現実的すぎる背景の中で、「八千年」「転生」「ツクヨミ」「ヨミ」「感覚遮断」などという単語が次々に出てくるものだから、彩葉自身の声まで少しだけ浮いて聞こえた。

 

 芦花は、最初の数分こそ眉をひそめていたが、途中から口を挟まなくなった。

 真実も、食べ物へ向かう手を完全に止めていた。

 説明が進むにつれ、二人の表情は、疑いから困惑へ、困惑から情報過多による無言へと変化していく。

 真実は一度だけ「え、ヨミ?」と呟き、芦花は「八千年って単位、会話で出していいやつなんだ」と乾いた声で言ったが、それ以上は遮らなかった。

 

 彩葉は、最後に昨夜のことを話した。

 反省会をしたこと。味覚と温感を戻す話をしたこと。

 雨が降っていて、巡が帰ろうとしたこと。

 かぐやのために残していた二階の部屋を貸したこと。朝日にも連絡したこと。

 全部話し終える頃には、昼休みの屋上は妙に静かになっていた。

 風だけが通る。

 真実のスープジャーからは、もう湯気がほとんど立っていない。

 

「……ごめん」

 

 最初に口を開いたのは、芦花だった。

 

「私、だいぶ頑張って聞いたけど、今の話の全部が全部を分かったとは言えない」

「うん」

「八千年のあたりで、脳が一回停止した」

「私も」

 

 真実が真顔で頷いた。

 

「ヨミが同級生男子で、同級生男子がかぐやちゃんの八千年の恩人で、しかも昨日彩葉の家に泊まったって、情報の味が全部濃すぎる。フルコースなのに全部メインディッシュみたい」

「ごめん」

「謝るところかどうかも、まだ分からない」

 

 芦花はおにぎりの包装をようやく開けた。だが食べるわけではなく、ただ指先で包装の端を整えながら、言葉を選ぶように続けた。

 

「でも、彩葉が嘘をついてないのは分かる。あと、宵宮くんが、かぐやちゃんにとって大事な人なんだろうってことも、たぶん分かった」

「うん」

「それと、昨日泊めたのが、単なる勢いの恋愛イベントじゃないことも」

「そこは本当に違う」

 

 彩葉は力を込めて言った。

 真実がようやくサンドイッチを一口かじり、しばらく噛んでから、少しだけ眉を下げた。

 

「彩葉、顔が昨日より疲れてる」

「寝たよ」

「睡眠時間の話じゃないよ。表情の栄養素が足りてない」

「グルメインフルエンサーみたいな診断しないで」

「私、食べ物以外も見るから」

 

 真実はそう言って、もう一口食べた。

 その仕草だけが、いつもの昼休みに少しだけ近かった。

 けれど、芦花の声はまだ真面目だった。

 

「放課後、会わせて」

「巡に?」

「宵宮くんにも。ヤチヨにも。できれば、ツクヨミで」

 

 彩葉は目を上げた。

 

「いいの?」

「ここまで聞いて、会わないまま納得できるほど器用じゃない。知識だけで飲み込めないなら、実物を見るしかないでしょ」

 

 真実も頷いた。

 

「私も。ヨミが宵宮くんって言われても、まだ実感がない。頭の中で、同級生男子と伝説の配信者が別々の椅子に座ってる。どっちかに統合しないと、食欲に支障が出る」

「食欲基準なんだ」

「大事だよ」

 

 彩葉は、少しだけ笑った。

 笑えたことに、自分で少し驚いた。

 

「分かった。放課後、ツクヨミで会ってもらう」

 

 そう言うと、芦花はようやくおにぎりを口へ運び、真実はサンドイッチをもう一つ手に取った。

 説明は、終わった。

 理解は、まだ追いついていない。

 けれど、二人は逃げなかった。

 彩葉はそれだけで、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどけるのを感じた。

 屋上の風はまだ少し冷たい。

 けれど、昼の光は校舎の縁を白く照らし、ベンチの上に広げられた昼食の影を柔らかく伸ばしていた。

 

 

 放課後。

 ツクヨミの「まみまみ邸」は、現実の屋上とはまるで違う温度をしていた。

 夜霧の漂う水上回廊に、赤い欄干が仄かな和灯りを映している。

 足元の水面には遠くの五重塔めいた建物と電子的な光が揺れ、古い高級旅館と未来都市を一つに溶かしたような景色が広がっていた。

 

 水面に面した濡れ縁には、大きなソファが置かれている。

 以前、彩葉が初配信を終えた夜、芦花と真実に半ば引きずり込まれるように座らされた場所だ。

 まみまみ邸はいつ来ても、どこか打ち明け話のために用意された部屋のような気配がある。

 

 芦花と真実は、そのソファの前で待っていた。

 そして今日は、そこに巡もいた。

 ただし、現実の教室で見慣れた、制服姿の宵宮巡ではない。

 ツクヨミの内部で彼が纏っていたのは、彩葉が以前、ブラックオニキスとの実戦を想定した練習配信で見た、あのヨミのアバターだった。

 

 夜の色を薄く溶かしたような黒髪は、肩へ届く手前で切り揃えられ、毛先だけが紫へ淡く滲んでいる。

 瞳もまた、月光を含んだような紫。

 衣装は白と黒を基調にした和洋折衷で、首元の詰まった黒のインナーに、たっぷりとした白い袖、そして墨を流したような黒の袴風の下衣が重ねられている。

 指先には黒手袋、足元には編み上げの厚底ブーツ。

 片側の髪には、梟の羽を思わせる細工の髪飾りが留められていて、その意匠がこの空間の夜霧と水面の光に妙に馴染んでいた。

 

 現実の巡とは違う。

 けれど、違うのに、確かに同じだった。

 彩葉がその姿を見つめているあいだに、ROKAのアバターを纏った芦花と、まみまみのアバター姿の真実もまた、ソファの前で息を潜めるように立っていた。

 二人とも、昼休みに屋上で話を聞いた時よりは、覚悟を決めた顔をしている。

 それでも、目の前に現れた存在が「理解しているつもり」と「本当に分かる」のあいだへ立っていることは、表情を見れば十分だった。

 濡れ縁に近い位置で一礼したヨミが、まず静かに口を開いた。

 

「こんにちは、綾紬さん、諌山さん」

 

 それは、丁寧で、ごく自然な挨拶だった。

 だが、そのたった一言が、二人の中でまだ半分霧の中にあった図式を、一気に現実へ引きずり下ろした。

 綾紬さん。

 諌山さん。

 ライバーのヨミが、学校のクラスメイトとしての姓を、なんの淀みもなく呼ぶ。

 真実の目が見開かれ、芦花の肩がほんのわずかに強張る。

 彩葉には、その反応が手に取るように分かった。

 配信の向こうにいる存在が、ただ同級生と「同一人物です」と説明されるのと、実際に自分の現実の名前を呼ぶのとでは、実感の解像度が違う。

 後者は、理屈ではなく感覚に直接落ちてくる。

 

「……あ」

 

 最初に声を漏らしたのは真実だった。

 いつもなら食レポの一つも挟みそうな彼女が、今は言葉を選ぶ以前に、飲み込むこと自体へ苦労している顔をしている。

 

「え、ちょっと待って。いま、名字で呼ばれた」

「呼ばれたね」

 

 芦花の返事も、少し遅れた。

 だが、その遅れの中には、ようやく目の前の輪郭が繋がった時の、妙な眩暈のようなものが滲んでいた。

 

「……本当に、宵宮くんなんだ」

 

 ヨミは、それに対して大げさに何かを言うでもなく、ただ少しだけ目元を和らげた。

 

「うん。改めて、そういうことになる」

 

 その声音まで、もう隠しようがなかった。

 教室で静かに話す宵宮巡の声と、画面越しに聞いていたヨミの声が、まるで二枚重ねの薄紙みたいにぴたりと重なる。

 別々に覚えていたはずの音が、もともと同じものだったと知る瞬間の、不思議な落差がそこにあった。

 真実は片手で額を押さえた。

 

「屋上で聞いた時も情報過多だったけど、これは……うん、だめ。いま本当に、頭の中で別々の椅子に座ってた『宵宮くん』と『ヨミ』が、同じ椅子に無理やり座らされた感じがする」

「二人掛けの椅子じゃなくて、一人用の椅子にね」

 

 芦花が乾いた声で補足する。

 

「だから脳がぎゅうぎゅうになってる」

「分かる……」

 

 彩葉はそのやり取りに、少しだけ息をついた。

 昼休みの説明ではどうしても薄くなってしまっていた部分が、いま、たしかに埋まっていく。

 巡がヨミだった。ヨミが巡だった。

 言葉にすれば単純だが、受け取る側の中でその二つが結びつくには、やはり「本人がそこにいる」ことが必要だったのだろう。

 

「混乱させてしまって、ごめん」

 

 ヨミが言うと、芦花が首を横に振った。

 

「それはたぶん、謝られてもどうしようもない種類のやつ。こっちが慣れるしかない」

「慣れたくはあるけど、今日一日じゃ無理だと思う」

 

 真実が真顔で言う。

 

「でも、会ってよかった。顔を見なかったら、たぶん私の中ではずっと『すごく設定の盛られた説明』のままだった」

 

 その時、夜霧の向こうで淡い光がほどけた。

 月の欠片のような粒子を散らしながら、白銀の髪の少女がふわりと降りてくる。

 月見ヤチヨ。ツクヨミの管理人にして、彩葉にとってのかぐや。

 その登場はいつだって少し大げさで、少し綺麗で、そして本人の気分をよく表していた。

 

「ヤオヨロ~! お待たせ、月見ヤチヨだよ~☆」

 

 いつもの軽口と一緒に現れたヤチヨが、濡れ縁へ降り立つ、その直前だった。

 ヨミが何気なく手を差し出す。

 落ちてくるものを受け止めるというほど大仰でもなく、ただ、そこに手があるのが自然であるかのような仕草だった。

 ヤチヨは、その手を当然のように取った。

 ほんの一瞬。けれど、その一瞬で十分だった。

 

 支える、というほどではない。

 支えられる、というほどでもない。

 ただ、そこに手があり、そこへ手を重ねることが、呼吸と同じくらい当たり前になっている人間同士の動きだった。

 ヤチヨが隣へ座る前に、ヨミがソファのクッションを少しだけずらす。

 ヤチヨは礼を言わない。

 その代わり、座った後に肩の力をすっと抜いた。

 それだけで、ああ、この位置が「いつもの場所」なのだと分かる。

 

 芦花と真実が、今度は同時に黙った。

 説明されるより、ずっと分かる。

 八千年という数字の重みを、言葉ではなく仕草で見せつけられると、人はかえって反論しづらくなるのだと彩葉は思った。

 

「……ああ、うん」

 

 芦花が低く息を吐いた。

 

「これは、もう、納得するしかないかも」

「何に?」

 

 ヤチヨがきょとんとすると、真実が力なく手を振る。

 

「熟年感に」

「熟年感」

「だって今の、夫婦とかそういう言葉で括るのも雑なくらい、生活に染みついた動きだったよ」

「夫婦ではないよ」

 

 ヨミが静かに訂正し、ヤチヨがすかさず続ける。

 

「でも八千年連れ添ってるので、熟成度はだいぶ高いです」

「発酵食品みたいに言わないで」

 

 真実が反射的に反応した。

 

「発酵は大事だけど、今それを味の話にすると私の脳が処理落ちする」

「真実が食で処理落ちした」

 

 芦花が珍しいものを見るように言った。

 空気が少しだけ緩んだ。

 けれど、その緩みは、すべてを受け入れたという意味ではなかった。

 張り詰めた糸が一本だけほどけただけで、まだ指先にはいくつもの結び目が残っている。

 芦花も真実も、ヨミと宵宮巡が繋がったこと、そしてヨミとヤチヨのあいだに八千年分の時間が流れていることまでは、どうにか目の前の光景で飲み込み始めていた。

 

 

 だが、もう一つ。

 二人にとって、もっと身近で、だからこそ飲み込みにくい事実があった。

 真実が、ソファに座ったヤチヨをじっと見た。

 月見ヤチヨ。

 ツクヨミを見守る管理人AIにして、歌って踊って、軽口を叩いて、視聴者を笑わせる白銀のトップライバー。

 そして、彩葉が推していた存在。

 真実にとっても芦花にとっても、その名前は遠い有名人のものだった。

 ライブの画面越しに見て、彩葉が目を輝かせて語るのを聞き、いつかお近づきになりたいね、なんて冗談めかして言った相手。

 

 けれど、かぐやは違う。

 かぐやは、画面の向こうだけの存在ではなかった。

 彩葉の部屋にいて、台所から騒がしい声を響かせて、魚を捌き、料理動画を撮り、思いつきで人を巻き込み、芦花にメイクを教わって自撮りを盛り、真実のおすすめを食べては目を輝かせた。

 海にも行った。花火の話もした。配信のコラボにも、気がつけば周囲を巻き込んでいた。

 

 かぐやちゃん。

 二人にとって、その呼び名にはもう、現実の手触りがあった。

 だからこそ、真実は慎重に言葉を選んだ。

 

「……ヤチヨってさ」

「うん?」

 

 ヤチヨが首を傾げる。

 その仕草は、配信で見る月見ヤチヨそのものだった。

 けれど、首の傾げ方の奥に、どこか見覚えがある。

 話を聞いていないようで聞いていて、次の瞬間には予想外の方向へ走り出しそうな、あの宇宙人じみた勢いの名残。

 真実は、小さく息を吸った。

 

「私たちが知ってる、あのかぐやちゃんなんだよね」

 

 水面に映る和灯りが、ゆらりと揺れた。

 その問いは、初めて会う相手へ向ける確認ではなかった。

 むしろ逆だった。

 知っているからこそ、確かめずにはいられない問いだった。

 芦花も、真実の隣でヤチヨを見ていた。ROKAのアバターの整った横顔には、昼休みに彩葉を詰めた時の鋭さとは違う、慎重な思案が浮かんでいる。

 

「私たち、かぐやちゃんのことは知ってる」

 

 芦花が言った。

 

「一緒に遊んだし、コラボにも巻き込まれたし、かぐやちゃんが彩葉の生活に、勢いよく突っ込んできたのも見てる。彩葉が少しずつ明るくなっていったのも、かぐやちゃんがいたからだって分かってる」

 

 芦花はそこで一度言葉を切り、ヤチヨをまっすぐ見た。

 

「でも、私たちが知ってるかぐやちゃんは、あの金髪で、元気いっぱいで、料理作って、急に変なこと言って、彩葉を振り回してたかぐやちゃんだった。

 今ここにいるのは、月見ヤチヨで、ツクヨミの管理人で、彩葉の推しで……それで、八千年後のかぐやちゃんなんだって言われてる」

 

 芦花の声は、疑っているというより、間違えたくない人のそれだった。

 

「だから確認したい。あなたは、私たちが知ってるあのかぐやちゃんなんだよね。八千年を越えて、月見ヤチヨになった、あの子なんだよね」

 

 ヤチヨは、すぐには答えなかった。

 いつもの彼女なら、きっと茶化していた。

 「そうです、月から来たかぐや姫系管理人AI、月見ヤチヨです☆」くらいの勢いで、重くなりかけた空気をひょいと持ち上げていたかもしれない。

 けれど今は、少しだけ目を伏せている。

 真実と芦花の問いが、ただの確認ではなかったからだ。

 そこには、画面越しに知っていたヤチヨと、現実で一緒に笑ったかぐやと、彩葉から聞かされた八千年のかぐやを、同じ一人として扱っていいのかという、友人としての戸惑いがあった。

 やがて、ヤチヨは顔を上げた。

 少し照れくさそうに、けれど逃げずに笑った。

 

「うん」

 

 その一音は、まみまみ邸の水面へ落ちる灯りのように静かだった。

 

「私が、かぐや。彩葉の部屋に押しかけて、魚捌いて、料理動画撮って、芦花にメイク教えてもらって、真実おすすめのお店で食べ歩きしてテンション上げて、

 みんなをコラボに巻き込んで、海ではしゃいで、花火に行きたくて浮かれてた、あのかぐや」

 

 真実の表情が、わずかに揺れた。

 ヤチヨは続ける。

 

「そのあと月に帰って、彩葉の歌で思い出して、地球に戻ろうとして失敗して、八千年前に落っこちて、白いウミウシみたいになって、

 巡に何度も見つけてもらって、いっぱい泣いて、いっぱい拗ねて、いっぱい待って、いっぱい歌って、そうして今は月見ヤチヨをやってる──」

 

 最後に、ヤチヨは二人の名を呼んだ。

 

「──私がかぐやだよ。芦花、真実」

 

 言葉は明るい。

 けれど、そこには無理な飾りがなかった。

 八千年の全部がその短い自己紹介に入るはずはない。

 入るはずがないのに、芦花と真実は、その向こうに続く時間の広さだけは感じ取ったのだろう。

 真実は唇を結び、芦花は目を伏せた。

 二人の中で、金髪のかぐやと、白銀のヤチヨと、彩葉が語った八千年の存在が、ゆっくり同じ輪郭へ重なっていく。

 

「……そっか」

 

 真実が、ようやく言った。

 

「変な感じ。知ってる子が、知らない時間をいっぱい持ってる」

「うん」

 

 ヤチヨは頷いた。

 

「私も変な感じ。芦花と真実のこと、すごく久しぶりに会った気もするし、ついこの前まで一緒に彩葉を巻き込んでた気もする」

「巻き込んでた自覚はあるんだ」

 

 芦花が言うと、ヤチヨは胸を張った。

 

「あります」

「そこは反省して」

「よよよ」

 

 ほんの少しだけ、場の空気が和らいだ。

 真実は、ヤチヨを見つめたまま、小さく笑う。

 

「じゃあ、呼び方は今まで通りでいい?」

「もちろん」

「ヤチヨって呼ぶ時もあるし、かぐやちゃんって呼ぶ時もあると思う。たぶん、こっちの脳内整理の都合で」

「どっちでもいいよ。どっちも私だから」

 

 ヤチヨの返事は、驚くほど穏やかだった。

 芦花も頷く。

 

「私もそうする。ツクヨミの管理人として話す時はヤチヨ。私たちが知ってるあの子として話す時は、かぐやちゃん」

「うん」

 

 ヤチヨは嬉しそうに笑った。

 

「改めて、よろしくね。芦花、真実」

 

 その言葉に、真実が少しだけ眉を下げた。

 

「よろしく、かぐやちゃん。……でも、料理動画で包丁持ったまま外に出ようとするのは今後も止めるからね」

「それは彩葉にも止められた」

「止められて当然だよ」

 

 芦花が淡々と言う。

 

「あと、彩葉を巻き込む時は事前申請制にして」

「それは難しいかも」

「難しくしないで」

 

 ヤチヨが「よよよ」と肩を落とす。

 その仕草に、彩葉は少しだけ笑ってしまった。

 八千年を越えた存在のはずなのに、こういうところは、彩葉の知っているかぐやと何も変わらない。

 勝手に走って、叱られて、少し拗ねて、それでも次の瞬間にはまた笑う。

 芦花と真実も、そこに気づいたのだろう。二人の顔から、先ほどまでの戸惑いが少しずつ薄れていった。

 

 すべてを理解したわけではない。

 けれど、少なくとも、名前は繋がった。

 月見ヤチヨは、遠いトップライバーのままではなくなった。

 彼女は、芦花と真実が知っている、あのかぐやちゃんでもあった。

 彩葉は、その事実が二人の中に届いたことを見て、胸の奥で張っていた糸が一本、静かにほどけるのを感じた。

 

 

 その緩みを逃さず、彩葉は膝の上で手を握った。

 言うなら、今だと思った。

 芦花と真実が、ヨミと巡を結び、ヤチヨとかぐやを結び、まだ混乱しながらも目の前にいる二人を同じ輪郭として受け取り始めている。

 ならば、自分の中で変わってしまったものも、ここで言葉にしなければならない。

 

 まみまみ邸の夜霧は静かだった。

 赤い欄干の下で和灯りが揺れ、水面には遠くの五重塔めいた建物と電子の光が、細い金糸のようにほどけている。

 現実の教室でも、職員室でも、進路希望調査票の前でもないこの場所でなら、紙の上に書かれた志望ではなく、胸の奥でようやく形になった願いを話せる気がした。

 

「芦花。真実。もう一つ、話があるの」

 

 二人の視線が彩葉へ戻る。

 彩葉は背筋を伸ばした。

 深く息を吸い、喉の奥に溜まっていた言葉を、焦らず、けれど逃がさないように押し出す。

 

「私、進路を変える」

 

 芦花が、わずかに眉を動かした。

 

「東大法学部じゃなかった?」

「うん。そこを、東大工学部に変える」

 

 真実が息を止めた。

 ヤチヨも、巡も黙っている。

 彩葉は、その沈黙の中で、自分が今まで何を目指していたのかを思い返した。

 東大法学部。

 それは、ずっと特別な響きを持っていた。

 

 自分の母が立っていた場所に近づくための、いちばん分かりやすい道だった。

 母と同じ法曹の世界へ進み、母が振り返るほどの結果を出して、いつか対等に話せるようになる。

 そうすれば、認めてもらえるのではないか。

 そうすれば、もう一度、家族として向き合えるのではないか。そんな願いが、彩葉の進路希望調査票の行間にはずっと滲んでいた。

 

 恥ずかしいほど単純で、けれど切実な願いだった。

 母に見てほしかった。

 母に認めてほしかった。

 母が歩いた道の隣に、自分の足跡を刻みたかった。

 

「私、ずっとお母さんと同じ道に行くつもりだった。法律の方へ進んで、結果を出して、母に認めてもらいたかった。

 そうしたら、いつかちゃんと向き合えるんじゃないかって思ってた。法学部を目指してた理由は、たぶんずっとそこにあったんだと思う」

 

 言葉にすると、胸の奥で古い結び目がほどけるようだった。

 その願いは、偽物ではなかった。

 母に認められたいと思ったことも、母の背中を追ったことも、間違いではなかった。ただ、いつの間にか、自分の中の一番は別の場所へ移っていたのだ。

 かぐやと出会ってから。

 かぐやと暮らして、怒って、笑って、振り回されて、料理を食べて、歌って、別れて、追いかけて、ヤチヨの八千年を浴びて。

 自分が何のために走りたいのか、その答えはもう変わっていた。

 

「でも、かぐやに会って、一緒に過ごして、かぐやがいなくなって、ヤチヨに再会して、八千年のことを知って……私の中の一番は、とっくに変わってたんだと思う。

 母に認められたいって気持ちが消えたわけじゃない。でも、それより先に、かぐやの願いを叶えたいって思った」

 

 ヤチヨの指が、ほんの少しだけ動いた。

 彩葉は、その手を見た。

 ツクヨミの中でなら触れられる手。

 けれど現実にはまだ触れられない手。

 現実で温度を確かめることも、食卓で同じ皿を囲むことも、雨の日に傘を差し出すことも、風邪をひいた時に額へ手を当てることもできない手。

 

 ヤチヨは言った。

 また、彩葉と一緒にパンケーキを食べたい、と。

 それは、大げさな願いではなかった。

 

 世界を変えたいとか、永遠に生きたいとか、そんな話ではない。

 ただ、一緒にパンケーキを食べたい。甘い匂いのする皿を挟んで、向かい合って、温かいとか、美味しいとか、少し焼きすぎたとか、そういう何でもない会話をしたい。

 そのささやかさが、彩葉の胸をまっすぐ貫いた。

 

「ヤチヨがね、言ったの。また私と一緒にパンケーキを食べたいって」

 

 真実の表情が変わった。

 食べることに関わる言葉だからこそ、真実にはその願いの質が伝わったのかもしれない。

 豪華な料理でも、特別な儀式でもない。パンケーキ。日常の中にある甘い皿。誰かと一緒に食べるから、余計に美味しくなるもの。

 彩葉は続けた。

 

「それを聞いた時、分かったの。私が本当にやりたいのは、かぐやを思い出にして前へ進むことじゃない。

 ヤチヨを画面の向こうの推しとして見上げ続けることでもない。私は、かぐやと続きをやりたい。

 昨日の続きみたいに、今日も明日も一緒にいて、同じものを見て、同じものを食べて、くだらないことで笑いたい」

 

 ヤチヨが、息を呑んだ。

 彩葉は、もう止まらなかった。

 

「だから、かぐやの身体を作りたい。ツクヨミの中だけじゃなくて、現実で歩けて、食べられて、眠れて、怒れて、笑えて、誰かと手を繋げる身体。

 パンケーキを前にして、熱いねって言えて、甘いねって笑えて、お腹いっぱいって言える身体。画面越しじゃなくて、隣に座れる身体」

 

 水面の光が揺れている。

 彩葉の声は、思ったより落ち着いていた。けれど、胸の奥では何かが確かに熱を持っていた。

 母に認められたいと走っていた時とは違う。

 誰かに採点されるためではなく、誰かの隣へ辿り着くために走りたい。そう思えたことが、怖くもあり、ひどく清々しくもあった。

 

「法学部へ行く未来が間違っていたとは思ってない。母を追いかけていた私も、たぶん私だった。でも今は、違う。守るための言葉より先に、作らなきゃいけない身体がある。

 だから工学部へ行く。ロボティクスも、神経接続も、感覚同期も、人工皮膚も、現実の技術として勉強する。どれだけ遠くても、失敗しても、時間がかかっても、私はそこへ行きたい」

 

 言い切った瞬間、彩葉は初めて、自分が本当に進路を変えるのだと実感した。

 調査票の文字を変えるだけではない。

 母の背中を追っていた視線を、かぐやのいる未来へ向け直すのだ。

 それは母を捨てることではなかった。母に認められたいと願った自分を否定することでもない。ただ、自分の人生の中心に置くものを、自分で選び直すだけだった。

 

 芦花はすぐには答えなかった。

 真実も、いつものように食べ物へ逃がす言葉を出さなかった。

 長い沈黙が落ちる。

 夜霧の向こうで、電子の光が水面にほどけている。

 ヤチヨは彩葉を見つめたまま、唇を結んでいた。巡は少し離れた場所で、余計な口を挟まない。けれど、その静けさは不在ではなく、言葉の置き場所を邪魔しないための在り方だった。

 やがて、芦花が言った。

 

「正直、今日聞いた話の九割はまだ消化できてない」

「うん」

「八千年のこととか、かぐやちゃんがヤチヨになっちゃったこととか、色々。普通なら一週間くらい分けて聞きたい量だった。

 しかも今度は彩葉が進路変更で、東大法学部から工学部。こっちの処理能力はもうパンク寸前かも」

「ごめん」

「でも」

 

 芦花は、彩葉をまっすぐ見た。

 

「今の話は分かった。母親に認められたくて法学部を目指していた彩葉が、かぐやちゃんと出会って、いつの間にか一番大事なものが変わっていて、

 それにやっと自分で気づいたんだってことは分かった。だったら、応援する」

 

 彩葉の喉が、少し詰まった。

 芦花は続ける。

 

「ただし、応援するっていうのは、何でも黙って見守るって意味じゃないから。

 無理してたら止めるし、食べてなかったら怒るし、母親のことも、かぐやちゃんのことも、研究のことも、全部一人で抱えようとしたら引きずり戻す。

 進路を変える彩葉は応援する。でも、彩葉が彩葉自身を削って進もうとするなら、そこは友達として止める」

 

 真実が頷いた。

 

「私も。工学部とか義体とか、専門的なことは正直何も分からないよ。人工皮膚とか神経接続とか言われても、料理でたとえるにはまだ材料が足りないくらい分からない」

「料理にしなくていいよ」

「うん、そこは我慢する。でも、パンケーキの話は分かる」

 

 真実はヤチヨを見た。

 

「一緒に食べたいって、すごく大事な願いだよ。味って、一人でも分かるけど、誰かと食べると全然違うから。

 温かいねって言い合ったり、ちょっと焦げたねって笑ったり、次は何乗せるか相談したり、そういうの込みで食事だから」

 

 真実の声は、いつもより穏やかだった。

 

「だから、かぐやちゃんの最初のパンケーキ、ちゃんと美味しくしたい。

 そこに辿り着くまで、彩葉がちゃんと食べて、ちゃんと寝て、ちゃんと生きて研究できるように見張る。応援って、たぶんそういうことでしょ」

 

 彩葉は、今度こそ笑った。

 笑いながら、少しだけ泣きそうになった。

 

「……ありがとう」

 

 真実は得意げに胸を張る。

 

「お礼は、ちゃんとご飯を食べて睡眠時間を削らないことで返して」

「そこなんだ」

「そこだよ。研究する人って、すぐ食事を後回しにする顔してるから」

「顔で分かるの?」

「分かる。彩葉、今ちょっと未来の栄養失調顔してる」

「嫌な予言」

「予言じゃなくて警告」

 

 芦花が横で頷く。

 

「そこは私も真実に同意」

「二対一になった」

「あと、宵宮くんも見張り側に入って」

 

 芦花が巡を見る。

 巡は、静かに頷いた。

 

「分かった。共同研究者として、彩葉の食事と睡眠の優先順位を下げないようにする」

「自分もだよ」

 

 芦花の返しは速かった。

 巡が、一瞬だけ返事を遅らせる。

 

「……分かった」

「今の間、覚えたから」

「綾紬さんは鋭いね」

「彩葉の友達だから」

 

 その言葉に、彩葉の胸がまた少し温かくなった。

 ヤチヨが、そっと彩葉の手を取る。

 

「彩葉」

「うん」

「ありがと」

「まだ何も作ってないよ」

「でも、作るって言ってくれた。パンケーキ、一緒に食べる未来を、本気で見てくれた」

 

 ヤチヨの声は、配信者のものではなかった。

 八千年を笑い話にしてきた月見ヤチヨではなく、かぐやとしての声だった。寂しさも嬉しさも、もう茶化しきれずにそのまま滲んでいる声だった。

 彩葉は、その手を握り返した。

 

「本当のハッピーエンドまで、付き合ってもらうから」

 

 ヤチヨは、少しだけ目を見開いた。

 そして、くしゃりと笑った。

 

「うん。付き合うよ──八千年も待ったんだから、何年でも付き合っちゃうからね」

 

 まみまみ邸の水面に、和灯りが揺れている。

 現実ではない身体をまとった五人が、現実よりもずっと切実な話をしている。遠くの五重塔めいた建物は夜霧に霞み、赤い欄干の下で揺れる光は、まだ見ぬ研究ノートの最初の罫線のように細く伸びていた。

 まだ何も完成していない。

 けれど、彩葉は進む先を選んだ。

 母に認められるための道ではなく。

 かぐやと、現実でもう一度パンケーキを食べるための道を。

 

 

 しばらく、誰も急いで言葉を足さなかった。

 

 まみまみ邸の夜霧が水面の上を薄く流れ、赤い欄干の影が、ゆらゆらと金色の灯りに混ざっている。

 先ほどまで積み上げられていた話は、どれも人ひとりの進路や人生や時間の流れを変えてしまうようなものばかりだった。

 ヨミが巡であること。ヤチヨがかぐやであること。八千年の孤独。彩葉の進路変更。かぐやのための義体開発。母の背中を追っていた道から、自分の願いへ舵を切ること。

 

 普通なら、一つでも食卓を黙らせるには十分な話題だ。

 それが今夜は、まみまみ邸の濡れ縁に、息つく暇もなく並べられてしまった。

 だからこそ、沈黙には必要な余白があった。

 芦花も真実も、すべてを理解した顔はしていない。

 むしろ、理解というより、今は目の前に差し出されたものを落とさないよう、両手でどうにか受け止めているような顔だった。

 けれど、拒んではいなかった。彩葉には、それが分かった。

 

 ヤチヨはまだ彩葉の手を握っている。

 指先の温度はツクヨミの再現でしかないはずなのに、そこには確かに、現実へ行きたいという願いが宿っていた。

 

 巡は少し離れた場所で、その輪を見守っていた。

 ヨミのアバターの紫がかった瞳は、夜霧の光を受けても騒がしくならない。

 余計な言葉を差し込まず、けれど必要ならいつでも手を伸ばせる距離にいる。

 八千年を歩いてきた人間の静けさとは、こういうものなのかもしれないと、彩葉はふと思った。

 

 事情説明は、ひとまず終わった。

 終わったはずだった。

 

「じゃあ、私はそろそろログアウトするよ」

 

 巡が、ごく自然に立ち上がりかけた。

 椅子を引くような何気ない動作だった。

 話すべきことは話した。顔合わせも済んだ。

 彩葉の進路変更も、親友たちに共有された。

 ならば、今日はここまで。そういう結論が、巡の中では当然のように出ているのだろう。

 だが、彩葉の口から出た言葉もまた、同じくらい自然だった。

 

「あ、巡。今日の夕飯、辛いの大丈夫? 昨日おじやだったし、今日は普通に何か作るけど」

 

 まみまみ邸の空気が止まった。

 水面の灯りだけが、何も知らない顔で揺れている。

 芦花と真実が、ゆっくり彩葉を見た。

 ヤチヨは一瞬きょとんとしたあと、すぐにぱあっと顔を輝かせた。

 巡は立ち上がりかけた姿勢のまま、まるで不可解な定理を前にした学者のように沈黙した。

 

「……彩葉」

「なに?」

「昨晩は、雨と私の状態を考えて、一泊させてもらった。そこには感謝している。ただ、今日は帰るつもりなのだけど」

 

 巡は、かなりまともなことを言った。

 そのまともさが、今この場では少し浮いていた。

 

「行かせないよー」

 

 ヤチヨが、ふわりと割り込む。

 

「帰る場所はヤッチョの所なんだから」

「かぐや」

「なあに、巡」

「その理屈は、現代の住居制度と衝突している」

「現代の住居制度が八千年に配慮してください」

「昨日も似たことを言っていた」

「一晩でヤッチョの信念は揺らぎません」

 

 胸を張るヤチヨの隣で、彩葉はぽんと手を打った。

 

「あ、そっか。引っ越しの準備とかあるもんね」

 

 巡が、今度こそ完全に固まった。

 芦花と真実も固まった。

 ヤチヨだけが、当然ですと言わんばかりに頷いている。

 

「彩葉」

「うん?」

「昨日は、今夜だけの話だったのでは」

「うん。かぐやの部屋を使うのは今夜だけって話だったよね」

「……」

「今日からは配信部屋を片付けて、そっちを使ってもらおうかなって思ってたんだけど」

 

 巡は、静かに彩葉を見た。

 その視線に、怒りはない。呆れも、まだぎりぎりない。

 ただ、問いを立てるための準備が、すごい速度で頭の中に展開されている顔だった。

 彩葉は、当たり前のことのように言った。

 

「共同開発者なんでしょ?」

 

 芦花と真実の表情が、そろって宇宙の深淵を覗いた猫のようになった。

 昼休みから情報量で殴られ、放課後にはヨミとかぐやと八千年を実物つきで見せられ、ようやく起き上がろうとしたところへ、今度は同居前提の話が鈍器として落ちてきたのである。

 まみまみ邸の夜霧さえ、少し距離を取ったように見えた。

 巡は、ゆっくりと芦花と真実へ視線を向けた。

 

「綾紬さん、諌山さん、二人から見ても、これは少しおかしいと思うんだけど」

 

 助けを求めている。

 ヨミが。

 八千年を転生し、かぐやに寄り添い、月の技術まで持ち帰ったらしい人物が、今、女子高生二人へ真剣に救援信号を出していた。

 芦花は口を開きかけた。

 しかし、その横で真実が、ぽんと手を打った。

 

「あ、でもそっか。私も彼氏と同棲してるから、そこまで変でもないか」

 

 まみまみ邸の時間が、二度目の停止を迎えた。

 水面の光が揺れる。

 遠くの五重塔めいた建物が、夜霧の奥で静かに佇む。

 その幻想的な景色の真ん中で、彩葉と芦花は、同時に真実を見た。

 

「……真実」

 

 芦花の声が、低い。

 

「同棲?」

 

 彩葉の声も、低い。

 真実は、きょとんとした顔で二人を見返した。

 

「言ってなかったっけ?」

「聞いてない」

「聞いてない」

 

 芦花と彩葉の声が、綺麗に重なった。

 その一致ぶりに、ヤチヨが両手を頬に当てる。

 

「おお……まみまみから特大爆弾。これは配信映えしますね」

「配信しないで」

 

 芦花が即座に切った。

 

「え、でも中学の頃から付き合ってるし、家も近かったし、生活リズムも合うし、料理の味の好みも合うし。あと、朝ごはんを一緒に食べられるの、結構大事だよ」

「待って。情報を小分けにして」

 

 彩葉が思わず言うと、真実はじっと彩葉を見た。

 

「今日、それを私に言う?」

 

 彩葉は黙った。

 言えなかった。

 八千年、ヨミ、かぐや、義体開発、進路変更、そして巡の引っ越し前提発言まで一日で並べた人間が、情報を小分けにしろと主張するのは、さすがに足場が悪すぎた。

 巡が、静かに言った。

 

「私は、助けを求める相手を間違えた可能性がある」

「巡、こっち見て」

 

 彩葉が言うと、巡は素直にこちらを見た。

 

「まだ決定じゃないから」

「かなり決定後の運用相談に聞こえた」

「共同開発者として、合理的な案を出しただけ」

「その合理性が、少しかぐや寄りになっている気がする」

「え」

 

 彩葉は言葉を失った。

 

 ヤチヨが、満足げに胸を張る。

 

「彩葉、ヤッチョ化進行中?」

「してないからっ」

「帰る場所はヤッチョの所理論、感染してるよ」

「してない……はず」

「じゃあ、なんで配信部屋を片付ける予定まで立ってるの?」

「それは……共同開発者だから」

「ほら」

「ほらじゃない!」

 

 彩葉の声が濡れ縁に響き、夜霧が小さく震えたような錯覚があった。

 芦花が、深々と息を吐いた。

 その吐息には、今日一日で積み上げられた情報を、どうにか分類棚へ押し込もうとする人間の疲労が滲んでいた。

 

「待って。今日の議題を整理しよう」

 

 芦花は指を一本立てた。

 

「まず、彩葉の進路変更。これは応援する。食事と睡眠の監視つきで」

 

 指が二本目になる。

 

「次に、宵宮くんがヨミで、かぐやちゃんの八千年の恩人。これはまだ消化中。たぶん明日以降も追加質問する」

 

 三本目。

 

「次に、宵宮くんの引っ越し前提の話。これは保留。保留だけど、彩葉とヤチヨだけで決めるとかなり危ない気配がするから、朝日さんにも確認を取ること」

 

 彩葉は小さく唇を尖らせた。

 

「お兄ちゃんに言うと、また胃が痛いって言う」

「言わせておきなさい。保証人の胃は、こういう時のために痛むんだと思う」

「お兄ちゃんの胃を何だと思ってるの」

「現実側のブレーキ」

「ひどいけど的確」

 

 芦花は四本目の指を立てた。

 

「最後に、真実の同棲。これは別件で詰問する」

「別件なんだ」

 

 真実が呟く。

 

「別件だけど、かなり大きい」

「食後にして」

「食前でも食後でも大きい」

「じゃあデザートの時」

「甘味で流そうとしないで」

 

 ヤチヨが楽しそうに笑い、どこからともなくFUSHIが現れた。白い身体が夜霧の中をぽよんと浮き、濡れ縁の空気を一瞥して、ひと言だけ鳴く。

 

「コンラン」

「FUSHI、正解」

 

 芦花が即答した。

 

「カオス」

「それも正解」

 

 FUSHIは満足げに、もう一度ぽよんと揺れた。

 まみまみ邸は、完全に混沌としていた。

 けれど、それは不思議と、壊れていく混乱ではなかった。

 八千年だの、義体開発だの、進路変更だの、本来なら人ひとりの人生を押し潰しかねない話が、親友の詰問と、夕飯の献立と、同棲爆弾と、ヤチヨの軽口に巻き込まれながら、どうにか日常の器へ流し込まれていく。

 

 彩葉は、その中心で小さく息を吐いた。

 自分の人生が、確かに変わり始めている。

 母の背中を追っていた法学部への道から、かぐやともう一度パンケーキを食べるための工学部への道へ。

 画面越しの推しを見上げる場所から、隣で手を握る場所へ。酒寄さんと呼ばれていた距離から、彩葉と呼ばれる距離へ。

 

 そして、たぶん。

 巡を帰すか帰さないかで揉める、夕飯前の現実的すぎる混沌へ。

 

「……とりあえず」

 

 彩葉は言った。

 全員の視線が集まる。

 

「夕飯の話は、帰ってからする」

 

 巡が、すぐに言った。

 

「帰る、というのは各自の家に?」

 

 ヤチヨが、ほぼ同時に言った。

 

「帰る場所はヤッチョの所だよ?」

 

 真実が、のんきに続けた。

 

「同棲って、最初の一週間が一番楽しいよ」

 

 芦花が、低い声で告げた。

 

「真実は黙って」

「でも本当だよ。調味料の置き場所で相手の生活が分かるし」

「黙って」

「朝ごはんの好みも大事だし」

「黙って」

 

 FUSHIが締めるように鳴いた。

 

「カオス、マシマシ」

 

 その一言に、誰も反論できなかった。

 ヨミは静かに目を伏せ、どうやら本気で「今日のログアウト後に取るべき最適行動」を問い直している顔をしていた。

 ヤチヨはその横で、すでに配信部屋の片付け計画を脳内に展開しているらしく、指折りで何かを数えている。

 彩葉は彩葉で、夕飯の辛さ調整と兄への報告文面と配信部屋の収納容量を同時に考え始めていた。

 

 芦花は頭を抱えた。

 真実は楽しそうに笑った。

 FUSHIは「カオス」ともう一度鳴いた。

 まみまみ邸の水面には、和灯りが変わらず揺れている。

 夜霧の中、赤い欄干の向こうで電子の光が瞬き、まるでこの混乱すら、ツクヨミが一つの演出として受け入れているかのようだった。

 

 かぐやの身体を作る未来。

 巡の引っ越し問題。

 真実の同棲発覚。

 そして、今日の夕飯。

 本当のハッピーエンドへ向かう道は、どうやら研究室の白い蛍光灯の下ではなく、まずはこのどうしようもなく騒がしい食卓前会議から始まるらしい。

 彩葉は、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。

 

「……とりあえず、辛さ控えめにするね」

「そこから?」

 

 巡が言った。

 

「そこから」

 

 彩葉は頷いた。

 ヤチヨが満面の笑みで手を上げる。

 

「ヤッチョ、おかわり希望!」

「まだ作ってないし、食べれないでしょ」

「未来のおかわり予約です」

「予約しないで」

 

 芦花がぼそりと言った。

 

「まず議事録が必要かもしれない」

 

 真実が頷く。

 

「タイトルは?」

 

 FUSHIが、誇らしげに鳴いた。

 

「カオス」

 

 結局、その日のまみまみ邸の議題は、最後まで一つも綺麗に片付かなかった。

 けれど、誰も席を立とうとはしなかった。

 夜霧の水上回廊で、五人と一匹は、行き先の違う話題を抱えたまま、同じソファの周りに留まり続けていた。

 未来は途方もなく遠く、現実の問題はやたらと近く、夕飯の献立はなぜか妙に切実で。

 

 それでも、彩葉は思った。

 たぶん、これでいい。

 八千年の孤独も、母への未練も、義体開発という途方もない願いも、同居疑惑というしょうもない騒動も。全部を抱えたまま、笑いながら進んでいけるなら。

 それはきっと、かぐやが言うところの、最高のパーティーの続きなのだから。




・まみまみ邸の夜霧さえ、少し距離を取ったように見えた。
 夜霧「引くわー」

・お労しや、芦花殿
 想い人が目の前でどんだけかぐやが大切か語られて、かつぽっと出の男子と同居しようとしてるなんて
 いや、まて公式では特別な感情としてか表現されていないので、僕らの解釈が間違っている可能性が微レ存……

・そろそろ、エピローグ
 ぼちぼち書きたいことも書ききってきたので、そろそろ義体開発からのエピローグしたいかも
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